ブルーグリーンジルコン~去りゆく苦しみ~
あの音がいつまでも耳から離れない。自分の人生を大きく変えた音だった。
ざわざわと人が行き来する駅の一角にピアノが据え付けられていた。どなたでもご自由にお弾き下さい、と言う事らしい。最近こういうピアノを時々見かける。道行く人がふらっとピアノの前に座っては思い思いに音楽を紡ぎ、そこでしか出会えない音に耳を傾ける。
そのピアノの前を大学生だろう男子の集団が通り過ぎた。その中の一人がちらとピアノの方に眼を向けたが、すぐに眼をそらした。目敏い友人が、どうしたのかと聞いたが、何も無いと答えたが、その中の一人が言った。
「そういえばお前、ピアノ弾けるんじゃなかったっけ。何か一曲弾いていけよ」
言われた青年、葛城は余計な事をと顔をしかめたが、その言葉を聞いた他のメンバーが期待している様な視線を向けるのでため息をついた。
「一曲だけで今回限りだからな」
と言って、ピアノの方に歩いて行った。
久し振りに弾くので軽く指の運動をする。今日は雨が降っている、丁度良いこの曲にしようと深呼吸を一つ、静かに両手を鍵盤の上にのせる。静かに曲が始まった。曲が始まると同時に周りの喧騒が静かになっていく。雨音のように鳴り響く連打音。時に優しく時に激しく鳴り響く雨音。ショパンが愛する人と聞いた雨の音。決して大きくはない音なのに、湖に石を落とした時に広がる波の様にしっとりとしみわたっていった。楽譜通りの丁寧な演奏、それだけでなく、丁度良いくらいに感情も鍵盤に乗せられていた。演奏が静かに終わると、周囲からは拍手が湧いた。
ぺこりとお辞儀をして、ピアノから離れようとした時だった。
「なあちょっと待って君、ねえ君だよ!今ショパンの『雨だれ』弾いていた君。待ってよ!」
と一人の青年に呼び止められた。
誰だと思って顔を見た瞬間。葛城の心の中に仕舞い込んだはずの記憶が箱から溢れてきた。そんな葛城の心中などお構いなしの様に相手は話しかけてくる。
「さっきの演奏凄かった。とても丁寧に弾いていたし、単なる楽譜通りに弾いているだけじゃ無くて、自分なりの解釈も入っている様だった。少しピアノをかじっています、では出せない音だったね。どこかの音大にでも通っている?」
震えそうになる手を握りしめて、笑って言う。
「素人の単なる物好きですよ。僕はどこにでもいる大学生です。では」
行こう、と仲間に声をかけてきびすをかえそうとしたが、腕をひしと捕まれて。
「俺の名前は桜川、K大のピアノ科にいるんだ。せっかく良い腕を持っている人と会えたからこれっきりにしたくなくて」
引き下がらない相手に、仲間が言った。
「俺たち、D大の理学部だよ」
「ちょっと、余計な事言うなよ」
そういう葛城に仲間は笑って言った。
「いいじゃんか、別に減るものでもないし」
そういう仲間に背中を押されて自己紹介をする。
「俺は葛城、趣味でピアノやっている程度だよ」
じゃあと言う事で、その場はお開きになった。
自宅に帰った葛城は、母の「ご飯食べないの?」の声に食べないと返答して自室にこもった。なにが『良い腕』だ、脳天気な顔をして言った桜川に殺意に近い感情がこみ上がってきた。
葛城はピアノが好きだった。ピアノの先生の母親に幼い頃から教えて貰っていた。弾ける曲が多くなるほど、嬉しかったし楽しかった。だから、いっぱい練習した。ピアノが好きだったから、将来ピアノに関わる仕事がしたい。もし叶うのであればピアニストになりたい、そう思って練習漬けの毎日を過ごしていた。コンクールにも出て、賞を貰ったし。それがきっかけで有名な先生に師事することが出来た。
そんな葛城の順調なピアノ生活が大きく変わったのは高校二年生の冬にあったコンクールでの事であった。圧倒的な技術と表現力で賞をかっさらっていった人物がいた。それが桜川だ。何でもピアノを本格的に始めたのは中学生の時からだそうだ。
