第4話 自分の中にいる誰か

 半月がこれほど長く感じられたことも珍しかった。一週間や一か月という単位で、過去を振り返ることはあったが、半月というのは中途半端だ。何か気になることがあっても、思い出すのはキリのいい数字の期間である。体内時計のようなものがあって、キッカリとその時期に意識を合わしてくるに違いないと思っている。

 半月前に綾と一緒に行ったバーで亜季に出会った。実に久しぶりに見かけた亜季は、自分が知っている亜季ではなかった。

――二十代の女の子なんだから、久しぶりに会って雰囲気が変わっていたというのは別に不思議なことではない――

 と思えるのに、どこか釈然としなかった。それは久しぶりに会った亜季が、

――自分の知っている亜季ではない――

 と思わせるに十分な、雰囲気の違いを感じさせたからだった。

 自分の知っている亜季と、どこがどう違うのかを説明しろと言われると困ってしまう。自分の感性が、

――知っているはずの亜季ではない――

 と言っているだけで、根拠も違っている部分を説明できるだけの材料もない。

 もっとも、それだけ亜季のことを一番知っているのは自分だという自信の裏付けでもあるのだが、それだけに、中途半端なモヤモヤに対し、自分で腹が立っているのだった。

 亜季のことだけをずっと気にしていたわけではなかった。腹が立ちっぱなしではなかったことがその証拠であるのだが、亜季のことを頭の端に置いておきながら、ゆりかのことも気になっていた。

 ゆりかとは、しばらく会っていなかった。自分の中にあるS性を引き出したのは、ゆりかの存在だった。

――ゆりかと少し距離を置いてみよう――

 と思っていたところに思い出したのが、亜季のことだった。自殺というキーワードから思い出したのだが、亜季のことを意識の奥に格納してしまうと、今度は格納した亜季への意識から、ゆりかのことを思い出すようになっていた。

 一つ気になっているのは、

――亜季を見ている自分と、ゆりかを見ている自分は違う人間のように思えてならない――

 というものだった。

 ということは、

――俺って二重人格ということなのか?

 今までに自分が躁鬱状態に陥ることはあると思っていたが、二重人格的なところがあるという感覚は一度もなかった。

 二重人格を自覚している友人がいたので、その人との話を思い出していた。

「二重人格の人には二種類あると思うんだ」

「どういうことだい?」

「一つの性格が表に出ている時、もう一つの性格をまったく意識できない人と、意識できる人の二種類だね」

「その違いというのは、どういうところに出てくるんだろう?」

「それぞれの性格が正反対の時は、得てして、もう一つの性格を意識できるような気がする。そして、もう一つの性格が正反対というよりも、背中合わせ。つまりは、ニアミスに陥っている時というのは、もう一つの性格を意識できないんじゃないかな?」

「灯台下暗しという感じかな?」

「そうだね。そばにあるのに見えないということは、ある意味怖い気がするんだ。昔の天文学者が『暗黒星』というものを創造したと聞いたことがあるんだけど、星というのは、自分から光を発するか、他の星から光を貰って、反射することで、光を出しているだろう? でも、その暗黒星は、自分から光を出すこともなく、光を反射させることもない。光を吸収してしまうんだろうね。だから、そばにあっても誰も気づかない。もしそれが恐怖をもたらすものだったら? と思うと、恐ろしいだろう?」

「それが『暗黒星』というものだね」

「そういうことなんだ。だから二重人格のもう一つの性格を分かっていないということは、自分が二重人格だと知ってしまった時から、その人の悲劇が始まるのかも知れないと思っているんだ」

 友達との話は、そんな話だった。

 暗黒星の話がなければ、それほど気にもなっていなかっただろうが、その話をされたおかげで、自分の中に恐怖が芽生えた。二重人格の本当の恐ろしさを、その時初めて感じたような気がしていた。

――自分の知らない自分がいるというのは、自分で自覚している怖い夢の中の、もう一人の自分に結びつくものがあるのではないか――

 と、考えた。

 その時、同じ日を繰り返している自分が重なり、頭の中で発想がシャッフルしているようだった。

――頭の中が混乱してきた――

 それももう一人の自分が災いしているせいだろうか?

