「透明人間」と「一日完結型人間」

森本 晃次

第1話 透明人間

 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 風の強さに少しだけ暖かさを感じるようになった三月のある日、それまであまり友達と一緒に過ごすことのなかった高山亜衣は、その日、珍しく友達の家で話し込んでしまったことで深夜の帰宅となった。

「泊まっていけばいいのに」

 という友達の誘いを丁重に断わって、亜衣は家路を急いでいた。友達の部屋には、どこか男臭さが滲んでいるようで、自分の居場所を求めることができなかった。何よりもタバコ臭が彼女の部屋には沁みついていて、タバコを吸わない亜衣には、苦痛でしかなかった。

 そのことは友達も分かっていたはずだった。それなのに泊まっていくことを勧めたのは、彼女がその日、一人でいたくなかったからであろう。

 亜衣が友達の部屋を訪れたのは、男にフラれて、

「今日は一人でいたくないの。一緒に呑みましょう」

 と言われ、最初は居酒屋で呑んでいたのだが、彼女の強引な誘いもあって部屋まで行った。きっと一人で帰宅するのが嫌だったのだろう。そこまでは気持ちは分からなくもない。

 その友達には普段から相談に乗ってもらっていた。亜衣の相談は男関係のものではなく、仕事場での人間関係がほとんどだった。彼女は女性にはなぜか人気があった。きっと、人の相談に自分から乗ってあげるタイプだからであろう。

「他人事のように聞いていると、アドバイスも意外と的確にできるものなのよ」

 と嘯いていたが、彼女の言葉は皮肉には聞こえない。性格的にもあっけらかんとしたところがあるところから、相談者も素直に聞けるのかも知れない。

 そんな彼女に彼氏ができたのは、半年前だった。

「あの子なら、結構うまくやっていけるんじゃない」

 と、彼女に彼氏ができたことを喜んでいた。実際に彼氏ができてからの二、三ヶ月の間に、彼女に相談した人は、その的確な回答にどれほど助けられたことだろう。亜衣はその間に相談することはなかったが、彼女の幸せそうな様子は、見ているだけで想像できるものだったのだ。

 しかし、そんな彼女の人生が暗転したのは、それから少ししてのことだった。次第に顔色が悪くなり、表情も深刻そうになってきた。明らかに表情には疲れが表れていて、その原因が相手の男にあるのは、誰の目にも明らかだった。

「どうしたっていうのかしら?」

 彼女に相談して助けてもらった人たちは、それぞれ結構仲がいい。彼女の様子が変になりかかった時には、皆その変化に対し、敏感に気づいていたようだ。

 亜衣としても、

――この私が分かるんだから、他の人にはすぐに分かったことでしょうね――

 と、まわりの人に比べて、自分はそれほど敏感ではないことは自覚しているつもりだった。

 彼女が付き合っていた男性、彼は私たちが思っていたのとはまったく違う男性で、女性を騙すことには長けていたようだ。彼女が彼氏を自分たちに会わさなかったのは、そのことを他人である友達に悟らせないため、

「君の友達に会おうとは思わないよ。お互いにプライバシーは尊重しよう」

 と言って、ごまかしていたようだ。

 彼女は、元々べたべたする恋愛を好むわけではなく、お互いにプライバシーは尊重して付き合うのを身上にしていた。そのため、彼と自分は以心伝心であるというような気持ちを抱いていた。そのことが、相手の男の気持ちを増長させたのだ。

 彼が変わってきたのは、三ヶ月もしてからだった。それまでお金のことに関しては何も言わなかったのに、ある日急に、

「少しお金がいるんだ」

 と言って、彼女にお金の無心をした。

 最初は一万円ほどのもので、数日後にはキチンと返してくれたので、彼女は彼の金銭感覚に何ら疑問を感じなかった。

 すると、また金の無心を彼がしてきたのだ。

「いくらなの?」

「三万円ほどなんだけど」

 と彼がいうので、

――それくらいなら――

 と思い、

「いいわよ」

 と言って、貸してしまった。

 本当は、この時にお金を貸した時がターニングポイントだったのだ。

 最初に貸してほしいと言われた時は、彼も貸してくれてもくれなくても、さほど問題にはしていなかった。二回目の無心でも貸してしまったことで、

――この女なら金をねだれば貸してくれる――

 と相手に思わせてしまったのだ。

 実はこの男、他にも女がいて、女たらしだった。しかし、目的は女ではなく、あくまでも金だったのだ。

 この男は金に対しての執着は激しいが、女に対しての執着はさほどない。だから、恋人になったとしても、いちゃいちゃするわけではなく、「大人の付き合い」をしているように見えるのだった。

 彼女が考える男性像としては、

「女関係がまず最初に来て、女関係が垣間見えなければ、お金やその他のことに対してもルーズではないはず」

 という思いを持っていた。

 他の友達にもその思いを話していて、意外と共感してくれる人も多く、それもあって、自分の感覚にそれなりの自信を持っていた。

 しかし、彼の後ろに女の影がないことで、彼女はすっかり安心してしまっていた。彼の後ろに女の影を感じないのは、

「女と付き合うのは、あくまでも金のため。金づるはたくさんいればいるだけいいものさ」

 と、男性仲間にはそう嘯いていたようだ。

 つまりは、友達相手の顔と、金づる相手の女に対しての顔の両面を持っていることになるのだ。

「お前のように、女に対してドライになれれば、俺にもお金が回ってくるのかな?」

 と言われて、

「才能が必要なのさ」

 と、平気で言っている。

 つまり、女を女として見ていないどころか、人間としても見ていない。だからこそ、女はコロッと騙されるのだ。

 しかも、友達はお金にあまり執着があるわけではない。自分が困らなければ、好きな相手にならいくらでも貢ぐ方だ。実際に彼女は無駄遣いをすることもなく、子供の頃からコツコツお金を貯めていたこともあって、かなりの貯金もあったはずである。それを相手の男は彼女から結構な金額を貢がせようとしていたようだ。

 しかし、別れは簡単に訪れた。

 彼女が偶然、その男が他の女性と一緒にいるところを見かけた。

 彼女はもちろん問い詰めた。

「あの女性は誰なの?」

 そう言われて、この男は最初何も言わなかった。

――余計な言い訳をしない人なんだわ――

 と、もしこのままこの男が何も言い訳をしなければ、そう思い、彼のことを見直してしまったかも知れない。

 しかし、彼は何を思ったのか、翌日になって、

「あれは妹さ」

 と、言わなくてもいい言い訳をした。

 その瞬間、友達の中で何かが崩れた。

「そう、妹さんなのね」

 そう言って、明らかに冷めた態度を取った。

「ああ、妹なんだよ。今度、紹介するね」

 紹介すると言えば、彼女が納得するとでも思ったのだろう。

 言い訳をしないでごまかそうとすることよりも、曖昧を嫌う彼女に対しては、

「紹介する」

 というキーワードでごまかせると思ったのだろう。

 しかし、彼女は違った。最初に言い訳しないことでせっかく繋ぎとめることができたかも知れない信用を、自らが壊してしまったのだ。

 彼女は、もう彼を信用することはなかった。男の方もそれ以上言い訳をしようとは思っていないようで、気まずくなったまま、別れを迎えたのだ。

 友達は、彼の正体を何も知らないまま別れたのだが、他の友達がその男のことを知っていた。

「あの男、相当ひどい男のようなのよ」

 この前まで付き合っていた相手が目の前にいるということを知ってか知らずか、井戸端会議の話題になった。もちろん、彼女は口を出すつもりもないが、その場から立ち去ることもできなかった。その時立ち去ってしまうと、自分がその男と関係があったのではないかと勘ぐられるのが嫌だったからだ。

 だから、会話はその男とは無関係の二人が勝手にしていた。

「どんな男なの?」

「とにかくお金にはルーズで、角度によってはいい男なので、女性が引っかかりやすいのをいいことに、女性を金づるとしてしか見ていなかったのよ」

「それが本当なら、ひどいわね」

 友達がどんな気持ちで聞いていたのか、亜衣には分からなかった。亜衣はその場にいたが、その時の彼女の様子の不自然さに気が付き、やっと彼女が悪い男と付き合っていて失恋したことを知ることになる。

「ええ、その男はたくさんの女性と一度に付き合っていて、最初の頃は皆から適当にお金の無心をする程度で済んでいたんだけど、女から簡単にお金を引き出せるということを覚えてしまったことで、完全に金遣いが荒くなったみたいなの。ギャンブルや株、いろいろなものに手を出していたって話しよ」

「堕ちるところまで堕ちたのかしら?」

「そうかも知れないわね。それで、お金に困ってくると、女たちからの無心もあからさまになり、中途半端にしかお金を持っていない女性とは別れて、明らかにお金を搾り取れるセレブのような女としか付き合わなくなったの。しかも、それは同時に女たちから少しずつなどという生易しいものではなく、一人の女性から金を借りて、他の女性にお金を返す。そして、またその女性に返すために、他の女性からお金を借りるといういわゆる『自転車操業』のようなやり方で女性を騙し続けていたの」

「お金を返すのは誠意からではなく、次に借りるためのものだったのね。それだけに、たくさんお金を持っている人であれば、誰にでも、そしてなるべくたくさんの女を繋ぎとめておく必要があったのよ」

「それで、その男はどうなったの?」

「そんな危ない関係を、たくさんの人とするんだから、相手が増えれば増えるほどリスクが高くなってくるのは当たり前でしょう。彼も次第に女たちだけでは危なくなって、どうするのかと思えば、サラ金に手を出したのね」

「バカじゃないの」

「ええ、その男、相手が女性であれば、それなりに頭が働くみたいなんだけど、女性以外であれば、本当に浅はかな行動しかできないの。もうこうなってしまうと、ここから先はさっき言っていたみたいに、堕ちるところまで堕ちたってわけなのよね」

 その話を彼女は黙って聞いていた。

 事情を知っている人がいれば、

「あんな男と別れて正解だったのよ。騙されかけたのは浅はかだったけど、あなたはしっかり別れることができたからよかったのよ」

 と言われるであろう。

 しかし、彼女が別れることができたのは、セレブのようにお金持ちではなかったからだというのが一番の理由だろう。だが、彼女の中では、

――私が彼をフッたのよ。あの言い訳がすべてだったんだわ――

 と言いたかったことだろう。

 彼女のまわりで、その男と彼女が一時期付き合っていたというのを知っているのは亜衣だけだった。

「亜衣は、どうして分かったの?」

「だって、さっきの話を聞いている時、私はずっとあなたのことを見ていたんですもの」

 と、答えた。

 その日、仕事が終わって彼女を誘ったのは亜衣の方だった。

「ねえ、お時間があったら、一緒に呑みにいきませんか?」

 断わられる確率を半々くらいに感じていた亜衣だったが、

「ええ、いいですよ」

 と、それまでに見たこともないような笑顔を見せてくれたことで、亜衣は少しビックリさせられた。しかも、その時亜衣はもう一つビックリさせられていた。

――あれ?

 一瞬、彼女の姿が見えなくなった。急に消えたわけではなく、次第に透明になっていくようで、気が付けば完全に目の前から消えてしまっていたのだが、強く瞬きをすれば、すぐに彼女の姿は元に戻った。

――夢だったの?

