第3話 透明人間の正体

 午前零時を回ってから、時間がまったく進まない。真っ暗な世界で目を覚ました亜衣は、目が暗闇に慣れてくることもなく、時間の感覚もまったくなくなっていた、すべてのものが暗黒に支配され、光が亜衣に当たることはない。まるでブラックホールを思わせる世界こそが、ジレンマの正体なのだと悟るのだ。

 亜衣はそんな時、

――一日完結型――

 という意識を頭の中に浮かべていた。

 一日が終わると、身体や心がリセットされて、疲れも疲労も忘れる。

 しかし、リセットされてしまうと、翌日への扉を開くことができなくなる。誰もが日付が変われば翌日がやってくると、何の疑いもなく感じている。亜衣ももちろんそうだった。一日一日の積み重ねが年月を刻み、そして自分に年齢を重ねさせるのだ。

 だが、一日一日を積み重ねるのは自分だけではない。むしろ一日一日が積み重なっていくから、誰もが年齢を重ねるのだ。

 一人として違えることはない。違ってしまえば、その人だけ別の次元の人間ということになる。考えてみれば、皆が皆同じ時間を共有しているというのも、不思議なものである。

 未来はそのうちに現在となり、一瞬で現在は過去になる。現在という一瞬を通り越してみると、どれほど薄っぺらいものなのかということを誰も考えたことはないだろう。

 例えば、薄っぺらい紙であっても、束となって重なると、かなりの厚みになる。それは、紙がゼロではなく一以上だからだ。ゼロというものは、どんなに重ねてもゼロ以外ではない。つまり現在という世界にゼロは存在しないという考えだ。

 あまりにも唐突な考えだが、亜衣は自分を納得させることができる。

 矛盾と本能の狭間でのジレンマを感じることができるから、自分を納得させられるのではないかと感じていた。

――皆が皆、リセットされない人生を歩んでいるというのは、偶然が重なっているからだろうか?

 亜衣は、考えた。

 リセットされない人生がずっと続いていくのだとすれば、一日という単位は何のためにあるのかという疑問を感じていた。

 一日一日が重なって、その時々の節目でまた単位が存在する。一週間、一ヶ月、一年……。節目はリセットされない人生にどんな影響を与えるのか。

――人は一人では生きられない――

 というが、それはリセットしない毎日を、同じ空間として生きている人が存在しているからであろう。逆に、リセットされる人間というのを見てみたいものだ。

 亜衣がどうして、こんな発想を持ったのか、自分でも分からない。ずっと以前からこういう発想を持っていたような気もするが、意識してあらためて考えてみようと思ったことはなかった。

 亜衣は頭の中で創造していた。

 そこには、シーソーがあり、乗っている人が一人いるが、その人は上になっている。矛盾した光景だと一瞬にして感じたが、次の瞬間、

――何がおかしいというんだろう?

 と感じた。

 明らかにおかしい光景を目の当たりにしているはずなのに、おかしい理由がすぐには思い浮かばない。

――軽い人が上に来るはずのシーソーなので、相手がいないにも関わらず自分が上にいるということは、自分がマイナスなのか、見えていない空間に重みがあるのかのどちらかでしかないはずなのに、それ以外にも何か考えられることがあり、その思いが自分を納得させられる理屈を持っていることで、おかしいという理由がなくなったのだ。その理由が何なのか分からないが、一ついえることは、

――その光景を見るのが初めてではない――

 ということだった。

 亜衣は、シーソーに乗っている人がマイナスの重さを持っているという理屈よりも、見えていない空間に重みを感じる方が、自然ではないかと思えてきた。

――自分に見えていないだけで、そこには誰かがいるのかも知れない――

 そう思うと、自分のまわりに他にも人がシーソーを見ているのを感じた。

 誰もが無表情で、その光景をおかしなものだと思っていないようだ。少しでもおかしな光景に見えていれば、一人くらいは、違ったリアクションを示してもいいはずだからである。

 そう思うと、シーソーの下には亜衣にだけ見えていない誰かがいて、亜衣にはその人が透明人間ではないかと感じさせたのだ。

――透明人間なんて――

 と、馬鹿げているという発想を持つことは簡単だが、他の人には見えているのに、自分にだけ見えていないということは、本当にそこに誰かがいて、亜衣にだけ見えない細工を施していると思うしかないような気がした。

 そこまで考えてくると、昨日出会った男性のことが思い出されてきた。公園を通りかかった時にその人と話をした。その時、話をしながら、亜衣は自分に何かを納得させようとしているのか、過去に感じた自分の思いを記憶の奥から引っ張り出そうとしていたことも思い出した。

――あの時に感じていたことをある程度思い出したように思えたけど、それ以上の何かを今なら思い出せそうな気がするわ――

 仕事が終わってから、行きつけの店に行き、その帰りに公園に足を運んだ。あるはずの公園がそこにはなく、そのことを最初から分かっていたかのように感じると、いつの間にか疲れが襲ってきて、前後不覚に陥ったようだ。気がつけば家に帰り着いていて、真夜中だった。それが、今の自分の置かれた立場であると考えると、ここ数日、自分は見えない何かに誘導された生活を送っているかのように思えた。

 しかし、普段の毎日だって同じではないか。自分が望んだような人生が歩めているわけではない。そもそも、毎日をどのように生きるかなど、ハッキリと分かっているわけではない。

 亜衣は矛盾を考えていると、毎日が繰り返されずに、つまりはリセットされずに必ず次の日に進めるということこそ、矛盾なのではないかと思えてきた。

――一年に何日かくらい、リセットされた一日があったっていいんじゃないかしら――

 と感じている。

 リセットされずに、毎日を突き進んでいるから、疲れもたまってくるのだし、老いてもくるのだ。リセットされる日が何日かあれば、人間の寿命だって、もう少し延びるかも知れない。

 だが、考えてみれば、自然界の摂理で、人間だけが寿命を延ばしても、それは自然界の循環を崩すことになる。それこそ大きな矛盾であり、自然界に対しての冒涜ではないだろうか。

 そう思うと、リセットされずに毎日を生きることは、自然の摂理という観点から、当然の流れではないかと思わせる。

 それが、亜衣にとって、自分を納得させるに十分な理屈だった。

「そっか、自然の摂理か……」

 そういいながら、ため息をついてしまうであおう自分を想像していた。

――昨日の男性は、本当は自分が創造しただけの人なんじゃないかしら?

