わすれ谷(2)

  カフェの開店時間は九時~二十時までだ。朝は暇かなと思っていたが、そうではなく、モーニングを食べに来る近所の、ご老人や若い人まで様々な人達が来る。なので、それなりに忙しい。常連さんらしい人達に、あら若い新しい子が入ったんだね、前の子はどうしたんだい、これからよろしくね、といろいろと声を掛けられて、正直疲れた。

 その中でも気になるお客さんがいる。僕と同じ二十代の男性客だ、いつも文庫本片手にモーニングをゆっくりと食べて帰る。彼が纏う空気が他人を寄せ付けない様な感じの雰囲気だったので、少し気になっていた。あと八十代のおばあさんだ、彼女はいつも窓際の席に座り、外の景色を見ながらコーヒーを飲んでから帰る。彼女はとても儚げに見えて眼を離したら最後、ふわりといなくなってしまう様な気がして眼が離せなかった。

 ある日、その八十代のおばあさんにコーヒーを持って行った。

「あら、新人さん?最近入ったのかしら、これからよろしくね」

「はい、この前からバイトに入っています。よろしくお願いします」

「前の子は辞めちゃったのかしらね、優しい良い子だったのに、残念だわ。ここのアルバイトは入れ替わりが結構あるから顔なじみになったと思ったら、辞めていく子も多いのよ。ここはとっても良いところなのにねえ」

「あら、新人さん?最近入ったのかしら、これからよろしくね」

「はい、この前からバイトに入っています。よろしくお願いします」

「前の子は辞めちゃったのかしらね、優しい良い子だったのに、残念だわ。ここのアルバイトは入れ替わりが結構あるから顔なじみになったと思ったら、辞めていく子も多いのよ。ここはとっても良いところなのにねえ」

 しんみりとおばあさんが言った。入れ替わりが激しいという事は勤務内容がしんどいと言う事だろうか。一抹の不安が胸をよぎった。けど、街の入口で出会った人もここは良い場所だと言っていた。辞めていく理由に何があるのだろうか。よくわからなかった。

 おばあさんは会話を終えるといつもの様に、窓の外の風景を見ながら、コーヒーをゆっくりと飲み、帰って行った。

 それから、そのおばあさんにコーヒーを出すのは僕の仕事になり、ポツリポツリと色んな話しをおばあさんはしてくれた。ある日、ここにはいつも独りで来るのか聞いたところ。

「夫に先立たれてね、晩婚だったから、子供もいなくて。もう独りぼっちなの。ある日医者に行った事は覚えているけどね、そこからの記憶が曖昧で、気がついたらここにいたの。なんでここに来たのかしらねえ」

「すみません、立ち入った事を聞いてしまいました」

 すぐに謝る自分に対しておばあさんは、ころころと笑いながら

「いいのよ、ここでの生活は快適だし、とても穏やかにすごせているわ。以前は何か絶望感や焦燥感に駆られていた様な気がするのよ、それが今はなく、好きな事をして過ごせているから良いのよ。そう、私の家の庭先に猫が遊びに来るの、私と同じおばあちゃん猫なのだけど、可愛いのよ、ついつい餌をやってしまうわ」

 何故ここの人達が穏やかに生きているのか少しわかった様な気がした。ここはやさしい場所だ、今は上手く言い表せないけれど、時間の流れがゆっくりに感じる、それに悲しい事が極端に少ない。

 そんな会話を交わした後も、お客は絶え間なく訪れる。その対応をしているとあっという間に一日が過ぎた。

 翌朝、いつも通り開店準備をして店を開けてしばらくすると、いつもの様に二十代の男性客がモーニングを食べに来た、同じ年代だからか僕はこのお客も気になっていたので、まずは挨拶からと思って話しかけた。

「おはようございます、今日も寒いですね、いつも通りモーニングですか?」

 と話しかけてみた

「はい、それでよろしくお願いします。そうですね今日も寒いですが、来週あたりから少し暖かくなってくるみたいですよ。もう三月ですからね、春は目の前ですよ」

 素っ気なく返されるかと思ったけれど、案外話しやすかった。なんせ、ここに来る人は大抵が年上のお客が大半なので、同じ年代の知人が出来た様な気がして嬉しかった。モーニングを食べた後は、いつもの様に文庫本片手にコーヒーを飲んでいたので、邪魔をしない様に気をつけた。ゆっくりとコーヒー飲み、二時間ほど本を読んで過ごして帰って行った。今度何の本を読んでいるのか聞いてみよう。そういえば何故彼はここにいるのだろうか。そのことを聞くにはまだ距離が縮まっていない様な気がして、もう少し仲良くなってからにしようと思った。

