第3話 古文書の兄妹

 この村では、村長は基本的に世襲で賄ってきた。実際に村長の任を任せられる人が、この村では村長の家系だけだった。

 村人はほとんどが農民で、教育を受けることもなく、農業に必要な知識以外は、ほとんどと言って持ち合わせていない。字を書ける人はおろか、読むこともままならない人が多かった。そんな村にあって村長の家系だけは、教育も村長としての心構えも家系として受け継がれていたのだ。

 落ち武者の事件が起きてからも、この村は他の村との関係を、ほとんど断っていた。ただ、領主からの年貢の取り立ては他の村と同様に厳しいものだった。それでもこの村は年貢を納めることに困ったことはそれほどなかった。平和すぎるくらい平和な村だった。

 村長は、

「年貢を納めるのにわが村が困らないのは、他の村との接触を断っているからだ」

 といつも話していた。

 もちろん、根拠があるわけではない。しかし、実際に他の村と隔絶されてしまったことで、農民である村人も、他の村との接触を恐れていたのだ。生まれてから死ぬまで、一度も村を出たことがなく、他の村に住んでいる人は、違う人種のように思っている人も少なくなかった。

 ただ、村の掟として厳格に、

「他の村の人と接触したり、この村から出てはいけない」

 というものはなかった。誰もが、

「暗黙の了解」

 として、各々自覚していただけである。

 さらにこの村では、

「村長が変わると、竜巻が起こる」

 という言い伝えがあった。

 竜巻が起こったからといって、誰かがその被害に遭うというわけではなく、実際に起こった竜巻に巻き込まれた人の話は伝わっていない。しかし、竜巻が起こってきたのは事実のようで、残っている古文書には、竜巻のことが書かれていた。

 その中に、一人の女性が下から舞い上がった竜巻によって助けられた話が残っているが、それが若い僧に襲われて身を投げようとした女の子孫だったと書かれている。つまりは、落ち武者の子孫でもある。

 古文書では、その話を思い入れを持って書いているわけではなかった。

「まるで他人事」

 と思えるような話になっていて、それを読んだ喜兵衛は、

「あれ?」

 と疑問に感じていた。

「ということは、この落ち武者が書き始めた古文書を引き継いで書いている人は、落ち武者の世襲ではないんだ」

 ということになる。

 喜兵衛は、古文書を読み進んでいくうちに、自分の頭が次第に柔軟になっていき、今まで生きてきた世界が本当に狭い範囲でしか考えることができなかったという事実を受け入れていた。

 それは古文書の世界に入り込んでいるからであり、気の遠くなるような月日を費やして作成してきた内容を、たった数日で読み込んでくるのだから、頭の中が柔軟になっても当然だと思うようになっていた。

 しかし、逆も言える。

 何十年も費やして書かれてきたものを、一気に味わっているのだから、点ではなく線で捉えた時、実に薄っぺらいものであるということを自覚していなかった。

 柔軟でありながら薄っぺらいということは、そこには「隙」のようなものが存在し、穴だらけの精神状態だということに気づいていなかった。

 事実と目されていることだけを注視して、それ以外の発想は皆無である。本当は頭の中が柔軟になってきたのだから、もっと別の発想が生まれてきてしかるべきなのに、それがなかった。

 それは、なまじ古文書の内容に集中してしまっていることで、時系列に対しての感覚がマヒしている。先を急ぐあまり、書かれている内容の間が、一定にしか思えていなかったのだ。

 つまりは、一年後のことであっても、三十年後のことであっても、味わっている感覚は、同じ期間でしかないのだ。

 古文書という本の世界に書かれていることなので、その感覚は当然のことであるし、書いた人間も同じかどうか、今となっては分からない。同じ人間であっても、実際に何十年も生きてきたという歴史が生々しく自分の中に刻まれているのだから、時系列の発想は薄いのかも知れない。

 読んだ人間とすれば、それ以上に感覚がマヒしていることだろう。本当であれば、時系列を大切に感じて読まなければ、致命的な誤解を抱いたまま読み進んでしまったり、大切なことを見逃したことで、

