第3話 意識と記憶
「私、これからどうしたらいいのかって、ずっと考えていたんです。彼がいなくなったことで私は一人になった。でも、一人になるのって、必然のことだと思うんですよね。人との出会いって、偶然じゃないっていうじゃないですか。だったら、一人になるのも、偶然じゃない気がしてきたんです」
ゆりかは、ゆっくりと話し始めた。
「その通りかも知れないけど、俺はその考えもちょっと違う気がするんだ。その考えだと、偶然なんて存在しないような感じに聞こえるんだけど、偶然だって必要なんじゃないかと思うんだ。だって、偶然がないと面白くないじゃない」
「偶然がないと面白くない?」
「そうだよ。すべてが必然だということは、皆決まっていることであって、敷かれたレールの上を歩いているだけのような気がしないかい?」
「昇さんって、教科書のような話し方をするんですね。まるで先生みたい」
少しムカッときた。
「そんなことはないさ。君を見ていると、そんな言い方になっただけさ」
「それは、あなたが私を見下しているからなんじゃないの? 私は見下されたくないの」
少し話が険悪なムードになってきた。しかし、昇はそんなゆりかに逆らうことはできない気がした。本当は言いたいことがあったにも関わらず、それ以上のことを口にできなかった。なぜなのだろう?
「あの人もそうだった」
ゆりかは話し始めた。
「彼も、自分から喧嘩を売っておきながら、喧騒な雰囲気になると、何も言えなくなってしまって、お互いに黙りこんでしまうの。そんなところがあなたは、あの人に似ているんだわ」
ゆりかは、そう言って、黙りこんでしまった。
昇は、確かにすぐに相手に喧嘩を売るような言い方をするくせがあった。
――相手の出方を見ようとしているのではないか?
と、最近は感じるようになったが、最初はどうしてすぐに喧嘩を吹っかけるような言い方をするのか分からなかった。相手に文句があるわけでもないのに、すぐに相手が興奮してくるのを見て、何かを考えてしまう。どちらかというと、相手が興奮してくると、自分が安心できるような気がしていたのだ。
――勝ち負けでもないだろうに――
と、相手が自分の言葉で反応するのを楽しんでいるかのようだった。
ただ、安心するというのは、すぐに生まれてくる感情ではないはずだ。相手が興奮することで、自分の中に何か心の変化があり、それが嵩じて安心感につながるのだ。しかし、最初から安心感を得たいと思って取った行動のはずである。自分が安心感を得られるという確固たる自信がなければ、すぐに態度を表に出すことのない昇には信じがたいことだった。
昇は子供の頃から、自分の態度をなかなか表に出さない方だった。
頭の中ではいろいろなことを考えているくせに、態度に出さないのは、自分に自信がなかったからだ。
自分に自信がないのは、
――安心感を得ることができない――
という思いから生まれたもので、逆に安心感を得ることができると、そこから自分の自信が生まれるのだと思ってきた。
――人を怒らせて安心感を得ることができるのであれば、嫌われてもいいから、相手を怒らせる方を選ぶ――
と、子供の頃は思っていたのに、大人になると、そんな勇気も持てなくなってきた。
――やっぱり子供の頃の方が勇気があるし、自分に自信を持つことを容易にできたのかも知れない――
と思うようになった。
駅のホームで電車が滑りこんでくるのを毎日のように見ていると、今から思えば見慣れてくるうちに、少しずつ自分に自信が持てなくなってきたのではないかと思うようになってきたのだ。
「私、あなたといると、安心できるんです」
数日前に喧騒とした雰囲気になり、お互いにギクシャクしてしまって、話ができない状態になっていたゆりかとの間だったが、ゆりかの方が、折れてくれた結果になった。
相手に折れられると、こちらも意地を張る必要もない。こんなところで意地になっても仕方がないことは分かっている。やはり、二人が出会ったのは、偶然ではないと思えてきた。
「安心というのは、どういうことなんだい?」
「この間、私の無神経な発言が、あなたを傷つけたように思えてくると、私はいたたまれなくなったんです。でも、すぐに謝ろうとはどうしても思えず、もう一度自分を振り返ってみたんですね」
「それで?」
「すぐに寂しさがこみ上げてきて、それは、博さんがいなくなった時の寂しさとは少し違っていたんですけど、でも、もうこれ以上寂しい思いをしたくないという衝動に駆られて、またあなたのことを元に戻ってきました。あなたが迷惑じゃなければ、また私をそばに置いてくださいますか?」
「もちろんだよ。迷惑だなんて思っていないさ」
ゆりかの表現には、どこか棘を感じたが、意地を張ることをやめようと思った昇には、ゆりかの正直な言葉が嬉しかった。嫌われるかも知れないと思いながら、もう一度自分から来てくれたのは、ゆりかの正直な気持ちからだと思ったからだ。
「嬉しいです。でも、これからもわがままを言ったら、その時はごめんなさいね」
「それはお互いさまさ。俺だって、変な意地を張るかも知れないからね。でも、これからもお互いに気持ちに正直になっていきたいものだね」
昇のその言葉を待っていたのだろうか。ゆりかの目から、涙が零れてくるのを感じた。
「私、男性の前で涙を見せたのは、これが初めてなんです」
ゆりかの言葉は意外に感じた。
――そんなに感動するような話をしているのかな?
最初は、ゆりかの正直な気持ちに素直に喜びを隠せなかった昇だったが、涙を流しているゆりかを見ていると、少し不思議な感覚を覚えた。
ゆりかが、わざとらしいというわけでもない。どちらかというと、昇の感覚が急に冷めてきたと言った方がいいのだろうか。
――本当なら、自分の目の前で涙を流してくれる女性がいるのだから、男冥利に尽きると思ってもいいはずなのに――
と、思えた。
今までの昇なら考えられない冷め方だった。女性と話をしていると、相手の方が自分よりもいつも立場が上だったように思うからだ。それは、
――俺の方が、男として立場は上なんだ――
と思えば思うほど、相手の女性と対峙していると、どうしても、相手よりも上に行くことができない。
ただ、今回は逆だった。
ゆりかは、一度は喧嘩別れのようになったのに、戻ってきてくれた女性である。そんな女性に対して、自分が上などというのは、おこがましいと思っていた。それなのに、涙を見せたという最高のシチュエーションに立っていながら、なぜ冷めてしまう結果になったのだろうか。
わざとらしさなど微塵も感じていないはずなのに、やはり、問題はゆりかにあるわけではなく、昇の方にあるのだ。
冷めた瞬間、
――これって、本当に俺なんだろうか?
という思いが頭を擡げた。そこにあったのは、「嫉妬」だったからだ。
――俺が一体、誰に対して、誰からの思いに嫉妬しているというのだ?
ゆりかに対して嫉妬するというのであれば、博という男性になるのだろうが、彼は行方不明ではないか。
――いや、彼が行方不明だからこそ、ゆりかの中で、それ以上大きくならない代わりに、永遠に消えることのない意識として残ってしまった。それは、記憶として格納されるわけではなく、前面に押し出された意識の中に残ってしまっている――
どうしてそう言いきれるのか分からないが、昇はゆりかの涙を見た時、自分の中にある嫉妬を感じた。その思いが、
――ゆりかの中に、永遠に消えない何かの意識が残っているような気がする――
という思いを残させたのだった。
昇は、ゆりかだけでなく、彼女の意識の中の誰かを意識しなければいけないということに、気持ちが冷める原因を見たのだった。
その時から昇は、
――俺って天邪鬼なんじゃないかな?
