第3話 サナトリウム
そんなことを思い出していると、自分の中学高校時代よりも、小学生の頃の方が、ついこの間だったかのように思えてきた。
中学高校時代が自分にとって暗黒の時代だったとは言わないが、もしやり直すことができるとすればその時期からやり直すに違いない。
もっとも、いまさら人生をやり直したいとは思わない。今の自分を最高だとは思わないが、最高に行き着くだけの位置に、今はいるのではないかと思えることで、前を見ることができるのだと思っている。
目の前にいる麻衣を見ていると、女子高生のイメージが強かったはずなのに、妖艶な雰囲気を醸し出している麻衣は、
――出会うべくして出会った相手なのではないか――
と感じるようになっていた。
妖艶な雰囲気の麻衣に対しても、
――前にも、どこかで会ったことがあるような気がする――
と感じるのだが、それは気のせいだと思えば思えなくないほど薄い感覚だった。その思いを知ってか知らず過、麻衣は相変わらず、笑みは妖艶に溢れていた。
「研究所はもうすごそこになります」
と言って、彼女は指を差した。彼女の前に立って、はやる気持ちを抑えながら前を見て歩いていると、その向こうに怪しげな建物が見えてきた。
「ありがとう。助かったよ」
と言って振り向くと、そこに彼女の姿はなかった。
――あれ?
まるで夢でも見ていたかのような感覚に陥ったが、考えてみれば、この街に入った時から、
――まるで夢でも見ているようだ――
と感じていた感は否めなかった。
――頭の中をリセットしよう――
彼女がいたということを頭の中でリセットはしたくなかった。彼女がいたということを前提にリセットすることにした。このリセットはかなり難しいが、やってできないことはない。今までに何度も教授の下で、薬学を研究していて奇跡だと思えるようなことを見てきた。
中には公表できないものもあった。
それは半分非合法のものもあったからで、ただそれ以上に現代の科学では誰も信じてもらえないことだっただけに、
「下手に公表すると混乱を招くだけだ。だから公表はできない」
と教授は言っていた。
その研究は、非合法であるという前に、臨床試験が困難だった。それだけに発表してもそれを証明することができない。それが発表できない一番の理由だった。
「これほどの研究が発表できないなんて」
教授よりもまわりの研究員の方があからさまに残念がっていたが、本当に残念に思っているのは教授だということを、きっと誰もが分かっていたに違いない。
その研究が発表されれば、今までの薬学界の歴史を根底から覆すものになったのではないか。
教授はそのことを分かっていた。他の研究員も分かっていて、
「この研究が公表されれば、教授はノーベル賞だって夢じゃないんじゃないか?」
と口々に噂されるほどのものだった。
「この研究は、とりあえず保留にしていきましょう」
教授は、この研究が、
――両刃の剣――
であることを分かっていた。
もしこの研究が途中でどこかに漏れれば、大変なことになる。保留しておくということは、それまで調べた研究資料をどこか厳重にしまっておかなければいけないということを示していた。
一旦、研究を保留にすると、そこでリズムが狂うのはしょうがないことだ。それまで他の研究を犠牲にしてまで、時間と労力、そして知力を尽くして研究を続けてきたのだ。
当然、それまでに費やしたお金もかなりのもので、研究を中断するとなると、それなりの理由が必要だった。
そのことにかなりの間教授は悩んでいたようだが、何とか上を説得して、研究の中断を丸く収めていた。
――先生はどうやったのだろう?
と思ったが、ひょっとすると、教授には奥の手と呼ばれるようなものがあったのかも知れない。
教授たるもの、不測の事態に陥った時にどのように対処すればいいか、絶えず考えているもののようだ。それは、一般社会人の勤める会社と同じで、上に立つものが持ち合わせていなければいけない技量というものだろう。
教授にはその技量があった。溢れているといってもいいだろう。
――それくらいでなければ、教授になんかなることはできないんだろうな――
と考えた。
実際には年功序列のような感じで、助教授から教授へと昇進していくが、教授になれる器ではない人は、その途中で道半ば、研究員から離れていってしまうのではないだろうか?
今までに自分が知っている教授と名のつく先生は、皆それなりの技量を持ち合わせていた。しかしその中でも一番の技量を持った先生は星野教授ではないかという思いは、今も昔も変わりない。
星野教授と初めて会った時は、センセーショナルな気がした。
――この人についていきたい――
と最初から感じた。
自分がそこまで人に対して第一印象を持ったことなど一度もなかった白石だったが、
――慕っていける人を見抜く力を自分が持ち合わせているのではないか――
と感じたのはこの時が最初だった。
らだ、それ以上に星野教授に感じた第一印象の中に、
――この人とは初対面の気がしない――
という思いがあったからだ。
どちらかというと、初対面の人に対して、
――本当にこの人と初対面なのか?
と思う方であった。
その理由は、
――自分は、人の顔を覚えられる方ではない――
と思っていたからで、人の顔を覚えるのが致命的に苦手だったのだ。
そういう意味で、研究員になったのは正解だったかも知れない。一般企業に入社して営業にでもなっていたら、人の顔を覚えられないことは致命的だったからだ。
人の顔を覚えられないことに自分なりに疑問を感じていた。
あれは小学五年生の頃だっただろうか、友達と待ち合わせをしていて自分では自信があったつもりだったが、遠くから見えた友達に、
「おーい」
と言って声をかけたが、相手は返事をしなかった。
その頃の白石は視力には自信があり、見間違えるはずないと思っていた。少々遠くても相手が誰だか分かると思っていたが、その時の友達はまったく気づいてくれなかった。
しかし、近づくにつれて、相手が似ても似つかない人だと分かり、実に恥ずかしい思いをした。しかも、その様子を友達が見ていたのだ。
普段は気さくな友達だったが、その時は明らか表情は違っていた。ぎこちなさからその日は全く会話ができず、それから疎遠になるきっかけを作ってしまったのだ。
その日からというもの、人の顔を覚えることができなくなってしまった。それまではそんなことがなかったのに、急にである。
精神的なものだろうから、それが癒されれば元に戻るはずではないかと思っていたのに、元に戻るどころか、もっとひどくなっていくようだった。それから友達であっても、二人きりで待ち合わせをすることができなくなってしまったのだ。
そのおかげで友達が急に減ってしまった。研究員の道はその時から開けていたのかも知れない。学校では浮いてしまったことで、一人コツコツとすることしか自分には残されていないことを自覚した白石は、勉強に勤しむようになったのだ。
しかし、何が幸いするか分からない。勉強が白石には向いていた。
――やればやるほど成果が出るんだ。勉強をすることは決してこの僕を裏切ることはない――
と感じるようになった。
最初は徐々に成績が上がっていったくらいだったが、ある時点から飛躍的に成績が伸びた。
――何かのきっかけを掴んだのかも知れない――
そう思ったのもタイムリーだったようだ。
それからどんどん勉強は面白くなり、完全に自分の生活の一部となった。
――きっかけというのは、自信なんだ――
ということが分かると、それまでの自分を思い返し、
――果たして自分に自信が持てるといえるようなことが一つくらい今までにあっただろうか?
と考えた。
考えれば考えるほど思い浮かんでこない、昔から自分がどんなことを考えてきたのか思い返してみた。
絶えず何かを考えていたことは間違いないのだが、それが一貫してのものだったのかといえば、そうでもなかった。思い出そうとして思い出せないのは、
――目が覚めるにしたがって忘れてしまっていっている――
と感じる夢のようでないか。
その時に夢というものを思い返してみた。
――夢は自分の中にある潜在意識が見せるものだ――
と感じていた。
――潜在意識?
ふと考えてみた。
今まで自分が自信を持てなかったのは、潜在意識の存在に気がつかなかったからだ。潜在意識の存在に気づいていれば、もう少し自分を信じることができたと思う。ということは、
――自信というものは、潜在意識が作り出すものなのではないだろうか?
