わたしが愛した君 - 後編

 大沼涼音おおぬますずねは焦っていた。休日に同級生の飲み会に誘われていたが、うっかり自宅で寝落ち。目が覚めた時には夜の十時を過ぎており、ダメ元で会場へ走った。

 「もう、終わってるよね……」

 涼音は高校時代、クラスのプリマドンナ的存在だった。しかし、誰とも付き合ったことはなく、「高嶺の花」「みんなの憧れ」といったイメージばかりが先行し、いつしか皆が避けるようになっていた。この日の飲み会も最初は参加するつもりはなかった。今更会っても話すことなどないし、孤立するだけだと考えていた。だが、高校時代に密かに想いを寄せていた湯浅遥希ゆあさはるきがグループの投票欄で「参加」に印をつけていることに気付き、慌てて参加を決めた。

 蓋を開けてみると、ひどい様だ。自分から行くと決めたのに、寝落ちしてしまった。メイクも済ませたし、着飾ったのに、なぜかベッドに入ってしまった。涼音にとっては、もっとも考えたくない結末だった。

 それでも、涼音は走った。遥希ともっとも遭遇する可能性の高い駅に。飲み会のある会場が近く、今なら間に合うかもしれないから。もし会えなくても、運命として諦められるかもしれない。涼音はすべてを決めていた。


 涼音がアパートメントを出た頃、遥希は緑川明日菜みどりかわあすなと駅のベンチで思い出話に耽っていた。高校時代よりも色褪せていたが、あの頃と変わらないベンチは二人の思い出話に花を咲かせる良い材料になった。

 「そういえばさ、いつか増田くんが失恋した時、このベンチで泣いてたことがあってね」

 「颯太が?」

 「当時の私はあまり話さなかったし、向こうも気付いてはいなかったんだけど、あの子も泣くんだって」

 「そりゃ泣くでしょ」

 「クラスだとあんなに元気なのになって。でも、彼を見ていると、好きな人がいるのに切り出せない自分が惨めになって」

 「僕もいつか、クラスの誰かが泣いてたのを見たな」

 「誰かって誰よ」

 「わかんない」

 遥希は興味なさげに頭をぽりぽりと掻きながら、電光掲示板を見つめている。

 明日菜はそんな恋人の様子を見て、さりげなくスマートウォッチで時間を確認した。

 「十時台になると、ずいぶんと電車も減るよね」

 「逆に五分おきに来られると、時間に追われている気がして落ち着かない」

 「遥希ってさ、高校時代からそうだった。信号も嫌いでしょ?」

 「嫌い。青、黄、赤って。もちろん守りはするけど、本当は守りたくない」

 「わからなくもない。「私たちは馬か」って時々思うもん」

 ふたりが背伸びした話をしているうちに、電車がやって来た。

 この時間は特急が走っていないため、急行に乗るしかない。学生時代、家が遠かった遥希は普段明日菜と一緒に帰ることがなかったが、家を出た今はそれを気にする必要はなかった。

 遥希と明日菜はゆっくりと電車に乗り込んだ。この時、遥希は窓の外に走る人影を認めた。


 ふたりが電車に乗り込んだ頃、涼音は駅の前まで来ていた。涼音は駅のエスカレーターを登り、改札前のベンチに座った。

 息を整えた後、スマートフォンを確認してみると、西岡花鈴にしおかかりんから一件のメッセージが届いていた。花鈴は唯一連絡先を持っているクラスメイトで、卒業後も時々連絡を取り合う仲だった。

 「いま、同窓会が終わって、電車に乗り込んだ頃」

 「結構集まりが良くて、涼音を好いてた子も来てたよ」

 「あと、遥希が明日菜と付き合った」

 きっと、花鈴は何気ないエピソードのつもりで伝えてきたのだろう。涼音は花鈴に遥希への恋心を相談したことはない。だが、彼女にとって、花鈴からの一言はあまりにも重すぎる宣告だった。

 学校では一度も泣いた姿を見せたことがない涼音だが、この日は自然に涙が流れ落ちて来た。プリマドンナを演じることで何とか自尊心を満たしていたが、今となってはその肩書は無意味だ。ネットを見ると、同級生たちが幸せそうな顔で映る写真だったり、幸せな日常のポラロイドだったり、そういったもので埋め尽くされている。

