わすれ谷(3)

 三月も下旬にさしかかり、もうすぐ四月になろうとしている時の事だった。ずいぶんと暖かくなった外を散策していると彼女がぽつりと言った。

「あのね、私、もう長くないのよ」

 不思議とその言葉を静かに聞いている事が出来た。

「そうなのですね」

 そう返したきり、その後は何も話すことは無かった。

 その日、帰ったらすぐに寝床に潜った。何故か次々と涙があふれてきて止めようが無かった。進んでいく時の中で何も出来ない自分、思い出せそうで思い出せない、そのもどかしさで一杯だった。

 その夜僕は夢を見ていた、その中で僕は誰かと朝の時間を過ごしていた、その人はいつもギリギリまで寝て朝食を抜く自分に、朝食は大事なんだからねと小言を言っている。だけど、いつもその人はコーヒーを入れてくれる、愛情たっぷりに入れたからね、絶対美味しいに決まっていると言っていた。コーヒーは入れる人の気持ちも味になるんだよ、なんて冗談の様な事も言っていた。とても幸せな夢。なぜ、その人と自分は今一緒にいないのだろうか。その人は今どうしているのだろうか。夢を見ている間も泣いていたのだろう、翌朝眼は腫れぼったくなり、マスターに心配される事になってしまった。

 彼女がもう長くない事を知ってからも時々はホームを訪れた。彼女は何人かのホームの住人と一緒に話している時もあれば、ひとりでじっと外を眺めている時もあった。僕が訪れると、笑っていらっしゃいと言ってくれる。その姿は初めて見た時よりもずっと小さく見えた。ああ、これが老いという物なのかと思った、老いの先には何があるのだろうと考えた瞬間自然に『死』と言う言葉が出てきた、そうか、彼女は死に向かっているのだ。そう考えたとたんに、怖くなった。どう怖いのかは言い表せない、とにかく死という物が怖く感じた。

「あら、どうしたの、険しい表情をして」

「怖くはないのですか?」

 質問をする僕に対して、何に対して怖いかは彼女にはもうすでに分かっている様子だった。そこで、彼女はじゃあここに来る前の話をしましょうかと言った。

「体調が思わしくない時があってね、それで医者にかかったら、癌でね、もうずいぶんと進行してしまっていてどうしようも無いと言われたわ。それで余命二ヶ月と言われたの。もう八十も後半だから、だからある程度の覚悟はしていたけれど、実際に言われるのとでは訳が違う。そりゃもう怖かったわ、日に日に死が近づいてくるのだもの。ひたひたとね。だれも相談できる人はいない。独りで寂しく最後を迎えるなんて怖いという一言では言い表せなかったわ。それでそんな怖い死の事なんか忘れてしまいたいと強く願った結果、きっとここへ来たのね。でもそれももう終わりね」

 彼女はここで一時の安らぎをえる事が出来たのだろうか。谷の外で独りで寂しく死を迎えるよりかはここでたくさんの人に出会い、見守られながら死に向かっていくその方が彼女にとって幸せだったのだろうか。どの様な最後を迎えるのかは人それぞれ、どれが正解かなんてわからない。

「ここに来てからも、何人か見送った。その人たちは最後に自分が直面している運命を受け入れる事が出来たのかしらね。私は怖いけれど受け入れるしか無いと思ったわ。それができたのも、この谷の人達のおかげかしらね、最後の時を独りで過ごすはずだったのが、色んな人と会う事が出来て、ゆっくりと過ごす事が出来た。受け入れる準備期間を与えてくれたのね。もう残された時間はわずか、悔いの残らない様に過ごすしか他は無いわね。」

 僕は何も言えずにいた。窓の外の桜の花がぽつりぽつりと咲き始めていた。

 忘れてしまった、何を忘れてしまったのかはもう少しでつかめそうだけどわからない、とても大事な事なのだろう、だけどとても悲しい事。本当に思い出したいのかどうか分からない。僕は喪失感とともに記憶のカケラを探している。咲き始めている桜が私を忘れないでと

訴える。何故か、涙が出そうになった。

 その日は喫茶店の二階へ戻るのに精一杯だった。帰って本棚から一冊の本を取り出す。ここに来てから毎日少しずつ本を読んでいた。その中の一冊の本を開いて一説を読む、

『一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日の事を思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮らしたい』

 確かに先の事を考えると不安がよぎって、心配ばかりしてしまう。でも前だけ向いてあしもとを見ていなかったら躓いてこけてしまう事だってあるかもしれない。一日一日を大切に必死に生きていけば良い、次の日の事は明日考えれば良い。その積み重ねが将来へと繋がっていく。彼女も不安だったのだろう、忘れてしまいたいと願うまで。けれど、怖いと思う事も含めて全て思い出して、日々を必死に生きようとしている。強い人だと思った。その強さが自分にもあれば、忘れてしまっている大切な記憶を取り戻せるのだろうか。

 次来る時は貴方が入れたコーヒーが飲みたいな、という彼女のリクエストに応えて、今日はコーヒーと少しばかりのお茶菓子を持ってきた。魔法瓶からコーヒーをカップに移して、どうぞと言って手渡す。一口飲んで彼女は美味しいとつぶやいた、それからはいつも喫茶店で飲むのと同じようにゆっくりと楽しんで飲んでいる様だった。