 亜衣は、子供の頃に友達から、

「亜衣ちゃんが時々消えたような気がする」

 と言われたのを思い出していた。

 その日は、彼女が男と別れたことを祝うつもりの二人きりでの呑み会だった。彼女の方も、さすがにここに至って相手の男がどれほどひどい男であったのかということを認識していた。

「亜衣ちゃん、ありがとう。私、これで立ち直れる気がするわ」

「いいのよ。私も嬉しいわ。あなたが立ち直れて」

 そういって、二人は時間を忘れて呑むことになった。

 先に潰れたのは、彼女の方だった。

 何とかタクシーに乗せて、彼女の部屋まで運んだが、すぐに彼女は眠り込んでしまった。少しでも意識が残っていれば、自分も一緒に泊まっていこうかと思ったが、完全に眠ってしまっていて、起こすには忍びない。そんな状態で自分が泊まるというのはルール違反だった。

 いくら親友とはいえ、完全に眠り込んでいるのだから、その時に何かが無くなったといわれるのも嫌だったからだ。そういう感覚は酔っていてもしっかりしている。いや、酔っているからこそ、しっかりしなければいけないと思うのか、亜衣は彼女を大丈夫だと思えるところまである程度介抱し、彼女の部屋を出た。

――こんな中途半端なことになるなんてね――

 少し計算が狂ってしまったことは致し方ないことだったが、さすがに深夜に女一人で家路につくのは少し怖い気がした。

 彼女の部屋は大通りから少し入った住宅街のマンションだった。大通りまで出ればタクシーが捕まるかも知れないと思い、五分ほどの道を歩いていた。

 近くに児童公園があった。

――そういえば大学生の頃、初めて付き合った男性と、夜の公園で話しこんだことがあったっけ――

 と、懐かしい思い出を思い出していた。

 あの時は最初ベンチに座って話をしていたが、急に彼が、

「ブランコか。懐かしいな」

 と言って、ブランコに歩み寄り、両腕と足を使って、大きく漕ぎ出した。

 亜衣も子供の頃、公園では一番ブランコが好きだった。顔に当たる風もさることながら、こぎ上げた後、後ろに下がる時の感覚は、ゾッとするほどの興奮があり、後ろまで行ってから戻ってくる時の感覚は、今でも忘れられなかった。

「酔いを醒ますには、ブランコで風を感じるのもいいかも知れないわ」

 懐かしさと、ほろ酔い気分の中で、公園を見つけたことはまるで運命のように感じられた。

 亜衣はブランコに無意識に近づいていき、気が付けばすぐそばまで来ていた。

「懐かしいわ」

 と言ってブランコに腰を下ろし、足で地面を蹴って、思い切り、ぶら下がっている吊り鎖を両手で引っ張った。

「やっほー」

 思わず声が出てしまった。

 シーンと静まりかえった公園で、声は響くのだろうと思いきや、思っていたほど声が出ていないことに気づいた。ただ、風は顔に心地よく、自分が想像していた快感は十分に得ることができたのだ。

 何回か前後に揺られている間、自分が自分ではなくなっていくような錯覚に陥っていた。まっすぐに前を向いて漕いでいると、目の前に広がった公園が次第に小さく感じられてきたのだ。

――目が慣れてきたのかしら?

 目の錯覚だとは思いながらも、まっすぐに見ていると、今度は自分がどんどん高い位置に上がっていくような気がしてきた。

――この感覚が、公園の広さを狭く感じさせているのかも知れないわ――

 と解釈した。

 少し考えなければ理解できないような状況に陥った時、意外と亜衣は冷静だった。

 冷静になればなるほど、自分の頭が冴えてくることを分かっているからだ。

 だからと言って怖がりではないわけではない。怖いものは怖かった。それでも、冷静になることで自分が考えることに自信が持てるようになると、怖さよりも、好奇心の方が強くなることもあり、急に何も怖いとは思わなくなる。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

 ということわざがあるが、まさしくその通りであった。

 冷静になって公園を見ていると、

――昔にもここに来たことがあるような気がするわ――

 と感じた。

 そもそも児童公園などどこも似たり寄ったりのものであり、昔の思い出の中にある公園と似ていたとしても、それはまったく不思議ではない。錯覚ではあるが、無理もない錯覚であり、錯覚にもいろいろ種類があるのだろう。

 公園を見渡してみると、目の前には遠くの方に先ほど座ったベンチがあった。その横にあるのは、滑り台だった。滑り台が砂場に向かって下りてきている。女の子がプラスチックのバケツを横に置いて、同じくプラスチックのスコップで一生懸命に穴を掘っている。どうやら、その横に砂を積み重ねて、お城のようなものを作ろうとしているようだ。その横から男の子が、勢いよく滑り台から下りてきて、砂を蹴っ飛ばす。一瞬あっけに取られた女の子は、すぐに情けない表情になり、泣き出してしまう。それを見ながら当事者である男の子は、まったく悪びれた様子もなく、したり顔で泣きじゃくっている女の子を見下ろしていた。

 今までの亜衣なら、その女の子をかわいそうだと思い、相手の男の子に嫌悪を感じていたに違いない。しかし、その日の亜衣は、なぜか二人がいとおしく感じられた。泣きじゃくっている女の子をかわいそうだと思うよりも、男の子を見ているその目は、何かを訴えているようだ。それは、恨みからではなく慕っているかのようで、それを男の子も分かっているから、したり顔なのだと思えた。

「小さい子供にも、子供の世界があって、大人よりも固い絆が存在しているのかも知れないわ」

 と感じた。

 その時目の前にいる女の子が、昔の自分に思えてならなかった。しかし、思い返してみるが、子供の頃の記憶に、これと似た記憶は存在していない。

――どうしてこんな幻を見たのかしら?

 亜衣は、幻と心で感じていたが、実際にはそうは思えないような気がして仕方がなかった。気が付けばブランコを漕ぐのをやめて、何かを考えている自分がいた。

――こんなことに気が付くなんて――

 自分の世界に入り込むと、そう簡単に我に返ることのない亜衣だったので、気が付いたことに自分でビックリしたのだった。

 亜衣は、滑り台の男の子を意識していることに気付くと、今度はその女の子を見つめていた。

 二人は、何事もなかったかのようにすぐに仲直りして、急に亜衣の方を見つめた。

 亜衣はビックリして、二人から目を逸らしたが、すぐに元の位置に目を戻すと、そこには誰もおらず、街灯が砂場の中心部分を照らしているだけだった。

――気のせいだったのかしら?

 そう思うと、今度は砂場とは反対側にある遊戯具が気になった。

 そこにあるのはシーソーだった。

 シーソーは二つの組になっていて、それぞれ上下が逆になっていて、こちらから見ると、「X」のようになっていた。この形が横から見た時の基本形のような気がして、

――意外とシーソーというのも、格好がいいものなのかも知れないわね――

 と感じたのだ。

 すると、手前側のシーソーが急に動き出して、左右が逆になった。「X」が崩れたのである。

「ギーッ」

 という音が聞こえたかのように思えたが、この時も夜の闇に吸い込まれたように、静寂がすぐに襲ってきた。

 すると、シーソーの上になった部分に一人の男が座っているのが見えた。その人は子供ではなく、いい年をした大人だった。その姿は滑稽で思わず吹き出してしまいそうになったが、考えてみれば自分も誰もいない深夜の公園で、ブランコに揺られているのだから、十分に怪しい存在であろう。

 ただ、滑稽に見えたのは、面白いから滑稽に見えたわけではなかった。最初は気付かなかったが、よくよく考えてみると、その光景には大きな矛盾が孕んでいたのだ。

 その男性がシーソーの下にいるのであれば別に不思議はないのだが、下には誰もおらず、その男性だけがそこには存在していて、しかも上にいるのである。

――これも幻なんだわ――

 その男性は、白いオーラに覆われているように見えた。夜のしじまに襲い掛かっているものは恐怖だと思っていた亜衣は、最初に恐怖を感じなければ、夜のしじまであってもそれ以降恐怖は感じないと悟った。

「あなたは一体誰?」

 思わず、亜衣はその男性に語りかけた。しかし、やはり夜のしじまにその声は吸収されてしまったのか、自分の耳に響くことはなかった。

 しかし、その男性はリアクションを示した。

 それまで亜衣がそこにいることに気付いていない様子だったが、亜衣の呼びかけに彼は亜衣の方を向いた。明らかに亜衣に反応したのだ。

 亜衣は、ブランコから降りて、ゆっくりとシーソーの近くに歩み寄った。

 それを彼は分かっているかのように、近づいてくる亜衣に微笑みかけている。

「こんばんは」

 亜衣は彼に話しかけると、

「こんばんは」

 彼も、返事をした。返事をしたということは幻ではない。さっきの砂場で感じた少年と少女とは明らかに違っている。彼はシーソーからゆっくりと下りてきた。

 さっきの少年少女のうちの少女は、亜衣の子供の頃だった。自分の中にある思い出が、似たような場所とシチュエーションで、錯覚を見せたのだ。しかし、シーソーに乗っている男性には見覚えはない。ただ、

――どうしても他人のように思えないのはどうしてなのかしら?

 自分と似ているというわけでもないし、会社に似た人がいるわけでもない。他人という意識よりも、自分にかかわりのあるのは、肉親のような関係の相手だと思ったからだ。

「あなたは一体……」

 亜衣は、相手が誰なのかを聞きたかったのだが、それ以上、声が出なかった。どんなに聞きたいことであっても、一度その機会を逃してしまうと、それ以上聞くことができないというのは、往々にしてあるというものだ。

 まさに今がその時で、それ以上何も言えなくなってしまった亜衣を見て、相手の男性はしたり顔になっていた。

 だが、亜衣はその表情を見て、悔しいというような感情が湧いてくることはなかった。どちらかというと、自分から聞くというよりも、彼の口から率先して聞きたいという感情が強かったのだ。

「僕は、あなたに関係のある人間なんですが、すぐにそのことを言うと、あなたは混乱してしまいそうなので、ゆっくりお話することにしましょう」

「私に関係がある?」

「ええ、ハッキリいえることは、僕が今ここにいるのは、少なくとも、亜衣さんが望んだことだということですね」

「私にはそんな自覚はないわ」

「人間というのは、その行動のほとんどには意味があるということを言っている人がいましたけど、あながち間違いではないんですよ。ただ、自覚がないので、誰も信じようとはしないというのが現実で、人間というのは、そういう意味では、まだまだ捨てたものではないということですね」

「あなたはまるで自分が人間ではないかのような言い方をしますね」

 亜衣は、

「あなたに関係がある」

 と言われた相手が、人間に対して他人事のように話していることに大いなる違和感を感じた。

――人間って、確かに幾種類もの人がいて、一人一人性格も違っているので、同じ動物でも、人間ほど幅広い世界を持っている動物もいないのかも知れない――

 と感じていた。

「とりあえず、そんなことはどうでもいいじゃないですか?」

 彼の方から、関係があると言っておいて、どうでもいいというのはどういうことなのだろう?

 亜衣はその言葉を聞いて、急に不快感を催してきたが、なぜか彼を遠ざける気分にはならなかった。

 まずは、今のこの状況を把握することが先決で、そういう意味では彼に不快感を感じたことで、余計に冷静になれそうで、いわゆる

――怪我の功名――

 と言えるのではないだろうか。

「じゃあ、どうしてあなたは、こんなところでシーソーになんか乗っているんですか?」

 彼の言い方に対し、精一杯の抵抗の意味を込めて、亜衣は投げやりに聞こえるような言い方をわざとした。

「ここが僕の居場所だからですよ。僕の居場所に亜衣さんがやってきただけのことなんですよ」

 と言って苦笑した。

「偶然なんでしょう?」

「偶然とは少し違いますね。僕の意思がそこには働いているからですね。でも、亜衣さんからすれば偶然なんでしょう。そういう意味では偶然ではないとは言い切れないでしょうね」

 男は不可思議な理論を組み立てていた。

 それにしても、初対面だと思われるこの男性に、

「亜衣さん」

 と呼ばれて、違和感はない。どこをどう見ても初体面にしか思えないという感覚も今までにはなかった。自分が覚えていない時でも、相手にそれなりの自信があれば、

――やっぱり私が覚えていないだけなんだわ――

 と次第に自分の意識は薄らいでいく。

 それなのに、この男性に対してここまで頑なに、

――初対面だ――

 と感じるのは、どうしてなのだろう?

 彼の顔を見ていて、無意識な闘争心のようなものが浮かんでくるわけでもなかった。むしろ彼の顔には感情が含まれておらず、こちらがムキになるだけ無駄だということは見ていてすぐに分かった。それなのに、頑なになるのは、やはり彼がいうように、私の過去に彼が関わっているということなのだろうか?