と考えられた。
勉強が好きになったのだって、勉強することで自分が想像していた以上に自分の力が引き出せたことも、すべてが潜在意識のおかげだと思うと、自信が潜在意識に結びついているという考えもまんざらでもないのではないだろうか。
大学の研究室に入ってから、最初は自信を失くした時期もあった。なぜなら、
――ここの連中は、自分と同じか、それ以上のレベルの人間が選ばれて入ってきているんだ――
と感じたからだ。
勉強が好きになってからというもの、絶えず自分がトップクラスであり、他の人よりも一つ頭が出ていた。前を見ると、自分以外には誰もいない。後ろを見ると、限りない。そんな状況だと、普通ならプレッシャーになるのだろうが、中学の頃からずっと勉強に勤しんできた彼にはすでにその状況は慣れっこになっていたのである。
そんな中で白石は、
「今頃、五月病なのかい?」
と先輩研究員に言われてショックを受けた。
しかし、今まで順風満帆でこれたことをよかったと思うことですぐに立ち直ることができた。
実は後にも先にも白石がこんなに素直に考えることができたのは初めてかも知れない。どうしても目の前にプレッシャーが広がっていれば、自信を簡単に失ってしまうのが白石の性格だと思っていた。
だが、中学時代から培われてきた自信は本人が感じているよりも強かったようだ。
研究員に晴れて一員として認められると、まわりも一目置くような発想を白石は時々していた。それはいいことも悪いことも含めてではあるが、いいことの方が印象深いこともあって、まわりは一目置くようになっていた。それこそ、白石にとっての役得というようなものなのかも知れない。
教授からは、一時期、
「あいつは何を考えているのか分からない」
と言われていた時期があったようだ。
それを本人には言わずに、助教授に話をしていた。助教授は最初こそ何も言わなかったが、時々奇抜な発想を口にする白石を見かねて、
「先生がお前のことを、時々何を考えているのか分からなくなると言っていたぞ」
と話した。
その頃になると白石も研究員としてある程度の自信を持ってきたので、それを言われてもあまり気にしなかった。それよりも
「何を考えているか分からない」
と言われていることに喜びすらあった。
――何を考えているのか分からないといわれるということは、それだけ規格外だということを先生に認められたことになる――
他の人からであれば、
――所詮他人の戯言――
として相手にしないが、先生からであれば、それをいい方に解釈することができる。
自分に対しての悪口雑言を、悪いこととして解釈する頭を持っていないことであり、それも自信のたまものだと言えるのではないだろうか。
最近の白石は、医学の研究以外にも気になることがあった。それは、
――異次元への発想――
であった。
薬学を志すものとは全く違った発想であるが、最近の白石は、それをすべて「科学」という発想で一括りにして考えるようになった。
――薬学も科学なら異次元も科学、それはすべてが人間が作り出したもので、証明できなければ、ただの妄想で終わってしまうものだ――
と考えていた。
教授の研究が証明できないことで、公表することができない。それは一つのジレンマであり、トラウマになって、ずっと心の奥底に残るものだろう。
「このままだと、妄想だけで終わってしまう」
そんなことは絶対に許されることではないと白石は思っていた。
――だったら、異次元をただの妄想で終わらせたくない――
証明することはできないが、白石は自分が遭遇するのではないかと思うようになっていたのだ。
白石は教授の話を思い出していた。
「私の娘は、最近研究所に勤めだしたんだよ」
「そうなんですか? 教授の後を追って、研究されているんですね?」
と聞くと、
「そうじゃないんだ。娘は薬学を志しているわけでもなく、医学でもないんだ。何やら異次元の研究をすると言っていたんだが、私にはよく分からない」
「それはタイムマシンとか四次元の世界とかいう類のお話なんですか?」
「そうだね。ただ、元々は工学部に入学して、ロボット工学のような研究をしていたようなんだが、そのうちにタイムマシンだったり異次元に興味を示したようで、ロボット工学よりもそちらの方を今は中心に研究しているようなんだ」
「なかなか女性としては、思い切ったことだと思いますね」
「親としては、もっと現実的で、しかも世の中のためになるような研究をしてほしいと思っていたんだが、これも私に対してのあてつけのようなものなのかも知れないな」
「それは離婚したということでですか?」
「娘も大人なので、そんな理由ではないとは思うんだけど、それよりも父親に対してのライバル意識じゃないかって思うんだ。親バカなのかも知れないけど、そう思いたいんだ」
その時の話を思い出していると、さっき出会った麻衣の話もまんざらでもないような気がする。しかし、彼女の中で研究している内容が、果たして麻衣のためになっているのかどうか疑問であった。
――麻衣ちゃんは、研究者であればこその悩みを抱えているような気がするな――
白石も自分が研究者なので、麻衣の気持ちが分からなくもない。
自分だって研究しながら、研究を重ねていくにつれて深まっていく悩みを感じていた。だが、その研究で得た悩みというのは誰にも分かるはずがないのだ。
何しろ、研究の最先端にいるのは自分なのだから、誰に相談することもできない。それは先駆者としての宿命のようなものであり、避けて通ることのできないものなのだろう。
「避けて通ることのできない」
という言葉は、自分をさらに苦しめるに値する。
自分で自分の首を絞めるような研究を続けているという思いは辛さしかないが、それでも誰もなしえない研究を自分が先駆者となっていることの快感も捨てがたいものである。そんなジレンマを抱えながら、ジレンマを矛盾として考えるかどうかで、自分の行く道が決まってくるのではないかと思っている。
それは自分だけではなく、教授も同僚も、同じような道を通り過ぎてきて、さらには、まだその途上にいるのだ。
――誰にも終点が見えるわけはないんだ――
終点が見えてしまったら、そこで終わってしまうことは分かっている。
見えてくる終点というのは、そこで何らかの生命が失われるときである。本当の命が失われるのか、それとも科学者としての生命が失われるのか、どちらにしても、自分にとっての大事件であることに変わりはない。
「科学者というのは孤独なものだ」
と、皆口癖のように言っているが、もちろん本心には違いない。
だが、それを本当に嫌がっているかというとそんなことはない。孤独と寂しさが同じものだとは思っていないからだ。
確かに孤独は寂しいものだという認識もあり、寂しいから孤独を感じるものでもあるのだ。
だが、孤独が寂しいだけのものなのかと言えばそんなことはない。研究者の誰もが研究を始める最初には孤独を感じていることだろう。
その孤独は、研究者にとって、それまでほしくてたまらなかったものではないのだろうか。自分の自由な時間を得るためには、まわりと一線を画すという意識もある。研究に費やす時間は、他の一般人とは違う時間でなければいけない。中途半端な気持ちで研究をするなどありえないと思っていた。
一人で研究を続けていると、それまで一緒にいた連中と自分が違う世界に生存しているように思えてくる。普段からバカみたいな話をしていた自分が、本当にバカに見えてくるのだ。
――あんな連中と一緒にいたんだ――
と思うことで、自分に自己優位性を感じてしまう。
まわりに対して優越感を得ることで、自分を正当化させようとする。その思いは孤独を凌駕するほどのもので、
――孤独を寂しいなんて思っていた自分が情けない――
と感じるほどになっていた。
まわりに対しての優越感は、研究者にとって必要不可欠であり、もし、優越感を悪いことだと感じる人がいるとすれば、その悪いことも必要悪であるという認識を持たなければ、研究員としては失格である。
それでも研究員を続けたいのであれば、その人は自分の限界を知らなければならない。限界を知ってでも研究を続けることができるかということが一番の問題だが、白石の考えとしては、
「限界を知った人間に、研究など続けられるはずはない」
と、完全否定をするだろう。
実際に研究を始めて、最初に感じた孤独に寂しさは一切伴わなかった。
孤独に寂しさが伴うなどという感覚は、昔々に忘れ去ってしまったように思っている。
白石にも、昔は孤独を寂しいと思う時期があり、いつから感じなくなったのかと思い返してみると、
――きっと、感覚がマヒしてしまう瞬間を感じるようになってからだろう――
と思うようになっていた。
何の感覚がなくなってきたのかというと、白石にはその感覚を思い出すことができなくなっていた。
――研究員になりたての頃は思い出すことができたような気がしているのに――
そう思うと、何かの感覚がマヒしてしまう瞬間を感じるようになったのは、研究員になる前のことだった。
――あの時誰かに出会ったような気がする――
そんなことを考えながら歩いていると、なるほど麻衣が言ったように、研究所が近づいてきているのが分かってきた。
建物は本当に古臭い。赤レンガの壁が塀を形成していて、塀の上には鉄条網が張り巡らされていて、物々しい雰囲気に包まれていた。
――こんな不気味な研究所、見たことがない――
と感じたが、実際には何かの写真で見たような光景だと思った。
その時は、何の建物の写真だったのか分かっていたので、ゾッとするような寒気が襲ってきて、背中を流れ落ちる冷や汗を感じていた。
白石はそれがどこの写真だったのか、すぐに思い出せた。
――そうか、あの写真だったんだ――
それは、今から八十年くらい前だっただろうか。旧日本軍が、まだ大東亜戦争が起こる前の満州に作られた研究所の写真だった。
「当時、日本には傀儡国家の満州国というものが存在し、そこで秘密裏に細菌兵器などの研究が進められていたんだよ」
最初にその話を聞いたのは、中学時代の歴史の先生からだった。
中学生にとって、その話はセンセーショナルなもので、
――ここまで話していいものなのか?
と思うほど、生々しい話を先生はしていた。
女生徒の中にはその生々しさに悲鳴をあげる人もいて、教室は一種異様な雰囲気に包まれていた。
その演出をしたのは、明らかに先生だった。しかし、その雰囲気を作り出したのは、話を聞いていた生徒たちである。先生の話がどんなに生々しいものであったとしても、リアクション一つ一つがその場の雰囲気を創りあげ、話を理解できずに最初はきょとんとしていた人も、教室の異様な雰囲気に呑まれてしまい、恐怖に震えが止まらない人もいたくらいだった。
――先生は、ここまで話してもいいんだろうか?
と感じたが、先生は、
「このお話は、どこまで話していいのか分からないんだけど、話を始めると、ある程度まではしてしまわないといけないと思うんだ。なぜなら中途半端に終わってしまうと、正しい歴史認識ができず、話を聞いたせいで、下手をすれば、その人にとってトラウマが残ってしまいかねない。それが先生は恐ろしいと思うんだ」
というと、生徒の一人が、
「じゃあ、どうしてそんな話をしたんですか?」
「先生も迷ったんだけど、君たちには正しい歴史認識ができる目を持ってほしかったんだ。少し過激すぎるかも知れないけど、先生には、話をする以外にないと思っているんだよ」
というのが先生の意見だった。
先生の話は、さらに過激なところまで進んだ。
実際の研究については具体的には言わなかったが、どうしてそんなことが行われたのか、あるいは、その影響が歴史にどのような影響を与えたのか、それを先生は丁寧に話して聞かせてくれた。
しかし、先生は前置きをしていた。
「これはあくまでも先生の見解なので、なるべく客観的に、事実関係を中心に話をしているつもりなんだけど、実際には、事実の証拠は残っておらず、果たして本当にそこまでの研究が行われたのかは、残存している書物からしか読み取れない。だから、先生の話もすべてが本当だとはいえないんだ。それを踏まえて考えてほしい」
と言われたが、すでに先生の話は真実以外の何ものでもないという意識が強く、そこからしか何も考えられなかった。
そう感じることで、
――考えれば考えるほど、感覚がマヒしてくるんだよな――
と感じていた。
そして、その時感じたのは、
――将来会う人に、昔出会った相手とまったく同じ人と出会う気がするんだよな――
と感じた。
それは、自分だけは年を取っていて、相手はそのままであるという意味である。
もちろん、そんなバカなことがありえるはずもない。すぐに否定したが、否定したままでは、マヒしてしまった感覚が元に戻らないと思えたのだ。
――どっちがいいんだろう?