 改札口からやって来る人に見えないよう、涼音は線路側に身体を向けていた。それでも、涼音の身体は震え、誰にでもわかるほどに悲しみを滲ませていた。

 そんな涼音の姿を、ひとりのクラスメイトが見つけた。

 「君、こんなところで何してるの?」

 最初、涼音はナンパだと思って、無視しようとした。しかし。

 「大沼さん。俺のこと、覚えてない?」

 「どうして私の名前を。えっ?」

 涼音が振り返ると、そこには委員長の姿があった。

 「二次会へ行ってたんだけど、俺は明日が早いから。先に抜け出して来たんだ」

 学生時代、ずっと委員長を務めていた松田。顔は少し赤くなっていたが、すっかり酔いは覚めている様子だった。

 松田は最初飲み会での失敗を愚痴っていたが、涼音が遥希のことを話し始めると、彼はずっと黙って聞いていた。

 涼音にとって、正直松田は恋愛対象ではなかった。それでも、涼音が松田に打ち明けたのは、彼がとても義理堅い人であることをよく知っていたからだ。

 涼音がすべてを打ち明けると、松田は二度頷いた。そして、目をぱっと開き、こう問いかけた。

 「それで、大沼さんはどうしたいの?」

 「私がどうしたいか?」

 「そう。それがないと、何も始まらないよ」

 松田からの問いかけに、涼音は黙り込んでしまった。涼音は今まででもっとも大きな感情の波に襲われ、大粒の涙を流し始めた。

 彼は涼音を周りからの好奇の目に晒されないよう、自らが壁となり、ただ静かに佇んでいた。

 数分後、松田が乗る電車がやってくるという放送が構内に鳴り響いた。

 「あとは大沼さん次第だよ。きっと、大沼さんなら大丈夫」

 「今日はありがとう。情けない姿を見せてしまって、ごめんなさい」

 涼音は松田に深々と頭を下げた。

 その様子を見た松田は、静かにこう呟いた。

 「大沼さんは、素直だ。だから、大丈夫。グッドラック」

 恋人でも友人でもない人の話を真摯に聞き、最後には幸運を願うとまで言ってくれた松田の人柄。

 涼音にとって、松田は救世主にも等しい存在だった。

 「ありがとう。じゃあ、また」

 「元気でね」

 「うん」

 松田は涼音に手を振り、駅のホームへと消えていった。

 彼の後ろ姿が完全に見えなくなると、涼音はゆっくりと自宅へ歩き始めた。


 電車に乗った時に外で駆けていた人の姿に、遥希はある人の面影を重ねていた。

 恋人の見たある人の面影について、明日菜はこのように捉えていた。

 「この時間ってさ、そういう髪型の人って沢山いるよね。だから、人違いなんじゃない?」

 しかし、遥希は頭の中のもやもやがどうも取れなかった。

 そんな遥希の様子を見て、明日菜は不安そうに遥希の肩に寄りかかる。

 「ねえ、遥希」

 「なに?」

 「私といる時は、私のことだけを考えてよ」

 「わかってる。でも……」

 「やっと付き合えたのに、そんな目をされると不安になる」

 遥希はようやく明日菜の目を見た。これまで見たことのないような、憂いを秘めた目。

 明日菜は遥希の浮かない様子を見ているうちに、心にある疑念が浮かんでいた。

 「遥希。本当に私のことが好き?」

 遥希は恋人のこの一言に、誰もがわかるほどに動揺した仕草を見せた。

 もちろん、明日菜はこういった一言が相手に「重い」と感じさせることもわかっていた。それでも、遥希に伝えずにはいられないくらい、恋人は他の人のことを考えているようだった。

 「もちろん、そうだよ。そう。ずっと想いを募らせてきて、今日やっと伝えられた。そんな人のこと、嫌いなわけないじゃん」

 だが、明日菜は引きが下がらない。

 「じゃあ、好きって言ってよ。告白の時も、それからも、一度も言ってくれない」

 明日菜の詰問に、遥希は苛立ちを隠さなかった。

 「僕はそういうことが、直接伝えられないタイプなの」

 付き合って初日なのに、ふたりの間に流れた微妙な空気感。

 遥希は、たしかに明日菜のことが好きだ。けれども、突然現れた過去の記憶に近い存在に、明らかに動揺していた。

 「次は、西宮北口。西宮北口」

 電車のアナウンスが流れ、ふたりは静かに改札口へ向かう。明日菜は遥希に腕を組ませていたけれども、言葉はほとんどなかった。

 「今日は本当にありがとうね」

 「こちらこそ、ありがとう」

 「次はいつ会えるかな?」

 「また連絡する」

 「じゃあね」

 「じゃあ」

 別れの言葉も、友人時代と変わらないものだった。

 明日菜は遥希を一瞬じっと見つめたが、振り向き、ゆっくりと駅を去っていった。

 恋人が駅から去った後、そこから動かずに恋人を見つめていた遥希も自宅へと足を動かし始めた。そんな時、遥希のスマートフォンに一件のメッセージが表示された。

 送り主は、西岡花鈴。その書き出しは、いま遥希がもっとも気になっていた名前だった。

 「ねえ、遥希。大沼さんが会いたいって言ってるんだけど?」

 スマートフォンに表示された名前に、遥希はすぐに返事を送った。


 遥希が涼音と会うのを決めたのは、数日後だった。

 花鈴から送られた連絡先から、涼音と簡単なやり取りをした。遥希にとっても、涼音は高嶺の花だった。だが、いざ話してみると、涼音は非常に親しみやすい性格で、多くの人が誤解していたことがわかった。

