4 謎の言葉
その土曜日の朝、時子は編集の佐々岡さんと連れ立って、商店街の奥にある中華料理の老舗、桃龍楼を訪れていた。イラストマップがかなりできてきて、今日はタウンニュースの方の取材だ。開店1時間前の静かな時間に来店、取材が終わったらそのままランチをいただくというおいしい取材である。
「ああ、タウンニュースの佐々岡さんと芽森時子さん、はい、町内会長の安田からうかがっています。確か、あとでランチのフルコースをご試食の予定ですね。奥へどうぞ」
まだ若い4代目当主のリュウトさんが出迎えてくれた。店の前は美しい石畳になっていて、左右に竜の彫像があり、ちょっと高級な感じだ。時子は許可をもらって、リュウトさんの似顔絵をさっと描き上げ、愛機の小型一眼レフで店のあちこちを撮らせてもらった。
「あら、きれいなお花。時子さん、店内の写真もお願いね」
店の中は、中心に大理石の小さな舞台があり、季節の花を飾るようになっている。今は花菖蒲やあやめ、もうすぐアジサイになるという。
リュウトさんは物静かで礼儀正しい感じだが、身長が結構高く、風格がある。
「こちらが予約のお客様のための個室となっております」
「わあああ、すごーい!、きれいな庭ですね」
個室の窓から見えるのは思ったより広い中庭であった。庭の奥は神社の鎮守の森につながっているとかで、小さなせせらぎが音を立てて流れてくる。その手前には桃の花園があり、毎年3月には赤や白、桃色の花が咲き、おいしい桃が取れるそうだ。そしてせせらぎは、スイレンの花が咲く透き通った大きな池に注ぐ。池は結構大きく、中庭の3分の1ほどを占めている。そしてまだ店の始まる少し前だからか、池の前の小さな石畳で若い娘が太極拳を舞っていた。
時子が訊くと…。
「ああ、あれは妹のリンです。毎日朝方からクンフーをするのが日課です。実践でも結構強いですよ」
つい見とれていると、ゆっくりした優雅な動作が、あるときを境に、すばやい動きに変わった。これが実践の時の早さなのだという。あの腰を中心にした大きな円の動きが高速になると腰のひねりのかかった重いけりや突きになるのがよく分かった。
「リュウトさんも、クンフーが強そうですね」
佐々岡さんがそう言うと、長身のリュウトさんがニヤッと笑って、太極拳の突きと蹴りをその場で一瞬やって見せてくれた。すごいスピードで足も長くて、鳥肌が立った。
「どうですか、ほかに見てみたいものはありますか?」
リュウトさんの言葉に、時子はなぜか、池を近くで見てみたいと言った。
「どうぞ、こちらに」
庭に出て池に近づくと、神社の森の湧き水から流れてくるというせせらぎのおかげで、水は清らかで透き通っていた。
「わあ、すごい。錦鯉も見事だけれど、小さなハゼ、ヨシノボリや、婚姻の赤く輝くオイカワもいるわ。これって川の魚ですよね」
この池の水はさらに下流に流れてこの辺りで1番大きな大玉川にそそいでいるという。そこからさかのぼってきたらしい。
大玉川からこの池にアユがのぼってきたのを見たことがありますよ。ここの水は北辰神社の鎮守の森から流れてきたのだけれど、いつも清らかな水をこの池に運んでくれるのです。うちの父の話では妹のリンが4、5才のころに山火事があって、一度水が枯れた事件もあったのだけど、今はすっかり湧き水も復活したそうです。
取材が終わり、個室で佐々岡さんと2人でくつろいでいると、なんと先ほど太極拳をやっていた妹のリンさんがワゴンにランチメニューを載せてやってくる。
「5種類の零細の盛り合わせでございます」
リンさんは、今年高校を出たばかりだが、週末は店に出て仕事をおぼえたり、料理の特訓なんかもやっているという。
料理の写真は佐々岡さんが丁寧に撮影し、食レポもその場ですぐにメモ帳に書き込んでいた。う、うまい、中華クラゲにチャーシュー、ピータン、バンバンジーに金華ハムのサラダがすぐになくなる。時子はさっとタブレットを取りだすとまた何か描きはじめた。