感覚がマヒしたままがいいのか、信じられないという思いをトラウマとして抱えていきていくことの二つに一つである。
もちろん、どちらも抱えて生きていくわけにはいかない。せめてどっちかだけでも排除することはできるが、片方は残ってしまう。この場合の優先順位を考えていると、どちらかを中心に考えると、避けることのできない矛盾が、そこに存在しているように思えてならないのだった。
――どうすればいいんだ?
そう思っていても先には進まない。
――僕は研究員としての自分を全うしていけばいいんだ――
と感じることしか、残っていないと思ったのだ。
その時に感じた孤独は、寂しさなど伴っていなかった。最初から矛盾を抱えているので、孤独と寂しさは紙一重であり、まるで両刃の剣のようにしか思えないものだという認識をしていた。
中学生の頃から勉強に目覚め、中学二年では一番になっていた。三年生までトップを守り、意気揚々と進学高校に入学した。
しかし、そこで今まではトップだった自分が、まわりにはさらにレベルの高い連中がひしめいているので、真ん中よりも下になってしまうという事実を突きつけられ、気がつけば、トラウマに支配されそうになっていた。
――そんなことは最初から分かっていたはずなのに――
と自分に言い聞かせたが、逆に、
「そんなことも分からなかったのか」
と、自分から戒められた気がした。
――ひょっとして、感覚がマヒしたのって、この時の重いがよみがえってきたからなんじゃないだろうか?
と、研究員になってから、結構時間が掛かって気がついた。
あとから思えば、こんなことすぐに分からなかった自分が情けないほどで、それだけまだ自分の中に、生身の人間と同じ血が流れていると思えたのだ。
感覚がマヒしていることに、自分がマヒしてきた。ここまで来ると、自分の身体に生身の人間と同じように血が流れているという思いが信じられないように思えてきた。
さっきまで一緒にいた麻衣が、
――以前に出会った相手と同じ相手に出会うという相手ではないか?
と思ったが、どうやらそうではないようだ。
ただ、麻衣とはまた近い将来に会うような気がしたのだが、それよりも、目の前に見えてきた建物が気になって仕方がない。レンガ造りの建物に、昭和初期を思い起こさせる雰囲気は、白石に悪魔的なオカルトイメージを植えつけたのだった。
――悪魔的なオカルトイメージって何なんだろう?
オカルトをホラーとは切り離して考えている白石独特の考えなのだが、研究員としては、ホラーよりもオカルトの方が自分に馴染みが深いように思えていたのだ。
白石は建物に近づいていく。赤レンガの塀を沿うようにして歩いていると、正門が見つかった。そこには木の表札がかかっていたが、何と書かれているのか分からない。
――そういえば、赤レンガも赤い色が褪せてしまっていて、ハッキリと分からないくらいに変色しているな――
と感じていた。
木の文字も分からないほどに褪せてしまっているのは、どうやら湿気が影響しているように思えた。さっきまであれだけ天気がよかったのに、このあたりまで来ると急に雲がかかってきていた。
「今にも雨が降ってきそうだ」
と感じたので、急いで正門から中に入ったが、中に入ると今度は今までの天気の悪さが一点して、明るさが戻ってきたのだったq。
――どういうことなんだ?
塀を挟んだ表と中では、まったく違った様相を呈している。こんな建物は初めてだった。
しかし、古い研究所というのは外観と中に入ってでは想像以上の違いがあることを知っていた。あまり気にしすぎない方がいいのかも知れない。
白石は建物を表から見ると、一階の奥の部屋に異様な雰囲気を感じた。そこの窓には鉄格子が嵌めこまれていて、まるで囚人でもいるかのような雰囲気だった。
――本当にここでいいのか?
と考えたが、とりあえず、中に入ってみなければ埒が明かないと思った。
建物の中に入ると、白衣の女性が慌しく行き来していた。その様子は、まるで病院で、研究所というイメージではなかった。
「すみません。ここの責任者の方にお会いしたいんですが」
一人の白衣の女性に話しかけた。
彼女はナースキャップを被っていて、いかにも純白の白衣を身に纏っている。ただ、真っ白であるにも関わらず、眩しいという感覚はなかった。どちらかというと、
――含みを持たせた白――
という雰囲気だった。
白という色が、すべて眩しいほどの純白ではないことを白石は以前から感じていた。普通白というと、
――眩しいくらいの真っ白さ――
というのをイメージするのだろうが、白という色ほど、あらゆる色に染まりやすいものはないと思っていた。
確かに黒い色は白い色が着色することで、却って汚れ目を感じるものだが、黒い色に黒系統の色が染まっても、色が変わったというイメージはすぐには湧いてこない。しかし、純白であれば、同じ白であっても、汚れ目はハッキリしている。眩しさで押し切ることができないのが、同じ白い色なのだ。
そう思うと、同じ白でも、種類があるような気がする。眩しいほどの白い色と、眩しさを打ち消す白い色である。
元々白い色というのは、吸収することができない色で、光を反射させることで眩しく感じさせ、一番目をくらませることのできる色でもあった。しかし、同じ白であっても、光を吸収できる色もあるのだ。その色は、純白と順応してこそその効力を発揮することになるのだが、そういう意味では、
――影に隠れた色――
と言ってもいいだろう。
ただ、白石は、その二つ以外にもさらに違った白が存在すると考えていた。こんな思いを感じているのは、自分以外にはありえないとも思っている。
昔、天文学者が「暗黒星」というものを創造したことがあったらしい。
星というのは、自分で光を発するか、あるいは、光を発する星の恩恵を受けて、自分も光ることができるというどちらかである。
しかし、暗黒星というのは、自らが光を発することもせず、かといって、他の星の光を反射させ、光っているものではない。この星は、すべての光を吸収してしまうのだ。
そのために、誰にもその存在を確認することはできない。どんなに近くにいても、その存在を確認できないということは、その星がどれほど危険であったとしても、誰にも発見されることなく、相手を抹殺することができる。これを人間の世界に当て嵌めると、どれほど恐ろしいことになるのか、創造した人間も、自分が恐ろしくなったのではないかと思えてならなかった。
白石は、白という色に、暗黒星の発想を感じたのだ。
「自ら光を発することもせず、まわりからの光を反射させずに、すべての光を吸収してしまう」
ただ、その存在は分かっている。誰の目にも見えているのだが、その星が暗黒星であることを誰にも悟られることはない。
――木を隠すには森の中――
というではないか、
しかも、路傍の石のように、
――そこにあることが当たり前であり、存在していることに対してまったく疑問を感じない。そのためにあって当たり前の発想が、存在価値を皆無にしてしまう。これほど恐ろしいことはないのではないか――
という発想も白石にはあった。
この発想は、子供の頃からあったのだが、どうしてこんな発想をするのか、まったく自分では分からなかったが、高校生の頃に友達から聞いた暗黒星の話によって、自分の路傍の石の発想が証明されたような気がしていた。
路傍の石だって、白い色には存在している。眩しさを感じない白い色が、この路傍の石の発想になるのだ。それが、最初に感じた研究所の建物を表から見た時の褪せてしまった色であった。
赤レンガだとは分かっているのに、よく見ないと赤い色を確認できないほどである。どうして赤レンガだと直感したのか、それはきっとそこにあって一番不思議のないものという発想が頭の中にあったからだろう。
――レンガといえば赤い色――
いわゆる思い込みというやつである。
この建物の中で見る女性の白衣は、同じ白い色でも、路傍の石とは違っている。眩しい色を感じないのに、路傍の石でもないということは、暗黒星を見ているかのような発想があった。
――確認できるはずのないものを確認できている自分は、どうなってしまったのだろう?
という思いを抱いていた。
何しろ、研究所だと思ってやってきた建物で、雰囲気はどう見ても病院だった。それも近代的な病院とは程遠い、まるで昔の昭和の病院のようではないか。
白石の年齢で、昭和の病院の印象が残っているはずもない。それなのに、どうしてそう感じたのかといえば、匂いからではないだろうか。
建物の正門をくぐってすぐに感じた薬品の匂い。どこか懐かしさがあった。
自分の研究は薬物なので、薬品の匂いに違和感を覚えることなどないはずだ。それなのに、匂いに懐かしさを感じるというのはおかしなことだ。
ただ明らかに自分の研究所で毎日のように感じている薬品の匂いとは違っている。その原因がどこにあるのかということは簡単に分かりそうなのに、なぜかすぐに気付くことはなかった。
――建物の性質が違うんだ――
鉄筋コンクリートを改良し、匂いをあまり充満させないように工夫された壁を持った建物でいつも研究しているので、匂いが残るのは仕方がないとしても、不快な匂いではなかった。
だが、ここで感じる匂いは、他の匂いと重なり合って、過度の匂いを放出しているのだった。
――いろいろな薬品の匂いが入り混じると、こんな匂いになるんだ――
と感じた。
初めて感じるはずの匂いなのに、どこか懐かしさがあるのは、子供の頃、怪我をして運びこまれた病院で感じたものだったからなのかも知れない。
その時の記憶としては、薬品の匂いよりも、血の匂いの方が強く印象に残っている。その血というのはもちろん自分の血であり、身体がゾクッとしてしまい、痙攣を起こしかけていたのを思い出した。
――怪我をした時って。こんな匂いなんだ――
臭いという思いよりも、鼻につくこの匂いを、
――病院にくれば、匂いがしなくても、思わず思い出してしまうんだろうな――
と感じるような匂いだった。
この匂いはその時に感じた匂いを、数十年経ってから思い出した懐かしさなのだろう。
すぐに思い出せなかったのは、ここが研究所だと思い込んでいたからで、普段感じている匂いとの違いを誰というわけでもなく、同じ思いを感じている人がいて、その人を探すのが先決だと思ったからだ。
しかし、そんな人がいるわけもない。結局匂いに関しては懐かしさというイメージが残っただけで。次第に曖昧になっていった。
――匂いに慣れてきたからに違いない――
この思いは、当たらずとも遠からじであった。
そういえば、先ほど、
――何かの感覚がマヒしたような気がする――
と感じたのを思い出した。
もし、その感覚が匂いに対してのものであるとすれば、その理屈が分からなくないものに思えてきた。
感覚というと、いわゆる五感、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚であるが、最後の嗅覚が麻痺しているのだろうと考えた。
しかし、本当にそれだけだろうか?
