より良い心

 ある日の朝、ぼくは博士からの執拗な電話によってたたき起こされた。博士は文字通り世界をまたにかけて活躍する、その分野に通ずる人間であれば一度は名前を聞くほどの、いわば権威のひとりであり、ぼくはその助手であった。


 博士は長年にわたり人間の心や精神、感情の類について研究していて、執筆した論文は十数本にも及んだ。また、博士の提唱した理論をもとにした商品や設備も開発されており、齢六十を手前にして、その成果は十分すぎるほどであった。

 しかしここ数年間、長らく博士の研究は膠着していた。もう一歩で、ヒトの心――欲望から怒りや悲しみ、躁鬱(そううつ)まで――を記述できる機械を生み出せる、その手前まで来ている感触はあったものの、そこから先がどうにも上手くいかない。何通りにもわたる手法を試してみても、あと少しのところで難点が見つかったり、ミスが生じたりする。博士の研究はいよいよ完成に辿り着かぬまま、加齢による幕切れを迎えるかと思われていた。


 そうした事情もあり、日曜日の早朝に、しかも二、三度立て続いて博士から着信があるなど、およそ想像だにしていなかった出来事であった。


 「おはようございます。こんな朝早く、博士にしては珍しいですね。どうなされたんですか?」

 挨拶の直後、うっかり出てしまった欠伸が聞こえたのか、博士は「ああ、すまない」とことわってから話を切り出した。

 「おはよう、ケイ君。単刀直入に、今すぐ研究所へ来れないかね?」

 「ええ、今すぐ、ですか?」

 「そうだ。ここ数年取り組んできた例の研究、人の心を読み取る機械について、大きな進展が見られたのだ。早速試してみたいから、その手伝いをしてほしい」

 博士の声には珍しく熱がこもっており、ただごとではないことだけはたしかに伝わってきた。

 「わかりました。今から急いで身支度をするので、二時間後には到着するかと思います」

 「ありがとう。こちらも引き続き調整をして待っている」

 博士はそう告げると、ぼくの応答を待つことなく通信を閉じた。

 まだ未練のように残る眠気と戦いながら出勤すると、博士はヘルメットのような装置と十数本のコードとを入念に巨大なコンピューターへと接続していた。その筐体は、さながら脳波を測定するマシンのようであった。

 博士は機械に夢中で、ぼくが入室したことにも全く気が付く様子はなかった。仕方がなく大きな声で呼びかけると、博士はようやく振り返り、その存在を感知した。

 「お疲れさまです。ただいま到着いたしました」

 「おお、ありがとう。早速なんだが、今からコイツで実験を行いたいのだ」

 そう言って、博士は件のヘルメット型をした装置を指さした。

 「これは……一体何をする機械なのですか?」

 「うむ。そもそも、だ。我々は長年、どうにかしてヒトの心をコンピューターで読み取り、記述できないものかと試行錯誤してきた。感情や欲望を可視化して、制御することができるようになれば、怒りや憎しみに流されて人を殺してしまったり、破滅的な恋に溺れたりすることもなくなる。鬱(うつ)病をはじめとする病の、画期的な改善にもつながるだろう――そう考えてな。突き詰めれば、ヒトの心なぞは所詮、信号の連なりに過ぎないのだから」

 「そうですね。ですが、天気などと同じで、あまりにもその構造やプロセスが複雑であるがゆえに、完全な形での言語化に行き詰まっていたのではありませんか?」

 「そうだ。その点こそ、まさに盲点だったのだ。いや、逆転の発想、というやつかもしれん。つまり、複雑であるがゆえに手に負えないのならば、ただ素直に単純化してしまえばよかったのだ」

 「はあ、つまりどういうことでしょうか」

 「つまりは、だ。この装置を頭に被せ、脳に特殊な刺激を与えることで、複雑だった構造を、解読や記述が可能な、単純で簡単な形に作り替えるのだ」

 「なるほど。しかしそれでは、心のはたらきそのものにも影響が及んでしまうのではないでしょうか」

 脳をはじめとする人間の身体は、その複雑さゆえに独自の高度なはたらきを可能にしている。したがって、その基盤を単純化してしまえば、出力される心の動き、即ち、感情や意思もまた、簡素でつまらないものになってしまうのではないか――そうした恐怖を孕(はら)んだ疑問が脳裏をよぎった。

 「そうかもしれん。だがしかし、どうして複雑な心にこだわる必要があるのだ? 考えてもみたまえ。お前さんだって、たとえば、言いたいのに言えないといったもどかしさを感じたことや、喜ぶだろうと思ってしたことが、かえって相手を怒らせてしまったこととか、そういう経験があるだろう?」

 たしかに、博士の指摘する通りだ。とかく、人付き合いほど面倒なことはない。笑顔の裏に憎しみを隠していたり、口では賞賛を述べておきながらも裏では軽蔑していたり、あるいは、いろいろと考え込みすぎて陰鬱な気持ちになってしまったりと、たしかにその複雑さにはぼく自身、何度も辟易としてきた覚えがある。

