田舎道のサナトリウム

森本 晃次

第1話 研究所

この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


「白石君。君に使いを頼みたいんだが」

「はい、いいですよ」

 白石と呼ばれた男は、今年三十歳になる、とある大学の薬学研究所の助手をしていた。彼に使いを頼んだ人は、この研究所の所長であり、大学の名誉教授である星野教授だ。星野教授の研究所には数名の助手がいるが、用を言いつける時はほとんどが白石助手であった。

 彼はこの研究所では一番の新米で、ただ、やる気と薬学に対しての知識は、年齢に相応するに余りあるほどであった。そんな白石助手を星野教授が重用するのは、当然のことであった。

 今年で五十五歳を迎える教授と、三十歳になる助手。

「教授の域に達するまでには、俺なんてまだまだだ」

 と言っている白石だったが、

「彼は、わしの若い頃によく似ているんだ。何と言っても、若い頃に会ったことがある人にソックリなんだ」

 と、飲み会などになると、よく言っていた。

「へえ、そうなんですか。光栄ですね。僕と教授とは運命の糸で結ばれていたのかも知れませんね」

 と白石が返すと、

「いやいや、男と結ばれていてもねぇ」

 と教授も酔った勢いで、饒舌だった。

 普段は無口な星野教授だったが、それに輪を掛けて無口なのは、白石助手だった。

「私はこれでも、若い頃には結構モテたものなんだよ」

 と教授が言うと、他の連中が面白がって、

「それはおいくつくらいのことですか?」

「あれは、三十代後半か、四十代前半というところかな?」

「結構、年齢が行ってからなんですね?」

「いやいや、そんなことはない。男は三十後半からが魅力を醸し出すというじゃないか。わしもその一人だと思って痛んだよ」

 教授は、若い頃から研究に没頭し始めると、まわりのことがまったく目に見えなくなるところがあった。まだ助手の頃から特にそうで、助教授、教授と上り詰めるうちに、次第に落ち着きや余裕を持つようになってきたのだ。そのせいもあって、三十代前半までは、女性に目が行くはずもなく、そんな教授を女性も気にするはずもなかった。当然、結婚もせず、

「俺は一人がいいんだ」

 と言っていた。

 友達と言っても、研究員の仲間くらいなので、プライベートな話ができる相手もいなかった。本音を打ち明ける相手もおらず、若いうちはそれでもよかったが、四十歳くらいになってから、初めて好きな人ができたと年齢を重ねてから口にするようになった。

 その人とはどうなったのか分からないが、結局結婚はしなかった。

「結婚なんて、別にしなくてもいいさ」

「女性っ気がないと寂しくないかい?」

 と人から言われても、

「そんなことはないよ。彼女と知り合ってから、少し甘い夢を見させてもらったけど、それだけで十分だ。彼女と知り合ったおかげで、今の俺はあるのであって、そのおかげで、孤独を寂しいとは思わなくなったんだ。そういう意味では彼女に感謝しているし、これでよかったんだって感じている」

 これが教授の話だった。

 四十歳頃、初めての恋をした教授は、それを夢か幻のように感じていた。

――これが最初で最後のチャンスなんだろうな――

 と感じていたのも確かなことだ。

 それだけに自分の人生の方向性が固まったのは、この時だったのだろう。ちょうどその頃に教授は研究に成功し、教授になった。運命の歯車が噛み合った瞬間だったのだろう。それ以降の教授は階段を着実に上っていき、今の名誉教授という地位を確立したのだ。

 教授の研究は、孤独の中にある寂しさから生まれたのかも知れない。それまで、自分の研究に自信を持っていながら、たまに襲ってくるいい知れぬ恐怖の正体が何なのか、分からないでいた。考えれば考えるほど、奥深く入り込み、まるで底なし沼に嵌ってしまったかのように感じたのだ。

――底なし沼に嵌ってしまうとどうなってしまうのだろう?

 やがて、顔がすべて埋まってしまって、呼吸もできず、必死にもがいている自分を思い浮かべる。呼吸が止まって死に至るまでの苦しみを、どのように想像すればいいのだろう?

 そんなものを想像できるはずもない。実際に死んだことがあるわけでもなく、死というものに対して、どうしても他人事に思ってしまう自分を感じる。それが死に対しての恐怖だとするならば、他人事だと思っていながらも、恐怖は抜けない。そんなことを考えていると、

――死ぬということの何が恐ろしいというのだろう?

 と感じてきた。

 死んでしまうと、楽になれると思っている。だから、それまでに襲ってくる苦痛が死に対しての恐怖だと思うのだ。他人事であれば、苦しみだして死に至るまでの時間は、それほどでもないように見えるが、実際に自分のこととして直面してしまうと、死に至るまでが、

――永遠に果てしなく感じられるのではないか――

 と感じ、それが恐怖の正体だと思うのは無理もないことだ。

 恐怖の正体とは、まず最初に感じるのは、目の前に見えていることである。

 なぜなら、恐怖というのは目に見えないものであるから、まずは正体を見極めるには、目に見えるものでなければならないと感じる。そう思うと、どうしても一番身近なものから発想していくのは当然のことであり、目の前にあるのは、

――死に直面した時に感じる苦痛だ――

 と感じるのだ。

 ただ、それは教授のように、自分を孤独だと思っている人が感じることなのだろう。生きていく上で、大切な人がいて、例えばそれが家族であり、自分の妻であったり子供であったりすると、恐怖という意味合いが変わってくる。

「妻や子供が悲しむ」

 であったり、

「もう家族と会えないなんて、ありえない」

 という思いが頭を巡って、その思いが苦痛よりも上回ってしまう人も少なくはないだろう。

 教授も、

「もし、わしが死んだとして悲しんでくれる人がいるとハッキリ分かっていれば、死に対して違う恐怖を感じるかも知れない」

 と思っていた。

 家族もいない教授にとって、家族というものがどういうものなのか分かっていないこともあって、自分が死んでも、本当に家族が悲しんでくれるかどうかすら、信じられないと思っていた。

 そんなことを口にすると、

「そこまで卑屈になる必要はないですよ。そんなことを思っていると、人生、面白くもなんともないですよ」

 と言われることだろう。

 しかし、教授は人生が面白くないとは思っていない。むしろ、一人でいる方が、まわりをいちいち気にしないですむので、気が楽だというものだ。

 寝ていて、急に足が攣ってしまうことが時々あったが、そんな時感じるのは、

――まわりに誰もいなくてよかった――

 という思いだった。

 まわりに誰かがいれば、きっと、

「大丈夫ですか?」

 と言って、余計な心配をするに違いない。

 教授はそんな時、一人にしてほしい。他の人から心配そうにされてしまうと、余計に痛みを感じてしまい、緊張からか、さらに足が攣ってしまって、二重の苦しみを味合わされてしまうように思うのだ。

