第2話 繰り返し
白石は駅を降りてから、最初はどこかで食事を摂ってから向かおうと思ったのだが、食事をするところもなかった。その代わり、ひょっとしてこんなことになるのではないかという想像もしていたので、電車に乗る前にパンを一つ買っておいた。パン一つなので、昼食を摂ったとしてもおやつ感覚で食べることができると考えたのだ。
駅の中にあるちょっとした待合室のようなところでパンを食べると、時間も余ったことだし、歩いていくのもいいのではないかと思い、駅を出てみた。
駅前はロータリーのようになっていたが、バス停があるわけではない。タクシー乗り場もあるにはあるが、その時はちょうどタクシーが出払っていたのか、一台もいなかった。
――ひょっとすると、乗る人もいないので、事務所の駐車場に駐車しているだけなのかも知れないな――
と感じた。
普段なら、タクシー会社の事務所を探して、タクシーを頼むのだが、その日は時間が余ってしまったことで、歩いてみようと最初に考えたことで、タクシー会社を探すのが億劫になった。何となく、目的地に着くまでは、誰とも話をしたくないという思いもあったような気がした。
徒歩で行く場合、どう行けばいいのかという話はあらかじめ聞いていた。
「研究所までは歩いても三十分程度なので、歩いても行けるんだ。それに道は駅前から一直線なので迷うこともない」
と、助教授から聞いていた。
「分かりました。歩いていくことも視野に入れておきましょう」
と答えたが、駅前に着くと、急に歩いてみたくなったのも事実だった。
ひょっとするとタクシーがいたとしても、歩いていたかも知れない。その時はそんな気分だったのだ。
このあたりは都会に比べてどちらかといえば寒かった。別に山間というわけでもなく、海が近いというわけでもない。それなのに自分の暮らしていた場所に比べれば数度寒いのではないかと思えた。やはり都会の喧騒とした雰囲気と違って閑散とした風景を見ていると、同じように吹いてくる風でも、寒く感じるに違いない。
――これだけ涼しいなら、歩くにはちょうどいいのかも知れないな――
と思い、歩くことを決定した。
駅前のロータリーの向こうにはアーケードのない商店街があった。商店街と言っても数軒の店が並んでいるだけで、客がいないと本当に閑散として見える。本当なら、
――何て寂しいところに来てしまったのだろう?
と、まるで地の果てを見ているかのような大げさな気持ちに陥るくらいなのかも知れないが、その日はまた違った感覚を持っていた。
――こんなところで住みたいとは思わないが、逃げ出したいと思うほどのことはないな――
と感じたのだ。
駅前の商店街を見ていると、その奥にいる店主やその家族のことを考えてしまう。そして白石が他人のことを考える時は、決まってその人になりきらなければ考えることができない。
それは白石に限ったことではないのかも知れないが、その人になりきってしまうと、感情移入がハンパではなかった。普段から気になっている人がいれば、気が付けば感情移入をしてしまっている。それが学生時代の白石の欠点であり、ある意味長所だったのかも知れない。
白石本人は、子供の頃は人に感情移入することを長所だと思っていた。しかし、思春期を超えると、その思いがいつの間にか逆転していて、欠点だと思うようになっていた。その経緯を自分では分かっていないのだが、これも思春期の成せる業ではないかと思っている白石は、他にも思春期の自分が何を考えていたのか、思い出すことができないものはたくさんあった。
シャッターは閉じてはいないが、店は完全に開店休業状態であった。今までに田舎街に何度か行ったこともあり、逃げ出したいくらいの寂しさに苛まれたこともあったが、ここまで閑散としたところは見たことがないと思えるほどの風景に、どうして逃げ出したくならないのか、その時の心境を不思議に感じたと、ずっと考えていたのだった。
白石は自分が今まで感じたことのない心境だと思ったが、実際にはそんなことはなかった。感じたことがなかったのではなく、感じた心境をすぐに忘れてしまっていたからだ。本人は忘れてしまったために覚えていないが、その時々で、
――こんな感覚は初めてだ――
と感じていたのだった。
忘れてしまったことを思い出すことは今までにはなかったのだが、その時の白石は、
――前にも同じような感覚に陥ったことがあったような――
と感じた。
しかしそれは初めて感じるという思いとは矛盾しているということで、どうして自分がそんな矛盾した考えを抱いたのか、不思議だった。
白石は今までに、自分が矛盾だと思うような感覚を抱いたことは初めてではなかった。これまでにも何度かあったのだが、その都度、
――あまり深く考えないようにしよう――
と思っていた。
深く考えてもどうしようもないことを分かっていたからなのだが、下手な考えを起こしてしまうと、きっと考えが堂々巡りを繰り返し、抜けることができなくなることを自覚していたからに違いない。
――俺はいつも、堂々巡りを繰り返しながら考え事をしているような気がする――
と感じていた。
そしてそんな時に必要以上に考えないようにするようになったのは、考えすぎてロクなことがなかったからである。人からは、
「余計なことを言わないで」
と、相手の気を遣って言った言葉であっても、相手を傷つけてしまうことがあると、顔から火が出るほど恥かしく感じてしまう。言わなくてもいいことを言って、相手に余計なことと言われる。実に無駄なことであり、きっと恥かしさを感じたのは、自分が無駄なことをしたことへの戒めというよりは、
――本当は無駄だと分かっていたのかも知れない――
という、まるで確信犯である自分が人から戒められたことに対して、他人事のように感じる自分に余裕を感じないからではないだろうか。
白石はそんな自分を感じる時、
――自分のことに対して余計なことを考えないようにしないといけない――
と感じながら、どうしても気になって仕方のない思いに矛盾を感じながら、それでも、それを仕方のないこととして片づけないといけないように言い聞かせていたのだった。
――こんな商店街は、さっさと抜けてしまおう――
と、商店街を抜ける時は早歩きになった。
そして、決して後ろを振り向かないことを心に誓って、前だけを向いて歩き出す。
――まるで聖書の話のようだな――
白石が思い出していたのは、聖書に出てくる「ソドムの村」の話だった。
その話は、ある村は無法者が蔓延る無政府状態になっていた。暴行、略奪などが横行している中で、無秩序な状態が続き、それを見た神様が、善良な市民だけを連れて、街を出た。
神様は人間に変身して市民を誘導したが、街を離れていく間、
「決して後ろを振り返ってはいけない」
と、助け出した市民にそう語り掛けた。
市民はその意味が分からないまま、助かりたい一心なのか、それに従うしかなかったのだが、その理由を人間に化けた神様は何も言おうとはしない。
市民もそれに触れてはいけないと思ったのか、振り向かなかった。
しかし、安全なところまで市民を脱出させた後、自分たちが去った村で、轟音とともに、後ろを振り返っていないのに、閃光が走ったような気がして、気になった一人が後ろを振り向こうとした。
他の市民がそれを見て、
「ダメ」
と声を掛ける。
そして、振り返った人につられるように振り返る人もいたのだろう。彼らは一瞬にして石になってしまったのだ。
声を掛けた人が振り返ったのかどうか分からないが、振り返った人と振り返らなかった人とでは明暗がクッキリだった。
振り返った人がどのような心境だったのか、白石は考えてみたことがあった。
――いくら振り向いてはいけないと言われていても、自分が生まれ育った街が尋常ではなくなったのだから、振り返るのも無理はない――
そして、振り返らなかった人の心境も考えてみた。
――助かるには、犠牲にしなければいけないものもある――
ということを最初から自覚していたので、決して振り返らなかったのではないかと思えた。
では、神様の心境はどうだろう?