 涼音にとっても、それは同じだった。容姿や身長が原因で誰にも話しかけられず、自らも壁を作っていたが、高校時代から気になっていた人と話してみると、チャットでも優しさが伝わってきた。

 「明日、ビギンで」

 「了解。午後五時でよかったよね?」

 「うん。よろしくね」

 「こちらこそ。良い一日にしようね」

 遥希は明日菜と再び会う前に、涼音と会うことに決めた。

 それと同時に、明日菜にあるメッセージを送ってから、長い夜をやり過ごした。


 翌朝、遥希は静かに目を覚ました。

 トーストとサラダとスープを口に運び、いつもよりも一本電車で大学へ向かった。

 梅雨にもかかわらず、この日の風はやけに心地よかった。

 「今日はコダーイとバルトークの話をしようと思います。そもそも、当時のオーストリアやハンガリーの状況について、あまり知らない方も多いと思いますので、配布のプリントをご覧ください。コダーイのことを知らなくとも、コダーイ・システムという単語だけは聞いたことが……」

 神田教授の講義は相変わらず眠気を誘うものだったが、今日の遥希は最後まで眠らなかった。

 ゼミのプロジェクトもうまく進み、苦手だった哲学の講義も、物理学の小テストも、珍しく一発で合格できた。

 そして、ついに講義が終わり、近くのカフェ「ビギン」で涼音と対面した。久々に会った涼音は、高校時代と変わらない輝きを放っていた。

 「大沼さん、久しぶり」

 「久しぶり。湯浅くん、よく来てくれたね」

 先にコーヒーを注文していた遥希は、涼音にも飲み物を注文するように促し、彼女は紅茶を指差した。

 涼音は遥希を見て、かつてと変わっていないことに安堵していた。

 「同窓会の日はどうしたの?」

 飲み物も来ないうちに、遥希は本題に入った。

 涼音は一瞬迷ったが、正直に当日の出来事を話すことにした。

 「……こういうことなの。ドジだよね」

 「大沼さんって、昼寝するんだ」

 「あ、湯浅くんまでそんなこと言う!」

 「他の人にも言われたの?」

 「委員長も、増田くんも、花鈴ちゃんも、みんな驚くんだから」

 彼女の一言に、遥希は大笑いした。

 涼音も遥希が笑ったのを見て、舌を出しておどけてみせた。

 「で、湯浅くんってさ、あの子と付き合ったの?」

 遥希は涼音の一言に凍りついた。すぐに言葉が出てこなかった。遥希にとって、こんな経験は初めてだった。

 反対に、涼音はここに来る前から覚悟を決めていた。もしも、遥希が隠すような反応をしたら、そこで話を打ち切ってやろうとも思っていた。

 だが、遥希はなんとか言葉を絞り出してみせた。

 「付き合ってる。少なくとも、今は」

 涼音は遥希の言葉に疑問を覚えた。電車の中で佇む二人の様子は、あんなにも輝いていたのに。付き合ったばかりの喜びもあったかもしれないけれども、遥希も明日菜も、本気で愛し合っていたように見えたのに。

 それでも、涼音は言葉を続けた。

 「何があったの。そもそも、あの子のことは今でも好きなの?」

 二度目の問いかけに、遥希は間髪入れず、こう答えた。

 「好きだった。好きで、好きで、仕方なかった。ずっと会いたかった。会って、好きって伝えたかった」

 「好きだった?」

 「でも、あの日、電車の中から大沼さんを見つけた時、涼音に対して抱いていた恋の感情とは、まったく違うものが心の中にはふつふつと燃えていて、僕はどうすれば良いのかわからなくなってしまったんだ」

 遥希の返答に、涼音は沈黙で答えた。涼音は遥希が明日菜と付き合ったことを知っている。花鈴にも聞いたし、実際にこの目で見た。たしかに、彼は明日菜のことを好きなようだった。だが、数日の時が経ち、目の前にいる遥希は明日菜に対しての気持ちが薄れているようにも見える。遥希と明日菜は付き合ってから数週間で、倦怠期にはまだ早すぎるのに。