と思うようになっていた。
本当なら感動して、相手を愛おしく思うはずのシチュエーションで、気持ちが冷めてしまってから、自分を天邪鬼だと思うようになった。しかし、天邪鬼だと思うようになった原因にはもう一つだったのだ。
――俺って、寂しがり屋だったはずなのに――
と感じた時だった。
寂しがり屋で、一人になることを怖いくらいに感じていたはずなのに、いつの間にか、一人でいることに寂しさを感じなくなった。
――孤独や寂しさって違うような気がする――
孤独も寂しさも辛いとは思わないが、孤独を辛いと思わないと、寂しさも感じなくなった。
――どこか感覚がマヒしてしまっているからではないか――
とも感じるようになっていて、自分が天邪鬼になったかのように思えたのだ。
感じなければいけないものに感じなくなったというのは、本当なら由々しき問題なのだろうが、それすら由々しき問題とは思わないという、それこそ堂々巡りの発想は、天邪鬼にふさわしいのではないだろうか。
それでも、ゆりかに対して冷めた気持ちは、長続きしなかった。すぐにゆりかに慕われたいという気持ちが起こり、
――ゆりかに対して冷めた気持ちになったのは、自分が天邪鬼だということを自覚するために通らなければいけない道だったのかも知れない――
と感じた。
遠まわしではあるが、いかにも昇は自分らしいと感じた。一つのことから、いろいろな発想を巡らせることが多くなった最近では、遠まわしに感じる方が、考える時間があっていいのではないかと思った。遠まわしに感じるということは、それだけ時間が経っているということで、本人はあっという間のことのように思っているが、実際には掛かった時間が考える余裕を与えてくれた。本人は意識していないつもりでも、意識の中で何かの答えはきっと出ているはず。自分が考える発想には、必ず何かの結論がついてくる。答えと結論が結びついた時、遠まわしであっても、辿り着くところに遅れることなく辿り着いていることだろう。
天邪鬼なところは、確かに今に始まったことではない。むしろ子供の頃の方が意識は強かった。
しかし、子供の頃は自分が天邪鬼だと思ったとしても、その理由についてまで考えることはなかった。
――どうせ考えたって分かりっこないんだ――
と思っていたからだ。
そういう意味では、子供の頃の方が、諦めがよかった。今の方が、分からないと思っても、一応考えてみるようになった。それがいいことなのか悪いことなのかまでは分からないが、
――時間の無駄なのかも知れないな――
と感じている。
理由を求めるべきではないことまで、答えを求めようとするのは、確かに時間の無駄である。自分が天邪鬼だということに対して理由を求めようとするのは、必要のないことなのかも知れない。
だが、もう一つの考え方としては、
――何ごとに対しても理由は存在しているのだから、理由を一度でも求めようとしなかったら、その時点で自分の存在価値がなくなったことを意味しないだろうか?
と考えると、
――そんな時にこそ、自殺菌の入り込んでくる隙を与えることになるのでは?
またしても、自殺菌のことを思い出してしまった。考えてみれば、自殺菌について考える時というのは、必ず何かを考えている時で、ただ、
――どこからそんな発想が出てくるんだ?
と思うほど、唐突なところから発想が生まれた。
自殺菌の発想から、いろいろな発想が生まれたが、それこそ時間の無駄なのかも知れない。本当に自殺菌なるものがあったとしても、その存在を知ったところで、どうなるというものでもない。誰に話してもバカにされるだけだろうし、酒の肴にしかなりはしないだろう。
――それこそ、オオカミ少年のようだ――
と、口にするだけバカにされるようなことこそ、小説のネタにするには、格好の題材ではないだろうか。
「私、彼と一緒にいる時、いつも彼が正直な人だとは思っていたんですけど、どこか面白くないところを感じていたんです」
「正直な方がいいんじゃないかい?」
「それはそうなんですけど、正直というのを、何でも自分から話してくれる人のことを言うんだって思っていたんですが、本当にそうなんでしょうか?」
「どういうことだい?」
「彼は、私に何でも話してくれたんです。中には私が聞きたくないようなこともありました。面白くないという表現はおかしいのかも知れませんが、聞きたくもないことまで言われたら、急に頭の中が冷めてしまったりもしますよね」
――冷める?
そういえば、自分も頭の中が急に冷めることが時々ある。ゆりかの涙で急に気持ちが冷めてしまったこともあった。それは、自分が天邪鬼な性格なところがあるからなのかも知れないが、ゆりかの場合は天邪鬼による気持ちの冷め方とは違っているようだ。
――ゆりかのような気持ちの冷め方が、本当の気持ちの冷め方なんじゃないだろうか?
と考えてみたが、ゆくゆく考えて結論が出るものでもなかった。ただ、自分がゆりかの立場に立って考えれば、
――そりゃ、気持ちも冷めるよな――
と思っていた。
昇がゆりかに対して急に冷めた気持ちになったのは、自分が天邪鬼な性格だからというだけではないのかも知れない。ゆりかの中で、誰かに対して気持ちを一度でも冷めるようなことがあったということを、一緒にいて察知できたことで、自分もゆりかの態度の中から、彼女に対して冷めた考えが浮かんできたとも言えるだろう。
「そういえば、俺も相手に対して正直でありたいという気持ちから、相手が聞きたいことなのかどうかも考えず、言葉にしてしまうこともないとは言えない」
「そうなんですか? 私にはその気持ちは理解できません」
ゆりかの態度は露骨に嫌な顔になった。
――今まで、こんなゆりかの顔を見たことはなかったな――
意外とゆりかは激情家なのかも知れないと思った。
激情家というよりも、ゆりかこそ、自分に正直なのか、思ったことを顔に出したりして、隠し事のできない性格なのだろう。
――男性に対して、正直なところが面白くないなど、よく言えたものだ――
と感じたが、言葉に出すこともなかった。
「やっぱり、あなたもそんな顔をするんですね?」
「えっ? そんな顔というのは?」
「私を蔑むような目で見ているでしょう?」
「そんなことはないよ」
被害妄想もいいところだ。昇はそんなつもりで相手を見ているわけではない。それよりも最初に露骨な顔をして、相手に不信感を抱かせたのは、相手の方ではないか。どこか釈然としない思いが、昇の中で悶々とした気持ちにさせた。
――それにしても、蔑むような目ってどんな目なんだろう?
思わず鏡を探した。自分がどんな顔になっているか、一刻も早く見てみたかったのだ。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
トイレになら、鏡があるはずだ。
「いいわよ」
ゆりかも、トイレに行くようだった。
鏡を見ると、なるほど、冷めたような目をしている。蔑んでいるようにも見えなくない。それは蔑んでいるという指摘を受けたからそう見えるだけで、少し顎を突き出しているところから、見下ろして見えるのかも知れない。
決して蔑んでいるわけではないか、見下ろして見えることと、冷めた目が複合して、蔑んでいるように見えたに違いない。
――こんな顔をしていれば、被害妄想でなくても、いい気持ちはしないわな――
と、少し反省もあった。
しかし、今さら表情は変えられない。今日一日はこの表情のまま行くかも知れない。そう思いながら、トイレから戻ってくると、今度はゆりかの表情が変わっていた。下から見上げるその表情は、相手を慕っているような顔だったのだ。
――こんな表情をされると、俺も顔が戻るかも知れないな――
と感じたが、表情が戻ることはなかった。むしろ、もっと上から目線に変わっていたようだ。
それでも視線や表情を変えることのないゆりかを見ていると、
――この娘のこんな表情、初めて見たようには思えない――
どこか、懐かしさを感じた。
自分を慕ってくれているような目を見ていると、逆に苛めたくなる衝動に駆られた。
――天邪鬼だからな――
と、自分が天邪鬼であることに苦笑いしてしまった。しかし、この思いが天邪鬼なところから来ているだけではないことを、すぐに悟った。
天邪鬼なだけなら、すぐに苛めたくなるような衝動は消えるだろう。衝動に駆られるというのは、その時、突然に感じることで、感じただけですぐに収まることをいうのだろう。確かに衝動に駆られたことで、自分の性格が変わってしまったかのように感じたので、理性というものが働いて、苛めたくなるなどという思いは消えていく違いないと思ったからだ。
それは、苛めたくなるというサディスティックな性格は、いい性格ではないと思うからだ。性的な悪しき性格は、考えただけで、嫌悪感を感じる。
――俺にそんな性格が備わっているわけはないじゃないか、天邪鬼だからそう思っただけで、本当に反射的に感じただけのことだ――
と思ったが、しかし、衝動的に感じたことが、天邪鬼なところから来たとしても、一瞬でも感じたということは、自分の中にS性がまったくないとは言いきれない。少しでも顔を出したということは、自分の中に必ずあるということだ。それを、
――潜在意識――
というのではないだろうか。
潜在意識ということは、今までに夢で見たことがあったかも知れない。夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものなので、覚えていないだけで、見た可能性は否定できない。
夢の世界を掘り起こそうとしている自分を感じた。夢の世界には、今まで感じたことのない何かが存在しているような気がして、逆に、
――触れてはいけないもの――
もあるのではないかと思えてきた。
夢の世界を掘り起こすことはタブーであると感じると、思い出そうとしてしまった自分に後悔した。
自分が夢の世界を掘り起こそうと考えた時間は、結構長かったかのように感じていたが、実際にはあっという間だったようだ。それこそ夢の世界のようで、
――考えただけでも、夢の世界に行ってしまっていたのだろうか?
