第2話 一日完結型

 亜衣が目を覚ましたのは、自分の部屋の布団の中だった。

 普段は目覚まし時計で目を覚ますのだが、その日は、部屋に差し込んでくる朝日で目が覚めた。目覚まし時計は、朝日が差し込む前に鳴るようにセットしてあったので、その日は目覚ましをセットし忘れたのだろうか?

「う~ん」

 両手を精一杯に上に上げて、背筋を伸ばしながら、身体を起こしている。いつもの目覚めと変わらない目覚めだった。

「何だか、頭が重たいわ」

 亜衣は、普段に比べて頭が重たいことで、普段と目覚めが違っていることを意識していた。

 昨日のことを思い出そうとしていた。

――確か、友達の家に行って、いろいろ話をしたのは覚えているんだけどな――

 それから、

「泊まっていけばいいのに」

 という気遣いを制して、

「いえ、今日は帰るわ」

 と言って、彼女の部屋を後にしたのも覚えている。

 その時、何となく後ろ髪を引かれる思いがした。

――もっといろいろ聞いてあげればよかったのに――

 という気持ちもあったが、そこにいづらいという気持ちがあったわけでもなく、家に帰ってから何かをしなければいけないという気持ちがあったわけでもない。別に泊まってもよかったはずなのに、どうして帰ろうと思ったのか、そんなに頑なな何かがあったわけでもない。今から思い出しても、そこに何があったのか、よく分からなかった。

 友達の話を聞きながら、その時自分が何を考えていたのかを思い出そうとしたのだが、なぜか思い出せない。ただ、感じることは、

――昨日のことは、本当に昨日だったんだろうか?

 ということである。

 なにやら禅問答のような感覚だが、では昨日のことではないとすればいつのことだというのだろう?

 亜衣は自分に問うてみた。

「昨日のことが昨日ではないとすると、今日は何なの?」

 その答えは出るはずもない。自分の中で疑問に感じた自分には、昨日、今日という概念がなかったのだ。

――どういうことなのかしら?

 と感じた時、自分の中の自分が答えてくれた。

「私は、昨日の私ではないのよ。今日の私なの」

 それを聞いて、いや、感じて、何を言っているのか分からなかった。

「だから、昨日の私ではないと言っているのよ。昨日の私は別人なのよ」

 なるほど、自分の中の自分は、その日だけの自分なのだ。表に出ている自分だけが、日付が変わっても同じ自分なのだが、自分の中の自分は、日付が変われば、違う自分になってしまうのだ。

「じゃあ、昨日の私はどうなったの?」

「消えてなくなったんでしょうね。だから、今の私も今日という日が終われば、消えてなくなっちゃうんじゃないのかしら?」

「私にはよく分からない」

「だって、私たちのような存在があるからこそ、表に出ているあなたに、一日一日という感覚があるのよ。もし、この感覚がなければ、あなたは同じ日を繰り返すことになるんじゃないかしら?」

「えっ、私は自分の中の自分の存在を意識したことはあったけど、まさか一日で入れ替わっているなんて想像したこともないわ」

「それは、ウソ。だって、想像しなければ、私たちがあなたの前に現われるということはないんですよ」

「私たち?」

「一日一日で違う私だって言ったでしょう? 明日もあなたが想像すれば、明日のあなたが現れるということよ」

 亜衣は、目の前に鎮座している人と話をしているわけではない。自分の頭の中で想像した相手と話をしているのだ。つまりここまで来ると、想像したわけではなく、創造したのである。

「確かに創造したことで、目の前に存在しているわけではないあなたと会話しているわけですから、想像しなかったとは言えないでしょうね」

「そうよ。認めたくないという気持ちも分からなくはない。でも、人は誰でも少なくとも一度は、自分の中の自分と会話することができるのよ」

「でも、そんな話は聞いたことがないわ。誰もが夢だと思って口にしないのかしら?」

「そういう人もいるかも知れないけど、でもほとんどの人は、亡くなる寸前に、もう一人の自分と話ができるようになるの。つまりは、段階を追っていかないと、自分と話ができるところまでは行き着かないということではないかしら」

「じゃあ、私ももうすぐ死ぬということなの?」

「そんなことはないわ。もし、そうだとすれば、私は今、段階を追う話をするために、他の人の話をしないはずなの。私たちは表に出る本人に、寿命を知らせてはいけない規則になっているの」

「じゃあ、あなたたちは、私の寿命を知っているということ?」

「ええ、知っているわ」

「何だか、気持ちのいいものではないわね。そもそも、知らせてはいけない規則だって言ったけど、その規則ってどこで誰が決めているの?」

「それは言えないわ。でも、私があなたの前に現われたのは、あなたにとって決して悪いことではないということだけは確かなの。それだけは信じてほしいわ」

「ええ、分かったわ。少なくとも、私にはあなたの言っていることを信じる義務があると思うの。あなたが自分の中の自分だって分かっているからなんだって思っているわ」

「ありがとう。私もそういってもらえて素直に嬉しいわ。私だってここに出てくるのには勇気がいるのよ。あなたが望んだことだとしても、それは私の意志すべてではないんですからね」

「意志というよりも、感情に近いものなのかも知れないわね」

「ええ、私はきっとあなたに比べて感情的なんだって思うの。でも、冷静になれる時は、あなたよりも冷静だって思うわ」

「どうしてなの?」

「それは、あなたよりも自分のことをよく知っているからだって思うの。感情的になるのも、あなたが抑えようとしている感情は、自分をよく知らないところで起こったことには自信がないからなんじゃないかって思うの。だから私は、あなたよりも冷静で、しかも感情的なのよ」