――だから、わしは孤独がいいんだ――

 と思っていた。

――孤独というものは、寂しさと一緒に考えるから辛いんだ――

 と、教授は常々思っていた。

 孤独と寂しさを切り離してしまうと、一人でいることも案外寂しくないものだ。特に自分にはやるべきことがあるということを認識していれば、寂しさなんて自分にはありえないと思うことだろう。

 星野教授がそもそも薬学を志すようになったのが何からだったのかというと、子供の頃から身体が弱かったからだ。ただ、運動が不得意というわけではなく、むしろ身体さえ動けば運動神経はいい方だった。つまりは、病気のせいで思うように身体を動かすことができないというストレスとジレンマを抱えていたのだ。

 子供の頃の教授は、今と同じで無口だった。

――自分のことは、誰よりもよく分かっている――

 という自負があり、そのくせ自信過剰というわけではなかった。

 それよりも、自分のことが分かっているだけに、まわりに遠慮してしまい、一歩性って見ることで、無口な性格にしてしまった。

 遠慮がちな性格がよかったのか、子供の頃は一人でも寂しいと思わなかった。その感情が今も残っていて、孤独でも寂しくないと思うのだった。

 教授は病気というほどひどいものではなかった。喘息の一種なのだが、小児喘息のように、大人になると自然に治るものではなかった。

「これから君は、病気とうまく付き合っていくことを覚えていかなければいけないんだよ」

 と主治医に言われたが、それこそ他人事にしか聞こえなかった。

「じゃあ、僕の病気は治らないんですか?」

 と聞くと、

「絶対に治らないとは言っていないけど、治るとしても、いつ治るか分からない。だから君は病気を治ることを前提に考えるよりも、うまく付き合っていくことを考えた方がいいんだ。絶対に治るなんて確証もないことを、先生は自信を持って口にすることなんかできはしないんだ」

 と言った。

――医者にも治せないことがある――

 ということを、星野少年は思い知った。

 しかも、それが自分であると思うと、それを運命のいたずらと考えるか、少し悩むところであった。

――医者がダメなら、薬で治せばいいんだ――

 医者はその人の技量で、名医もいればヤブ医者もいる。しかし、薬は効力は同じである。ただ、それを使う人の身体に合っているかどうかというのだけが問題であり、副作用なども考えると、まだまだ当時の薬に信頼性は薄かったのかも知れない。

 今は医学も進歩していて、当時に比べれば、格段の信頼性であろう。その信頼性に貢献しているのは、紛れもなく教授であり、そういう意味では医学を志したのは間違いではなかった。

――わしの進む道に間違いはない――

 と、いつも心で唱えているのだが、口に出して言ってみたことはなかった。

 それは、教授にとっての謙遜ではない。教授はどうしても口にすることができなかったのだ。それが教授の性格を序実に現していて、このお話の根幹でもある。星野教授が今まで生きてきた人生を時々振り返ることがあったが、なぜかそのたびに、違った記憶がよみがえってくることをいつも不思議に感じていた。

――わしのこれまでの人生って、どれが本当だったんだろう?

 とそれぞれの記憶がよみがえった時に紐解いてみたりしたが、

――いつ思い出したことを紐解いても、結局は今の人生に繋がってくるんだな――

 と感じた。

 つまり、どんなに違った過去であれ、思い出す記憶のその先には、今という現実が広がっているのだ。

 それは、自分の意識が今を中心に回っているからなのかも知れないが、それだけではないような気がしていた。そのことを誰にも言うことができないでいると、気がつけばいつも一人で孤独だった。

――でも寂しくなんかないんだよな――

 そう感じると、教授は目の前に広がったことが、以前感じた、

――死への恐怖の正体――

 を思い起こさせる気がした。

 やはり、目先のことが一番であり、過去であっても、未来同様、目の前に見えていることよりも前を思い出そうとすると、夢でも見なければ思い出すことができないように感じるのだ。

 しかし、

――夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――

 というではないか。

 結局、未来も過去も、一足飛びに感じることができないということを証明しているのであった。

 あれは桜の季節も終わり、そろそろ暑くなり始める頃ではなかったか。ゴールデンウイークなどという時期も過ぎ、歩いていても、軽く汗を掻く程度だったと思う。教授に頼まれたお使いは初めてではなかったが、その日は最初から、何となくお使いを頼まれるような気がした白石助手だった。

「場所はどこなんですか?」

「ここから少し遠いところになるので、今日は一泊してくればいい。近くに温泉があるので、こちらから予約をしておこう」

「それはありがとうございます。で、何をどこに届ければいいんですか?」

 と聞くと、

「いや、届けるわけではなく、そこから研究資料をもらってきてほしいんだ。そこは、大学の施設ではないんだが、ここと同じ薬学の研究所があるんだ。そこの博士には私の方から連絡を入れておくので、君は何も考えることなく、それをもらってきてくれるだけでいいんだよ」

 と言われて、

――郵送してもらえばいいのでは?

 とも思ったが、相手に気を遣って、こちらから取りに行くようにしたということなのか、それとも、じかに取りにいくだけの貴重な資料なのか、そのどちらでもあるような気がした。

「車で行くには少しややこしいので、列車を使って行ってほしい。ローカル線の終着駅になるんだけど、そこからは少し歩くことになる。歩くのは大丈夫かい?」

「ええ、少々なら大丈夫です」

「かなりの田舎道なので、ゆっくりと歩けばいい。気分転換にはもってこいのところだからね」

「はい、分かりました」

 普段なら、疑問に思うようなお使いだったが、その日はほとんど疑問が湧いてくることはなかった。

 最初から分かっていたような気がしたからだろうか? 白石の中には、何か懐かしい感じがイメージされ、ワクワクしているというのが本音だった。

「ちょうど、研究も一段落したところだろうから、君が一番の適任なんだ。すまないが頼まれてくれ」

 教授からそういわれれば、断わる理由など見つからない。むしろ期待されていると思うと、ワクワクがドキドキに変わってくるようで楽しみだった。

 それに、気分転換というのも正解であり、一段落した研究も一人コツコツ積み重ねてきたという充実感を開放させるには気分転換は必須だったように思えたのだ。

「出発は明日でいいからね」

「分かりました」

 明日はまず研究室に出勤して、少しだけ事務処理をこなしてから出かけるようにした。二日ほど留守をするので、研究員に対して引継も必要だった。今まで出張することがあっても、ほとんどはチームでの出張だったので、引継の必要などなかったが、今回は一人だけの出張である。引継も必要だし、自分のいないチームを想像したことがなかったので、一抹の不安がないわけではなかった。しかし、それよりも一人で出かけることにドキドキしている気持ちが一番で、まるで子供のように心は躍っていた。

「それでは行ってまいります」

 と、深々と頭を下げると、

「行ってらっしゃい」

 と、気さくな返事が返ってきた。

 ドキドキしているのは自分だけだということをいまさらながらに思い知らされ、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。それでも、研究室を出ると、このまま帰宅するわけではないという気持ちは高ぶりに変わった。正面から差してくる日差しの眩しさが、この日は億劫ではなかった。大学の外に出ると、朝出勤したという感覚がなく、まるで休みの日のような錯覚を覚えるのだった。