 それから、彼とも食事を出す時、帰る時に時間が空いていたら話す様になった。好きな食べ物、彼はコーヒーが好きでもブラックでは飲めずにいつもミルクをたっぷりと入れて飲むんだって事。何でも最初ここに来た時は何も食べられなくて、隣人に倒れかけたところを助けて貰ったとか、その隣人の紹介でこのカフェを訪れる様になったとか。彼はここに来る前には普通に会社員をやっていたという、僕と同じだ。でも勤めていた会社を二ヶ月ほど前に辞めて何故かここに来たらしい。でも彼は少し寂しそうなそれでいて何かを決意した様な表情を浮かべながら、もう少しでここを去る事になるかもしれない、と言った。理由を聞くと今まで、直視するのが怖かった問題に向き合う勇気が出てきたから、それに自分が行くべき道が見えてきた様な気がする、と言っていた。

 僕が最初から抱いていた違和感はこういうことだ、ここに来る人は僕も含めて皆そうだ、何故ここに来たのかを忘れてしまっている。まるで鍵を掛けた箱に記憶を閉じ込めているよう。箱を開けた時の為に何重にもわたるクッションをここで作っている、そんな感じがした。そして僕も、同じように鍵を掛けた記憶の箱を持っているのだろう。

 

 三月も中旬にさしかかった、アルバイトをしているが、こんなに穏やかに毎日を過ごす事は今までで初めてだったと思う。ここに来る前は色々と忙しかった、何故忙しかったかは、まだ思い出せずにいた。だけど、とても大切な事は確かで思い出せない事がとてももどかしかった。時々、夢の中で誰かと笑って話しをしていた、それがとても幸せでつらくて涙を流しながら朝起きた事もあった。そんな朝は決まって眼を腫らして出勤する、そうするとマスターは黙ってコーヒーを煎れてくれる。そのコーヒーはマスターが心を込めて煎れてくれたからかとても美味しく、何故か懐かしい味がした、誰かが以前もこうやって自分の為にコーヒーを煎れてくれたなと思った。何故思い出せないのでしょうという問いにマスターは今はその時では無いのだろう、いつか来る日に備えておく様にしたらいい。と言ってくれた。


 それから、いつも通り開店をして常連さんが来るのを迎えていた、当然、彼もやってきた。定位置に座りいつもと同じく本を開く

「おはようございます、何を読んでらっしゃるのですか?」

「これ?たいしたことないよ、ふと目にとまった本でね、太宰治の『パンドラの匣』だよ」

「はあ、太宰治ですか、恥ずかしいのですが僕はそう言うの全くわからないです」

 本は読む事はあるが、純文学は全くだ、聞いておいてわからないなんてとても恥ずかしかったが、彼は笑いながらこう言った

「大丈夫、僕も純文学はさっぱりだよ、ただこの本の中にある一文が気になって読み始めたんだ」

「どんな文ですか?」

「『人間は不幸のどん底に突き落とされ。ころげ廻りながらも。いつしか一縷の希望の光を手探りで捜し当てているものだ』どう?まるでかつての自分の様な気がしてね、なんか気になったんだよね」

「希望の光は見つかりそうですか?」

 そう聞くと彼は眼を伏せて、本を閉じながらこう言った

「何が正解かはわからないけれど、僕はきっところげ廻っても希望の光を見つけられずにここまで逃げてきたと思うんだ、でもそろそろ逃げるのもお終いかな。ここはやさしすぎる場所だ、一時の休憩の場所、負った傷をここで癒やす事が出来た。希望の光が見えて、自分が進むべき道を見つける事が出来れば、ここから去るべきだよ。君もそうだろう?何があったかは知らないけれど、きっと不幸のどん底に突き落とされたんだ、そして今希望の光を手探りで捜し当てようとしていた、みっともなくころがり廻りながらね。でもそれでも答えは見つからず、焦燥感、絶望感を抱えてここに来たんだろうね。これはある意味逃げでもあると思うんだ。でもみっともなくても、逃げても僕はそれでも良いと思うんだ。ころがるならとことん、逃げるなら全力でってね」

