第4話 3日目

 3日目

 蝉の鳴く声は、今日も朝から大きかった。

 今度は、静留が起きる方が早かったらしい。私が朝、目を開けると、視界に映ったのは、私の方をじっと、見つめている静留の顔だった。顔が近い。

 思わず、起きるや否や、声を上げてしまった。

 「わっ・・・!び、びっくりした」

 静留は、私の寝顔をじっと、そんな至近距離から見つめていたのか。同じテントで寝泊まりし始めて二晩明けて、今更の話ではあるが、私は、自分の寝顔がおかしくなかったか心配になってくる。

 「ご、ごめん。そんなに驚くと思わなくって・・・。私の方が先に起きて、寝顔を見てたら、つい・・・」

 「あ、あまり、じっと見つめられるのはちょっとね・・・。寝顔が変じゃなかったかとか、気になるから」

 「ごめん・・・」

 繰り返し、静留は言った。昨日の、教室でのやり取りで、体験したい、人生の幸せな事として、私は「恋」を挙げた。その結果、晴れて、静留は自分の気持ちを正直に明かしてくれて、私達は「恋人」となった。

 ただ、昨日もお互いに言った通り、私達には何分、「恋」というものの経験がない為、どうするのか、知識が無さ過ぎた。だから、お互い、改めて近づきたい気持ちはあるのに、やり方が分からず、距離感を間違えて、衝突事故のような事になってしまう。例えば、今みたいに。

 静留から、「恋」については、葵が先に言い出した事なのだから、今日は葵が「恋」についての授業をして、何をしたらいいか教えてよ、などと無茶振りをしてきたので、私はどうしたものか困った。そんなの、私も分かる訳がない。

 黒板には、昨日の静留先生の板書がそのまま残されていた。その前に立って、私は、教材も何もないままに授業を始める。

 「恋人になった後、人はどんな事をするの?」

 早速、静留が尋ねてくる。今日は、立場が入れ替わって、私が彼女に教える側だ。

 さて、いきなり困った質問を投げかけられた。私も、少しは「恋」が題材の漫画や小説は読んだ事はあるが、幾多の困難を乗り越え、恋が叶うまでの物語は沢山あっても、念願かなって、恋仲になった後、具体的に何をどうしていけばよいのかを教えてくれた本は、あまりなかった事に気付く。それでも、頭の中の少ない引き出しを、全部引っ張り出して、私は、チョークを手に取る。黒板に、白線で次の言葉が刻まれる。「デート」と。

 「ま、まずは、これなんじゃないかな・・・?私も、漫画とかで読んだレベルの知識しかないけど」

 私はそう言った。「恋」というものについて語っていると、昨日、この場所で、二人を包んだ静寂を思い出して、また鼓動が早くなってくる。静まり返る事がないよう、私達はお互いに言葉を続けるしかなかった。静留が、また質問する。

 「デ、デートと言われても、具体的には、何をしたらいいの・・・?」

 スマホがまだ生きていれば、「デートプラン」で検索する事も出来たかもしれないが、現代を象徴するあの文明の利器は、充電する場所などないこの場所では、とっくに充電切れで役に立たなくなっていた。もう頼れるのは自分の頭しかない。知恵を絞る。

 「身構えなくても、いいんじゃないかな?私達が、一緒に楽しめる事なら何でも。そうだね・・・、ここは、自然も多くて綺麗な場所だし、今は夏だし・・・。こんなのは、どう?」

 私は、自然、夏というワードに絞って頭を働かせる。そして、チョークを走らせる。

「海」「プール」「花火」・・・。誰かのひと夏の恋物語の一幕を飾っていた場所や、イベントの名前が並ぶ。そこで、静留から指摘が飛ぶ。

 「海は、夏だからっていうのは分かるけど、無理でしょ・・・、ここからは遠すぎるよ。そんなに遠出出来るお金も、私達は持ってないし。プールも、この辺にはないし・・・」

 二つは却下される。まぁ、海やプールまで、ここから出かけていくつもりはなかった。私達の世界は、この廃校舎と、その周辺だけの世界で、完結させるつもりだったのだから。「海」「プール」に×をつけて、私は言った。

 「海やプールは、遠すぎるから、その代わりに、近くに水の綺麗な渓流があったから、そこに行こう。人に見つからないようにしなきゃだけど」

 色々な事が出来るようにと思って、学校指定の味も素っ気もないグレーの水着ではあるが、リュックに突っ込んで、持ってきていて良かったと思う。川の水の冷たさを思っただけでも、首筋がひんやりとして、心地よい涼しさを感じた。