 何かあった時、それがもう一人の自分のせいだということにしてしまえば、ある程度納得は行くのだが、すべてをもう一人の自分のせいにしてしまうと、結局、最後は自分の首が回らなくなってしまいそうな気がして仕方がなかった。

――ゆりかを見ていると、彼女ももう一人の自分の存在に気付いているような気がする――

 と思えてきたのだが、まわりから見ていて、彼女の中にもう一人の自分の存在を感じさせるものは何もなかった。

――ゆりかのことを一番理解できるとすれば、俺なんだけどな――

 と、昇は感じていた。

 それは、もう一人の自分を同じように意識しているからだという思いと、ゆりかが自分の中に、昇とは違う誰かを見ているという思いとが頭の中で交錯しているからだった。

 ゆりかは、その相手を博だと言った。どこが博なのか分からないのに、分かっているように思えて仕方がない。

――ゆりかが、言うのなら、本当なのかも知れないな――

 なぜか、ゆりかの言葉に信憑性しか感じることができない。あまりにも突飛な話なのに、一つの話から始まった自分の頭の中の発想が、次第に深いところまでやってきて、最終的に思い起してみると、最初のゆりかが言ったことに、一番信憑性があることに気付かされた。

 そして、

――自分の中に博がいるのではないか――

 と思った最大の理由が、

――自分の中にS性を見出した――

 ということだった。

 昇がS性を発見したにも関わらず、自分がS性を発揮する相手は、ゆりかだけだったのだ。

 最初は、ゆりかに対してSになる自分が恥かしく感じられ、次からゆりかとは会わない方がいいのではないかと感じた。ただ、それは本当に一瞬で、すぐに自分で自分の気持ちを打ち消した。

――それこそ、自分の考えから感じたことじゃないように思う――

 自分の中にいる博という男性の考えだと思うと、昇は承服できるような気がした。

 そして、自分のS性に気が付いてから、ゆりかの態度が微妙に変わってきた。

 昇のS性に対して、嫌がっている様子はまったくなく、すべてを受け入れようとしている様子が伺えた。しかし、それはゆりかの中の申し訳ないという部分が感じられるもので、相手のS性にしたがっているのは、昇に対してではなかった。

 その証拠に、感極まった時発したゆりかの言葉が、

「ごめんなさい」

 という、まるで消え入りそうな言葉だったのだ。

 もし、今までの昇であれば、ゆりかのその声は聞こえなかったに違いない。それほどの小さな囁きを聞き逃さなかったのは、昇の中に博がいたからであろう。

――一体何が、ごめんなさいなんだろう?

 昇に覚えはない。だが、なぜか承服できるのは、昇の中にいる博が承服したからであろう。

――博というのは、一体どんな男だったんだろう?

 ゆりかがいなくても気になるところであった。

 それは、ゆりかが昇の中に博を発見しなくても、いずれは博がいることを発見すると思ったからだ。

――いや、博が自分の中にいるとすれば、俺がゆりかと出会う可能性を考えているんじゃないのかな?

 と最初は考えていたが、少し無理があると思えた。それよりも、

――博が入りこみやすいタイプの男性がこの俺で、俺に乗り移った後で、ゆりかと会うようにできるようにする――

 もし、自分の性格を昇に分からないように表に出すことができて、それをゆりかなら分かることができるのであれば、後は、二人が偶然でも何でも出会うことさえできれば、後は簡単なことだった。それは、最初と似ているように考えられるが、最初はあくまでも、昇としてゆりかと出会う可能性だった。

 確かに可能性がそちらの方があるかも知れないが、もし、ゆりかが昇の中にいる博に気付かなければ、そばにいたとしても、それではまるでヘビの生殺しではないか。

 昇はゆりかと一緒にいる時間を感じているのだが、本当に自分が感じていることなのだろうか? S性も最初から自分のものなのかどうか、疑問だった。

 確かに自分にS性があるのは分かる気がする。しかし、そのS性は、最初から自分の中にあったものではないような気がした。

 それでも途中から変わってきたような気がしている。最初は気付かなかったが、気付いてみると、

――二重人格なのではないか?