――自分たちが作った人間が、悪の道に走ったことで、その人たちを自らが滅ぼさなければいけなくなった――
という自責の念なのだろうか、それとも、
――人間が自分たちの意志に背いて、勝手な考えを持ったことを許せない――
と感じたのだろうか?
ただ、どちらにしても、神様というのは傲慢でわがままなのではないかと思えた。もちろんそれは人間が考えることで、人間にあるエゴが、神様という存在をどう考えるかで、発想も変わってくる。
本当に神様が存在し、人間を作ったのであれば、それも一つの考え方だろうが、それを信じられないとすれば、神という存在は、
――人間のエゴが作り出した存在だ――
と言えるのではないだろうか。
人間という存在を、
――神様が作ったものだ――
という理屈をつけて、悪に走る人間の存在を神様に押し付けて、責任転嫁しているとも考えられる。そういう意味では今よりも古代の方がさらに治安は悪く、秩序などあってないようなものだったのかも知れない。人類の歴史は時系列で発展していったものだと一概には言えないが、培われた事実があるのは紛れもないことである。それを思うと、
――人間一人一人は実に小さなものだ――
と言えるだろう。
石になってしまった人も、石になるのを免れた後ろを振り向かなかった人も同じ人間、どこに違いがあるというのか、その理由を神様に求めているのが聖書ではないかと白石は感じていた。
そんなことを考えながら、白石は前だけを見つめながら歩いてきた。
ふと後ろを振り向きたい衝動に駆られ、後ろを振り向いたが、その先には遠くの方に、先ほどの商店街が小さくなっているのが見えた。
――もうそんなに歩いたんだ――
前は相変わらず何かが見えてくるわけではないので、そんなに歩いたという意識はなかったのだが、振り返って分かるほどの距離とはかなりの差があった。
――石にならなくてよかった――
などとバカバカしい発想をしてしまったが、それほど、気持ちは「ソドムの村」の話を真剣に思い出していたのだ。
後ろを振り向いたのは一瞬だったのだが、再度前を振り向くと、
――あれ?
何となくさっきと違った風景に感じられた。
相変わらず何の変哲もない田舎道であるにもかかわらず、最初にじっと前を見つめながら歩いていた光景とどこかが違っていた。
――それほど、前ばかりに集中していたということなんだろうか?
とも思えたが、何か根拠があるわけではないが、先ほど見えていたものが見えなくなっていたり、見えなかったものが見えるようになったかのような錯覚に陥っているように思えた。
――錯覚なんだろうか?
錯覚であれば、錯覚だと思ってからすぐに、
――錯覚なんだから、すぐに心境も変わる――
と感じるのだろうが、そんなことはなかった。
白石はそう感じた原因を探しながら、歩みを止めることはなかった。本当なら、立ち止まってその場所で見なければ本当の比較にはならないのだろうが、その時の白石は自分の心境を比較では解決できないものだと感じた。歩きながら、つまりは行動しながら探ることしかできないと感じたからだった。
しかし、その原因を突き止めることはできなかった。ただ、
――どんなに歩いても、その場から離れられないような気がする――
という一抹の不安が襲ってくるのを感じていた。
立ち止まって比較することを許さなかったのは、この思いが強かったからに違いない。優先順位からすれば、その場から離れられないことの恐怖が一番強かったということなのだろう。
そのわりに、足取りは軽かった。むしろ軽すぎて空まわりをしているくらいに感じるほどだった。
歩くスピードは一定だった。元々歩くことが多い白石は、自分の歩くスピードをあまり気にしたことがなくとも、同じ道を同じ時間に出発すれば、到着する時間にほとんど誤差のないことは自覚していた。大学に電車通勤している白石は、いつもタイムカードを打刻する時間に、まったくの差がないことを分かっていた。今日もそのことを分かっていたので、歩くスピードが一定であることを自覚していることで、余計になかなか風景が変わらないことに苛立っていたのかも知れない。
太陽を背に歩いているので、背中が少し暑く感じた。風はそんなにあるわけではなく、穏やかな暖かさだった。
最初、駅に降り立った時は、
――都会より少し寒いような気がする――
と感じていたが、歩いているうちにいつの間にか気がつけば、背中が汗ばんでいるように感じられた。
歩いていると、普段感じない思いが浮かんでくる。
――何の変哲もない寂しいところを歩いていると、時間の感覚も距離の感覚もマヒしてくるようだ――
普段はもちろん、歩き慣れた道しかほとんど歩くことはないので、大体どれくらいの距離を歩けば、どれくらい時間が経ったのか、あるいは、どれくらいの時間でどこまでいけるかということは、ほぼ分かってくる。しかし、それを踏まえてみても田舎道のような何もないところを歩いていると思うだけで、時間や距離の感覚はマヒしてくるのだった。
白石は、何度も振り向いてみた。どれほど歩いたのか、振り向いたからと言って分かるわけではないが、最初に感じた、
――前を見て歩いていると、まったく前に進んだ気がしないのに、後ろを振り向くと、かなりの距離を歩いているんだ――
という思いがあったことで、後ろを振り向けば、前に進んでいるという自覚が持て、安心できるからだった。
ただ、何度後ろを振り向いても、歩いてきた距離に差がないような気がしてきて、次第に、
――本当に前に進んでいるのか?