「白石さん。宿の方は予約しておきましたので、温泉楽しんできてくださいね」

 と、庶務の女性がそう言って、一緒に出張費も渡してくれた。いつもは団体での出張なので、自分が直接受け取ることもなかった。これも新鮮な気がしたのだ。

 駅まで行って、目的地までの切符を購入する。時刻表を前もって見ていたので、電車に乗ってどれくらいで到着するのかは事前に調査済みだった。現在の時間が十時半であったが、当直は三時頃になる。終着駅と言ってもローカル線である。駅を降りてから、食事できるところがあるという保障はない。近くのコンビニで弁当を買って、電車に乗ることにした。

 途中までは特急を使っていくことになる。十二時までには着くのだが、それから乗り換えに十五分しかない。食事を摂っている時間はないと判断したのだ。

 特急列車は、定刻の十二時に到着し、ローカル線のホームまで行くと、ちょうど電車がホームに滑り込んでくるところだった。さすがに発車まで十五分もあると、ホームに待っている人はそれほどいなかった。待っている人の半分は学生で、それ以外の人はどうしても田舎臭く見えたのは偏見に違いなかった。

 ホームで待っている学生も素朴な感じがするといえば聞こえがいいが、どうしても田舎臭く感じる。そのくせどこか懐かしく感じるのはどうしてだろう?

 白石は、田舎で暮らしたことはなかった。子供の頃から父親の転勤の影響で、いろいろなところへ引っ越したが、田舎というイメージのところはなかった。

 父親は大企業の営業マン。支店も全国の県庁所在地を中心に主要都市にしかなかった。そのため、田舎には今まで縁がなかった。それだけに新鮮だと思ったが、懐かしさを感じるとは思ってもみなかった。

 新鮮さは不安を連れてくるものだと思っていた。田舎へのイメージは、

――自分が想像しているよりもかなりひどいのが現実だ――

 と考えていたが、実際に見たことがないので何とも言えなかった。

 もちろん、テレビでのドキュメンタリー番組だったりドラマなどで見ることはあるが、イメージだけで、実際に感じることができなければ、それは架空でしかないのだ。

「俺は、実際に自分で見て聞いて触ったものでなければ信じない」

 と言っていたやつがいたが、まさしくその通りだと思った。

 その時の言葉が頭から離れず、

――想像はあくまで想像でしかない――

 ということを裏付ける十分に説得力のあるものだった。

 列車に乗り込むと、昔懐かしい列車に垂直なクロスシートの座席だった。車窓を挟んで対面式のシートで、しかも、背もたれは垂直である。

――今頃こんな列車が走っているなんて――

 と感じたが、

――ディーゼルでないだけ、まだマシかも知れないな――

 と感じた。

 この路線は当然のことながら単線で、行き違い列車の待ち合わせを行う駅がいくつもある。これも当然のことだが、どちらかが遅延すると、行き違い列車の方も遅延することになり、どんどん遅れていき、ダイヤはめちゃくちゃになりかねないという危険を孕んでいた。

 しかし、実際にはローカル線で、それほど遅延したという話は聞いたことがない。それだけ列車の絶対本数が少ないのだ。朝晩は一時間に三本くらいで、昼間の時間帯は、一時間に一本あるかないかであった。

 だから白石もその日、それほど遅延することもなく定時の三時頃には着けるだろうと思っていたが、その日に限って、その予想は見事にはずれてしまったのだ。

 列車は定刻に発車した。

 ホームに滑り込んできた時、ほとんど乗客がいなかったのは、まだ発車までに時間があったからというわけではなく、実際に乗る人の姿もまばらだった。滑り込んできた車両は一両編成で、駅から発車した列車に乗り込んだ人は、全部で五人だけだったのだ。

 それも残りの四人は学生で、皆仲間のようだった。対面式のクロスシートを占領していたが、それ以外の座席は、白石が一人で占領しているだけだったのだ。

 その中の学生の一人をよく見ると、

――どこかで見たことがあるような気がするな――

 と感じた。

 学生は男二人と女二人で、仲良しグループというよりも、

――二組のカップル――

 という雰囲気に見えて仕方がなかった。

 白石が気になったのは、窓際に座っている女の子で、彼女に見覚えがあったのだ。

――どこで見たんだろう?

 学生時代を思い出してみたが、そんなに気になる女の子がいたという意識はない。

 白石は女の子に対して免疫があるわけではない。自分から話しかけることができるタイプではないし、相手に話しかけられても、話を続けられるほど話題性に富んでいるわけでもない。

 話題性がないというのは言い訳にすぎない。話しかけられるとドキドキしてしまって、何を話していいのか分からなくなり、パニックになってしまうだろう。呼吸困難になってしまうことも考えられた。そんな時、

「大丈夫?」

 と言って心配そうにこちらを覗きこんでくる女の子の顔はいつもシルエットだった。

 しかし、そのシルエットに、次第に半月状の白く浮き上がっているものが見える。最初はそれが何なのか分からなかったが、すぐにそれがニヤッと微笑んでいる口であることに気付くと、さらに過呼吸となり、意識が薄れてくるのを感じることだろう。

 完全に意識を失ってしまうまでには少し時間が掛かった。その間に白石は薄れ行く意識の中でいろいろなことを考えているようだ。

――考えていれば少しでも長く意識を保たせることができる――

 という思いがあるようなのだが、なぜ意識を田と足せなければいけないのか、自分でも不思議だった。

――このまま何も考えずに気を失ってしまった方が楽に決まっているのに――

 という意識は持っていた。

 後から考えても、同じことを考えるに違いない。むしろ白石の性格なら、百パーセント何も考えずに気を失う方を選ぶに違いなかった。

 それなのに、どうして意識を保たせようとしたのか、そのことを考えていた。しかし、考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返し、また同じところに発想が戻ってくる。そしてまた一周、また一周と繰り返すうちに、抜けられない運動を描いてしまっているかのように思えた。

――だから、俺には彼女ができないんだ――

 彼女がほしいという思いは、他の人に負けないほど持っているつもりだった。

――デートもしたい、甘い言葉の中でくすぐったい思いを抱きながら、架空の時間の中で戯れていたい――

 それを「妄想」というのだということは分かっている。妄想を抱くことをあまりよく言わない人もいるが、白石には、

――妄想こそ、果てしない発想に繋がるものだ――

 と感じていた。

 想像の発展系が妄想だと思っている。発想をリアルにしたのが妄想であり、発想を現実に近づけるには、妄想は避けて通ることのできない道だと考えると、妄想を悪く感じる必要などさらさらないと思っていた。

 しかし、妄想など、なかなかできるものではない。

 女の子を想像しても、そこには表情はなく、シルエットに浮かんだ顔であり、表情を思わせる唯一の表現は、ニヤッと笑った半月状の白く浮かんだ歯だけである。

 白石は、列車の中で見かけた女子高生に懐かしさを感じたのは。自分の妄想から感じた相手ではないと思った。懐かしさを感じたのは表情からであり、シルエットに浮かんだニヤッとした笑顔の不気味な女性ではありえないと思ったからだ。

――では、実際に知っている誰かだろうか?