 と、昨日のことを、架空の空間として創造してしまっていた。

 それは夢ではない。夢という観点にしてしまうと、あくまでも自分の中だけで完結してしまう存在になってしまう。

――彼は、私が作り出したものではないんだ――

 彼という存在に向き合った時、明らかに他人事ではなかった。自分が作りだしたものだとすれば、そこには少なからず他人事を意識させ、自分とは違う立場の男性だと思わせることで、自分の支配レベルで考えようと思うだろう。

 しかし、他人事ではないと感じると、相手のことをまず知りたいと思う。自分が作り出した創造ではないのだから、当然である。相手を知りたいという感覚は、他人事ではありえないことだ。

 亜衣にとって、創造するということは夢の世界とは違う。同じ「そうぞう」でも、想像に近いものが、夢の世界ではないだろうか。

 亜衣は自分を一日完結型の人間ではないかと考えたことがあった。

 それは子供の頃のことで、さすがに一日完結型などという言葉は思いつくわけではなかったが、

――同じ日を繰り返しているかも知れない――

 と感じたことが何度かあった。

――以前にも感じたことがあったような――

 いわゆる「デジャブ現象」というものだが、それは遠い過去に感じたことを、最近のことのように思うという感覚であった。しかし、亜衣が感じた「以前」という感覚は、「昨日」のことだったのだ。

 それを感じると、

――昨日という日を、もう一度過ごしているんじゃないか?

 と感じたのだ。

 もちろん、

――そんなバカなことはないわ――

 と、一瞬にして否定したが、それは後から思っての一瞬で、その時はかなり長い間考えていたという思いは残っていた。

 ここで感じた時間の矛盾は、

――同じ日を繰り返すなど馬鹿げている――

 と、次第に感じさせるに至ったのである。

 亜衣は、その日、家に帰ってから、午前零時が過ぎるのを固唾を呑むように待っていた。

――こんなに時間が経つのを意識したことなんてあったかしら?

 人を待つことをあまり苦痛に感じない亜衣は、以前好きになった男性と待ち合わせをしたことがあった。今から思えば一人の男性と待ち合わせをするなどということは、その時が最初で最後だった。

 あれは大学一年生の頃だっただろうか。一番気持ちに余裕のあった時期だったのかも知れない。余裕がありすぎて、いろいろなことを考えてしまうことがあったが、まわりから見れば、

「何を考えているのか分からない」

 と言われていた。

「いつもボーっとしていて、どこを見ているのか分からない時があるわ」

 と、同じクラスの女の子から言われたことがあって、

「そうかしら?」

 と、淡々と答えたが、相手も、

――どうせ、そんな返事しかできないんでしょうね――

 とでも思ったのか、お互いにサバサバしていた。

 そんな亜衣が一人の男性を好きになった。

 好きになったというよりも、初めて男性を意識したと言った方がいいだろう。亜衣の場合は、好きになったという言葉よりも、男性を意識したという言葉の方が、ダイレクトに感じる。それは、人を好きになるということがどういうことなのか分からないからで、分からないものを口にしても、それは絵に描いた餅のようで、何ら真実味がないと思えたのだ。

 それよりも、男性を意識したという方が、どのように意識したのかに関わらず、信憑性がある。自分を納得させることができる言葉であり、人を好きになるという漠然としたものではない。

 しかし、彼と待ち合わせをした時の亜衣は、

――その人のことを好きなんだ――

 と、自分に言い聞かせていた。

 その男性には、他に付き合っている女性がいるというウワサを聞いたことがあった。

 しかし、

――彼に限ってそんなことは――

 と、彼が亜衣に対して接する態度は、その時のまわりの誰よりも、しかも、それまでに接してくれた誰とも違う優しさがあったと感じた。

 それまでにも人からの優しさを感じたと思ったこともあったが、そのすべてを否定しても余りあるほどの彼には優しさがあったと思う。

 後から思えばその優しさは「包容力」だった。

 年頃の女性にとって好きだという感情に、プラスアルファが加わった感情である。そのプラスアルファとは暖かさだった。好きだという感情はこちらからの一方通行であり、確認するすべもない。しかし、相手に感じる包容力は暖かさを持つことで、相手の愛を信憑性に変えるものだといえるのではないだろうか。

 彼は亜衣に対して何も言葉にしたわけではなかった。普段は数人の輪の中にいる一人でしかない亜衣だったが、彼はそんな亜衣を見る目が、他の人に対してのものとは違っていることを感じていた。

 その思いは最初の頃から感じていた。

――どうしてそんな目をするんだろう?

 と感じた。

 大学に入ってからの亜衣は、しばらくの間、まわりの流れに任せるところがあった。自分から関わることを嫌っていることもあって、まずは冷静な目でまわりを見ることが大切だと感じたのだ。

 入学して少しすると、クラスの中でいくつかの団体に分かれるようになっていた。誰もがそのどこかに所属するような感じで、

――これが大学生活なんだわ――

 と、亜衣も感じていたが、自分から進んでどこかに所属する気持ちにはなれなかった。

 そんな時、いつも隣の席に座ってくる女の子といつも間にか仲良くなっていた。

 彼女は積極的な性格で、消極的な亜衣とは、まるで凸凹コンビのようであった。

「もっと、自己アピールすればいいのに」

 と彼女は言ったが、亜衣もその言葉に嫌な気はしなかった。

「そうかしら?」

 と苦笑いをしていたが、それを彼女はまんざらでもないと解釈していたのだろう。

 亜衣は、それでよかった。勝手に解釈してくれた方が、亜衣にとって楽だったからである。自分で考える必要もないし、彼女に対して悪い気持ちはまったくなかったことから、彼女に合わせることは、自分としても好都合だと思っていた。

 そんな彼女に進められるまま入ったグループでは、彼女はいつも中心にいた。

 グループの中心にいるのだから、亜衣のような漠然とした女性とは、あまり関わることはないだろうと思っていたが、何かと亜衣のことを気にかけてくれた。亜衣もそれはそれで嬉しかったし、彼女も亜衣に嬉しく思われると自分をもっと高い位置に持っていけるという思いがあったのだろう。

