第5話 4日目

 4日目

 昨日は危ないところだった。街に一つだけ残っていた銭湯で汗を流した後、田園風景のあぜ道を、あの廃校舎が隠されている森の方に歩いていた矢先、赤色の回転灯を見つけた。白と黒の車両が一台、路肩にとまっている。制服姿の男達が、農家の人に何か聞き込みをしていた。あの色の車に乗って、そんな事をする職業は一種類しか存在しない。このあたりにも、住み慣れた街から姿を消した私達を捜索する、警察の人間が現れ始めたのだ。

 街、といっても、人口密度の低い田舎町で、農家の人も田んぼなどにいても、作業に集中していて、余所者にはそんなに目を向けない。とはいえ、顔を見られぬよう、用心に越した事はないと思い、二人共、どうしても雑貨屋など、お店を頼らないといけない用事で街に出る際は、キャップを目深に被って出るようにしていた。

 慌てて駆け込んだ、街で一つの、昭和の香りが未だに濃い雑貨屋で、時間を潰した。そして、私はそこで花火セットを一つに、小さなバケツも買った。

 私が、花火セットを見繕っている間、静留も、その店の小さなおもちゃ売り場で、何かを探しているようだった。私を先に、店の外に出して、静留は何かを買っていた。後から出てきた静留に、何を買ったか尋ねても、答えてはくれなかった。

 「すぐに分かるから・・・。今は教えない」

 静留はそう答えるだけだった。

 その夜は、静留が、背中からでいいから、寝る時、抱き着かせてほしいと言ってきた。

 「暑くない?」と、暗闇の中で私が気遣って尋ねたら、「もうしばらく、このままでいさせて」とだけ、返ってきた。その声が、やけに寂しげに聞こえたから、私は「いいよ」としか答えようがなかった。

 4日目の朝、昨晩はずっと、背中にうっすら感じていた温もりがなくなっていた。

 驚いて、私はテントを飛び出す。しかし、彼女がこの場所を捨てて、自分だけ何処かに消え去る事だけはないと信じられた。昨日の、あの反応を見れば。

 廃校舎の一階の廊下を走り抜け、この学校特有の、あの場所を目指した。ここに来てからの日々で、静留が強い印象を受けた場所といえば、あそこしか考えられない。

 校舎から出て、雑草に呑まれかけて、見え隠れしている石畳を頼りに、礼拝堂へ辿り着いた。夏の強い朝日を手で遮りながら、周囲を見回す。外にはいないようで、礼拝堂の扉を見てみると、扉が少し開いていた。

 その隙間から、中を覗き込むと・・・、やはり、そこに静留はいた。古びて、至る所の塗装が剥がれている、木製の長椅子に座って、彼女はステンドグラスを見上げていた。

 そこに描かれている、日の出から、日没までの時間だけ光を浴びて、浮き上がる、儚く消える天国の世界を。

 何を思って、彼女は、そこまで天国の世界へ魅入られているのか。

 私の胸には、昨日の彼女の言葉が、何故か蘇った。『私達の、恋人としての日々は、この場所の中にしかない』と。まるで、本当に、彼女にとっては、この一週間を最後に、世界が終わってしまうかのような・・・。

 声をかけたいのに、その時は何故か、静留に声をかけられなかった。その寂しげな背中に。


 「川の水は冷たくって気持ちいいね。私達の街の、人で溢れてたレジャーランドのプールより、こっちが断然、静かだし、いいな」

 昨日の感情の高まりも、今朝、礼拝堂で一人座って、ステンドグラスを見上げていた時の寂しげな空気も、文字通り、川の水に洗い流されてしまったかのように、晴れやかな笑顔で、静留は笑っていた。川辺の石の上に腰掛けて。着ているのは、学校指定のグレーの水泳用水着で、水に濡れたところで、全く色気も何もありはしないけど。

 「それで、どう?葵は、髪の方、短くしてみた感じは。泳ぐ前に、水にあの長い髪で浸かったら大変だろうなって思って、切ってみたけど・・・」

 伸びるに任せてしまっていた、私の髪を、静留が切ってくれて、ボブくらいの長さにまでしてくれた。明らかに頭が軽くなった感じがするし、何より、今まで髪に隠れていた項に、風が直に当たって通り過ぎていくのが心地よかった。しばらく泳いだり、水をかけあったりした後、私達は川辺に寄り添って座り、川の水に浸かって濡れた体を乾かしていた。