 高校時代には、好きになりかかった女の子も何人かいた。

 白石は自分の好きなタイプの女の子というのは決まっておらず、範囲は他の人よりもかなり広いと思っていた。それだけに、好きになる人は数知れずだと思っていたが、実際に好きになる人に共通性はあるようだった。

 しかし、その共通性を分かるのは白石だけであり、他の人から見れば、

「お前は誰でもいいんだろう」

 と言われてしまうだろうと思っていた。

 実際に高校時代の男子の話題の中で、自分がどんな女性が好みなのかという話題になった時、

「お前は分かりにくいから、好きになった女性の名前を言ってみろ」

 と言われて、なぜかその時は素直に、数人のクラスメイトの女の子の名前を挙げた。

 すると、皆それぞれに口を揃えて、

「やっぱり、お前には共通性はないな」

 と言っていた。

「そんなことはないと思うけど」

 というと、

「どこがだよ。皆それぞれ似通ったところはまったくないじゃないか」

 と言われた。

「いやいや、性格的にだよ」

 というと、

「性格だって、外観や表情から滲み出るものさ。皆見ていて、バラバラじゃないか」

 と一人が言うと、他の人たちも一斉に頷いていた。

 それを見て白石は、

「そんなものなのか?」

 と納得したように小声で答えたが、それは、これ以上の会話は平行線を辿るだけで、結論が生まれるわけはないという思いからの妥協だった。

 じっと二組のカップルを気にしていると、時間が経つのも忘れてしまっていたようで、気がつけばもう半分近くまで来ていた。学生たちが列車から降りると、元々乗客が少なかった車内には、他に誰もいなくなっていた。

――貸し切り状態なんだ――

 と、いまさらなからに感じていたが、貸し切り列車状態になるのも初めてではなかった。

――あれは学生時代に一人で旅行した時のことだったな――

 学生時代には、結構一人で旅行に出かけた。特急列車に乗ることをせずに、各駅停車の旅を楽しむこともあり、ローカル線もいろいろ乗ったものだった。しかし、ここまで寂れた列車は久しぶりで、赤字路線廃止を推奨している鉄道会社でも、

――まだこんな路線が残っているのか――

 と思うほど寂れていた。

 いくら昼間の人の乗らない時間帯とはいえ、一両編成の列車など、第三セクターでなければないんじゃないかと思っていた。

 ここまではカップルの学生を気にしていたこともあって車窓を眺めることはなかったが、さすがに一両編成の列車だけあって、窓から見える風景は、普段見ることのできない、いかにも田舎風景だった。

 最初の方は海が見えていたような気がしていたが、次第に海から遠ざかり、山間に差し掛かってきているようだった。ただ、窓から見える光景は、まだまだ平野部が広がっていて、山が近づいてきているのが分かっていても、まだまだ終点までは遠いことを予感させた。

 じっと見ていても、見えてくるのは相変わらずの田園風景だけだった。何の変哲もない田園風景なのに、こちらが動いているだけで、ずっと見ていても飽きがこないように思えるのはどうしてだろう?

――列車の旅が、本当に好きなんだろうな――

 と感じた。

 学生の頃、似たような田園風景を見ながら、同じことを感じたのを思い出していた。

――まるで昨日のことのようだ――

 大学生に戻ったような気がしていた。

 大学時代というと、ずっと薬学の研究ばかりしていたという思い出しかなかったはずなのに、気分転換に出かけた一人旅は、あくまでも気分転換であって、戻ってきていつもの生活に戻れば、記憶から消えていると思っていた。しかし実際には記憶から消えていたわけではなく、思い出として記憶の奥に封印されていただけなのだろう。

「何かのきっかけで急に思い出すこともありますからね」

 記憶喪失に陥った人の記憶が戻るかどうか、そして戻るとすればいつ頃なのかという話を医者に聞いた患者の家族に対して、主治医が答える言葉で代表的な言葉を思い出していた。

 白石助手のまわりに記憶喪失に陥ったことのある人がいるわけではないが、

――誰も自分が記憶喪失になるなどと思いもしないんだ。それだけに、他人事のように聞いているけど、明日は我が身であり、それは自分にも起こりえることで、例外のないことなのだろう――

 と思っていた。

 白石助手は、最近、

――少し記憶力が落ちてきたような気がする――

 研究員としては、記憶の低下がどのように影響してくるのか分からないので、あまり気にしないようにしていた。実際に記憶が低下してきたと思うようになってからも、別にそのことで支障が現れたりはしていない。そういう意味では、

――考えすぎないようにした方がいいのかも知れない――

 と感じていた。

 研究している時は、楽しいと思っている。その証拠に集中できているからなのか、時間があっという間にすぎていた。それは一日があっという間に過ぎるという意味で、一週間、あるいは一ヶ月という単位では、一日一日の積み重ねよりも、結構長いような気がしていた。

 薬学の研究の中には、健忘症を治すものも含まれていた。年齢を重ねてから襲ってくる健忘症や認知症などのような症状を研究する班もあり、白石助手が所属している班とは直接的に関係はないが、

「薬学の研究というのは、分野が違っていても、追求すると同じところに行き着くというのがわしの持論だ」

 と、教授が言っていた。

 白石も、

――その通りだ――

 と思っていた。

 他の研究チームや、研究所の教授がどう思っているのかは分からないが、教授の意見は研究員の共通の意見でもあった。

 教授を慕う人が後を絶えないのは、教授の考え方の一つ一つが研究員の心をくすぐるようであったからだ。

「大学教授というと、どうしても堅物というイメージが強いんだけど、うちの教授はそんなことないよな」

「そうだよな。あまり研究員に気を遣ってくれているという表立った雰囲気はないけど、それだけにわざとらしさを感じさせないところが教授のいいところでもあって、好感が持てるというのはこういうことを言うんだろうな」

 という会話が、教授のいないところでの飲み会などで話されていた。

「そういえば、教授のことを悪くいう人、見たことないよ」

「もちろん、正面からいうやつはいないと思うけど、雰囲気で嫌っている人は分かると思うんだ。でも、教授のまわりにはそんな人っていないよな」

「まるで聖人君子だ」

 というと、一人冷静な見解の人もいた。

「確かに教授は誰にでも好かれるようだけど、それって却ってウソっぽく感じるのは俺だけなんだろうか? たくさんの人の意見があるんだから、少しくらいは悪いことを言う人がいてもいいと思うんだ。だからこそ、リアルに感じることができるんじゃないかな?」