「あなたは、超能力者か何かなんですか?」

「どうしてそう思われるんですか?」

 彼の表情にはやはり感情はなく、無垢といえば無垢なのだが、考えていることが分からないだけに、気持ち悪い。

「だって、さっきシーソーに乗っている時、あなた一人のはずなのに、あなたの方が上だったのを見たからですよ」

「ああ、あれですね。よく気が付きましたね」

「えっ?」

 確かに最初、

――何かおかしい――

 と、違和感を感じたが、その正体をすぐに悟ったわけではなかった。しかし、誰が考えても明らかにおかしい状況に、

「よく気が付きましたね」

 という言い方はないのではないだろうか。

「そりゃ、誰だって気が付きますよ。物理的に考えておかしいですからね」

「なるほど、じゃあ、亜衣さんは物理的に考えておかしいと感じたわけですか?」

「ええ、最初はあまりの状況に、何かがおかしいと思ったんですが、一瞬でそのおかしなことの理由にたどり着くことはできませんでした。ただ、それは目の前に展開されている状況が信じられるものではないという疑念が、目の前の光景を認めることができなかったんだと思います。それは私に限らず、他の人皆そうなんじゃないですか?」

「確かにあなたのいう通りです。でも、その考え方は亜衣さんらしくないじゃないですか」

「どういうことですか?」

「あなたは、自分が他の人とは違う考え方を持っていて、他の人の常識にとらわれたくないと思っているはずです。それなのに、『他の人皆同じじゃないですか?』というのは、私が考えるに、亜衣さんらしくないと思うんですよ。いわゆる『心理の矛盾』なんじゃないですか?」

 確かに彼の言うとおりである。

 しかし、あまりにも的を得ているので、すぐに認めたくないという思いがあったのも事実だ。彼と会ってからのこの短い時間であったが、亜衣は自分の中にある、

「他の人とは自分は違うんだ」

 という思いを忘れていたようだった。

 これは、亜衣にとって不覚ともいえるだろう。確かに忘れてしまっていたことも不覚であるが、それを他人から指摘されて初めて気が付くなど、亜衣のプライドが許さない気がした。

「でも、明らかにおかしな現象を認めるというのは、私の中では許せないことなんです」

「じゃあ、それが他の人と同じでも、それでも構わないと仰るんですか?」

「ええ」

 彼は一体何が言いたいのか、亜衣にはよく分からなかった。そのため、警戒心が強くなり、優先順位はどうしても目の前で起きた現象に対しての事実が先になってしまったのだ。

「僕は、あなたの言う超能力者なのかも知れませんが、それは別に不思議なことではない。それよりも、僕があなたに関係のある人間であるということの方が、あなたには気になっているんじゃありませんか?」

 まさしくその通りだ。手品であれば、どこかに種も仕掛けもあるはずだが、自分に関係のあるその人を、亜衣は見た記憶はないはずなのに、どこか気になってしまうのは、彼の言葉に重みがあるからなのだろうか?

 もし彼が超能力者であるとすれば、彼に暗示を掛けられているとも考えられる。ただ、超能力と呼ばれるものにはいくつもの種類があり、一口に超能力者だと言っている人が、そのすべてを網羅しているなどとは、端から考えているわけではない。

――超能力と言っても、何か一つに特化しているだけなんだわ――

 と思っている。

「どうやら、亜衣さんは分かっているようですね」

「何をですか?」

「超能力と呼ばれる人は、別に特別な人間というわけではないですよ。誰もが特殊能力というのを持っていて、それを使いきれていないだけなんです。そのことはあなたもご存知のことだと思います」

「ええ、人間の脳は、ほんの少ししか活用されていないという研究結果はよく知っています。だから、これだけたくさんの人間がいるんだから、少しくらいは、使われていない部分の脳の機能を使いこなしている人がいても別に不思議ではないですよね」

「その通りです。だから超能力者というのは逆に、特化した部分以外は他の人と同じなんですよ。中にはもっと繊細なのかも知れない。つまりは傷つきやすいとも言えるんですよね。超能力者としてテレビやマスコミに引っ張りだこだった人が今は悲惨な人生を歩んでいる人も少なくはないんです。そういう意味では人間というのは、おろかで残酷な人間だと言えるでしょう。なまじ考えたり感じたりしたことを直接感情として表に出す種族なのだから、それだけ人間という動物は弱いものだと言えるでしょう」

「あなたもそんな一人なんですか?」

「そうかも知れません」

 この話を聞いていると、同情的になってくる自分を感じた。

――この人も悲しい人なんだわ――

 と感じた。

 しかし次の瞬間、

――悲しい人という定義は何なんだろう?

 と感じた。

「あなたは、悲しい思いをされたことがあったんですか?」

 男は少しだけ考えて、

「いえ、悲しいと感じたことはありません」

 インターバルがもう少し長ければ、この言葉も信憑性に掛けたのだろうが、彼が考えているという雰囲気を亜衣が感じるまでには至らなかったことで、

――この人の言葉を信じるしかない――

 と感じた亜衣だった。

「あなたは、どうして今、このタイミングで私の前に現れたんですか?」

「運命というのは、そういうものなんじゃないですか? 出会いというのはそのほとんどはいきなり起こることです。数多い出会いの中で、これこそ私にとって運命の出会いだと感じるのは、後になってからのことでしょう? それは、出会いのインパクトがあるかないかだけの違いで、それ以外は同じなんですよ」

「感情もですか?」

「ええ、僕はそう思っています」

 ということは、彼には感情というものが欠如しているということであろうか?

――そんな風には見えないわ――

 と感じたが、考えてみれば、感情の欠落した人というのは実際に見たことはない。テレビや映画の登場人物で、感情の欠落した人というイメージの人間が出てくることがあるが、それはあくまでもフィクションだと思っている。実際にそんな人物に会ったことがないだけに、想像するための材料が必要なだけで、その材料はテレビや映画に頼るしかない。これも自分の感情の矛盾だと思いながらも想像してしまう。いかに人間というのは、弱いものなのだろうか。

――やっぱり私は暗示に掛かっているのだろうか?

 相手の男性は、自分に関係のある人だと言っている。ひょっとすると、その瞬間から亜衣は彼の術中に嵌ってしまったと言えるのではないだろうか。

――この人と話をしていると、信じられないと思ってきた今までの常識が覆されそうな気がする――

 彼は自分のすべてを知っているかのようだった。何といっても、自分がほかの人とは違うという理念を持っていることを看破したではないか。知り合いや友達に限らず、家族を含めたところで、どれだけの人が亜衣のそんな性格を知っているというのだろう。特に肉親などというものは、最初から信用していない。

――肉親だから――

 この言葉が最初にくれば、たいていのことには驚かされない。

「あなたの考えていることなんかお見通しよ」

 と言われても、信憑性を感じさせる。それだけ血の繋がりというのは何にも増して勝っているものなのだろう。

 しかし、亜衣はそんな血の繋がりに疑問を感じている。単純な疑問と言ってもいい。

――血が繋がっているだけで、どうして何でも分かるというのだ?

 亜衣は親に対して疑問以外の何も感じていない。

「お父さんやお母さんは、あなたのことをちゃんと分かっているわ」

 と言われ続けて育ってきた。

 その言葉が、子供に安心感を与えるものだということは大人になるにつれて理解できるようになったが、それがすべての子供に当て嵌まるとでも思っているのだとすれば、それはとんだお門違いである。

 もし、両親の子育ての考え方の根本に、そのお門違いの重いがあるのだとすれば、亜衣が感じている、

「私は他の人とは違う」

 という思いは、両親の感情からの反発で生まれたものなのかも知れない。

「誰から見ても恥ずかしくないような大人になりなさい」

 そんな言葉を何度聞かされたことか。

「誰の目から見ても」

 という件に、すべての疑問が含まれている。

 両親だって、自分たちが気に入らない人がいれば、

「人それぞれなんだから、相手に対して余計な気を遣ったり、怒ったりしても仕方のないことなのよ」

 と言っていたではないか。

 それを思うと、

「誰の目から見ても」

 という件は、明らかに矛盾していることになる。

 そんな親の言葉に子供の頃の亜衣は一時期惑わされていたが、

――親だって万能なんじゃない――

 と思うと、スーッと気が楽になってくるのを感じた。

 その頃から、自分が一匹オオカミではないかと感じるようになったが、その思いには最初から違和感はなかった。

 親の言葉に矛盾を感じる信憑性よりも、自分が一匹オオカミであることは信憑性があったのだ。

 そんなことを考えていると、亜衣は目の前の男の存在にそれほど疑問を感じなくなっていた。自分にどのような関係があるというのか少し怖い気もしたが、両親に感じた違和感に比べればよほどマシだったのだ。

「でも、やっぱりいきなりというのは、自分を納得させるまでに時間が掛かるんですね。いきなりを感じさせないような出現方法は、僕の中には考えられないものだったからですね」

「それは驚かせようという意図があったんですか?」

「驚かせようというよりも、亜衣さんの気持ちが純真なので、そこに訴えようという思いはありました。思った通り、あなたは僕の存在を頭から否定しようとはしませんでした。本当であれば、なかったことにしたいと思っても不思議のないことですからね」

「じゃあ、あなたには明らかな意図があって、私の前に現れたというわけですね?」

「ええ、あなたの前に現れるということは、僕にとってもリスクのあることなんです。そのことは今話をしても混乱するだけなので、おいおいするようにしましょうね」

 かなりの段階を踏まないと、彼の存在を亜衣が理解することは難しいのかも知れない。彼はそれでも、焦らすような言い方をしていたが、亜衣は必要以上に知りたいとは思っていない。肝心なことだけ分かればいいと思っていて、そのための準備段階を彼がどのように用意してくれるのか、それも楽しみであった。

「亜衣さんは、本当に落ち着いていらっしゃる。やっぱり僕の思った通りだ。おかげで僕も助かります。驚かれないだけでもありがたいと思っていたのに、やっぱり、あなたは素晴らしい」

「どういうことですか?」

「こんな状態でも、僕のことを貪欲に知りたいと思ってくれているでしょう?」

「こんな状態だから知りたいんですよ」

「いや普通であれば、こんな状態を自分に納得させるために僕を知りたいと感じるんでしょうけど、あなたは純粋に僕を知りたいと思ってくれている。それが僕には分かるので、素晴らしいと思ったんですよ」

 彼の話していることはくすぐったいほどのお世辞にしか聞こえないはずなのに、自分を納得させるだけの説得力を感じる。亜衣にとって彼が現れたことで何かが変わるのではないかと思わせるほどの力が彼の言葉にはあったのだ。

「このシーソーなんだけど、普通見ていれば、物理学に反しているので、信じられないと思うのは当然のこと。でも、このシーソーの先には見えていないだけで、確かに何かが存在しているということを亜衣さんは分かっているんじゃないですか?」

「ええ、どう考えても、納得のいく回答を得られないと考えると、それならば一番しっくりくる考えを導き出そうと思うのは当たり前のことだと思うんですよ。この場合は、もう一人誰かがこの場にいると考えた方がしっくりくると思っただけなんですが、おかしいですか?」

「いえ、そんなことはないですよ。では、あなたはそこに誰かが存在しているとお考えなんですね?」

「ええ、透明人間のような人が存在しているんじゃないかって思ったんです」

「その通りです。ただ、今ここでその人が誰なのかを公表してもまったく意味がないので、まずは亜衣さんの考えが間違っていないことをお話するにとどめましょう」

「ところで、あなたは一体誰なんですか? 私に関係があると仰ってましたが、あなたが私の前に現れたのは何かの意味があるんでしょう?」

「ええ、あなたは最初僕のことを超能力者だと思われたんでしょう? シーソーを見れば最初に感じることは僕に超能力があるという発想であってしかるべきですからね。でも、その後あなたは再度冷静になって考えた。そして透明人間という発想に行き着いたわけですね。でも、もうそれ以上の発想は、このシーソーからは浮かんでこない。それでは話を逸らすしかないと考えたあなたは、まず一番の疑問に感じていることを僕にぶつけてみることにした。それが僕の正体だということですね」