という気持ちが現実のものとなってきているような気がしてきたのだ。
堂々巡りを繰り返しているという感覚を、
――怖いものだ――
と感じたのは、学生時代に読んだオカルト小説からだった。
元々、オカルトのような怖い小説を読むことはなかったのだが、SF小説は好きで読んでいた。その時に読んだ小説も、SF色の豊かな話で、作家自身がSF小説家で、その話もSF小説だと思って買ったのだった。
読み進んでいくうちに、
――オカルトのようだ――
と感じたが、すでに小説に入り込んでしまっていたので、途中でやめることはしなかった。
怖いと思いながらも引き込まれていく内容に、オカルト小説が自分にとって、食わず嫌いだったのではないかと感じるほどだった。
小説の内容は、一人の男性が同じ日を繰り返すというものだった。
午前零時になると、前の日と同じところに戻っている。最初は夢だと思った主人公も、一日を過ごしてみると、前の日と同じであることに愕然とするが、そのすべてを知っているだけに、ただ、何も考えずにその日をやり過ごした。
どうして抗うことをしなかったのかというと、下手に抗っても、結局同じ結果にしかならないと思ったからだ。自分がどこかの不思議な世界に入り込んだのだとすれば、下手に抗わないことを最初から分かっていたのだ。
主人公はそれだけ冷静だった。ひょっとすると、こんなことが起こるような予感があったのかも知れない。
彼は考えた。
――ひょっとすると、同じ日を繰り返しているのは自分だけではないのかも知れない――
この思いはかなり奇抜なものであるが、冷静に考えるなら、こう考える方が理にかなっているような気がした。
――同じ日を繰り返しているとしても、その人には自覚がない。最初から抗うことがなく、まるでロボットのように、前の日と同じ行動をするだけだ。ただ、そうなると、前の日と次の日では、同じ人間でも種類が違っているのかも知れない。同じ日を繰り返しているのではなく、別の次元が存在し、その次元自体が一日遅れているのだと思うと、同じ人間でも、違う次元に存在している自分がいるというだけのことではないか――
そう思うと、次元が違って同じ人間が存在するということは、ひょっとすると、同じ人間同士で、意識の共有が行われていると考えるのも無理のないことだ。
――違う次元を創造するのであれば、意識の共有も認めないわけにはいかない――
というのが、白石の考え方だった。
彼は科学者の端くれだ。科学で証明できないことは本当であれば信じるべきではないのだろうが、
「今は証明できないだけで、いずれ誰かが証明することになれば、今、バカバカしいと考えている人だって、手のひらを返して信じることになるんだからな。実に現金なものだよ」
と、科学で証明できないことに対しての話題の中で、出てきた意見があったが、
「まさにその通りだ」
と感心したのは白石だった。
彼もまったく同じ考えだった。
科学者というのは、まわりから堅物のように思われがちだが、実際には柔軟な考えを持っていなければ、新しいものを発見したり開発したりなどできるはずもない。科学者を堅物のように思っている人の中には、科学者に対しての妬みのようなものがあり、それこそ柔軟性のない「堅物」なのではないかと思っている科学者もいるだろう。
同じ日を繰り返していた主人公は、最初は、
――このままでもいいか――
と思っていた。
本当であれば、同じ日を繰り返すなど、人生の喜怒哀楽を放棄してしまったようで、ただ生きているだけのように思われるだろう。しかし、この主人公は、別のことを考えていた。
――同じ日を繰り返しながら、自分が少しずつ変えていくことにより、新しい明日ができあがるんじゃないか――
と考えた。
今日が終われば明日が来るというのは当たり前のことであるが、その明日というのが決まっていると誰が言えるだろうか?
明日への扉が開かれると、そこに存在しているはずの明日には、無限の可能性が秘められているのではないかと思っている。
つまり、
――今日という日は、明日のどの扉を開くかを決めるための日でもあるんだ――
という考え方である。
そのために、今日を何度も繰り返し、明日への扉の中から、自分の納得のいく扉を開くために、今日という日を繰り返しているという考え方である。
白石はそこまで考えてくると、
――今日から明日の扉を開くのが無意識な理由を理解した気がする――
と感じた。
今日という日は、明日への扉を開くための日でもあるという考え方で、明日が自分にとってどんな日になってほしいのかということを誰もが無意識に感じている。それは人間だけに与えられたものであり、そのために、人間は言葉などで他人と意志の疎通ができるのだ。
明日への扉は一度で開く時もあれば、何度も繰り返さなければ開けない時もある。それだけたくさんの可能性があり、その人が進む道を無意識に選択している。
それを本能というべきなのだろうが、その本能は、他の動物の持ち合わせているものとは種類が違っている。
今日を一緒に過ごしてきた人は無数にいる。二十四時間という限られた時間の中なので、当然関わる人も限られている。しかし、それでも一人や二人だけということはない。その人たちとは意識の共有が行われていることは間違いない。
しかし、一日が終わると、一度その意識はリセットされる。
明日をどんな一日にするかという選択を迫られるからだ。
その時、自分の希望通りの扉を開くことができなければ、もう一度同じ日を繰り返すことになる。当然無意識でなければいけないだろう。その時に自分と関わっている人の中には、明日への扉を開いて、すでに明日にいる人もいる。同じ日を繰り返す中で関わっている人は、昨日の人とは違っているのだ。
だから、人は皆、その時の意識が無意識でなければいけない。そこでいちいち疑問を感じていては、せっかくの探す明日を見つけることができなくなる。だから、同じ日を繰り返しているという事実を意識させないために、意識の共有は、別人であっても行わなければいけない。無意識でなければいけないのはそのためだ。
――では、なぜ主人公は、自分が同じ日を繰り返しているということを意識できたのであろうか?
その小説は、彼が同じ日を繰り返しながら、急に我に返ったと描いている。
主人公は、翌日には死ぬことが確定している人で、自分が同じ日を繰り返していることに気がついたのは、翌日の扉を開いた時、無意識の中で自分が死ぬ場面を見てしまったからだと描かれていた。
主人公は交通事故で死ぬことになるのだが、その光景があまりにもリアルだったのだ。何しろ、ただでさえむごたらしい死に方であるのに、それが自分であるのを見てしまえば、我に返るのも仕方のないことだ。
彼は、自分が同じ日を繰り返すのは、明日になれば、そこで命が途絶えてしまい、すべてがなくなってしまうことを自覚したからだ。
――死ぬのが怖い――
と、彼は感じた。
では、死というものの何が怖いのか、実際に考えてみた。
――苦しみなから死んでいくというリアルな現実が怖いのだろうか?
それとも、
――これから先の夢や希望がそこで終わってしまうのが怖いのだろうか?
主人公には、その時、ハッキリとした夢や希望などなかった。
――何となくあるような気がするんだけど漠然としている――
そういう意味では、夢や希望を途絶してしまうことが怖いという感覚ではなかった。
――やっぱり、リアルな苦痛が恐怖を呼ぶんだ――
と考えた。
小説を読み込んでくると、確かにオカルト小説としての恐怖を煽られているように思えたが、次第に小説の世界に入り込んでくると、自分が主人公になったようで、そう思うと不思議と恐怖を感じなくなっていた。
――オカルト小説って怖いものだと思っていたけど、それだけではないんじゃないだろうか?