 という意見をいう人もいた。

 冷静な意見であるが、信憑性はある。その男は皆から、

――天邪鬼――

 のように見られている、一種の変わり者だが、白石助手にはあながち嫌いなタイプには思えなかった。

 友達になりたいとは思わないが、彼の言葉を貴重な意見として受け取っていて、

――無視することの出来ない人だ――

 と思わせていた。

「研究というものは、正論だけを見ていたんじゃダメなんだ。反対意見にも耳を傾けるだけの気持ちがないといけない」

 と教授が講義で話をしたが、学生の一人が、

「それだけ、気持ちに余裕を持たなければいけないということですか?」

 と聞かれて、

「そうじゃない。反対意見の中にこそ、今まで自分が考えていたことの落とし穴があるかも知れないじゃないか。素直な目を持つためにも必要で、本当であれば見えていたはずのものが見えなくて、後で後悔したなんてことのないようにしないといけないからね」

 と教授は答えた。

 教授と言うのは、他の研究員に対して一種の壁を作っている。

――近づくことのできない結界のようなものがある――

 と、教授に対して感じたことがある。

 それはバリアのようなもので、見ることができない壁である。

 ただ壁と言っても、当たったら思わず、

「痛い」

 と声に出してしまうような衝撃は痛みがあるわけではない。

 何か障害物があるのは意識できるのだけれど、それが何であるのか分からない。近づいているはずなのに、近づくことのできないものへの意識はまるで、

――交わることのない平行線――

 を感じさせた。

 それが、教授と助手の間にある「結界」である。

――結界とは決して破ることのできない壁であり、意識できても、触ることのできないものだ――

 という意識が白石にはあったのだ。

 ただその結界を感じることができるのは教授だけなのか分からない。今感じている相手は教授だけなのだが、そのうちに他にも誰か感じることになるだろうということを、なぜかその時列車の中で感じた。

 他に乗客は誰もいないのにである。

 逆に他に乗客がいれば、教授に対して感じた思いを思い返すことはなかったかも知れないと思うことで、車窓から飛ぶように流れている光景に、目を奪われていた自分に気が付かなかったのかも知れない。

 車窓は、途中から山間を走り始めた。

――このまま山に入っていくんじゃないだろうか?

 と思っていたが、案外と早く山間を抜けた。

 どうやら、

――山をいくつか抜けて、未開の地に入り込んでしまったかのようだ――

 と感じていたようだ。

 さっきまでの車窓から見える風景の中に、人を見ることはできなかった。しかし、山間を抜けてまたしても平野部に差し掛かると、そこにはちらほら田んぼで野良仕事をしている人を見かけた。頭に手拭いを乗っけて、もんぺのような時代を感じさせる服を着て精を出している。今どきテレビの田舎訪問番組でも見ることのできないような光景に思えた。

――まるで数十年前の昭和の時代を見ているようだ――

 と、懐かしさを感じた。

 自分はまだ三十歳なので、昭和の風景を知っているはずもないのに、今感じている感覚が明らかに懐かしさであるということに違いないことを確信していることが不思議で仕方がなかった。

 確かにテレビ番組で昭和の時代の光景を見ることはあるが、

――懐かしい――

 と感じることはないはずだ。

 実際に見たわけではないのだから、それも当然のことで、まず目の前の光景をすぐに「昭和の時代だ」と感じることができたこと自体、不思議な感覚を覚えたのだ。

 列車はそろそろ終着駅に到着するようだった。それまでの時間を思い返すと、自分で感じていたよりもあっという間だった。そのくせ、最初に目を奪われていた高校生カップルを見たのはかなり前だったように思えたのだ。

――思い返して感じる時間と、実際に感じていた時間の積み重ねにズレが生じるのは、自分の意識の中に二つの人格が存在しているからなのかも知れない――

 と感じたことがあったが、今まさに白石はそのことを感じていた。

 乗ってきた電車にいた時間に対してなぜか

――もったいない――

 と感じたが、何がもったいないのかまでは分からない。

 それは過ぎ去った時間に関して今まで何も感じたことがないことへの後悔なのか、それとも今日だけの感覚なのか、それすら分かっていなかったのだ。

 車窓風景が少しずつ変わっていくのを感じた。それまでほとんどなかった住宅だったが、少し目立ってきた。そして何よりもさっきまで果てしない平野部が広がっているかと思っていたのに、気がつけば、あまり高いわけではないが一つの山が聳えているのが見えてきていた。

 山は単独で聳えていた。そのせいか、最初はあまり高くないと思った山だったが、近づいてくると、それほど低いわけでもないことが見て取れるのを感じた。

 今まで単独の山というと、学生時代にローカル線から見たぼた山が唯一記憶に残っているものだった。

 本当は今までに何度か単独の山を見ていたのかも知れないが、記憶の奥の封印が解かれたのは、大学時代に見たボタ山だけだったのだ。

 そのボタ山というのは、元々炭鉱の名残りであり、そんなに高くないのは、由来を聞いてからハッキリと確認できたように思えた。車窓からの風景だったので、どうしても錯覚を引き起こしてしまいそうで、自分の感覚が信じられないと思うのも無理もないことだった。

 今回の出張で見た山も、ボタ山に似ていた。しかし、感覚として残っている印象のボタ山とは違っていた。学生の頃に見たボタ山は、山肌がきれいな緑に覆われていて、まだらなところが一つもなかった。

 しかし、今回眼の前に聳えている山は、ところどころがまだらになっていて、より自然な雰囲気を醸し出していた。

――自然の山というのは、ああいうのをいうんだろうな――

 と、いまさらながらに感じていた。

 白石は、じっと山を見ていると、そこから目を離すことができなくなっていた。

――山が呼んでいる――

 というと、格好をつけているかのようだが、まさにそんな感覚がピッタリの山だった。

――あそこに、俺の目指す研究所があるんだろうな――

 田舎のひっそりとした研究所をイメージしてみると、

――裏に山が聳えているのもありではないか――

 とも感じられた。

 特に薬学の研究なのだから、新鮮な空気と、山に生えている無数の草木がすべて研究材料になっているのではないかと思うと、ドキドキしてくるのだった。

――研究者としての魂をくすぐられるようだ――

 と感じていた。

 白石は、車窓から見える風景を見ながら

――そういえば教授が以前話していたことがあったな――

 と、自分が回想に入りかけているのを感じた。

「私は薬学の研究を始めるきっかけになったのは、以前好きだった女の子が不治の病に罹っていて、それを自分ではどうすることもできないと感じたことだったんだ」

 教授が過去の自分の話をしてくれた最初の時のことだった。時期がいつだったのか思い出せないが、その話を聞いた時、

――教授はやっと俺に心を開いてくれたんだ――

 と感じた。

 教授は、白石が子供の頃から抱いていた「教授」という人種と、いかにも似通っていた。気難しいところがあり、何を考えているのか分からなくなることもしばしば。急に用事を申し付けたかと思うと、研究に集中していたからなのか、申し付けたということ自体を忘れてしまって、同じことを他の人にも頼むこともあったくらいだ。

