第11話 第11章
今の康子のその表情は悲しそうでも辛い表情でもない。ホッとした表情で、開放感のようなものが感じられた。
康子は続ける。
「その人は、以前からお友達だった人なんだけど、ある日突然にお付き合いしてほしいって言ってきたのね。私も嫌いではなかったので承知して付き合うようになったの」
どこにでもあるような話だが、信義にはそこから康子が他の人とは違う展開を聞いてほしいという表情になっていることに気が付いた。
「その人のその時の表情が真剣そのもので、思わず吹き出したくなったくらいだったわ。あまりにも真剣だったからですね。その気持ちに押されるような感じで、お付き合いするようになったの」
自分が和代に告白した時と頭の中でかぶってしまった。相手の男性がもし信義と似た雰囲気であれば、康子がこの話をしたくなった気持ちも分からなくない気がしていた。
「でもね。その人は付き合い始めると変わってしまったの」
ここで、信義が初めて発言した。
「どのように変わったのかな? よく聞くこととしては、相手が急に横柄な態度を取るようになったりすることだけど」
――釣った魚に餌をやらない――
という言葉があるが、付き合い始めると、自分のオンナだという意識の強さからか、優しさが薄れてきて、親しき仲の礼儀が乱れてくる様子がイメージできる。もしその通りであれば、自分の想像通りだと言えるのだが、展開としては想定外である。もっと違った発想をしていたのに、当たり前のことでは拍子抜けするというものだ。
「そうじゃなかったの。その人は逆に、急にへりくだるようになって、私に気ばっかり遣うようになったのよね。お付き合いするというのは、お互いが平等であって初めて成立すると思っている私は、彼に対して失望が大きかったのよ」
信義は頭の中でまたしても佐藤を思い出していた。へりくだった様子ではあるが、一生懸命に話をしているその姿は、相手を洗脳しようとしているのではないかと思わせるほどのものだった。康子の話を聞いているうちに、頭の中で堂々巡りを繰り返しているように思えてきたのだ。
康子も相手にそんな雰囲気を感じたというのだろうか?
「確かに、気を遣っている人を相手にするのは疲れるよね」
と信義は結ぼうとしたが、
「でもね。その人の変わりようは、別にして、変わってしまったその人を、以前に誰かに感じたことがあるような気がしたんだけど、どうしても思い出せないのよね」
と、康子は言った。
遠くを見つめるような目を見ていると、それ以上何も言えなくなったのだ。
信義が考えている佐藤のイメージで一番怪しい部分に触れることなく、敢えて気を遣っているというところを指摘した。
康子は少し俯いて、どう答えようか考えているようだったが、
「そうじゃないの。あの人を見ていると、確かに私が知っている彼とイメージがガラッと違ってしまっていることで、怖くなったのも事実なの。でもそれ以上に怖かったのは、同じような性格の人を、自分が知っていたのではないかと思うことだったの。初めてのはずなのに、以前にも会ったことがあるような気持ちですね」
そこまでいうと、一拍置いて、
「信義さんに感じた、初めて会ったような気がしないという気持ちとはまったく違ってですね。表現は同じでも、現象はまったく正反対というのは、そうあるものではないと思っていたけど、意外と多いことなのかも知れませんね」
康子の言葉を聞いて、
――初めて会ったような気がしない――
という発想が、自分が感じている暖かな雰囲気以外にもあったことを意外に感じた。だが、心の底では、
――康子と同じようなことを考えていたのかも知れない――
と感じたのは、康子の話の一つ一つに納得させられるものがあったからだ。
康子には説得力があるとは思うが、それだけではないように思う。納得するには結局、自分で納得できる何かが最初から備わっていないといけないと思った。しかも、それはいつでも取り出せるところにないといけない。意識や記憶の奥に封印して、なかなか取り出せないものがあると、感じることのないものなのではないかと思うのだ。
――そう感じるのは、頭の中に、誰か印象深い人が残っていて、その人が絡むことで、感じることではないだろうか――
信義にとっては、それが直子であり、康子であるのかも知れない。そこに誰か男性が絡むとすれば里山ではないかと思っていたが、まさか佐藤ではないかと思うなど、想像もしていなかった。
佐藤は、人の影になったり、縁の下の力持ちになったりすることはあるが、決して表に出てくる性格ではない。表に出て来ようとすると、力が入ってしまい、まわりに不穏な空気を漂わせることになる。本人の望むところではないはずだ。
それなのに、和代のことになると、表に出ようとしてしまったようだ。
