×××

羽川明

×××

 やることは決まっていた。


 律儀に家の鍵を閉め、マンションの階段を登っていく。夕焼けで空が赤い。最上階手前の踊り場で足をとめ、へいに手をかける。そのまま体を引き上げると、今度は足をかけ、塀の上に立った。


 天井に頭をぶつけそうになりながら両足で立つ塀の上からは、俺のことなんて見向きもしない夕日が、ビルの隙間に沈んでいくのが見える。


 震えていた。怖かった。


 ただ一歩、踏み出すことができない。

 しかし、後戻りすることはそれ以上に恐ろしい。真下に広がる駐車場では、ちょうど三台分、駐車スペースが空いている。


 絶好のタイミングだった。


 やがて一歩踏み出すと、そこに地面はなく、燃え盛る空に投げ出される。


 俺はその下で、どす黒いコンクリートの海へ、


 ──落ちた。



 目が覚めてしまった。


 どうしてか、女の嗚咽おえつと、男たちの荒い息づかいが聞こえる。体の感覚はなく、ぴくりとも動かなかった。

 最悪の自体を想定しながら、かろうじて開くまぶたを持ち上げると、”それ”は想定以上の最悪だった。


 三台分空いた駐車スペースの白線の上で、男たちが一人の女を取り囲んでいた。


 端的に言えばおかしていた。


 俺なんてまるでいないかのように、男たちの視線は女に集中していて、女はというと、裸で四つんいになったままコンクリートに手をついて、ただじっと耐えていた。

 長い髪で、顔はよく見えない。


 実際、俺はもういないのかもしれない。そう錯覚させるほど男たちは夢中で、女は絶望していた。


 声を振り絞っても、嗚咽おえつさえ漏れなかった。動けない。何もできない。何も、感じない。


 俺はただ、地面に横たわったまま、獣のような男たちに犯される女を見ていた。


 不意に生まれた耳鳴りが、じんと強く鳴る。


「×××くん……」


 薄れゆく意識の中で、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。



 どれくらいたったのかわからない。暗い空で、薄ぼんやりとした街灯がいとうがうるさい。


 夜。

 それも真夜中らしいことはわかった。体の感覚が戻っていたので、手をついて立ち上がる。

 街灯に照らされた体は薄汚れていたが、なぜか目立った怪我はなかった。


「おかしいだろ……」


 確かに俺は8階と7階の間にある踊り場から飛び降りたはずだ。だが傷一つない。どころか目の前に横たわる裸の女の方がよっぽど重症に見えた。


 ぴくりとも動かない女をまたぎ、俺は夜の街に繰り出す。


 あてもなく、ただぼんやりと、ここにいてはいけないという空恐ろしい感覚から逃げ出すために。



 数ヶ月前、俺はネット上でクリエイターの真似事まねごとをしていた。

 自分の作品が大好きで、自分こそが一番だと思っていた。

 けれど、いくら依頼をこなしても俺の作品が世に出ることはなかった。活動休止だの音信不通だので、依頼は完遂かんすいされなかった。


 一生懸命頑張って作った、俺の作品を残して。


 次第に嫌になって依頼を受けるのをやめるころには、俺は自分の創作物に自信が持てなくなっていた。

 それどころか、何をやっても楽しくなかった。退屈は人を殺す。大学生の俺は、春休みという有り余る膨大な時間に押し潰されそうだった。


 そんなときだ。


 ネットで親しくしていた女性から連絡があった。

 一緒にゲームを作って欲しいということだった。信頼から、俺は承諾した。

 実際、突然音信不通になるようなことはなく、途中経過を見せるたび、彼女は心から喜んでくれた。俺は彼女が好きだった。


 そう気づいたのは、制作途中、彼女が不意にできた男と結婚した、そのあとだった。

 俺はゲームが完成したら彼女と会うはずだった。あるいはそこで想いを伝える気だったのかもしれない。

 けれど、俺の恋は無残にも散り、途中だったゲームは中止になった。


 なんだったんだろうと、思った。悩んだ。

 俺が今までやってきたすべては、どうしようもなく報われなかった。

 そうして、今に至る。



 たどり着いたのは赤い鳥居の神社だった。街灯はなく、薄暗い。

 足元は大粒の砂利で、下手をすれば転びそうだった。道の両側に等間隔に植えられた木々が俺を見下ろす中、ずんずんと進んでいくと本殿が見えた。

 賽銭箱の上に鈴がぶら下がった太い縄が垂れている。祈る気はなかった。


 脇にそれると、こぢんまりとした長細い建物があった。

 あかりがついていたので戸を開くと、誰もいなかった。もともとそう大きな神社ではないし、いつも人気がないので当然と言えば当然だが、その代わり温かい香りがした。

 匂いに誘われ奥へ入ると、背の低い薄橙うすだいだい色の机の上に質素な食事が用意されている。


 迷わず手を伸ばした。


 のどごしが生を実感させる。俺は生きていたのだ。

 あぐらをかいて、紙の貼られた格子戸を見つめながら味のない味噌汁を一気に飲み干す。汁が透明だったので味噌汁ではないのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。