と考えるようになっていた。
主人公の気持ちになりきって読み込んでみると、他のオカルト小説を読んでも怖くないと思えてきた。ただ、中途半端なオカルト小説は、主人公にのめり込むことができず、結局恐怖だけが残ってしまった。
テレビのオカルト番組は、さすがに恐怖しか覚えなかった。
元々、オカルト作品として映像化を目指しているので、映像にしてしまうと、主人公にのめり込むことができず、恐怖だけが煽られてしまうのだ。オカルト作品を恐怖ものとして自覚している人にはそれでもいいかも知れないが、白石のように
――想像力の賜物が小説なのだ――
と思っている人にとって、小説を映像化してしまうと、一番の醍醐味や作品に触れる趣旨が変わってしまい、
「しょせん、原作以上のものを作ることはできないんだ」
と思わせるのだろう。
映像化すると面白くないと思っている人は案外と多い。ただ、その理由を考える人はあまりいないのか、ほとんどの人がそのことで議論することはないように思えた。
もちろん、自分のまわりだけしか知らないのでそう思うだけなのかも知れないが、それでも白石が考えていることに類似した考えを持った人はあまりいないと思っていた。そんなことを考えながら歩いていると、自分が今いる場所がどこなのか、分からなくなりそうで怖かった。
――俺は今、研究所に向かって田舎道を歩いているんだ――
という自覚があったが、歩いている道が、本当に正しいのか疑問に感じられた。
「駅を降りてから、まっすぐの道なので、迷うはずはないよ」
と言われたが、子供の頃にそう言われて、一人でおばあちゃんの家に向かったことがあったが、その時、自分が信じられなくなったのを思い出していた。
あれは、まだ小学生の低学年の頃だったか、自分から、
「おばあちゃんのところに、一人で行ってみたい」
と言って、親に申告したことがあった。
親としての考えもあるだろう。
「そんな危ないことさせられないわよ」
と母親は言ったが、
「もうそろそろそれくらいしてもいいんじゃないか?」
という父親の鶴の一声で、おばあちゃんの家に行くことになった。
途中の道で、迷うことはなかったが、歩きながら恐怖を感じていた。その時に感じたのは、
――決して後ろを振り向いてはいけない――
というものだった。
その頃、「ソドムの村」の話を知ってはいなかったが、おとぎ話なので、
「決して見てはいけない」
という話が多いのは分かっていた。その思いが怖くて、一度も後ろを振り向かずおばあちゃんの家に着くことができた。
父親が後ろから隠れてついてきてくれていたのをもちろん本人は知らない。前だけしか見れなかったのは、自分の恐怖からだったが、父親としては、
「あいつはきっと後ろを振り返ることはない」
と思っていたようだった。
実はその時、白石は振り返りたくて仕方がなかった。振り返ることで、何かを発見できるという思いがあったのも事実だが、どうしても振り返ることができなかった。
最初はそれを、
――怖いからだ――
と思っていたが、実はそうではないような気が、今になってしてきた。
将来において、同じような経験をすることがあり、もし、その時に振り向いていれば、将来、同じような経験をした時、思い出すことができないと思ったのではないかと感じた。
実際に、今回同じような感覚に陥ったことでその時のことを思い出すことができたのだが、思い出すことが今の自分にどんな影響を与えるのか、まだ分からない。しかし、あの時、子供心に、
――将来思い出すために、振り向いてはいけないんだ――
と感じたことは事実で、振り向かなかったことをよかったと思っているのも事実である。
そう思うと、今回研究所への出張を自分に命じた教授と、昔の自分に何らかの因果関係があったのではないかと思えてきた。今日という日が偶然でないとすれば、これから向かう研究所で、どんなことが起こるというのか、こんな偶然、気持ち悪いというよりも、ワクワクしているといってもよかった。
元々は怖がりだったはずの白石なのだが、怖がりだという意識を持ちながら、以前であれば、怖くてできなかったことでも、ワクワクという感覚を持つことができるほどに変貌していた。それがいつ頃からのことなのかというと、意識としては教授と出会ってからではないかと思うようになっていた。
その教授から命じられた田舎の研究所への出張なのだが、一度も行ったこともない研究所がどんなところなのか、自分なりに想像してみた。
寂れた今にも潰れかけている、幽霊屋敷のような場所ではないかという印象が深かった。そこには、今まで自分が接したことのないような人たちがいて、「よそ者」である自分を見て、どんな顔をするのか、何となく分かるような気がする。そんな時に今度は自分がどんな顔をすればいいのか、そちらの方は想像がつかない。
きっと同じような怪訝な顔をしているのだろうが、まだ見ぬ相手に想像はできても、自分に当てはめることはできない。
自分に当てはめたくないと言った方が正解ではないだろうか。
――こんな連中と一緒にされたくない――
と思うことだろう。
後ろを振り向きたくないという理由の一つに、子供の頃、父親が黙ってついてきてくれたという思いが残っていて、そんな父親に感謝の気持ちがよみがえってくるのだが、今回は今まで自分に関係のなかった知らない人が後ろからついてきているのを想像してしまったのだ。
前だけを向いていると、ワクワクした気持ちになる反面、後ろは恐怖を感じさせるものであると思えた。前がワクワクするだけに、後ろの恐怖もハンパではないように思える。
しかし、後ろに気配を感じるようになるまでには、もう少し時間が掛かった。それでも振り向くことは許されない気がしていた。気がつけば早歩きになっていて、背中に滲む汗が、早歩きから来るものなのか、それとも後ろの圧迫感から来るものなのか、分かっていなかった。
少し歩いていくと、さっきまで誰ともすれ違うことのなかった道で、前から一人、誰かが歩いてくるのを感じた。その人の歩は、さほど早い気はしていなかったが、あっという間に近くまでやってきていた。
その人は真っ赤なワンピースに、白い帽子を被った二十歳代の女性だった。まわりの田園風景には似合わないその姿は、しばし見とれてしまうほどであった。見とれていると歩くスピードも自然とゆっくりになってきて、
――いつ、目が合うだろう?
という思いが次第に強くなってきた。
彼女は、白石のことに気付いていないのか、前だけを見て歩いていた。意識していれば、少しはこちらに視線を移すであろうと思っているのに、なかなかこちらに気付いてくれそうな雰囲気はなかった。
――わざとなんだろうか?
こちらを無視されているように思うと、意地でもこちらを意識させたいと思うものだ。熱い視線を浴びせるように、凝視していると、歩いているのに、立ち止まっているかのような錯覚に陥ってしまった。
「こんにちは」
すると、たった今まで視線をこちらに移すことすらしなかった彼女が急にこちらを向いて、挨拶してくれた。
――こっちをいつ向いたのだろう?
いつの間にかこちらを見ていたことに、まず驚かされた。
ふいをつかれて、ビックリした白石だったが、
「こんにちは」
気を取り直して返事をしたが、その挙動は、不審だったことだろう。
「このあたりの方ではございませんね?」
「ええ、この先の研究所に向かっています。そこにある研究所を保有している大学から来ました」
「そうなんですね。それはご苦労様です」
と言って頭を下げた彼女の雰囲気は、笑顔というわけでもないが、怪しげな人を見ているというような怪訝な表情でもない。
どちらかというと、無表情と言っていいかも知れない。
――無表情というのは、あからさまに怪訝な表情をされるよりも、冷たさを感じさせるものだ――
と、以前から感じていたが、今回の彼女に感じた冷たさから無表情だと感じさせられたことに何か不思議な感覚を覚えた。
「いいえ」
と、それ以上のことを口にできなかったのは、白石自身、金縛りに遭ったかのように感じたからだった。
その時には完全に歩みは止まっていた。彼女の方も歩みを止めて、身体を白石の方に向け、正対していた。
「私、あなたとどこかで会ったことがあるような気がするんです」
「えっ、僕とですか?」
「ええ、でも、会話をしたという記憶はないので、見かけたという記憶が残っているだけなのかも知れませんけど」
と、言って彼女は考え込んでいた。
白石も彼女を正面から凝視したが、言われてみれば、確かに見覚えがあるような気がした。
――いったい、どこで見たというのだろう?