「リンさんは今、何才ですか?」
「19です。え、あ、すごいこれ、私ですか?そっくりだわ」
チャイナドレスの美少女の太極拳がリアルに描かれていた。
「このイラスト、あとで仕上げて送るわね」
リンさんは時子のイラストに高い興味を持ったようで、色々話が盛り上がった。
ランチコースはそれからふかひれの薬膳スープ、エビのオーロラソース、牛とスナックエンドウのオイスターソース炒めと続き、この店の名物、トロトロの豚の角煮に小麦粉を振って高温の油でカリッと揚げたものを使った黒酢酢豚でとどめをさす。あとは海鮮チャーハンと柔らか杏仁豆腐でフィニッシュだ。
「うわあ、おいしかった」
グルメの佐々岡さんも大満足だ。
時子と佐々岡は、長身のリュウトさんとかわいらしいリンさんに別れを告げて商店街の他の店に向かった。
次の日の取材は少し変わった場所だった。東口商店街の奥にある桃龍楼のさらに奥に行く。そこは大きな森とせせらぎの北辰神社、そして地獄めぐり絵図で有名な妙顕寺だ。北辰とは北極星や北斗七星を神格化した古代中国の思想であり、それが仏教の世界で菩薩になったのが妙見菩薩であった。2つはもともと1つであったが明治時代に北辰神社と妙顕寺に別れた。北極星や北斗七星の宝物である七星剣や天帝図などの宝物を持つ北辰神社は続けて栄えたが、妙顕寺はそれに対抗して、当時の住職が、京都から高名な絵師を呼び、地獄めぐり曼荼羅を作った。この絵巻は庶民に親しまれ、現在も地獄めぐり絵巻として人気がある。
「タイゾウお父さんがスカルマスクを調べるなら、必ず妙顕寺に行けと言ってたわね。しっかり見てこなくちゃ」
時子は桃龍楼を出ると山側に向かって緩い坂道を登りだした。道の幅が少し狭くなり、石畳に変わる。最初の目標、名物七星団子の看板が見えてくる。明治時代からある古いダン小屋で、味が何度か変わり、今では柚子、桜、抹茶、アンズ、梅、餡、コーヒーの7つの味の7つの団子がささっている。美しくて、おいしくて、女子に大人気だ。
そして北辰神社のグルメと言えば、山の湧き水から作った名物そばだ。この参道には何軒もの蕎麦屋があるだけでなく、北海道の3台昆布を豊富に取りそろえただしの乾物の専門店、そば粉や生麺なども売ってくれる製麺所、そば打ちの道具もすべてそろうそば打ち道場などもあるのだ。
そして参道の途中で小道を右に曲がるとすぐに行き止まり、現在の自宅、おばさんのうちに着く。でも左の太い道を登ればすぐそこに、地獄めぐり絵巻の文字とともに小さな丘の上の妙顕寺が姿を現す。秘仏の妙見菩薩を配置してある本堂もたくさんの人が来るが、なんといっても多くの人のお目当ては、丘の中腹に口をあける、地下に続く階段、地獄めぐりの入り口だ。するとさっと人影が近づく。
「はーい、時子さん。いいお天気でよかったわ」
今日はタウンガイドのメイン取材、妙顕寺と北辰神社だ。早めに出たつもりだったが、佐々岡さんはやはりいつも先に来ている。
ひんやりした石の階段の奥に、小さな照明がところどころ光るだけの薄暗い地下道があり、その奥に地獄めぐり絵巻が展示してあるのだ。子供のころ一度だけ来て怖くて逃げ帰った記憶がある。今となっては中に何があったのか全く思い出せない。この中は撮影禁止なので、お得意の早描きで外に出て記録するしかない。時子と佐々岡が行ったとき、数人の若い男女のグループが一緒に入っていった。
「いやあん、なんか怖いわ」
男女のグループは、遊園地のお化け屋敷に入るようなのりで、キャッキャいいながらも楽しそうだ。階段を少し下りるとすぐに三途の川と書かれた小さな水路があり、橋を渡らないと先に進めない。橋の前には賽の河原を模した河原があり、積まれた石がいくつも立っている。死んだ子供が父母供養のために石を積むが、高く積もうとすると鬼が来て壊してしまうというあれだ。なんか怖いと思うと、奥には石のお地蔵さんがやさしい笑顔を見せている。橋のたもとに小さな小屋があり、その小屋の横に2mはありそうな不気味なおばあさんの石像が立っている。これは亡者どもの服や持ち物を奪い去る女の鬼、奪衣婆に違いない。近づくと小屋の中から、『地獄へ行きたいなら、六文銭払ってから橋を渡りな』という低い声が聞こえてくる。さすがの佐々岡さんが奪衣婆の横でちょっとびびる。かなりやりすぎの入場料受付だ。