「それはどういう意味ですか?」

「君にもいつかわかる時が来るよ」

 そう言ったきり、彼は黙ってしまった。

 その二日後彼は僕が持ってきた物と同じような小さなボストンバックを持ってカフェに現れた。

 マスターは行くのかい、と彼に聞いていた。

「はい、行きます。今までありがとうございました。この二ヶ月とても穏やかに過ごす事が出来ました。そのおかげか心の整理がつきましたし、全て思い出す事が出来ました。ここに来れて良かったと思います。色んな人に助けて貰いました。これから大変な事もあるだろうけどきっと大丈夫だと思います。僕は一人きりじゃ無い、どうしようも無くなった時、誰かに頼るのも一つの手段だと思える様になりました」

 そして彼は僕の方を見て

「君も色々と話し相手になってくれてありがとう。君が無くしてしまった物は君にしか見つけられない物だ、それがつらい物でも、つらくてもその中に幸せな瞬間がきっとあったはず、その幸せな時間も一緒に殺してしまってはいけないよ。じゃあ、君の幸運を心から願うよ」

 そう言って彼は行ってしまった。


 彼が去ってしまっても、日常は続く、僕は今日も彼の言葉の意味を探しながら過ごしている。

「あら、少し元気が無いわね、馴染みの彼がいなくなってしまったからかしら」

 ぼーっと考え事をしながら仕事をしていると、いつものおばあさんに指摘されてしまった。

「すみません、考え事をしていました」

「いいのよ、悩み事かしら」

 ここで意地を張っても仕方が無い、僕は彼女に少し悩み事がある事を言った。

「人は悩みながら、前に進んでいくものだもの、たくさん悩みなさいな、悩んだだけ必ずそれは糧になるわ。独りで解決できなさそうな問題だったら、私で良ければお話を聞くだけでもできるわ、人に話すと案外、心の中の整理がつくものよ」

「ありがとうございます、そのうち独りで対処しきれなくなったらお願いします」

 ここを訪れる人達は皆やさしい、来た時にざわついていた心が穏やかになってくるのを感じていた。これで何を忘れているのか思い出せれば良いのだけれど。記憶の箱の鍵はまだ開かない、まだ早いと言われている様だった。まあ、焦らずに、ゆっくりと思い出していけばいいやと思った。それだけ、心に余裕が出来たという事だろう。

 おばあさんは身寄りの無い人達が集まって過ごすホームで暮らしているという。同じ境遇の人達が寄り添って暮らす、とても心が安まる所だそうだ。彼女が来る度に色々と話しをしていたのでまるで孫が出来た様な気がすると言われた。悪い気はしない、自分だって彼女との話をとても楽しみにしている。口調がとても柔らかく、おっとりしていて、落ち着いていて、話していてとても安心する。そんな中だった、ある日訪れた彼女は明らかに落ち込んでいてとても悲しそうな表情をしていた

「どうかしたんですか」

 心配になって声をかけた。

「実はね、いつも庭先に来ていた、猫が来なくなったの。せっかく懐いてくれていたのに。どうしたのかしらね。それに私よりもご高齢だったおばあさんがいなくなってしまったのよ、寝たきりで、どうもずいぶんと弱っていらっしゃった様なのよね」

 それを聞いて僕は背筋に冷や汗が流れる様な気がした。

「それは・・・・・・」

 続きを言おうとしたが、ここでそれを言うのははばかられた様な気がしたし、ここで声に出してしまってはいけない様な気がした、彼女のためにも自分自身のためにも。何故か、心の底にある記憶の箱がガタガタと音を立てた。なので、

「そうなんですね、心配ですね」

 としか、かろうじて答えを返す事が出来なかった。そして、彼女はいつも通りコーヒーを窓際の席で飲んで帰って行った。僕はそれ以上掛ける言葉がなくて、彼女をそっとしておくしか出来なかった。いつの間にかガタガタ音を立てていた記憶の箱はおとなしくなっていた。バイトが終わり、いつも通り二階の部屋に戻って、夕飯を食べた。それからする事が無くなった、いつもは疲れて寝てしまうのだけれど、バイトにも慣れて少し余裕が出てきた。まだ眠たくない。さて、どうしようかと思ったところに、本棚が目についた。びっしりと本が詰まっている本棚、さて何か読む物でもあるかなと前に立ち眺めてみる、ふと、目にとまった作家があった、そうこの前この谷を去って行った彼が読んでいた太宰治、なんとなしに手に取ってみる、短編の様で薄い、これなら読めるかもしれない。ぱらとページをめくってみる。最初の物語は「新郎」ゆっくりとベッドに横になりながら読んでいるといつの間にか寝ていた。