和代と自然消滅した後、佐藤は和代に言い寄り、手ひどくフラれたという話を後から聞いた。その時点では、信義はすでに転勤になっていて、正確な情報を確かめるすべもなかった。それを確かめるために、わざわざ前の勤務地を訪れるようなことはしない。結局、
――佐藤は、そんなことはしないだろう――
と、噂を自分の中で揉み消してしまい、いつの間にかそんな噂も風に舞いてしまっていた。
佐藤の性格を正面から理解しようとしなかった時のことである。佐藤の性格を分かるようになったのは。和代が退職したと聞いた時だった。
その時、初めて和代と知り合ってからのことを、一から見直してみた。別れてから、和代のことを考えないようにしていたのは、まだ同じ会社にいるという意識があったからだ。会うことはないかも知れないが、誰かからの噂で耳にすることもあるだろう。聞きたくもないことを聞かされるのは辛いが、本当は噂でもいいから、耳に入ってくることでドキドキしてしまう心境を密かに楽しみにしているのかも知れない。
別れたのは自然消滅だったはずなのに、心の中では自分がフラれたような気持ちになっている。フラれた時と同じ惨めな気持ちが湧き上がり、自分がどんな表情になっているのか、想像するだけで、情けなかった。
和代の退職より、佐藤の退職の方が早かった。和代が退職したという話は伝わってきたが、佐藤が退職したという話は伝わってこない。それどころか、彼のことを口にするのはタブーであるかのようなイメージがその時は漂っていたという話を、かなり後になって聞かされた。その時はすでに、佐藤のことも、和代のことも気にならない時期に差し掛かっていたのだ。
今さら思い出させたのは、和代が結婚したという話を聞いた時だ。辞めてから半年もしないうちに結婚したという。よほど結婚を焦っていたのではないかという話を聞いたが、相手が大学教授だと聞いて、さらにビックリした。別に焦っていたわけでもないのかも知れない。
その頃から、大学教授というのは、信義の中で特別な存在になっていた。北村先生を意識したのも、そのせいなのかも知れない。
北村先生を最初に見た時、
――大学教授というのは、こういう存在なんだ――
と、雰囲気から勝手に想像したのは、隣に和代がいるイメージだった。
だが、話をしている時の北村先生からは、和代のイメージは湧いてこない。先生と二人きりで話をしている信義との間に、和代が入り込む余地はないように思える。
――和代は、今幸せな結婚生活を歩んでいるのかな?
あれ以来、恋愛は何度か経験したが、いまだに独身の信義は、結婚を考えると、どうしても和代を思い浮かべてしまう。最終的に自然消滅になってしまったことを後悔している自分がいることに気付くのだが、自然消滅したのは、自分に原因があるわけではないような気もしてきたのだ。
直子とも自然消滅だったことで、
――気持ちに深く残った女性とは、必ず最後は自然消滅してしまう――
と思っていたが、逆に考えれば、
――自然消滅した相手だからこそ、気持ちに深く残っているのではないか――
と感じる。
それは、心に深く残っているのではなく、気持ちに深く残っていることだ。
心に残っているだけでは、表に出そうと思わないと、表に出てくる感情ではない。気持ちとして残っているのであれば、残っているものを表に出そうとしなくても、気持ちが無意識に表に出てくれる。意識するかしないかの違いは大きい。和代のことを思い出そうとして直子のことも一緒に思い出してしまうのは、そんな無意識な感情が影響しているのではなかろうか。
――和代が結婚した大学教授は、北村先生のような人であればいいな――
もし、そうであるならば、和代には幸せになってもらいたいと思う。和代には、人に話せない悩みや苦しみが絶えず付き纏っていたような気がした。自分ではどうすることもできずにもがいている姿、それが表面から見える和代だった。
だが、表面に見えているのに、気付かない人がほとんどのようだ。和代を見る時、最初は、大人しそうな雰囲気からか、表面を避けて見てしまおうという意識が働いてしまうようだ。
信義も最初はそうだった。しかし、付き合っていくうちに、素直に表面を見ることで、彼女の気持ちが表に出ようとしているのを感じるのだった。和代は、辛いことや悩んでいることを、自分の内に籠めてしまったり、隠そうとする他の人と違って、表に出そうとする意志があるようだ。それだけに、他の人から見れば、本当の和代は掴みどころのないように見えているのかも知れない。
信義は、そんな和代だからこそ、気になったのだ。
――彼女は他の女性とどこか違う――
そんな気持ちが頭を擡げた。
――他の人と同じでは嫌だ――
という気持ちは、信義も同じ思いがあるのでよく分かっているつもりだ。だから、相手と同じ感覚でも嫌なのだ。その気持ちが衝突することで喧嘩が絶えなかったのも、今から思えば当たり前のことだったのだ。
――もし、和代が付き合っていた相手が里山や信義ではなく、佐藤だったら?