「まるで、あなたの方が表に出た方がふさわしそうだわ」

「それはダメ。私が表に出ると、あなたが私の中の私になるわけでしょう? あなたの感情はやっぱり表に向けられたものであるべきなのよ」

「そうなのかしらね。でも、私は人と同じでは嫌だっていう感覚が強いのよ。なるべく表と接触したくないわ」

「それは違うわ。あなたの感情はあくまでも表と接触しているから感じるものであり、まわりに何もなくなると、張り合いがなくなって、他の人と同じでは嫌だなんて感覚、忘れてしまうに違いないわ。そのためにあなたはまるで抜け殻のようになってしまい、結局、毎日をまったく同じにしか生きられなくなる」

「そうするとどうなるの?」

「あなたは、その一日から抜けられなくなって、永遠にその一日の世界の中で生きていくことになるのよ」

「そんなバカな」

「そう思うでしょう? でもね。だから私たちがいるの。そうなった時に、私たちが表に出て、それぞれの一日を繋いでいくの。その時には、きっと翌日の自分に、自分の意識や記憶は伝授されるんでしょうね。だから自分でも気付かないし、まわりの人も気付かないんじゃないかしら? 私はそうなるんだって思っているわ」

「難しいお話ね」

「あなたのまわりにも、ひょっとするとそういう人がいるかも知れないわね。その人はよく見ると前の日のその人と別人のように感じられるでしょうね。そうなると、さらに他の人を見ても、そんな感じがしてくる。そのうちに誰が同じ人間として次の日を迎えているのか分からなくなるかも知れないわね」

「そんなことを言われれば、これからまわりの人をそんな目で見てしまうことになるじゃない。それって困るわ」

「大丈夫よ。あなたは他の人同じでは嫌なんでしょう? その気持ちがある以上、他の人への意識を必要以上に持つことなんかないのよ」

「私にその思いがあるから、あなたは今日私に話しかけたの?」

「そういうわけではないわ。あなたは覚えていないかも知れないけど、ほら、左腕の手首を見てご覧なさい」

 言われて初めて気付いたが、左腕の手首に違和感があったのは事実だった。

「そういえば、何となく違和感があったのよ」

 手首には、締め付けるほどの圧迫感があったわけではないが、見覚えのない腕時計が嵌っていた。

「そうでしょう? でも何となく意識はあったはずよ」

「ええ、でも、どうして腕時計なんて」

「覚えていないの?」

「ええ、でも、腕時計を一度目にすると、しばらく目が離せなくなりそうなの。初めて見るはずのものなのに……」

「初めて見るはずのものではないのよ。本当に覚えていないの?」

「ええ、もし見たとすれば、かなり昔に見たような気がするの。どうしてなのかしらね?」

「じゃあ、意識の中には、以前にどこかで? というものがあるのね?」

「それが意識の中にあるのかどうなのか分からないのよ。あなたは私の中の私なんだから、それが意識なのかどうなのかって分からないの?」

「私はあくまでも、あなたの中の一部でしかないのよ。あなたが感じている意識があなたの一部なわ、私はそれと同じラインにいるようなものだわ。だから、私には意識という感覚がないのよ」

 亜衣は、まるで自分の意識と話をしているような気分になり、不思議な感覚に陥っていた。

――誰もいない部屋で鏡に向かって話しかけている――

 まるでそんな感覚だった。

 自分の中の自分と話をしていると、急にアラームの音が響き、我に返った。目覚ましに気が付かなかったわけではなく、想像以上に早く起きただけだった。ビックリして我に返ってしまったせいで、さっきまで話をしていたと思っていた自分の中の自分を感じなくなっていた。

――あれは夢だったんだろうか?

 自分の中に、もう一人自分がいるという感覚は日ごろからあった。しかし、実際に話をするなど想像もしていなかったことであり、まさか考えが違っていたり、自分の認識の中にはないことを考えているなど、思いもしなかった。夢だと思うのは無理もないことであり、まだ亜衣は夢心地が抜けていないようだった。

 亜衣は無意識に腕を見た。

「あら?」

 普段していないはずの腕時計が左腕に嵌められていたからだ。

 まず最初に、さっきの自分の中の自分の言葉を思い出した。

――確かに違和感があったわ――

 というのを思い出すと、今度は、昨日(だったと思うけど)公園に現われた男性を思い出した。

 そしてその二つを思い返してみると、昨日のことがまるでさっきのことのようで、自分の中の自分と話をしたのが、かなり前のことのように思えた。

――まだ夢の続きのようだわ――

 時系列が曖昧な記憶を感じたことが今までにもあったが、これほど最近の記憶の時系列が曖昧だったのは今までにはなかったことだ。自分を納得させるのに、夢の続きを持ち出すのは本当はずるいやり方だとは思うのだが、そうでもしなければ、自分を納得させることはできないような気がした。

 しかし、つい最近のことのように思う昨日のことだが、思い出せるのは部分的なことだった。全体的に思い出せないのに、思い出せることは割合にしっかりしている。

――こんな記憶って、あまりないことだわ――

 彼の顔など思い出せない。彼の向こうから後光が指しているようで、眩しくて見ることができないような感覚だ。まるで神様か仏様のようだが、宗教を信じているわけではない亜衣には、ピンと来なかった。

――私は宗教なんて大嫌いなのに――

 しかし、昨日の男性を思い出してみると、彼の話には宗教的なことが入っていたような気がする。それを亜衣も納得して聞いていたような気がしていたが、それがどんな話だったのか思い出せるわけではなかった。

 次第に、昨日の話が頭の中によみがえってきたが、最初に感じた宗教的な話を思い出すことはできなかった。

 本当は、宗教的な話を最初にしていたのだが、それを亜衣は、

――曖昧に覚えている――

 という意識しかなかった。

 本当なら、

――漠然としてしか覚えていない――

 と感じるはずのものを、逆の感覚で覚えているのだった。

 それは、本当は一度話したことを、彼が意図してその意識を亜衣の中から消したからだった。亜衣はそんなことなどまったく知る由もなく、そもそも消してしまうような話を彼がするはずもないと思うからだった。