――彼女にとって、私は透明人間であっても構わないのに――

 と感じていた。

 亜衣が、自分を透明人間と感じたのは、その時が初めてだった。

 それまでは、人と関わりたくないという感情は、

――路傍の石――

 だったのだ。

 そばにいても、誰にも気にされることがない。存在を薄くさせるだけで、それだけでいいのだ。

 しかし、実際にやってみると、これほど難しいことはない。

 確かに存在を薄くすることができるが、それでは誰にも気にされることがないわけではない。却って目立ってしまうことがあるくらいで、自分の意図していることとは反対の効果が生まれることが往々にしてあったのだ。

 高校生の頃くらいまでは、そんな状態が続いた。

 高校生の頃には、

――まわりの皆は何を考えているのか分からない――

 という思いがあった。

 それは、亜衣だけに限ったことではなく、誰もがまわりに対して抱いている感情だった。まわりを意識するあまり、自分からまわりに関わらないようにしようとしている空気が、痛いほど分かったのだ。

――受験というものを控えていることで、こんなにも空気が悪くなるものなのかしらね――

 と感じた。

 学校では、差しさわりのない会話をしていても、実際には何を考えているのか分からないという感情が渦巻いている世界は、息苦しさしかなかった。

 ただ、それは高校二年生の途中から急に感じるようになったことで、亜衣はそれ以前から人と関わりたくないという思いを抱いていたので、

――私はあなたたちのような俄かじゃないのよ。一緒にしないで――

 と勝手に思い込んでいた。

 ピンと張り詰めた空気は一触即発のように見えて、なかなか破裂しない。それぞれの気持ちが空気に均衡を与えているのではないかと感じたほどだ。

 亜衣にとってピンと張り詰めた空気は、結構嫌ではなかった。まわりも自分と同じような気持ちでいるくせに、

――私はあなたたちとは違うのよ――

 という思いを、露骨に表に出しているように感じた。

 亜衣にとって、これほど扱いやすいものはない。一触即発ではあったが、均衡が保たれていることは分かっていた。亜衣は自分の気持ちを表に出さないようにしながら、心の中では、

――あなたたちの考えていることなんか、お見通しよ――

 と感じ、上から目線になっている自分を感じていた。

 受験が近づくにつれて、その思いはどんどん強くなる。そして、

――私は、こんな人たちに負けるわけはないんだわ――

 という受験前になって、他の誰にもない自信を、得ることができたのだ。

 大学受験も無難にこなし、大学生になった。

 その時の亜衣は、高校時代の自分が何事もなかったかのように感じた。

 なぜなら、まわりの人たちは、大学に入学すると、それまでの自分たちを棚に上げて、急にまわりに気を遣い始めた。

 高校時代が張り詰めた空気の中で、まわりを意識しながら、自らを息苦しい空気の中に身を置いた。それなのに、大学に入学してしまうと、まわりとはそれまで何もなかったかのように、人に気を遣い始めるのだ。

 そこにぎこちなさはない。誰もが高校時代の自分を忘れたいとでも思っているのだろうか。

 亜衣は、高校時代の自分に何もなかったのだと思っていたが、自分を忘れたいとは思わない。それが、最初から人と関わりたくないと思っていた亜衣の本心だった。

――私にとって、大学入試は忘れられない過去だけど、記憶の奥に封印してしまえばいいんだ――

 と意識的に封印したのだった。

 そんな亜衣と同じような気持ちではないかと思える人が、グループの中にいた。それgが亜衣が気になって男性であり、彼も人と関わりたくないという思いを強く持っているようで、その証拠に、まわりの人に気を遣おうという素振りを示していなかった。

 しかし、そんな彼はなぜか、まわりの女性にモテていた。

 名前を、門脇と言ったが、

「門脇さんには彼女いるのかしら?」

 と誰かが言い始めると、

「いないわよ」

 と、即座に返事をする人がいた。

 どうやら、二人が彼を狙っているのは分かったが、その時の女性の間での雰囲気は、最悪な感じがした。

 高校時代の息苦しさではない。ただ、その場にいると吐き気を催しそうな気持ち悪さだった。

 それは、亜衣自身がその場にいることで、自分が嫌いになりそうになったり、自分を許せないと思えるような空気を感じたりした。その空気はまわりに対してではなく、自分に対して気持ち悪さを感じさせるものだった。

――まるで欝状態への入り口のようだわ――

 と感じた。

 彼はそんな空気の中でも、普段と変わりはなかった。ただ、亜衣に無性に近づいてくるところがあり、亜衣と二人きりになると、安心したような表情になっていた。亜衣は、

――私の表情が彼の癒しになっているのだとすれば、こんなに嬉しいことはないわ――

 と感じた。

 亜衣は、それを自分の錯覚だとは思えなかった。一瞬、

――彼を好きになったんじゃないかしら?

 と感じたが、好きになるには、まだ彼に関わるのが怖い自分を感じていた。ただ、彼のことが気になるだけだった。

 そのうちに彼に気を遣っている自分がいることに気がついた。亜衣は自分が人に気を遣われるとそのことを敏感に感じ、嫌な気分になっていた。人から気を遣われるということは自分がまわりに対して困っている感情を発散させていると思ったからだ。

 人と関わりたくないと思っている自分に、人が気を遣っているなど、考えただけでも嘔吐しそうであった。

――私にとって彼という存在を納得させるには、。どうしたらいいんだろう?

 彼氏になってほしいという感情を持っているわけではない。彼の癒しになれればいいという感情は確かにあったが、それを思うと、自分が高校時代に感じていた上から目線になりたくないという思いが渦巻いているのを感じた。とりあえずは、お互いに意識し合うことから始めることが大切で、まわりとの空気の違いを二人でどのように作っていけばいいのかを模索していた。

――彼に直接話をぶつけてみた方がいいのかしら?