と感じたほどだった。
ゆりかを見ていると、昇を見る目が変わることはなかった。
――ということは、ゆりかの慕っているような目は、俺の勘違いなのではないだろうかーー
ゆりかの視線をよく見ていると、突き刺すように鋭いものがある。それは最初、
――人よりも鋭い眼光で自分を見ているんだ――
と思ったが、実はそうではない。
――俺の後ろに誰かを見ていて、それで眼光が鋭いんだ――
と感じるようになった。
つまり、昇の目の奥を突き刺すようにして、向こうを見ていると感じると、恐ろしさを感じた。
――一体、誰を見ようというのだ?
その恐ろしさがあったから、昇は自分が夢の世界に入りこんでいこうとするのを止めることができたのかも知れない。
だが、そんな視線でも、恐ろしさを感じながらでも、逃げることはなかった。むしろ、さらにゆりかに対して苛めたくなるという感情を残しているのは、やはり、自分の中にS性が潜んでいるということに確信できるだけのものとなっていた。
昇は自分の天邪鬼がどれほどのものなのか、ゆりかと付き合っていれば、その力量を計り知ることができるような気がしていた。
――ゆりかに対してなら、素直になれるかも知れない――
と、自分の天邪鬼な性格を少しでも治せるのではないかと思っていた。
しかし、それは勘違いで、むしろ、ゆりかと一緒にいることで、自分の奥に潜在しているものが、引き出されるのではないかとさえ思うようになっていた。
その根拠は、ゆりかの慕うような視線を見て、少しでも自分の中にあるS性に気が付いたからだ。
自分のことを今まで天邪鬼だと思っていたが、ゆりかと付き合っているうちに、いわゆる「天邪鬼」とは、少し違っているのではないかと思うようになっていた。
何でもかんでも、人の反対を考えるのではなく、自分の潜在意識を感じることで、それが人との考えと違っているだけのことであった。きっと他の人も自分の中にある潜在意識を感じることができると、
――自分は天邪鬼なんじゃないか?
と、感じることになるのではないかと思うのだった。
自分が天邪鬼なんじゃないかと考えるようになったのは、実は自分にS性があるのではにないかと思うようになったことと密接に結びついているのではないかと思うようになった。
その理由としては、自分が意識している女性から慕われていると思っていると、本当であれば、愛おしいと思い、可愛がってあげたいと感じるはずなのに、それがなぜ苛めたくなるのかということに気が付いたからだ。
苛めたいと感じていることは、決して正反対のことではない。むしろ、自分が考えていることがさらに先に進んで、深いところに入り込むことで、相手のことを余計に見えてきたからだと思うようになった。
「好きな人ほど苛めたくなるっていうじゃないか」
という話をよく聞くが、最初は、
――そんなことあるはずないよな――
と、まるで他人事のようにしか思っていなかった。
さらに、女性を苛めたくなったり、女性の方も男性から苛められたいという感情を持つようになったりするというのも、昇には考えられないことだった。そういう意味では、昇は、自分とSMの世界とはまったく違う世界の話だとしか思っていなかった。
――それは俺だけに言えることではない――
と思っていたが、案外、自分のまわりにSMに関わっている人がいることを知ったのは、ごく最近のことだった。
別に知りたいと思っているわけではないのに、なぜか偶然にも知ってしまうことが多かった。
――これも偶然なんだろうか?
最近、偶然ということに疑問を感じるようになっている昇だったが、
――まわりにSMに関わっている人が多いのではないか――
という漠然とした想像を持ったため、想像が偶然に結びついた。それは、自分の中にもS性があるからではないかという意識にまで繋がるものではなかった。なぜなら、すべてを偶然として片づけようとした自分がいたからだ。
しかし、偶然で片づけるには、自分の中のS性だけは、否定しても否定できないという潜在意識があったからだろうか。偶然で片づけられないことを、偶然への疑問として感じるようになり、それが、自分にS性があることの一つの裏付けとして考えるようになったのだから、何が幸いするか分かったものではない。
――この場合、幸いという言葉もおかしいものだ――
と、考えるようになった。
――俺はゆりかを苛めてみたいと思っている――
初めて、女性に対して苛めてみたいと感じた相手だった。
だが、ゆりかが見ているのは、本当に昇本人なのだろうか?
そのことを感じると、昇は手放しにゆりかのことを好きだという感情になることができなかった。要するに、ゆりかを好きになることを怖がっているのだ。
だからといって、ゆりかのことを諦めるなどできるはずもない。
――一体、どうすればいいんだろう?
こんな時、自分が天邪鬼な考えを持っていることが幸いしてくるのではないかと思った。
相手を深く考えることが、逆の発想を生むのが天邪鬼だという思いが強くなったことで、ゆりかが思っている相手のことも、詳しく知ることができるのではないかと思えてきたのだ。
本当なら、恋敵になるような相手のことを知りたいなど、今までなら思ってもみなかった。それは嫉妬からではない。
――俺は、そいつとは違うんだ――
という思いから、その人のことを知りたくないと思っていたが、実際にはその反対で、相手のことを知らないのに、相手と違うという考えもおかしいということに気付いていなかった。
だが、どうやって知ればいいのだろう?
ゆりかの心の中まで覗けるわけはない。そこで感じたのが、ゆりかが昇を慕う目をした時に、昇が感じた苛めたいという気持ち、
――この気持ちに正直になればいいんだ――
と、思うようになった。
――ゆりかを苛めてみたい――
と思ったことで、昇は自分の中にあるS性を引き出すことができ、ゆりかも博という男性を思い出すことになるのではないか。そう思うと、少し怖いが、昇は自分の考えたことを実行してみようと思ったのだ。
昇は、そこまで考えた時、もう一つの疑念が頭に浮かんできたことを感じた。
いや、むしろ、そこまで考えたから浮かんできた疑念ではなく、最初から持っていた疑念ではないかと思うようになっていた。
――ゆりかという女性を見た時、自分と似たところがあるように思える――
と感じたことだった。
ゆりかと知り合ったのは、ゆりかが昇の中に、自分が知っている男性に似ていることで声を掛けてきたからだったが、その時のゆりかの態度は不可解だった。
昇に対しての態度は、知っている人に似ているということで声を掛けただけなのに、その顔にはどこか驚きの表情と、それとは違う違和感があった。。
その違和感は、まるで幽霊でも見ているかのように目をカッと見開いて、見えなければいけないものが消えないように、見定めようとしているかのように思えた。今までいろいろな女性と目を合わせることがあったが、そんな目をしたのはゆりかが初めてだった。
もっとも、今まで知っている女性といっても、別に付き合ったという女性ではないので、当てにはならないが、それでもその態度は、昇に興味があって見つめている表情ではないことは確かだった。今までの昇なら、
――俺に興味があるわけでもないのに、そんなに見つめられたら勘違いしそうで、迷惑だ――
と感じたことだろう。
しかし、ゆりかに対しては迷惑という感じはなかった。むしろ、
――もっといろいろ知りたい――
と感じさせた。
それは、ゆりかの中にもう一つ気になるところがあったからで、それを気にしなかったのは、やはり昇の中に見たという男性の存在が、かなり大きかったに違いない。
それを嫉妬というべきか、昇はハッキリと分かっていないが、少しずつでもゆりかのことが気になって行ったのは事実である。
――ゆりかの心を繋ぎとめておくにはどうしたらいいのだろうか?
などという考えが頭に浮かんできていた。
どうしても、今までの経験から、消極的な気持ちになってしまう。まだ知り合って少ししか経たないのに、
――気持ちを繋ぎとめておくにはどうすればいいか?