それぞれが単独でマヒしているのであれば、自分の中で、
――マヒしている――
という感覚が分かるというものだ。
しかし、もし、五感すべてがマヒしていたのだとすれば、マヒしているという感覚を感じることもないだろう。少なくともどれか一つがまともだからこそ、マヒしているという感覚が残るのだ。
白石は、その時、
――五感すべてがマヒしているのではないか?
と感じた。
だが、匂いは感じることもできるし、色も感じることができたはずだ。それなのに、そのどちらもマヒしていると感じたのは、
――感じる力を持っているのが自分ではない――
と思ったからだ。
誰かの手によって感じさせられていて、感じさせられたことを自分なりに解釈して考えてみる。自分にとっての矛盾を解決させるには、何か他の力に頼らないと、何もできないのだ。
――では、誰の力だというのだろう?
自分にまったく関係のない人の力であれば、最初から自分に力が作用していることが分かるはずである。しかし、感覚がマヒしてしまわなければ、そのことに気付かないというのは、よほど自分に近い相手でなければいけないはずだ。
――もう一人の自分が存在する?
そう考えるのが一番自然だった。
だが、その人は決して自分の前に現われることはない。もし現われるとすれば、この世界でではなく、別の世界でしかありえない。そう思うと考えられるのは夢の世界であって、時々、
――夢は、もう一人の自分によって作られる、別の世界の話なのではないか――
と思うのだった。
白石は、
――さっきまで麻衣と一緒にいたのは、本当に僕なんだろうか?
という疑念を持っていたが、ここで登場してくる、
――もう一人の自分――
という発想を考えた時、その発想が何かを証明してくれるような気がしていたのだ。
そんなことを考えながら、白石は暗黒星に見えていた看護婦の女性に、
「ここは一体どこなんですか?」
と訊ねてみた。
たった今まで忙しそうに振舞っていた看護婦は、呼び止められると、今度は急に動きを止めて、じっと白石を見つめた。
「何を言っているの? この人は」
声になっていない言葉を吐き捨てたような気がした。
「ここはサナトリウム。いろいろな患者さんがここにはおられます」
「サナトリウム? こんな環境でサナトリウムなんですか?」
白石は、サナトリウムというと、気候温暖の土地で、長期療養が必要な患者が、健康になるための環境を与えることによって、病気治癒を目指した場所であることを知っていた。この場所は先ほど感じたように、湿気が最初に考えられる場所で、療養に適しているとはお世辞にもいえないだろう。
「ええ、そうですよ。このご時勢、こんなところしか、サナトリウムを作れる場所はありませんからね」
と言われた。
確かに今は自然破壊が進んでいて、実際にサナトリウムとしての場所を確保しようと思うと、かなりの時間と労力、そして金銭を費やさなければいけないだろう。
――それでも、これよりもマシな場所は、他にいくらでもあるのではないか――
と思えてならない。
しかし、白石の目的地はここではない。研究所なのだ。
「あのすみません。このあたりに研究所があるはずなんですが、ご存知ないですか?」
と聞くと、看護婦は訝しそうな表情で、
「研究所なんてこのあたりにはないですよ。何の研究所なんですか?」
「薬学の研究所なんですよ。大学が管理している研究所があるはずなんですが……」
「聞いたことがありませんね。確かにこのあたりならそんな研究所があっても不思議はないですが、私の知っている限りでは大きな建物はこのあたりでは、このサナトリウムくらいのものですよ」
「そうですか、ありがとうございます」
ここで、知らないといっている人を相手に結論の出ない会話をしていても仕方がない。まずは事実関係をハッキリさせなければいけない。白石は一度建物を出て、塀と平行に少し歩き、そこで携帯電話を取り出した。
――大学に電話してみるしかないな――
まずは研究室への直通電話にかけてみる。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
お馴染みの内容が聞こえてきたが、
――そんなバカな――
としか思えない。
それでは、研究員の電話にかけてみることにした。すると今度は、
「おかけになった電話は、電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないかで掛かりません」
というアナウンスが流れた。
――どういうことなんだ?
せっかくここまで来たのに、目的地が見つからず、しかも、確認しようと思って研究室に電話をかけても掛からない。まったく理解のできないことであった。
元々、駅を降りたあたりから、どこか別世界に紛れ込んでしまっているような気がしていたので、いまだその感覚が続いていると思うと、いつになったら覚めるのか、そもそも覚めてくれるのか、まったく今後の想像がつかなかった。
すると、急に目の前に白い閃光が走ったのを感じた。
――眩しい――
と感じたのが早かったのか、今度はテレビの液晶が急にプツンと音を立てて消えてしまった時のようなブラックアウトを感じた。
――パチンコの演出のようだ――
と感じたような気がしたが、その時には完全に意識が飛んでいた。
――このままでは気を失ってしまう――
そこまでは意識があったが、そこから先は分からない。
あれは中学生の頃だっただろうか。全体朝礼があり、授業の前に校庭に全校生徒が集められ、校長先生の訓話があった。ちょうどその時、生徒数人が他校の生徒と喧嘩になり、暴力事件を起こしたということで、全校生徒を集めての訓話だった。
「何も炎天下、立って訓話を受けなくても」
と、皆生徒は口々に話していたが、学校側としては、警察や父兄の手前、講堂で座ってなどできるわけはないと思っていたようだ。
校長先生の話に始まって、風紀委員の先生、そして学年主任の先生と、時間は一時間をゆうに超えていた。
そのうちに立ち眩みを起こして倒れる生徒が続出した。さすがに十人近くになると、先生の方も、
――いけない――
と思ったのだろう。
訓話を中止して、解散してからすぐに授業に戻ったのだが、急に教室に入って、間髪入れずに授業に入られると、そのギャップからか、授業が始まってからも数人が気分を悪くしてしまった。
白石もその中の一人だった。
目の前が一瞬明るくなり、次第に暗くなってくる。その時に目の前に蜘蛛の巣が張ったかのように見えたのは、毛細血管だったのだろうか?
薄れいく意識の中で、毛細血管をイメージしたことだけが今でも記憶に残っている。そして、あの時にも確かに、プツンという音がしたような気がして、目の前がブラックアウトしたのだった。医務室で目を覚ました時、倒れた他の生徒は皆回復し、教室に戻っていた。
中には回復がおぼつかず、父兄が迎えに来て、帰った生徒もいたようだが、それを含めても、医務室にはもう誰もいなくなっていた。
――いったい、どれくらいの時間、気を失っていたんだろう?