 しかし、体を動かしている時は、晴れていた彼女の表情も、川面を見つめているうちに、また憂いを帯びてくるのだった。

 「昔、あのミッション校に通ってた生徒さんも、こっそり水遊びに来てたのかもね。その子達にとっては、ここも、大切な世界の一部だったんだろうな・・・」

 静留が、何処か感傷的になりやすい人間だというのは、前から知っていた。生き物の話を良くした。寿命が短くて、あっという間に死んでしまうか、或いは、長生きし過ぎて、一人ぼっちになって残された、ロンサム・ジョージの話などを好んだ。何処か、そういう命が短くて儚い物を好んで、逆に長生きなどは忌むべきものだという風に話をもっていった。

 「葵はさ…、この家出が終わった後の日々の事、まだ考えてるの?私が、人生の中の楽しい事は、濃縮したらあっという間に終わるって言っているのに?」

 私も、静留も、この森の外に広がる「現実」という世界は、生きにくいという認識は共通していた。元々いた学校に居場所がないと感じているのも同じだし、あのコンクリートの檻の中、大人に飼育されるような日々に戻るより、テント暮らしでも、ここの、廃校舎の方が余程居心地はいい。ここには、私達のような、人付き合いもまともに出来ない人間を、見下してくる連中もいない。

 でも…、どんなに「現実」という世界が嫌で、生きているのが息苦しくても、戻らない訳にはいかないのだ。

 そうした気持ちを、静留に伝えると、「そっか…」と呟いて、体育座りで、両膝の合間に頭をうずめた。

 静留は、朝と同じ表情をしていた。あの礼拝堂で一人、夏の日差しを浴びたステンドグラスが映し出す、儚い天国の世界に浸っていた時と同じ表情を。そこに、この一週間が終わった後を生きていく意思を感じられなくて、私は、胸がざわついた。頭上に広がる木の葉を揺らす風が強まり、「少し冷えてきたから、戻ろう」と言うまで、静留が言葉を発する事はなかった。


 夜は、街の雑貨屋で買ってきた、花火セットを開けて、テントの傍でしばらく遊んだ。祭囃子の音色も、連なる屋台の赤提灯もない。聞こえてくるのは、周りの草むらで泣いている夏の虫達の声だけ。小さな、二人だけの夏祭りだ。

 花火は、弾ける音と共に、色彩豊かに私達の周りを照らし、染め上げては、またすぐに夜の闇に溶けてなくなり、消えていく。

 あっという間に、花火もなくなっていき、最後に残ったのは線香花火だった。パチパチという音と共に、か細い火が幾つもの線を描き、地面に火の粉を散らしていく。その、虫の声しかない周囲の静けさをより際立たせる、線香花火の音に二人で聞き入っていた。

 「私は…、この時間が終わってほしくない。この廃校舎で作った、二人だけの世界も」

 そう言った静留の声は、線香花火の儚げな音色にすら、かき消されそうな程、か細く聞こえた。

「この線香花火みたいに、短いひと時で、私と葵だけの世界も消え去ってしまうのは、やっぱり私、耐えられないよ…。色々、考えてはみたけれど」

 静留は「二人だけの世界」という言葉に、強くこだわっていた。

 「昼間の話の続き・・・?そんなに、深刻そうな顔して心配しなくても、この場所を出た後も、私と静留は一緒だよ。この場所を離れたら、そりゃ私達二人だけの世界って訳にはいかない。付き合いたくないし、面白くない人達も沢山いる、あの嫌な世界に戻らなきゃいけないけど、ここでの日々が終わっても私達の関係は続いていくんだから…」

 私の返事を聞いても、線香花火のか細い光にちらっと見える、静留の表情は晴れない。

 望んでいた答ではなかったらしく、静留は首を横に振った。今日はやはり、朝からずっと静留は変だ。私と彼女の気持ちは、すれ違ってばかりいる気がしてならない。

でも、私にどういう気持ちになってほしいのか、静留からは決して、分かりやすく話してはくれない。このすれ違いを埋める為には、私が静留の望みを何とかして読み取るしかなかった。

 お互い、手持ちの線香花火は最後の一本になった。その一本が、時折パチパチと弾けては、火の線を描くのを見つめながら、私達はまた黙り込む。

 先に、最後の一本の火が燃え尽きたのは静留の方だった。

 「負けちゃったな」

 そう残念そうに言って、静留は、線香花火の燃えさしをバケツの中の水に差しいれた。

 私の方の最後の一本は、徐々に勢いは弱くなりながらも、まだ消えてたまるかと言わんばかりに、パチパチと火花を散らし続けていた。花火に意思などあるかは分からないが、私は、根性がある物を引いたのかもしれない。

 「葵の引いたやつは、粘ってるね。まだ、消えるには早いっていう意思があるみたいに燃え続けてる。私のとは正反対だね」

 正反対というのは、線香花火の事を言っていた筈なのに、その時の私には、まるで静留が、「私と葵では、正反対だ」という意味を込めたようにも感じられた。

 静留は、「消えても良い」と思っているのだろうか。まるで、あの儚い線香花火の火のように。

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