意識としては、彼女の顔を見ている限り、その顔に覚えはない。
しかし、どこかに面影のようなものが残っていて、
――だいぶ前に見たのかも知れない――
と思い、学生時代から、もっと以前の子供の頃に遡ってまで、必死に思い出そうとしていたのだ。
記憶を遡って思い出すというのは、結構難しいことのように思えていたが、一つのことだけを探そうとして遡る場合は、案外と早く遡ることができる。それがどれほどの時間だったのかハッキリとはしないが、思ったよりも短時間で、学生時代のことを思い出していた。
しかも、過去に遡れば遡るほど、そのスピードは速くなってくる。同じ距離でも、近くであれば、それなりの距離に感じるが、その延長線上に、さらに同じ距離の何かを見つめていると、小さくなっていくものが、それほど距離を感じさせないで存在しているように思えるのだ。
それが、過去に遡って思い出すスピードに反映している。古くなればなるほど、記憶が曖昧なので、余計なことを思い出すことはないのではないかと感じていた。
「私ね。同じ日を繰り返しているように感じることがあるの」
「えっ」
白石が奇しくも先ほど思い出していた感覚ではないか。
白石がそのことを思い出したから、彼女が自分の前に現われたのではないかと思うのは突飛な発想だろうか?
元々、同じ日を繰り返しているなどという発想自体、突飛過ぎるくらいのものではないか。
「僕もさっき、以前に同じ日を繰り返しているという発想を思い浮かべたことがあったのを思い出していたんですよ。あなたも、同じような感覚になったことがあるということなんですか?」
「私は本当に、同じ日を繰り返していると思っているんです。今ここでこうやってあなたと話をしている自分が、明日もここであなたとお話をしているというイメージなんです」
「じゃあ、昨日はどうだったんです?」
「昨日は、あなたとお話をした意識はありません」
「じゃあ、今日初めてお話したということになる。あなたが明日も僕と話をするのであれば、僕も同じ世界にいることになるんでしょうか?」
「いいえ、私が明日話をするあなたは、今のあなたではないんです。もっというと、明日話をしている私も、きっと今の私ではないと思うんですよ」
「あなたのいう『明日』という言葉の意味が、普通一般に言われている『明日』という言葉とは違っているような気がします」
「確かにそうですね。『明日』という日が、本当に一日なのかどうか、私は疑問なんですよ。そもそも、ある日、私の頭の中で、『明日という日は、本当に来るんだろうか?』ということを感じてしまったんです。すると、やってきた『明日』に自信が持てなくなったんです。それが本当に今まで無意識ながら信じていた『明日』というものなのかどうかってですね」
彼女の話は難しかった。
しかし、時間をかければ理解できるような気がしたが、その時間自体、信じられるものなのかどうかということを考え始めると堂々巡りを繰り返してしまい、何を信じていいのか分からなくなってきた。
本当なら一番信じなければいけない自分が一番信じられなくなるという恐怖が襲ってくる。彼女を見かけた時、懐かしさを感じたのと同時に、何か胸騒ぎを感じたのを思い出した。
――これが胸騒ぎの正体だったのか?
と感じていた。
「私があなたを見かけたのは、電車の中だったような気がするんです。私が見かけたというよりも、あなたの視線を感じたことで、あなたを意識したと言った方がいいかも知れません」
と、彼女は言った。
「僕があなたを意識したということですか?」
都会の喧騒とした毎日の中で、通勤時間に乗る電車では、意識する相手もさまざまだ。
毎日、同じことを繰り返していることをマンネリ化というのだろうが、マンネリ化してしまった毎日に嫌悪している自分がいる反面、
――その日一日が、無難に過ぎればそれでいい――
とだけ考えている自分もいる。
要するに二重人格なのだろうが、それは、自分の中にたくさんの考えがあり、人格を形成している中で、どうしても相容れない性格が表に出る時、二つに見えてしまうのだろう。もちろん、二つに限ったことではなく、多重人格だという方が、理に適っているように思う。必ず二つ以下でなければいけないという方が、無理なのではないかと思うのだった。
しかも、一時で複数の人格があるのであれば、時間が増えれば増えるほど、人格も増えるのではないかと思うのは、優柔不断に思えるが本当にそうであろうか?
一人の人間の考えが一つでなければいけないという理由がどこにあるというのだろう?
確かに趣旨貫徹していないと、他人と関わることは難しいし、世の中を形成していくのは難しいだろう。しかし、世の中を形成するためだけに人は生きているわけではない。個性の積み重ねが世の中を活性化させていくという考えは乱暴なのであろうか?
二重人格というのは、世間一般的にあまりよくは言われていないが、それを偏見だと思うことが、その時の白石にはできたかも知れない。
白石は、彼女の雰囲気をずっと想像していた。
真っ赤なワンピースはいかにも目立つ雰囲気で、まわりとのアンバランスからも、余計に彼女を目立たせる。
しかし、逆に冷めた目で見ると、これほど冷めて見れるものもない。赤という色は、背景によって明るさを表現する場合もあれば、暗さを表現するものもある。特に血の色だと思うと、
――真っ赤な血潮が溢れている――
と思うと、明るく見えてきて、
――殺人現場のように血の海に沈んでいる死体――
など、思わず目を逸らしたくなるような惨劇に、これほど陰湿で暗いと思えるものもないだろう。
同じ色でも、シチュエーションやそれを感じる人、そして、同じ人間でもその時の精神状態によって、発想がいかようにも変わってくる。初めて彼女を見た時の白石がどんな視線を送ったのか、それによって彼女の正体が分かるだろう。
そして、もしこの時、彼女の正体を思い出すことができなければ、
――永遠に過去に出会った時のことを思い出すことはできないのではないか――
と感じるのだった。
電車の中で気になった女の子といえば、確かセーラー服を着た女の子だった。気になったのは、
――以前、どこかで見かけたような気がする――
と感じたからであり、今目の前にいるとは、雰囲気は違っていた。
セーラー服と、真っ赤なワンピースではその趣きは違いすぎている。しかし、電車の中で気になった女の子というと彼女だけだった。
彼女は、
――同じ日を繰り返している――
と言ったが、どういうことなのだろう?