医務室の時計を見ると、すでに午後二時を回っていた。少なくとも四時間近くは気絶していたことになる。
「うーん」
と言って、気がついたという意思表示をすると、医務室の先生が見に来てくれた。
医務室の先生は若い女医さんで、白衣がよく似合い、その下の黒いタイトスカートを眩しく眺めていたものだ。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
そういって、身体を起こそうとしたが、まだ少し頭がしっかりしていないようだった。
「もう午後の授業もあと一時限だけなので、ここでゆっくりしていってもいいんじゃない?」
「そうですね。分かりました。そうします」
そう言って、ベッドに仰向けになり、天井を眺めていた。
天井には、黒い点が点在していた。じっと見ていると、まるで天井が落ちてきそうな錯覚を覚えたのだが、その錯覚が様々な異変を短時間で自分に与えたのだ。
まず、じっと見ていると、しばらくすると、一瞬身体が跳ね上がったような気がした。足が攣りそうになっているのを感じ、そのまま身体が硬直してしまい、気がつけば、金縛りに遭っていた。
足が攣りそうになった時、それを阻止しようと反射的に呼吸を止めてしまう。止めた呼吸が身体を硬直させて、硬直状態が足を攣りを抑えようとするのだ。
そんなことを最初から分かっていたはずもない。きっと本能が成せる業なのだろう。もし分かっていたとしても、その時の状況ですぐに思い出せるとも思えない。やはり本能というのは自分が考えているよりも、無意識感覚が強いのだ。
無意識だと素直に身体が反応する。下手に意識してしまうと、できるものもできなくなってしまう。それが人間であり、本能とは正反対の何かが作用しているのではないかと思えたのだ。
それまでも実は何度か受けたくない事業があった時などは、医務室に来て、
「気分が悪いんです」
何度も来ているので、担任の先生も医務室の先生も、
――どうせわざとだ――
と思っていることだろう。
しかし、それでも戒めるような言葉は今までに一度もない。
――おかしいな――
と思って、クラスの一人に聞いてみたことがあったが、
「お前、医務室に行く時、本当に顔色悪いんだぞ。顔色が悪くなかったら当然のごとく疑われるんだろうが、顔色が悪いんだから、疑う余地もないというものだよ。逆に俺の方が聞きたいよ。本当に医務室に行く時、何ともないのか?」
と言われると、何ともなくとも、気になってしまい、
「言われてみれば、確かに気分が悪いとも言える気がするな」
と言うと、
「何とも漠然とした返事だよな」
と言われた。
しかし、校庭から教室に戻ってきて気分が悪くなった時は、自分でも吐き気がしそうなほど気分が悪いのを分かっていた。しかも、医務室で意識を失っていたようで、気がついたら二時を過ぎていたなど、今までの白石からは信じられなかった。
決していつも健康で、元気に満ち溢れているというわけではないが、少々の病気も怪我もしたことはない。身体が丈夫ではないと思っていたが、それでも人並みだと思っている。誰が最初に白石の身体に気付くのか、白石自身もよく分かっていなかったのだ。
医務室で金縛りに遭った時、
――これが金縛りっていうんだ――
と、初めて感じた。
それまで金縛りというのは、オカルト話に出てくるくらいで、自分とは関係のない話だと思っていた。それだけに金縛りに遭ってしまうと、どうしていいのか分からなくなってしまう。
まず、どこを見ていいのか分からない。金縛りに遭っているのは首から下であった。首から上は動かそうと思うと動く、首は回るし、口も動くのだ。
口や鼻が動くのは当たり前だろう。呼吸をしないと人間は死んでしまうのだから、首から上が動くのは当たり前のことだと理解できる。
その理解は、金縛りに遭っている最中に感じた。
仰向けになったまま、どこも動かすことができないのを感じていると、手首と足首に何か当たっているような気がした。必死に動かそうとしてもがいているからなのだろうが、動くと冷たい何かに当たっている。それが、手械、足枷であることに気付くと、動けない理由が金縛りに遭っているだけではないように思えた。
――誰かに拘束されている――
手術台のようなところに乗せられて、手足の自由を奪われ、まるでまな板の上の鯉のような状態に、恐怖が募ってくる。
目の前には丸い円盤の腹の部分のようなものがあり、丸い中にさらに小さないくつかの丸が点在している。その丸いものから白い閃光が放たれて、眩しさで目くらましに遭ってしまったようである。
明かりが消えることはないのに、目が慣れてくるのか、白い閃光が次第に暗くなってくるようだ。
その横に三人ほどの人たちがこちらを覗きこんでいる。
「いったい、お前たちは誰なんだ」
と声にならない声を発していた。
声にならないのは、喉がカラカラに渇いているからで、必死になって声を出そうとすると、喉の奥が強烈な熱を持っているようで、痛くて仕方がない。目の前にいてこちらを覗きこんでいる連中はシルエットになっていて、表情を確認することはできないが、唇は怪しげに開いていて、真っ白い歯が浮かんで見えた。
「助けてくれ」
叫んでもどうにもならないのに、叫ばないわけにはいかない。これから自分はここでどうなってしまうのか、考えただけでも恐ろしい。
子供の頃に見た特撮番組の、悪の秘密結社から改造手術を受けるシーンが思い出された。必死に抵抗しているその上から、怪しくメスが光っていた。今まさに改造されてしまう恐怖がよみがえり、金縛りの正体は、その恐怖であると、初めて知るのだった。
目を思い切り瞑って、数秒我慢した。そして、目をカッと見開くと、そこにはさっきまでの悪の結社の白衣姿の男たちはいない。手足も自由に動かすことができ、金縛りもいつの間にか消えていた。
――夢だったのか――
安心したというのが実感だった。
しかし、身体に纏わりつくほどの汗は、その恐怖を物語っている。夢であったとしても、目が覚めても覚えているのだから、やはり怖い夢であるのは間違いない。
怖いという感覚を忘れるために、必死になって夢で見たことを他人事だと思うようにした。そうでもしなければ、なかなか夢を意識の中から封印することはできない。
――忘れるなんてできないんだ――
と思うと、封印させるしかないではないか。
きっと夢で見た意識を封印させられる場所が頭の中にはあるはずだ。その思いがなければ、いつまでも夢から目を覚ますことはできなくなる。
その時、白石は匂いを感じた。
――なんだ、この匂いは――
子供の頃、怪我をした時、数針縫ったことがあったが、その時、簡易ベッドで注射を打たれ、そのまま外科手術となった。注射は局部麻酔で、注射を打つまでは、何も匂いを感じなかったはずなのに、注射から液が注入されている間に、薬品の匂いが部屋に漂っているような気がした。
匂いは、手術が終わるまで収まらなかったが、
「はい、これで終わりです」
と先生がいい、白石の頭の中が安堵感でホッとしていると、いつの間にか薬品の匂いが消えていくのを感じていた。
その時の匂いが、今回気を失いかけている時に感じたものだった。
さっき、サナトリウムの入り口で感じた匂いとも似ているが、同じではないことは分かっていた。
研究室には無数の薬品が置いてあり、薬品を混ぜ合わせて異様な匂いを発することもあったのだが、今回のこの匂いは初めて感じるものだった。
しかし、どこか懐かしさがあるように思っていると、子供の頃に怪我をして、局部麻酔を打たれたあの時の匂いに似ていた。
――あれが、麻酔薬の匂いというものなんだろうか?
薬学研究室なのだから、麻酔薬があるのは当然のことなのだが、麻酔薬を開けるというのは珍しい。臨床研究に使うこともなく、動物実験に使用するホルマリンとも少し匂いが違っているようだ。同じホルマリンでも、研究物の保存として使用するホルマリンとは、また少し匂いが違っている。意識が錯覚を起こすだけなのかも知れないが、自分だけではないような気がした。
サナトリウムと呼ばれる建物の中に入り、中を詮索していく。白石の様子は、かなり怪しげな雰囲気を醸し出しているはずなのに、まわりの誰も白石を怪しげな目で見る人はいなかった。
むしろ、誰も白石のことなど意識していないようだ。それどころか、誰もがすれ違った相手に挨拶もしない。
人はたくさんいるのに、誰も口を開こうとしない異様な雰囲気は、またしても懐かしさを思い起こさせた。
何針か縫ったあの日、術後の経過を見るという意味で、入院となった。病院に駆け込んだのが閉院時間前だったということもあり、
「念のためですよ」
という医者の言葉で、その日は一日だけ入院することになった。
「明日一日様子を見て、大丈夫なら、すぐに退院できます」
と言われて、家族も納得したようだ。
一日だけの入院なので、着替えも必要なく、家族も面会時間終了前にさっさと帰ってしまった。
たった一日の入院だったので、個室というわけにもいかない。もう一人おじさんのような人が入院していた。
「君は、中学生かね?」
と聞かれて、
「ええ、そうです。怪我をして数針縫ったんですが、術後観察ということで、一日だけの入院になりました」
「そうですか。私はここにもう半年以上入院しているんですが、どんなに長くても慣れないものですね」
「そうなんですか?」
「ええ、最初の一ヶ月はあっという間に過ぎたような気がしたんですが、それからが長いんですよ。半年が経ったという意識よりも、マンネリ化しているという意識が強くて、最近では時間の感覚がかなりマヒしてきているような気がします」
「マンネリ化しているのに、慣れないんですか?」
「ええ、マンネリ化と慣れとは違いますからね。マンネリ化というのは、誰にでも起こるもので、そのマンネリ化から慣れてくる人もいれば、私のように時間の感覚がマヒしてくるようになる人もいるんでしょうね」
「でも、慣れてきているから、時間の感覚がマヒしているとはいえないんでしょうか?」
「それはいえるかも知れませんが、私の場合は、慣れてくるという感覚がまったくないんですよ。その思いが時間の感覚をマヒさせたのかも知れないと思うんですよ」
「じゃあ、慣れという言葉には、いくつかの意味があると思われるんですね?」
「そうですね。それだけ漠然とした言葉なのかも知れませんね」
というような会話をしたのを思い出した。
「でも、不思議なもので、時間の感覚がマヒしているのは頭の中だけで、身体はしっかりと覚えているんですよ。体内時計とでもいうんでしょうか? そういう意味で眠くなる時は、ほぼ時間に差はないんですね。だから、もうそろそろ眠気がやってきます」
そういって、おじさんは喋るのをやめて、眠りに入ろうとしていた。そういえば、消灯時間は過ぎていて、普通の中学生なら、まだまだこれからという時間であったが、病院内は静寂に包まれていて、感覚的には深夜になったかのようだった。
おじさんは、少しすればスースーと寝息を立て始めた。白石少年もその場の雰囲気に呑まれたように、睡魔が襲ってくるのを感じた。そしていつの間にか眠ってしまっていたようだ。
その間に何かの夢を見たのだろうか。気がつけば目が覚めていた。まだ表は真っ暗で、自分がその時どこにいるのか、すぐには理解できないでいた。何しろ自分の部屋以外で目覚めるのは、小学生の時の修学旅行以来のことだったからだ。
――ああ、そうか、昨日から入院していたんだ――
そう思うと、傷口が少し傷む気がした。
だがそれも目が覚めるまでの一瞬のことで、意識がしっかりしてくると、痛みはどこかにいってしまったかのようだった。
腕時計を見ると、夜中の二時を少し回ったくらいだった。いわゆる、
「草木も眠る丑三つ時」
と言われる時間である。
尿意を催してきたので、ベッドから起き上がり、廊下に出た。トイレの場所は分かっていたので、ゆっくりと廊下を歩いていたが、廊下に出た時に感じた眩しさに次第に慣れてきたのか、さほどの明るさではない気がしてきた。
そのうちに、この明るさというのが、微妙な感じがしてきた。
――不気味というイメージよりも、明るさと暗さを両方感じることができる雰囲気なのではないか?