 だが、実際には、彼が話の導入部分で宗教的な話をする必要があった。そうでなければ亜衣が彼の存在を認めないと思ったからで、その思いに間違いはなかった。もし、最初に宗教的な話をしなければ、亜衣は彼の存在すら否定していただろう。そう思うと、亜衣が彼との話がついさっきのことだったという意識になったのも無理もないことなのだが、あまりにも直近すぎて、思い出せないこともあった。

 一つのことが思い出せないために、すべてが繋がらない。繋がらないので、記憶が曖昧なのだ。意識が覚えていることを認識している。しかし、覚えていることは、繋がっていない。だから、漠然としか覚えていないという減算法ではなく、曖昧に覚えているという加算方式での記憶となっているのだった。

 覚えていることの一つとして、彼が別次元の男性であるということ、そして、時代というものが我々の世界とは違い、その時々のタイミングによって築かれているということ。そのうちにいろいろと思い出していくに違いないが、その一部で覚えていることは、彼に対して感じた違和感からだった。

「あら?」

 いろいろ考え込んでいるうちにも時間というのは過ぎていくもの。そろそろ布団から起き上がって出勤準備をしないと、その日が始まらない。布団から飛び出るのは、それほど苦にならなかった。頭の重たさは布団から飛び出るのと同時に収まった気がした。

――気のせいだったのかしら?

 余計なことを考えている暇はない。とりあえず、いつもと同じ朝を迎えなければ、今日という日が始まらないと思ったのだ。

 いつものように、コーヒーの用意とトーストを焼いた。それぞれ着替えながらでもできることで、むしろ着替えながらの方がいつものペースであり、それが亜衣の性格でもあった。

――私は、身体を動かしている方が性に合っているのよ――

 と考えていた。まさにその通りだった。

 トーストはこんがり目に焼く方が好きである。コーヒーも濃い目で砂糖のみ、これが毎朝のパターンだった。たまに卵料理を作ることもあったが、その日は時間的に難しかったので、前の日にコンビニで買っておいた一人用のサラダをおかずに朝食を並べた。

 一人の朝食は慣れているとはいえ、たまに寂しいと思うことがあった。そんな時は東側に向いた窓から朝日が差し込んでくる時で、その眩しさが心の中にポッカリと空いた穴を照らすのだった。

 年齢的にはまだ二十代前半なので、結婚を意識することもないと思っていた。彼氏が今までにいなかったわけではない。付き合った男性はすべて大学時代のことで、社会人になってからは、なぜか彼氏がほしいと思うことはなかった。

 それなのに、一日のうちに何度か、彼氏のいないことを寂しいと感じるのだが、すぐに忘れてしまう。だから、全体として彼氏がほしいという感覚になることはないのだ。

 テレビをつけると、いつもの報道番組だった。

「ここ数日暖かい日が続くようで、雨が降るという予報もなく、すっかり春めいてきました」

 と、天気予報士の女性レポーターが話していた。

「何日か前も同じようなことを言っていたわね」

 それが何日前のことだったのか覚えていないが、確かにあれから数日、穏やかな天気が続いた。

 しかし、この時期というのは、そんなにいい天気が何日も続くというのは珍しいことで、そろそろ雨が降ったり、風の強い日があったりするはずだということを認識していた亜衣は、

――今年は異常気象なのかしら?

 と感じた。

「それでは次のニュースです。明日から始まる臨時国会で、政府に対する内閣不信任案を野党が全会一致で可決し、提出される見込みになっています」

 というニュースが聞こえてきた。

――あれ? 内閣不信任案はこの間提出されて、国会で否決されたはずでは?

 と感じた。

 おかしいと思いながらニュースに注目していると、今度は、

「心臓病を患って入院していた俳優の山口哲治さんが、病気療養から立ち直り、昨夜退院していたことが、当社の取材で明らかになりました。山口さんは奥様に付き添われ、病院のスタッフから祝福されて笑顔で退院され、今後は自宅療養を重ねながら、通院によるリハビリを続けていくということです。よかったですね」

 と、笑顔で朗報を報じていた。

――この話も確か以前に聞いていたような気がする――

 ビックリして、テレビの下に小さく写っている日付と時間を見たが、ちゃんと自分の認識している日付になっていた。

 ホッとした亜衣は、テレビを見ながら、腰を下ろし、コーヒーを一口口に含んだ。

――でも何かおかしいのよね――

 ふと気になったのが、左手首の違和感だった。

 昨日までなかったはずの腕時計が嵌っている。さっきから違和感を感じてはいたが、昨日の記憶の中に残っている男性のイメージが次第によみがえってくる。

――彼は別の次元から来たと言っていたけど、あの時は、信じたのよね――

 自分がどうして信じることができたのか不思議だったが、信じたことに変わりはない。

 亜衣は、腕時計を見てみた。

「あっ」

 その時計にも日付と時間が表示されていたが、時間はテレビの時計と同じで正確な時間を示していた。しかし、日付は一週間前のもので、その日付を見た時、亜衣の頭の中には、一週間前の記憶が少しずつだがよみがえってきた。

 よみがえってくると、まるで一週間前に戻ったかのように思い、さっき感じた、

――前にも見たことがあるような――

 という思いは次第に薄れていくのだった。

 あれは確かに一週間前だった。あの時も同じように朝食を卵料理抜きで作った。そして、どうして卵料理を作らなかったのかというと、

――何か、気になる夢を見たからだった――

 と感じたからだ。

 その時の夢は確か、夢の中に誰かが出てきて、何かを忠告していったかのように思えた。出てきた誰かというのに、違和感はなかった。会いたいと思っていた人だったのかも知れない。目が覚めてからそれが誰だったのかどうしても思い出せなかったが、その日のどこかのタイミングで、

「ああ、夢に出てきたのは、確か……」

 と、誰だったのか思い出していたのだ。

 亜衣はその時の記憶は今はなくなっていた。なぜなら、今日今から起こることは一週間前と同じことであり、そのことを自分では分かっていないからだった。だから、自分の意識が一週間前に戻っているのに、違和感を感じないのはそれが理由だったのだ。