などという考えは少しおかしい。
ずっと付き合っていてから考えるのであれば分かるのだが、まだ自分のことを好きになってくれているわけでもない相手に対して考えることではないからだ。それを消極的だと考えるのもおかしなことで、やはり、自分の中に誰かゆりかの知っている男性がいるかも知れないという気持ちになっているからなのかも知れない。
その男性のことを知りたいのは山々だが、自分から聞くのは筋違いな気がしていた。ただその考え方は違っている。筋違いだと思うのは、聞くのが怖いからで、別に相手が昇の中にその人を感じたのであれば、それを聞くのは無理のないことで、筋違いというわけではないだろう。
知りたいのに聞くのが怖いというのは、ゆりかの口から出てくる話が、ゆりかの中にある想いから語られるのであって、一方的な話になるかも知れない。それを贔屓目といい、聞きたくもない話を聞かされることになっても仕方のないことだろう。
そんな話を聞きたいわけではない。贔屓目のない話を聞きたい。ゆりかの口から聞かされるのであれば、聞かない方がマシだと考えるのも、当然のことだった。
だが、ゆりかと知り合っていくうちに、どうしても知りたいという思いが強くなってきた。それがゆりかの贔屓目な話であっても、仕方がないという思いにまでなっている。その話を聞いて、後悔しないという自信はないが、聞かない方が後悔するかも知れない。
――どうせ後悔するのであれば、聞いた方がいい――
と昇は考えるようになったが、それはまだスタートラインに立ったわけではない。スタートラインに立つには、
――どのように話を切り出せばいいのか――
というところまで考えたところで、やっと行きつくことができる。
人と話をするのがあまり得意ではなく、しかも相手が女性となればなおさらで、自分から話を切り出すなど、今までになかったことだ。しいて言えば、幼馴染の女の子であれば、話を切り出すこともできたであろう。
昇は、自分の幼馴染の女の子のことを思い出していた。彼女とは、ここ数年会っていないが、大学を卒業するまで、離れていても連絡は取り合っていた仲だった。
――今頃どうしているのだろう?
そんな思いが頭を巡った。
彼女は名前を、葵亜季と言った。亜季とは小学生の頃からの腐れ縁で、彼女が男っぽいところもあって、あまり女性として意識したことはなかった。しかし、今では亜季の女性らしさを思い出すことができる。それは会わなくなったことでの、想像が勝手に暴走し始めたからなのかも知れない。
亜季とは、高校時代まではよく話をしていたが、大学に入ってから、彼女が東京の大学に入学したことで、なかなか会うことも少なくなり、必然的に話をすることも少なくなった。
だが、大学三年生の時、亜季はそれまで付き合っていた男性と、大恋愛の末、最後は悲惨な別れ方をしたことで、昇を頼って、話をしに来たことがあった。
昇も、そんな大恋愛をしたことがなかったので、どのように話していいのか分かるはずもなかったが、
「昇の顔を見れただけでも嬉しかった」
という言葉が忘れられなかった。
それから、亜季が自殺未遂をしたという話を風の便りに聞かされたが、なぜか飛んでいって話を聞いてあげたい気持ちとは裏腹に、
――会うのが怖い――
という思いが強かったせいで、結局会いに行くことはなかった。
そのせいか、お互いにぎこちなくなってしまい、会う機会を持てないまま、大学を卒業し、そのまま疎遠になっていた。
あれから、亜季の噂を聞くことはなかった。だが、この間、綾と一緒にバーに行ったその日の夜、電話があって、昇をビックリさせた。
電話の内容は、大した話ではなく、久しぶりの声が聞きたくなったという程度のものだったが、それでも、昇は嬉しかった。ただ、女性としての意識は電話で声を聞いた瞬間になくなってしまったので、
――昔なじみの友達が連絡してくれた――
という程度のものだった。
しかも、ゆりかのことが気になり始めてからは、亜季のことを気にすることもなく、半分頭の中から消えていたと言っても過言ではないほどだった。
ただ、ゆりかのことで違和感を感じたり、疑念が湧いてくると、なぜか頭の中に浮かんでくるのは亜季のことだった。それでも、なぜ浮かんでくる顔が亜季なのか分からず、必要以上に自分に対して自問自答することはなかったが、それでもふと思い出す亜季の顔は、昇に一息つかせるには十分だった。
昇が、「自殺菌」の話を聞いたのは、亜季が自殺を図ったという話を聞いた時だったような気がする。あの時は、
「そんなバカな話、信じられないよ」
と言っていたが、なぜか頭の中に残ったのだ。しかも、
――自殺菌の話が本当だとすると、誰にでも起こることであって、自分にもいつその災いが降りかかるか分からない――
と思うようになった。
しかし逆に、
――何も分からずに死ねるのであれば、それもいいかも知れないな――
という思いもあった。
人生に対して疲れているという感覚があったわけではないが、ちょうどその時、将来について何も考えることもなく、これから以降も、
――自分は何がしたいのか――
という思いはもちろん、
――自分に何ができるのか――
という発想すら浮かんでこない。
むしろ、後者の方が難しいと感じられるくらいだった。
本当であれば、何ができるかが分かった上で、何をしたいのかということを考えるのが筋なのだろうが、何ができるかということを分かる前に、何がしたいのかを考えてしまうことが、他の人には多いらしい。それを考えると、自分が考えていること自体が、無駄なことではないかと思えてくるから不思議だった。
亜季が自殺を図ったと聞いた時、昇は無性に腹が立ったのを覚えている。ただ、何に腹が立ったのかという肝心なことを覚えていないのだ。
――勝手に自殺をしようとした亜季に腹が立ったのだろうか?
それとも、亜季に自殺までさせた相手がどこの誰であるか分からない自分に腹が立ったとも言える。
亜季が自殺するに際して、どこかの男が絡んでいたという話は、伝え聞いて知っていた。
だが、何よりも亜季に自殺まで考えさせた相手が誰であれ、自分の手で報復してやれないことが一番腹の立つことだったのだ。
――何もしてやれない俺に、亜季を慰めてあげる資格はない――
と勝手に思いこんでいた。
冷静になって後から考えると、もう少し、亜季の立場に立って考えてあげればよかったと思った。亜季の立場に立って考えれば、
――その時、誰かにそばにいてほしかったのは、亜季自身だったはずだ――
と思えたはずだ。
それは、昇自身が、
――孤独でも寂しくない――
という思いを持っていたからなのかも知れないが、それを他人に当て嵌めるのは、無理なことであるということくらい、どうして分からなかったのだろう?
――「自殺菌」に邪魔されたのかな?
亜季に憑りついた「自殺菌」が、遠く離れた昇に影響してくるとは考えにくい。しかし、「自殺菌」が憑りついた相手から、気持ちを通して人に伝染するのであれば、そこに距離は関係ないのかも知れない。いくら近くにいる人でも、亜季とまったく違った考えを持っている人であれば、憑りつくことはない。そう思っていくと、昇に憑りつく理由は十分にあった。
昇は、自殺未遂をしたこともないのに、自殺しようとしている人が分かる時がある。
――死相が出ている――
というのを感じる人もいるのだろうが、昇には人の死相まで分かるわけではない。それなのに自殺しそうな人が分かる時がある。しかし、
「あの人、これから自殺するんだ」
と、言っても誰が信じるというのだろう。今までに何度か、言おうと思いながら、思いとどまってしまったことがあったが、その人が本当に自殺したのかどうか分からない。確かめたいという気持ちよりも、事実を知る方が怖かったのだ。
――俺って、本当の臆病なのかも知れない――
と、時々感じることがあるが、普通なら、
――そんなことはない――
とすぐに打ち消しそうなのだが、それができないのは、
――確かめたいという気持ちがありながら、本当のことを知るのが怖い――
という思いがあるからに違いない。
人の死相が見えるのに、自分のことになると、まったく分からない。それは、自分のことというよりも、
――自分に関係する人――
という意味で、二年前に祖母が亡くなったが、その時はまったく分からなかった。
そろそろ危ないという話は、伝え聞いていたので分かっていたつもりだったが、死相という意味ではまったく感じることはなかったのだ。むしろ、
――まだまだ長生きしそうだ――
と思っていたところでの突然の死だったので驚いている。ちょうど亡くなる三か月前に病院で診てもらった時は、
「別に異常はありません」
という結果だったのだ。
実際に祖母が亡くなったのは急だった。
体調不良を訴えて、大事を取って救急車で病院に運んでもらったが、家族のほとんどの人は、
「そこまで大げさにする必要はないんだろうけどね」
と言っていたにも関わらず、病院に着いて治療を受けているうちに、意識がなくなり、そのまま集中治療室に入った。
「容体が急変しました」
と言われて、家族はオタオタするばかり。病院内は祖母のことで、騒然となっていたのだった。
結局それから一週間、祖母の意識は戻らないまま、帰らぬ人になってしまった。あまりにも突然のことで、誰もが心の準備ができているわけもなく、意識を取り戻さない間も、頭の中にあるのは元気な姿だけ、
「気が付けば、もうこの世の人ではなかったって感じだな」
誰からともなくそんな言葉が発せられ、誰もがその声に振り向くことなく、頷いているだけだった。この一週間は、長いようであっという間だった。人の命を削るには、十分な時間だったと言えるのだろうか。
祖母の死から一か月くらい経った頃だっただろうか?