「その通りです。あなたは何でもお見通しなんですね?」

「でも、それはあなたにも言えることだと思います。失礼ですが今、あなたには信頼できる人がいない状況だと僕は思っています。人から信頼されていると思っていたことも、実は少し違っていると思うようになっているでしょう? 誰かに相談されたことも、前だったら自分を信頼して相談してくれることをこの上なく喜んでいたはずです。でも今は人から相談されるのも、体よく人に利用されているだけではないかと思っているはずですよね。それでも相談されると相談には乗ってしまう。相手が自分を選んでくれたということは、それだけ自分に自信を持っていいと感じているからであり、それが自分を納得させられることだと思うことで、いまさらながら自分の生きがいは、人から相談されたことに対して的確な回答をすることで得られる相手の信頼だと思っていることでしょう。でも、しょせんは自己満足。自己満足に生きることで、次第に人と話すことが億劫になってくる。自分の本心をそのうちに誰かに看破されてしまうのではないかと思うからではないでしょうか」

「ええ」

「でも、あなたは今僕に対して、最初に感じた不信感を何とか払拭することができたことに喜びを感じている。人を信じるということを思い出したような気がしているからなんでしょうが、それは相手が僕だからだという理由であれば、本当に人を信じるということを思い出したとはいえないのではないでしょうか? だから、あなたは今の一番の関心はこの僕が誰なのか、そして自分にどのような関わりがあるのかということを知りたいと思っていることなんでしょうね」

「……」

 亜衣は、目の前の男性に不信感はすでになくなっていた。しかし、それは彼が最初に、

「あなたに関わりがある」

 と言ったからで、関わりのない男性だと思うと、最初からこの男の存在を夢として解釈し、まずは他人事として相手を見ることに徹し、それができるようになると、その男の存在を打ち消そうとするのではないだろうか。夢として処分してしまえば、なかったことにできるのではないかと感じたのだ。

 ただ、夢として記憶してしまうと、いずれは思い出すこともあるだろう。その時に中途半端なままで終わってしまっていると、彼への思いは募るばかり。

――彼の正体をハッキリさせておかなかったことで、いつまでも気になってしまい、彼の存在が頭の中から消えることはないだろう――

 と感じるに違いない。

 それだけシーソーのシーンはセンセーショナルで、忘れたくても忘れられない事実として頭の中に残るに違いなかった。

――それにしても、どうして彼はこんなセンセーショナルな出会いの場面を演出したんだろう?

 亜衣は考えた。

 普通に現われればいいものを、なぜインパクトの強い現われ方をしたというのだろう?

 考えられることとして一つには、

「何か、判断を誤らせる必要があったのではないか?」

 と考えた。

 普段から冷静な人は、自分の理解を超える現象が起きた時、何とか自分の中の理屈に合わせようとする。それが合わない時は初めて超常現象として認識するように考えるのであろうが、彼の話を冷静に聞いていることで、少しずつ自分の理屈に合ってくるのを感じさせられる。

 それは相手の巧みな誘導なのではないだろうか。

 亜衣はそこまでは考えていたが、彼と話をしている中で、その理屈のすべてに、考えられることが二つ存在していることに気付いていた。

 シーソーのシーンでも、彼が超常現象を作り出したという発想と、もう一つは透明人間がそこに存在しているという考え方だ。

 亜衣の発想は、あくまでもスムーズな解釈ができることが前提で、そこから考えれば透明人間の発想の方が、しっくりと来る。

 亜衣がそのことを感じているのを、相手に看破された。それどころか、その先の発想まで見抜かれてしまっているのを感じると、亜衣は次第に彼の術中に嵌ってしまっているようだった。

 そのことも亜衣には分かっている気がした。それでも、亜衣は冷静に考えた。

――私にどうな関わりがあるというのか、それが彼の出現の本当の理由のはずであろうーー

 と、考えているのではないかと思ったのだ。

 モノの価値というのは、それを見ている人の判断から始まる。判断によって、そのものが自分にいかに関わっているのか、今後どのように関わろうとしているのか、それを見極めようとする。

 つまりは、モノの価値という言葉は、その人それぞれの考え方であって、一律に決めてしまわなければいけないのは、やはりその人それぞれなのだ、

――人の数だけ、モノの価値は存在する――

 と言っても過言ではないだろう。

 今日は、友達と話をして、久しぶりに遅くなったことで、深夜普段は出歩かない自分がここにいるのだ。

 普段であれば、こんな深夜に女性一人で出歩くなどという危険なことをするはずがないのに、いくら友達との話があったとはいえ、もっと他にやりようもあったというものだ。それも彼が知っていて、こんな演出をしたのだとすれば、今の自分は彼の手のひらの上で転がされているような気がしていた。

 それだけに彼の正体を知りたい。

 このままでは自分のプライドがズタズタになってしまうように感じたからだ。

 亜衣は、普段はあまり人に関わりたくないと思っているくせに、たまに今日のように友達の相談に乗ってあげなければいけないという衝動に駆られてみたり、自分が関わりたくなくとも、相手から関わるように仕向けられることがあった。特に他人から関わるように仕向けられた時などは、もちろん、自分の意思に反してのことだった。この日も、相手から関わるように仕向けられる自分を象徴しているような出来事ではないか。

――こんなことがあるから、なるべく人に関わりたくないのに――

 その思いは、一種の、

「負の連鎖」

 だった。

 ただ、それも亜衣は、

――まわりのことを何も見えていない自分が、人に関わりを持つとロクなことはない――

 と感じているからだった。

 しかし、逆に考えると、

――まわりのことがよく見えていないからこそ、人と関わることで、少しでも見えるようになれるのではないか?

 という考えも成り立つ。

 しかし、それは、人に対して自分に協力してもらえるような暗示を掛けなければいけないと思っているからで、信頼感がその暗示に繋がるという考えを持ち合わせていなかった。あくまでも人との関係は、損得勘定を抜きにして語ることができないものだと思っていたのだ。

 ただ、親友になる人だけは違っていて、

――親友に対しては感じたことをそのまま素直に表現すれば分かってくれる――

 と思っていた。

 自分が他の人と同じでは嫌だという考えを持っていることに気付いたのは、高校生になってからのことであり、就職してからしばらくその感情を忘れていた。

 勉強と違って仕事は、他人との協調なくしてできるものではない。そのことは最初から分かっていることで、そういえば、就職してから数ヵ月後、欝状態に陥ってしまったのを思い出していた。

「五月病というには、少し遅いくらいだわね」

 と、相談した女性事務員の先輩からはそう言われた。

「やはり五月病なんでしょうか?」

 と聞くと、

「五月病というのは、人それぞれで、誰もがなるというものでもなく、時期も一定しているわけではないわ。でもあなたの場合は少し遅いのかも知れない。なぜならあなたは仕事の覚えも遅いわけではない。他の人は仕事を覚えかけている最中に五月病を起こすものなのに、あなたの場合のように、ある程度まで仕事を覚えている段階での五月病というのは珍しいかも知れないわね」

「仕事を覚えたことで、少しだけ気が抜けた感じのところはありましたが、そこからどうして欝状態に陥ったのかとが分からないんですよ」

「欝状態にもいろいろあって、あなたの場合はどんな感じなの?」

「私は、何をするにも億劫で、本当は人に相談するのも億劫なはずなのに、先輩だけは違ってました。何となく分かってくれるような気がしたんです。どうしてなんでしょうね?」

「私もあなたと似たような状態だったのかも知れないわね。私の場合は、それまで持っていた自信が一回すべて瓦解したの。何をやるにしても、考えてしまうと、すぐに最初に戻ってしまう。抜け出すことのできない底なし沼に足を突っ込んでしまったような気がするの。その時に考えたのは、なぜか、底なし沼の底って、どうなっているのか? ってことだったの。これは冷静だったからなのか、それとも欝状態だったから、こんなおかしな発想になったのか分からない。でも、欝状態から抜けてみると、この発想は元々私の発想だったの。普段は分かっているつもりだったんだけど、本当は理解していなかった。そのことを思い出させてくれた欝状態というのは、私にとって、なくてはならない時間だったんだって思うようになったの」

「そんなものなんでしょうか?」

 投げやりな言い方になってしまったが、実際にはそうではない。他人事のように言うことで、自分の中にあった欝状態が別の人格を示しているということを暗示させようとしていたのだ。

「ええ、そんなもの。そしてあなたも、すぐにこの状態を抜けることになるわ。抜けたらこの時期を思い出してごらんなさい。決して悪かったとは思わないから」

 と先輩に言われ言葉を思い出していた。

――そうだわ。私の中で、無意味だとか、不可思議で理解できないことであっても、決し得t意味のないということは今までになかったんだわ――

 と思い知らされた。

 つまりは、彼の出現も何か大きな意味を秘めているのだろう。

 これからの自分の人生にどのように関わってくるのか、亜衣は覚悟をしていた。

 先ほど考えた、

「負の連鎖」

 とは、以前に罹った五月病のようなものではないだろうか。

 そう考えると、この負の連鎖も、何かの意味を持っていると考えてもいいだろう。

 負の連鎖を、人との関わりに限定していいものかどうか、亜衣は考えていた。人と関わらないことで得るものは、人と関わることで得られるものよりも大きいという判断から、人と関わることをやめていた。人に相談することは子供の頃からの癖のようになっていた亜衣は、人に相談しないで自分ひとりで考えた発想が、今は自分にいい影響を与えていると思っていたからだ。

 人に相談して得られる答えというのは、しょせん一般論でしかない。そのことを分かっていながら昔から誰かに相談していたのは、何かにぶつかった時、一人でいるのが怖かったからだ。

 人から言われる一般論が、傷ついた心を癒してくれる薬のように思っていた。特に学生時代というのは、勉強が主であり、誰かと協力するわけではなく、一人でこなしていくものだったからだ。

 孤独を辛いと感じていた時期というのは、思春期であり、精神的にも不安定である。どっちに転んでもおかしくない状態で、まるで天秤に載せられたような気分になっていた。思春期は人との関わりが一番大切で、相談したのも無理もないことだ。しかし、最後は一人にならなければいけないことに気付くと、人と関わることを億劫に感じる時期がやってくるのだ。

「俄かには信じてもらえないと思うが、実は僕は別の世界から来たんだ」

 急に男はそう口走った。

「どういうことなんですか? タイムマシンを使ってここまで来たというわけですか?」

――別の世界――

 という言葉を聞いた時、すぐに思いついたのはタイムマシンだった。次元という発想もあったが、なぜかそちらに発想が向かなかったのだ。

「どうなんでしょう」

 それまでハッキリと答えていた彼が少し言葉を濁した。

――何かある――

 と亜衣は感じたが、それよりも、彼に対して親近感を抱き始めてきたからだろうか、彼が正直者だという印象の方が強かった。

――次元を飛び越えるという発想なのかな?

 ただ、次元を飛び越えるということは、亜衣の発想の中ではパラレルワールドが感じられたが、その世界にも自分と同じ人間がいて、それを思うと、

――この世界にも彼と同じ人間が存在しているのではないか?