 しかし、その翌日からの記憶は残っていた。その日の記憶かけが飛んでしまっているので、その日に起こることに何か違和感があるはずである。意識の中に矛盾が生まれてくるというのか、矛盾はずっと残っていた。それでも慣れというのは恐ろしいもの。矛盾であっても、違和感に繋がらないようになるのは、どこかで自分を納得させることができたからであろうか。

 亜衣は、その日一日をあっという間に過ごしていた。

――こんなに早い一日なんて――

 と感じたのは、午後六時の退社時だった。

 このまま家に帰ってもよかったのだが、あまりにもあっという間に過ぎてしまったと思っている一日なので、このまま家に帰ると寂しさしか残らないと思った。その思いが懸念となり、気が付けば、たまに行くバーに足が向いていた。

 その店に行く時は、いつもフラリと出かけていた。

――今日は、あの店に行くぞ――

 と、最初から計画して出かけることはほとんどなかった。

――気が付けば店の扉を開けていた――

 という感覚がほとんどで、店のマスターも、

「いらっしゃい」

 と笑顔で言った後、

「今日もフラリとやってきたのかい?」

 と、茶化すように言い、

「ええ」

 と、苦笑いをする亜衣の顔を満面の笑みで眺めていた。

 どうやらマスターは亜衣の苦笑した顔を見るのが好きなようだ。

 いつもの指定席であるカウンターの一番奥の席に腰を掛けた。ここからなら店が一望できるからである。しかし、そうは思っていても、一望する時に何かを考えているというわけではなく、いつもボンヤリとしている時に見せ全体を見渡していたのだ。

「今日も私だけなのね」

 というと、

「亜衣ちゃんがいる間はきっと一人だけだよ」

 今まで不思議なことに、亜衣が一番客だった時は、亜衣が帰るまで、誰も店に来ることはなかった。亜衣が帰ってから少ししてから他の客が来ることから、

「示し合わせているんじゃないの?」

 と言われたことがあったが、決してそんなことはなかったのだ。

 もちろん、マスターも分かって言っていることなので、やはり苦笑する亜衣を見たいという思いの強さを、亜衣も嫌でも感じさせられた。

 しかし、嫌な気がしているわけではない。むしろ、そんな思いが些細な悩みやストレスを解消させてくれる。そんな思いを知ってか知らずか、マスターはあまり余計なことを口にはしなかった。

 ただ、マスターは相当に博学である。特に雑学に掛けては、亜衣が今まで知っている人の誰よりも詳しく、

――さすが、バーを経営しているだけのことはあるわ――

 と関心させられたものだ。

 亜衣は、

「いつもの」

 と注文すると、マスターは何も言わずに見事な手さばきでカクテルを作ってくれる。

 亜衣は、左腕を気にしながら、ボーっとしていた。

「いい時計だね」

 と、マスターに声を掛けられ、ハッとしたくらいだった。

「僕は、この間骨董品屋さんで面白いものを見つけたんだ。それは天秤の形をしたオルゴールだったんだけどね」

「天秤……、ですか?」

「ええ、オルゴールの蓋の上にローマ神話に出てくるような神が乗っていて、その神が天秤を持っているんだよ」

「それは面白いですね」

「しかも天秤は動くようになっていて、左右に何かを載せて量ることもできるんだ。でも不思議なことに、片方にしか何かを乗せなかった時でも、反対側が下になることがあるんだよ。いつもというわけではないんだけど、まるで手品のようでしょう?」

「見せてほしいです」

「それが、僕だけが見ている時にしかできないことのようなんだ。だから、それから他の人に話すとバカにされそうなんで、誰にも話をしていないんだけどね。でも、亜衣ちゃんのその時計を見ると、なぜかその話をしてみたくなったんだよ。不思議な感覚なんだけどね」

 と言って、今度はマスターが苦笑いをした。

「そうなんですか」

 と、亜衣はあまり驚かなかったのを見て拍子抜けしたはずなのに、マスターは亜衣の顔をずっと凝視している。

 その様子に気付いてはいたが、言葉を掛けるには忍びないと思っていた亜衣だったが、さすがに悪戯に時間だけが過ぎていくのを感じ、

「どうしたんですか?」

 と、根負けしたように、マスターに聞いた。

「いえね。亜衣ちゃんがあまりにもリアクションしてくれないので、亜衣ちゃんも同じような感覚になったことがあったのかと思ってね」

 と言われて、

「天秤ではないんですけど、私はシーソーで似たようなものを見たことがあるような気がするんです」

「それは遠い過去の記憶なの?」

「そうじゃなくて、近い記憶なんですが、ただ、それが過去だったのかと言われると、不思議と違う気がするんです。未来のことを予見しているようで、予知能力なんてあるはずないのにですね」

 と言って、亜衣は下を向いてしまった。

 マスターの顔を凝視できないという意識と、他の人を意識してしまうと、思い出しかけているシーソーの記憶が、また闇の中に消えていってしまいそうで、それを恐れて下を向いてしまったのだ。

「天秤とシーソーは似ているようだけど、まったく違っているような気がするんだ」

「どうしてですか?」

「シーソーは、それぞれ目方の分からないものを片方ずつに乗せて、単純にどちらが重たいのかを見ることができ、重たい方であっても、足で蹴ることで上に行くことができる。天秤の場合は、計測したい相手を片方に乗せ、片方には分銅を載せていくことで、計測したいものの重量を正確に測ることができるものなんだ。でも、そこに力は発生しないところがシーソーとの違いかな?」

 マスターの分析はなかなかなものだった。亜衣も言われて初めて、

――なるほど――

 と感じたが、それ以上に、自分がシーソーを気にしているのがよく分からなかったのだった。

 亜衣も以前は、シーソーと天秤であれば、天秤の方を気にしていた。

 天秤というと、

「自由、平等を掛けて、裁きのシンボルであると言われるのが印象的ですよね」

 と言っていた人の言葉を思い出す。

 だが、シーソーというと、児童公園にある遊戯としてしかイメージがなく、あまり意識したことがなかったはずなのに、なぜここでシーソーを意識するのか、すぐには自分でも理解できなかった。

「シーソーってタイムマシン?」

 自分の中の自分が、語りかけてきた気がした。

「そんなバカな」

 すぐに否定した自分がいたが、一瞬でも違和感があれば、なかなか消えてくれないものだ。

 それよりも、今回は、消えるどころか、不思議と膨らんでいった。きっと昨日の彼ともう一度話をしなければ、消えることはないだろう。

 そう思うと、バーの中にいても、昨日の彼を思い出していた。

――あれ?