話をしていると頭が混乱してきたが、自分の世界を作って考えれば、ひょっとすると何か共鳴できるところがあるかも知れない。
白石は同じ日を繰り返すことができればどうなるのか? 今までに考えたことがあった。同じ日を繰り返すことでのメリットやデメリット、考え始めるとキリがなくなってくる。堂々巡りを繰り返すとはこのことなのだろう。
メリットとすれば、同じ日を繰り返すことで、長く生きられるということだろうか。一度経験した一日なので、ひょっとするとうまく立ち回ることで運命を変えられると思えたのだ。
ただ、それ以外のメリットは考えられなかった。その代わり、浮かんでくるデメリットは結構あるような気がする。それも、一つのことから派生してのことなので、思いついていないことでも、その延長線上には、さらなるデメリットが隠されているのかも知れない。
同じ日を繰り返しているのが、自分だけであるということがすべてのネックになっている。
――今日これから起こることは、自分にとっては過去なんだ――
という発想である。
つまり、自分だけが知っていることで、自分によくないことが迫っていれば、それを回避する方法を知っていることになる。しかし、
――過去を変えてしまうことになる――
という思いがよぎり、歴史を変えてしまうことが未来において、どのような影響をもたらすのか、想像もつかない。
タイムパラドックスの発想である。
そういえば、彼女は白石を見たことがあると言った。それが電車の中であり、白石は気になった女の子を、見た覚えがあると思った。これはタイムパラドックスに反するものではないだろうか。
もちろん、まったくの別人なのかも知れないが、赤いワンピースの彼女を見ているうちに、彼女の言葉を無視できないような気がしてきた。
「あなたも同じ日を繰り返しているという意識を持ったことがあるのですか?」
と、彼女は白石に言った。
「いいえ、同じ日を繰り返しているという意識を持った記憶はありません。でも、夢を見ている時、今見ている夢を二度と見ることはできないと感じたことはあります」
話が飛躍しすぎているように思えたが、白石は彼女にそのことを言わなければいけないと感じた。
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものでしょう? どうしてだと思われますか?」
目が覚めるにしたがって忘れていくという感覚を持っている人は、白石だけではないかと思っていた。他の人は、夢に対して、「見た見ていない」というハッキリとしたものでしかないと思っていた。
しかし彼女はハッキリと、
「目が覚めるにしたがって」
と言う言葉を口にした。まるで白石の考えていることが目に見えているかのように感じられる。
「僕には分かりません」
何となく見えてはいるが、それを言葉にして表現するのを無理だと感じた白石は、余計なことを言わずに、分からないとだけ答えた。
「それは、忘れてしまったと思っている夢が、同じ日を繰り返した自分だからですよ。同じ日を繰り返しても、その次の日を迎えることができれば、その時には同じ日を繰り返したという記憶を削除しないといけないんでしょうね」
「どうしてですか?」
「ずっと同じ日を繰り返しているならいいのですが、前に進んでしまうと、同じ日を繰り返したことがその人にとって、トラウマとして残ってしまうからではないでしょうか? 私はいつもそう思っています。だから、同じ日を繰り返していると思っている時は、夢を見ないように、眠らないんですよ」
「えっ、でも眠らないと死んでしまうんじゃないんですか?」
「それは、思い込みです。眠ることで夢を見て、忘れてしまわなければいけないことが多いことから、人間は眠らなければいけないということになっているんです。そうは言っても、結局は眠ってしまうので、眠らないと死んでしまうということの検証は、できないんですけどね」
――驚いた。彼女は何という発想をするのだろう?
ただ、彼女の話を聞いていると、まんざらまったく信じられないことではないように思えてくるから不思議だ。それでも彼女の話を聞いて共感できる人というのは、ほんの少ししかいないに違いない。そのうちの一人が白石だということで、この出会いは本当に偶然で片付けられるものであろうか。
彼女は続けた。
「子供の頃にアニメで面白い話を見た覚えがあるんですよ」
「それはどんなお話なんですか?」
「本当に子供向けのアニメなんですが、そこで主人公が眠れないという状況になったんです。一種の不眠症なんでしょうね。そこで、まわりの人が、どうして眠れないのかということを調べようと、夜その人と一緒にいることにしたんです。その先どうなったと思います?」
「不眠症というのは、十数年前に問題になったことがあったような気がしますね。社会問題にまで発展したように思います」
白石が、ちょうど研究者の道を志そうと思っていた頃だった。ちょうどあの頃のアニメには、SFヒーローものとは別に、ミステリアスなSF小説もあり、視聴者に考えさせるものがあったりした。
子供心に科学の力を信仰する時期が誰にでも必ずあると白石は思っている。ただ、それが直線に伸びていくのは一部の人だけである。子供が公園で野球で遊んでいても、その中から真剣に将来を野球に掛けると思っている人がごく少数であることを考えれば、科学への道も同じことである。スポーツ選手のように科学者は目立つわけではないので、。余計にごく一部の人だけだと思われた。
白石が、彼女の質問をはぐらかしていると、彼女は白石が発想できないものだと考え、自らで答えた。
「実は、まわりの人は結局皆睡魔には勝てずに、眠ってしまっていたんです。だから起きているのは主人公だけ。でも、実際には主人公も眠っていたんです。しかも熟睡していて、その時に夢を見ていて、寝言で、『眠れない』と言っていたんですよ」
「要するに、不眠症になった夢を見ていたということですね?」
「ええ、そして、彼のまわりにいた人が皆眠ってしまったのも、その人の部屋には、睡魔を誘う空気が漂っていて、誰も検証できなかったんです。だから、誰もが主人公は不眠症であり、人間は眠らなくても大丈夫なんだという思いを抱くことになってしまったというお話ですね」
「子供番組にしては重たいですね」
「大人も楽しめるアニメではあったんですが、果たして大人が見て、正しく理解できるのか疑問ですね」
少し間があってから、彼女が続けた。
「私はそのアニメを後から思い出した時、不眠症の夢を見ていたということにもう一つの意味があるような気がしたんです」
「それはどういうことですか?」
「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだって、さっき私が言ったでしょう? それは、どうしても忘れなければいけないものがあるのか、それとも、忘れてしまったことに何かの真実があるのかではないかと思ったんです」
「ますます意味が分かりません」
少し言い方が冷たい感じになってしまったが、話しを聞きながら、引き込まれていく自分に気持ち悪さを感じたために、冷たい言い方になっていた。
「私はそこに、同じ日を繰り返しているという発想を組み込んで考えてみたんです。ひょっとすると、同じ日を繰り返しているのは特別な人だけではなく、誰にでもありえることなんじゃないかってですね」
「というのは?」
「誰もが、同じ日を繰り返しているという発想を聞くと、前に進むことのできない人生を焦りと苦悩で考えると思うんです。でも、それを意識しなければ、苦悩も焦りも知らずにやり過ごすことができる」
「でも、同じ日を繰り返すことをどうしてそんなに意識しなければいけないんですか?