 とも考えられた。

 そんな発想をしているのに、亜衣はまだタイムマシンにこだわっていた。

「タイムマシンの開発はずっと以前からされていると思っていたんですが、なかなか開発されない。そこにはSFでいうような「タイムパラドックス」のようなものが存在していて、その問題が解決されないと、タイムマシンをもし作っても、実用化されないんじゃないかって思っていました。実際はどうだったんですか?」

「その問題は確かにありました。でも、それはそれまでに開発されそうでなかなか開発されないという物理的な理論を何とかごまかすために言われていたことなんですよ。それはタイムマシンだけに限ったことではありません。ロボット開発においても同じこと。僕のいた世界でも、すでにロボットは実用化されています。もちろん、『ロボット工学三原則』や、フレーム問題のような解決しなければいけない問題を解決した上での実用化なんですけどね」

「じゃあ、タイムパラドックスも解決したと思っていいんですか?」

「解決したというわけではありません。パラドックスを孕んでいることを踏まえた上での運用をしなければいけないという縛りがあります。だから、タイムマシンには行ってはいけない場所を覚えこませて、いけるところだけでいかに問題なく行動できるかということが焦点になっています」

「それでは何ら解決にはなっていないではないですか」

「そうですね。覚えこませている部分にも限界があります。要するにそれだけ理性と知識を持って行動できるかということが大切なんです」

「そんな簡単に実用を許可できる時代だったなんて」

「認可する省庁なんて、今も昔も変わりないんですよ。自分たちの都合でいかようにもできるようにする。歴史が証明しているじゃないですか」

「そうですよね。金や権力がいつの世だって強いんですよね。モラルや理性なんてどこにあるというんでしょう」

「そこに関しては僕も同じです。時代が変わっても人間に変わりはない。いかに時代の流れに乗れるかどうかということですね」

「あなたはタイムマシンを使うのは何度目なんですか?」

「何回か使用したことがあります。でもそれは自分の人生を顧みた時、今の自分の根本がどこから来ているのかという素朴な疑問をまず感じて、一度過去に行った時の自分を見て、さらに過去に遡って疑問を解決したいと思う気持ちが強まりました。タイムマシンを使うほどに、どんどん真剣になっていった気がします」

「この時代に来たのは偶然というわけではないんですね?」

「ええ、僕の先祖は、それぞれの代に、いくつかのターニングポイントを持っています。僕はその人それぞれのターニングポイントを遡るのではなく、過去から未来に見つめていこうと思っているんです」

「私にもいくつかのターニングポイントがあるわけですね」

「ええ、そうです」

「じゃあ、今がその第一回目だということなんでしょうか?」

「いいえ、違います。あなたには過去にもターニングポイントがありました。意識がないため、漠然としているのかも知れませんが、確かにあったんです」

「ひょっとして、小学生の時、友達が行方不明になった時のことでしょうか?」

「ええ、そうです」

 あれは、小学三年生の時のことだった。

 友達数人と鬼ごっこをしていて、一人の少年が見つからず、夜中大人たちが探し回ったことがあったが、翌朝、日の出を過ぎたくらいの時間に、フラリとその子が家に帰ってきたことがあった。その友達は疲れ果てていて、声を出すこともできず、大人たちは、

「落ち着くまで話を聞くのを待ってみよう」

 と言っていたのだが、その子が落ち着いた時には、すでに記憶は消えていた。

 どこで何をしていたのか分からない。そんな彼がじっと見つめる視線の先にはいつも亜衣がいた。

「亜衣ちゃんの顔を見ていると思い出せるかも知れない」

 と言っていたが、結局思い出すことはなく、亜衣もそのうちにそんなことがあったなどということを忘れてしまっていた。

 しかし、なぜか定期的に思い出していた。タイミングはさまざまで、そこに共通点はなかったのである。

「この世であなたたちが知っている世界というのは、まだ四次元の世界は架空のものになっているわけですね?」

「ええ、でもあなたの今のお話を聞いていると、まるで未来からやってきたかのように聞こえるんですが、そうなんですか?」

「今、亜衣さんが未来だと思っている感覚は少し違っていると思います。どちらかというとパラレルワールドに近いんですよ。ただ、未来であることには変わりないと思います。でも、考えておられるイメージとはいまいち違っているんです」

「言っている意味がよく分かりません」

 亜衣が分からないと言っている言葉の意味を知ってか知らずか、男は話を続けた。

「タイムマシンという言葉とは少し違いますね。時間を飛び越えたわけではなく、次元を飛び越えたと言っていいと思います。ただ、タイムマシンという言葉もあながち間違いではないんですよ。僕の存在は今ここにいる時間とは違った時間で違う次元に存在しているんです」

「ということは、あなたは次元と時間を一緒に飛び越えたというわけですか?」

「そういうことになりますが、厳密には違います。次元と時間は一緒には飛び越えられないんです。どちらかを先に行って、どちらかを後に行う。その順番はどちらが最初でも構わないんですが、元いたところに戻ると時には、その逆をしなければいけません」

「あなたは、どうやって来られたんですか?」

「僕は、まず次元を最初に飛び越えてから、時間を超えました。なぜなら、先に過去に来てしまうと、その世界の過去を変えてしまうかも知れないと思ったからです。最初に未来の世界に到達し、すぐに過去に向かえば、その問題はないからですね」

「戻る時は逆になるから、やはり問題になるんじゃないんですか?」

「ええ、でも、先に時間を超えるのは未来に対してなので、過去で起こしたことが影響しているのかどうか分からないでしょう。それであれば問題ないんです」

「それって証明されているんですか?」

「ええ、僕たちの世界では証明されています。近未来であっても、あなたたちのこの世界よりも数百年ほど科学の進歩はあるんです。ただ、それもこちらの時代がすべてベースになっているので、向こうの世界からは、絶えずこちらの時代を見張っている部署があるんです」

「じゃあ、ずっと守られてきた世界だということですか?」

「そうですね。でも、すべてをいい方に導くことは不可能です」

「どうしてですか?」

「だって、あなたたちも個人で各々が生きているわけではないでしょう? 少なくとも誰かに関わって生きているわけですよね。つまりは人が増えれば増えるほど、何かが起こった時、その人たちのすべてを満足させることができる解決方法なんてないわけでしょう?」

「確かにそうですよね。必ずどこかで妥協のようなものがあって、落とし所を探しているわけですよね。そのために話し合ったりするわけですからね」

「それが国家単位になると、政府同士の会談だったり、政府内の決めごとだったり、世界共通の平和のための設立機関だったりするわけですよね。考えてもみてください。新聞が書く記事がなくて休刊になったり、ページ数がいきなり減ったりすることはないでしょう? 必ずと言っていいほど、毎日一面を飾るにふさわしいニュースが起こっている。それだけ人が増えてくるといろいろな紛争やもめごとが多くなるというわけです。しかも、一人が二人になったから単純に倍になるというような単純なものではなく、人数が増えるほど、関係が複雑になってきて、その分、もめ事も増えるはずです。それを一つ一つ解決することは度台無理なことであって、落とし所をどこにするかで決まることが多いんじゃないですか?」

 彼のいうことはもっともだった。

 亜衣も彼の言っていることを理解しているつもりだったが、果たしていつも頭の中にあっただろうか? 急に思い立ったように感じるだけで、その都度感じてすぐに忘れてしまう。

――それが人間なんだ――

 と亜衣は感じていた。

「今までの歴史の中で繰り広げられてきた戦争というのは、仕方がなかったと言っているように聞こえますが?」

「この問題は究極の問題を孕んでいるので、余計なことを軽々しくは言えません。そこは忖度してください」

 正直者の彼も、さすがにここでは口をつぐんでしまった。

「分かりました」

 と亜衣は答えたが、

「でも、向こうの世界、つまり僕のいた世界でも、もちろん歴史の流れはありますが、こっちの世界の影響を受けていることも間違いないんです。ある意味、こちらの世界が反面教師になっているといっても過言ではないんです」

「あれ? おかしくないですか?」

「というと?」

「あなたはさっき、あなたのいた世界が近未来だとおっしゃいましたよね。それなのに、こちらの時代の影響を未来のあなたが受けているんですか?」

「僕が受けている時代は、この世界の未来のことなんです。僕がここに現れたのは、別に今自分が受けている世界を見に来たわけではないんです」

「当然何か目的があってこっちに来られたんですよね? 今までのお話を窺っていると、未来に起こることを何とかしないと、あなたの世界におかしな影響が起こるということになるんですよね?」

「端的にいえば、そういうことですね。でも、これはあくまで僕個人の問題であって、世間レベルではないんです。だから、本当はいけないことになるんでしょうが、僕はそれを敢えて何とかしなければと感じたんです。そのために、まずはいろいろなことを調べてからになると思い、ある程度のことは調べてきました。今ここで話すわけにはいきませんが、あなたの将来のこと、あなたのまわりの将来のこと、そして、この世界の将来のこと、いろいろ調べてきました」

 そう言って嘯いている彼の表情は真剣そのものだった。元々、正直者だという意識が強かったのでそれほどビックリはしなかったが、今まで知っている中で彼のような人間を見たことがないだけに、ビックリさせられても不思議はなかった。

「ところで、あなたを見ていると、私は本当に正直者だという印象が強いんですが、あなたの次元の世界の人って、そういう人が多いんですか?」

 彼はニッコリと笑って、

「そうですね。正直者が多いと思います。昔はそんなことはなかったんですよ。人を欺くことを何とも思わない人だったり、欺かなければ自分が騙されてしまうという発想が蔓延している時代が長く続いたりしていたようなんです」

「それはあなたの世界の理念が変わったということなんですか? あなたの次元の歴史によって変わったと考えていいんでしょうか?」

「時代が変わり、人々の考えが変化していくには、残念ながらその世界のその時代の影響だけでは変えることは難しいんです。だから時代が変わったりする時には、何らかの影響があるんです。特に政権が交代する時など、クーデターが起こったりしていますよね。あれは他の世界の人間が影響を与えているからクーデターが起こるんです」

「でも、失敗もありますよね」

「それはそうです。だって、クーデターを起こされては困るという人も他の次元の人にはいるわけですから、クーデターを起こされた方にも、別の世界から影響があってしかるべきです。つまりクーデターは、別の世界から影響を受けた『代理戦争』のようなものだと言えるのではないでしょうか?」

「そうなんですね」

「僕がこの世界に来て一番ビックリしたのは、一般市民の歴史認識の低さなんです。歴史を学校で教えるというのは、実に画期的なことであるにも関わらず、当の生徒たちは歴史を真面目に勉強しようとは思わない。どうしてなんでしょうね?」

「歴史を暗記の学問だと教えられているからなんじゃないでしょうか? 年号や出来事を覚えて、教える方も、それを試験にする。時系列はただの年表であり、出来事の一つ一つがいかに結びついているかなど関係ない。そこに問題があるんじゃないかって私は思うんですよ」

「なるほど、歴史を押し付けられているという感覚なんですね?」

「ええ、その通りです」

「歴史というのは、過去の人たちが身を持って証明してきたことを、今の人が学んでいるです。その意識をしっかいり持たなければ、歴史を勉強しても、それは絵に書いた餅にしか過ぎません」

「それでも歴史を勉強しないよりはいいのでは?」

「きっと、それは歴史というものの怖さを知らないから言えるんでしょうね。僕の世界の歴史も、この世界の歴史も、そんなに違いがあるわけではないんです。しいていえば、どちらの世界も、光であり影であるんです。どちらかが表に出ている時は影になり、逆に影になってしまうと、相手が表に出てくるわけです」

「その裏表って、どういう定義なんですか?」

「これはたとえ話なので、定義というわけではないんですが、ある意味、反面教師のようなイメージで考えていただければいいのではないかと思います。我々の世界でもクーデターというものが結構起こりました。その時、どちらが正義でどちらが悪なのかというのは、その時には誰も分かりません。分かっているつもりになっていても、それは本当の回答ではなく、クーデターを起こした人たちもそのことは身に沁みていたはずなんです。その時の首謀者の言葉として、『必ず歴史が答えを出してくれる』と言っていたのが印象的でした。彼らはそうやって死んでいったんです」

「歴史は答えを出してくれたんですか?」

 と、亜衣が聞くと、

「あなたはどう思いますか?」

 と、逆に聞き返された。

「どうって……。時代が進んでいる限り、永遠に答えなんて出ないような気がするんですが……」

 というと、彼はニッコリ笑って、

「その通りだと僕も思います。歴史が終わって初めてその時にしか答えは出ないと思います。でも歴史が終わると、その時点で答えを確認する人もいませんよね。これって実に矛盾したことであり、これこそがタイムパラドックスのような気がしませんか?」

「ええ、そうですね」

「そうなんです。歴史というのは、矛盾だらけの学問なんです。だから、永遠に研究され続ける。新しいことが見つかっても、そこからもすでに歴史は動いているんです。未来は現在になり、そして一瞬にして過去になる。現在が一番短くて、本当の一瞬なんですよ。歴史というのは、その現在の積み重ねであり、しかも、人それぞれに違っている。平面は無限に繋がり、時間も無限に繋がっていく。次元というのはそういうものが一つ一つ重なったものなのではないかと思うと、実に面白いです」