 同じS性であっても、どうしても同じものだとは思えない。ゆりかにもそれが分かったのか、途中で急に怖がっていたのが分かった。その表情は恐怖に歪み、怯えていた。それを感じ、今までのS性であれば、昇の方も少し怖気づいたかも知れない。

 しかし、ゆりかのそんな表情を見て、さらに自分の中から燃えるものが溢れてくるのを感じた。

――何だ。この思いは?

 と感じていたが、抑えることができなかった。

 ゆりかも最初は怖がっていたが、次第に慣れてきたのか、昇に身を任せているようだった。

――この女の中にも誰か他にいるみたいだ――

 昇はそう感じると、遠慮する気持ちは完全に失せていた。

 会うたびに相手を求める昇。それにゆりかも必死に答えようとしている。それまで博のことを追いかけようとしていたのがウソのようだ。

 今度は昇がゆりかを怖いと思う番だった。

――こんなオンナ、初めてだ――

 自分がゆりかのことを蹂躙し、完全にSとMの関係であるにも関わらず、昇はゆりかに対して感じた恐ろしさは消えることはない。

――自分がゆりかを引っ張っているはずなのに、逆に引っ張られているような気がしている――

 こんな思いは初めてだった。

 昇は確かにあまり女性経験が豊富な方ではなかったが、毎回のようにお互いに身体を貪り合う関係になったことで、

――どこか懐かしい感覚に陥るような気がした――

 と感じたが、ゆりかという女性を今まで知っている女性と見比べているつもりは毛頭ないのに、おかしな感覚だった。

――まだ、俺の中に博がいるのかな?

 と思ったが、それはないようだ。

 ゆりかが求めているのは紛れもなく昇であり、ゆりかが昇の中に博を感じなくなったのは、昇に対して恐怖を感じたその時から分かっているように思えた。

――では、博以外に、まだ誰かいるのかな?

 そう思うと、自分が二重人格なのではないかと、ふと感じたのだ。

 だが、その思いもすぐに打ち消した。

 今まで二十何年と生きてきた中で、

――自分が二重人格ではないか?

 などという思いを感じたことは一度もなかった。もし、今初めてであっても、感じた疑念に対し、過去に感じたことがあるなら、今の思いに共鳴するものが、記憶の中から解き放たれると思ったのに、解き放たれることはなかった。

――やっぱり、俺は二重人格なんかじゃないんだ――

 と、ホッとしたような気分になっていた。

 昇は自分がゆりかに惹かれていることに気付かなかった。確かに最初は惹かれていると分かったが、ゆりかに対して蹂躙したいという思いが芽生えた時、立場が逆転したような気になっていたのだ。

 だが、いくら相手を蹂躙したい。自分にS性があると思っていても、自分が相手を支配するという意識とは少し違っていた。それが本当のSではないという証拠ではないだろうか。本当のSであれば、相手のすべてを自分のものにしたいと、思うはずだと感じたからだ。

 だが、昇はそこまで感じていなかった。確かに一般的なS性を秘めていることは分かっているが、ゆりかの中にあるMの部分をどこまで自分が分かっているのかということには若干の疑問があった。そのせいもあってか、ゆりかに対してどうしても入り込めない部分があることを感じていたのだ。

 ゆりかが昇と一緒にいる時、昇はゆりかの変化に一切気付いていなかった。変化というのは、昇に対しての気持ちの変化であり、すべて、

――昇を見ての反応――

 であるとしか思っていない。

 あれだけ、普段はゆりかに対して疑問を持っているにも関わらず、二人きりになり、二人だけの世界になると、何ら疑いを持たなくなる。

 逆にゆりかは違っていた。

 昇が自信を持てば持つほど、昇が怖くなって行ったのだ。

 だが、ゆりかはすでに昇から離れられなくなっていた。それは身体の関係だけではなく、一度信頼してしまった相手から、そう簡単に離れることができなくなってしまったということを意味している。

 実に小さな亀裂だが、そのことに気付かないまま、昇は亜季と再会してしまった。亜季は昇のことが好きだったということに、気付いてしまっていた。昇は亜季が感じている自分への思いに、まだ気付いていなかった。

 友達と二重人格の話をしている時に聞かされた「暗黒星」の話、それがゆりかを差しているのだとすれば、ゆりかが昇を恐れているのは、なぜなのだろう?