別に知らぬが仏で、何も知らないことをいいことにしてしまえばいいような気がするんですが、違いますかね?」
「もちろん、今は誰も知らないんだから、知らないに越したことはないと言えなくもないんですが、知らなければいけない人、知っておいた方がいい人、それぞれいるんです。知らなければいけない人は、きっと自分で悟ることができる人だと思うんですが、知っておいた方がいい人というのは、なかなか自分で悟ることはできません。だから、こうやって誰かに教えてもらわなければいけないんですよ」
「じゃあ、僕は知っておいた方がいい人になるのかな?」
「そうですねね」
「ではあなたは、知らなければいけない人になるんですか?」
「ええ、そうです。そして私の役目は、あなたに知ってもらうために説明をすることなんですよ」
「そのためだけに、僕の前に現われたんですか?」
「それだけというわけではないんですが、これから迎えるあなたの人生に、私も関わることになるということでしょうか?」
「じゃあ、これからあなたは、私とずっと一緒にいてくれると思っていいんですか?」
「目の前にいるというわけではないですが、意識の片隅には必ずいることになると思います」
「それは心強いですね」
「ところで、あなたは私のこんな話を聞いて、怖くないんですか? 普通なら信じられない話を聞くと、怖く感じたり、夢を見ているんだと思い込もうとしたりするものだと思うんですが、今のあなたを見ていると、そんな感じは見受けられないんですが」
「それが不思議なことに、怖く感じないんですよ。今までの自分だったら怖いと思ったり、夢を見ていると思うのか、まるで他人事のように感じるんですが、今はそんなことはないんです。それよりも、何かこれから恐ろしいことが起こるような気が最初はしていたんですが、あなたと出会って、少し自分の運命がいい方に変わるような気がしています」
というと、彼女はニッコリと笑った。
最初見た彼女の冷酷にも感じられる無表情さは、すっかりと失せていた。彼女のニッコリとした笑顔は、電車の中で見た女の子の笑顔とは違うものに感じられた。
――やはり、電車の中の彼女とは違うんだ――
と感じると、電車の中で見た女の子が、誰に似ているか、思い出せたような気がした。
――確か、星野教授のお嬢さんに似ているような気がするな――
星野教授の娘は、今ちょうど高校生のはずだった。
白石は今までに二度ほどしか会ったことがなかったが、彼女の笑顔には癒しを感じていた。
実は星野教授は奥さんとは離婚していて、子供は星野教授が引き取った。奥さんと離婚したのは最近で、少しの間、教授は落ち込んでいたが、すぐに立ち直ると、今まで同様に研究に没頭していたのだ。
最近の教授を、白石は怖いと思っている。それは離婚が原因というだけではないように思うのは、研究に携わっているものにしか分からない何かを、教授は発散させているからではないだろうか。
教授を見ていると、
――血が通っていないように思う――
と感じるところが時々あった。
元々教授には、薬学以外にも心理学的なところで、その考え方に共感できるところがあったのだが、いつの間にかその思いが違う方向に向いてきているように感じられた。
教授が変わったと思える時があった。
「私は、何か重要な研究に成功しているような気がするのだ」
と言っていた時だった。
「それは何か根拠があるんですか?」
と聞くと、
「ない」
と、ハッキリと答えた。あまりにも即決すぎて、それ以上何もいえなくなってしまったのだが、今までの教授にはあった暖かな部分が消えていたのだ。
その頃から時々、何かを考えているのか、頭を抱えて苦しんでいるように見えることがあった。何かを思い出そうとして必死になっているのか、その焦りは後ろから見ていても分かるようだった。
――どこか情緒不安定な気がする――
そう思った時、何か背中に汗が滲んだ気がした。
――まさか先生は、自分で開発した薬を飲んだ?
自分が実験台になったのではないかという疑念を抱いたのだった。
そんな疑念を一瞬にして変える一言を、次の瞬間、彼女は語ることになる。
「あなたは、私のことを知っているようですね」
「ええ、もしかしてですが、あなたは星野教授の娘さんではないかと思っていますが、違いますか?」
「そういうあなたは、助手の方ですね。確かお会いしたことがあったように思います」
そういって、彼女は意味深にニヤリと微笑んだ。
その表情に怪しげな雰囲気を感じたが、すぐにその思いを顔に出してはいけないと感じ、思いとどまった。彼女にはその様子が手に取るように分かっていたのかも知れない。本当はその時、自分の気持ちを隠すようなことをしなければよかったのではないだろうか。
「覚えていてくれて光栄ですよ」
「私は、星野麻衣といいます。名前までは知らなかったでしょう?」
「ええ、実は教授が離婚されたことも、お嬢さんがおられたことも、知ったのは最近のことだったんです」
「そうだったんですね。あなたは人のプライベートなことにあまり関心を持つようなタイプではないように思えましたが、いかがですか?」
「おっしゃるとおりですね。僕はあまり人間の奥を見ることはしないようにしています。感情が入ってしまうと、研究員としてはあまりよくないような気がしているからなのかも知れません」
気がつけば、麻衣と二人で、研究所の方に向かって歩いていた。
「麻衣さんは、どこかに行かれようとしていたんじゃないんですか?」
「いえ、いいんですよ。気にしないでください」
他の人なら、気にするなと言われれば言われるほど気になってしまうものなのだろうが、白石はこの時、麻衣が自分と一緒に歩きだしたことを別に気にすることはなかった。
「僕はこれから教授に頼まれた研究所へ行くんですが、この道でいいんでしょうか?」
「いいですよ。私がご案内しましょう」
「ありがとうございます」
「ところでお名前くらい窺ってもよろしいかしら?」
自己紹介をしていなかったことを思い出し、
「これは失礼しました。私は星野教授の研究室で助手をしている白石といいます。まだ三十歳になったばかりなので、研究所では下っ端ですね」
「そうなんですか。それで父から『おつかい』を仰せつかったというところなのかな?」
「そうですね。実は私も、いつも研究所の中ばかりにいて、たまには表に出てみたいという思いはあったので、ちょうどよかったと思っています」
「でも、こんな片田舎に来る羽目になるとは思っていなかったでしょう?」
「ええ、田舎だとは聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした。歩きながら『本当に行きつけるんだろうか?』って思ってしまうほどです」
歩きながら話していると、最初に感じた、
――派手な雰囲気の女性――
というイメージが少しずつ変わっていった。
最初は、彼女が電車の中で見た女の子に似ているということと、教授の娘ということで、女子高生の雰囲気に清楚さを感じたが、そこから今度はその清楚さと会話自体に、
――私は何でも知っている――
というイメージが加わることで、妖艶な雰囲気が醸し出されてくるのを感じた。
こんなに一気にイメージがいろいろ変わる女性を見るのは初めてだった。確かに女性とあまり知り合ったことがなく、話をするのも緊張している白石なので、どうして自分がそこまで感じることができるのか、少し不思議だった。しかし、それも麻衣の雰囲気が自分の感性に働きかけることで、発想を豊かにしてくれているのではないかと思うと、自分でも納得のいく感覚になってくるのだった。
――そういえば、以前麻衣と会った時に、何となく大人しい女の子だとは思ったが、どこか気になるところがあったように思えたな――
と思えたが、彼女とどこで会ったのか、最初はすぐに思い出せなかった。
そこで、勇気を持って聞いて見ることにした。
「麻衣ちゃんは僕とどこで会ったんだっけ?」
「ふふふ、やっぱり覚えていらっしゃらないんですね。あれは二年くらい前だったかしら、私が父の研究室に行ったことがあったんですよ。あれは、まだ両親が離婚する前だったので、母に言われて、父の着替えを持っていったんです」
二年前というと、ちょうど研究が佳境に入っていた時で、研究所に泊まりこみということも珍しくもなかった。確かに言われてみると、その時に会ったような気がするが、感覚的にはもっと最近だったような気がしていた。
「そうか。もう二年も経っていたんだね」
としみじみと言うと、
「そうですよ。でも、白石さんは私とどこで会ったのか覚えていなかったことよりも、二年も経っていることの方が気になっているようですね。会った場所は思い出せるけど、二年も経っているという経過した時間に対しての感覚は、変えることができないということなんでしょうね」
「ええ、まさしくその通りです」
と言ってから、少し考えた。
二年という月日は、長いようで実は短かった。研究が佳境に差し掛かっていた頃から思えば、この二年間はあっという間だったくらいだ。それだけ何もなかったといえるのだろうが、考えてみれば、何もなかった期間というのは、
――一日一日はあっという間に過ぎてしまうけど、通して考えると、二年前はかなり時間が経っているように感じる――
と、今までは思っていた。
しかし、麻衣が現われて、
「二年前に会っています」
と言われてそれからの二年を考えると、確かに何もなかった二年間であり、かなり時間も経っていると思えるのだが、麻衣と会った時のその時だけを切り出して考えてみると、まるで昨日のことのようだった。
その日のことを思い出してみた。
前の日から、徹夜での研究。気がつけば夕方くらいになっていた。前の日から徹夜をしていると、夜が明けてからというのは、あっという間に過ぎてしまう。気がつけば昼になっていて、そのまま日が沈むのを感じるようになると、その頃には完全に時系列への感覚は失せてしまっているようだ。
麻衣が「陣中見舞い」に訪れたのはちょうどそれくらいの頃で、時系列以外の感覚もマヒしかけていた。
――こんな状態で研究を続けていても、効率悪いんじゃないか?