二人は幼馴染だというが、佐藤の引っ込み思案な性格からすれば、まわりから、
「あなたたち、幼馴染なんだから、お互いに恋愛感情なんてないわね」
と言われたりすれば、アッサリと認めてしまうだろう。認めてしまったら、苦しむことは分かっていても、それ以上どうすることもできず、苦しみの堂々巡りを繰り返すことになる。自分で分かっているはずだ。
だから、簡単に認めたくない。そのために人に対してへりくだったような態度を取ることで、相手の問いを煙に巻いてしまおうという意識が働いているとすれば、彼の態度は性格から来るものではなく、本能からのものではないかと思えるのだ。
性格から来るものであれば、そう簡単に、抜けることはないが、本能から来るものであれば、そこに本人の何らかの意図があるとしても不思議ではない。佐藤という男は、本能からくる態度を意識できる人間ではないだろうか。
――ある意味、確信犯だ――
と思えなくもない。
――どうして、俺はこんなにも、佐藤のことが分かるんだろう?
間違っても性格が似ているとは思えなかった。しかし、佐藤の行動が性格から来るものではなく、本能から来るものだと分かれば、理解できないことではない。
信義も、直子と一緒にいる時、自分が直子と一緒にいることで、何かの満足感を得ていることに気付いていた。いつもそばにいてくれるだけで暖かい気分になれるのを、まわりの人にひけらかしたい気分になっていたのかも知れない。
――それこそが本能だったんだ――
と、信義はその時初めて自分の本能を知ったような気がした。
――自分は他の人と同じでは嫌だ――
と、個性的な性格を表に出したいと思うようになっていったのだが、それも、本能から感じたことであると思えば、分からなくもない。
康子の失恋の話を聞いていて、どうしても結びついてくる発想は佐藤のことだった。康子も初対面の人に失恋をいちいち深いところまで話す気はなく、表面上だけ話しているつもりだったはずなのに、信義が勝手に堂々巡りを繰り返すことで、自分に照らし合わせて聞いてしまっていたのだ。
康子と話をしているうちに、康子にも北村先生の話を聞かせてあげたいような気がした。きっと北村先生となら話をしているだけで、落ち着いた気持ちになってくるだろうと思ったからで、自分には頭の中で考えることはできても、整理して言葉にすることはできない。
「僕の知っている人に大学の先生がいるんだけど、今度紹介してあげよう。きっといろいろといいお話をしてくれると思うよ」
とおうと、
「ありがとうございます。信義さんとお話していても、何となく落ち着いてくるのを感じますよ。まるでお父さんができたみたい……」
と言って、少しだけ暗い表情になったのを見逃さなかった。
「お父さん、いないのかい?」
「いえ、実はお父さんも大学教授なので、信義さんが大学教授のお話をしてくれたことでビックリしたのと、私が勝手に思っていることなんだけど、お父さんは、実の父ではないように思えるのよ」
「お母さんは何て言っているんだい?」
「母は、最初悲しそうな顔をして、すぐに我に返ったように笑顔で、そんなことはないって否定するんですよ。これって、やっぱりおかしいですよね?」
「お母さんのお名前は何て言うの?」
「和代って言います」
――やはり、以前に付き合っていた和代だ――
今さら偶然だとは言いにくいところまで発想は暴走してしまっているが、偶然だと思いたい自分もいる。