 確か、朝起きた時は、彼と会ったという記憶はあっても、いつのことだったのか覚えていなかったにも関わらず、今では昨日のことだったと思い出すことができた。

 今度は、腕時計を見てみた。

「えっ?」

 朝見た時は、確かに一週間前の日付だったにも関わらず、今見ると、今日の日付に戻っているではないか。

――朝の自分と今の自分とでは、別人なんだろうか?

 亜衣は、そんなことを感じていた。

 今日一日があっという間だったこともあって、今日が一週間前だという意識はまったくなく、後から思い返しても、今日のできごとは一週間前ではなかったとハッキリと言えた。――やはり、朝の私は別人だったんだ――

 夢を見ていたのだとは思いたくなかった。もし、あれが夢だとすると、自分の気持ちの中に、

――過去を繰り返す――

 という意識があり、何か潜在意識の中にそう思う根拠のようなものがあるのではないかと感じることだろう。

 ただ、今までの間ではあるが、今日一日を思い起こすと、違って感じるターニングポイントは夕方だった。退社の時間になって、

――今日はあっという間に過ぎた――

 と感じたにも関わらず、それ以降の時間は思っていたよりもゆっくりと過ぎている。

 あれからまだ三時間しか経っていないにも関わらず、それまでの一日と比べても、長かったように思えるのだ。

――そういえば、夕方あっという間だったと思い立った時、身体にだるさを感じたが、今思えば、よくあの状態で、まっすぐ家に帰ろうと思わなかったものだわ――

 と感じていた。

 時計を見ると、そろそろ九時近くになってきた。この時間に我に返ったというのも、何かの暗示なのかも知れない。

 いつもであれば、そろそろ帰ろうかと思う時間だった。しかし、この日は帰りに昨日立ち寄った児童公園に行ってみようと思ったからだ。

――あれは何時頃だったんだっけ?

 確か十一時は過ぎていた。日付が変わってはいなかったので、十二時前であることは間違いない。

――十一時を目指していけばいいかな?

 ここからあの児童公園までは、三十分みておけばいい。ただ、夜の時間帯なので、電車の本数は少ないだろう。一駅なのだが、夜ともなると、かなり遠くに感じられるから不思議だった。

 ここからの時間は想像していたよりも短かった。特に九時半を過ぎてからというもの。あっという間に十時近くになっていた。

「それじゃあ、私は帰ります」

「お気をつけて」

 普段ならもう少し饒舌な亜衣なのだが、緊張すると口数が少なくなる。そのことはマスターは承知しているので、マスターの方から話題を振ってくることはなかった。

 店を出ると、何となく生暖かい空気が流れていた。空気の匂いも塵や埃が舞っているようで、

――雨が降る前触れなのかしら?

 と思い、朝の天気を思い出してみると、

――雨が降るような予報ではなかったわ――

 と、感じた。

 そう思うと、少しだけ臭いと思った空気が、今度は匂わなくなり、錯覚であったことを悟らせた。生暖かい空気が身体を包んだ時、

――雨が降る――

 という感覚に陥ったのは条件反射だったのだろう。身体がだるく、重たく感じた。

――夕方の退社時も、同じようなだるさを感じたわ――

 ということを思い出すと、今日の自分にとってのターニングポイントでは、身体がだるくなるのが一つのキーなのではないかと思えたのだ。

 歩いているうちに、身体のだるさは気にならなくなってきた。身体が慣れてきたのであろうか? 前を見つめていると、自分がどこに向かっているのか意識しているはずなのに、そんなことはもうどうでもいいと思えるほど、何か他のことを考えているようだった。

 しかし、気がついてみると、何を考えていたのか、考えようと思っていたのかハッキリとしない。ただ足が前を向いて歩いているだけで、

――昨日の場所を覚えているのは自分の頭ではなく、足なのだ――

 ということを分かっているのだ。

 だるさを感じなくなったのは慣れてきたからだというよりも、足が覚えているということに気付いたからなのかも知れない。

 さらにさっきまで、

――雨が降る――

 と感じていたことも、まるでウソのように、空気が乾いてきているのを感じた。

「カツッ、カツッ」

 という音が響いている。それは自分の足音だった。自分の履いているヒールに空気を響かせるような音を感じたことがなかったのに、いくらまわりに誰もいないシーンとした空間だとはいえ、ここまで自分が感じるというのもおかしな感じだった。

 むしろ、シーンとした静けさの中では、ツーンという耳鳴りばかりが目立って、それ以外の音は意識しないようにしていたからだ。

 足元の影が細長く伸びている。しかも、炎のように揺れているのを感じた。自分がよろめいているという感覚はない。ただ、その揺れを感じているせいか、足元から目が離せなくなっていた。

 顔を上げようと何度思ったことだろう。たまにであるが、何度か感じた正面から当たる光があった。言葉にすれば、白い閃光とでもいうのであろうか、まるで異次元世界への入り口を感じさせた。

