わすれ谷

東雲

わすれ谷(1)

「わすれ谷」

実在するかもわからない、都市伝説となっている場所。何でもそこは、周りを山で囲まれており、普通の人が試しに行ってみても見つからない場所らしい。神隠しにでも遭った様に、同じ所をぐるぐると回ってしまう。唯一、心に傷を負った人達が訪れる事が出来、社会を形成し、一つの町になっているという。時々、ふらっといなくなり、いなくなったと思ったらふらりと帰ってくる人がいる事を考えれば、あながち都市伝説では無いのかもしれない。今日もわすれ谷を訪れて傷を癒やしている人がいるのだろう。


 ある晩冬の出来事だった。周りの木は冬を越え、春に向けて芽吹くのを待っている。そんな中、なにが起こったのかは自分でもよくわからなかった、なぜなら僕は呆然としながらここに来たからだ。どうやって来たのかも忘れてしまった。そんな僕の目の前にあるのは「わすれ谷」の入り口。「ようこそわすれ谷へ」と文字がはげかかっている古い看板が立っている。どうやら目的地はここらしい。小さなボストンバック一つでここに来た。吹く風の寒さにマフラーに顔を埋める。わすれ谷への道を歩いていると向かいから人が歩いてきた。その人の表情はしっかりとした物で、何かを決意して、それを実行に移そうと言う何となく力強い表情、それでいて、なにか憑きものが取れた様な表情。今の何か不安を抱えている自分とは正反対の表情の様に感じた。

「こんにちは、わすれ谷へ行くひとかい?」

 その人が、話しかけてきた

「そうだと思います。いつの間にか、ここへ来ていたのです、何かあった事は覚えているのですが。それが何だったかは覚えていなくて。ここはどう言うところなのでしょうか?僕は何故ここに来たのでしょうか?貴方はどこへ行くのですか?」

 そう問いかけると、その人は少し悲しげな表情をして言った

「僕はいるべき場所へ戻る事にしたよ。君は、そうだね何故ここへ来たのか、何を探しているのか、それは自分で見つけなければならない事だよ」

「はあ・・・・・・」

 言っている意味がわかる様でよくわからない。手を伸ばせば答えはつかめるのだろうけど、今は霞がかかっていてはっきりとはわからない。けどとても大切な事だというのは確かな様だ。

「そうだ、ここに来て行く事が無いのであれば、良い所を教えてあげる。喫茶店 Petit Repos そこを訪れると良い。そこのオーナーはとても優しい人だ、当面の生活の面倒は見てくれるはずだよ、アルバイトも探しているから、働き口にも丁度良いと思うよ」

「わかりました。ありがとうございます。これからどうしようか迷っていたところなので、とても助かります。一度行ってみます」

「じゃあ。行ってらっしゃい。ここが君にとって一時の休息の地となる事を願っているよ」

 そう言ってその人は僕が来た道を戻っていった。


 しばらく歩いていると、山に囲まれた町が見えてきた。どうやらあそこがわすれ谷らしい。 わすれ谷に着くと、住人がいらっしゃい、よく来たねと歓迎してくれた。僕には、一見普通の町に見える、特別な感じはしない。人々が働き、生活をしている、ごく普通の所の様な感じがした。みんな一様に穏やかな表情をし、笑って過ごしている。ただ、上手くは言い表せないが、何か欠けている様なそんな感じがした。

 通りすがりの人に

「喫茶店 Petit Reposに行きたいのですが、どう行ったら良いですか?」

 と聞いてみた。そうするとその人は陽気に笑って

「その喫茶店なら、この道をまっすぐ行って三つめの角を左に曲がった所にあるよ。そこのマスターはいい人でね、我々の話を嫌な顔一つせずに聞いてくれるんだ。おすすめはなんと言ってもマスターが手ずから入れたコーヒーだね」

 ありがとうございます、と礼を言って言われた道を歩いていると、喫茶店に着いた。建物はレトロ風で純喫茶と言う言葉が思い浮かびそうな佇まいだった。扉を開けてみると、カランカランと古ぼけた鐘がなって来客を告げる。中には革張りのゆったりと座れる椅子やソファ、カウンターは四、五席ほどでこぢんまりとした内装だった。アンティークのコーヒーカップやサーバーが陳列してあって。いるだけでとても落ち着く雰囲気の店だった。一目みて、ああここ好きだなと思った。

「いらっしゃい」

 とカウンターから少し低めの耳あたりの良い、落ち着いた声が出迎えてくれた。どうやらこの方が、喫茶店のマスターらしい。

「こんにちは、はじめまして。今日はじめてここに来たのですが、来る途中にあった人にここに来れば良いと聞きましたので、来ました」

 そう言えば、マスターは合点がいった様にうなずいて

「ああ、あの子の事か。あの子は元気そうだったかな。今日、ここを出て行ってしまったのだよ」

「はい、何でも自分のいるべき場所へと戻る事にしたと、僕自身も何故ここにいるのかがわからなくて。困っている時に声を掛けて貰いました。ここへ来たらなんとかして貰えるよとも言われました」