と感じた。
そして同時に、
――これほど気色の悪い感覚はない――
背筋がゾッとするほどの明るさに、
――これは明るさというべきなのか、暗さというべきなのか、表現が難しい。本当に微妙という言葉が一番ふさわしい――
と感じられた。
もうそろそろ明るさに慣れてもいいのだろうが、慣れきれないのは、明るさの中に暗さを感じないからだった。
――明るさも暗さも同時に感じるということは、明るさも暗さもどちらも感じることができないことの裏返しなのかも知れない――
つまりは中途半端なのだ。この中途半端な感覚が気持ち悪さを運んできて、自分を納得させることができず、自分として受け入れることのできない感覚に陥ってしまう。
この感覚を懐かしいと感じたことで、サナトリウムの雰囲気が中学時代の自分を思い出させて、その時に、
――他にも何か感じたような気がしたのに――
という、その時にたぶん、
――記憶の奥に封印したことを思い出せるなら今ではないか――
と感じたのだった。
サナトリウムは、中学時代に入院した病院よりもさらに古い建物だった。まるで昭和初期からここにあるのではないかと思わせるほどの佇まいに、重厚な伝統的なものが受け継がれているような気がした。
それを思うと、中学時代の廊下で、奥に行くほど暗くなっていくのを感じたのを思い出した。遠くに見えるのだから、光が届かないので暗いのは当たり前なのだが、暗さのその奥が、どこまで続いているのか自分では理解できない恐怖に襲われていたのだった。
その時の廊下では、匂いはまったくしなかった。手前にはナースセンターがあり、中で二人の看護婦が作業をしているのが見えた。
こちらの方が断然くらいので、こちらからナースセンターの中がハッキリと見えるということは、向こうからこちらはほとんど見えていないだろう。
ガラス張りのナースセンターなので、ナースセンターの明るさにガラスが鏡の役目をして、中が反射して見えてしまうので、表が余計に見えにくくなってしまう。
音を立てずに忍び足でゆっくりと歩いていると、中の看護婦に気づかれるはずがないと思えてきた。
実際に気付かれることもなくトイレに到着すると、トイレはそれまでまったく無臭だった廊下とは違い、かなりの悪臭が漂っていた。アンモニアの匂いが漂う中で、
――急いでトイレを済ませて部屋に戻ろう――
という意識が強く、トイレにいた時間はあっという間だった。
部屋に戻ると、おじさんのスースーという寝息が先ほどと同じように聞こえてきて、すぐにベッドにもぐりこんだ白石は、
――トイレに行っているのってどれだけの時間だったんだろう?
と思って時計を見ると、何とまったく時間が経っていなかったのだった。
――そんなバカな――
という思い、それがどうしてなのかということをいろいろ考えていると、一つの仮説が白石の頭の中に浮かんできた。
――SF小説じゃあるまし――
とは思ったが、こういう考えもありではないかと思えた。
というのは、自分以外の人の時間が止まっていたというか、あまりにもゆっくりだったと思ったからだ。
ナースセンターで忙しそうにしていたと思っていた看護婦だが、よく思い出してみると、二人とも、テーブルに座って、書類に記入しているところだった。下を向いて一生懸命に筆記していたので、忙しく立ち回っているように感じたが、実際には動きがそんなにあったようには見えなかった。ただ、カラスを挟んで、かなりの距離感を感じたのは、明るさのせいだと思っていたが、実際にはそうではなかったのだ。
今回、サナトリウムの異様な雰囲気を感じていると、思い出したのが、中学時代に入院した病院で、その病院での一日が異様な一日であったことを、今まで忘れてしまっていたということだったのだ。
サナトリウムの雰囲気は、その時の病院とは打って変わっていた。だが、同じ病院内という意識が白石の中にはあり、中学時代に入院したあとにも病院通いをしたことは何度もあったが、その時に入院した時の異様な雰囲気を思い出すことはなかった。
――それなのに、どうして昔のことを思い出したんだろう?
そう思いながら、サナトリウムの中を歩いていると、何だかいつもの自分ではなくなっているような気がした。
病院の中を歩いていると、気持ちは他人事のように思えてきた。
何に対して他人事なのかというと、歩いている自分が他人事なのだ。身体は自分なのだが、考えている自分は自分であるはずなのに、どこか上の空なのだ。
思わず、頬を抓ってみた。
「痛い」
夢を見ているのではないかと思う時、頬を抓るというリアクションをしているのをテレビなどでよく見るが、夢を見ていると、本当に痛くはないのだろうか?
誰が最初に始めたものなのか、迷信だとしても、興味があることだった。
サナトリウムの中で、思わず叫んでしまった。しかし、その声は響いてこない。その証拠にまわりを歩いている人、誰一人としてリアクションを示していない。
――聞こえていないのだろうか?
自分では誰にも聞こえていないと言われても、不思議に感じない思いだった。だが、その思いは自分を納得させることができない気がした。やはり直感で悟る自分と、納得させなければ理解できないと思う自分の両方が存在している。積極的な自分と、冷静沈着な二人である。
そのまま廊下を歩いていると、気になる病室を発見した。そこに書かれている名前に見覚えがあったからだ。
「星野伸明」
この名前は、確か星野教授と同姓同名ではないか。
白石は、そっと病室を覗いてみた。
そこにいるのは、さっき見た麻衣が見舞っている姿だったが、入院している男性は、自分が知っている星野教授ではなく、もっと若い男性だった。
その男性は、まだ二十代前半くらいであろうか。白石よりも若かった。見舞ってくれている麻衣の姿をいとおしく見つめながら、笑顔で話している姿は、いつもの研究員としての星野教授とは明らかに別人に感じられた。
「麻紀さんのお話をしていると実に楽しいです。もっといろいろなお話をしてください」
と言っている星野氏であった。
――麻紀さん? さっきここまで道案内をしてくれた麻衣さんとは別人なのか?
と、最初に感じた。
「星野さんのお話を聞いているのも楽しいですよ」
と麻紀と呼ばれた女性が答えると、
「そうですか? 僕のような研究に没頭している男の話のどこが面白いというんでしょうか?」
と星野氏がいうと、
「いいえ、私には面白いんです。同じ年頃の男性のくだらない話を聞いているよりも、よほどためになりますわ」
「そう言っていただけると嬉しいですよ。でも、麻紀さんのようなお嬢さんが、僕のような一介の研究員とお付き合いをしているなどというのは、あまりにも釣り合っていないような気がします」
「何をおっしゃってるんですか? 星野さんは結構古風なことにこだわるんですね」
「ええ、だから、麻紀さんのような清楚な女性に憧れたんだと思います」
「じゃあ、私はそんな純粋なあなただから、私も惹かれたんですわ。お互いが惹き合っているというのは、これほど美しいものはないんじゃありませんか? 私は星野さんを尊敬しているんですよ」
「ありがとうございます。僕も早く病気を治して、人様の役に立てるような研究を続けていきたいと思います」
と、そこまでいうと、心なしか、麻紀の顔が少しうな垂れたように感じられた。
それを見た星野氏は少し訝しそうに、
「どうかされたんですか?」
「え、いえ、何でもありません」
と言って、その場を取り繕おうとした。
その雰囲気にぎこちなさが感じられ、それまでの二人の間の空気に水が差したようだった。二人の会話はそこで少し中断し、
「お手洗いに行ってきますね」
と言って席を立った。
麻紀はトイレに行くといいながら、トイレの前を通り越して、そのまま非常口から表に出た。その様子はいかにも尋常ではなく、背中から溢れる悲哀は、今まで感じたことのない切羽詰ったものが感じられた。
心なしか肩が揺れているように見受けられた。
――泣いているのか?
震える肩が小刻みなのは、明らかに泣いている証拠であろう。
その様子を最初は他人事として見ていたはずなのに、いつの間にか感情移入してしまっていたのか、ふいに麻紀はこちらを振り向き、涙を堪えようと必死の様子だった。
どうしていいのか分からずにその場で立ちすくんでいると、泣きながら麻紀はこちらに頭を下げた。様子を見ていて驚愕の表情になっているはずの白石に対して何も感じていないのだろうか?