2人は小銭を支払うと橋を渡って先に進む。するとすぐに昇り階段があるのだが、途中から木の階段に変わる。どうやら地下から地上に出たらしい。薄暗いままだが、廊下を進むとちょっと驚く。
「うお、でかい。あ、これは閻魔様か」
男女のグループが驚きの声を出す。時子たちは地下道を通って、いつの間にか本堂の隣にある閻魔堂に来たようだ。2mをはるかに超える閻魔像がぎょろりと亡者どもを見下ろしている。すごい威圧感だ。ここで生前のあらゆる罪が裁かれ行き先が決まるのだ。
そして絵巻の展示室に入るのだが、ここも薄暗くておどろおどろしい地獄の絵巻だけに照明が当たっている。最初に人間は死んだ後に天界に行くだけではなく、餓鬼道、畜生道など六道と呼ばれる霊界に生まれ変わるのだが、その最下層、罪を犯した人がその罪によって行きつくところが地獄であるという、その説明となる図絵から始まる。そして地獄図絵そのままのよくできた不気味な木製の地獄門をくぐる。いよいよだ。
有名な針の山や火の山、血の池地獄は煮えたぎり、肉をはぎ取ろうと亡者に襲い掛かる鬼たちの凄まじい絵が飾られている。容赦なく襲い掛かる鬼。泣き叫び、わめく亡者たち、
「あ、あった、ここにスカルマスクの部下たちがいるわ」
時子が見つけたのは、地獄の獄卒、牛の頭や馬の頭を持った魔物、牛頭馬頭(ごずめず)だった。地獄図絵では、亡者が逃げないよう、門番のように地獄の門を凄い迫力で守っていた。
「なるほどね、地獄からよみがえった超人の部下はここから来てたのね」
そして一通り見終わるとまた暗い、今度は登り階段を上がっていく。すると途中から明るくなり、外に出る。
「よくできてるわ。ここが天界ってわけね」
光に満ちたそこは、妙顕寺のある丘の上だった。湧き水の大きな池があり、見事な蓮が咲いていた。そして解説板によると、この出口は真北に向いており、夜になれば北斗七星や北極星がこの池の上に輝くのだという。
そしてここから横道に出ると、森とせせらぎの北辰神社に行くことができるらしい。
当初の予定では、このまま下に降りて、参道の名物蕎麦屋の湧水庵に2人で食べに行く予定だったが、急に佐々岡さんの携帯に連絡が入った。
「ごめん、駅前で編集部の早坂と打ち合わせすることになっちゃった。蕎麦屋に行くのは午後の取材のあとでね。先に帰るわね」
「じゃあ、私はここで忘れないうちに絵でも描こうかな」
時子は佐々岡さんと別れると、見晴らしのいい丘の上のベンチに腰掛けた。そして今見てきたおどろおどろしい地獄の風景を、三途の川と奪衣婆や賽の河原の石積やお地蔵様の笑顔なんかを猛スピードでイラストに描いていた。
どれだけ集中していただろうか。気が付くとお腹が空いていた。
「あれ、もうこんな時間、お腹がすくはずだわ、とっくにお昼を過ぎている」
時子は予定を少し変えて、すぐ近くの緑に囲まれた自宅へと1時帰っていった。
朝、水をやった畑のナスやトマトの葉が、いっぱいに日光を浴びていきいきと輝いていた。
玄関の大きなドアを開けて中に入って洗面所で手を洗うと、すぐにキッチンに直行、大きな冷蔵庫を開けて最初によく冷えたトマトジュースを1杯飲みほし、食パンを1枚取り出すと、ガーリックバターととろける地図をのせてその上に釜揚げシラスを敷き詰め、オーブンントースターで焼き始めた。焼けるまでの短い間にカニかまぼことセロリのピクルス、プチトマトにちょっぴりマヨネーズを付けてサラダ風に盛り付け、さらに豆乳をコップに用意し、ホノカとタイゾウさんの店で買った新種の柑橘類も冷蔵庫から取りだした。