 最初の頃は、

――わざとやっているんだ――

 とも感じたほどで、自分が嫌われているのではないかとさえ思った。

 しかし、教授の態度は自分にだけ向けられているものではなく、研究生皆が同じことを感じているようだった。

 研究員は教授の目が怖いのか、自分の抱えているストレスを誰にもぶつけることができずに、悶々としていた。それは白石も同じことで、誰もが内に籠もってしまったことで、皆が同じ思いを抱いているなど、誰も考えていなかったに違いない。

 そのくせ、研究はそこそこ進んでいた。それだけ優秀な人材が揃っているということなのか、それとも、そもそも研究というものが個人の技量によるところが強く、団結は二の次なのかも知れないとも感じた。

「白石さんは、教授と個人的にお話されたことってありますか?」

 研究室に入って二年が経った後輩から、そういって悩みを打ち明けられたことがあった。もちろん、今まで誰からもそんな悩みを打ち明けられたこともなかったし、彼の方としても、

「こんな悩みを打ち明けることができるのは、白石さんだけなんですよ」

 と言っていた。

 実際には、その人が白石を選んだだけで、白石の知らないところでは、他の後輩が特定の先輩に悩みを打ち明けるということはあったようだ。水面下で研究員の間の仲が静かに形成されていったのであろうが、静か過ぎて何も起こらないので、不気味な雰囲気なのだろう。

 もし、他の第三者が見れば、この研究室は実に異様に感じられるに違いない。

「白石さんは、この研究室の雰囲気をどう思います?」

 と聞かれて、

「それはどういう意味でだい? 他の研究室と比べてという意味なのか、それとも世間一般の会社などの雰囲気に比べてということなのかい?」

「そこまでは僕もハッキリとは考えていませんでしたが、少なくとも、ここは他の会社の雰囲気とは異様さが際立っているような気がするんですよ」

 その男性は、元々大学を卒業して、大企業の研究班に所属していた。彼にとってそこは居心地のよくないところだったようで、彼が話してくれた内容から判断して、どうやら彼が入った企業には、学閥があるようだ。実際に、この大学出身者はその時の新卒者では彼だけだったようだ。

「結構露骨だったんですよ」

「学閥がかい?」

「ええ、その時、研究班を仕切っていた人は、ハッキリとモノをいう人で、僕に対して大学の批判やよそ者意識をハッキリと口にされて、僕は何も言い返せませんでした」

「それは辛かったね」

「ええ、何が辛かったのかと言って、その人がモノをハッキリと言っているのに、それに対して何も言い返せない自分が悔しかったんです。そんな辛い思いをこれからもずっとしていくのかと思うと、僕はいたたまれなくなりました」

「それが、会社を辞めた理由なんだね?」

「ええ、そうです。僕の他にも結構辞める人が多かったんですが、彼らがどういう理由で会社を辞める気になったのか分からないんですが、彼らも自分では気付いていない人もいるかも知れませんが、自分に悔しさをぶつけようとして、やり場のない思いを消化することができずに辞めていくんじゃないのかなって感じました」

「それはあるかも知れないね」

 白石助手は大学を卒業し、そのまま大学院を経て、研究室に入った。

 いわゆる「生え抜き」と言っていいのかも知れないが、同じような生え抜きも少なくはないが、他から入ってきた人も結構いる。

 そんな人の半分には、研究所の方からスカウトしてきた人も結構いたりする。彼のように不満から辞めてしまった人をピックアップして、勧誘するということもあった。

 中には、現役の人をヘッドハンティングしてくる場合もあるようだ。研究室のメンバーにはそれだけの時間があるわけではないので、ヘッドハンティングのピックアップから勧誘までを担う部署もあるようだ。そういう意味ではここの研究所は、大学ぐるみで力を入れているところのようだ。

 一応国立大学ということで、国からのお金も補助金としてあるようだ。そのためには、成果が必要で、成果を示すために人材が必要である。

 人材確保は成果達成への一番の必須項目で、そこに掛かるお金には糸目をつけないというのが大学側の考え方だった。そういう意味では研究員に対しての待遇も悪くはなく、その代わり、成果を求められるというシビアな部分もあった。やる気のある研究員にとっては、これ以上の気概はなく、

「ここが俺の天職だ」

 と思って研究している人も少なくないに違いない。

 白石は自分の子供の頃を思い出していた。友達と遊ぶということもあまりなく、協調性には欠ける子供だった。そのせいもあり、小学生の頃は成績は最悪で、今から思えば、

――研究室で薬の研究をしているなんて信じられない――

 と思うほどだった。

 白石は性格的に、

――自分の納得のいかないことは、信じられない――

 と思う方だった。

 その思いがあることで、算数の一番最初で躓いたのだ。

「一足す一は二」

 という誰でも分かることであり、誰も疑問に感じないことに対して、疑問を抱いた。

「その理屈、分からない」

 と感じると、そこから先が進まない。

 算数の基礎の基礎というのは、理屈ではなく、

「そういうものだ」

 として頭に入れておくだけでいいはずだった。

 それが中学では公式というものになり、結局、算数にしても数学にしても、最初の段階で疑問を持ってしまうと、そこから先は何もないのだ。

 基礎からの発展が算数という学問である。最初を踏まえてすべてがその発展系になるので、最初に疑問を持ってしまうと、すべてが疑問から離れることはなくなってしまう。

 だから、算数の授業は聞いていても何を言っているのかサッパリ分からなかった。

 だが、不思議なもので、三年生になった頃だっただろうか。何がきっかけだったのか分からないが、唯一納得できた算数の理屈があった。それを理解することで、

「一足す一は二」

 を乗り越えることができた。

 三年分の理解できなかったことを一瞬にして理解できた自分がまるで神童であるかのように思うと、今度はそこからハイスピードで理解することができるようになり、いつの間にか、算数だけは天才的な進歩を示したのだ。

 算数ができてくると、他の教科もできるようになるから不思議だ。

「連鎖反応のようなものがあるのかも知れないな」

 と担任の先生は言っていたが、

――そんな単純なものではない――

 と白石は感じていた。

 連鎖反応で片付けてしまえるほど、噛み合った歯車というのは、簡単な動きをしていなかった。

 複雑な動きをしているにも関わらず、それを単純な流れだと思っているのは当の本人である白石だった。

――こんな簡単なことが理解できなかったんだ――

 と思うと、どんどん理解できている自分が怖くなるほどだった。

 しかし、その怖さは決して自分を追い詰めるものではない。増長させないような戒めを込めた意味で怖さと言っているだけだった。

 白石が薬学を志すようになったのは、実は不純な理由からだった。

 中学高校と成績はトップクラスで、将来を約束されたくらいにまわりからは見られていた。そういう意味では、彼の未来は末広がりに広がっている。どの道を目指そうとも、それを妨げるものはないように思えた。

 高校でも特待生として、先生からもちやほやされ、本当であれば、他の連中からも妬まれたりするものなのだろうが、幸か不幸か、彼に対して妬みを持つ人はほとんどいなかった。