と感じられ、それを教授も感じたのか、
「今日は午後六時で皆上がろうじゃないか」
と声が掛かっていた。
ただ、それを言われたのは、麻衣がやってくる少し前で、日が沈みかけている時間だった。
――あまりに前から言われていれば、きっとこれくらいの時間には本当に緊張の糸が切れてしまって、せっかくの早く過ぎ去っている時間が、また元のスピードに戻ってしまうかも知れない――
と感じた。
――まだなのか?
と、時計ばかりを気にするようになり、効率の悪さに拍車を掛けることで、時間というものが研究を妨げることになる。
自分に関わることを言われると、緊張の糸が切れてしまうこともあるのだが、麻衣の出現は自分にとって良くも悪くもない状況なので、ただ環境を変えるという意味では時間の活性化にはなるだろう。
その時の麻衣は、今日最初に感じた麻衣と、そして、一緒に研究所に歩き出した時に感じた麻衣とでは、そのどちらとも雰囲気が違った。セーラー服を身に纏い、
――徹夜明けの意識が朦朧とした中での輝ける一輪の花――
それがその時の麻衣だったのだ。
しかし、今日目の前に現われた麻衣は、その時の面影などどこにもなかった。最初に思い出せなかったのも無理もないことで、そういう意味では電車の中で見た女子高生を意識していなければ、麻衣のことを思い出すこともなかっただろう。
ただ、今ここで高校時代の麻衣を思い出すことがプラスなのかマイナスなのか、白石には分からない。思い出したということに何か意味があるとすれば、それはこれから分かることではないだろうか。
「何かの出来事には、必ず意味がある」
というのは教授の口癖だったが、その話に関しては白石は同調しかねた。
――まったく無意味なことだってあるんじゃないか?
と考えたのは、いい悪いという概念を外せば、
――無駄という言葉の存在意義がなくなるんじゃないか?
という思いがあったからである。
それはまるで禅問答のようであり、
――出来事には必ず意味があるのは、無駄という言葉の存在意義を否定することになるーー
ということであり、矛盾していることにならないだろうか。
――マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる――
それこそ、矛盾を肯定する考え方ではないかと考えるようになっていた。
マイナスとプラスという考え方が、何となく不思議だということは小学生の頃から感じていた。
元々、算数が好きで、算数のことをいつも考えていたような少年だった白石は、同じ頃、考え方の矛盾について、漠然とした考えを持っていた。それがマイナスプラスの発想に行き着かなかったのは、中学に入り算数が数学になってからだった。
数学というのは、何でも公式に当て嵌めて答えを求めるもので、理論に裏付けられた公式を覚えることで、たいていの問題は解けてしまうということを、中学に入ると教えられる。
しかし、
――算数は想像力だ――
という考えを持ったことで、算数に興味を持ち、小学生のある時期には、
――数字で、何でも解決でき、自分を納得させる考えも生まれるのではないか――
と真剣に考えていたことがあった。
数字こそが科学であり、自然なものだと思っていた。数字は何と言っても規則的に並んでいるものだ。特に整数には規則性しかない。
だからこそ、いろいろな発想が生まれてくるというもので、数字への果てなき妄想も生まれてくるのではないかと思っていたのだ。
数学になると、白石は急に数字が嫌いになった。小学生の頃には、公式など知らないこともあり、数字の規則正しい配列があればこその法則を、自分で発見するのが好きだった。
放課後には担任の先生を捕まえて、自分が発見した法則を黒板に書き、先生に対して得意げに発表したものだったが、それを見て先生は苦笑いをしていた。
てっきり、
――先生の仕事の邪魔をしていたんだ。だから、苦笑いをしていたんだな――
と思っていたが、中学に入り数学に出会うと、それが間違いであることを悟った。
その時に発見し、満面に得意げな表情を浮かべていた内容が、数学ではいとも簡単に公式に代入するだけで答えが生まれることを教えられる。
公式を発見した人も、きっと得意げだったのだろうが、何といっても、最初に発見した人には、逆立ちしても適わないということを感じていた白石は、次第に数字に対して冷めてきた。
「あんなに算数が好きだったのに」
と友達からそういわれるほど、数学の点数は最悪だった。
――意地でも公式なんか覚えて溜まるものか――
という頑なな思いがあり、学問に対して憤りを感じてしまった時期だったのだ。
それが、どうしてまた学問に目覚めたのかというのは、正直ハッキリとはしない。あまりにも算数から数学への考え方の移行がセンセーショナルな形で崩れ去ったショックが大きすぎたのだろう。学問に対しての感覚がマヒしてしまっていた。
しかし、感覚がマヒするほどのショックを受けたのは、自分の中に創造する気持ちが強く、何もないところから生み出すことの素晴らしさを知っているという気持ちは、自分の中で何ものよりも強かったのだろう。
きっかけなどどうでもよかった。創造する気持ちを思い出すことさえできれば、学問がそもそも嫌いというわけではないので、スムーズに研究員の道を志すことができたのだろう。
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