 と思った。

 しかし、その勇気は亜衣にはなかった。それなら、彼に自分に対して話をぶつけられるような環境を作る方が、その時の亜衣にはできそうな気がしていたのだ。

 それには、まずグループの中で自分が「他人事」のようになることが先決であった。

 それは彼に対しても同じことで、自分がまわりに対して「他人事」になることで、それを彼がどのように感じるのかが気になるところだった。

 他人事というのは、自分が輪の中から外れるというだけではなかった。輪の外に出るのではなく、輪の中から、まわりに対して、

――あの人は、他人事のような目で私たちを見ている――

 と、まわり全員に思わせなければいけなかった。

 他の人なら、結構難しいことなのかも知れないが、亜衣にとっては、さほど難しいことではない。子供の頃から、

――人と関わりたくない――

 という思いを持ってきたことで、自分では筋金入りだと思うようになっていた。

 実際に彼は、亜衣のそんな思いを察することができたのか、今から思えばそれは分からない。ただ、その答えを導き出す一つの材料として、亜衣が彼と待ち合わせをした時のことが思い出されるだろう。

 別に付き合っているわけでもなく、彼氏彼女というわけではなかった二人が、待ち合わせをするのに、意識も何もなかった。

 ただ、何か気になることはあった。

 彼と待ち合わせをした時、何かを言いたげであったことは察知できたが、それが何であるかは分かるはずもなかった。

――ひょっとして、私に告白でもするつもりなのかしら?

 と、一瞬だけ頭をよぎったが、

――まさかね――

 と、すぐに否定した。

 今まで自分に言い寄ってくる男性はいなかったし、言い寄られて嬉しいという感情はなかった。確かに彼氏がほしいと思うこともあったが、それはずっと感じていた思いではなく、感情の高ぶりが定期的に襲ってきて、無性に寂しさを感じるからだった。

 寂しさが彼氏をほしがっている自分とシンクロしたとしても、気持ちの高ぶりは少し違っているような気がした。一気に気持ちが高ぶって、身体に震えが襲ってくるのだが、すぐに我に返ると、身体の震えは止まっている。

――何なのかしら? この感情――

 それが寂しさからやってくるものだという思いは、後になって感じることだった。もし、その時に寂しさからやってくる震えだと感じていたら、それが彼氏をほしがっている自分の気持ちから出ていると気付いたかも知れない。

 彼氏をほしがっているというのは感情からではなく、身体がほしがっていると思うことで、寂しさを否定しようと思ったのだ。同じ寂しさでも身体から起こる寂しさは、自分を納得させるだけの力があったのだ。

 彼が亜衣に、

「少し相談があるんだけど」

 と言って切り出した時、その表情には、寂しさが感じられた。

 亜衣は、自分が感じる寂しさは他人に知られたくはないが、他人が自分に見せる寂しさは、放っておくことができない。その気持ちをいとおしいとまで思うほどで、その思いは母性本能に似ていると感じていた。

 亜衣が、まわりを見ていて、

――他人事だわ――

 と感じるようになったのは、小学生の頃、友達のお兄さんが亡くなった時からだった。

 お兄ちゃんを交通事故で亡くした友達は、あまり悲しそうにしていなかった。母親が葬儀の帰りに、他のお母さんたちと話をしているのを偶然聞いてしまった亜衣は、その時の会話を今でも覚えている。

「奥さんの憔悴した様子は見ていられなかったわね」

 と、一人のお母さんが言うと、

「あら? そうかしら? 私が見た時は、涙を流してまわりを憚ることなく、号泣していましたわよ」

 と、他の奥さんが言った。

「じゃあ、涙が枯れるまで泣き明かして、最後には疲れ果てたという感じなのかしらね」

 と、言ったのは、自分の母親だった。

 亜衣もその話を聞いていて、

――お母さんの言うとおりなのかも知れないわ――

 と感じた。

 そして、自分の母親が冷静に状況を判断しているのだと、その時の亜衣は感じた。まだ小学生の低学年で、あまり人の感情や大人の話が分かる年齢ではないはずなのに、その時は自分なりに理解できていた。

――成長していく中で思い出すたびに、感じ方が変わっていったのかも知れないわ――

 とも感じたが、それだけではないとも思えた。

 子供心に、何とか大人の会話を理解しようという気持ちがあったのは間違いないが、自分でもビックリするほど冷静に話を聞いていたように思う。深刻な話だったからなのかも知れないが、それだけに、ゾッとするような感覚が身体を襲ってきそうで、それを拭うには、他人事のように考えなければいけないと悟っていたのかも知れない。

 だが、今から考えても、あの時ほど冷静な自分を感じたことは今までにはなかったように思う。いくら他人事のように見たとしても、どこかに感情が残っていて、あの時ほどの冷静さを持つことはできない。だから余計に、他人事を貫こうという思いを抱いているのだろう。

 大学生になって、高校時代と違い、まわりが明るくなったのを感じると、今まで見えていなかったものが見えてきた気がした。友達も自分が望む望まないに限らず、勝手に増えていった。それは、自分の力ではないと思いながらも、潜在している自分の性格に、まわりが興味を持ったからだと思ったが、それを嬉しいと思いながらも、冷静な自分を取り戻したいという思いもあってか、他人事を貫く姿勢を崩すことはなかったのだ。

 亜衣は、門脇との待ち合わせを快く承諾し、待ち合わせ場所には、いつものように二十分早くやってきていた。

「どうしていつも亜衣はそんなに早く待ち合わせ場所に来るの?」

 と、団体の中の一人に言われたことがあったが、

「人と同じでは嫌なので、誰よりも早く来ることを心がけているのよ」

 と答えた。

「そうなのね。素晴らしい考えだわ」

 と、友達は感心していたが、亜衣は感心されればされるほど、気持ちが冷めてくるのを感じた。

――何が素晴らしいというの? 人と同じでは嫌だって言っているのに――

 皮肉を皮肉と受け取ってもらえないと、自分が浮いてしまっているように感じられ、人と同じでは嫌だという自分の気持ちを真っ向から否定されているように思えて、苛立ちを覚えるのだった。

 その日も、二十分早く待ち合わせ場所に着いたが、亜衣としては、約束の時間に着いたのと同じ感覚であった。

 なぜなら、自分が来てから約束の時間までの二十分があっという間に過ぎてしまうのを感じるからで、約束の時間になれば、自分の頭がリセットされるように思えたからだ。別にリセットされるわけではなく、まわりが自分に追いついただけのこと、その思いは自分だけのもので、亜衣はそれを感じると、勝ち誇ったように心の中でほくそ笑むのだった。