 「後は、花火だね。これは、森を出たところに雑貨屋さんがあったから、そこで、花火セットでも買って、夜にやろう。多分、デートで大切なのは、お金を使う事よりも、思い出に残るかどうかだと思うから」

 静留に向けて話しながら、黒板に、何をどうするかについての予定を書き連ねていく。「デート」という文字の下のスペースが、少しずつでも埋まっていく。

 しかし、渓流で水遊びして、花火をして、というだけでは、静留は満足していない様子だった。

 「ほ、他には・・・?葵のやりたい事は分かるけど、でも、これだけなら、友達と遊ぶのと、やってる事は変わらない気がする・・・。デートだったら、ただ友達と遊ぶのとは違うんだって分かる、何か、特別なイベントみたいなのがほしい・・」

 静留から、そんな指摘と、要望が出た。私は、板書を見直す。確かに、これだけなら、友達と遊ぶのと大差がない。その先の出来事を、彼女は求めている。そうなってくると・・・。

 私の頭に、とある二文字が浮かんだ。「友達」と「恋人」。二つの概念を分ける、誰の目にも明らかな国境線がある。しかし、その二文字を書くだけでも、チョークを持った私の手は震えて、固まるのだった。でも、それを口に出して伝えるのは、尚更に、顔から火が出る程、恥ずかしい。口で言うよりはマシだと、自分に言い聞かせながら、チョークを動かす。

 「キス」という二文字が黒板の上に現れた。書き出して、視覚に訴える情報になると、思った以上に恥ずかしい。静留に見られるとなれば、余計に恥ずかしい。一息に書き切った後、思わず、目を瞑った。すると、聴覚が普段よりも鋭くなって、静留の、息を呑む音が耳に届いた。

 そっと目を開けると、静留は、黒板の一点を見つめたまま、顔を真っ赤にしていた。

 「た、確かに、友達ではしない事だけど…い、いきなりそれに行く…?」

 「い、色々、注文が多いね・・・静留は。わ、私だって、書くの、は、恥ずかしかったんだから。こ、ここまでやったなら、静留も、只の友達としての遊びじゃないって、分かってくれるでしょ?」

 お互い、その言葉を直接、口にする事も恥ずかしがって、黒板の上の、その二文字を指し示しながら、言葉を交わした。同級生らがえげつない恋愛事情の話をしているのを、横耳に何度も聞いていたのを思い出す。彼ら、彼女らに比べたら、私と静留の初心さは、小学生かと思ってしまうレベルだった。

 「それで、私からも聞くけれど、静留はどうしたい?ただの友達じゃ、やらないような事を、望んでるんでしょう?わ、私とこういう事をしたいって、思ってる?」

 私の目の前にいる、たった一人の生徒に向かって、そう質問する。彼女は、顔は勿論の事、首筋までも、紅くなっている。私もきっと、今、鏡があれば、同じような有様になっているだろう。ヘアゴムで縛っただけの、簡素なポニーテールの毛先を、くるくると指先に巻き付けて、弄びながら、静留は俯いている。彼女は、しばらくためらっていたが、やがて、こう言った。

 「あ、葵が、許してくれるのなら・・・、さ、させてほしいです」

 なぜに敬語。緊張からか、言葉遣いがおかしくなっている、というツッコミは控えておく。窓ガラスの外れた教室の外からは、やかましい程の蝉の鳴き声が聞こえてくる。蝉が鳴く意味は、求愛行動だった筈。長い土の中での生活から、やっと自由な空へ飛び上がれた蝉は、散るまでの短く儚い命でも、割れんばかりの声で愛を叫んでいるのに、私も、静留もお互いに愛を求める声は、蚊の鳴くように小さい。

 「もっと・・・、大きな声で言ってよ。静留の思いを、はっきりと」

 私がそう言うと、静留は、ふわっと、ポニーテールを揺らして、顔を上げると、真っ赤な顔色のままで、叫んでくれた。

 「わ、私は、あ、葵と、キスしたい・・・!!ただの友達では、やらないような事をしたい!」

 どもりながらも、何とか、そう言い終えて、静留は、目を閉じて、震えていた。顔は紅潮したままで、彼女は私に言った。

 「さ、さあ、来て!」

 「き、来てって何を・・・?」

 「い、言い出したのは、葵でしょう?だから・・・、ここで、葵からキスしてよ・・・」

 「私からするのか・・・」

 「そ、そうだよ! 今日は、葵が先生で、私が生徒なんだから、葵が教えてくれるんでしょ・・・?いきなり本番とか無理だから、この時間で練習させてよ」

 恋人とは具体的に何をするのか、教えてという無茶振りはされたが、よもや、キスの「練習」を迫られるとは・・・。そこで、私はふと、静留のある言葉に引っ掛かった。

 「待って・・・、練習ってどういう事。この時間で練習するって事は、何処かで、本番があるって事?」

 私の指摘に、瞼を閉じたままで、静留はたじろいだ。「う、うん・・・」と、返事が返ってくる。

 「え、本番って、いつ、なの…?