フラリと出かけた休日に、一人気になる人がいた。その人は、前を見ているようでまったく前を見ていない。
ただ、都会を歩いていると、そんな人は少なくはないが、ボンヤリしていても、どこかに精気はあるというものだ。
しかし、気になる人はまったく精気がなかった。歩いていると言っても、惰性で前に進んでいるだけ、目的があって歩いているわけではないので、歩きながらフラフラしている。
――誰も気にならないのかな?
と思いながら見ていたが、
――ひょっとすると、あまりにも近くにいると、その人の精気のなさに影響されているんじゃないかな?
と感じていた。
その人を見ていると、彼がまるで病原菌のように感じられ、またしても、自殺菌を思い起こさせるに至った。
自殺菌のことは、しばらく忘れていた。
祖母の死を目の当たりにしたこともあって、死というものに対して、少し印象が変わってきたのを感じていた。
それまで肉親でも、自分に関わりのある人でも、実際に死んだ人の葬儀に出席したりしたことはなかったので、ピンと来なかった。
自殺菌の話を聞いても、信じていたと思っていたが、本当は他人事だったのだ。理屈としては頭の中で理解できても、死についてピンと来ないのであれば、それは他人事でしかないのだ。
昇は、初めて出席した葬儀は、想像していたものと比べてまったく違っていた。
葬儀といえば、ただ暗いだけで、悲しさだけが表に出ていると思っていたが、通夜からの流れの中で、
――まるでイベントに参加したみたいだ――
と、死んだ人には悪いが、拍子抜けした気持ちになっていた。
「酒を呑んだり、昔からの馴染みの人が故人を偲んで、楽しく会話できれば、それが故人を安らかな眠りに誘うことになるんだよ」
と、聞かされたことがあったのを思い出した。
あれは、小学生の頃だっただろうか。一応親戚の人が亡くなったということだったが、結構な遠縁にあたり、しかも遠距離だということもあり、学校がある昇は参加しなかった。しかし、通夜について話をしているのを聞くと、
――そんなの信じられない――
と思う話だった。その話を今さらのように祖母の通夜の席で思い出し、
――あれは本当のことだったんだ――
と感じることで、祖母を明るく送り出すことに抵抗感がなかった。
普段はあまり人と喋らない昇だったが、その時は饒舌だった。自分が知らない祖母の話を、祖母の昔なじみに人から聞かされるのは楽しかった。
「おばあさんも、君が立派になったのを見届けたんで、安心してあっちの世界に行けたと思うよ」
と言われて、柄にもなく、涙もろくなった昇だった。
線香臭さは、どうしようもなかったが、それでも、通夜からの流れで、暗い気分にはならなかった。葬儀の日は、さすがに騒ぐわけには行かず、静粛にしていたが、暗くなっていたわけではなく、初めての葬儀に、感心しながら過ごしていたのを感じたのだ。
その時の雰囲気が、それからの昇に少なからずの影響を与えた。
――死というものを暗く考えることはないんだ――
という思いに駆られていた。
もちろん、死んでしまうと、その人とは二度と会えないという思いが一番の辛さであることは以前も今も変わっていない。それでも、死というものが、暗いだけだという認識ではないことを考えるようになっていたのだ。
その一か月後、完全に死相を感じさせる人を見かけた。それは、死を目の前にしていた祖母とはまったく違っていて、最初から生きることを放棄しているかのように見える雰囲気が漂っていた。
――この人、死ぬんだ――
と思ったが、止めようとは思わなかった。
止めたところで、思いとどまることはない。いや、本人に死という意識があるのかどうかも怪しいものだ。
説得というのは、相手が意識していることに対してできるもので、無意識の人間に対して説得など通用するはずもない。そう思うと、ただ見ているだけしかできなかった。
ただ、それを見ているだけの自分をじれったく感じることはなかった。むしろ、見届けるだけでいいと思っているのだ。
死相を感じたその人が、それからどうなったのか、正直分からなかった。しかし、その日の夜に見た夢は、まるで正夢のようで恐ろしかった。普段覚えていないはずの夢をここまでハッキリと覚えているのは、実に珍しいこと、どうして覚えていたのか自分でも分からなかったが、夢の中で見た死相が現れた人の顔は、夢から覚めるとぼやけて見えていたのだ。
――こんな人だったかな?
夢から覚めて思い出そうとしたその顔を思い出すことはできなかった。それだけ印象が浅かったのかと思ったが、あまりにも無表情なその顔は、印象が浅いというよりも、恐ろしさで、目を閉じてもその顔が迫ってくるのを、最初に見た時に感じていた。
――それなのに、覚えていないというのは、どういうことなんだ?
自分でも疑問だった。
だが、昇がその人のように、まったくの無表情な恐ろしい顔を、今までにも見たような気がして仕方がなかった。
その人も、最初に見た時、目を瞑って浮かんでくるその顔を、
――絶対に忘れることなどない――
と思っていたにも関わらず、同じように夢に見て、やはりその顔は目が覚めると、ぼやけてしか覚えていないのだった。
どんなに印象深い顔であっても、夢から覚めてしまえば忘れている。
――それだけ、夢の世界というのは、現実の世界とは一線を画した存在なのかも知れない――
と、その時に感じたが、再度同じことを感じるようになるとは、正直思ってもみなかった。
現実世界において、今まで感じたことがあった世界を思い起すことができても、一度夢に見てしまい、そして、夢から覚めてしまって、おぼろげになってしまったことは、いくら、
――絶対に忘れることなどない――
と、以前に思っていたとしても、結局は、夢の世界に従ってしまうことになる。それだけ夢の世界は、自分に大きな影響を与えるのだった。
だからといって、夢の世界だけを見つめていては、今の自分を見つめることはできない。それは一番自分が分かっていることであり、死相が現れた人を見たことで、その考えがさらに確定したものとして自分の中に残ると言うのも、皮肉なことであった。
昇は、以前見た夢の相手が亜季だったことを思い出した。
亜季に対して、死相が現れたのを見て、絶対にその顔を忘れないと思っていたのに、夢を見たことで、おぼろげになってしまった。それは、
――亜季に対して、恐ろしい表情を自分の中でイメージとして残したくはない――
という思いを持っていただけに、
――それでよかったのだ――
と感じた。
その後、亜季が自殺を試みたという話を聞いたが、それでも未遂に終わったと聞いたその時、
――やはり、夢に見て、恐ろしい表情がぼやけてしまっていたことが、功を奏したのかも知れない――
と感じたことは、間違いではなかったのだろう。
何が間違いだというのだろう?