発想が暴走したのも無理はない。最近、和代と付き合っていた頃のことを夢に見ることが多かったが、これも虫の知らせのようなものなのか、夢の中で繰り返していたのは妄想だったが、それは発想の暴走とは違うものだった。妄想は好き勝手に自分に都合よく考えられるが、発想の暴走はそうではない。決して好き勝手に想像した自分に都合のいいものばかりとは限らないのだ。
そういえば、この店で話をした老人が、
「この店では時間が早く感じられる」
と言っていたのを思い出した。
老人が信義に話してくれる内容は、すべて今の自分に当て嵌まっているような気がしていた。
老人の話は漠然としていて、抽象的な話が多く、多分普通に聞いていれば、何を言っているのか分からず、途中から、
――考えるのをやめよう――
と思うほど、頭が混乱してしまうかも知れない。
だが、馴染みの喫茶店で出会う北村先生と今までに話をした内容を思い出すと、老人の話が手に取るように分かってくる。
もちろん、老人の話を漠然と聞いているだけでは、理解するには程遠いことだろう。だが、話を聞きながら、自分の考えを確かめるかのように返答していると、話も繋がってくるし、老人も話を砕いてしてくれるようになる。相手が分かっているのか分からない時は、自分の考えを一方的に押し付けるしかない。余計に相手に分かるはずもなく、二人の水は深まるばかりだ。
だが、信義のように返答を繰り返していると、会話が活性化してきて、老人も考えるようになる。
――この人は、俺のように話ができる人を探していたのかも知れないな――
話が分かってくると、まるで雲を掴むような話でも、空を見上げた時に、
――本当に雲が掴めるかも知れない――
と思うほど、相手との距離をリアルに感じるのだった。
信義にとって、北村先生との出会いと友好が、バーでの老人との友好に繋がってきていた。
それまで頭の中で疑問に思っていたことも、目からウロコが落ちたかのように分かってきたことも少なくない。
疑問に思っていたことは、堂々巡りを繰り返す。
繰り返した堂々巡りは、同じものとして積み重なっていく。それがそのまま時間として重なって行ったのだとすれば、それが老人との話で一つに繋がると、
――まるで時間が短くなったような気がする――
と思えてくるのも当然のことだった。
これが老人の言っていた、
――ここでは時間が短く感じるんだよ――
という発想に繋がっているに違いない。そう思うと、偶然というのも、決して信じがたいことではないように感じてくる。
康子を見ていると、自分と付き合っていた頃の和代を思い出してきた。
――まだ若かった頃の信義には理解できなかったことも今なら理解できるかも知れない――
と感じた。
ここのバーという不思議な時間が流れる場所に康子を連れてきたのも、そういう思いが頭の中にあったからなのかも知れない、
「お母さんは、昔のことを君に話したりするかい?」
「ええ、最近はよくしてくれるようになりました。高校生の頃は話を聞こうとしても、まったく相手にしてくれていなかったんですけどね」
と、はにかんだような笑顔を見せた。
それはまんざらでもないという表情で、
――お母さんが話をしてくれたということは、少しは私のことを認めてくれているんだわ――
と言いたげに感じた。
さらに感じたことは、和代によって娘の成長には段階を感じているのかも知れない。和代の中に娘に対して節目を持っている。ただ、それは自分が経験してきた人生の節目と同じなのか分からない。信義には、むしろ違うものに思えて仕方がないが、それはなぜであろう?