「歴史が何を伝えたいというのか?」

 ということが分からないままになってしまう。

 喜兵衛は最初に古文書を見つけて中身を読み始めた時、

「歴史的な重みを感じる」

 と、柔軟ではなかった時であるにも関わらず、読み始めるにあたっての気持ちはしっかりしていた。

 それは、その時、喜兵衛自身が「謙虚」な姿勢で、古文書を見ようとしていたということの証でもあった。

 それでも喜兵衛は古文書を読みながら、

「この話の内容には、いくつかの共通点や、定期的な法則のようなものがある」

 ということに気づいていた。

 その一つが、

「村長の世襲は昔からあり、村長が変わった時には、竜巻が起こっていたんだ」

 ということだった。

 竜巻というキーワードは、ずっと頭に引っかかっている。実際に最初、この村を離れる前から、竜巻が起こるということを意識していた。

 理不尽とも思えた言い伝えで、

「男は、必ずこの村の女を嫁に迎えなければいけない」

 というものがあったが、

 その時、頭のどこかで竜巻が起こった現象が頭に焼き付いていたような気がした。

 別に、竜巻の話を他の誰かから聞いたわけではない。村の女性を頭に思い浮かべると、なぜか瞼の裏に竜巻が舞い上がるのが見えていた。

 舞い上げているのは女の身体であり、どうして竜巻に舞い上げられているのか、そして、その女が最後どうなったのかまではハッキリしない。

「きっとハッキリさせてはいけないんだ」

 という思いに駆られていた。

 その思いを村を離れてから忘れていたが、古文書を見ることで思い出してきた。

 この古文書には、結構曖昧なところが多かった。途中の内容には引き込まれているのに、最後にはどうなったのか、ハッキリと記されていないのだ。古文書を書いた人にも分かっていないのか、それとも、曖昧にすることに何か意味があるのか分からない。

 しかし、想像としては後者だと思っていた。

 確かに最初は、結末が分からなかったことで曖昧にしか書けなかったが、そう何度も結末が分からないということが続くとは思えない。

 そう思うと、本当は曖昧にしたくないのかも知れないが、

「ここでハッキリと書いてしまうことで、何かの災いが起こるのではないか?」

 と、古文書製作を継承した人は感じたのかも知れない。

「ハッキリさせないことが、暗黙の了解」

 そんな掟のようなものが、この古文書には存在していて、しっかりと継承されているのかも知れない。

 そんな中で、竜巻が発生したことに対しては頻繁に書かれていた。

 しかし、これも具体的なものではなく、形式的に発生したことを伝えているだけだった。それでも、ここまで頻繁に書かれていると、

「何か意味があるのではないだろうか?」

 と感じたとしても不思議ではない。

 しかも、それが村長の交代時期に必ず起こっているということを見ると、ただの偶然で片づけられるものではないはずだ。交代した村長が、その竜巻の存在を知っていたかどうか、それも曖昧だった。

「新しく就任した村長には分かっているのかな?」

 と思うと、就任時には感じても、まさか、村長が交代するたびに竜巻が起こっているなど考えも及ばないだろうから、交代した後に竜巻は起こっていないと考えるのが普通ではないだろうか。

 喜兵衛は、この村から離れた唯一の人間で、しかも戻ってきた。村を離れている間は、村の記憶がなかったが、戻ってくると、思い出したように思えた。

 ひょっとすると、村を離れた時、本当にすべての記憶を失っていたのか定かではない。何しろ、記憶の元は喜兵衛でしかないのだから、喜兵衛が記憶を思い出した時、それまでに持っていた記憶が本当のことなのか、ハッキリとしているわけではない。

 村に伝わる古文書を見ながら、それまでの記憶と重ね合わせているのかも知れないが、村から離れていた自分がこの村に戻ってくることで、村の中から見ている光景と、一度離れてしまって戻ってきた時に感じた光景では、かなりの違いがあったことだろう。

 それが「どんでん返し」のイメージに繋がったのだとすれば、村を出たり入ったりする時には、必ず何かの力が働いているのではないかと思えた。

――偶然に見えることも、本当は偶然ではないのかも知れない――

 そう感じていた。

 この村には、以前から伝わっている特産品があった。それは、田畑で育てることをしなくても、普通に生えている草から出来上がる料理であった。

「他の村では、まさかこれを食物用に使用できるなど、想像もできないだろう」

 というほどのものだった。

 ただ、決しておいしいものではない。ただ、食べ物に困った時は。それを食べていれば生き延びられるというようなもので、そこには生きていくための知恵があった。

 古文書には、そのことも記されていた。

 その食物の発想を持ち込んだのは、落ち武者だった。そういう意味では、純粋に村の中で起こった作物というわけではない。武士が食べ物がなくなって、それでも生き延びなければいけない時の知恵だとされていた。

 ただ、他の村では決してこの食物が食べられるなどということを知らないだろう。なぜなら、この食物の扱いを間違えると、毒になってしまうからだ。落ち武者は、自分が生き残るために、この村に生えているその草を食べていた。そして、落ち武者を匿った女がその製法を落ち武者から聞き、間違いのないように、落ち武者に食べさせていた。

