第3話 2日目

 2日目

 朝、テントの中で目覚めるとスマホの充電は切れていたが、何とも思わなかった。ここには、当然充電する場所などないから、充電が切れたらそれまでだ。しかし、これで、外界との通信は途絶えたと思うと、清々しくさえあった。

 隣で静留はまだ、薄く口を開けて、寝息を立てていた。

 1日目の夜、テントの中で、虫の音を聞きながら、ノートに書いた、日記を軽く読み返してみる。住み慣れた世界‐、言い換えれば、今まで自分が縛り付けられてきた世界を飛び出した、その高揚感のままに書いた為か、文字が時折、私の感情そのままに乱れている。

 テントの外に出てみると、夏の、気の早い太陽は既に上っているものの、まだ日差しは弱い。

 蝉達は、既にちらほらと鳴き始めていた。自らの短い命を知っているように。休んでいる暇はないというように。

 肺の中まで洗われていきそうな、澄んだ空気を吸い込み、背伸びをする。学校と家を行き来するだけだった日々にはなかった、清々しい朝だった。

 ふと、シャツ越しに首筋に触れる、伸ばしっぱなしの髪が気になった。別に、ロングが似合っているとも思っていないが、髪型に拘りもないまま、いつもこうして、項も覆い隠して、伸びきってしまう。縮れがちな毛先を手に取って、「髪、切ってくれば良かったな・・・」と独り言を言った。

 その時、テントの中で、動く気配がしたので、静留が起きたのだろうと思い、戻ってみる。

 静留は、テントの戸に対して背中を向けるようにして、横になっている。しかし、彼女が寝入っていないのは明らかだ。まず、先程と、彼女のリュックの場所が動いている。それに、ピタリと口も閉じて、長い睫毛を伏せて、これ見よがしに、眉間に少ししわが寄る程、瞼を強く閉じている。

 「静留、起きてるんでしょ」

 声かけしても反応はない。なので、静留のキャミソール越しに指を這わせて、背中の正中をなぞってみると、声を上げる。彼女の弱点は把握済みだった。

 「バレたか・・・」

 静留はそう言いながら、苦笑して、体を起こした。そして、感慨深そうにこう言った。

 「なんか・・・夢みたいだなぁ、夜寝る時も、こうして起きた時も、葵が隣にいて、他には誰もいない、二人だけの時間が続いていくなんて」

 「それは、私も同じだよ。おはようからおやすみまで、静留が一緒にいるんだからさ」

 今頃、テントの外、この廃校舎の外の世界では、学校も親も、私達二人が姿を消した事に、きっと騒いでいる事だろう。しかし、今はそのような事はどうでも良かった。私達二人の世界は、今いる、この廃校舎を中心に再構成されたのだから。私達の他には誰も存在せず、また、誰も必要としていない世界に。

 「学校に入学したんだから、次は授業の時間だよね」という、静留の言葉に、私は思わずげんなりとしかけた。

 「ここにきて、『授業』なんて、白けそうな事、言う・・・?」

 「大丈夫、学校で受けていたような、眠くてだるい時間なだけの授業とは違うから。私は葵に、葵は私に、それぞれ、自分の考えとか、思いを伝えるような、そんな『授業』をやろう」