信義は、最近自分が絶えずいろいろなことを考えているのを感じて、ハッと我に返ることがあった。それだけ自我の世界に入っている証拠なのだろうが、数年前までは、
「空気の読めない人」
として、部下や同僚から蔑まれていた。
空気が読めるようになったのは、年齢によるものだけではないような気がする。北村先生の存在や、このバーの雰囲気、そして、信義に話しかけてくる老人の存在、ぞれぞれが結びつくことは、まるで一つの人格を形成するに十分な力を感じるのは大げさなことではないだろう。
また、急激に空気が読めるようになり、理解できなかったことが納得できるまでになったりしたことは、バーの持つ、
――時間を短く感じる――
という力によるものだろう。
――今の和代と話をしてみたいな――
と思って、康子を見ていた。
康子は娘の立場からしか母親を見ていない。だが。まずはそこから別れてから今までの和代が何を考え、どのような生活をしてきたのかが、少しでも垣間見えるのであれば、それでいいと思った。
下手にすべてを知ってしまうことは、決していいことだとは思わない。土足で人の家に入り込み、見たくないものを見てしまったとして、後悔が残ってしまったら、その時の憤りを誰にぶつけていいのか分からないからだ。
「実は、僕は君のお母さんと以前知り合いだったんだよ」
いきなり核心をつくような話を切り出した信義は、一瞬、
――しまった――
と、感じたが、口に出してしまったものを引っ込めるわけにはいかない。そう思うと、話してしまったことは悪いことではないと思うことにした。
すると、意外にも康子は驚きを見せなかった。
驚きや喜怒哀楽のような表情は、隠そうとすればするほど、わざとらしく映るもので、信義のように、相手が昔付き合っていた女性の子供だと分かってしまうと、わざとらしさに気付かないはずはないように思えた。
「何となく分かっていたような気がします。『あなたが私のお父さんだったらよかった』とまで感じたほどですからね」
「どうして、僕にお父さんを感じてくれたんだい?」
「私、どうやらまわりの人から見れば、近づきにくい雰囲気に見えるらしいんです。特に初対面の人にはそれが顕著に表れているらしくって、だから、お友達も少ないし、自分から殻に閉じ籠るようになっていまったんです」
――なるほど、深夜のファミレスに一人でいるので、どこか影を感じていたが、そういうことなら、分からなくもない――
康子は一拍置いて、また話し始めた。
「でも、あなたが声を掛けてきてくれて、嬉しかったんです。本当はもっと警戒しなければいけないんでしょうけど、あなたには警戒心がなかったんですよ」
そういえば、信義も和代と別れてからの自分が、今の康子の話のようにまわりの人から近づきにくい雰囲気だと思われていることを分かっていた。分かっていたからこそ、自分からまわりに近づこうとはしなかったし、そのうちに、
――一人でいるのも悪くない――
と思うようになった。
それは、孤独に慣れてきたというのもあるのだろうが、元々一人でいることに違和感がなかったのかも知れない。
――一人でいる方が、いろいろ考えることができるからな――
と、妄想癖がついてきたことも、悪くないと思うようになっていったのだ。
康子は最近失恋したと言っていたが、話を聞いてみると、康子に相手が着いてこれなかったからだと分かった。
――これって、俺が和代と別れるきっかけになったことにも繋がっているのかも知れないな――
と思いながら、康子を見ていると、さっぱりした表情は今まで見た中で、一番自分の知っている和代に似ているような気がしてきた。
和代とは別れることになったが、別に嫌いになったわけではない。自然消滅という言葉で片づけてしまったが、それはどうして別れることになったのか思い出そうとしたが、簡単には思い出せなかった。そこには「自然消滅」という曖昧な別れで、理由を封印したのかも知れないという思いを感じるのだった。
――最初に直子に対して「自然消滅」してしまったことで、自分の殻に閉じ籠る手段としての「自然消滅」身についたのだろうか?
と感じるようになっていた。
もう一つ感じるのは、
――俺は和代との別れを自然消滅だと思っているが、和代はどう思っているのだろう? 俺にフラれたと思っているのだろうか?
ただ、自然消滅として忘れてしまうには、それなりの理由があったはずだ。
それは思い出したくないほとの理由なのかも知れない。そう思うと、
――自然消滅というのは、自分にとって、受け入れがたい理由があることで、忘れてしまいたい――
と考えることもできた。
忘れることのメリットは、
――ショックから早く立ち直ること――
それが一番のはずなのに、和代と別れてから、ショックは思ったよりも残っていた。むしろ、理由が分からないという意識があり、ショックから抜けるまでに、鬱状態に陥ったこともあったりしたほどで、決して楽ではなかったはずだ。
――他に理由があるのだろうか?
そういえば、和代の後ろにいつも誰かを感じていた。それが直子だったのは分かっているが、実はもう一人の存在もその時に感じていたような気がする。それは妄想ではなく、リアルに感じたものだった。その人は、
――自分や和代のそばに絶えずいた人――
つまりは佐藤だったのだ。
佐藤の存在が自分や和代に対して大きなものになり、爆発寸前だったところまでは、記憶を紐解くことで思い出すことができた。それは今だから思い出すことができるというもので、当時には感じたことすら意識していなかった。ショックが長引いた理由もすこにあるような気がしたが、当時別れたことに対ししなかった後悔が、今になってよみがえってきたのも、不思議な気がしてきたのだ。
康子が、最近別れたという男性は、表から見ていると、佐藤に似ている。そんな人を嫌いになった康子、嫌いになったというよりも怖がっている様子と、気味悪く思っている様子とが垣間見える。
――ひょっとすると、その男の本性のようなものが見えたのかも知れない――
と、思ったが、直接聞くのも忍びない。
せっかく、別れることができたと言っているものを、今さら蒸し返すのも可哀そうだ。それだけに、信義は勝手に想像を膨らませるしかないのだが、たくさんあった可能性が、かなり狭まってきているのを感じるのだった。
康子は、別れた相手のイメージを以前に感じたことがあったといったが、佐藤であるとすれば、佐藤は今どこにいるのだろう?