 恐れている気持ちがあるから「暗黒星」のようになっているということなのか、考えてみれば、保護色を使う動物というのは、その理由が、

――他の外敵から、身を守るため――

 に備わったものではないだろうか。

 亜季が自殺をしようとした気持ち、何となく分かるような気がしてきた。

――亜季は、信頼をおいていた誰かに裏切られたんだ――

 と感じた。

 それが男性ではないと思えていた。相手が男性であれば、亜季の性格からすると、自殺など考えないと思えたからだ。

 男性に対しては、毅然とした態度を取っていて、決して相手に負けないという意志があった。これは女性に対しても同じだったが、相手が男性であるか女性であるかによって、明らかにその強さに違いがあるように思えてならなかった。

 相手が男性であれば、自分に対して好きにならせることにある程度の自信を持っていたようだ。

「私を好きになってくれる男性以外、私は興味を持たないのよ」

 と、以前笑いながら話していたのを思い出した。

 最初は、何かの強がりなのかと思っていたが、考えてみれば、話の脈絡の中で、別に強がってみせる必要のないところだったはずだ。それなのに、強がっているように見えたのは、彼女が笑いながら話したということだけだった。それだけ亜季の笑顔には、「力」があり、その力は、同じ笑顔でも、微妙な違いがあったとしても、昇が感じるのは、大きな違いだったのだ。

「じゃあ、亜季が俺と一緒にいてくれるのは、俺が亜季を好きだと思っているということかい?」

「そうね、その通りよ」

 というと、亜季はさらに笑顔を見せた。含み笑いであることは昇にも分かった。

「俺は確かに亜季のことを好きになっているようだけど、俺の方も、相手が俺のことを好きになってくれないと、それ以上の気持ちを表に出すことはしないはずなんだが、実際はどうなんだい?」

「私に答えてほしいの?」

 本当は言葉で返してほしい回答ではなかった。そのことを亜季は分かっている。言葉で返してしまうと、信憑性が希薄なものになるからだ。せっかくのムードがぶち壊しになるというものである。

「いいや」

 昇は、亜季に言葉で返してもらうことを拒否した。それはもちろん本心からだが、この時が二人の気持ちが一番接近した時だったのではないだろうか? それからしばらくして二人は離れ離れになった。そして、亜季が自殺未遂をしたことを知ることになるのだった。

 ゆりかと付き合って行くと、今度は自分が亜季のようになり、ゆりかが以前の自分のようになるのではないかと思うようになっていた。それは、自分がいずれ自殺するようになり、ゆりかが、自分の気持ちに正直になれずに苦しむような人生であった。

――これは悲惨な結果を招きそうな気がする――

 ゆりかとは一緒にいない方がいいのではないかと思うようになっていたが、ゆりかも、そんな昇の気持ちが分かっているようだ。

 すでにゆりかの目は昇の中に博を見ていない。昇もしばしの間だけ自分の中に博らしき男がいたような気がしていたが、今はまったくそんな気持ちはない。それは自分にS性を感じるようになってからのことだった。

 亜季と、バーで会ってからは会っていなかった。半月という歳月がどのようなものだったのかというのは、亜季に出会ってしまうと、それまで感じていたことがあったとしても、まったく違った感覚に陥るような気がして仕方がなかった。

 亜季が昇の前に姿を見せたのは、朝の通勤時間だった。

 いつものように朝の通勤時間、駅のホームで滑りこんでくる電車を見ていた。

 思わず飛び込みたくなるような衝動に駆られることが多くなったと感じていた矢先のことだったが、その日は、朝から軽い頭痛に見舞われていたのだった。

 頭痛はそれまでも時々あった。朝起きてから、頭が重たいと感じるのはしょっちゅうだったが、目が覚めるにしたがって、頭痛も収まってくる。だが、頭痛が続く時というのは、目が覚めた時から分かっていて、それだけに目覚めがその日一日で一番大切であるということも最近分かるようになった。