「失礼ですが、白石さんですよね?」
「えっ?」
彼女がふいに自分の名前を呼んだことよりも、その表情が助けを求めているように思えたことにビックリした白石だった。
「大学で星野教授の助手をされている白石さんですよね?」
「ええ、そうですが、どうしてあなたは僕のことをご存知なんです? それよりもこの状況は一体どういうことなんでしょう?」
と白石が訊ねると、
「私もすべてを把握しているわけではありませんが、少なくともあなたよりは、この状況を分かっております」
「どういうことなんでしょう?」
「白石さんは、大学の研究所から、この場所に研究所があるからと言われて、資料を言付かってこられたんですよね? でもおかしいと思いませんか? 今の時代であれば、FAXはおろか、パソコンを使えばメールもできる。わざわざご足労願う必要もありませんよね?」
「確かにその通りです。でも、教授は学者のくせにおかしなところがあって、あまり文明の利器を使うことはないんです。むしろ嫌っていると言った方がいいのか、結構お使いを言われることもあったりするんですよ」
「そうですか」
それに対して麻紀は何も反応を示さなかった。
「あなたが持ってこられた資料は、誰に渡すように言われたんですか?」
「誰ということを明言されませんでしたので、所長さんに渡せばいいのかと思っていました」
「そうですね。教授は相手を指定しないことが多いので、あなたも別に気にされていたわけではないんですね」
「その通りです。それにしても、私もこんな田舎に来るのは初めてだったので、少し面食らっていますが、どこか懐かしさも感じているんですよ。いわゆるデジャブのような感じなんでしょうかね?」
「それは以前、夢に見られたことを思い出したからかも知れませんね。夢に見たことは目が覚める間に忘れてしまうことがほとんどですが、思い出す時というのは、本当にいきなりだったりするんですよ。そのくせ、それが夢だったという意識が持てない場合が多い。そんな時にデジャブとして片付けてしまうんでしょうね」
「そうかも知れません。でも、私はここにあるのは研究所だと言われてきたんですが、存在していたのはサナトリウムだというじゃないですか。まず、それがおかしなことだって思っています。ここにサナトリウムができる前は、研究所があったんですか?」
「白石さんは、本気でそう思っていますか?」
麻紀の表情は変わらない。相変わらずの無表情なのだが、時折見せる目力の強さに、圧倒されていた白石だった。
白石は麻紀から真剣な表情でそういわれると、自分が訝しく思っていることを正直に言わなければいけないと感じるのだった。
「いえ、本気で思っているわけではないです。確かに研究所の跡の建物を改良してサナトリウムにするというのは、さほど難しいことではないと思いますが、研究所とサナトリウムというと、目的は一緒でも、まったく方方が違っているものに感じるので、簡単にはうまくいかないような気がします」
と白石がいうと、
「じゃあ、逆だったら、どう思いますか?」
と麻紀が間髪入れずに、聞き返した。
それはまるで最初から答えが分かっていたかのようであり、畳み掛けるような言い方に完全に緩和の主導権を握られているようだった。
「逆というと、サナトリウムの跡に研究所ができたということですか?」
「ええ、それだと理屈としてはどうですか?」
麻紀が何を言いたいのか、ここではまだ分からなかった。
「理屈としては、こちらの方がスッキリするような気がするんですが、それは考えられませんよね?」
「どうしてですか?」
「あなたの理屈だと、今ここに建っているサナトリウムは、研究所ができる前のものであり、僕の知っている現代から比べて、過去の世界ということになりますからね。そんなことは信じろという方が無理ではないですか?」
と言ってはみたが、何となく胸騒ぎを覚えた。
目の前にいる麻紀の表情はニンマリとしたからである。
「その通りです。ここはあなたの知っている世界から比べると、三十年以上も前の『過去』になるんですよ」
「じゃあ、さっきの星野さんというのは、僕の知っている星野教授の若い頃だと思っていいんですか?」
「ええ、その通りです」
まるで狐につままれたような気分だが、麻紀の表情を見ていると、まんざらウソではないような気がしてきた。
ウソとして片付けてしまうことが罪悪であるかのように思えたのは、先ほど見た麻紀の背中が語っていたことなのだろう。
「麻紀さん、あなたはさっきここで泣いていたようにお見受けしたんですが、それはどうしてなんですか?」
と言うと、麻紀は少しきょとんとして、
「私が泣いていたんですか?」
と、まるで他人事のようだ。
彼女が他人事のように返事をするのは、彼女の表情がきょとんとしたことですでに分かっていたような気がしたが、あの時の背中が、この世界の本当の麻紀ではないかと感じた白石だった。
「麻紀さん、あなたは一体誰なんですか?」
「私は、あなたの世界では、もう五十歳になっているおばさんなんですよ。この世界で存在している私は、三十年前の私であり、あなたから見えている私も、その頃の私ではないですか?」
「ええ、その通りです。自分が今三十歳なので、今の自分よりも若い女性であることは確かなようです」
「私は、あなたと会話をしている時は、自分では五十歳の女性だと思っています。でも、あなた以外の人と接している時は、この世界の住人として二十歳の私なんですよ」
「じゃあ、僕の知っている世界とは違う世界にいるということですか?」
「ええ、そうです。そして、そんな私の存在を知っているのはあなただけであり、あなたにしか私とこうやってお話はできないんですよ」
「でも、さっき若かりし頃の教授とお話をしていたではないですか?」
「ええ、でも、それはあくまでも若かった頃の私であり、今こうやってあなたと話をしている私ではないんです。だから、分かった頃の私は今教授のベッドの脇にいて、教授とお話をしているはずなんですよ」
そういって、目の前の麻紀はなぜか寂しそうな表情になっていた。
「どうして、そんなに悲しそうな顔をしているんですか?」
思い切って聞いてみた。
「さっき、あなたは私の後ろ姿を見て、泣いていると思ったでしょう? それは私があなたと正対していて、今まさにあなたが見ている私の顔と同じ心境なんですよ。つまりあなたにしか見えない私は、本当に悲しい気持ちにしかなれないんです」
「どういうことですか?」
「あなたは、もし隣の部屋に行こうとして、扉を開けて、また同じところに出てきたとすれば、どんな気分になりますか?」
麻紀はいきなり不思議なたとえ話を始めた。
「どんな気分って言われても、正直言って、ピンときません。どのように考えればいいのか、少し時間を貰わなければ、想像がつきませんよ」
「そうでしょうか? あなたには一つの結論が見えているはずです。でも、見えているだけで自分を納得させることができないので、そこから先は堂々巡りを繰り返していることに気付いているんですよね」
麻紀の言い方には、確信があるようだった。
そう感じるのは、麻紀の言っていることは自分を納得させるに十分な威力があるように思うからで、目力に圧倒されるのは、そのせいではないだろうか。
信じられないと思っていることでも、自分を納得させるだけのものがあれば、それ以上の力はない。他の人がいくら反対しようが、一般常識から外れていようが、人事らレナ伊という言葉は白石の辞書には存在しない。
「扉を開けてもう一度同じところに出てくるというのは、まるで異次元空間に迷い込んだような気がしてきますね。子供の頃に見たアニメであったり特撮番組で、怖いと思いながら見ていた記憶があります」
「その時、怖いけど、ありえないことではないと思いませんでしたか?」
「ええ、そう感じたと思います。でも、必要以上に感じないようにしようと思っていたのも事実なので、余計なことを考えないようにしようと思うと、最後には忘れてしまっていました」
「人はそれを夢として片付けてしまうんですよね。特に堂々巡りに関してのことは夢だと思うのが一番自然ですからね」
少しそこで会話が途切れた。
お互いに何かを考えているようだったが、先に口を開いたのは麻紀の方だった。
「あなたは、同じ日を繰り返していると感じたことはないですか?」
「えっ?」
その発想は、さっきここに案内してくれた麻衣の発想ではないか。
目の前にいる麻紀と瓜二つの麻衣。名前が似ていること、そして、今が自分の知っている現代から比べて三十年前の過去だという印象から考えて、一つ思い浮かぶのは、
――麻衣は麻紀の娘ではないか――
という思いである。
その思いは、麻紀を見た最初に感じていたのではないかと思ったが、麻紀と話し始めてから、急に違っているのではないかと思えた。その思いは、
――麻衣自身が麻紀なのではないか?
という思いがあったからだ。
「同じ日を繰り返しているという感覚は、確かにあった記憶がありましたが、やっぱり夢として片付けてしまっていたんですよ」
「でも、あなたはその時、納得できましたか?」
「納得できたような気がします。そうでなければ、もっといろいろ疑ってみたんでしょうが、疑う余地もなかったように記憶しているからです」
「そうですか。同じ日を繰り返しているという発想は、私には到底納得できるものではありませんでした。だから余計に考えが固執してしまって、堂々巡りから抜けられなくなってしまったんでしょうね。その時に抜けることができると少しでも考えていれば、自分を納得させられて、同じ日を繰り返すこともなかったんですよ」
「ということは、同じ日を繰り返すか繰り返さないかということは、どれだけ固執せずにすまされるかということに掛かっているんでしょうか?」
「紙一重ということでしょうね。私はその紙一重の薄い方を選択してしまったことで、同じ日を繰り返すという道に入り込んでしまった。それを救ってくれたのが、星野教授だったんですよ」
ここで星野教授の名前が出てくるとは、まったく考えてもいなかった。
「若い頃の星野教授は、あなたにどのような影響を与えたというのでしょうね? それにもう一つ気になるのは、同じ日を繰り返しているという理屈が、さっき麻紀さんが話してくれたような理屈であるとすれば、他にももっとたくさん、同じ日を繰り返している人がいてもいいような気がするんですが」
というと、
「同じ日を繰り返している人はもちろん他にもたくさんいます。でも、そのことを人に言ってしまうと、二度とその世界から抜けられないと思ってしまうんでしょうね。余計なことをしないように考えるのは、それだけ人間が臆病な動物だということなんだって思います」
という麻紀の返事が返ってきた。
「まるで、そばに同じことを考えている人がいるにも関わらず、本当は目の前にいるはずの人の姿が見えてこないような感じではないですか? 同じ日を繰り返している相手も、きっと同じ日を繰り返しているのは自分だけなんだって思っているんでしょうね」
「そうかも知れませんね。でも、言葉にすることで自分を納得させられるのなら、それが一番だと思います。いくら人からどんなに蔑まれようとも、自分を納得させることができなければ、自分の存在価値なんてないんでしょうからね。どうしても人間は自分のことよりもまわりのことを先に考えてしまう。それをまるで美徳のように感じているんだから、勘違いも甚だしいと言えるのではないでしょうか?」
という麻紀の意見に、白石も賛成だった。
麻紀の話を聞いていると、言葉だけではなく、その話し方や仕草までもが星野教授に似ているのを感じた。話している内容も、
――星野教授なら、これくらいのことは言うだろう――
と思うようなことを、麻紀は話していたのだ。
「麻紀さんは、教授とはどんなご関係なんですか?」
と聞くと、
「私は、将来先生と結婚しようと思っています。先生もそのつもりでいてくれているんですが、今先生はご病気なので、それが治ってから、式を挙げようと思っているんですよ」
という話を聞いて、
――そういえば、教授は若い頃、病気だったと聞いたことがあった。確か、難しい病気で生き残れるかどうか微妙だと言われていたと言っていたっけ――
教授はあの時、苦笑いをしていた。
「先生は九死に一生を得たという感じでしょうか?」
「そう言ってしまえばそうかも知れないね。でも助かるべくして助かったんだよ。僕にはその時救世主がいたんだ。その時のことは別れた妻が知っているだけなのだが、今思い出しても不思議なんだよ。今僕が研究している薬品の元が、あの時、僕を助けてくれた薬になるんだ」
「それを、先生は分かっていて、今研究しているんですか?」
「いや、最初は分からなかったんだよ」
「じゃあ、いつそのことが分かったんですか?」
「君がこの研究所に入ってきてからのことなんだよ。白石君の顔を見た時、僕は君を初めて見たわけではないと思ったんだ。ただ、それは漠然としてであり、何の脈絡もない発想なんだけどね」
と言って、不敵な笑みを浮かべていたが、その笑みの意味を白石はすぐに理解できなかった。
白石は、病室にいる教授に会おうかどうしようか迷っていた、手には大学にいる初老の星野教授から預かった資料があった。それをこの次元の若かりし教授に渡すというのは、無理なことなのだろうか?