 その日も、約束の時間まであっという間に過ぎた。

 待ち合わせ場所は駅だったので、彼が電車でやってくるのは分かっていた。改札口の前で、彼が現れるのを、今か今かと待ちわびている自分が、いとおしく感じるほどだった。

 亜衣も待ち合わせ場所までは電車でやってきた。

――自分が二十分前に見た光景を、もうすぐ彼も見るのだ――

 と思うと、ゾクゾクした感覚に陥っていた。

 自分は今度は反対側から彼を探すのだが、同じ瞬間に、彼の目になって先ほどの光景を感じることで、目の前の自分を確かめた時の感情がどんなものなのか、想像するに至っていた。

――きっと、子供のようなあどけない表情を新鮮に感じるんでしょうね――

 と彼が自分を見る顔を想像すると、おのずと分かってくるような気がしていた。

 約束の時間まで、電車は三台到着した。

 二台目までは、

――まず乗ってはいないでしょうね――

 と思いながらも、現われればまるでサプライズのような気持ちになっている自分を感じた。だから、彼が自分を認めた時に感じるのが、

――あどけなさと新鮮さ――

 だと感じたのだ。

 やはり乗っていなかったことで、次の電車を待っている時にドキドキし始めた自分を、今度は自分の中でいとおしく感じた。

――今度こそ――

 という思いは、次第に自分に複雑な感情を芽生えさせていた。

 次の電車には乗っているであろう彼を認めた時、自分がどんな顔をすればいいのか、いまさらながら、戸惑っていたのだ。

 電車がやってきて、彼が乗っていなかったのを確認すると、がっかりした反面、ホッとした気分にもなったのは、戸惑いのまま彼の目の前に現れることがなくてよかったという思いからである。

 乗っているはずの電車に乗っていないことで、次からは、

――乗っていて当たり前――

 という思いと、

――乗っているはずの電車に乗っていなかったのだから、次もいないかも知れない――

 という矛盾した思いが、亜衣の中に芽生えた。

 それでいて、自分が彼にどんな顔をすればいいのかという思いも纏まらないまま、のっていなかったことで、またしても、ホッとした気分になった。

 一時間も待たされると、他の人は、

――もう来ないわ――

 と思うだろう。

 もちろん、その前に携帯電話で連絡を取るのは当たり前のこと。

「どうしたの? 一体」

 怒っているわけではないが、自然と口調は荒くなっているのが自分でも分かる。

「ごめん、もう少し仕事が長引くんだ」

 という彼の申し訳なさそうな声を聞いて、

「後、どれくらい?」

「今は何ともいえない」

 という彼の返事に、亜衣は自分が彼よりも立場が上であることを理解し、その思いが怒りを抑えてくれるように思えた。

 その感情が、

――まあいいわ。もう少し彼の言うとおり待ってみるわ――

 と感じさせた。

 そこには、

――この私が待っているんだから――

 という恩着せがましさがあるのも否めないが、それよりも、

――彼を思って待っているしおらしい女――

 を感じていた。

 しかし、このしおらしさは、自分の本心からというよりも、演じているという思いのほうが強く、いろいろな思いが交錯する中で、次第にこの思いが一番強くなってくることを感じた。

――演じているんだから、これこそ自分を他人事のように思えるんじゃないかしら?

 と思えた。

 まわりを他人事のように感じることは日常茶飯事だったが、自分のことを他人事のように思うことができるとは、なかなか感じたことはなかった。そんな感情を抱かせてくれたこの状況をもう少し楽しみたいと思った。そういう意味で、長時間待たされることへの苛立ちよりも、自分を他人事のように思える感情が先に立って、誰にも知られたくないと思う自分の気持ちを、初めて発見したような気がしていたのだ。

 一時間が二時間になり、気がつけば三時間になっていた。

――最初の待ち合わせの時間がまるで昔のことのようだ――

 と感じていたが、なぜか時間が経ったという感覚はなかった。それは、途中途中で時間を意識していたからで、一日をあっという間に過ぎてしまったと毎日考えていても、一ヶ月単位で考えると、一ヶ月前がかなり前だったように感じるという、そんな感覚に似ていた。

 時間の感覚は、その刻み方によって違っていることが往々にしてあるものだ。そのことは今までにも何度も感じたことであり、その都度、自分を納得させる答えを見つけていた。その答えがいつも一緒ではない。違っているから、その時々で覚えているわけではなかった。

 亜衣は、時々自分の中にもう一人の自分を感じているということを気にしているが、時間の感覚の違いが、そのもう一人の自分の存在によるものだということに気付いてはいなかった。

――もう一人の自分の存在は、どちらかが表に出ている時はどちらかが裏にいて、決してそれぞれを認識はできないんだ――

 と感じていた。

 つまり、意識はできても認識ができない、幻のような存在だと考えていた。

――きっと、もう一人の自分も同じことを考えているんだろうな――

 と思うと、もう一人の自分が表に出ている時、まわりは亜衣という人間をどのように見ているのか、気になってきた。

――他人事のように見ていてほしい――

 と感じると、自分がまわりに他人事のように見えてしまう原因は、もう一人の自分の存在を意識しているからではないかと思えた。

 亜衣はその時に、

――一日完結型人間――

 を意識していたのではないだろうか?

――一日完結型の人間というのは、二人の人間が存在し、前に進む人と、後ろに下がる人がいる。いつも同じ人が前に進んでいると思っていると、もう一人の自分を永遠に意識することができない。逆にもう一人の自分を意識することができると、後ろに下がっている自分がいるのを感じ、同じ日を繰り返しているのではないかという錯覚を覚えるのかも知れない――

 同じ日を繰り返しているのが錯覚だと思えるのであれば、もう一人の自分の存在を認めることもできるのではないかと亜衣は思った。その思いを感じさせたのが、彼に待たされることになったその日だったのだ。