 中学生の頃に異性に興味を持ち始めていたが、

――俺はまわりの連中とは違うんだ――

 という優越感に浸っていた時期であったこともあってか、自分が女性に興味を持っているということを悟られるのが嫌だった。

 優越感を持っていても、まわりからはそれほど悪く思われているわけではないというのは、きっと彼の役得なのだろう。

 別にまわりから慕われているわけでもない。慕われているのであれば優越感を持つこともないだろうし、優越感を感じさせる相手を慕うということはないに違いないからだ。

 中学時代から、仲間内にグループがハッキリしていた。

 白石はそのどこにも所属しているわけではない。それだけにいろいろな人が白石に相談に来たことがあった。

 相談というよりも、勉強に関してのことであり、

「僕が相談に来たことは、他の誰にも言わないでほしい」

 と、誰もが口にした言葉だった。

「どうしてなんだい?」

 と聞くと、

「恥ずかしいじゃないか」

 というのも、誰もが口にする言葉だった。

 まるで班で押したようなセリフしか返ってこないので、白石は誰にも話さないでほしいと言われて、

「うん」

 と答えるだけで、それ以上何も返事をすることはなかった。

 高校生になると、自分が異性に興味を持ち始めたことの訳が分かってきた。中学時代までは、思春期などという言葉は知っていても、それが今自分に起こっている異変だということに気付かなかった。

 気付かなかったというよりも、気付こうと言う意志がなかったのだ。それはまるで、

「一足す一は二」

 という理屈が分からなかった小学生の頃と似ている。

 つまりは、理解しようとしているつもりで、

――納得のいかないことは、自分の中で否定しているのだ――

 という無意識の思いを反映していた。

――俺はまた小学生に戻ってしまっていたんだろうか?

 と感じたが、高校生になってから思春期を受け入れられるようになると、小学生の頃と今とでは明らかに違っていると思うようになった。

 それが成長というものであり、それをもたらしたのが思春期だと思うと、実に皮肉なものである。思春期という言葉を、どこか他人事のように感じていた自分がいたことに気付くと、

――俺は結局、何かの歯車の上に乗っかっているだけなんじゃないだろうか?

 という思いに駆られ、一抹の不安を抱くことにもなったが、それはそれで理屈として納得のいくことであれば、歯車の上であっても、別にそれは問題ないと思っている。

「個人というのは、社会の歯車のひとつに過ぎないものだからね」

 という理念を持っている先生もいて、その理屈に一定の理解を示しているつもりだった。

――歯車であっても役に立っていればそれでいい――

 という考えが表に出てはいたが、

――何か人と違っているところがないと、生きていても面白くないじゃないか――

 という思いも抱いていた。

 歯車であってもいいという思いをずっと抱いていると、自分の中でストレスが溜まってくるのを感じた。

――別にそれでいいと納得しているはずなのに――

 という思いと、

――人と違っている方が面白いに違いない――

 という思いは、交わることのない平行線を思わせ、これ以上突き進んでしまうと、

――これ以上は何も考えられない――

 というところに行き着くまで、考えることをやめないような気がして、それが恐ろしかったのだ。

 そんなことを考えながら白石は教授の下で研究に勤しむようになったのだが、なかなか教授は白石に心を開こうとしなかった。さすがに大学教授というと気難しいところがあるのは最初から分かっていたので、それほど驚きはしなかったが、

――そのうちに心を開いてくれる――

 と信じて教授に従うことにした。

 気難しいところは確かにあるが、職人と呼ばれている人のようなことはないと思っていた。

 白石が感じている職人と呼ばれる人たちは、修行中の職人に対して、自分がされてきたことをしてしまう傾向にあると思っていた。それはまるで大学の体育会系のように、「苛め」に近いものがあるのだと思っていた。

「鍛えられて強くなる」

 という発想が最優先で、相手がどんな人間なのかというのは二の次だと思っている。

「それに耐えられないのであれば、その人はそこまでの人なんだ」

 という意味なのであろうが、白石から見れば、それこそ、

――職人気質の人間でなければ職人にはなれない――

 という発想である。

 しかし、そうなってしまうと昔ながらの人ばかりになってしまい、時代の流れにおいて行かれるのではないだろうか。長い目で見れば、いや、冷静に表から見れば、それは閉鎖的な世界であり、世間がどこまで受け入れてくれるか、不思議だった。

 職人が重用されている時代であればそれでもいいのだろうが、どんどんオートメーション化されている時代の中で、職人がどこまで生き残れるかということになると、一部の人間だけであろう。そうなった時、職人気質だけでか備わっていない人には、どこまで社会に対して順応できるかということを考えると、とても生き残っていけるはずはないと思えるのだった。

 その点、研究者は違う。

 職人のように、その人の感性や勘のようなものに頼っているわけではなく、薬学であれば、

「開発した薬で、今までは助からなかった人を一人でもたくさん救いたい」

 という思いを念頭に続ける研究が最優先で、そこに自らの独自の発想を感性として交えながら、研究を続けていくのが、スタンダードな姿勢であろう。

 つまり、職人気質のように、自分たちの流儀を絶対だと思い、他の発想をすべてシャットアウトしてしまうような発想は、学者にはいらないのである。

 もちろん、これは白石の勝手な妄想であり、職人であっても、自分たち本位なだけではない人もいるかも知れない。

 ただ、白石にとっての職人というのは、やはり「気質」と呼ばれるような頑固なところのある人であってほしいという思いもある。

 そんな矛盾した思いを持っていると、おのずと自分たちの世界も、

――職人たちと同じように、矛盾を孕んでいるのではないだろうか?

 と思うようになってきた。

 実際に矛盾を考えていれば、いくらでもあるような気がしていた。

 表から見ていて見える人には見えるであろう矛盾とは違っているものではないかと思うのだが、中に入ってしまうと、その矛盾を見逃しがちになってしまう。

 それは、職人が矛盾を感じることなく、自分たちの信じた「気質」だけを信じて前だけを見て進んでいるのと同じに見えるからで、実際に見えている職人たちの行動は、時々だが、

――本当に気質だけなんだろうか?

 と感じることがあった。

 ひょっとするとこの発想は、自分が研究員だから感じることなのかも知れない。

――職人たちと自分たち研究員とでは、そもそもの出発点が違うんだ――

 と思っている。

 そう思うことで、見えていることも見えていないように思い込もうと無意識にしていることが、余計に職人を意識させているのかも知れない。

 白石は研究員になろうと思う前、職人になるかも知れないと考えたことがあった。

 高校時代のクラスメイトに、家が畳職人をしているやつがいた。時々遊びに行っていたが、その時見た、彼の父親の真剣そうな目を見た時、

――なんてすごい目をしているんだ――

 と感じた。

 しかし、同時にその人は完全な亭主関白で、息子にも容赦のないところがあった。白石が遊びに行っている時でもお構いなしに、奥さんに対して罵声を浴びせているところを見たことがあった。雇っている職人に対しての罵声は日常茶飯事で、

――そこまで怒鳴らなくても――

 と、人間的に疑問に感じることもあった。

 その時は、自分の中に矛盾を抱えていることに気付かなかった。ただ、疑問が払拭できないだけである。ただ、この矛盾が分からなかった時期というのは、彼の家から離れてから、彼の父親を思い出すと、浮かんでくる発想は、職人の目だけであった。

 人に罵声を浴びせている父親は、職人とは違うという発想が頭の中にこびりついているのだ。それはまるで父親が情緒不安定なのか、それとも二重人格なのかと考えるのが普通なのだろうが、白石の発想では、

――罵声を浴びせる人は、自分にとっての職人ではない――

 と思えた。

 ただ、それは友達の父親にだけ言えることであった。

 実際の白石の頭の中にある職人気質というのは、罵声を浴びせるような人の方が職人にふさわしいと思っていた。

 そこで考えたのは、

――自分だったらどうだろう?