風の噂にも聞くことがなくなってしまった佐藤の消息は、信義の中で忽然と消えてしまったのだ。
それは、信義の願望も含まれているのかも知れない。
――彼は、もうこの世にいないのでは?
そんな発想はしてはいけないものではないかと思っている。自分の知り合いで、誰かが死んだと勝手に思うことは、自分にも死というものを意識させることになり、余計なことを考えてしまうことで、自分も死に一歩近づくことになるような気がして、気持ち悪いのだ。
それは胸騒ぎの類で、信憑性は極めて低いものだが、余計なことを考えてしまって胸騒ぎを起こすことは、立てなくてもいい波風を立ててしまったことへの後ろめたさから、不本意な自分を曝け出してしまうのが怖いのだ。
死んでしまえば後悔もないものだが、この世に後悔だけが残り、自分がどこを彷徨うことになるのか、想像もつかない。
――康子が好きになった男は、どこか父親のような雰囲気があったのだろうか?
そう思えば、佐藤のようなへりくだった態度に出てきた男性を嫌になったのも分かる気がする。
相手の男に父親のような強さを感じ、慕いたいと思っていたのに、その相手が急に頼りなくなったのでは、嫌いにもなるというものだ。愛想が尽きたと言っても過言ではないだろう。
「私は、育ててもらったお父さんを尊敬しているの。だから、今の父以外には、本当のお父さんはいないと思っているんです。そういえば、以前、このお店に非常に雰囲気がよく似たお店に入ったことがあるんですけど、そこで面白いおじいさんに会ったことを思い出しました。そのおじさんは、『自分は時間を操ることができるんだ』なんて言ってましたけどね」
と言って笑っていた。
まさしくこのお店で会った老人のようではないか。
「その人とはどんなお話をしたんだい?」
「ハッキリとは覚えていないんですよ。ただ、時間を短く感じるようにできるようなお話をしていた気がするんです。人は時間を正確に刻むように年を重ねるわけではなく、一気に年を取ってしまう時期が何度か存在するんだって言ってましたね」
この店で会った老人とは違う人なのだろうか? 信義が出会った老人がそんな話をするようには思えなかった。
だが、相手によって話しを変える人も少なくないので、それだけ自分と康子は雰囲気が違ったのだろうか。
「私は、子供の頃、お母さんが嫌いだった。私のことを見つめる目が、まるで上から見下ろされているような気がしたの。それは、まるで厄介者を見ているような視線で、子供心に冷たさを感じたわ」
「ひょっとして、本当のお母さんじゃないって思ったのかな?」
「ええ、そうですね。でも、そんなはずはないと思うと、もっと萎縮してしまったんですよ。お母さんの視線が、『あなたなんか生まなければよかった』とでも言いたげな視線だったから」
母親からそんな目で見られたら、どんな気がするのだろう。信義は想像もできなかった。あまり両親とは話をせずに育ってきた気がした信義は、親に対して疑問を感じたことが少なかったので、よく分からなかった。
康子が父親が違う相手だと思うようになったのは、それが発端だったのではないかと思うようになっていた。
――和代は、佐藤に強引に迫られて、そして、子供を……
という想像をしてしまった。
佐藤の性格は、人懐っこいところがああるように思うが、実際は内に籠るタイプだと思っている。自分のペースを崩す者がいれば、嫌悪感をあらわにして、度合いによっては、密かに復讐すら思い浮かべてしまうような恐ろしさを秘めている気がしたのだ。
佐藤は自分のまわりにいた里山と和代が愛し合っている時、どんな気持ちでいたのだろう? 最初から和代のことが好きではなかったのではないかという気もしている。里山が和代のことを好きになると、その時に急に気になり出して、たまらなくなったのかも知れない。
――最初は、まるで俺が子供の頃に感じていた直子のような存在で、里山が好きになったことで、ハッと我に返った佐藤は、それが一目惚れだったのではないかと気付いたのかも知れない。まるで、俺が和代に感じた思いのように……
そう思うと、佐藤という男の気持ちが次第に分かるようになってきた。
やはり、佐藤はもうこの世にはいないのかも知れない。里山もこの世にはいないという噂だったが、あの時の当事者で男で生きているのは、信義だけということになる。