亜季が自殺を試みた理由は分からないが、
――亜季は自殺など似合わない――
と、思っていたはずだ。
だが、死相を思い浮かべてしまい、夢でそれを打ち消すかのように、おぼろげな表情に変えてくれたことで、亜季は自殺未遂で済んだのだと思った。
その時は近くにいなかったが、昇の気持ちが通じたのだと思った。亜季は決して自殺などする人ではないという思いだ。もし、自殺を試みたとするなら、それは、亜季の気持ちとは関係のないところで無意識に行われた。つまり「自殺菌」のようなものが働いているのだとしか思えなかった。
誰の身に起こるかも知れない自殺菌の脅威。それは、自分にも言えることであり、無意識になることをなるべく避けたいと思うようになった。
しかし、そう思えば思うほど、
――気が付けば何かを考えていた――
というように、まわりから見れば、自殺菌に侵されているかのように見えるのではないかと、昇は考えていた。
昇は、もう一つ気になることを感じていた。こちらの方が本当は、気になっていたのだが、
――亜季が自殺をしたのは、昇自身が亜季に対して死相を感じたからだ――
というものだ。
もし、昇が亜季に対して死相などを思い浮かべなければ、亜季は自殺など考えなかったのかも知れない。それが、昇の夢だっただけに、余計に嫌な思いがしてくるのだった。
夢は潜在意識が見せるものだというではないか。ということは、昇は亜季が自殺するような雰囲気に感じていたということだろうか。しかも、夢というのは、無意識に見るものだ。ある意味、防ぎようがないではないか。
そう思うと、昇は自分が亜季に対して、取り返しのつかないことをしてしまったという自責の念に駆られてしまった。
しかし、その思いはあっけなく忘れてしまうことになる。それは、昇自身、どうしてなのかすぐには分からなかったが、そのことに気付くのは、やはり昇本人でしかないのだった。
昇は、自分でも意識はないのに、自殺未遂をしたことがあった。その時、自殺菌というものへの思いが確信に変わった。亜季が自殺をしたと聞いた時、自殺菌の話は耳にしていたが、
――まさかそんなものが存在するはずなどない――
という思いが強く、俄かに信じられるものではなかったのだ。
しかも、
――自分が自殺しようなどと思うはずもない――
と思っていたところへ、気が付けば病院に運ばれていて、まわりは自殺騒ぎで騒然としていた。
「誰が自殺?」
と言うと、まわりはキョトンとして、
「ショックで、記憶が?」
自殺を意識していなかったというよりも、自殺のショックで、意識よりも記憶の方が失われたというのが、まわりの見解だった。
もちろん、昇本人は記憶を失ったという意識がない。しかし、意識が朦朧としていて、自分の中に残っている記憶が本当に自分のものなのかどうか、疑問に感じるほどだった。
ただ、不思議なことに、昇自身が自殺をしようとしたという事実は、昇の記憶から消えていた。ただ、定期的に思い出していた。定期的というのは、同じ期間という意味ではなく、意識の中では同じくらいの間隔になるのだが、実際には同じなのかどうなのか分からない。なぜなら、思い出す時以外、記憶の中から完全に、自殺の意識が消えているからだった。
――以前に思い出したことが……
などということは、ありえないのだ。
ただ、何度か繰り返しているうちに、自分が過去に自殺を考えたことがあるという意識が芽生えてきた。そのうちに、定期的思い出していることも意識できるようになってきた。それでも、完全に意識できないのは、自分の中に
――「自殺菌」が入りこんでいるからだ――
と思っているからだった。
すべては自殺菌の成せる業。
定期的に思い出すのも、最初に意識していなかったのも、すべて自殺菌によるもので、自殺菌によって自殺を考えた人間にしか感じることのできないものを感じているかわりに、感じてはいけない時は、意識や記憶から自殺しようとしたことすら消えてしまっていることを分かっていない。
自分が自殺を考えたということを意識していない間は、亜季の自殺も信じられなかったが、自分が自殺を考えたことがあったのだと思うと、亜季の自殺も分からなくはなかった。
原因に関しては、思い当たるふしがあるわけではないが、性格的に自分と似ているところがある亜季のことなので、きっと自分が自殺しようとした理由を思い浮かべるよりも、亜季が自殺しようとした気持ちを思い浮かべることの方ができるような気がしていた。
昇は自殺菌に対して、自殺だけを考えていたわけではない。記憶を失うことに対しても、菌が影響しているような気がしていた。それが、いわゆる自殺菌と呼んでいるものと同じものなのかどうか分からないが、昇は同じモノに思えて仕方がなかった。
そもそも自殺菌などという呼び名は、勝手につけたものであって、人の何に影響を及ぼしているか、未知数だったのだ。ただ、自殺を考えた時に、菌を思い浮かべ、自殺しようとした自分の記憶が、ところどころ抜けているような気がしたので、どちらも同じ菌の影響によるものだと思っている。
それからしばらくして、昇は綾に、
「この間のバーに、ご一緒しませんか?」
と誘われた。その表情は楽しそうであったが、恋人をデートに誘っているような雰囲気に感じられなかった。
「いいですよ」
とは言ったが、
――友達として行く覚悟を持っていないといけないかも知れないな――
綾のことを好きになりかけていたが、本気で好きになるまでに至っていなかったことをよかったと思った。本気で好きになっていれば、誘われれば断ったかも知れないと思ったからだ。
――友達として――
と思った時、脳裏に亜季の顔が思い浮かんだ。
今まで、亜季に対して幼馴染以上のことを感じたことはなかったが、それ以下でもない。
――俺にとって一番大切な人――
という位置づけがずっと続いていた。
その思いが変わってしまう日が来るなどということは考えたこともなかったが、まさか、いつの間にか連絡を取り合わなくなったことで、存在すら意識しなくなる時が来るなど、想像もしていなかった。
記憶の中にはもちろんいるのだろうが、意識としてはなくなっていた。考えてみれば、記憶の方も怪しいものだ。思い出そうとすると思い出せるのだが、思い出していることが自分ではすべてだと思っているが、本当であろうか。
他の人の記憶であれば、時間が経つにつれて、次第に薄れてくるという意識があるのだが、亜季に対しての記憶だけはそんなことはない。
――色褪せてしまうなどありえない――
記憶が少しずつ薄れているとすれば、それは色褪せてしまっていることに繋がるなどという意識は今までにはなかった。もしあるとすれば、
――完全に忘れるはずのないものを忘れてしまうことだ――
ということと、
――あまりにも昔のことで、記憶の賞味期限が切れてしまった場合――
をいうのではないかと思っている。
――記憶の賞味期限?
自分の発想であるにも関わらず、思わず自問自答してしまったこの言葉に、思わず苦笑いしそうになっていた。
モノには、確かに何かの期限があるのだろうが、記憶にもないとは限らないと思っていた。
記憶してから完全に忘れてしまうものは、数知れず。それが十年なのか一年なのか、ひょっとしたら一日で忘れてしまうものもあるかも知れない。中には、
――覚えていたくない、忘れてしまいたい――
という記憶もあることだろう。
そんな思いは得てして忘れてしまったと思っても、完全には忘れているわけではないようだ。どうかすれば思い出すこともある。だから、
――完全に一度記憶したものを忘れることはないのだ――
と思っていた。
しかし記憶という者が色褪せるということは意識としてハッキリとしている。ちょうどその時に、
――賞味期限が切れた――
と言えるのではないだろうか。
完全に忘れることのない記憶でも、最初に覚えようとした肝心なことが形を変えそうになっているのだとすれば、それは完全に、
――賞味期限が切れたようなものだ――
と思っていいだろう。
「賞味期限というのは、おいしく食べられる時期という意味なので、少々切れたとしたって、食べられないことはないさ」
と言っていた人がいて、それには昇も賛成だった。生ものなどではない限り、少々、賞味期限が切れていたとしても、
「もったいない」
と言って食べたことがあった。別に身体やお腹を壊したわけではなく、そういう意味では、大雑把な性格と言えるような気がしていた。
昇にとって、記憶も同じではないのだが、どうしてその記憶に賞味期限という言葉を当て嵌めたのか分からなかった。
しかし、あまりにも当てはまりすぎていることで、思わず苦笑いをしてしまったのだ。ここでも、自分が大雑把な性格であることを思い知らされたことも、苦笑いに繋がったのだろう。
亜季に対しての記憶は、賞味期限とはまだまだ関係のないものだと思っていた。しかし、本当にすべてを覚えていると今までは思っていたが、実際に思い出そうとすると、その思いが怪しいものであることを意識し始めた。