 それからというもの、明るくおしゃべりしていた彼女は段々と元気を無くしていき、最初抱いた印象の以上に、本当に眼を話した途端ふと消えてしまうのでは無いかと思った。喫茶店に来る回数も一日おき、二日おきとなり、しばらく来ない時もあり、ついにはパタリとこなくなった。三月も末にさしかかり、桜の蕾が咲く時を今か今かと待っている時期のことだった。 

 その頃からマスターに教わって僕もコーヒーを入れる様になった。挽いたコーヒー豆をフィルターをしいたドリッパーに入れる。お湯は沸騰したてではなく、少しおいたお湯が良い、まずはゆっくりと置く様にお湯を入れ二十秒ほど蒸らす。蒸らしが終わったら、コーヒーの粉の中心に小さなのの字を描く様に優しくお湯を注ぐ。心を込めて入れるとなお良いらしい。何回か練習したけど、マスターの入れるコーヒーと僕が入れる物とは少し味が違って、やっぱり経験の差なのかなと思ったりした。味が違うので。お客さんには出せず、毎朝、出勤する前にコーヒーを入れるのが日課になった。最初は水っぽかったり。粉の調節が上手くいかず、苦すぎたりしたが、練習している内にこつをつかんできた。自分としては上手く入れることができる様になったと思う、そのコーヒーの味はなぜか懐かしく感じた。

 おばあさんが来なくなってしばらく経った。僕は心配になって、以前聞いていた、彼女がいるホームを訪ねてみた。ホームの人達は突然訪れた、僕を嫌な顔ひとつせずに迎えてくれた、職員が彼女に僕が訪れた旨を伝えに行っている間、彼女はどうしているかと聞くと皆顔を曇らせて言葉を濁した。僕は言い様のない不安がこみ上げてくるのを感じた。職員が戻ってきて彼女が僕と会える事になったと言ってくれた。案内された部屋は、まるで病室の個室の様だった。ベッドがぽつんとあり、側にテレビを備え付けた物置、洗面台があるだけだった。そんな寂しい空間に彼女はいた。頬はこけて、顔色も悪い、明らかに病人という言葉が当てはまるそんな姿だった。彼女は僕を見ると、

「あら、いらっしゃい。お久しぶりね」

 ふわりと笑って言った。

「お久しぶりです。最近、喫茶店にいらっしゃらなかったので、どうされていたのか心配になって、ここまで来てしまいました。お体が悪いとは知らずに申し訳ありません」

 そう言って謝る僕に彼女は、以前見た様にころころと笑って、

「いいのよ、最近、体が弱って動けなくなってしまってね、時々、他の人が顔を見せに来てくれるけど、外に出る事が出来ずに退屈していたから貴方が来てくれて嬉しいわ、こんな弱った姿を見せてしまうのは情けないけれどね」

 笑っていてもどこか無理をしている様な気がして、ほっとけない、そんな気持ちがこみ上げてきた。このままでは彼女はここで独り寂しく過ごしていくのだろう。そして、最後には、そこまで考えたところで頭がずきんと痛んで、考えられなかった。

「僕で良ければ、時々来ますよ」

「貴方の顔を見ると何故か元気が出るわ」

 そう言って彼女はとても嬉しそうに笑ってくれた。

 それから、僕は暇を見つけては彼女の所へ通った。立っているのもしんどいと言う彼女のために車椅子を押してホームの周りを散策したりもした。僕といる時は良く笑っているとホームの人が言っていた。僕との時間が彼女の癒やしとなればそれはそれでいいなと思った。その反面、先にある事が考えられなかった、このまま彼女はどうなるのだろう、考えれば考えるほど怖くてどうしようも無かった。最近、記憶の箱が頻繁にガタガタと揺れている、あたかも思い出せと言わんばかりだ、多分箱の鍵は持っているのだろう。だけど、今はまだ開ける勇気が無かった。もう少し、もう少しと先延ばしにしている、でもそれも限界のような気がしてきた。おそらく、近々箱は開く。




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