1 謎の15年

時子がこの街に来たのは実に15年ぶり、最後に来たのは中学生だったと思う。

この映画のイベントのわずか半月前に時子はこの郊外の駅緑ヶ丘センターに到着した。ここにあるのは親戚のおばさんの家、外交官のおじさんとおばさんのお屋敷だった。子供のころは同い年の子どももいて、夏休みというと必ず遊びに来ていた気がする。でも今はもうぼんやりとしていて、おばさんの家の子供の名前もはっきりとは思い出せない。今回はイギリスで働いているおじさんの仕事の都合で、おばさんもイギリスへ手伝いに行くことになったのだ。

「ねえ、時子、おばさんの家リニューアル工事が終わって家庭菜園の種まきも終わったばかりなのに、突然海外に行くことになっちゃったでしょ。誰か家庭菜園の世話やお留守番をしてくれる人を急遽探しているんですって。あなたどうせ部屋にこもってイラストばかり描いているんだから、手を上げたらどう?おじさんだっておばさんだって、小さい頃からよく知っている親戚に任せた方が安心でしょ。少なくとも2年以上は帰ってこないそうよ。あなたリニューアルしたばかりのあの大きなお屋敷に1人で住めるのよ。とても静かで自然もあるし、うちで描くよりいいんじゃないの?」

はっきり言って心が動いた。ちょっと郊外だけど今のうちのマンションからも電車で、30分程度で行けるし、おばさんのうちのあたりは確かに緑に囲まれている。うちはおばあちゃんも妹もいるから、自分がいない方が広く使えていいかもしれない。

「うん、そうするわ、お留守番役に立候補する」

時子のこの判断が、とんでもなく大きな人生の転機となるのだった。

芽森時子、身長162cm、理系と美術の才能を併せ持つ知的なメガネ美人。生物学部の学生時代から各地の動物園のレポートなどがネットで話題になっていた。特に人物の似顔絵や生物学の知識に基づいた正確な動物のイラストが人気になり、現在は「珍獣探検隊」と「地球水族館」の2本の連載を持つイラストレーターである。プラチナミューズ社製の、高級ペン入力システムセット付高性能タブレットシステムを専用リュックに入れて、水族館や動物園などを歩く絵描き職人である。とにかくパット見たものを即座にパット描き上げることができる早描きが特技だった。マスコットはカエルで、彼女のイラストには必ずこのかわいいカエルが描かれている。

早速その日のうちに留守番役を申し出ると、おばさんは大喜び、2日後に最低限の荷物を持って押し掛けると、大歓迎してくれた!

おばさんのうちは金持ちというばかりでなく、すべてがあこがれの親戚だった。世界各国を回ってきたおじさんは物知りでウィットに富み、おばさんはいつもおしゃれで見たこともない素敵な小物を持ち歩き、料理も本場のレシピで2人とも威張ったり気取ったりすることもなく、いつも素敵なご夫婦だった。

緑ヶ丘センター駅の東口から少し歩いて山側に上っていくと、古来からあるという北辰神社と妙顕寺と言うお寺があり、お祭りごとがあると、大勢の人波でにぎわう参道をさっと入っていく。すると静かな神社の鎮守の森のすぐ隣におばさんの家が昔と同じように建っていた。

もともとおばさんの家はとても広くて部屋数も多いのだが、キッチンやお風呂場、トイレなどの水回りのちょうどリニューアル工事が終わったと頃だった。また、大きなリビングやキッチン、2つあるお風呂場や広いトイレ、おじさんの書斎や寝室などのほかに来客用のトイレシャワー付きの個室も別に2つある。なかなかのお屋敷だ。

来客用の個室の1つを自由に使っていいだの、洗濯乾燥機や大型冷蔵庫や調理器具も使い放題、庭にある農機具小屋の案内から、季節ごとの家庭菜園の世話までくわしく教えてくれた。

「あれ、ここって?」

庭のすぐ横に長いフェンスがあり、そのむこうにこんもりした緑の丘と豊かな森が広がっていた。そこだけ深い山奥のような雰囲気で、小さな川も流れている。不思議な場所だったが、なぜだろう、そこを眺めていると遠い記憶を揺さぶられるような気分になる…。

おばさんがにっこり笑って教えてくれる。

「昔からずっと同じよ。うちの隣は、通称『グリーンヒル』って呼ばれているの。中はとっても広くて、大学の理事長さんの土地で、大学の研究室やマスの養魚錠もあるわ。大学の研究者の間でグリーンヒルと呼ばれていて、それがいつの間にかここの呼び名になったのだという。とてもいいところよ」

なるほど自然に恵まれたとても良い場所のようだ。でも時子はその風景を見て、なぜかとても大きな違和感を感じたのだった。おばさんは、家庭菜園の中に進んでいった。

「もう少しするとバジルの苗が育つから、あ、そうだ食用の菜の花が食べごろね」

その場で収穫した菜の花でお昼はカルボナーラだ。さっとゆで上げた菜の花と、イタリアのベーコン、パンチェッタをオリーブオイルで炒める。そこにゆであがったパスタをからめ、クリームやミルクは使わず、オリーブオイルと卵黄、ゆで汁をまぜるだけで乳化させる。そこにたっぷりの粉チーズと黒コショウをかけて出来上がりだ。おじさんのイタリア赴任時代に覚えたというおばさんのイタリアンは本格的で心があったまる味がする。

ところがリビングで舌鼓を打っていた時にふと写真縦の写真が気になった。見るだけで胸がざわわっと波打つ、ものすごい懐かしさに襲われた。

「え、写真?そうねえ、あなたが最後に遊びに来た時の写真ね。15年になるかしらね…」

外交官のかっこいいおじさん、3か国語をすらすらと読むいつも明るいおばさん、中学生の自分も映っていた…そしてもう1人…。

「おばさん、この男の子…」

「もう忘れちゃったの?うちの息子、あなたと同い年のうちのノボルよ。勉強がよくできて、中学生になっても親にやさしくて、本当にかわいい子供だったわ…」

15年前の記憶が何とも頼りない…。

最後にあってからどうなったのか、記憶がほとんどない。昔は仲が良くていつもここに来ると一緒に遊んでいた気もするが、なんだかぼんやりとしてうまく思い出せない…。そういえばうちの母に、ノボル君は高校からアメリカに留学して、飛行機事故にあったときいたような気もするが。

「ノボルはあなたと本当に仲が良かったのよ。でも高校からアメリカに留学して…最近は連絡がないけど…そのうち何事もなかったように帰ってくるかしらね」

どういうことだろう、おばさんもかわいい実の息子の消息をはっきりとは知らないような妙な答えだった。なにかモヤモヤが残った。

おばさんも何かおかしかったけれど、時子は愕然とした、とても仲が良かったノボルの消息がまったく記憶にないだけでなく、ここの写真を見るまでノボルという親戚がいたことじたい、すっかり忘れていたのだから…。この15年の間、一体何がどうなってしまったんだろう…。

次の日の朝、おばさんはイギリスへと旅立っていった。時子にも編集部から電話があった。イラストの連載の担当佐々岡さんだ。新しい連載の話があるからすぐにでも会いたいというのだ。駅ビルのサラダとスープの店トパーズで待ち合わせすることになった。

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