――亜季のことで覚えていることを自分なりに整理していると、どうも繋がらない部分が多々あるようだ――
という意識があった。
それがどの部分なのか、ハッキリと分からないが、元々、四六時中一緒にいるわけではないので、繋がらない部分があってしかるべきなのだ。
――それを無理に繋がるような記憶で覚えていたのかも知れない――
と思うと、
――俺って記憶を改ざんして覚えているのかも知れない――
と感じるようになり、すべての記憶が曖昧に思えてきた。
それは、自分の中に大雑把な部分があることを再認識したからで、賞味期限だけに限ったことではなかったからだ。
ただ、誰にでも大雑把なところはあるだろう。人間、完璧なほど、大雑把なところのない人間などいない。大雑把ではないとすれば、完全なる潔癖症な性格になるのであって、たとえば、
――自分の机や椅子と他の人が触ったからと言って、いちいちアルコール消毒をするようなものだ――
本当にそんな人間がいるのかどうか分からないが、以前読んだ小説の主人公に、そんな潔癖症な人が出てきた。
その時、本を読んでいて、何やら訳の分からないイライラを感じたのを思い出した。最初はその出所がどこなのか分からなかったが、今から思えば主人公のしつこいほどの潔癖症に苛立っていたようだ。
ただこの思いは、昇だけのものではないかも知れない。他にも本を読んで同じような思いをした人は少なくないと思っているが、どうであろうか。
苛立ちは、自分の大雑把な性格から来るのだとすれば、他にも同じ思いの人がいてもおかしくないのだ。
昇は自分の記憶を改ざんしているのではないかと思ったことを、すぐに打ち消していた。改ざんというのは大げさであって、
――記憶というのは、時間が経てば、少しずつ意識の中で変わっていくのは宿命のようなものだ――
と感じるようになった。
記憶というのは、そのままでは思い出すことはできない。記憶の引き出しから出されたものが、自分の中の意識を通して、初めて思い出すことができるのだ。意識を通らないと思い出せないということは、記憶を思い出すための意識が、毎回同じでなければ、同じ記憶として思い出すことはできない。
意識がずっと同じだということはありえない。刻々と自分のまわりの環境が変わっているのに、意識だけがずっと同じだということは、
――何に対しても中途半端でしかない――
と言える。
そう思うと記憶も同じなのではないかと感じるが、記憶に対して違和感を感じることはなかった。
ということは、記憶というものは、以前思い出したものと微妙に違っていても、それは誤差の範囲であって、曖昧な部分は、まるで車のハンドルの遊び部分のように、無意識に同じようなものだと感じているのと同じではないだろうか。
記憶というのは、今から思い出す意識としては、時間的な厚みを感じることはできない。昨日のことであっても、一年前のことであっても、時間と距離で意識するのであれば、さほど違いを感じることはない。それだけに一年前の記憶はほとんど薄れてしまっているはずなので、薄れているという意識から、その記憶が大体それくらい前のものなのかということを、逆に探っている。
だから、記憶というものは曖昧で、どうしても時系列がハッキリしない。
――こんな思い、他にもあるよな――
と自分に問うてみると、
――そうだ、夢と同じではないか――
夢も、子供の頃を思い出しても、昨日のことを思い出しても、懐かしさという意味では、さほど違いがないように思える。
――記憶と夢――
共通点が多いが、違っているところもかなりある。それは、
――夢というものは、潜在意識が見せるものだ――
ということだからである。
記憶から引き出された時に通る意識は、潜在意識ではないと、昇は感じていた。
夢との違いを想像していると、夢の中にある恐怖を急に感じるようになった。それは、怖い夢を見るというよりも、夢の中にある気持ち悪さとでもいうべきであろうか。今まで怖い夢だと思っていたことが、
――気持ち悪い夢――
だという意識に変わっていくのを感じた。
「今までで一番怖い夢というのはどんな夢だい?」
と聞かれたとすれば、迷うことなく、
「もう一人の自分が出てきた夢だ」
と答えるだろう。
夢を見ているという時というのは得てして、自分が客観的に見ていることが多い。しかも、主人公である自分の意識もあるのだ。
つまり、主人公としての意識もありながら、客観的に見ている自分もいるという、不思議な世界だった。
現実社会ではありえないことだ。特に昇は、たとえば、右手で何かをしながら、左手で別のことをするということのできない方だった。ピアノを弾くことができないのは、左右で別々の動きをするのができないからだった。どちらかに集中すると片方はどうしても疎かになってしまう。それが、自分だと昇は思っていた。
さらに、右手が暖かく、左手が冷たかったりする時、右手で左手を覆って、暖めようと考えるが、その時、右手が冷たく感じるのと、左手が暖かく感じるのとで、どちらがより敏感に感じるかということは分からない。
実際にやってみたこともあったが、ハッキリとは分からないのだ。どちらかに集中すればできなくはないだろうが、それすらできないような気がして、結局意識はそれ以上のことをもたらさなかったのである。
夢の中でもう一人の自分が出てきたということは、主人公である自分、さらに客観的に見ている自分以外にも、もう一人いるということだ。その人間は、明らかに自分の意識の中にいる自分ではない。潜在意識が作り出した。
――架空の自分――
なのだ。
それだけに、架空の自分は何をするのか、想像もつかない。今までに何度かもう一人の自分を夢の中で感じたのを覚えている。夢の内容までは覚えていないが、もう一人の自分が現れたことは、記憶の中にハッキリとしているのだ。
ただ、もう一人の自分が夢の中で、主人公の自分に危害を加えたということはない。それどころか、誰にも影響を与えることはないのだ。
――じっとそこにいるだけ――
そんな存在のもう一人の自分は、表情を変えることもなく、じっと前を見つめている。
主人公である昇のことをまったく意識していない。まるで見えていないかのようにも感じられる。
――まるで、別の時代からタイムスリップしてきたような存在だな――
当たらずとも遠からじの発想に、我ながらビックリしたものだが、その発想は意外とすぐに頭に思い浮かんだ。
――タイムスリップしてきた自分は、その時代の自分と遭遇してはいけない――
という暗黙のルールがあるように、昇は考えていた。
誰かと話をしたわけではないのだが、この発想が、もう一人の自分の存在を知ってからなのかどうなのか、曖昧なところだった。しかし、夢の中のもう一人の自分と、タイムスリップの関係に気付くまでにそんなに時間が掛かっているわけではないのだ。それを思うと、
――最初から想像していた――
という考えが、一番強いのではないかと思うようになっていた。
もう一人の自分の存在は、もちろん夢の中だけのものだが、同じような胸騒ぎを感じたことがあった。
――そうだ、あれが綾と一緒にバーに行った時のことだったのかも知れない――
綾は、あの時、
「私と同じような人が、もう一人存在していることを私は分かっているの。それは、まるでもう一人の自分のような存在なのかも知れないわね」
と言っていたが、昇は彼女の、
「もう一人の自分」
という言葉にドキッとさせられた。ただ、その言葉の意味が自分で感じているもう一人の自分とはかけ離れているようで、必要以上な意識はその時にしなかったように記憶している。
その言葉を思い出したのが偶然なのかどうか、今までの昇なら、
――ただの偶然にすぎない――
と思っていただろう。
しかし、偶然というのも、何度も重なってくると、ただの偶然で片づけられなくなってしまうだろう。そこに、自分の願望が入っているかも知れないと感じるからだ。
綾に誘われて、この間のバーに来たのだが、そこには先客がいて、一人で寂しそうに呑んでいた。
――どこかで見たことがあるような――
と思っていたが、すぐに誰だか分かった。そこにいるのは亜季だったのだ。
最近思い出すことが多く、まるで虫の知らせではないかと思えるほどで、今までなら、大げさなほどビックリしていた自分が、完全に拍子抜けしていた。しかも、我に返ると、頭の中はアッサリとしていて、
「久しぶりだね」
と、普通の笑顔で声を掛けることができた。
「ええ、そうね。何年ぶりかしら?」
亜季の方もまるで分かっていたかのように、落ち着いて返事を返してくる。大人の会話に満足しそうだったのだが、自分のことは棚に上げて、亜季が落ち着いていることに対しては、どこか不満な気がした。
――もう少し大きなリアクションをしてもいいのに――
と、自分と出会ったことがそれほど嬉しくないのかと言いたくなるような気持ちにさせた亜季が少し小憎らしかった。それでも、冷静さを装いながら、次第に気持ちが高ぶってくるのを感じると、心の奥からドキドキした感覚がよみがえってきた。
――これも懐かしさの影響なのだろうか?