「ほ、本当にする時は…、実は、私の中ではもう、決めてあるんだ。この一週間のうちに、ね。でもそれが何か、今はまだ聞かないで。それで、ぶっつけ本番だと私の心臓が止まるから・・・その前に一回、どんな感覚なのか、シミュレーションしておきたい・・・。だから、今日は、葵は、する真似だけでいいからね。適当なところで、止めてね」

 少しだけ胸をなでおろす。ここで、静留の唇に、本当に触れないといけない訳ではないらしい。あくまでも、する真似だけで良いようだ。

 静留は、この不思議な旅路についてから、ずっと、私に何か隠している気配がある。今回も、また私に何かを隠した。

 「本番」がいつのタイミングなのかは、問いただせば、話してくれるのかもしれないが、ここは彼女の秘密に付き合ってみる事にする。焦らずとも、この一週間の間には明かしてくれるのだから。ここで無理に聞き出そうとするのも無粋だろうと思ったからだ。

 今日はあくまで、授業の一環としての「練習」ではあるが‐、初めてのキスの相手が、同性の静留である事に抵抗などはなかった。寧ろ、彼女が、「本番」を考えてくれている事に、私の心は浮きたっていた。

 でも、今はあくまでも練習…、そう繰り返し、頭の中で念じながら、私は静留に言った。

「じゃ、じゃあ、行くよ・・・、静留はそのまま、じっとしてて。もういいって思ったら、私にストップかけてね」

 静留にそう声をかけて、私は、彼女へと歩み寄っていく。私の言葉を聞いて、静留の体に緊張が走るのが分かった。そこからは、もうお互いに声は発さない。黒板の前から、彼女の前までの、精々数メートルの距離が、やけに長く感じられた。私達二人の声が消えた途端、教室の中には静寂が戻ってくる。窓の外でなく、蝉の声が、急に近くに迫ってきたように錯覚する。蝉の、飛び立ってから散るまでの短い命の、全てを注いで奏でる求愛の声達が。

 その蝉の声が「スキ」という声に変換されて、聞こえてくる程度には、私の頭は、この教室の暑さにやられているらしかった。その声は、静留の声のようでもあり、私自身の声のようにも感じられた。

 私が静留にする側らしいので、彼女の目の前に立つと、ぎこちなく、手をそっと、静留の背中に添えた。私と彼女の背丈は同じ程度なので、目線が合う。彼女は、長い睫毛を伏せて、じっとその時を待っていた。私は、彼女の顔に、自分の顔を近づけていく。こうして見ると、飾り気はなくても、小綺麗な顔立ちをしていると、改めて気付かされる。静留に、そうした感じの事を言うと、「あ、葵の方が綺麗な顔、してるよ…、学校にメイクしてくるような人達よりも、ずっと…」と返されたが。

 彼女の「ストップ」の声がない限りは、唇を近づけても大丈夫な筈だ。静留も、極度の緊張に耐えているのだろうが、私も心音が早鐘のように鳴り続けている。彼女の唇に、私の唇がどんどん近づいていくにつれて、私も、内心では「早く、ストップと言って・・・!」と、切望していた。

 彼女の唇が近づいてくるにつれて、私の中にも、危険な衝動が生まれつつあったから。

 「静留の言う本番なんて待たずに、ここで唇を重ねてしまえ。欲望のままに、貪ってしまえばいい。私達はもう、思いも通じ合った恋人なんだから、そうしたところで、何か問題でも?」と、それは囁いている。不意打ちのような事はしたくはなかったが、自分の中の欲望が、私を唆してくる。今まで恋をした事のない私は、自分の中にも、こんな荒々しい欲望が眠っていたとは、思いもしなかったのだ。だから、勢いでしてしまう前に、静留に強制的にでも止めてほしかった。私の中で、「スキ」と鳴きだした、魔物を。