 涼音の沈黙に、遥希はこう言葉を添えた。

 「それで、明日菜とはもう次で会うのを止めようと思ってる。今のままだと、彼女に失礼だ」

 思ってもみなかった遥希の一言に、涼音は言葉が出なかった。

 しかし、その沈黙を破ったのは、店員の声だった。

 「アールグレイでございます。ごゆっくりどうぞ」

 「ありがとうございます」

 遥希は涼音の方に紅茶を渡す。

 涼音は未だに唖然としたままだったが、遥希に渡された紅茶をテーブルに置き、そっと口に含んだ。

 数十秒後。遥希は涼音に切り出した。

 「大沼さんがこれを聞いて、どう思うかわからない。でも、僕が揺れているのは確かで、そもそも恋愛なんてしたことがないから、どう振舞っていいかも知らない。ただ、このことだけは……」

 「待って!」

 遥希が物語を展開へ進めようとした時、涼音は彼の手を握ってその駒を制した。

 涼音の行動に遥希は驚いたが、次に言葉を発したのは涼音だった。

 「私もずっと迷っていた。高校の頃から、湯浅くんとはあまり話はしなかったけれども、卒業してからも時々気になっていた」

 「ほんとに?」

 「でも、今日再び会ってみて、わかったの」

 遥希はその先に何を言い出すか、おおよそ検討がついていた。だから、遥希は涼音の口を塞いだ。

 「大沼さん。いや、涼音さんが何を言いたいかはわかる。でも、その先は心の中に秘めておいてほしい」

 「僕は最低な人間だ。思ってくれている人がいるのに、それに答えられなかった。しかも、「他に好きな人がいる」という身勝手な理由で、混沌を外套に別れを告げようとしている。君には、容赦なく僕を糾弾する権利がある」

 「でも、君だけに格好つけさせてほしい。最後に、無様な姿を見せないまま、紅茶を飲み、ここから立ち去ってほしい」

 「ただ、これだけは伝えさせて」

 ここまで言うと、遥希は涼音から手を離した。涼音は目に涙を溜めながら、遥希の方をじっと見つめていた。

 「僕は、大沼涼音。君のことを愛していた。心から」

 涼音は遥希の言動に、呆気に取られていた。だが、遥希の目にも涙が浮かんでいるのがわかっていた。自らと同じように。

 再びやってきた沈黙は数分に及んだ。

 しかしながら、涼音は覚悟を決め、遥希の方を見つめた。

 「私も、湯浅遥希のことが好きでした。愛していました。今日まで、本当にありがとう。そして、さようなら」

 涼音は笑顔でこう言い切ると、「ビギン」を後にした。

 残された遥希はすべてを出し尽くしたかの如く、しばらく動こうとしなかった。それでも、遥希の胸には晴れやかな気持ちが余韻として残っていた。


 「今でも好きだけど、愛せないんだ。わかってくれ」

 「あの日はおかしかったんだ。好きで、好きで、仕方ない人と付き合えたのに、電車から見た影に気を取られて」

 「明日菜のことは誰よりも大切な同級生だった」


 明日菜は失恋した。

 数年来の想い人に告げられた言葉は、明日菜の人格を壊すのには十分だった。

 並べられた言い訳は、どれも自分本位のもの。

 高校時代の明日菜が遥希とお揃いで買ったクラリネット。

 「これで良かったんだよね」

 初恋の人を忘れるため、楽器店で売却した。少しでも大人っぽく見せたくて伸ばした髪も、頑張っていたメイクも、集めたアクセサリーも、すべて手放した。

 しばらく、明日菜はバイトに集中した。今の明日菜しか知らない周りの学生は、その変貌ぶりに驚いた。

 だが、ある日の夜。明日菜はあの駅で遥希を見つけた。明日菜は遥希にばれないよう、こっそりと後ろをつけた。

 「え、この人と……」

 明日菜には、遥希が何を言っているか聞こえなかった。ただ、遥希の頬が緩んでいるのを見て、これまで抱いたことのないような嫉妬心と、強い復讐心を憶えた。

 電車到着のアナウンス。誰もいない駅のホーム。

 静けさの中でひそやかに聞こえる通知音が、明日菜をさらに刺激した。警告音が鳴り響く中で、燃え上がった心はついに運命を変えさせようと明日菜に決意を固めさせた。

 「生まれ変わっても、私たちは一緒だよ」

 「えっ?」

 「そういう運命だから。わかって?」

 明日菜は、いきなりの出来事に戸惑う遥希の首を掴んだ。

 最後に彼女を見つめた彼の表情は、突然の恐怖に怯えていた。

 「君のことを、今も狂おしいほど愛してる」

 対照的に、明日菜はこれまでの人生でもっとも美しい笑顔を浮かべてみせた。

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ふたりが笑った日 坂岡ユウ @yuu_psychedelic

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