 そして、昨日訪れた、廃校舎の一階の教室に入った。黒板の前に立つと、静留は話し始めた。私は、それを、床にビニールシートを敷いて、座って聞いている。

 「私達がここで過ごす、これからの時間についても関わってくる話なんだけど、人生で、人間が幸せを感じられる瞬間は、何個くらいあると思う?葵は」

 静留が以前より話していた、人生観についての話が始まった。受ける生徒はただ一人、私だけ。私は頭を振り絞る。

 「そう言われても・・・、急に言われても思いつかないよ、人生の中の幸せの数なんて」

 試しに、自分の歩んできた人生を振り返ってみる・・・。思い出すのはやめよう。自分の歩んだ道の中に、答えは探せそうになかったから。

 「じゃあ、一般論でも大丈夫だよ。葵が思いつく、楽しそうな事を教えて。人生、が広すぎるなら、学校生活の中からでもいい」

 「うーんと・・・、一般論でいいなら、例えば、学校生活の中なら、学園祭とか?それから・・・、人生だったら、幸せな事は、恋をして、け、結婚する事とか?」

 静留の目を見ながら、「恋」だとか「結婚」という言葉を使うと、胸の中の鼓動が、急に大きな脈を打つ。

 そして、自分の、人生における幸せというものの、引き出しの少なさを思い知る。10数年生きてきて、自分は、たったこれだけの数の答しか持ち合わせていなかったのか。

 「少なくてごめん、静留・・・」

 「いや、少なくても大丈夫だよ。さっと出てくる答が少ないって事は、逆説的に、人生っていうのはそれだけ、幸せな時間、楽しい時間は少なくって、その何十倍も、嫌な時間がいっぱいあって、嫌な時間で、楽しい時間を薄めながら生きてる事だっていう、私の考えの証明にもなるから」

 この旅路のきっかけになった、「人生の中の幸せや、楽しい時間を先取りするなら、蝉の一生のように、一週間にだって凝縮出来る」という、静留の持論に繋がる話だ。

 「実際、私も、葵も、嫌な時間の方がずっと多い人生を送ってきた訳だしね。人に生まれたからには、楽しい時間、幸せな時間を掴む権利だって、私達にもあるよね。でも、それの為に、何十年も、嫌な時間、体験したくない時間を我慢する必要なんてない」

 そう言って、静留は、手袋をして、古びたチョークを拾い上げると、黒板に長い横線を引く。そこに、「人生=嫌な時間」と書き込み、その中に、幾つかの点を打つ。その点に、彼女は、「幸せな時間」と書き込む。静留の考えを図式化したものだった。

 「私も葵も、それに、この事に気付かないで生きてる人達の人生も、皆、この図に当てはまると思う。それを、私達はこういう風にしようっていう訳ね」

 彼女はまた、古びたチョークを、粉を散らし、黒板に押し当てるようにしながら、また、新たな横線を黒板に一本引く。そして、その「人生」という横線に、左端から短い間隔で点を打ち、その上に「幸せな時間♡」と書いた。それをはみ出している線の上には、「嫌なだけ、辛いだけの時間!ムダ!」と力を込めて書いた。

 静留が、この提案をした時から、彼女の中に厭世観がある事は分かっていた。しかし、こうして、視覚的に分かりやすい図式という形で描かれると、「幸せな時間」の終わりとして打たれた点より右側の時間を、彼女は心から「辛くて嫌なだけ。ムダ」と思っている事がより切実に伝わってくる。そして、「ムダ」という二文字を書く前に、彼女が一瞬、何か書こうとして手を止めた事も、私には引っ掛かっていた。

「ムダ」という二文字で、切り捨てられた人生の時間。ここでの一週間が終わっても、また続いていく時間。それを生きる意思が、彼女にはないのではないかという、不吉な予感を抱いた。

‐そんな筈ない。静留は、私が恐れているような事を考える子ではない。この、1週間の家出の前だって、あんなにウキウキと何を持っていくかとか、計画を話し合って、何か思いつめている様子なんてなかったのに。そういう、ポジティブな記憶をかき集めて、私は頭に浮かんだ不吉な予感を、急いで打ち消す。

「学園祭か、いいね。やろうか、私達だけの学園祭なんていうのも。外の世界の学校では、私達みたいな人間は縁のないイベントだったけど、ここでは、私達しかいないんだから、私達が主役だよ。さて、何をやろうか…」

しばらく、静留はじっと何かを考えている様子になった。

 「学園祭」と、人生を示す横線の下に一言、彼女は書き添えた。そして、「何をするかは、保留」と付け足す。

 そして、「恋」という文字を、黒板に書こうとした時、静留はピタッと手を止めた。彼女のシャツの裾から覗く、二の腕の白い肌にまたも、分かりやすく朱が差す。書くのをためらった、その気まずさをはらすように、勢いよく、その一文字を静留は書き切った。