「そうか、元気で行ってくれればそれでいいんだ。じゃあ、彼からここでのアルバイトを募集している話しとかも聞いているかな?何かの縁だ、もし良ければ君にこの店を手伝って欲しいのだけど、もちろん賄い付き、住む場所はこの喫茶店の二階が開いているのでそこを使って貰って構わないよ。どうかな?」

 何も知らない土地で、住むところ、仕事にありつけるなんて幸運だ、どうしようかと思っていたのでその申し出を有り難く受け入れる事にした。

「では、お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」

「じゃあ今日は長旅で疲れているだろうから、ゆっくりと休みなさい。アルバイトは明日からにしよう」

 そう言ってマスターは二階の部屋の説明をしてくれた。説明ははっきりと言って上の空だった。今日。ここへ来た事、何故来たのか、ここはどう言うところなのかを考えるのに手一杯だった。いつの間にか説明は終わり、マスターは再び一階に降りていった。

 一人きりになって、ようやく息をつく事が出来た気がする。持ってきた荷物をとりあえず下ろして、部屋の中を見回してみる。生活に必要な最低限の家具はそろっている様だった。あと目につくのが、壁一面に備え付けられた本棚だ、びっしりと本が並んでいる。見て回っていると、お腹が鳴った。そういえば今日は朝から何も食べていない。試しに冷蔵庫の中を開けてみた。特にこれといったものは入ってなかったので、当分の食料を買いに行く事にした。

 季節は二月も終わり、寒さがだんだん和らいでくる頃だ、だけどまだ冬の名残は残っている。そのせいか風が冷たい、道行く人にスーパーの場所を聞いてたどり着いた時にはすっかりと体が冷えてしまった。何か暖かいものを食べよう、と思って買い物かごに食品を入れていく。そういえばコーヒーが無かったなと思った。コーヒー豆とそういえば砂糖も、と考えたところで手が止まった、僕はいつも好んで飲むのはインスタントコーヒー、豆から挽いて飲む事はなかった様な気がする、それに何故砂糖がいると思ったのだろう、自分はブラック派なのに。理由がわからないまま会計を済まして帰った。

 帰って、食事の用意をする。卵でとじたうどんを作った。その時片栗粉を入れてとろみを付けて、生姜を入れる。とろみを付けて生姜を入れた方が体が温まるんだよ、と誰かに教わった気がした。

 ずいぶんと遅い昼食を済ませるとする事が無くなった。アルバイトは明日からだ、今日は色んな事がありすぎたせいでちょっと疲れた、ベッドに横になると睡魔が一気に来てすぐに意識は闇の中に溶け込んでいった。

 

 どんなに疲れていても、どんなにつらい一日でも次の日の朝は必ず来る。僕は目覚ましのアラームで眼が醒めた。今日から一階の喫茶店でアルバイトが始まる、接客業は初めてだから上手く務まるかどうかわからないけど、ここで暮らして行くためだ頑張ろう。

「おはよう、昨日はゆっくりと眠れたかい」

 一階の喫茶店に降りていくとマスターに声を掛けられた

「はい、おかげさまで、ゆっくりと休む事ができて、疲れも取れました」

「じゃあ、仕事の説明をするね」

 マスターに掃除や注文の取り方、レジの打ち方などを教わった

「そういえば、ずいぶんと早めに降りてきてくれたけど朝ご飯は食べたの?」

 と聞かれた、そういえば食べていない。そのことをマスターに伝えると

「だめじゃ無いか、ご飯は活力の源、ちゃんと食べないとだめだよ、ちょっと待っていてね」

 と言って、奥に行ってゴソゴソと何やら用意をする音が聞こえた。しばらくするとマスターはサンドイッチとコーヒーを持って来てカウンターに置いた。

「あり合わせのもので作ったのだけど、良ければ食べて、顔色を見るに最近あまり食べられていない様な感じがするんだ。そんなんだといつか倒れるよ」

 確かにお腹が空いていたし、これから働くのでお腹が持ちそうに無い、有り難く頂く事にした。頂きますと言って、一口食べる。美味しかった。久しぶりに誰かと食べる朝食なような気がした。また一口。

「あ~あ、どうしちゃったのかな、食べながら泣くなんて」

 マスターの一言で、ああ僕は今泣いているのかと思った。サンドイッチが美味しかったから泣いた訳でもない。ただほろほろと涙が出てくるのだ。さみしい、さみしい、と思った。それに、とても大切な事を忘れている気がする。涙が出てくるという事は、その大切な事がとても悲しい事だったのだろうか。それ以上はわからなかった。サンドイッチは涙で少ししょっぱくなってしまった気がした。涙はコーヒーの中にもポタポタと落ち、泣きながら、鼻をグズグズ言わせて初めて飲んだ評判のマスターのコーヒーは味がよくわからなかった。けど、コーヒーを飲むと体の芯まで染み渡る様に温かくなった。

「ごちそうさまでした、美味しかったです。途中で泣いて心配をおかけして済みませんでした」

 僕は手を合わせてそう言った。

「美味しかったなら良かったよ。お腹が空いていると体が動かないし考えも良くない方向に行ってしまう事があるからね。気をつけなよ」

「わかりました、ありがとうございます」

「じゃあ、これからよろしくね」

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