 頭痛がするのは以前からだったが、目覚めの瞬間から頭痛が分かるようになったのは最近のことだった。それまでは頭痛がしても、そこまでハッキリとしたものが自分の中に存在しているわけではなかった。ただ、もう一つの考えとして、

――目が覚めた瞬間、一度ハッキリと目が覚めてしまい、さらにもう一度、眠気に戻り、目が覚めるまでに時間が掛かる。最初の一瞬を忘れているか、それとも最初の一瞬を覚えているのに、途中を忘れてしまうかのどちらかしか、記憶には残らない。それをまったく違うものとして理解しているのではないか――

 と感じるようになっていたのだ。

 亜季のことを考えていると、自分の目覚めを考えるようになり、目覚めの瞬間に、一度感じた、

――電車がホームに滑り込んでくる瞬間――

 が、まるで正夢であったかのように、その日、亜季と出会うことは、最初から分かっていたような気がしていた。

――電車が滑りこんでくるという表現も面白い――

 と感じていたが、それはホームが線路よりも高い位置にあり、高さで言えば半分くらいの位置にホームがあることで、滑りこんでくるという意識を持っているに違いないと思っているが、そのことを自覚しているかいないかで、ホームに滑り込んでくる電車に対して、どれほどの恐怖を感じるかが決まってくるように思う。

 昇は以前、それほどホームに入り込んでくる電車を怖いと思っていなかった。しかし、途中から怖いと感じるようになったのは、昇が自殺者の気持ちを考えるようになったからだ。

――俺に自殺菌が入りこんだのかな?

 と考えたのもその時で、自殺菌の存在を一度肯定して考えると、否定することができなくなってしまったのも事実だった。

 だからこそ、自殺菌が入りこんでしまったという妄想に憑りつかれていたのだし、妄想は次第に慣れにつながって、

――入り込んでしまったのなら、共存していくしかないか――

 と考えるようになった。

 ホームに電車が滑りこんでくる瞬間が、考えてみれば、一番恐ろしい瞬間であった。自殺してもおかしくない状況で、しかも、自殺してしまいたくなる衝動に駆られるのも事実だった。

 滑りこんでくる電車の顔が、いつも同じに感じられていた。確かに表情があるものではないが、光の当たり方などでも微妙に違ってくるものだと分かっているのに、なぜか、いつも変わりないと思えていた。しかし、たまに違った顔を見せることがあった。何か自分の中で心境の変化があると思うのだが、その時に自分の中にいる自殺菌が、表に出ようとしているのだと感じる。しかし、だからといって、自殺したくなる衝動に駆られるわけではない。ただ、そんな日は、自分のまわりが喧騒とした雰囲気になることが多かった。

 自殺しないまでも、自殺未遂が必ずまわりのどこかで起こり、自分の耳に入ってくるのだ。聞きたくないことを聞かされるのは、やはり気持ちのいいものではない。

 二度目覚めがあるということを感じた時、やはり、自分の中にもう一人誰かがいることに気が付いた。

――俺は、ゆりかのことが好きなんだ――

 そう思ったのは、本当に昇なのだろうか?

 昇の中に博がいて、博がそう感じさせているのかも知れない。ということになれば、博という人は、すでにこの世にはいないと思えてきた。

 博のことを少し考えてみた。

 昇は、いつも自分のことか、考えているとすれば、女性のことばかりだった。男性の友達がいても、その人のことを考えることはなかったような気がしていた。考える時というのは、最初から、

――考えよう――

 と思って考えるわけではない。いつも無意識に考え始めて、

――気が付けば、その人のことを考えていた――

 という意識になったことで、初めて自分が人のことを考えていることに気付くのだった。

 何かを考える時というのは、ほとんどが無意識に考え始める。最初から何かを考えるつもりになることはなかった。それが自分では当たり前のことだと、ずっと考えていたのだった。