その時葛城は天才とはこういう人を言うのだろうか、と思った。友だちと遊ぶ事をせず、ずっとピアノに触れ続けて、嫌いでは無かったが努力を続けてきた自分とはまるで世界が違う。こんな人に勝てるわけがない。葛城の中のなにかがポッキリと折れた瞬間だった。
それから葛城はあれだけ打ち込んでいたピアノをあっさりと辞め。普通の道を歩く事にした。勉強と音楽しかやってこなかったので、浪人をする事無く、ある程度のレベルの大学に入る事が出来た。それからは、戯れに時々自室のアップライトピアノを触る程度になってしまった。
もう二度と公共の場でピアノなんて弾くものかと硬く誓った。
それからも相変わらずの生活を送っていた。しかし、その平穏な生活が崩れる事となった。何故かというと、あれっきりだと思っていた桜川が大学に会いに来たのだ。
「よう」
と手を上げて挨拶する桜川をどれほど無視したかったか。でも桜川はいわゆるイケメンにはいる部類の人間で、理学部に珍しいイケメンがいて、地味な葛城に挨拶している。周りからの視線もあり無視できなかった。
「どうしたのですか桜川さん」
「これっきりにしたくないって言っただろ、桜川で良いよ。俺も葛城って呼ばせて貰うな」
あまり関わりたくない、と無言で言っているのに、それに関わらず陽気に話しかけてくる。
「なにか用事ですか、桜川」
「俺の家に遊びに来てよ、案外ここから近いから。お茶くらい出すよ。もっと話ししたいなと思っていたんだ」
「行きません、じゃあ」
そう言って桜川の横を通り抜けようとしたが
「いいじゃん、俺たち友達だろ」
いつ友達になったと思ったが、まあ一回行ったら相手も満足するだろう。そうすればそれでお終いだと思った。
「わかった今回だけですよ」
桜川の言うとおり、桜川の住処は葛城の通っている大学から十分ほどの所にあった。そういえば、桜川の通っているK大とD大は駅一つ分くらいしか離れていなかった事を思い出す。桜川の家は音大生向けのアパートのようで部屋ごとに防音室がついていた。桜川の家にはグランドピアノが置いてあった。部屋の前でじっとグランドピアノを見ていると、桜川に弾いてみる?と言われた。いい、と言えば遠慮しなくていいのにと言って、自分がピアノの前に座って弾き始めた。両手から紡ぎ出される様々な音たち。クラシックから最近の曲まで少しアレンジを加えてメドレーにしていた。それは指の運動だった様だ。少しの静寂を挟んで広がる音は軽やかに誰もが知っているショパンの曲。それからいくつかの曲を奏でて止まった。しばらく、二人の間に沈黙が降りる。
桜川がこちらをみて、やっぱり葛城の曲も聴きたい、と言うので。これが本当の最後と思って、ピアノの前に座る。やっぱりグランドピアノは良い。このグランドピアノの音を十分に解放できるか、ほどよい緊張感がある。ゆっくりと鍵盤に手を置き、奏でる音は緩やかな音楽、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』、難易度が高いこの曲を弾きこなす様は、長年ピアノを愛して努力してきた証拠だった。桜川は何故このレベルの葛城が音楽から離れてしまったのかわからなかった。
これっきりと思っていた桜川との仲だが、桜川に押される様な形でそれ以降も何回か会っていた。戯れに葛城がピアノを弾いてそれを桜川が聞いていたり、逆だったり。桜川が今度課題で弾く曲についてや、所属しているオケで交響曲を弾く話し、など。葛城にとっても悪くない時間が過ぎていった。