「ありがとう、とても美味しかったわ。きっと貴方が心を込めて入れてくれたからね」

「心を込めて入れるとより美味しくなると以前誰かに教わった気がします」

「あら、誰かしらね。貴方にとって大事な人かしら。」

 そうだと思います、と答えると。彼女は少し驚いた顔をしたあと孫を見る様な優しい眼をして言った。

「そうなのね、もうすぐなのね、大丈夫かしら?」

「そうだと思います。思い出す事に対して不安感はありますが、貴方から勇気を分けて貰いました」

 彼女との会話はそれが最後だった。次に部屋を訪れた時は意識を失った様に眠っていた。もう目前まで期限が迫ってきている事が分かった。僕は持ってきたお見舞いの華を活けて帰った。

 その数日後、桜が満開になる少し前に彼女は帰らぬ人となった。葬儀は行われる事はなく、ひっそりと共同墓地に彼女は入る事になった。そうか、逝ってしまったのかと思い、ひとり共同墓地の前で涙を流した。

 彼女が亡くなってからも、日々は過ぎていく。ある日、喫茶店のマスターが

「そういえば、桜が満開になったけどお花見は行った?良いスポットがあるんだよ、今度行ってみると良いよ。桜の花言葉は、純潔、優美、しとやか、とかあるけどフランスでの桜の花言葉は、私を忘れないで、だって。出会いや別れの多いこの季節にぴったりでロマンチックな花言葉じゃない?」

 そういえば今年は花見をまだしていない。おすすめの所があるなら、ゆっくりと見て回るのも良いかもしれない。

「そうですね、今度の休みに見に行ってきます」

 そう言って迎えた、休み。簡単に昼食としておにぎりを作って、桜を見に行った。この前まであんなに、不安感で一杯だったが、最近不安はあっても、平穏に過ごしていた。そろそろ覚悟を決めた、記憶の鍵を開けようと思っていた、もう開けられる。けれどきっかけがなかなか見つからない。まあそんなに焦っても仕方が無いと最近思っている。マスターに聞いた桜の名所の地図を頼りにゆっくりと歩いて行く。目的地に着くまでも桜の木があった。そうこうしているうちに、ようやく目的地に着いた遊歩道の両側にずらっと桜の木が並び、これでもかと言うくらいに咲き乱れている。満開を少し過ぎ、少し散り始めているのか、風が吹くたびに桜吹雪が舞う。そういえば、マスターが行っていた、フランスでの桜の花言葉は、私を忘れないで。散っていく花びらが命の様に思えてきた、散っていく命はあれど、それを忘れないで、私は確かにそこにいたのだからと。桜吹雪の向こうに誰かが居るような気がした。目を凝らすが顔は見えなかった、けど少し悲しそうな表情で何か言っている。私を忘れないで。そう言っているようだった。その瞬間今まで記憶にかかっていたモヤが一気に晴れた。そうだ、確かに君はそこにいた。何で忘れていたのだろう。

 僕はいても立ってもいられなくてすぐに住処に戻った。靴を脱ぐのももどかしく、急いでキッチンに立つ、そこでコーヒー豆を挽き、ゆっくりとお湯を入れる、一口飲む、もう一口。ああこの味だ、僕が好きだった味、君がいつも煎れてくれていたコーヒーの味。いつの間にか僕が自分好みにいれていたんだ、君が入れてくれていた味になる様に。どうして今まで忘れていたのだろう。飲みながら次から次へと涙が出てくる、止まらない。止め方が分からなかった。

 なんで急にいなくなってしまったのだろう。そうだ、あのとき突然君の両親から電話がかかってきたんだ『落ち着いて聞いてくれないか、娘がね事故で・・・・・・』僕は呆然としながらその電話をとってどうやって行ったか覚えてないけれど病院へ行って冷たい部屋で眠る君と顔を合わせたんだ。うそだろう、ねえ、あと数ヶ月で結婚式を挙げて、こどもは二人が良いねなんて、この前まで言っていたじゃ無いか。それに、朝、いつも通りに過ごしたはずなのに、こんな急に日常が変化するなんて思ってもみなかった。君がいない事に僕は耐えられなくなって、現実を見たくなくてあった事全て忘れてここに逃げてきたんだ。

 君との記憶が次々とよみがえってくる。楽しかった思い出も、喧嘩した事も全部思い出した。君がいた事は確かなのに、忘れてしまってごめん。いなく無い事にしてしまってごめん。君がいなくなって悲しい、寂しい思いは忘れられないけれど、この思いを持って前に進む事は出来そうだよ。何が正しいかなんて分からない、けれど僕たちは生きている。日々を必死に生きていかなければならないんだ。

 その夜は眠れない夜を過ごした。

 翌朝、眼を真っ赤に腫らした僕に以前と変わらず、マスターがコーヒーを煎れてくれた。やっぱり僕が煎れるのとは味が少し違ったけれど相変わらず美味しかった。

「行くのかい?」

 コーヒーを飲み終わった僕にマスターが静かに問いかける。マスターは不思議な人だ、起こった事を全て把握してそう。

「はい、いるべき所へ戻ります」

 そう僕が言うと、そうかと言ったきりマスターは黙々と開店準備を進めていった。


 翌朝、僕は来た時と同じように小さなボストンバック一つ持って一階の喫茶店に降りていった。お世話になりましたとマスターに言うと元気で、またバイトを探さないといけないと笑って返された。わすれ谷の入口に迎えをよこしてあるから、それに乗って帰ると良いと言われた。ありがとうございますとお礼を言って、短い間お世話になった喫茶店を出た。

 ここを出たら、まずは君のお墓に行ってごめん、ただいまと言おう。

 わすれ谷の入口に行く途中、人に会った。どうやら街に行く人らしい。

「こんにちは、わすれ谷へ行くひとかい?」

「はい、そうだと思います。いつの間にかここへ来ていたのです。」

「だったら・・・・・・」

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わすれ谷 東雲 @masashinonome

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