白石は考えた。
――人間は過去に戻ることができても、過去の出来事を変えてはいけないという。だけど、これから自分が行おうとしている行動は、本当に行われることが真実で、行わないことが歴史を変えてしまうことにならないとは限らない。そう思うと、どちらが正しいのか、思案のしどころである――
と考えた。
時間の節目節目に限りない可能性があり、そのどれを選ぶかによって、未来が変わってしまう。しかし、自分がいた世界は一つなのだ。その時の選択がもし間違っていたとしても、その先で修正すれば、元に戻ることもあるだろう。
この考えはあまりにも無謀であるが、何をどうしていいか分からず、何もしないで躊躇っているよりはいいような気がした。
――人間、最後には辻褄が合うようになっているんだ――
と考えた。
それはタイムパラドックスの発想であり、自分が過去で行ったことで未来が変わってしまったのであれば、過去を変える未来の自分の存在を否定しなければいけない。しかし、実際に過去に向かう自分がいるのだから、未来は最初から、
――約束されていたもの――
ということになるだろう。
つまり、戸惑う必要などどこにもない。未来が変わってしまうのであれば、自分の存在も消えてしまう。そんなことにはならないだろう。
星野教授と麻紀が結婚して、将来麻衣が生まれることになる。どうして教授と麻紀が離婚してしまったのか分からないが、ひょっとすると、過去のこの時の何かが影響しているのかも知れない。
「いずれ時期がくれば離婚することになるだろう」
という思いを、二人が共有していたとすれば、教授の研究に何か関係があるのかも知れない。
白石は、教授の病室に入っていった。ちょうど麻紀はいなくて、教授は一人で本を読んでいた。
「星野先生」
声を掛けると、星野教授は最初きょとんとしていたが、すぐに笑顔になって、
「ああ、君か、やっと来てくれたんだね?」
と言って、表情は歓迎に溢れていた。
「どうして僕が来るのを分かっていたんです?」
「麻紀が教えてくれたんだよ。自分たちの娘が将来生まれるんだけど、その娘が僕を連れてくるというんだ。僕はまだ自分の娘を見たことがないんだけど、どうやら、麻紀にそっくりの女性のようだね」
「ええ、そうですね。ここに来る時に、娘さんにお会いしました。でも彼女は教授のことは何も言わず、ただ、自分は同じ日を繰り返しているというような話をしていたんですよ」
「そうだったんだね。私の娘がそんなことを言ったんだね。それはきっと、麻紀の遺伝子をそのまま受け継いだからなんだろうね。麻紀は時々、自分が同じ日を繰り返しているように思うことがあるって言っていたからね」
「ただ、僕にも同じような意識を感じたことが過去にもあった気がしたんです。さっき麻衣さんとお話したんですが、その時は気付かなかったのに、別れてからその思いが強くなりました」
「僕は研究の一部に、年を取らない研究をしていたんだよ。それを誰か実験台にしてみたいという衝動に駆られていたんだけど、その思いが麻紀に繋がったのか、麻紀がその薬を飲んでしまったんだよ。それが彼女の意志からなのか、誤って呑んでしまったものなのか分からない。何しろ麻紀はその薬を飲んだという意識がなかったからね」
「どうして教授の若かった頃の人と、同じ時間で会うことができたのかは分かりませんが、実に不思議に思いながらも、どこか納得がいく気がするんですよ」
「薬というのは副作用があるんですよ。実は未来の私は白石君に限らず、研究員の人間に対して、相手が知らない間に実験台として利用しているんだよ。それだけ自信があるからなんだけど、その理由が、今君が手にしている書類なんだ」
「これがですか?」
「ああ、その資料は、表向きの研究として、永遠の命を与える薬の開発過程が書かれている。その中で、自分の中での完結型として、自分に関わった人の過去を見ることができるというものがある。それは裏であり表でもあるんだよ。永遠の命なんて、本当はありえないんだからね」
「それはどういうことでですか?」
言いたいことは最初から分かっていたが、改めて聞いてみた。
「永遠の命というのは、ある意味神への冒涜なんだよ。人間には寿命が決まっていて、それが自然の摂理と結びついている。今までたくさんの学者が、不老不死の薬を開発しようとしたり、小説家が不老不死の薬を題材にした作品を著したりしているよね。でも永遠のテーマになっているのは、自然の摂理に逆らっているからなのさ」
「なるほど、分かりました」
「それで副作用というのは、これも本人完結型になるんだけど、過去を見ることができるようになったことで、同じ日を繰り返しているのを意識するようになるんだ。あくまでそれは副作用で、本当に同じ日を繰り返しているわけではない。その発想が麻衣の中にもあって、君にそのことを聞いてみたかったんだろうね」
「じゃあ、私が今、若かった頃の教授と一緒にいるのは、僕自身が作り出している虚空の世界だということになるんでしょうか?」
「そうだね。でもね、君だけが単独で見ているわけではない。君が見ている数十年前に相手をしている若かりし頃の僕も、同じ意識を持っていたんだよ」
「でも、教授はそんなことまったく口にしませんでしたよ」
「それは当たり前のことだよ。君にいきなりこんな話をして信じてもらえるかい? 信じてもらえないことを無理に信じ込ませるというのは愚の骨頂だよね」
「そうなんですね。年を取った自分が若い頃の自分に僕を通してことづてるというのは、どういうことなんでしょうね?」
「それは、これからこの時代で僕が研究しなければいけないことだからだよ。その助手として君がこの世界で僕と一緒に研究をすることになる。君はこの時代で生きていくことになり、いずれ今君がいた時代になると、きっと、君は自分がいつ頃あちらの世界からいなくなるのが分かっているので、そこから先は、麻衣と一緒に過ごしていくことになるんだよ」
「じゃあ、僕がこの世界で果たす役割は?」
「僕は、麻紀を実験台にしてしまったことで、彼女を幸せにすることができない。だから、将来離婚することになるんだけど、その時、君に麻紀を頼もうと思っている」
「そういえば、教授が離婚した奥さんは、離婚してからほとぼりが冷めた頃に結婚したって聞きました」
「それが、今の君の将来なのさ。もちろん、元々いた世界、そしてこの時代にも、君は存在している。だけど、今の君は分かっていても、向こうの君は分からない。本当なら接触してはいけないんだ。でも、これから僕が開発する薬を飲めば、君は元いた時代の君と接触しても構わない。君は、若い自分を自分だとは思わない。つまりは、この薬は、当たり前のことを当たり前にしか考えられなくなる薬なんだ。ただ、それはすべてに対してではない。自分が意識してしまいそうなことで、当たり前と考えていることに自動的に作用するようになっているんだ」
「あの資料の中には、教授の病気を治すための薬の設計図が入っているということでしょうか?」
「そうだね。それ以外にも君に飲ませるための薬も入っているんだ。もっとも、君に飲ませるための薬は、すでに君は服用しているだろう? そうじゃないと君は僕を見ることができないはずだからね」
「僕はどうすれば?」
「今は、この時代に馴染めていないようなので、もう少し時間が掛かる。実際に君のことが見えているのは、この世界にいる君と同じように未来から来た人だけなんだ。だから、麻衣には見えている。私が見えるのは、今のままでは未来がないと分かっているからなのかも知れないね」
「えっ、麻紀さんも見えていましたよ」
「あれは、本当は麻衣なんだ。麻紀が君と話をしようと思うと、麻衣になりきらないといけないので、きっと、麻衣になりきったんだろうね」
「どうして……」
「それは麻紀が僕の寿命が短いのを知っているからさ。だから僕を何とかしようとして、彼女も必死なんだよ。だから、君の存在が分かるんだね」
そんな話をしていると、麻紀が帰ってきた。
「誰とお話していたんですか_」
「いや、何でもないよ」
という会話が聞こえてきた。どうやら、二人は察していながら、話題にわざとしていないようだ。
白石は自分の手が薄くなって、保護色のように掠れていくのを感じた。
そして、さっきまでここを目指して歩いてきた田舎道、いつ着くか分からないと思いながら歩いていた時の不安を思い出しながら、麻衣の顔を思い出していた。
「白石さん……」
麻衣はそういって、ため息をついているのを感じた。
――もしあそこで出会わなければ、どうなっていたんだろう?
と、絶対に出会うことを前提として考えている自分が、副作用に覆われていると感じながら、姿が消えてしまった自分を探しに、麻衣がやってくるのを待っていた……。
( 完 )
田舎道のサナトリウム 森本 晃次 @kakku
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