チーンとオーブントースターが鳴ると、香ばしく焼き目のついた釜揚げシラスとチーズのトーストにかじりつき、時々かにかまサラダを突っついた。
「う、たまらないわね。サクッ、トロっていうこの食感。しらすとチーズとガーリックのハーモニーも最高!」
時子はモリモリ食べて、最後に豆乳で流し込んだ。
そしてデザートの新種の柑橘類を食べる。
「う、うまい、冷えたジューシーな果肉がたまらない。けっこう甘いけど酸味もあって最高。これなんて言う品種なのかしら、ホノカちゃんに聞いてまた買ってこよっと」
すっかり満腹になると、時子は再び身支度を整え、出かけていった。おばさんの屋敷からすぐ近くの北辰神社だ。ここの神社は通勤路のすぐ横出し、散歩がてら何回も行ったことがある。でも今日はこの神社の宮司さんにお話しを聞く約束があるのだ。
早速駅から帰ってきた佐々岡さんと合流。
「えええーっ、そんな大事なこと全然知らなかった」
2人は神主さんについてあちこちに湧き水の水路がある境内を歩いて回った。すると宝物殿の七星剣や本田の天帝図よりもずっと貴重な宝があるというのだ。
本殿裏手に案内してくれる。そこには丸い澄んだ泉があった。水は透き通り、澄み切っていた。その湧き水の岸の近くに1列に並んだいくつかの岩があり、池の中心にも。苔むした大きな岩があった。ここは立ち入り禁止ではないが、ほとんど参拝客も訪れない場所だ。
「実はこの泉こそがこの北辰神社の御神体なんですよ」
そして宮司が説明するには、この池の外側の丸い岩は全部で7つあり、北斗七星を表しているという。そしてこの水のあふれる透き通った大きな丸い池が天空を表し、池の底の小石こそが天の星、中心にある丸い岩こそが天鄭と呼ばれる北極星だという。
2人は宮司さんと近くの斜面に上り少し高いと頃から池を見下ろした。確かにそこに北極星を中心に地球の自転とともに回転していく北の空が、北斗七星が見えた。これがご神体だったのだ。近づきすぎては決してわからない、湧き水の作り出す大空だった。
「本当によかった、神社の大事なご神体がわかって…」
時子は頭の中にこの風景を焼き付け、写真も何枚か取らせてもらった。ここの泉から大きく2筋のせせらぎが流れ出し、1つは妙顕寺の蓮池に、もう1つは桃龍楼の池に注いでいるらしい。
時子はふと思い出して宮司に聞いた。
「いまから15年ほど前、山火事かなんかで湧き水があまり出なくなったことがあったんですって?」
すると宮司はしばらく考えてから答えた。
「うむ、あんたにきかれて今やっと思い出した。この神社の森の隣にグリーンヒルと呼ばれる大きな森があってな、確かそこで何か爆発があって、山が1晩で燃えてしまったんだ。湧き水ってな、森がなくなると枯れてしまうんじゃ。ただ…」
「ただ…何ですか?」
「15年ほど前のことがぼんやりとして、なぜかはっきりとは思い出せないんじゃ、すまない」
「いえ、とても勉強になりました。ありがとうございました」
2人は宮司に良くお礼を言って帰った。そしてまだ何も食べていないという佐々岡さんに付き合って湧水庵に行った。でもあまりにそばがうまかったので、時子もすっかり1・5人前を平らげた。
そして時子は、家に帰ってリビングの大きなテーブルを独り占めにし、早速湧き水の池の北極星や北斗七星のイラストを仕上げた。イラストを仕上げながら時子はぼんやり考えていた。
「一体どういうことなの?マルヤスのおじちゃんも、桃龍楼のリュウトさんも、そして北辰神社の宮司さんも、みんなが言っていた、山火事があったと…そう、15年前…でもやはりみんな同じように言っていた、はっきりは思い出せないと。15年前に何があったの、私の大好きだったノボル君はどこに消えてしまったの?」
もう1度リビングの写真を見上げれば、あの好奇心いっぱいの目のくりくりっとした男の子が笑っている、胸が切なく熱くなってくる。ノボル君、毎日遊んでいたノボル君、毎日が楽しくて、大好きだったノボル君。一体あなたはどこに消えてしまったの?