――やっぱり私は人と同じでは嫌なんだ――

 と思うことで、自分が一日完結型の人間の存在も認めることができるような気分になったのだ。

 亜衣は自分が一日完結型人間の存在を創造した時、

――私の中にももう一人の自分がいるんだから、一日完結型の人間なのかも知れないわ――

 と感じたことがあった。

 一日完結型などという言葉は発想の中になかったが、前に進む自分と後ろに戻ろうとする自分がいるのを感じたことはあった。

 どこかに重心があって、両端でつりあっているような感覚になった。それを思い出した時、昨日見たと思った男性のシーソーの光景が思い起こされるのだった。

 誰もいないのに、自分の方が上にいるというおかしな光景であったが、彼のいう透明人間がもう一つのシーソーの端に腰掛けているとすれば、辻褄は合っている。

 亜衣は一日完結を創造している時、

――一日を繰り返していることで、身体や心がリセットされて、疲れも疲労も忘れさせてくれる――

 と考えたことがあった。

 一日の終わりがリセットされることで、もう一度同じ日を繰り返す環境ができるという考え方だ。

 亜衣は今日、公園を見つけることができなかったことで、自分が別の世界に入り込んでしまったのではないかと考えた。その世界は、ひょっとすると、昨日の男性が存在している世界なのかも知れない。

 しかし、その考えは究極だった。昨日が夢だったのだと考える方が、よほど信憑性がある。それなのに、あくまでも昨日見た光景を信憑性のあるものだいう前提で考えていること自体、おかしな考えなのだろう。

 亜衣は、公園があったと思っていた場所から、何を思ったか、元来た道を帰り始めた。その方向は自分の家とは正反対であり、もう一度、バーへ戻る道だった。

 そんなことは分かっているはずなのに、亜衣は迷うことなく、来た道を戻っていた。ただ、頭の中では絶えず何かを考えているのだが、他の人が見れば、

「ただ、ボーっとして歩いている」

 と、感じるに違いない。

 確かに、亜衣には元来た道を帰っているという意識はあったが、目の前に広がっている光景を意識しているわけではなかった。同じ道を帰っているはずなのに、歩いてきた道とはどうも違っているようだ。どこがどのように違っているのかというのは、まるで間違い探しでもしているかのように、微妙なところが少しずつ違っているのだ。

 微妙なところがいくつも少しずつ違っているというのは、ある意味、マイナスとマイナスを足すと、マイナスを打ち消しているかのように感じられ、限りなく間違いはゼロに近いように思えてくる。亜衣は歩きながら、

――おや? 何かがおかしい――

 と感じたのだが、感じた時にはすでに、マイナスに打ち消されていて、意識はしても、すぐに否定していた。

 亜衣は歩きながら、昨日の彼との話を思い出そうとしていた。かなり突っ込んだような話をしたように思えたが、突っ込みすぎたのか、記憶の奥に封印されそうになっていた。

 最後に彼に言われた腕に嵌めた時計を感じると、時計を見ることで、彼に会えるのではないかと思えたのだ。

 立ち止まって、じっと時計を見つめていたが、急に目の前に誰かの気配を感じ、思わず顔を上げると、そこには昨日の彼が立っていた。

「ずっと、私のそばにいたの?」

 と聞くと、

「ええ、そのための時計ですからね」

 と彼は答えた。

「透明人間になっていたの?」

「透明人間にはなっていませんよ。あなたが僕を見えなかっただけです。他の人には僕の存在は分かっていたようですからね」

 彼の存在を特別だと思っているのは、亜衣だけであった。他の人に彼が見えていようが見えていなかろうが、誰が彼を気にしようというのだろうか。

「あなたは、透明人間にはなれないんですか?」

「ええ、僕はなれません。でも、人の意識から気配を消すことはできます。つまりは透明人間にならなくとも、気付かれないようにすることはできます。知っている人が目の前にいても、誰にも気付かれないような人って、この世界にでも結構たくさんいるものなんですよ」

 亜衣には、ピンと来なかった。

 彼は続ける。

「それはそうでしょうね。亜衣さんは、自分は他の人とは違うって思っているでしょう? それは裏を返せば、それだけ自己顕示欲が強いということにもなるんですよ。そんな人に対して、気配を消そうとするのは無意味なことで、自分の見えているものに対しての信憑性は限りなく高いものがあるんです。つまり、興味のあるものに対しての関心は半端ではなく、興味のないものに対してはとことん関心がない自己中心的で、自己愛に溢れているように見られますよね」

「そうかも知れません」

 かなりの皮肉を言われて、普段であれば、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているはずなのに、彼から言われると、それほどでもない。考えてみれば、人から皮肉を言われてかなりの恥ずかしい思いをしてしまうという感情から、

――人と同じでは嫌だ――

 という感覚が強くなっていったと言えるだろう。

 亜衣は、彼が自分の前に現われてくれたことで、安心がよみがえってきた。このまま今日彼に会えなければ、日付が変わると、また同じ日を繰り返してしまうのではないかと考えていたからだ。

 新しい日を迎えるには、彼と会えなければいけない。

 それは、自分がいくら望んでもできることではない。この世にはできることとできないことの二つしかないと考えるなら、

――絶対にできないことだ――

 と、感じるに違いなかった。

 そう思って諦めの境地に達しようとしていた時、彼が現れてくれた。それも、

――現われてほしい――

 と願ったその瞬間だったから、嬉しさも倍増だった。

 しかし、逆にそう思ったから、彼の気配を感じることができたのかも知れない。彼が急に亜衣に対して気配を現したと考えるよりも、亜衣の方が、精神的に余裕ができたからなのか、それとも、究極の思いに近づいたからなのか、彼の存在に気付いたという方がむしろ簡単に理解できることだった。

 だが、どうも彼の表情は昨日とは違っていた。

 まるで苦虫を噛み潰したような表情で、複雑な感じを受けたのだ。

 その表情に感じた最初の感情は、哀れみだった。

「どうして、そんな表情をするの?」

 亜衣は単刀直入に聞いたが、その表情について言及しなかった。

「そんな表情とは?」

 彼が聴き返してきたが、それが彼の本心からなのか、それとも、分かっていて敢えて聞きなおしてきたのか、亜衣には分からなかった。

 亜衣は、彼がわざとしているものだと感じ、どちらかというと皮肉を込めるような感情を込めるように、

「哀れみを浮かべているんですけど」

 と、答えた。

「哀れみ……」

 彼は一人ごちた。

 亜衣に対して聞き返すわけではなく、自分に再度言い聞かせるかのように、亜衣を無視するかのように呟いた。

「ええ、哀れみです。あなたは私に同情しているんですか? 私の将来について何かを知っているように思えてならないんですが……」

 もし、彼が自分の将来について何かを知っているとしても、それを聞くことはタブーである。もし、聞いてしまって未来を知ってしまうのは、パラドックスの観点からも、許されることではないと思えた。