 「要するに、複雑であれば良い、というわけじゃあないんだよ。面倒を引き起こす悩みの種になることだってある。ならばいっそ、単純明快にしてしまった方が、自分にも他人にもわかりやすくて、よほどいいじゃないか」

 段々と博士の言わんとすることが、段々と理解できるようになってきた。

 その様子を感じ取ったのか、博士は装置の説明を再開した。

 「このシステムを用いて、ヒトの感情や意思、欲望や願望を生み出す構造を単純化することによって、コンピューターでも読み取り、取り扱うことができるようにする。そうしてヒトの心をより合理的に、より効率的にすることができるようになれば、その先にはきっと、今よりもはるかに生きやすい社会が待っているはずだ」

 未来を思い描く博士のことばには、祈りにも似た何かが含まれているような気がして、話を聞きながら次第にこの装置を試してみたいという想いに駆られていた。

 「そう考えてみると、大変素晴らしい発明ですね」

 「君もそう思うだろう? だからこそ、私自身が実験体第一号となって、一刻も早く新しい人類、新しい社会への第一歩を踏み出してみたいのだ。きっと、これまでとはまったく違う、澄み切った、晴れ渡るような世界が見えることだろう」


 ――もしかしたらこの数年間、博士も相当悩んでいたのかもしれない、ぼくの知らないところで、内心では結構追い詰められていたのかもしれない……などと思いながら、ぼくは、こうした心の陰とでも呼ぶべきものが、自分の内にもあったことを悟った。


 思い返せば、博士の研究が停滞していたことで、ぼく自身もかなりつらい日々を過ごしてきた。給与は削減され、家族からも見放され、休暇はおろか食事や睡眠の時間さえも惜しんではたらけどなお、生活は苦しくなる一方であった。そうした日々の中で、自死というフレーズが脳裏をよぎったことも、一度や二度ではなかった。

 もしもこの発明によって、あのような苦しみからは金輪際、解放されるのであれば……そう考えはじめたときにはすでに、ぼくの内にはたしかな希望が灯されていた。


 将来の想像によって昂揚したぼくたちは、ますます勢いづいて準備にとりかかった。

 そして陽も傾きはじめた頃、ついに、あとはボタンを押すだけ、という段階にまでたどり着いた。


 「ついに、ついに完成したぞ」

 博士はヘルメット型の装置を頭部に着けた。その先にはコンピューターが接続されており、博士の思考が文章で表示されるように設定されていた。

 「ではケイ君、コイツを起動させてくれ」

 「わかりました」

 様々な想い、願い、祈りを込めて、ぼくは指定されたボタンを押した。

 すると、微かにジジジッと音がし、電流が流れていることがわかった。博士の表情はとても安らかで、苦痛の類は一切感じさせなかった。

 十五分ほど経過すると、軽快な電子音が実験の完了を告げた。


 博士はしばらく静止したのち、ゆっくりと目を開けた。

 「お疲れさまです。気分はどうですか?」

 口調がいつもより早まる。興奮が抑えきれていないことが、自分でもわかった。

 しかし、ぼくの期待とは裏腹に、瞬く間に博士の顔は曇りはじめ、先刻とは打って変わったような、極めて退屈そうな表情へと変貌し、やがて口からは大きな溜息がひとつこぼれた。

 「……ああ、まったく。なんて馬鹿馬鹿しいことをしてきたのだ」

 そう呟くと、博士は装置を無造作に脱ぎ捨てた。

 ぼくは慌ててそれをキャッチし、博士に声をかけた。

 「一体、どうなされたのですか」

 だが、博士はぼくのことなぞ気にも留めず、研究室の窓際へと向かい、淡々とした動作で全開にした。

 八階建てのビルの最上階に位置する研究室には、季節柄も相まって、強い風が吹いてきた。

 「博士、何をなさるおつもりなのですか」

 そう問いかけると、博士はゆっくりと振り返った。

 「簡単なことだ。最も無駄のない、至極単純な道を選ぶだけだ」

 そう答えると、博士はそのまま、一切のためらいもなく窓から飛び降りてしまった。

 「博士!」


 咳こむほどに喉を切らした叫びも虚しく、数秒ののち、地上からうっすらと不快な音が聞こえてきた。

 やがてすぐに悲鳴が響き渡ると、誰かが通報したのだろう、瞬く間に警察が駆け付け、ぼくはその対応に追われた。

 ことのいきさつを説明すると、すぐさま装置が調べあげられた。だが、これといった故障も欠陥もなく、極めて正常に作動していたことがわかった。実験は成功していたのだ。

 いよいよ一同の混乱は頂点に達した。その一方で、より良い心を生み出すはずのコンピューターは、博士から読み取った情報を淡々と表示しつづけていた。

 『なんとも愚かなことだった。考えてみれば、生きていることそれ自体が、最も非合理的で、非効率的だったのだ』

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短編集『宇宙の旅行記』 永友悠稀 @yukinaga_archer

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