その時、時子は、この家の隣にある深い森の名前がグリーンヒルと呼ばれていたことを思い出し、確か宮司さんが山火事で森が焼けたのは、グリーンヒルだといったことを思い出した。
「…あれ、そういえばこの屋敷には、グリーンヒルがとてもよく見える部屋があったような気がする…」
それははるか昔の、子供のころの不確かな記憶だった。
「えーっと、えーっと…確か階段を上ったところで…」
時子は2階につながる大きな木の階段まで走ると、手すりを1つ1つ手探りしながら登り始めた。すぐ目の前には、今自分が寝起きしている客室のドアがある。もちろんそこの窓からはグリーンヒルはよく見えない…自然に足は、2階の突き当りの部屋に向かう。
がちゃっと音を立てて突き当りの部屋のドアを開ける。中はカーテンも閉まっていて薄暗くてもう何年も使ってない匂いがする。
「出かける前におばさんが、確かおじさんが書斎代わりに使っていた部屋だと言ってた気がするけど…」
時子は思い立って部屋の奥に進み、大きなカーテンをすべて開け放つと光が差し込んで明るいリビングに変わった。少しずつ思い出した。大きな本棚があり、そこには数冊の本と、テーブルゲームの箱がきちんと整理されていた、下の段にはおもちゃ箱が突っ込んであり、その前には、いろんなゲームを出しては2人で遊んだ大きなテーブルとソファがあった。
「…そう、ここは書斎などでは決してなかった、この屋敷の子ども用のリビングだった。私たちは外のテラスかこの2階のリビングのどっちかでいつも遊んでいたんだ」
時子は大きな窓のそばまで歩いていくと窓いっぱいに広がったグリーンヒルの深い森を見回し、そのあとで窓のすぐ下を見下ろした。
「ああ、まだあのテーブルとイスはあの日のまま下にあるんだ」
すぐ下は赤レンガでできたテラスになっていて、張り出しの屋根が涼しく、置きっぱなしになっている金属製のテーブルと椅子で、氷をキンコロ鳴らしておいしい乳酸飲料を飲んだり、イラストを描いたり、カードゲームをしたりしていた。そして時子はもっと大事な風景を思い出した。
「そうだあの時、最後にグリーンヒルは、ひと晩で燃え尽きてしまったんだ」
15年前のあの日、夕べ大変なことがあったと、土曜日におばさんからあわてて電話が来て、時子は急いで日曜日の朝一番に緑ヶ丘センターに乗り込んだわけだ。もう火は鎮火したとは聞いていたが、駅を降りて走り出した時から町中がけむっぽく焦げ臭いにおいがした。やっとおばさんの家のそばに着くと、もう消防車は土曜日のうちに引き上げたと言っていたが、あちこちに焼けた木の枝や水たまりがあり、集まってきた街の人たちで騒然としていた。
「ノボルくーん、おばさん、時子です大丈夫ですか」
玄関で叫ぶとおばさんが急いで出てきた。危うくおばさんの屋敷は難を逃れ、庭を挟んでまったく被害はなかったという。
「ノボル君は、ノボル君はどこなの?」
するとおばさんは一言もしゃべらず中学生の時子を2階の子ども
部屋に案内した。
そして15年前のあの日、おばさんは確かにこう言った。
「…ノボルの好きだったグリーンヒルが…」
2人は今の時子が立っている窓辺へと歩いて行った。
「こんな、こんなに1晩でまるやけになっちゃうものなの?ひどい、ひどすぎるよ」
「金曜日の夜中、ノボルが流れ星みたいのが落ちてきた、庭に出てちょっと見てくるって言って、出て言って、それきりなの…。そのあとで大きな爆発音がして、隣のグリーンヒルが火事になって…。うちの庭には火の手は来なかったから平気だと思うんだけど…。消防署と警察に探してもらってはいるけど、まだ帰ってこないの。
グリーンヒルにあった大学の研究室もすべて焼け落ち、ただ道路側にあった理事長さんのお屋敷だけは被害を免れたようであった。