「ここまで来ると、歴史も科学の一種のように思えます。そういう意味で考えると、学問というのは、すべてがどこかで繋がっているんじゃないかって思えてきますよね」

 亜衣は、これまでこのような話を誰かとしたことはなかった。

 元々、人と関わりたくないと思っているわけなので、話をすることが億劫だとまで思っていた。しかし、実際にはこのような話をし始めると、止まらなくなる自分の性格を分かっていなかっただけなのだと感じていた。

「僕の世界の人たちは、本当は正直者ではないんです。それはあなたがこの世界の人間だから正直者に見えるだけで、ただ余計なことを考えないようになっているだけなんです。もちろん歴史認識の強さはこちらの時代の人と比べ物にはなりませんが、歴史を勉強すればするほど、頭の中は淡白になってしまっているんです」

「それはどういうことですか?」

「頭の回転や機転が利くという意味では、僕たちの世界の人間の方が優れていますが、こちらの人間のように、感情的にはなりません。それがいいことなのか悪いことなのか僕には分からないんですが、亜衣さんなら少しは分かってくれるのではないかと思っています」

「私に分かりますでしょうか?」

「僕はそう思います」

 ここで少し会話が止まってしまった。

 しかし、数秒もしないうちに彼はまた話し始めたが、亜衣にとってその数秒は、永遠に続く沈黙に思えただけに、彼が声を発した瞬間、心臓が止まりそうになるほど、ビックリしてしまった。

「僕たちの世界は、ついこの間まで、まわりの人を見る目の最優先順位として、自分との優越がありました。それはいつも仲良くしているように見えている友達が相手でも、自分が優れている部分、自分の方が劣っている部分、それぞれを見つけ出そうとしているんです。分かっているはずの部分も、数日会わなかっただけで、もう一度確認してみようとすら思うほど、優越を確かめようとします」

「それは、自分に自信がないからですか?」

「そうかも知れません。何度も何度も確認する感覚は、きっと自分に自信がないからでしょう。しかも、相手も同じことを考えているというのが分かっているだけに、相手よりも少しでも自分が優れているということを確認することが一番自分に満足を与えられることになるんです」

「それって自己満足ですよね?」

「ええ、その通りです。あなた方の世界では、自己満足を悪いことだとして決め付けているようですが、果たしてそうでしょうか? 私たちの世界の人たちは、自己満足を決して悪いことだとは思っていません。『自分で満足もできないことを、どうして相手に満足させることができるのか?』というのが僕たちの世界の考え方です。こちらの世界の人は、そうは思わないんでしょうか?」

「そんなことはないと思います。でも自己満足という言葉を聞くと、聞いただけでその人はきっと顔をしかめて嫌な気分になるんじゃないでしょうか? 事故を殺してでも相手に満足させるのを美徳のように感じているからですね」

「ただ、それも、この世界のすべての人というわけではないですよね。人種や民族性が違えば、考え方も違ってくる。それをすぐに気が付かないのは、それだけこちらの世界の人間が、閉鎖的な考え方を持っているということなんでしょうね」

「それは言えているかも知れません。だからこそ、過去には戦争があったり、民族主義の時代があったりしたんでしょうね」

「あなたは、どうなんですか? 他の民族をどのように見ていますか?」

 改まって聞かれると、それまで自分の中で燻っていた思いが溢れてくるような気がした。その思いがある意味差別的であるのは分かっていたが、本当は口に出さないだけで、誰もが感じている思いではないかと感じていた。

「私たち、日本人はどうしても島国の感情があるからなのか、他の民族とはあまり協調性がないかも知れません。いえ、他の人はどうでもいいんです。私個人の意見で言えば、他の民族を認めたくないほどに感じることがよくあります」

「それは、マナーや考え方の面からですね?」

「ええ、そうです。民族に差別があってはいけないと学校で習いましたが、その教育も今から思えば、何かとってつけたような気がします。その証拠に世界で今までに起こった戦争の多くは、民族間の戦争ではないですか。お互いに相容れない思いがあるから、戦争をしてでも自分たちの主義主張を求めようとする。そこに宗教が絡んでくるから、余計にややこしくなるんじゃないかって私は感じています」

「なるほど、そうですね。僕たちの世界もそうでした。民族間の紛争で、先進国の人たちは、相手を下等民族として見下していたのに対し、下等民族の方も、自分たちが下等民族だという意識を持っているので、結果として衝突は免れないんですよね。歴史が進んで、先進国がそれぞれに下等民族の独立を認めるようになると、それまで植民地化されていた地域の人は紛争が絶えない国になってしまった。中には先進国の仲間入りした国もあるんですが、そんな国は急進的に発展して行ったので、国民の感情がついてこなかったんでしょうね。考え方はまだまだ下等民族なのに、先進国に土足で上がりこむような態度を取ってくるようになる。先進国は自分たちが優れていると思っているから、そんな連中を、『民族性の違い』と言って、大目に見ているんでしょうが、その実は、『この劣等民族民め』と心の底で感じているんでしょう。ついには下等民族は先進国から追い出されるようになり、結局自国に引き篭もる。過去には植民地化されて栄えていた後進国も、先進国の援助が得られずに、次第に滅んでくる。もちろん、それまでの国民感情があるので、そんな後進国を支援しようなどという国は現われるわけはない。言葉では、『後進国を援助』と謳っていても、誰も本気で活動しようなんて思わない。そのうちに後進国同士で戦争を重ね、最後には滅んでしまう。そうなると、待っていたかのように、その残された土地を先進国は無血で占領することができるわけです。これって、悪いことなんだって思いますか?」

 亜衣は少し考えていた。

 自分たちの世界の未来を聞いているようで、実はスッキリした気分で聞いていた。亜衣は、実際に日本に来ている外国の連中を快く思っていなかった。

 観光でやってきている連中が、自分たちの地盤を荒らし続けている現象を、自治体は自分たちの利益になるからなのか分からないが、外国人観光客の多いことをいいことに、自分たちの地域を「国際都市」と言って宣伝している。

 しかし実際には、マナーなど欠片もない連中が多く、実際に住んでいる日本人が肩身の狭い思いをしているのも事実だった。亜衣はそんな連中を、

「民族性の違いだなんて言葉で許されるもんじゃないわ」

 と思っていた。

 しかし、そう感じているのはどうやら自分と少数の人間だけのようで、迷惑をかけられようが外人連中に対してあくまでも、

「民族性の違いなんだから仕方がない」

 と言っている。

 そんな日本人連中の態度を見ている限り、どう見ても他人事のようにしか見えず、

――私が他の人と関わりたくないと感じたことに間違いはないんだわ――

 と感じさせられるばかりだった。

 元々亜衣も、別に外国人が最初から嫌いだったわけではない。過去に自分のプライドを傷つけられるような出来事があったからで、それは子供の頃のことだった。

 子供の頃はむしろ外国人の子供がクラスにいると、自分から友達になるような少女だった。

 あれは、友達になった外国人から誕生日のパーティに招待された時のことだった。その友達の父親は外交官で、民族的には劣等民族に当たる国の外交官だった。

 それでも、外交官という高い地位にある人だけあって紳士的で、お母さんも彼女も、日本人に比べてもしっかりして見えていた。

 しかし、実際にパーティに呼ばれた人を見ていると、日本人の子供のマナーの悪さも目立っていたが、それよりも、同じ国からやってきている子供たちを見ていると、同じ人間かと思うほどの民族性の違いに驚かされた。

 その時にパーティに行った日本人の同級生たちは、大人になるにつれて、しっかりとしたマナーを身に着けていったのに対し、外国人の連中は、まったく変わっていなかった。

 高校生になった頃、亜衣はふとしたことで、その時の外国人連中が、自分のことを、まるで冷徹人間のようにウワサしているという話を人づてに聞かされた。その時、亜衣は自分のプライドを傷つけられた気がしたのと、さらには、人づてに聞かされたことで、自分の中で人と関わりたくないという思いが決定的になったのを感じた。

――やっぱり自分の感じていたことに間違いはなかった――

 と、人と関わりたくないと思っていたことに対して、自分の正当性が証明されたと思ったのだ。

 亜衣は、彼の話を聞きながら、その時のことを思い出していた。

――どこの世界も同じなんだ――

 と感じたが、

――彼が私と関係があると言っていたけど、この性格に関係があるのかしら?

 という思いがふと頭をよぎった。

 亜衣はそのことを聞きただそうかと思ったが、どのように切り出していいのか分からない。とりあえず、彼の話をすべて聞いてからでも遅くないと感じたのだ。

「あなたのいる世界は、私たちのこの世界よりも数段進んだ世界なんですね?」

 と亜衣がいうと、

「確かにそうかも知れません。でも、進んでいることがいいことなのか悪いことなのかはさっきの歴史が答えを出すという意味では終わってみなければ分かりません。ただ、このままいけば、この世界も私たちの世界と同じような運命を辿るのではないかと思うんです。僕にはその確率は限りなく高いと思っています」

「私もそれは感じます。あなたの話には説得力があるので、私が理解するよりも先に、当たり前のように聞こえてきて、ついつい理解しようという思いが疎かになってしまいそうで怖いんです」

「それは分かります。僕があなたの立場だったらそうでしょうね。何といっても、いきなり別の次元から来たと言われて、ビックリしないわけはないですからね。でも、亜衣さんは僕の話を分かっているように思えたんです。だから、こんな話、亜衣さんにしかできないって僕は思っています。そういう意味では、僕は亜衣さんと会えて本当によかったと思っているんですよ」

 その言葉を聞いて、亜衣は不思議に感じた。

「あれ? あなたは私を探して、私の前に現われてくれたんじゃないですか?」

「ええ、そうですよ。でも、会って話をしようと最初から思っていたわけではないんです。まずは亜衣さんがどんな人なのかを確かめて話をしようと思っていたんですが、会って話を聞くのを最初にする方がいいと思うようになったんです。だから、僕は予備知識としての亜衣さんのことはほとんど知りません。僕たちの世界からでも、亜衣さんの予備知識を自分の頭の中に植え込むことは、それほど難しいことではないんですよ。それほど科学は発展しています。何しろタイムマシンも、ロボットも存在している世界ですからね」

 そういって、彼は亜衣に自分が亜衣の何も知らないということを告白した。

「あなたは、最初から私のことをほとんど知らないということを告白しようと思っていたんですか?」

「ええ、それは思っていました。ただ、どのタイミングで話をしようか、自分でも迷っていたんです。やっぱり、言葉の合間に紛れ込ませるのが一番いいとは思っていましたが、それに亜衣さんが気付いてくれるかどうか、それが問題でした」

「まあ、私の方も、知らないでいいことは知りたくはないからですね。特に未来のこととなると、知ってしまってせっかくの自分を殺してしまうことになりますからね。過去のことにしても、下手に知られてしまい、本当の私を見誤らないとも限らないので、そういう意味でも過去のことを知られるのもいやですからね」

「でも、こうやってお話をしてくると、亜衣さんの性格が分かってくるようですね」

「どういう性格ですか?」

「正直、この世界ではどういう性格がいい性格なのかということは僕には分からないです。だから、失礼に当たるかも知れませんが、あくまでも僕の偏見になるかも知れませんが、それでもいいですか?」

「ええ、もちろんです。この世界にいても、私だって、どんな性格がいい性格なのかなんて分かりません。一般的に言われていることはあるとは思いますが、それだって、私には信憑性が感じられないんです」

「やっぱり、亜衣さんは他の人とは違っているんだっていう意識があるんですね。実は僕も似たところがあるので、その気持ちはよく分かるんです。僕の場合は世の中全体に嫌気が差しているというところがあるので、ついつい誰であろうと逆らってみたくなるんです。まるで子供でしょう?」

 と言いながら、彼はニッコリと笑った。その表情はいかにも子供であり、それでもあどけなさの中に新鮮さを感じた。

 自分の知らない世界からやってきたというだけで尊敬の念を抱いている亜衣には、新鮮さと尊敬が結びついている自分の感覚がいつもと少し違っているのを感じた。

――そういえば、最近では人を尊敬するなんて感覚、味わったことがなかったわ――

 子供の頃にはあったような気がする。同じクラスの友達に、尊敬できる人がいたからだ。その友達は、普段から誰とも接することはなく、亜衣が話しかけると素直に話を聞いてくれたり、助言などをしてくれるのだが、その様子には温かみは感じられず、冷静さしかなかった。

――尊敬できる人というのは、温かみよりも、冷静さに感じるものなんだわ――

 と亜衣は感じていた。

 小学生の頃というと、漫画ばかり見ていた。テレビで見るアニメではなく、単行本ばかりだった。

「動く映像は分かりやすいのだけど、何か面白みがないのよ」

 というと、その友達は、

「そうだね。私も単行本ばかり読んでいるけど、アニメはあまり見ないの」

「同じだね」

 と言って微笑むと、彼女は同じように微笑んでくれたが、その表情は、心から微笑んでいるようには思えなかった。

 それを見て、亜衣は自分の思いを話した。

「自分が読んでいた漫画が、テレビアニメ化されるというので、楽しみにしていたんだけど、実際にアニメ化された映像を見ていると、どこか面白くないのよね。どうしてなんでしょうね」

 と聞くと、

「それはきっと、亜衣ちゃんの想像力が、映像の力に及んでいないからなんじゃないかしら?」

「どういうこと? それって逆なんじゃないの?」

 と言うと、

「ほら、亜衣ちゃんはちゃんと自分で分かっているじゃない。そうなのよ。亜衣ちゃんの想像力にアニメの方がついてこれていないのよね。でも、それって、誰もが感じることなのよ。漫画から入った人は皆、映像を見て、どこか物足りないって思うものなの。そしてその時に感じるのは、自分の想像力に、映像がついてこない。つまりは、映像の限界のようなものを感じるんじゃないかしら?」

「ええ、確かにそうだわ」

――彼女は何を言いたいんだろう?

