バイカラー・アメジスト~目覚め~

カタカタとパソコンのキーボードをたたく音が静かな空間に響く。時々電話が鳴る音がするくらいだ。午前中の忙しい時間が過ぎて、お昼時は比較的暇だ。暇と行っても午前中に片付けられなかった仕事を急いで終わらせて、夕方の再び忙しい時間に備える。もう四、五年繰り返してきた毎日のルーティン。これからも変わらないと思っている。でも少し不満もある事を否定はできなかった。私がしたいのはこれではない。もう少し・・・・・・と思っていたがこの可も無く不可も無い穏やかな日々を手放す覚悟までは無かった。仕事を一通り終わらせた私はパソコン作業で凝り固まった腕や肩を伸ばした。


 穏やかに過ぎていると思っていた日常は、先輩の一言で揺らいでしまった。


「すみません、どうしてもやりたい事があるので、辞めさせて頂けないでしょうか」 


 もう少しで店長にもなるだろうと言われていた先輩が辞めてしまうらしい。聞いた所によるとやりたい事とは今やっている仕事とは全く別のことと言う事だ。誰もが反対した。今のキャリアを無駄にするのか?転職したとして上手くいくとは限らない。年齢的にも厳しいのではないのか?など、もっともな事だ。私も思った。私は先輩に聞いた。怖くは無いのかと。


「怖い、上手くいくかどうかなんてわからないのだから。でもね、やらないでいて後々後悔する方が怖いよ」


 挑戦あるのみ、上手くいかなかったらその時考える。と言った先輩はすっきりとした顔で会社を去った。


 先輩が去った後も変わらず仕事は回ってくる。出来る人だった先輩が抜けた分だけ少し負担があったけれど、それを恨む様な事は無かった。私はどうか先輩の夢が叶います様にと願った。

 そこからだった、私の中でスムーズに動いていた歯車が時々噛み合わなくなったり異音をたてる様になったのは。自分のしたい事が仕事に出来ればどんなに良いだろうか。でもそんな人って、ほんの一握りだと思うのだ。多くの人達が、やりたい事と現実の仕事は食い違っている。理想と現実のすりあわせをして生きているのだ。先輩が眩しくて眼がくらんで、それじゃあ私もなんて思っているのかもしれない。とんだ勘違いだ。私

は明日も同じようにルーティンの仕事をこなしているのだろうと思っていた。


 予想通り忙しい朝の仕事をこなし、昼に朝の残りを片付け、夜はまた忙しい。そんな日々を繰り返す毎日に負われていた。忙しすぎて退職した先輩の事を忘れかけていた。そうして二、三年立ったある時だった。先輩から夢が叶ったと連絡があった。おめでとうございますとかろうじて返事をしたが、私の心は大きく揺れ動いていた。私の中で今の仕事に対する違和感が大きくなっていた、本当にこれがやりたい事なのか?これでいいのか?とうるさいくらいにもう一人の自分が語りかけてきていた。もういい加減にして欲しかったのだ。最近は落ち着いたので良かったと思っていた。それなのに、余計な事をと思った。丁度、昇進の話しも上がってきていてようやくこの仕事で生きていくのだと思える様になったのに。


 あっという間にかつて私の心の隅にあった、これでいいのか、他にやりたい事があったのに、と言う思いが膨れ上がって心を占領するほどになってしまった。『怖い』かつて先輩が言っていた言葉を思い出した。新しい世界に踏み出すのは勇気がいるし怖い。


 どうしたら良いのかわからない時や、行き詰まった時に私が訪れる場所があった。顔にゆらゆらと蒼い光が反射する。僅かな喧騒、雰囲気を出すためかイルカの鳴き声が流れている。そう、水族館だ。一番大きな水槽の前に座ってぼぉっと泳いでいる魚たちを見る。ジンベイザメやマンタが悠々と泳いでいる。水流によって様々に形を変える鰯の群れ。人生で何か悩み事があったらここにきて暫く考え事をしていた。就職の時、仕事で上手くいかない時。今回はこれからどうしていくべきなのか考えるためにここに座っている。


 諦めるため、その気持ちの整理をするためにここに来たのだろうか。水槽の中で泳ぐ魚は自由と言われるけれども私はそうは思わなかった。だって分厚いアクリルの中だけ、本物の海とは比べものにならないほど小さな箱庭そこに閉じ込められた魚に自由なんてあるのだろうか。自由にと人は言うけれど、自由ってどんなものなのだろう。私には想像が付かなかった。


 考えれば考えるほどわからなくなってくる。でも最後は自分の覚悟なのだろうなと思った。目指すものに向かってただひたすら前に進む、途中の困難も乗り越えて自分の欲しいものを手にする。どんなことがあってもつかみ取るのだという覚悟。その覚悟が無ければ何も出来ない。私は自分にそのような覚悟があるのだろうかと自分に問いかけた。あるかどうかはわからなかった。先輩にはあったのだろうか、その覚悟が。そう考えていると、先輩に会いたくなってきた。別れ際に聞いた連絡先にメッセージを送ってみると、それは行き先不明で帰ってくる事無く連絡が取れた。会う約束をしてその時はメッセージのやりとりは終わった。当日、会った先輩は会社にいた時よりも生き生きとしていた。私のこれからの事について悩んでいる事についても真剣に聞いてくれた。話しが一通り終わって一息ついた時だった、先輩がぽつりと言った。

「私だってね、覚悟もあったけど、それよりも今やらなければ絶対後悔する、が大きかったね。あのままだったら何もせずにああやっておけば良かった、って後悔するだけじゃない?それが嫌だったのかな。するって決めて全力を注いでやっても出来なかったら、諦めはつくけど、それをしなかったら諦めきれないよね。あなたは?今思っている事はやりたい?諦めが簡単につくものだったら辞めておきなさい。どうしても諦められない、やりたいのだ、絶対やりたいのだ、と思うのであれば、しても良いと思うよ。覚悟は後でからでも嫌でもついてくる」 


 もう少し、自分とよく向き合ってから決めなさい。と先輩に言われ別れた。


 私は考えた、今までは漠然としか思い描いていなかった夢を具体的に考える様になった。かかる費用、年月、自分に可能かどうか、実現性があるかどうか、考えた。不可能ではないと知った時の喜びと言ったら言葉に現せられなかった。材料はそろった。この頃になると自然と覚悟は出来ていた。どうしてもやりたい、やらずに後悔するのは絶対に嫌だ、そう思った。

 そう決まれば後の行動は速かった。退職届を出し、お世話になった所に挨拶回りに行き、引き継ぎを行う。上司からはもったいないと引き留められたけれど丁重にお断りした。同僚は憑きものが取れた様なすっきりとした表情をしているね、頑張って、と応援してくれた。先輩にも報告した。そう、あなたが決めた事であれば何も言う事はないよ、頑張ってね。と言ってくれた。


 残務を全て終え、会社を出る。空はすっきりと晴れており、心は晴れ晴れとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る