 だから、いつも

――気が付けば――

 という言葉が頭につく。死ぬ時だって、

――気が付けば死んでいた――

 などということになるのかも知れない。

 死を最初から告知されているのであれば、覚悟もあるだろうが、そうでなければ、なかなか死を覚悟するというのも難しいだろう。

 死について考えてみた。いや、気が付けば考えていたのだが、

――俺は、寿命で老衰したり、病院のベッドの上で死ぬようなことはないような気がするな――

 というのは、

――自殺することになるのか、それとも事故に遭うのか、どちらにしても、そんなに長くは生きられないような気がする――

 そんな思いが頭を過ぎった。

 ということは、いつ死んでも不思議ではないという考えだった。それなのに、少しも死を覚悟するような感覚に陥ることはない。

――本当に死が近づくと、その時になって、嫌でも死の恐怖を感じることになるのかも知れないな――

 と感じたが、逆に、

――いや、やっぱり俺なら、気が付けば死んでいたというのが似合うかも知れない。本当はそっちの方がいいんだがな――

 と、生きているうちから、死の恐怖を味わいたくないというのが本音だ。もっとも、これは昇にだけ言えることではない。誰もが思っているに違いないからだ。

――戻れるものなら、どこかの時代に戻ってみたいな――

 という思いが、最近頭の中にあった。

 その最近というのも曖昧で、

――昨日からなのか、一週間くらい前からなのか、どちらにしても、どこかにそう感じるターニングポイントがあったに違いない――

 と思ったその時、

――ターニングポイント?

 時というのは待ってはくれない。一瞬のその次にはまた一瞬が続いていく。そうやって一瞬が永遠に続いていくのだ。

 そう思うと、自分が戻ってみたいと思った瞬間は、そのことを感じた瞬間なのかも知れない。何ともおかしな感覚だが、ターニングポイントとして感じたその時に戻ることができたとすれば、本当にその時、感じたのが、

――過去に戻りたい――

 という感覚なのだろうか?

――ひょっとして錯覚ではなかったのだろうか?

 と思うかも知れない。もしそうであれば、そこから先は、まったく違った世界が広がっているはずだ。それを望んでいたのではないかと思った昇は、

――パラレルワールド――

 という言葉を思い出していた。

 戻った時代がパラレルワールドを生むのであれば、もし、今までに過去に戻ることができた人がいたとすれば、その人には、パラレルワールドが見えたのであろうか?

 過去に戻ったその時に、それまで持っていた記憶はどうなってしまうのだろう? その場所に戻ったことで、そこから先の記憶は消えてしまって、もう一度記憶を作りなおそうとするのかも知れない。そうすることで、辻褄を合わせようとするのだ。

 今までにデジャブを感じたことがある人は、ひょっとすると、過去に一度戻った人なのかも知れない。戻ったことで記憶が消えてしまったわけではなく、封印されてしまったのだとすれば、封印された記憶が漏れてきたとも考えられる。

 ただ、漏れてきた記憶は、本当に偶然なのだろうか? 何かの意図を持って繋ぎ合わされた記憶なのかも知れない。

――意図は糸に繋がる――

 ダジャレのようだが、笑っていられない発想であった。

 デジャブを実は昇も考えたことがあった。その時はこんな発想はなかったのだが、もし過去に戻ったことがあるとすれば、きっと一度きりだろう。

――過去に戻れるのは、一生に一度だけ――

 と思うのはおかしなことだろうか?

 もし、それ以上を望んでしまうと、同じ日を繰り返してしまうという悲劇に見舞われるかも知れない。それを思うと、一度きりで十分だ。しかも、そのことを忘れてしまっている方が、知らぬが仏で、幸せなのかも知れない。

――自殺した人が、自殺する前に戻りたいと思うこともあるかも知れない――

 死を目前にして、していたはずの覚悟なのに、恐怖に勝てず、

――戻りたい――

 と、考えたその人が、今までに一度も過去に戻ったことがなければ、その時に達成される。そうなると、死んだはずの人が生きていたということになり、自殺菌は、そこで消滅してしまうだろう。

 いや、自殺菌は、誰かを自殺に追いやった時点で消滅してしまうものなのかも知れない。結果的に、その人が自殺しようがしまいが、同じタイミングで消滅してしまう運命だとすれば、悲しい運命ではないだろうか。