 異次元世界を想像すると、顔を上げたくなる衝動に駆られたのも事実だったが、自分の影が変化したのは、その白い閃光のタイミングと同じだった。

――顔を上げたくても上げることができない状況を作り出しているのは、影の元になっている自分なのかも知れない――

 と、亜衣は感じていた。

 ゆっくり歩く方がいいのか、それとも、急いでその場所を抜け去る方がいいのか、亜衣は思案のしどころだった。しかし、それ以前に自分の身体が動かない。今の速度を変えることは自分にはできなかったのだ。

――見えない力が働いていて、何かに導かれているようだわ――

 そう感じたのは、顔を上げられないのを、その見せない力によるものだと感じたからだった。しかし実際には見えない力が原因ではなく、自分の奥にある潜在意識がそうざせるのだと気付いた時、亜衣は余計に見せない力の存在を意識せざるおえなくなっていた。

 そんなことを考えていると、自分の歩いているスピードが一定していないことに気がついた。ゆっくり歩いている時もあれば、急にスピードが上がっている時もある。気がつくまでに結構時間がかかったはずなのだが、それまでは一定のスピードで歩いていると思い込んでいた。

 つまり、同じ距離を歩くのにかかった時間に差があるということだ。

――自分の感覚とはかけ離れた時間差が存在していた時がある――

 そう思うと、

――ひょっとすると、時間を飛び越えているのかも知れないー―

 などと、今までに考えたこともない思いが頭をよぎる。

 だが、

――本当に考えたことなかったんだろうか?

 実際には考えたことはなかったはずなのに、ごく最近似たようなことを考えたと思えるふしがあった。この思いはなかなか消えないという感覚に陥ったのだが、それが本当に過去のことだったのかという思いを一瞬だけ感じたのだが、すぐに消えてしまった。

 つまりは、未来に起こることを予見したと考えたのだ。

 だが、それはあまりにも突飛すぎる発想だとして、急に怖くなったのか、自分で否定してしまったのだ。あまりにも突飛な発想をするのも自分だし、それを一瞬のうちに打ち消してしまうのも自分である。それを考えただけでも、

――明らかに自分の中には、別の人格が存在していて、それぞれを補う形で表に出たり裏に回ったりしているようだわ――

 と感じていた。

 亜衣は時々自分のことを冷静に考えるが、かなり的を得ていることを感じながら、その一方で、

――そんなことはない――

 と否定している自分がいる。

 やはり、否定する自分が存在していることは間違いないのだ。

 亜衣は最近、あまり疲れを感じない日と、疲れ切ってしまい、身体が動かなくなるほど憔悴することがあった。それぞれの日に、片方は何もしていないからだとか、片方に集中してこなしているからだとかいうわけではない。同じようなことをしているだけにも関わらず、身体に残る疲れがまったく違っているのだ。

 そもそも最近は、何か目立ったことをしようと考えているわけではない。毎日を無難にこなしているだけの毎日なので、そんなに毎日感じるストレスに違いがあるとか、余計な心配事があるなどということもなく、精神的にまばらなことはないはずだ。肉体的にも精神的にもそんなに変化がないのに、身体に残る疲れにこれほどの違いがあるということは、無意識のうちに何かを感じているからではないかと思うようになった。

 特に自然の変化は気にするようにしている。雨が降りそうな時は湿気や匂いを感じるなど、些細なことも気にするようにしていた。しかし、それこそが余計なことを気にすることになるのではないかと思い、なるべく考えないようにしたのだが、そんな時に限って、無意識に考えていることが多かった。

 だからといって、それが疲れに繋がっていくわけではない。疲れというのは無意識に起こるものではないと思っていた。何か予感めいたものがあって、それが意識に繋がって、疲れを感じさせるのだ。あまり疲れを感じない日であっても、まったく疲れているわけではない。そんな日は、

――疲れていないと思うことにしよう――

 というもう一人の自分の考えが、表に出てきているのではないかと考えるようになっていた。

 今日は、さほど疲れを感じない日であった。ただ、会社にいる時間の中で、一時間ほど、無性に眠たい時間があった。その時間を通り越えると、今度は疲れをほとんど感じなくなるというのが今までの経験であったが、その日も昼休み前に感じた眠気のせいで、その時間以降、一向に疲れを感じなかった。昼休みになってから、さすがに睡魔に対して我慢ができなくなり、少し仮眠した。自分では一時間近く眠っていた気分だったが、気が付けば十五分ほどしか眠っていない。

 それでも、目が覚めてしまうと、もう睡魔は襲ってはこなかった。疲れまでも一緒に排除してくれた睡眠に、亜衣は感謝したいほどだった。残りの時間でゆっくりと昼食を摂ることもでき、昼からの時間は、あっという間に過ぎたのだった。

 亜衣は夜の道を歩きながら、いろいろなことを考えていた。発想が次々に浮かんでくる時というのは、時間があっという間に過ぎていき、気が付けば目的地に着いていることが多い。その日もあっという間に昨日の児童公園のあるあたりまでやってきていて、昨日のことが思い出されてきそうだった。

 昨日の記憶を呼び起こしてみたのだが、なぜか、ハッキリとしなかった。

 昨日のことを覚えていないということも、たまにではあるが確かにある亜衣だったが、そんな時は、まるっきり記憶から消えている時だった。その日の亜衣は、思い出せそうで思い出せないという消化不良のような状態だった。あまりそんな感覚に陥ったことがなかったはずの亜衣なのに、頭の中では、

――こんな時ほど、思い出すことができないんだわ――

 と思えてならなかった。

 実際に思い出そうとすればするほど、記憶が遠ざかっていくような気がしている。手を伸ばせば届きそうな距離だったものが、あっという間に遠くに離れている。

――そんな現象で、思い出せるはずなんてないわ――

 と思ってしまうと、その思いは次第に確かなものになっていくのを感じていたのだ。

「確かに、この辺りだったはずなのに」

 おぼろげな記憶ではあったが、どの角を曲がれば公園があったのかということは分かっていた。そこだけは記憶の中でもハッキリしていて、その場所に辿りつくのは難しいことではなかった。

