イエローオーソクレーズ~変わらぬ想い~

「おはようございます。えーと。井戸田さん?」

「はい、おはようございます。藤野さん。」

 何度目だろうこのやりとりは、と井戸田は思った。慣れる様でいつまで経っても慣れないやりとり。首をかしげて戸惑う様にこちらを見る藤野の手元には分厚い文庫本の様なメモ。そこにびっしりと文字が書かれているのを井戸田は知っている。いつも同じ時間に鳴る目覚まし時計を止めるとそこには『枕元にあるメモを見る事』と書いてある。そのメモには、同居人は恋人である事、昨日あった事、今日するべき事など忘れない様に書いてあるのだ。記憶が三時間しか持たないため、毎朝記憶が真っ白になる藤野にとって、このメモが唯一の情報源。後は井戸田が頼りなのだ。

「えっと、私は井戸田さんとお付き合いをしていたのは本当ですか?」

 不思議そうというか、念のための確認の為に聞いている様だ。

「うん、本当だよ。」

「いつからですか?それはメモには書いていなかったので。」

「さあ、いつからだっけね、はっきりとは覚えていないよ。」

 そう井戸田は返した。そうなのですねと藤野は望む答えが得られなくて残念そうに言った。

「じゃあ、今日の予定だけど・・・・・・」

 井戸田と藤野はメモを見ながら、今日の予定を確認する。今日は友人が会いに来る予定だ。井戸田は仕事で不在となるが、二人をよく知る友人だから大丈夫だろう。

「今日はこの写真の二人が遊びに来るからね、冷蔵庫の中にケーキが入っているから、それを出してあげて、お茶の場所は上から三段目だよ。」

「わかりました。」

 井戸田が仕事へ出かけてから、メモに書いてあるとおりに掃除などの家事をし終わったら、客人が来るまで、時間が空いてしまった。手持ち無沙汰になってしまったので、使い込まれて端がすり切れてしまったメモ帳をめくってみる。

 ●月●日 彼が、動物園に連れて行ってくれた。ふれあいコーナーでウサギに触った。可愛かった。可愛いねと言ったらそうだねと返してくれた。とても優しい笑顔で、ああ、好きだなと思った。

 ▲月▲日 今日は彼が一日お休みで、一緒に過ごした。一緒に昼食や夕食を作って食べた。とても優しくて、一緒にいて楽しくて、この人が恋人で幸せだなと思った。

 タスクの合間をぬって書かれた日記の様な物には、井戸田への気持ちが溢れていて少し恥ずかしかった。

だが、一部気になる事も書いてあった。

 ×月×日 今日は病院へ行く日らしい。なんか嫌だ。

 どういうことだろうか、病院が嫌な理由があるのだろうか、考えたところで今の藤野には検討もつかなかった。そういえば、明日は検診で病院に行くとメモに書いてあった。何か関係があるのだろうか。

 メモを読むのに集中しすぎたのだろう。時間が経つのも忘れていて、来客を告げるインターホンの音で藤野は我に返った。

「久しぶり、藤野ちゃん元気だった?」

 ドアを開けた瞬間に抱きしめられ、固まっているところに、

「駄目だろう、三浦、藤野が驚いている。やあ、ひさしぶり、元気だったか?」

 あらかじめメモを見て、今日来る相手が誰なのか知っていた。三浦と富士だ。

 二人とは高校からの友人で今も付き合いが続いている。三浦と富士は近々結婚する予定らしい。幸せそうな二人を見て、胸が痛んだのはきっと気のせいと思う事にした。

「以前に比べてずいぶんと顔色が良くなってきたね、記憶の方はどう?」

「今のところ、まだ三時間くらいしか持たないよ。」

「そうか、治療の経過次第ではもっと記憶が長くなる事もあるみたいだぞ。」

 二人は優しい、記憶の持続時間が短くて、焦っている藤野をいつも心配してくれて、励ましてくれる。もっと、記憶が持てば大事な二人の事も、何よりも大切な人の事を忘れずにすむのに。今、会っていても三時間後には忘れてしまう、自分の頭が憎かった。

 翌日、井戸田に付き添われて病院の検診とやらに行った。色々と検査をされてうんざりだった。主治医は初老のおだやかな先生だった。最近どうであるとか、記憶の持ち時間はどれくらいかを聞かれて、後の話は井戸田と先生が二人で話しをしていた。



 藤野の病気は脳の難しい病気だった。進行性のそれは、時が経つにつれて藤野の脳を蝕み、頭痛や吐き気の症状として現れていった。発見された時はかなり進行しており、手術以外は助かる道は無かったそうだ。それも成功率がかなり低い手術。たとえ成功してもどんな副作用が出るか想像がつかない、そんな難しい手術だった。

 藤野は手術する事を決めた。井戸田と一緒に居るためだった。そして手術は成功し、一命は取り留めたものの、数時間~数日の事を覚える記憶が傷害され、三時間以上前の事は記憶から消えてしまうようになってしまった。しかも、徐々に自分の生活史に関する記憶も薄れてきて、その結果、井戸田や三浦、富士のことも、自分が何者なのかも忘れてしまった。

「怖い、眠るのが怖いよ」

 寝ている間に手の隙間から砂が落ちる様に記憶が抜けているのに藤野は恐怖を感じていた。だから、眠らずにいてふらふらになっていた事もあった。そのたびに大丈夫と言い聞かせながら井戸田は寝かせていたが、本心では彼も怖かった。そして、恐れていた事が現実の物となったのだ。

「おはようございます。えーと、貴方はどなたですか?」

 このときほど神を呪った事はない。泣きそうになるのをこらえて、自己紹介をした。その時だった一冊のメモを見つけた。そのメモには井戸田の事、全て忘れてしまった時の対処法などが書かれてあった。藤野はこうなる事をわかっていて準備をしていたのだ。それから、井戸田は藤野と一緒にメモを書き始めた。それが、藤野にとっても井戸田にとっても唯一のよりどころだった。



 病院の帰り道、二人ともよくしゃべった。夕飯はなにが食べたいやら、明日は何をしたいかなど。黙っていたら、不安に押しつぶされそうだったのだ。

 夜が来て、今日が終わる。今日が終われば、藤野の記憶はリセットされる。

「寝たくない、寝たら貴方と出会った事を忘れてしまう、貴方への気持ちも忘れてしまう。そんなのつらいし、貴方にもこれ以上悲しい思いをさせたくない。」

 藤野は泣きながら言った。井戸田は困ったなと言う顔をして、一緒に横になった。落ち着かせる様に頭をなでたり、背中をトントンとあやす様にたたく。

 藤野はなおも泣きながら嫌だと言っていたが、やがて襲いかかる睡魔に勝つ事は出来ずに眠ってしまった。

「大丈夫、君が忘れてしまっても。僕は何度だって、いつだって君に恋している。大丈夫だよ。」


 そして、朝が来る。

「おはようございます。えーと、井戸田さん?」

 そう、何度でも。

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