――同じ日を、ずっと繰り返していきたいな――

 と一番誰が思っているかというと、本当は、自殺菌なのかも知れない。そんな発想を思い浮かべた昇は、自分の最近考えていることが堂々巡りを繰り返していることに気が付いた。

 しかし、その堂々巡りは悪いものではない。少しずつ前に進んでいる堂々巡りだ。

――本当は、このスピードが正常なのかも知れない――

 特に、最近は様々なことを考えては、考えた端から発想が消えていく。そんな怒涛の発想に、戸惑いを感じていたはずだった。

 昇は、次の日、毎日同じ時間の同じ電車に乗ろうと駅のホームにいた。その時だけは、

――本当に毎日を繰り返していないのだろうか?

 と、思うほど、どんな時であっても、見える光景は同じだった。

 その時、まわりがざわめいているのを感じた。

「私、二度目が覚めるの。だから……」

 そう言って、電車に飛び込もうとしている一人の女性を見かけた。

「ゆりか」

 思わず、昇は声を掛けた。

 しかし、その声が自分の声でないことを昇は自覚していた。

――これが博なのか?

 そう思ってゆりかを見ると、ゆりかは満足したかのように昇を見て、ニッコリと笑っている。

 昇はゆりかを助けようと必死にホームに飛び込む。

「あれ?」

 そこに、ゆりかの姿はない。電車に飛び込もうとしているのは、昇だけだった。

――俺、何バカなことをしているんだろう? 飛び込んでいる人がいるわけでもないのに、助けるつもりで飛び込むなんて。こんな格好の悪い人生の終わり方なんて、何て情けないんだ――

 恐ろしさよりも、こんな形で人生が終わることに恥かしさを感じていた。

「ゴオオオオ」

 そんなことより、迫ってくる電車は待ってくれない。

「わあああ」

 断末魔の叫びは、静寂の中に消えていくようであった……。

――自殺菌なんて、本当は存在なんかしないって思っていたけど、やっぱり存在したんだな――

 自殺したわけではないのに、まわりからは自殺にしか見えない。そう思ってバカな自分の肉体を覗きこもうとしたその時、

「うわっ」

 目を覚ましたではないか。

――じゃあ、今の俺は一体なんなんだ?

 これがもし夢でないとすれば、自分の身体に帰り損ねた魂ではないか。しかし、では自分の身体を今支配しているのは誰なんだ?

「ああ、よかった。目を覚ましたんだね? 自分が分かるかい?」

「いいえ、俺は一体誰なんでしょう?」

「これは記憶喪失になっている。やっぱりかなりショックが大きかったんだ」

「俺は、二度目が覚めるので、今がその二度目なのかも知れない」

 そう言って、昇は魂だけになった自分を見つめている。その顔には勝ち誇ったような表情があり、だが、その一方寂しさを隠しきれていない。

――ゆりかは、やっぱり俺のものなんだ――

 と、この男は思っている。中にいるのは博だった。

――俺がゆりかと別れた時、誤って死んでしまった。いや、二度目に目を覚ますと思っていたからだ。でも、目が覚めなかった。俺は死んでしまった。自分の意志でもなく。俺はこの身体でゆりかを抱いた。そして、この身体を俺のものにする――

 そう言っているのが聞こえた。

 昇はなぜか開き直りを感じていた。

「じゃあ、俺は亜季を俺のものにするために、誰かを探しに行くか? そのターゲットには同じ日を繰り返していると思っている連中の中から探すことにしよう」

 と、自分の身体を乗っ取った憎き相手である博に対して言った。

 その表情は、これ以上ないと思えるほどの勝ち誇った表情を浮かべていたが、それは痩せ我慢でしかない。

――本当に痩せていて、我慢強いやつを探すことにするか――

 それこそ、精一杯の勝ち誇った感情を表に出す思いだったに違いない。

――自殺菌――

 そんなものは、本当に存在などしていないのだろう……。


                 (  完  )

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二度目に目覚める時 森本 晃次 @kakku

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