 と、その時、ふらりと、静留の体が、私に寄りかかるようにして倒れてきた。急いで受け止めた私は、その体の熱さから、何が起きたかを知った。


 「ごめん、葵・・・」

 「もう、熱中症起こす前に、きつかったなら、なんで早く言ってくれなかったの」

 テントの中の影で、静留は横になって休んでいる。あの暑い教室の中で、極度の緊張に晒されていたら、熱中症を起こすのも当然というものだ。そういう私も、水分補給をして、脳細胞の一つ一つにまで行きわたり、頭が冴えてきた感覚を味わうと、さっきの教室では、脱水一歩手前でかなりぼんやりとしていた事を思い知る。

 そうは言っても、目を閉じて、私の唇が近づくのを待っていた時の、静留の姿を見た時、愛を求めて鳴きだした、あの魔物は決して夏の暑さだけが原因ではなく、今も私の中にいるのだろうけど。

 外は暑い事を見越して、熱中症になった時、体を冷やせるようにと、熱さましのシートを持ってきていたのが幸いした。静留の額に貼ったそれを、新しい物に取り換えてあげると、「冷たくて、心地いい・・・」と声を上げた。

 「恋の授業の時間を、台無しにしてごめん」

 「何言ってるの、キ…キスの練習よりも、静留の体調の方が大事なんだから」

 「でも…、折角、恋人になれたんだから、葵の恋人として、私はどういう風にしたらいいか、葵のしたい事とかも、もっと教えてほしい。キ、キスは、私もしたいっていう、願望も混ざっていたけど・・・。この一週間は、私達の人生の、幸せな事だけを先取りして、思いっきり凝縮したような日々にするんだから。熱中症でこんな風にのびてる場合じゃ・・・」

 どうにも、静留は必死になり過ぎているように感じられた。この廃校舎での、瞬く間に過ぎ去る一週間という時間の中で、恋人になったのだから、特別な思い出を残さないと、という具合に。

 だから、私は、焦った雰囲気を何処かに漂わせている彼女を、軽くたしなめるくらいのつもりで、こう言ったのだ。

 「どうして、そんなにまで焦っているの?今回の家出、確かに静留のアイデアは面白いって思ったけど、ここを去る時が来て、家と学校を往復するだけの日々が戻っても、私達の恋人としての日々はまだ、始まったばかりでしょ?これからも、時間は沢山あるんだから、恋人らしい事をするチャンスは、いくらでも・・・」

 ところが、私のこの言葉を聞くや否や、静留の表情は一変した。今まで、ぐったりと横になっていたのに、急に、乱暴に上半身を起こすと、こう言ったのだ。

 「そんな事ない!!私の、葵の恋人としての日々は…、この場所の中でしか、あり得ないんだ!この場所を出た後の日々の話なんかしないで!」

 私が、「未来」の話をした途端に、静留は豹変したように、表情を険しくして、そう叫んだのだ。

 どうして、この学校での一週間が終わった後の話をした途端、あそこまで感情を高ぶらせたのか、私は全く理由が分からなかった。少なくとも、空気は一変した。キスの練習の時、私と静留の間に広がっていた、熟れた果実の甘い香りに満たされた、空気は消え去った。

 「ど、どうしたの、静留、急に・・・」

 私は、ただ驚いて、続く言葉が見つからない。彼女が何故怒ったのか、分からない以上、何を謝ればいいのかさえも分からず、私は何を言う事も、どうする事も出来なかった。

 静留も、咄嗟の感情の破裂だったらしい。それに、まだ熱中症での頭のふらつきも残っていたようで、頭を抱えて、うなだれた。

 「ごめん…、さっき、私が言った事は、忘れて…。私、まだやっぱり具合悪いみたいだから、もう少し横になってるね。少し体調が良くなったら、私から声かけるから、それまで、私に話しかけないで」

 先程の一瞬に比べると、だいぶトーンは下がっていたものの、言葉の裏には、「今は一人にしてほしい」という意味が、強烈に込められていた。

 ‐何が原因で彼女が豹変したのかも分からぬまま、その後は私も、テントの隅によって、こうして日記を書いているしかなかった。静留がしばらく、何も話してくれなくなった為に、今日の分の日記は、文字数が多くなった。

 「町の方のお風呂屋さんに行こう。明るいうちに。汗かいちゃって、さっぱりしたいよ」

 やっと、静留が自分から声をかけてきてくれた。今日の分はこのあたりで終わりにする。

 今日、得た教訓は、静留は私と、「この一週間が終わった後」も続いていく筈の、未来の事を話すのは、酷く拒んでいる、という事だった。

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