 落ち武者がなかなか見つからなかったのは、女が落ち武者のために、せっせと食料を運ぶような真似をしなかったからだ。家から持っていかなくても、道端に草は生えている。食物にもならないものを集めていたとしても、誰が女のことを意識するものだろうか。

 女にとっては、この食物は落ち武者の命を繋ぎとめておくだけではなく、精神的な繋がりとして大きなものであることを意識していた。この草は食物にもなれば毒にもなるが、薬草としても使えた。

「毒というのも、ある意味、薬ということでもある。背中合わせであっても、しかるべきではないか」

 と、女に言い聞かせていた。

 落ち武者は、そのままずっと女に匿われてもいいと思っていた。女もこのまま落ち武者との異様な生活を止めたいとは思っていなかった。奇妙な関係ではあるが、今まで生きてきた人生を振り返った時、

「一体、今まで自分は何をしてきたのだろう?」

 と、落ち武者も女も、思うようになっていた。

 落ち武者の家は、下級武士の息子で、禄もほとんど貰えていない状態で、いつ死ぬか分からない最前線で、足軽としての「その他大勢」の武士を演じてきた。実際に、味方が破れてしまい、散り散りバラバラになってしまった仲間は、

「どうして、戦は終わったのに、逃げ回らなければいけないんだ」

 と思っていたことだろう。

 上級武士ならいざ知らず、名もない足軽なのだから、何も目くじら立てて探さなくてもいいような気がする。なぜそんなに、

「落ち武者狩り」

 が行われているのか、逃げている者たちに分かるはずもなかった。

 落ち武者を差し出すと、戦勝者から褒美を受けられるという。自分たちの首は賞金なのだ。

 村人にとって落ち武者は、賞金稼ぎの種でしかない。落ち武者を匿ったとしても、損こそすれ、得になることは一切ない。

 しかも、匿えば村の存続も危うくなる。村長を始め、地主や小作人までもの村人全員が、落ち武者の敵なのだ。

 そんなことはすべて分かっているはずの女なのに、どうして落ち武者を匿おうと思ったのか、それは女の血に関係がありそうだった。

 女は何不自由もなく、庄屋の娘として育った。

 そんな彼女には兄がいた。兄は少し、考えが浅いところがあった。思い込んだことは本能に任せるまま行動する方だった。二人とも甘やかされて育った。庄屋は子供たちの育成に、

「爺や」

 と呼ばれる人をつけた。

 それぞれの子供に一人一人であった。

 その爺やというのも、兄弟だった。爺やと言っても、まだ五十過ぎの初老の男性で、この時代の、いや、特にこの村では五十歳をすぎていれば、立派な老人なのだ。

 兄の方を兄弟の兄がお世話し、妹を弟の方がお世話するようになっていた。

 爺やの兄の方は、おっとりとした性格で、弟に対して逆らうことができなかった。逆に弟の方は、そんな兄に対して遠慮することもなく、厚かましさをあらわにするかのように生きてきた。

 元々、この兄弟は農家の生まれで、庄屋の先々代が、聡明な兄弟を見て引き取ったのだ。農家には、それなりに大金を渡し、生活にも困らないように便宜も図っていた。二人の親からしてみれば、

「渡りに船」

 であり、願ってもない話だった。

 庄屋に引き取られた時の兄弟は、二人ともまだ十歳にもなっていなかった。庄屋の家には、その頃はまだ子宝に恵まれておらず、もし子供ができなければ、二人を養子とし、兄弟のうちのどちらかに庄屋を継がせ、どちらかにその補佐をさせるという意味合いを込めて、引き取ることにしたのだ。

 しかし、庄屋の家に子供が生まれてしまった。もちろん、庄屋の家は血の繋がった子供に継がせたい。かといって、引き取ってしまった兄弟を、ぞんざいに扱うわけにもいかない。

 引き取った兄弟は、幸いまだ子供だったので、後継ぎなどという意識はなかったに違いない。

「僕たち貧しい家に生まれた兄弟を引き取ってくれて、家族も苦労しなくてもいいようにしてくれた優しい家」

 という思いが強かった。

 だが、兄弟が次第に性格が分かれてきたのは、庄屋の家に子供が生まれてからのことだった。弟の方が最初に自分たちの運命が変わったことを気にし始めた。うかうかしていると、自分の立場がこの家ではなくなってしまうという思いに駆られるようになっていた。

 農家に育った二人は、兄の方は母親に性格が似たのか、あまり深く考えたり、細かいことに悩んだりしないようだった。弟の方は父親に似て、いつも何かを考えているような性格で、ひとたび状況が変わったのなら、すぐに臨機応変に対応できるように考えていた。父親は、いつでも、