 という思いを感じながら、彼女の言葉を待っていた。

「でもね、亜衣ちゃんは、自分の中で矛盾を感じていることに気付いていないのかも知れないけど、亜衣ちゃんは他の人と同じでは嫌だって思っているのよ。だから、私に『どうしてなんでしょうね?』などという質問をしてきたの。私に認めてもらうことで、同じことを考えていても、他の人よりも先に進んでいると思いたいからなのね。でも、それも結局は他の誰もが感じていることなので、五十歩百歩、そんなに違いのないことなのよ」

 亜衣の期待している答えとは違い、実に冷たくいい放たれたような気がした。しかし、同じ冷徹に見えても、冷静さが救いになることもあるようで、言われて初めて気づくことがあることを教えてくれた。

――本当は私だって分かっているのよ――

 と感じながらも、それを否定する自分がいる。

 そんな自分をも含めて見てくれている彼女は、他の人にはない心に触れる心地よさがある。それが暖かさに勝るとも劣らない感覚に、亜衣は彼女だけを親友として、小学生時代を過ごした。

 まだ思春期にはほど遠い頃だったが、子供とはいえ、そこまで考えていた自分を、亜衣は、

――あれって本当に自分だったんだろうか?

 と感じるほどだ。

 あの時の自分は、思春期を迎えると鳴りを潜めてしまったような気がする。急にいろいろなことが不安になり、まわりの人が皆自分より優秀に見えてきたのだ。それまでの亜衣は、

――他の人よりも自分は優れているんだ――

 と思っていた。

 それは、その時の親友がいたからだ。彼女が自分のそばにいてくれるだけで、自分は他の誰よりも優れていると思っていた。唯一親友とだけは、甲乙つけがたいものであり、それでも彼女よりは劣っているとは思っていなかった。

 それなのに、理由もなく、まわりの皆が優れているように思えてくると、それまでの自分の中にあった基盤のようなものが音を立てて崩れていくのを感じてしまった。

――どうしてなのかしら?

 一旦不安に感じてしまうと、不安が不安を増幅し、

――募ってくる――

 などという言葉では片付けられないほどになっているようだった。

「これが思春期というものなのよ」

 と親友から言われると、

「あなたも、そうなの?」

「ええ」

 その言葉を聞いて、亜衣は急に我に返った。そして、不安の原因などもうどうでもよくなってきた。後は五月病になった時に思い出したような「負の連鎖」に陥ることになるのだが、そのせいもあってか、親友とは距離を置くようになった。

 これが、今、亜衣が思い出した記憶だった……。

 五月病に罹った時に思い出した記憶とは違っているかも知れない。しかし、違っている中でもその時々に思い出す内容の真髄に変わりはないだろう。

 自分だって、過去の記憶に曖昧なところがあるのだ。それをまったく今まで知らなかった相手を調査したからと言って、どこまで分かるというのだろう。予備知識として知っておくことは大切な場合もあるだろうが、下手な先入観に繋がってしまったり、誤解してしまったまま出会ったとすれば、そこから先は、

――交わることのない平行線――

 を描くことになるのかも知れない。

 それを思うと亜衣は、、

「あなたのことを何も知らない」

 と言った彼のその言葉に、暖かさを感じていたのだ。

「あなたとは、前から知り合いだったような気がするわ」

 と、亜衣は彼に対して口にした。

「僕もそんな感じがしていたんだ。でも、この言葉を口にするのは、偶然に出会って、そこに運命を感じた時に使う言葉のような気がして、少し気が引けていたんだ。言葉に出してしまうと、何だか軽く感じられてしまうのは、僕だけなんだろうか?」

 亜衣は、彼のその言葉を聞いて、さっきまでの自信に溢れていた雰囲気が少し変わってきたのを感じた。

――まるで、子供のような素直さ――

 彼には最初から素直さを感じていたが、それはあくまでも、自分から見て、たくましさが感じられる素直さだった。それまでに感じたことのないたくましさの中の素直さ、そちらの方が違和感があるはずなのに、今感じている子供のような素直さは、今までに感じなかった彼に対しての初めての違和感のように思えた。

――どうしたのかしら?

 それはきっと、

「前から知り合いだったような気がする」

 と言った言葉が、自分の意思から出てきたものではなく、無意識によるものだったからに違いない。

「亜衣さんは、自分が透明人間になってみたいって思ったことありますか?」

 と、唐突に言われてビックリしたが、考えてみれば、いきなりではない。彼を最初に見た時に、シーソーに乗った透明人間を想像したではないか。

 ということは、

――自分の中で、出会ってからの時間が果てしなく続いていたような気がしているからなのかしら?

 と感じているのだろう。

 さっき感じた、

――初めて会ったような気がしない――

 という思いは、この果てしない時間の流れの中で、どこか中略のような感覚があり、それが最初の頃の彼が、だいぶ前に会ったという感覚に陥らせたのかも知れないと感じたのだろう。

 そう思うと、彼が言った言葉の意味も分からなくはない。

 確かに偶然出会って、そこに運命を感じるということはあるのだろうが、運命的なものではなく、ただ前にも会ったような感覚に感じるのは、それだけ、時間の感覚がマヒするほど、ずっと一緒にいたと思っているからなのかも知れない。

――やっぱり彼は子供のような素直さがあるのではなく、大人になってからも、素直な気持ちが変わっていないということなのかも知れないわ――

 この感覚は、彼の素直さが、

――子供のような素直さではない――

 ということであろう。

 普通の人であれば、大人になってから素直さを持っていたとしても、それは子供の頃の素直さとは違うものである。なぜなら、その間に思春期が存在し、思春期という現象は、子供の頃の感覚をそのまま大人になるまで残しておくほど、生易しいものではないと思っている。

 確かに亜衣は彼の子供の頃のことを知らないから何とも言えないのだが、彼の今の素直さは、子供の頃に持っていたと思われる素直さと変わりがないように思える。だから、彼には、

――子供のような素直さ――

 というものは存在しないのだ。

――これが彼の存在していた世界の人間性なんだろうか?

 亜衣はいろいろ考えてみたが、そんな亜衣の気持ちを知ってか知らずか、彼は亜衣が頭の中を整理しているのを黙って見ていた。

 さすがに亜衣も、整理がついてはいなかったが、何かを答えなければいけないと思い、

「透明人間になってみたいって思ったのは、子供の頃が最後でした」

 この答えにウソはなかった。

 子供の頃には、自分が透明人間になって、何をしたいかと聞かれて、別に理由はないとしか答えていなかったが、本当は、一つだけしてみたいことがあった。きっとそれは誰もが考えることではないだろう。もちろん、考える人もいたかも知れないが、まず最初に感じることではないだろう。

「透明人間になれるとしたら。何をしたい?」

 と、小学生の時、授業中に担任の先生から言われたことがあり、他のクラスメイトは、

「スカートめくりがしたい」

 などと言ったふとときな答えをする男子もいたが、要するに目の前の欲望を叶えたいというのが一番の意見だった。

 先生も苦笑しながらも、みんなの答えに満足そうだったが、亜衣は少し違ったことを考えていた。

「私は、鏡を見てみたい」

 と答えたのだが、最初は皆、笑っていた。

「鏡を見たって、誰も映ってなんかいないさ」

 とクラスメイトから言われたが、

「本当にそうかしら?」

 と、担任の先生がそういうと、皆黙り込んでしまい、考え込んでいたようだ。

 亜衣もそのまま考え込んでしまい、クラス全体が重い雰囲気に包まれたが、すぐに先生が、

「それも一つの考えよ」

 と、自分のさっきの言葉を和らげるような発言をしたので、場の雰囲気は元に戻った。しかし、その時先生が亜衣の顔を凝視していて、視線を合わせることができなかったのを亜衣は覚えていたのだ。

 透明人間になってみたいとは思っていなかったが、自分の存在を消してしまいたいた思うことはしょっちゅうだった。それは、目の前にいても、誰にも気付かれないような影の薄いと呼ばれるような人間、たとえば、目の前にあっても、誰にも気にされることのない道端に落ちている石だったりする。

 そんな思いは誰にも言えない。もし言ったとすれば、

「何て寂しいことを言うの。そんなネガティブでは何もできないわよ」

 と言われることだろう。

 亜衣は、他の人と同じでは嫌だと思っているくせに、人の言葉には敏感だった。だから人との接触を断ち、自分ひとりの考えに固執していた。数年前までは、人と関わるのが嫌ではあったが、自分ひとりの考えに固執するようなことはなかった。就職してから変わったに違いない。

 自分の性格の変化がいつ起こったのか、自分でハッキリと把握しているわけではない。把握していないだけに、

――いつ元に戻るかも知れない――

 という思いが頭をよぎり、元に戻ることも悪いことではないと思っている。

――元に戻ろうが、今のままであろうが、どちらでもいい――

 と亜衣は思っているが、別に気持ちに余裕があるからではない。先のことは自分では分からないという思いがあるからだ。今で精一杯なので、先のことは分からないという思いが強く、

「将来のことも視野に入れて考えていかなければ成長はないわ」

 と言っている、自称ポジティブな性格の人の言葉に一切の信憑性を感じることができなかった。

 その言葉のどこに根拠があるというのか、亜衣はそういう当たり前のことをドヤ顔で説教するような人が一番嫌いだった。

「透明人間か。透明人間になれば、一切の差別も何もないわね」

 亜衣は、何を思ったか、頭に思い浮かんだことをボソッと呟いた。

 それを聞いていた彼は、

「そうですね。それが亜衣さんの真理なのかも知れませんね。普段から差別的な考えを持っていて、だからこそ、まわりと関わりたくないという思いを抱いている亜衣さんらしい発想ですね」

 と、彼は言った。

 褒められているのか、皮肉を言われているのか分からなかった。

「私はこういう人間だから」

 と、亜衣が言うと、

「自分の心の奥底を覗く勇気のある人は、そんなにいないと思います。僕が思うに、心の奥底に潜む感情は、ほとんどの人は表に出したくないから奥底に隠しているんですよ。でも、それが本心であることに違いはない。だから、余計に人には知られたくない。その思いが当たり前のことをドヤ顔で言う人が多いんですよ。自分の根底にあるものから、なるべく人の目を逸らしたいという感情の裏返しなんでしょうね」