 犯された女も、この神社も、知ったことではない。

 世界が俺にそうであるように。


 どっと疲れが湧き、まどろみの中で机にほほをつける。そのまままぶたを閉じた。

 今度こそ、目が覚めなければいいと願いながら。



 しかしまた、目が覚めた。

 胸騒ぎがしてどうにも落ち着かない。トイレにでも行こうと外に出ると、本殿に明かりがついているのが目に入った。


 誰かいるのかもしれない。中へ入ろうとふすまを開くとそこは廊下だった。

 さらに奥のふすまから明かりが漏れている。

 片目でのぞきこむと、広間らしき畳の床で巫女服の少女が襲われていた。

 取り囲む男たちの顔には見覚えがあった。


 さっきの女を犯していた奴らだ。


 どうもそういう集団らしい。少女はまだ気力が残っているらしく、激しく抵抗していた。

 床に仰向けに転がったまま四肢ししを振り回して必死に逃れようとしている。男たちはそれを見て笑っていた。


 抗えるはずがなかった。


 このまま、少女は犯されるのだろう。

 俺と同年代くらいのその黒髪の少女はしかし、あきらめる様子がない。不意に飛び出した足が一人の顔面に当たった。激昂げっこうした男が少女を殴りつける。

 悲鳴こそ上げたが、少女はそれでも抵抗していた。


 無駄なことだと思った。

 少女も、立ち尽くす俺も。


 無駄じゃないのは、皮肉にもあの男たちだけだ。

 そう思うと、虫酸むしずが走った。

 隣の部屋にかけこみ、戸棚を物色する。

 ナイフや銃なんて都合良くありはしないし、求めてもいない。

 探しているのは、


「あった」


 ライターだ。


 線香やろうそくに火を灯すために常備されているのだろうその戸棚からは火をつけるための道具がいくつか見つかった。

 俺は使い方のわからないライターにもたつきながら、部屋に火を放った。


 薄い壁越しに、少女のあえぎ声が聞こえる。

 俺はただ、立ち尽くすことしかできない。


 叫んだ。

 心の中でだけか、いなか、自分でもわからなかった。


 頭を抱え、のたうちまわる。火は最初こそ弱かったが、あっという間に燃え広がった。


 このまま、燃え尽きてしまえばいいと思った。

 あの男たちも、世界も。


 目の前で火柱が立ち上がる。

 それはまるで、炎の悪魔が俺に語りかけるようだった。

 そうだ、そのまま燃え盛れ。

 異変に気付いたらしい男たちの声が聞こえた。廊下に出て、逃げ出していく男たちの姿を認めると、俺は広間へ入った。


 中央で、犯された後の巫女服の少女が横たわっていた。


 あおむけにされた目に光はなく、灰色の世界を見つめていた。


 天井に、左右のはりに、炎が燃え広がる中、俺は少女に手を伸ばす。


「──神はいたか?」


 返事はない。少女は、俺の方をうつろにみつめたまま呆然としている。


「──努力は報われたか?」


 葉っぱ一つ落ちていない、綺麗に整備された鳥居の道を思い出す。

 少女の、今までの善行と努力の結果がこれだとしたら、なんという仕打ちだろう。


「そうだよな」


 一人納得し、俺は少女の腕をつかむと、半ば引きずるような形で外に出した。

 燃え盛り、今にも崩れ落ちようとする本殿を見つめ、俺は呟く。


「綺麗だ」


 少女の、灰色の世界を映し出した目にも、炎の光だけは届いていた。


 空は、まるで炎が燃え広がったかのような朝焼けに包まれていた。

 虹なんてかかっていないし、特別晴れているわけでもない。強いていうなら、


「このまま、崩れ落ちればいいのにな」


 かろうじて立ち、横に並ぶ少女は、こたえない。


「──さぁ、行こうぜ?」


 さしのべた手を、少女は静かにとる。


 俺はおかしいのかもしれない。

 俺は可笑おかしいのかもしれない。


 それでも、どうでも良かった。


 ポケットに入れたままだったスマホを見ると、ガラスの部分がバキバキに割れていた。

 それでも、画面に浮かぶ通知はかろうじて読み取ることができた。


『×××くん、わたし、犯されちゃった』


 あの人からだった。


 用済みのスマホを賽銭箱に投げ入れると、俺は歩き出す。

 あても、何もなく。



 ただ、握り返す少女の手は、どうしようもなく燃えていた。

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