――間違いない角を見つけたんだわ――

 と思うと、曲がった先の公園が、自分の記憶を呼び戻させてくれると感じた。

 しかし、実際にはそんな甘いものではなく、角を曲がると、

――やっぱり、私に思い出させたくないんだわ――

 何かの力が働いているとしか思えない。あくまで亜衣に、昨日の記憶を呼び戻させたくない何かの力が働いているのだろう。

 その力は、どこの誰がもたらしているものなのか分からない。考えられるとすれば、昨日の男性であろうか。

 しかし、彼が昨日亜衣の前に現われたのが必然であるとすれば、何も亜衣の前から姿を消すような暗示をかける必要などないのではないか。

 もし、何かが違っているとすれば、昨日の亜衣と、今日の亜衣とでは別人に感じられると思っているからではないかと、その時、亜衣は感じていた。

 亜衣は、確かに昨日の自分と今日の自分では別人のような気がしていた。

――どちらが、本当の自分なんだろうか?

 問いかけてみるが、その問いを誰が誰に問いかけているのかということが問題だった。問いかけている今日の自分と昨日の自分とでは違っていると思っているのだから、問いかけている相手は当然、昨日の自分なのだろう。

 だが、昨日の自分は何も答えない。今日の自分が本当の自分だと当然のように思っていたが、昨日の自分が何も答えてくれないことで、だんだん不安になってきた。

――そういう意味で、今日の私に彼は会いたいとは思わないのかも知れない――

 と思えた。

 しかし、それだけに、余計に昨日の彼に会いたかった。会って確かめたいと思うことがいくつかあるのだが、もし彼を目の前にして、それをキチンと聞くことができるだろうか?

 角を曲がると、そこには昨日の公園は存在していなかった。彼がいないだけならまだしも、公園自体が消えているということは、やはり昨日の自分は今日の自分とは違っているのではないかと思えた。

――昨日のことなのに――

 目の前にあると思って疑わなかった光景が、まったく違う光景になって現われたのだから、戸惑っても無理もないことだ。

 しかし、考えてみれば、昨日のできごと自体がまるで夢のようではなかったのだろうか?

 亜衣は、昨日の記憶をほとんど覚えていないはずだったが、断片的に思い出すことができた。シーソーに乗った男性が相手は誰もいないのに、自分が上になっているという物理的な矛盾や、自分に関係がある人だということだけは覚えていたのだ。

 そして、彼が何かを話したその時に、亜衣も自分の過去をいろいろと思い起こしていたかのような記憶があったのだ。

 亜衣は今朝のことを思い出していた。

 もう一人の自分と会話をしていたのを覚えている。

 その時に、同じ日を繰り返しているという感覚になった。テレビのニュースで数日前の話をしていたことが気になっていた。しかし、実際には夢を見ていたのか、もう一人の自分と話をしたという感覚の副作用なのか、過去を繰り返すという感情を、「自己暗示」として今は理解していた。

 そうとしか考えられない。もう一人の自分が問いかけてきたという意識も、「自己暗示」だと思えば自分を納得させられる。

――この時の「自分」というのは、果たしてどの自分なんだろうか?

 亜衣は考えた。

 今、こうやって考えている自分ではないことは確かだ。普段から何かを判断しなければいけない時、時々、

「自分を納得させる」

 という言葉で、判断を誘発させるが、その時の自分というのが一体どの自分なのか、今までさほど気にしたことはなかった。

 自分の中にもう一人、性格の違う自分がいるのではないかという思いは、少なからず以前から持っていた。

 自分が二重人格なのかどうなのか、そのことで悩んだことはあまりなかった。

「人間なんて、誰でも裏表を持っているものなんじゃないかしら?」

 以前から、そんな思いをいつもその時々の数少ない友達には話していた。

 亜衣は、あまり人と関わりたくないと考えるのは、自分が普通の人と考え方が違っているからで、それを悪いことだとは思っていないからだった。

「何でもこなせるような平均的な人になってくれればいい」

 母親はそんなことを話していたのだが、亜衣にはその考えが分からなかった。

 確かに平均的な人は無難に何でもこなせるので、人からは好かれるだろうが、一芸に秀でた人の方が、熱烈に好かれるのではないかと考えている亜衣は、

――平均的な人間なんて、面白くも何ともない――

 と心の底で思っていた。

 もちろん、母親に向かって、そのことを口にするつもりはない。自分のためを思って言ってくれていると思うと、余計なことはいえないのだ。

 その頃からだろうか、

――私の中には、もう一人自分がいて、私はその人のようになりたいという矛盾している意識を持つようになった――

 と感じていた。

 亜衣にとって、もう一人の自分を意識するということは、普段から自分に自信が持てない自分を助けてくれているように思えた。

 亜衣は時々、

――まわりの皆は私よりも優れているんだわ――

 と思い、また時々、

――私ほど、他の人にはないものを持っている人はいない――

 と感じていた。

 それは、矛盾しているということではない。人に適わないことはたくさんあるけど、他の人にはないと思うこともたくさんある。それが他の人よりも優れていることだとは恐れ多くて口にはできないけど、心の中ではそう思っていてもいいのではないかと思っているからだった。

――私は、本当にこの世界の住人なんだろうか?