と思ったが、懐かしさは心の奥にしまいこんで、さらに平静な顔を表に出している。先にこちらから喜ぶ顔を見せたくなかったのだ。それがせめてもの、小憎らしさに対する抵抗のようなものだった。
「昇さんは、ここには何度か来られたことがあったの?」
「いや、彼女にこの間連れてきてもらって、いい店だって気に入ったんだよ」
「今日は?」
「今日は、彼女からもう一度行こうって誘われたので来てみたんだ」
昇は正直に答えた。
昇の考えは、いつもことごとくと言っていいほど、亜季に見破られている。ウソをついても同じことだった。もっとも、この場合ウソをつかなければいけない理由など存在しない。もし、綾が昇のことを気に入っていたとしても、それは今さら亜季には、何の関係もないことだからである。
綾は、二人の様子を何も言わずに見ていた。昇は少なからず綾のことも気になっていた。それだけに、なるべく平静を装うようにしていたのだが、それ以上に、自分の中から高ぶった気持ちが表れることはなかった。
「お二人は、どういう関係なんですか?」
亜季が、切りこんできた。以前から昇に対して高圧的なところが多く、昇の方も、亜季に対して、女性としての雰囲気を感じさせないほど、よく言えば颯爽とした態度を取っていたのだ。
だから、亜季にいきなり切りこまれても、
――そら来た――
と感じることはあっても、驚くことはない。最初から亜季と一緒にいる時は、それくらいの覚悟はしているからである。
「どんな関係というような関係じゃないよ。同じ会社の同じ部署に勤めている人ということだけだね」
と、平然と言ってのけたが、亜季はそれをどのような気持ちで聞いていたのか、
「そうなの。彼女かと思った」
亜季が、直球でそんなことをいう時は、逆に彼女の中で何も根拠がないことが多かった。カマを掛けているのかとも思うが、どうもそうではないらしい。亜季にしてみても、言ってはみたものの、表情は後悔している。それは、きっと根拠もないことを口にしたことに、自分に対しての後悔なのかも知れない。
「そんなことあるわけないじゃないか」
と言いながら、苦笑いをしてあげると、亜季も笑顔を返してくれる。これで幾分か亜季の中にある後悔は薄れていることだろう。
「それにしても、変わってないね」
というと、
「そうかしら?」
と聞き返す。このあたりも以前の亜季と変わっていないようで、嬉しかった。変わっていないという昇の言葉と表情で、昇が安心しているのが分かるのか、安心させたくないという亜季の気持ちがどこかにあるのだろう。それは、意地悪な気持ちからではなく、安心した気持ちになると、昇が余計なことを考えてしまうかも知れないという思いからであった。昇はさすがにそこまでは気付いていなかったが、亜季には意地悪な気持ちからではなく、思っていることと逆のことをするくせがどこかにあるようだ。
それは天邪鬼なところのある昇だから分かることなのだろう。昇が安心してしまうと余計なことを考えるところがあるということは、亜季しか知らないことだった。昇本人にも分かっていないことで、余計なことを考えることを自分では分かっていたが、それが安心した気持ちになった時であるという意識はなかった。
昇の中で安心感が芽生えたという意識はまわりから見ているよりも、本人の意識は薄いようだ。まわりが分かるのは、
――思っていることが顔に出やすい――
という性格だからであって、それが正直な性格にあるということと昇の中で結びつけができないことで、自分で思っているよりも、まわりは昇のことを分かっていたりするものだ。
それを昇は気持ち悪いと思っていた。
――どうして、まわりはそんなに俺のことが分かるんだ――
何かを企むとすぐに露見してしまった。悪いことなら仕方のない気もするが、何かのサプライズを企んでも、分かってしまうのは寂しいものだ。大人になるとまわりは気を遣って分かっていても分からないふりをしてくれるようになったのだが、子供の頃は、バレバレになってしまって、
「せっかくの計画がお前のせいで、皆に分かっちゃったじゃないか」
などと言われて、内緒の話に加えてもらえなくなっていた。
子供心にもこれは寂しいものだった。
そんな昇のことを分かってくれているのは、亜季だけだった。
亜季は分かっていることでも、昇には自分が分かっていることを何も言わなかった。実は逆も真なりで、亜季の考えていることも、昇には分かっていて、昇もそれを亜季に言うことはなかった。
――いいコンビの二人――
だったのだ。
綾はそんな二人を見ながら、無表情で昇の後ろに最初は立ちすくんでいたが、二人に会話がないことに気付くと、すぐに奥の席に座った。
亜季は手前の方の席にいたので、亜季と綾はかなり離れて座ったことになる。
昇は我に返り、綾が奥の席に座ったのを見ると、
「じゃあ」
と言って、頭を下げ、奥の席に綾と隣り合わせに座った。
それを見ると、亜季は一旦自分の席に腰かけると、グラスを持って、今度は昇の隣に座った。
奥から、綾、昇、亜季の順番で座っていることになり、昇は二人の女性に挟まれる格好になっていた。
「こちら、いいわよね」
亜季は、昇に言ったというよりも、その横にいる綾に話しかけたようだ。それを察したのか綾は、
「いいですよ」
と答えた。
二人に挟まれた昇は、亜季の性格は分かっていたので、綾が答えたことに違和感はなかったが、昇が別に驚いていないのを見て、綾は少し不満そうな顔を向けていた。
「お二人は、お付き合いされているんですか?」
亜季が、綾に聞いた。
「いいえ、これからのことは分かりませんが、今は普通の同僚です」
と答えた綾だったが、その表情は驚くほど冷静だった。
会社でもポーカーフェイスの綾だったが、二人きりの時もあまり表情を変えなかった。
――この人は他にどんな表情を持っているんだろう?
と、表情がまるでモノでもあるかのように、昇は考えた。それは、まるで考えていることとは無関係の仮面を付けているかのような感覚だった。
亜季のことを気にしながら、綾と飲んでいても、なかなか会話が弾むはずもない。そのうちに亜季が、
「私、帰るわね」
と言って、席を立った。
時計を見ると、午後九時を少し回ったくらいだった。店にやってきて一時間ほどしか経っていない。
それなのに、昇には、三時間近くいたように思えて仕方がなかった。亜季が席を立ってくれたことは、昇にとってどんな影響があるのか、自分でも分からなかったが、なぜかホッとした気分になっていた。
その理由は二つあって、一つは、
――亜季が帰ってくれたおかげで、綾に集中できる――
と思ったのと、
――亜季には、近い将来、また会えるような気がする――
という、根拠のない自信のようなものがあったからだ。
今までの昇なら、亜季が帰っても、綾に集中することなどできなかったことだろう。知っている人が今までそばにいて、その視線を痛いほど感じたことで、彼女がいようといまいと、すでに集中などできなくなってしまっているからだ。
それは、昇が度胸がなかったからではない。逆に度胸がある方が、彼女がいなくなっても気になるものは気になっているに違いない。昇が意識を頭の中から外すことができると思ったのは、亜季を知っていた頃の自分と、今の自分とで違いがあることに気が付いたからだった。
それは、昇の中にあるS性だった。
S性があることで、相手がいるのといないのとで、違ってくると思ったからだ。少しでも?が残ってしまうと、いなくなった後も、視線が気になってしまう。それは嫌な視線というよりも、むしろ、
――感じていたいと思っていた視線――
であり、残像が少しでも残っていれば、自分から感じなくなるような真似は出来ないものだったからである。
さらに、昇が気になっていたのは、亜季が自分に対しての視線だけを感じていたのではないと思ったことだ。
むしろ、亜季の視線は、昇に対してというよりも、綾に対しての方が強かった。
綾はなるべく感じないようにしていたようだが、かなり気になっているのは分かっていた。
綾も、その視線を嫌がっている様子はないようだった。逆に心地よさげにウットリとしてしまうところもあるくらいで、
「どうしたんだい?」
と思わず声を掛けると、
「あ、いえ、何でもないわ」
という答えが返ってきた。しかし、その時に一番ドキドキしていたであろう人は、何と視線を投げかけていた亜季だった。亜季は、昇に気付かれないようにしようという意識はなかったようだ。何しろ二人は以前からお互いに知っている仲である。隠そうとしても隠し通せる仲ではないはずだ。
昇は亜季をチラチラと見ていた。
亜季のドキドキした雰囲気を見るまでは、亜季の視線を、自分が低い位置で見ているだけだと思っていたが、ドキドキを感じるようになって、
――俺の方の立ち位置が、亜季より高くなったのか?
と、立場が逆転していたかのように感じた。
――そういえば、今までに亜季を見下ろすような態度を取ったことってなかったような気がするな――
なるほど、今まで亜季に対して感じたことのないような感覚だった。
――俺の方が見下ろしているなんて、おかしなものだ――
やはり、S性が強いからなのか、さらに亜季に対して、強い視線を浴びせ返すと、今度は亜季が昇に視線を移すことはなくなった。
その代わり、綾に対しての視線を強くしたようだったが、途中から亜季の態度が変わってきたことに、次第に気が付くようになっていた。
――どうしたんだろう?
何かに気が付いたような雰囲気だった。綾と亜季はここで偶然出会った。二人の共通点として、昇がいなければ、二人は意識することもなかったはずだ。そういう意味では昇が今日いたことは、やはり偶然などではない。昇が考えている、
――偶然という言葉は、それほど濃いものではない――
という思いを、証明しているかのようだった。
昇が偶然という言葉に疑問を持ち始めてから、ゆりかのことを再度意識するようになった。その日、バーに行ってからの綾は、それから昇のことをあまり意識しなくなったからである。
――一体、何だったんだろう?
バーに立ち寄ることもなくなって半月が過ぎようとしていた。昇はいつも目に見えるところにいる綾を意識していないのに、あれから会うこともなかった亜季のことが気になっていた。だが、それは好きだという感情ではない。とにかく、あのまま会えなくなることに寂しさを感じていた。自分でもよく分からない感覚だったのだ。
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