 しかも、自分のことで、明らかによくないことのように感じられることを、今知るのは危険が伴う。知ってしまうと、これからの人生を今までどおりに生きていけるかどうか分からないからだ。

 いくら大丈夫だという自信があったとしても、長い人生の中で、いつまでその思いを持ち続けることができるかどうか、分かったものではない。亜衣はそういう意味でも、未来のことを知るということは一番いやだった。

「未来のことを知ってしまうと面白くない」

 と、タイムマシンをテーマにしたドラマや映画ではよく聞くセリフだが、実際にはそんなセリフは綺麗ごとでしかないように思えた。

――面白くないなんて綺麗ごとで、知ってしまうと、自分が自分ではいられなくなってしまう。もし、それがいいことであったとしても、もし万が一知ってしまったために、将来が変わってしまわないと誰が言えるだろう――

 と考えていた。

 亜衣は

――彼のそんな顔見たくなかった――

 と感じたが、見てしまったものは仕方がない。

 しかも、そのことを相手に暗示させるどころか、単刀直入に聞いてしまったのだ。暗示させる方が、まだ自分を納得させられるのではないかと思ったが、どうしても我慢できない自分がそこにはいたのだ。

「僕は、あなたに哀れみの表情を浮かべたかも知れませんが、この表情は昨日も同じだったはずなんです。僕には、昨日そのことに気付かなかったあなたが、どうして急に今日になって気付いたのかという方が不思議なんです」

 と答えた。

「どうしてって、昨日は初対面だったし、今日とでは私もあなたを見る目が違っているんですよ」

 と、いうと、彼は意外な顔になり、

「そうなんですか? あなたは昨日とあまり精神状態は変わっていないように思うんですけど?」

「そんなことはないですよ。今日、あなたにもう一度会いたいと思って、昨日の公園に来たら、その公園はなくなっていた。そして、私はそのまま帰宅しようと考えたはずなのに、なぜか、元来た道を歩き始めたんです。明らかに昨日とは精神的にも違っているんですよ」

 というと、

「僕にはそうは思えません。あなたが元来た道を戻ったのも、前に進むのが怖かったからではないんですよ。もう一度、あの店の前に戻って、同じ道を歩いてみたいと感じたからではないかって思うんです。きっとその時には、あなたは僕の存在に気付いているんだって感じると思うんですよ」

 最後の一言は、きっと彼の気持ちから出た言葉なのだろう。彼は冷静に話をしているようで、最後には自分の気持ちを表現するようなところがあるようだ。しかし、昨日話をしている時はそんな感情はなかった。

――昨日から今日まで一日しか経っていないのに――

 と亜衣は感じたが、彼は違う次元の人間である。亜衣が一日だと思っている時間も、彼の中では何度も繰り返してやっと出てきた世界なのかも知れない。

――私は一日完結型なのでは?

 と、その時、ふいに感じた亜衣だったが、そう思うと、自分も一日だと思っている時間が、本当に時系列を普通に歩んで感じる一日なのかということを感じた。

「亜衣さんは、透明人間について、どのような感覚をお持ちですか?」

 何と答えればいいのか、亜衣は思案した。

 感じたことをそのまま答えていいものなのか、それとも、彼は別の答えを期待しているのか分からないからだ。

 もし、おかしな返答をすることで、自分の身に危険が及んでしまうとするのであれば、余計なことを口にするのは控えなければならない。

「そうですね。何か普段できないことを、透明になることでできるんじゃないかって考えるんじゃないかって思いますね。例えば、普段入れない誰かの部屋に侵入して、プライバシーを覗くとかですね」

 というと、彼は苦笑して、

「本心から言われていますか? 他の人と同じでは嫌だと考えている亜衣さんの答えだとは思えませんね」

「あなたがどういう答えを望んでいるのか分からなかったので、無難な答えをしたまでですよ」

 と、本音を簡潔に答えた。

「いいんですよ。答えたくなければ答えたくないと言えばですね。僕にはそれが亜衣さんなんだって思えますからね」

 痛烈な皮肉にも聞こえるが、それが亜衣の本性であると亜衣自身が感じていることで、皮肉には聞こえなかった。

「じゃあ、今の言葉は聞かなかったことにしてください」

 というと、

「そうですね」

 と言って、さらに複雑な顔になった。

「でも、透明人間というのは、本当にいるのかって疑ってはいます。気配を消している人とどこが違うのかって思うんですよ」

 これも亜衣にとって本心ではなかった。しかし、今の亜衣にはそれ以上の答えが見当たらなかったというのが、本音でもある。

 少し二人の間に沈黙の時間があったが、先に口を開いたのは彼だった。

「僕は、透明人間になどなりたくないんです」

 彼のセリフのようには思えなかったが、

――ひょっとすると、これが彼の本音なのかも知れないわ――

 と感じた。

 彼から言われてみると、自分も彼のいうように透明人間になんかなりたくないと思っていた。

「どうしてですか?」

「透明人間というのは、自分の存在が消えてなくなるということですよね? 相手に自分の気配を悟られないというのとではまったく考え方が違います。この世界の人は透明人間というと、いい方に想像して楽しんでいるところがありますよね。普段できないことが透明人間にはできるという感覚ですよね。でも、それは人に見られない状態になることができるということであって、透明人間と普通の人間を両方できるという前提で成り立っています。でも、一度透明人間になってしまうと、元には戻れないんですよ。自分が誰にも認識されない。そばにいるのに、誰にも気付かれない。そんな状態を嬉しく思えますか? 僕にはそんなことはできない」

「確かにその通りですね。人は死んだから生き返ることはできませんからね・それと同じなんでしょう。でも、人が死んだらどこに行くのか分からないから、二度と生き返ることはできないと思うんでしょう? 透明人間になっても、ただ姿が見えないだけだということが分かっていると、元に戻れるという発想はそもそもの前提になるんじゃないでしょうか?」