 という思いだった。

 自分なら職人になったとしても、自分独自の気質を持つことができて、決して人に罵声を浴びせたりする旧来依然とした「職人気質」を持った職人になることはないのだと思った。

 だが、友達の家に行けば行くほど、職人に対しての気持ちが冷めてきた。それは、一瞬にしてピークを迎えてしまったことで、あとは気持ちが萎えていくだけという尖がった山をイメージさせるものだった。

――どうして職人になんか憧れたんだろう?

 と思ったが、それは錯覚だったといえばその一言で終わってしまうのだろうが、どうにも納得できない部分でもあった。

 後にも先にも、ここまでいきなり思いをピークに持って行ってしまったことで、あとは気持ちが冷めるだけになってしまうなどということはなかった。

――やっぱり俺は学者の道を志していればいいんだ――

 と感じた。

 ただ、職人と学者がこのことがあって、決して交わることのない平行線を描いていることに気付いたのだが、それは、限りなく交わるに等しいほど近い距離にいることをも示していた。少しずつ遠ざかっていくと、途中でその線が一本であるかのような錯覚に陥るが、さらにそれ以上離れると、今度はまた線が二本あることに気付く。つまりは一瞬だけ交わる部分が存在しているということであり、平行線ではないということを思わせたのだ。

――じゃあ、永遠に交わることのない平行線などという発想は、本当はありえないことなんじゃないだろうか?

 と思わせた。

 それが職人と学者の間で自分の中の錯覚を感じさせたのではないかと思うと、平行線という発想が本当に今後の自分を左右するのではないかと思えてならなかったのだ。

 学者を目指すようになって、薬学の星野教授と出会った。

 この出会いには、

――まるで身体に電流が走ったのではないか?

 と思えるほどのものがあった。

 それは、大げさに聞こえるが、そうではなかった。なぜなら、白石助手が教授を見た時に、

――この人とはどこかで会ったことがあるような気がする――

 と感じたからなのだが、どこで会ったのか、想像はできた。

 しかし、もう一つ疑問に感じたのは、

――出会った場所を想像はできるのだが、その場所に自分が行ったことはない――

 という思いだった。

 だが、次に感じたのはさらに不思議な感覚で、

――これから将来において、行くことになる場所ではないか――

 と感じた。

 それは錯覚なのだが、ただの錯覚だとして笑い飛ばして終わることのできないものだという思いが強かった。その思いはこれからも永遠に続くものだと思ったからで、もちろん四六時中感じているものではないのだが、忘れることのできないものとして、ひょっとすると自分の中のトラウマになって残ってしまうという思いを抱いていた。

 星野教授がそんな白石に心を開いてくれたのは、結構早い段階だった。

 それが払い段階だったのかどうだったのか、最初は分からなかったが、

「教授は白石君に心を開いたようだね」

 と、呑み会で先輩に言われたことからだった。

「そうなんですか?」

 と口では言ったが、教授が心を開いてくれているということは白石本人にも分かっていることだった。

「ええ、そうなんですよ。こんなに早く心を開くなんて、今までにはないことかも知れませんね」

 その時、研究員ではまだ白石が一番の下っ端だった。

「教授は、下に誰かが入ってこないと、その人に心を開くことは今までにはなかったんだよ」

 と言っていたが、

――ということは、教授が心を開くタイミングというのは、時間ではなく、その人の立場によって変わるということか?

 と感じた。

 もし、後輩が入ってこなければ、そのまま心を開いてもらえず、距離も縮まる気配などまったくなかったことだろう。しかし教授が自分のこだわりのようなものを捨てて、なぜ白石に心を開いたのか分からない。

「時間的にも早いんじゃないかな?」

 と先輩も言っていたが、その話を聞いたことで、教授が自分に心を開いてくれたと感じてから少しして、まわりの自分を見る目が少しずつ変わってくるのを感じた。

 その理由に関しては、すぐには分からなかったが、話をしてみると、

――なるほど――

 と感じさせられた。

――今まで心を開いていない相手に心を開くというのは勇気がいることだ――

 と白石は感じた。

 特に相手が年下であったり、立場的に下の人であったりすれば、なおさらのことだと思う。

 自分も大学時代にサークルに入っていたので、一年生の時に上を見た時の上の人の距離と、上になってから下を見た時の距離とが微妙であったことを思い出していた。

 一年生から見れば、最上級生は、

――まるで雲の上の人のようだ――

 と感じていた。

 しかし、それは上を知らないから想像もできないからという発想に基づくもので、実際にはそれほど遠くなかったのだ。

 それを思い知ったのは、自分が最上級生になり、下を見るようになると、実際には自分が上ってきた道なので、どれほどの距離なのか想像もついていたはずなのに、感じてみると想像以上に距離があった。

――こんなに遠いの? まるで立ちくらみを起こしてしまいそうなほどの距離だ――

 と思った。

 そういえば、建物の屋上を下から見た時に感じる距離と、上から見た時に感じる距離とではまったく違っていた。そこには、

――高いところだと足が震える――

 という、高所恐怖症のようなものがあったのだ。

 実際に白石は、子供の頃から高いところが苦手だった。子供の頃に、木登りをしていて、枝が折れたことで背中から落っこちてしまった。その時の恐怖が残っているのだ。

 その時は運悪く、背中のところに石があって、石で背中を強打したことで、少しの間呼吸困難になった。その時、

――このまま死んじゃうんじゃないか?

 と感じたことが白石にトラウマを残させた。

 背中から落ちたはずなのに、落ちていくところが記憶にある。まるで背中に目がついていたような感じであった。

 その時から高所恐怖症になったのだが、肉体だけではなく、精神的にも高所恐怖症が潜在意識として植えつけられたのではないかと感じていた。

 ただ、この思いは潜在意識の中に封印されていて、普段の意識の中にはない。上から下を見るという発想をした時に限って、この思いがよみがえってくるのだ。

 いきなりよみがえってくるので、自分でも潜在意識の中で残ってしまった高所恐怖症が別にあって、距離の錯覚を起こさせるものだということに気が付かない。

――まるで夢を見ているようだ――

 という思いを時々感じるが、それは高所恐怖症以外でも潜在意識の中に残っているかも知れないトラウマが、引き起こさせているものに違いなかった。

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