 「恋も、大事なイベントだよね。人生を幸せにしてくれるかっていう点で。私はした事ないけど。葵にはある?」

 「・・・ないよ。体験した事ないから、そこに、例として挙げたの。人生で体験したい、幸せな事っていう意味で。そういう静留には、ある?」

 「・・・私もない」

 この廃校舎を中心に再構築された、私達二人しかいない世界で、学校生活や、人生の幸せな事を、「先取り」して経験する。その幸せな事の中に、「恋」が加わった。

これを、実現するにはどうするか‐。答は考えるまでもなかった。ここは二人だけの世界で、「恋」の対象になれる存在は、目の前にしかいないのだから。

教室に、きっと私達が来る前、ずっと続いていたものと同じであろう、静寂の時間が生まれた。「恋」という黒板の一文字を見たまま、私と静留はしばらく、固まっていた。鼓動がどんどん速くなっていく。蝉の音が響き渡っているのに、この鼓動だけは決してかき消されない。自分の鼓動か、それとも静留の鼓動かの、区別もつかなくなる。

 静留に、自分の気持ちを伝えられるのならば、この一週間をおいて、他にはないと思われた。

「私が・・・、もしもここで、恋を体験してみたいって言ったら、静留はどうする?ここには、私と静留しか、いないけど」

静留に私はそう尋ねると、彼女はふらっと、姿勢を崩して、黒板に手を突いた。

「ご、ごめん・・・、ちょっと、暑くなってきたね。頭がフラフラしてきちゃった」

暑くなってきたも何も、クーラーなどないこの教室は、最初から暑いけど。静留は、分かりやすい程に狼狽えていた。

 一旦、休み時間にしようと提案されて、板書をそのままにして、教室を出る。テントまで戻って、雑貨店で買い込んだ、乾パンと缶詰で昼食をとる。早々と終えた静留は、テントの入り口の方を向いて座って、何やら考え込んでいた。教室を出てから今まで、彼女の耳も頬も紅いままだった。

 彼女の、その反応が嬉しかった。私の提案を、真剣に考えてくれているから。

 静留も、私に対して、恐らくは友情的な意味とは別種の「愛情」を持ってくれている事にはとっくに気付いていた。しかし、彼女はそれを決して、口に出しては言ってくれなかった。どんなに、本心はバレバレでも。そして、どんなに、静留がそれを言ってくれる事を私が、強く望んでいても。

 だから、今回、「恋」を、人生のイベントとして「先取り」してみたいと言ったのは、静留が言ってくれない本心を、半ば無理やりにでも引き出す為に、仕掛けた策でもあった。私が人生でしてみたい経験の引き出しは、確かに少ない。だけど、「静留との恋」だけは、私には絶対に外せない、人生の中の「幸せな出来事」だから。

昼下がり、再び、あの教室に戻る。黒板に、そのまま残されている板書を二人で見つめる。

 「それで・・・、さっきの返事を、聞かせてもらえるの?静留先生。私は、ずっと待ってたんだけど」

 「・・・私の気持ちを、葵は気付いてたんだね、とっくに」

 静留は、照れ臭そうに微笑んだ。こんな、非日常でもなければ、静留は本当の気持ちを口には出してはくれなかっただろう。彼女は答えてくれた。

 「いいよ・・・。私もずっと言いたかった。葵が好きなんだって。ここで、葵との恋をしてみよう。この二人だけの世界で」

 そして、彼女はこう付け加えた。

 「葵があんな質問をしなければ、私は言えないままでいたよ、ありがとう。嬉しいな、ここで、恋を経験出来るなんて」

 しかし、静留が、ポロっと零した、言葉の最後が、またも私に引っ掛かるのだった。

 「サイゴの前に、葵と通じ合えて、良かった・・・」

 そう言って、一瞬、哀しそうに眉を下げたのだ。「サイゴ」が、「最後」か、まさか「最期」なのか・・・。どちらの漢字でも、良い意味の筈がなかった。どうしても、静留にそれは聞けなかった。

 この廃校舎での一週間が始まってから、静留の零す言葉、見せる表情に、教室の外を照らす、眩い夏の日差しとは真逆の、暗い兆しを、私は感じずにはいられないでいた。

 ‐2日目は、このあたりにしておこう。もう、外も暗くなって、懐中電灯の灯だけで書くのも、目が疲れてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る