「なるほど、確かにそれも言えますね。でも、実際には一度消えてしまうと、その世界では誰からも認識されないんです。行方不明ということになり、いずれは死亡したということになり、その人の人生は終わりです」

「でも、透明人間というのは、見えないだけで、同じ次元の同じ世界にいるんでしょうか?」

「いるんですよ。でも、そのことを認識しているのは本人だけであって、誰も知らない。いや、もちろん、透明人間になれるように施した人は知っているでしょうが、その人は、透明人間とは何ら関わりのない人なんですよ。ただ仕事でやっているだけという感じですね」

「じゃあ、あなたの世界では透明人間にするための仕事があるんですか?」

「ええ、あります。透明人間というのは、なってしまうと、お腹が減るということもないし、年を取ることもないんです。だから、自分たちの世界に及ぼす影響は何もないんですよ」

「でも、どうしてそんな理不尽なことが行われているんです? まさか公式に行われているわけではないんでしゅお?」

「ええ、もちろん、非公式です。でも、この計画には国家が関わっていて、国家プロジェクトの一環なんですよ」

「どういうことなんですか?」

「あちらの世界では、こちらの世界よりも生活環境は切迫しています。少子高齢化が進み、食糧問題も大きな問題になっています、一番の原因は、自然界の均衡を人類自ら崩してしまって、生物が激減してきました。人間の人口も減ってはいますが、食糧問題を解決できるほどのものではなくなっています。当然、政府はいろいろな対策を考え、科学者とも相談しながら、いろいろ考えてきました。他の次元に人を送り込んだり、他の次元から、食物を持ってきたりですね。この世界でも、これから少しずつおかしなことが起こっていくかも知れません。科学者の中には、食物を巨大化させたり、人間を小さくする計画を立ててみたりする人もいましたが、なかなかうまく行きません。そこで登場したのが、『透明人間計画』だったんです。透明人間を増やせば、食糧問題も解決します。そして、透明人間になりたいという人の希望も叶えられます。彼らはこの世から存在を消したいと思っている人で、中には人と関わることを嫌っている人が多かったんです」

 そこまで聞いた亜衣は、

「それは耳が痛いですね」

 と、苦笑した。

「実は僕も人と関わることを極端に嫌っている性格なので、亜衣さんの気持ちもよく分かります。そんな僕なので、政府は僕にも白羽の矢を立てたんです」

「でも、透明人間になった人はそれで幸福なんですかね?」

「そんなことはありません。一度透明人間になってしまうと、科学者が開発した特殊な機械がなければ、話をすることはできません。実際に透明人間になった人と話をした人は本当に一部の人間だけなんですよ」

「それであなたは、透明人間とお話ができたんですか?」

「ええ、ごく短い時間だけでしたが、できました。その話を聞くと、言葉にできないほど悲惨な気持ちを語っていました」

「そうなんですね……」

「僕は、透明人間になるのが怖くて、こっちの世界に避難してきたんですが、そこで見つけたのが、人と関わりたくないと思っているあなただったんです」

「どうして分かったんですか?」

「向こうの世界には、自分の心を写すことのできる鏡というのがあるんです。その鏡を後ろにも置いてみたんです。すると、鏡は無限に、自分を写しますよね。その中で、次元の違う自分と同じような感情を持ったあなたが映し出すことができたんです」

「あなたは、私に何をしようとしたんですか?」

「透明人間にならないようにするには、自分と同じ条件の人を代役に据える必要があった。そこで白羽の矢を立てたのがあなただったんです」

 亜衣は、自分の立場を思い知らされたが、なぜか聞いていて他人事のようにしか聞こえなかった。

――それはすでに終わってしまったこと――

 亜衣の中にいるもう一人の自分がそう言った。

「亜衣さんには、自分の中にもう一人いて、『一日完結型』の人間だと思っています。僕にとってそんな亜衣さんは好都合な人で、どちらかが僕の代わりになってくれれば、僕も助かると思ったんです」

「じゃあ、どうして、今ここでそのことを告白したんですか?」

「もう、その問題は解決したからです」

「ちなみに、私はどうすれば透明人間になったんですか?」

「それは……。昨日公園で、僕の姿を見た時にシーソーを見たでしょう? その先には誰も乗っていなかったのに、僕の方が上だった。実はあれは、もう一方にもう一人のあなたが乗っていたんですよ。裏にいるあなたですね。あなたを透明人間にするには、表に出ているあなたを、あのシーソーに乗せればそれで終わりだったんです。だから、今日、本当はあの公園にあなたを招き入れて。シーソーに乗せようと計画していたんですよ」

「じゃあ、どうして、問題は解決したんですか?」

「あなたが、今日一日を明日繰り返すことになるからです」

「えっ? 私は昨日を繰り返していると思っていたんですよ」

「それは僕がそう仕向けたんです。いあなたが、少しでも同じ日を繰り返すような素振りを見せれば『一日完結型』の力がどのようなものなのか分かると思ってですね」

「それで?」

「あなたが同じ日を繰り返す時、僕に対して強力な力が及ぶことが分かりました。それで、僕が自分の次元で透明人間にさせられる危機は脱したんです」

「そうだったんですね」

「ええ、でも根本的な解決にはなっていないので、僕は科学者として、もっといろいろ研究をする必要があります。そういう意味では僕が透明人間になるということは、向こうの世界ではマイナスになるはずだったんですよ」

 亜衣は、彼が、

「僕は透明人間になるのが怖い」

 と言ったのは本音だろうと思っている。

 しかし、それ以上に彼の裏の顔を見た気がした。

 彼には誰にも負けない自己主張があり、上から目線に見えるが、その中でも、正義感に溢れている。そんな人間はこの世界でもあまり好まれるわけではないが、亜衣は好きだった。

――この人も、ひょっとすると「一日完結型」の人間なのかも知れないわ――

 と亜衣は感じた。

 彼は、亜衣の表情を見ながら、

――この人は、僕のことをハッキリと理解している――

 と感じていた。

 亜衣は心の中で、

――彼が見たという両方に置いた自分が無限に見えるという鏡、それを私も見てみないーー

 と、感じるのだった……。


                  (  完  )

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「透明人間」と「一日完結型人間」 森本 晃次 @kakku

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