そしてあの日曜日の朝、おばさんと私は窓辺に並んで燃え尽きたグリーンヒルを見て、そして泣いた。何度も森を見て泣いた。森の奥で何が爆発したのか、ほとんど立っている木はなく、粉々になって散らばっている枝からは、いくつもまだ煙が立ち上っていた。お互いを見てまた泣いた。そんな思い出が鮮やかによみがえってきた。
「でもあの時、焼けた森を見てなんであんなに悲しかったんだろう」
まだ何か大事なことが、決定的なことが思い出せなかった。
その時、不思議な声が後ろから聞こえてきた。
「よく来てくれたね、この部屋に。ずっと会いたかったんだ」
魂を揺さぶられる懐かしい声だった。
時子は静かに窓辺から振り返った。
「…あれ、なんだろう。部屋の中に霧が流れ込んでいる…」
どこから流れ込んだのだろう、いくつもの白い霧のようなものが広い子供部屋を流れていく。そして1つの塊が大きなテーブルを流れ、そして離れていった時だった。
大きなテーブルのソファに中学生くらいの男の子が座って、ニコッと笑ってこっちを見ていた。
「…ノボル君、ノボル君なの?あなたは今どこにいるの、一体どうなっているの…」
するとその男の子は時子の目を見てはっきり言った。
「ぼくだよ,ノボルだ。そしてぼくは今も実際に生きている…」
ノボルは時子の目を見てそう言った
そしてノボルは立ち上がると下の段におもちゃの入っている本棚へと歩いて行った。
「君が来てくれてうれしいよ。どうだい、久しぶりにモンスタートランプの対戦でもやるかい?冒険すごろくもあるぞ」
モンスタートランプと言うのは、子供のころ、ノボルがトランプの絵札をすべて怪物に描きかえたトランプだ。対戦のときは数字の大きい方が勝つのだが、それぞれの怪物の弱点の十字架や聖なる鏡などが描きこんであれば数字が小さくてもそいつに勝てるという、ちょっと癖のあるカードゲームだ。
でも、君も大人になったみたいだから、今日はこっちかな。
そういいながらノボルは本棚から難しそうな本を2冊取りだしてテーブルに並べた。
「これが『手をつなぎ合う遺伝子たち』生物や宇宙の進化に関する画期的な本だよ。そしてこれが『ひらめきの科学』時間や音楽や芸術のひらめきはどこからくるのかというすごい答えが書いてある」
そう、だんだん思い出してきた、ノボルは何か面白いと思うとすぐに頭をつっこんでそれを理論的に話したがる熱い奴だった。どうやら本物だ。
「ありがとう、必ずすぐに読むわ」
「うん、面白いのは保証付き、絶対読んでよ。あ、いけね、じかんがないのを忘れていた、あのさあ、頼みたいことがあるんだ」
そしてノボルは、本棚からボードゲームの箱を取り出した。そのふたを開けると中からカードを取り出して時子に見せた。
「これが15年前に作ったゲーム、オクタゴンダイバーだ。でも、64枚あるはずのカードは8枚しかない。あと残りの56枚は、この街のどこかにいるぼくたちの仲間のところにあるはずだ。おねがいだ、残りのカードを見つけてそして…」
「ガタガタガタ」
「な、なんなの?!」
ノボルがそこまで話したところで、突然屋敷の庭にサッカーボールほどの黒い雲が現れ、渦を巻きながら大きくなり始めたではないか。そしてそこから吹いてくる強い風に窓が鳴り始めたのだ。
「なんなの、あれ」
風はどんどん強くなり、近づいてくるようだ。そしてみるみる黒い雲は2mほどの大きさになり、中に不気味な影が浮かび上がった。
「もうやってきたか。奴のシャドウだ。奴の狙いはぼくだ。君からすぐに奴を引き離さなければ!」
時子はその黒い影が、この前の屋上の怪人と同じだと直感した。
ノボルは光りながら窓の方に走り出すと、そのまま光の球となり、窓を通り抜けて青い空へと上昇していった。黒い影はすぐに追いかけ、同じように空に上昇し、やがてどちらも消えていった。
「ノボル!」
時子は力の限り叫んだが、もう、答える者はいなかった。部屋の中の白い霧も、すでに消えていた。
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