信義は自分の中に、佐藤を感じていた。
そう思うと、急にこの店で話をした老人が里山だったのではないかという発想が頭を擡げた。
――あの人の話は、素直に聞くことができた。それは佐藤が、里山から話を聞いていたのが思い浮かぶような素直な気持ちだった。やはり、俺の中には佐藤がいるのかも知れない――
と、思えてならなかった。
ただ、里山がどうして康子の前に現れたのか、少し考えさせられた。康子が佐藤に似た男性と付き合っていたことが気になったからであろうか? 少なくとも里山は康子とは関係がないはずである。そこだけは分からなかった。
ただ、信義が和代を見て後ろに直子を見たように、里山が和代を見ている時に、その後ろに康子を感じていたのかも知れない。
――人は誰かを見つめる時、絶えず後ろに誰かがいて、そのことに気付くか気付かないかで、見つめている人のことをどれほど自分にとって大切な人なのかということを悟るものなのかも知れない――
そのことは、自分だけの持って生まれた性格だと信義はずっと感じていたが、時系列や、感じている時間が規則正しく流れているということに何ら疑問を感じていない人には気付かないだけで、誰もが気付くことのできる環境にはいるのだろうと思うようになった。
いつからなのかと言われると正確には分からないが、和代のことが記憶の奥に封印されたと感じた頃からだったかも知れない。
――それにしても、なぜ今頃、和代に関わりのある相手に出会ったりしたんだろう?
信義は、いろいろ考えてみた。
そういえば、自分は康子とは初対面だと思っていたが、康子は違うと言っていたような気がした。
初めて会った時のことを覚えていないが、その次の日と思しき日、信義は少し早目に会社を出て家路についた。
その日は身体が重たく、まるで手足が自分の身体ではないような感覚があったくらいで、次第に、身体が冷えてくるのを感じた。
――風邪でも引いたのかな?
あまり風邪を引くことのない信義は、身体の異常を風のせいだと思っていた。
確かにその日は、早めに会社を出たが、すでに日は暮れていた。車のヘッドライトが眩しくて、自分がどこを歩いているのか分からないくらいになっていた。
急に目の前に白い閃光が光ったのを感じた。
急激な痛みとともに、気を失ってしまった自分は、その時、薬品の臭いと、鉄分のような臭いを同時に感じた。目の前を赤い光が点滅しているのを感じた。それから意識がなくなっていったのだ。
――俺は死んだのかな?
和代と康子、直子がシルエットで浮かんでくる。どうやら、不慮の交通事故で、信義は死んでしまったようだ。
意識だけが走馬灯のように駆け巡る。
それは、その日に何もなければ起こるであろう未来を、勝手に想像して、妄想の世界に入っていたからだ。
いまだに、あの世からのお迎えはやってこない。
――俺はこのまま彷徨うのかな?
彷徨いながらの妄想は、なぜか康子が気になっていた。自分が四十過ぎの中年であると思うと、娘にしか見えなかったが、死んでしまったことで、若返ったような気持ちになり、康子の中に和代を見たのかも知れない。
――まさか、俺が死んでいたなんて――
虫の知らせはあったような気がする。しかし、本当に死ぬなど、誰が想像するだろう。死んでしまったことで、何かをリセットしたいと思う気持ちが生まれたのかも知れない。――リセットするとすれば、どこに戻る?
そう思うと、改めて、自分の人生がリセットできないものであることを再認識した。リセットできると思った瞬間、自分に「お迎え」が来るのだろうと思えた。未練がなくなるからなのかも知れない。
佐藤と会うのが怖いという思いもある。その思いがひょっとしたら一番強いのかも知れない。
そして、今生き残っている和代が、信義を彷徨わせることになっているのだということを、妄想しているのではないかということを感じると、和代に一目惚れしてしまったことが、一番リセットしたいことであるということだと思うのだった……。
( 完 )
後ろに立つ者 森本 晃次 @kakku
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