葛城の家は母がピアノ教室を開いていた。そこで幼少の頃からピアノに触れてきた姉はピアノの道に進み、今では楽器関連の会社に勤めており、音大時代の仲間と一緒に時々リサイタルを開いたりしていた。
「姉さんは、どうしてピアノの道に進もうと思ったの?」
姉がピアノを弾いている合間に聞いてみた。
「珍しいわね、あんたがそんな事を言うのは。そうね、好きだからよ」
端的すぎる答えで、真意を読もうとしていると逆に聞かれた。
「じゃあ、あんたは何でピアノを辞めたの?」
その質問に答えられずにいたら、姉はまあ中途半端な気持ちで続けられる様なものではないしね、と言ってピアノのある部屋から出て行った。
ピアノが好きか嫌いかと言われてば、好きだ。ピアノの道を行く姉や桜川うらやましいと思う気持ちはあるが、あの時の音が忘れられない。葛城はあの時思い知った、どうあがいても桜川の様には慣れないのだと。自分の音は相手にどんな風に届いているのだろう。考えれば考えるほどわからなくなってくる。でも自分はもう音楽から離れた、もう良いだろうと思う気持ちもあった。
もやもやした気持ちを抱えながらも桜川との関係は続いていった。ある日、話し込んでいたら日が暮れた。楽譜が散らかる床、明かり取りの窓からは月の光が差し込んでいる。静かな部屋。今なら弾けると思った。葛城の雰囲気が変わった事を桜川も気づいて、声をかける様な事はせず、じっと見ていた。グランドピアノの前に座る。深呼吸をして両手を鍵盤に乗せる。息を吐き出すと共に奏でる曲は、ドビュッシーの『月の光』、葛城が特に好きな曲だ。月の雫が鍵盤に落ちて優しい音を出すかの様な曲。窓から差し込む月の光の様に柔らかい音。余韻を残して鍵盤から手を離す。しばらく、葛城はそのまま動けずにいた。
「やっぱり、もったいないよ葛城」
桜川がポツリとこぼす。
「俺はね、自分がどうあがいても手に入れる事の出来ない領域の音を奏でる人を見つけてしまったんだ。かなわないと思ったよ、桜川、君にはかなわない」
「やっぱり、葛城はあの時の葛城だったんだな。俺がコンクールで最優秀賞をとった時の」
そうだよ、と俯いて自分の手を見ながら葛城は答えた。
その時、肩を強い力で捕まれて桜川の方へ視線を向けさせられた。
「なあ、葛城。逃げるなよ。自分の心と音から逃げるなよ。俺はいつでも自分の音と向き合っている」
肩に掛かる手をたたき落としたいけれども。ピアニストの指、ピアノの神に愛された手に触れるなんて出来なかった。
そう、自分は逃げたのかもしれない。圧倒的な才能を前にして、簡単に諦めて、努力する事を放棄してしまった。覚悟が足りなかったのだろう、まだ先に行けるそう思い頑張り続ける覚悟が。
桜川に言われた言葉を考えながら帰っていたのだろう、いつの間にか家に着いていた。
無性にピアノが弾きたかった。自室のアップライトではなく、グランドピアノを弾きたかった。母に許可を貰い。思いのまま、片端から弾いていく。鐘の音が重なって鳴り響く『ラ・カンパネラ』、輝きは音色を変え、重なり合い、また新たな音を生み出す、無限に広がる和音『きらきら星』、感情のまま弾く『ソナタ悲愴』。次から次へと生み出される音の波。苦しい、苦しい、ここから出たい。出て自由に音を奏でたい。聴く人も巻き込む様な音の流れだった。様子を見に来ていた、母と姉は自分の子、弟の久し振りに聴く本当の音に涙が浮かんできた。気の済むまでそっとしておこうとその場を離れた。
翌朝、葛城は母に話があると言った。その顔はかつて音を愛し、奏でていた時と同じであった。その表情を見た母は「おかえり」と言わんばかりに穏やかな表情をして頷いた。
パーティーカラーフローライト 東雲 @masashinonome
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