 彼の言葉には、いちいち救われた気がするのは、気のせいであろうか。亜衣にとって人に知られたくないことでも彼になら知られてもいいと思うようになっていた。

 もっとも、彼はすでにそんなことは分かっているのかも知れない。亜衣がその時々で考えていることも、すべて看破されているような気がするくらいだ。

「透明人間になれば、まず何をしたいのかを考えた時、その人の本性が分かると言われていたことがありました。僕たちの世界でも、最初は透明人間になるという研究は、どこもしていなかったんです。何と言っても、犯罪に直接関わってきそうな研究ですからね」

「それは分かります。私たちの世界でも、透明人間の研究をしている人なんて聞いたことがありませんからね」

「でも、ロボットや、タイムマシンの研究は行われていた。そのどちらも透明人間の研究に比べてもそのリスクは半端ではないほどに大きいのに、研究だけは行われていたんですよ。それはきっと、ロボットやタイムマシンの研究が人類に及ぼす効果を考えた時の大きさと、そのリスクがどのようなものかというのを分かっているからではないかと思っています。何が怖いと言って、リスクの面がまったく見えていないことが怖いですよね。例えば薬にしても、副作用という大きな問題があります。不治の病の特効薬はいつの時代でも研究されていますが、なかなか発表されないのは、その副作用の問題があるからではないんでしょうか?」

 という彼の話に、

「それだけではないと思います。薬の場合はもっと大きな問題を孕んでいます。それは矛盾ということだと思うんですが、太古の昔から皆が捜し求めているものとして、不老不死があります。不老不死の薬を開発できれば、本当にそれはすごいことなんでしょうが、でも、そのために、薬や医者はいらなくなり、何よりも人が死ななくなることで、自然界の摂理は壊れてしまいます。それは恐ろしいことで、究極の矛盾になるんですよね。でも、昔から不老不死を求めている話というのは、そのほとんどは人間のエゴであり、自分さえよければいいという発想に基づいているんだと思います」

 と亜衣は答えた。

「ロボットの研究もタイムマシンの研究も、同じことだったんですよ。パラドックスや矛盾をいかに解決するかが一番のカギだからですね」

「じゃあ、あなたのいる世界では、その部分は解消されたんですか?」

 と亜衣が聞くと、

「いいえ、完全には解消されていません。この問題は永遠に続くものであり、人間にはどうすることもできないものだという学説が生まれ、それにより、少々のリスクが残っても仕方がないという発想が生まれました。怖がってばかりでは先に進めないということですね」

「じゃあ、それは時代のターニングポイントだったわけですね」

「そうだと思います。一つの足枷が外れれば、後は研究もトントン拍子に進んで、開発までにはそれほど時間が掛かりませんでした。タイムマシンもロボットの研究も、ほぼ同じ時期に完成しました」

 という話を聞いた亜衣は、

「あなたがいた世界を見てみたいわ」

 というと、彼は少し困った顔をして、

「それは止した方がいいかも知れませんね」

「どういうことですか?」

「あなたの世界と僕の世界とでは考え方がまるで違います。僕だってこっちの世界の予備知識はちゃんと身につけているつもりなんですが、どうしても納得のいかない感情もないわけではない」

「それはどういうところなんですか?」

「うまくは言えませんが、他人を思いやるというところに根本的な違いがあります。僕はどちらかというと亜衣さんの気持ちに近いところがあります。それは僕たちのいた世界の人は当然だと思うようなことなんでしょうね」

「じゃあ、私はあなたの世界では普通の考え方だってことなのかしら?」

「そうですね。少なくとも、こっちの世界の人よりは、受け入れやすいのではないかと思います」

 と言われて、複雑な思いだった。

 確かに人と関わりたくないという思いは、この世界でのことであって、別に世界が存在していて、その世界であれば、

――自分の考え方が受け入れられて、人と関わることも悪くはないと思えるかも知れない――

 と考えたことがあった。

 それがまさか、本当のことだとは思っていなかったので、嬉しい気持ちもあるが、どこか怖い気持ちもある。自分の中に予知能力のような力が備わっているのではないかという思いがあるのも事実で、本当であれば、そんな不要な力が備わっていることに恐怖を感じるはずだった。

 しかし、彼がさっき言ったとおり、特殊能力は誰もが持っていて、それを使いこなせる人がいないだけだという発想からすれば、別に怖いことではない。怖いと思うのは、むしろ、その力自体というよりも、そのことを知られて、まわりに利用される危険性が怖いのだ。

――私にとって、無用の力を利用しようとするのは、悪用される可能性が十分だからではないか――

 と思う自体に恐怖を感じるのだ。

「あなたはどうして、私に透明人間の話をするんですか?」

 彼の登場は、透明人間を暗示させるものだった。シーソーの相手に誰もいないのに、彼の方が宙に浮いている。誰か透明人間が目の前にいて、その人がシーソーの片方に乗っていると考える方が、亜衣にはよほど信憑性があった。

「亜衣さんに、この世界で、透明人間としての力を発揮してもらいたいと思ってですね」

 と、彼は不思議なことを口にした。

「私が透明人間になってどうするというんですか? 誰かに悪戯でもするというんですか?」

 まさかそんな子供じみたことでの話でもあるまい。彼の真剣な表情は、笑って済ませられるものではないと感じた。

「まさか、そんなことは言いませんよ。透明人間になることで、他人の秘密を容易に掴むことができるでしょう?」

「人の秘密を握ってどうするというんですか? 脅迫でもするんですか?」

 いちいち亜衣は挑発的な言い方をした。そうでもしないと、彼の本心が掴めないと思ったからだ。

「すべての人の秘密を握っても、それで何かをしようというわけではないんです。ある人の秘密を握るために、まずは透明人間になって、人の秘密を握る練習が必要なんです」

「じゃあ、ターゲットがいるというわけですか?」

 亜衣は、恐怖もあったが、不思議とそれ以上に好奇心が強くなっていた。相手が誰であろうと、透明人間になることへの好奇心は、今までの自分にはありえないことだった。

 何しろ、

――人と関わりたくない――

 と思っていた自分である。

 だが、考えてみれば、人と関わりたくないというのは、あくまでも自分だけの世界をつくり、そこに入り込んで、他の人に立ち入られたくないという思いからである。

 だが、透明人間になって他人に立ち入るということは、自分への思いと反していることであり、矛盾していることである。

 彼と話をしてきて、矛盾というものに対して、感覚がマヒしてきているのを感じていた。ロボットの話にしても、タイムマシンの話にしても、不老不死の話にしてもそうである。気持ちの中にある矛盾を、彼と話をすることで正当化し、信憑性を与えている。違和感が違和感でなくなってくると、マヒした感覚が新鮮なものになる。元々彼の存在自体が、信じられるものでもないはずだった。

「あなたに関係のある」

 と最初に言われたことで、その時点から、彼の術中に嵌ってしまったように思えたのだ。

 それはそれでいいような気がした。彼が亜衣に透明人間の話をして、人の秘密を握ることを話しているのは、傍から見ればっ強制しているようである。

 強制していないまでも、洗脳することで、相手を操縦しているように感じ、まるで新興宗教のようなマインドコントロールを思い起こさせる。

 だが、亜衣にとって、今まで人と関わってこなかったことで自分の中に出来ている性格は、彼の話を容易に受け止めている。

 それはまるで大きな手のひらで包み込んでいるように見え、手のひらの上で踊らされている孫悟空を見るお釈迦様のような心境になっていた。

 ただ、気になるのはやはり彼の真意であった。何を考えてこの世界で亜衣に透明人間をさせるのだろう。自分にその力があるのだから、自分ですればいいようなものだ。

 そもそも、どうして亜衣なのかというのも分からない。

 要するに分からないことだらけなのだ。

 亜衣が考え込んでいると、

「ターゲットに関しては、その正体が誰なのか、もう少し答えを待ってほしい」

 と彼は言った。

 本当なら、そんな曖昧なことで引き受けることなどできるはずもないと、瞬殺で断わってもいいはずなのに、亜衣にはどうしてもできなかった。断わろうという気持ちの方が大きいのだが、なぜか断わることができない。

――何も分からないまま、簡単に断わることはできない――

 という考えが頭の中にあるからだった。

「亜衣さんは、どうして自分が選ばれたのかということが不思議なんでしょう?」

 と、彼は聞いてきた。

「ええ、そのこともそうなんですが、あまりにも分からないことだらけすぎて、本当は断わろうという意識が強いのに、断わることができない自分がいるんです。何とも気持ち悪い感覚ですね」

 と亜衣が、困惑の表情をすると、彼も少し苦笑いをしながら、

「あなたには悪いと思ってはいますが、あなたのその気持ちがあるので、僕はあなたを選んだのです。正直にいうと、もう少し時代がずれていれば、あなたではなく、他の人に頼むことになるんですが、僕はあなたにこの役をお願いしたいんです。だから、僕はこの世界のこの時代にやってきて、あなたに遭遇したんです」

「時代と仰られましたが、時代という定義は私たちの考える時代とは違っているんですか?」

「ええ、少しでもタイミングが合わなければ、他の世界から見た場合、時代というのは、違っているんですよ。あなたたちの場合は、権力者が変わったり、政治体制が変わらないと、時代が変わったという認識がないですよね。それは、きっとあなた方が僕たちの世界を見ても同じかも知れません。そういう意味では次元が違っていると、同じ人間でも、種類の違う人間に見えるのかも知れませんね」

 時代という単位の小ささが自分にどのような影響を与えるのか、亜衣にはハッキリとは分からなかった。

「瞬間瞬間を時代として捉えるのは究極なのかも知れませんが、何となく分かる気がします。でも。あなたが私を選んだ理由としては、まだ納得のいくものではないんですよ」

「そうでしょうね。でも、次第に分かってくると思います。これに関しては、あなたでなくとも、環境に馴染んでくると、自然と分かってくるものではないかと思っています。そういう意味では安心されてもいいと思います」

 まるで、長いものに巻かれているような気がしていたが、確かにこの際、彼がいうように、自分だけではないというのは、心強く感じられる。他の人と同じでは嫌だという感覚と矛盾しているかも知れないが、相手が得体の知れないものであれば、それも致し方のないものに思えてきた。

 それだけ不安が募ってきているのか、弱気になっているのではないかと思えてきた。そのためにも少しでも彼の話を理解しなければいけないという思いも強く、今、自分が全体の中でどれだけ理解しているのか見えないことが一番の不安だった。

 そのことは彼にも分かっているようだった。

「あまり不安にならなくてもいいですよ。亜衣さんは僕の話にこれほど理解を示してくれていて、キチンと自分の意見を言ってくれているのだから、僕は亜衣さんを選んでよかったと思っています。一つ気になるのは、今僕が目の前にいて話をしているから理解できているのだと思いますが、僕が目の前から消えてしまうと、夢だったのではないかと思うのではないかということです。普通の人であれば、きっと夢だとしてすぐに忘れてしまうのでしょうが、亜衣さんは、気持ちの中に燻るものが残ってしまい、気持ち悪く思うかも知れませんね」

「そうなんです。私もそれが心配なんです」

「僕が今日お話できるのはここまでなんですが、また近いうちにあなたの前に現われることになります。その時に、夢だと思う気持ちがずっと残ってしまっていれば、あなたに悪いと思いますので、僕があなたの前から姿を消して、あなたが普段の意識を取り戻した時に、腕を見てください。普段していないはずの腕時計をしていると思います。その時計は僕からのプレゼントです。でも、その時計は特殊な時計で、僕がいない時はこの世界の時刻を性格に刻んでいますが、僕が現われると、僕の時代の時間を表すようになります。だから、あなたがこの世界でのいつもの意識を取り戻した時、腕を見てください。その時計が僕とあなたの接点になっていますからね」

 そういって、彼は亜衣の左腕を指差した。亜衣の気付かない間に手首には腕時計があり、なぜか嵌っているというような違和感はなかった。重さを感じることもなく、ずっと以前からしていたような感覚になり、不思議だった。

「それじゃあ、また」

 と言って、彼は夕闇に包まれて消えて行った。

 亜衣はその場に取り残されたのだが、亜衣の姿も、しばらくすると、彼と同じようにスーッと闇の中に消えて行ったのだ。

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