 と、中学生の頃に考えたことがあった。

 自分にしか見えない透明人間がいて、その人と自分の意識の外で交流しているような気がしていた時期があった。

 ただ、当時の亜衣には、その人が透明人間であるという意識はなかった。

 つまりは、他の人にもその人の姿かたちが見えているものだと思っていたのだ。

 亜衣がその人の存在を意識したのは、好きになった男性が現れてからだった。

 亜衣は、その人に告白はおろか、話をするのもおこがましいと思っていた。その頃にはすでに、

――人と関わりたくない――

 という思いが亜衣の中にあり、その感情が、人を好きになることさえも否定しようとしていたのだ。

――これが思春期なんだ――

 と、自分にも他の人と同じように思春期が訪れた。そのことが、亜衣を矛盾という感情の中に押し込んでしまい、一緒に訪れている思春期を惑わせてしまった。そのせいもあってか、自分の中にもう一人の自分がいるという意識を芽生えさせ、自分を納得させることを最優先に考えるようになったのだ。

 思春期というものと、もう一人の自分の発見というものが同じ時期にやってきたのは、自分が、

――人と関わりたくない――

 と考えるようになった要因でもあった。

 そこに存在しているのは「矛盾」であって、矛盾を解決するには、

――自分を納得させること――

 という発想が不可欠だったのだ。

 それが今の亜衣の性格を形成している。矛盾を解決させるために自分を納得させようとするには、うまく行かないこともあっただろう。

 しかし、今までにうまく行かなかったという記憶はない。何度も納得させることがあったはずなのに、一度もうまく行かなかったことがないというのは、それ自体が矛盾のような気もしてきた。

――何かの見えない力が働いているのかも知れない――

 それこそ、

――自分にしか見えない透明人間――

 の正体なのかも知れない。

 それにじても、自分にしか見えない透明人間という発想がいつから生まれたのか分からない。

 最初から透明人間だと分かっていれば、考え方も違っていた。最初は、あくまでも自分の同志のような人であり、考え方を一つにした「普通の人間」のはずだった。

 相手を特別な人間だと思ってしまうと、自分から萎縮してしまったり、

――自分よりも優れていても仕方がない――

 と、違った意味で、自分を納得させようとしてしまうだろう。

 それはネガティブな考え方であり、透明人間というものをある意味肯定してしまう自分を、どのように納得させられるのか、それこどが矛盾であろう。

 人と関わりたくないという思いの奥底に、

――矛盾を感じるなら、一人で感じたい――

 という感覚があり、人と共有できるものではないと思っている。

 人は誰でも矛盾を感じているのだろうが、その矛盾に共通性を感じてしまうと、亜衣は自分を納得させることができなくなると思っていた。

――そんな矛盾を感じているから、昨日、あんな夢を見たのかしら?

 そこにあるはずの公園がない。そんな発想は、まったくなかった亜衣には、今までのことが夢以外であるはずはないと思えた。そしてそんな夢を見る根拠として自分を納得させられるのは、普段から感じている矛盾でしかないと思えたのだ。

 その日、亜衣がどうやって家まで辿りついたのか、ハッキリと覚えていない。気がつけば真夜中になっていて、しっかりパジャマに着替えて眠っていたのだ。

――やっぱり夢だったんだ――

 と亜衣は感じたが、それではどこからどこまでが夢だったのかという大きな疑問が残った。

――どこまでって、今まででしょう――

 と、自分に問うてみたが、答えは返ってこない。同調しているならば、すぐに返答があるはずなのに、返答がないということは、自分が怪しいと思っていることを理解しているのだろう。

――理解されたって、納得できなければどうしようもない――

 と考えた。

 どこかから夢に入り込んでしまって、気がつけばその夢から今目が覚めたと考えるのが一番いいのだろうが、目が覚めたからといって、夢から覚めたといえるだろうか?

 そもそも夢というものは、潜在意識が見せるものだと考えている。自分で納得できないことであれば、いくら夢であっても、実現できるものではない。それは最初から分かっていることだ。

 亜衣は、目が覚めたとはいえ、ハッキリと起きようという意志を持っているわけではない。むしろ、

――もう一度このまま眠ってしまいたい――

 と考えていた。

 時計を見ると、まだ午前二時だった。いわゆる、

――草木も眠る丑三つ時――

 である。

 もう一度夢の世界に入りたいと思っているのか、それとも、今がまだ夢の世界にいて、次に目を覚ます時が本当に夢から覚めた時だと思っているのだろうか。

 どちらにしても、今の目覚めは自分にとっての本意ではない。もう一度目を覚ますという行為をしなければ、夢から抜けられないと思っていた。

 ただ、もう一度夢の世界に入り込むことが怖いとも思えた。

 今まで夢の世界に逃げ込みたいと思っても、夢を見るのが怖いと思ったことはなかった。確かに怖い夢を見たことがないわけではない。子供の頃にはよく怖い夢を見て、魘されたこともあった。そんな怖い夢に限って覚えているもので、忘れられないと言った方がいいのかも知れない。

 覚えていたくないことほど忘れられないもので、忘れたくないことほど、あっという間に忘れてしまうものだ。

 これは矛盾ではない。人間の特性のようなもので、本能のようなものだと言ってもいいだろう。矛盾にばかり目が行ってしまうと本能を忘れてしまうことが往々にしてあるようで、夢の世界に逃げ込みたいという思いや、夢の世界に入りたくないという思いは、矛盾と本能の間でジレンマとなった気持ちが、夢との間に壁を作ろうとしているからなのかも知れない。

――そういえば、怖い夢の代表として、同じ日を繰り返しているという夢を見たことがあったわ――

 亜衣は、怖い夢ほど覚えているもので、夢の世界に逃げ込みたいと思った時には、いつも怖い夢を思い出していた。

 同じ日を繰り返していることが、どれほどの怖さなのか、普段に思い出すのと、矛盾と本能のジレンマを感じている時に思い出すのとでは、その恐ろしさが違っていた。普段に思い出すのは、気持ち悪さが先に来て、午前零時を回ってすぐに感じる息苦しさが、同じ日を繰り返しているという状況を一瞬にして悟らせるものだった。息苦しさは気持ち悪さに変わり、嘔吐することによって、目を覚ますのだ。

 しかし、矛盾と本能のジレンマを感じている時は、午前零時を回っても、同じ日を繰り返しているという意識はない。気持ち悪さを凌駕しているのか、感覚がマヒしている。ただ、何が恐ろしいといって、夢の中にもう一人自分が出てくるのが恐怖を煽る。それまでマヒしていた感覚がもう一人の自分の出現によって、息苦しさを思い出させるのだ。

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