「自分が武士になれるにはどうしたらいいか?」

 ということを考えていたという。

 本当は、息子二人が庄屋に引き取られることにならなければ、武士にしたいと思っていたくらいだった。庄屋の話を、

「渡りに船」

 と思っていたのは母親だけで、言葉に出すことはなかったが、父親の心境としては複雑なものだった。

 もし母親がもう少し積極的な女性であれば、兄弟を庄屋に明け渡すことはしなかっただろう。おっとりしているように見える母親だが、父親に対していつも睨みを利かせていて、うまくコントロールしているのだった。

 実は、農家の二人の性格は、庄屋の家庭と同じだった。

 父親がしっかりしているように見えるが、実は後ろから母親が糸を引いているような関係だった。この村では、どの家も他の家を意識しているわけではないが、皆同じような夫婦関係の家庭だというように、古文書には書かれていた。

 喜兵衛は古文書を見ながら自分の育った家を思い出してみると、

「なるほど、確かにその通りだ」

 と感じるのだった。

 だが、この二人の兄弟は、まだ小さな頃に農家から庄屋に引き取られた。親の本性に気づく前に家を離れたので、その性格は、

「生まれ持った本能」

 が息づくようになっていた。

 つまり、二人はそれぞれの正反対の性格を持ったまま、根本的な性格では、他の人の影響を受けずに育っていたのだ。

 正反対の性格の爺やに育てられた二人は、お互いに兄妹であって、兄妹ではないという意識を持っていた。特にその思いが強かったのは兄の方だった。

 兄と妹は、年齢差は一つしかなかった。妹は兄を年齢相応に、

「一つ違いの兄」

 と思っていたが、兄の方は、

「だいぶ年下の妹」

 という意識を持っていた。

 もし兄妹が逆だったら、どうだろう? 姉と弟であれば、お互いに相手に対しての年齢差は違った感覚になるに違いない。

 男と女では、大人になるまでは、女の方が成長が早いと言われていることを、喜兵衛は知っていた。だから、本当であれば、お互いに年齢差を感じることがないような気がするのだが、この二人の兄妹は違っていた。それはきっと、

「爺や二人の性格が、正反対だったからではないだろうか?」

 と思うようになっていた。

 各々が、本能のままに育ってきたことは共通しているので、自分がついた相手にも、

「自分の本能をまずは曝け出して、そこから、どう進んでいくのかを見極める」

 と考えるようになっていた。

 さすがにお互い正反対の本能を持っているからと言っても兄弟である。本能は違っても、考えることは同じなのだ。

 兄は、爺やに出会うまでは、自分の性格を押し殺していた。口数も少なく、自分の意見をハッキリというようなことはなかった。家族はそんな兄に対して、決して不快な表情は見せなかった。そのために、自分のやることなすことがすべて認められていると感じた兄は、次第に疑心暗鬼になっていた。

 自分に対してのまわりのリアクションのないことが、これほど自分を不安にさせるのかということに、その時の兄は気づいていなかった。

 妹の方はというと、それまで順風満帆に育ってきたのだが、爺やの性格を見ていて、

「初めて出会った、自分とは考えが平行線となる相手だ」

 と感じていた。

 口ではいいことを言っているが、話を聞いていると、言葉の端々で、

「自分さえよければそれでいい」

 という考えが頭に浮かんでは消えているのが見て取れた。

 掴みどころのない性格で、何を信じていいのか分からない。そんな人が自分さえよければいいという考えを持っていることが、信じられなかった。

 ただ、妹はそんな爺やに新鮮さを感じていた。確かに性格は、

「交わることのない平行線」

 を描いているが、

「自分に柔軟性があれば、理解できないことはないのかも知れない」

 と、感じるようになっていた。

 その頃の兄とは、ほとんど会話をしなくなっていた。兄が十五歳で、妹が十四歳になっていた。

 お互いに会話をしないのは、それぞれに迎えた思春期が、今までは兄や妹としてしか見えていなかった目に、

「オトコとオンナ」

 という意識を植え付けていた。

 特に兄の方は、まわりへの疑心暗鬼から起こる不安感が、

「意識してはいけない」

 と、余計に思わせ、思春期における異性への興味よりも、疑心暗鬼が強くなったせいで、妹を遠ざけるようになっていた。

 逆に、思春期を迎えたことで、兄は身構えてしまった自分を感じた。まわりの人が信用できないというよりも、自分のことが信用できない。まわりはそんな兄の考え方が分からずに、上から覗き込もうとする姿勢に対して、兄の自分への不信感は、余計に増していくのだった。

 兄がまわりに気を遣うようになったのは、それから少ししてのことだった。家族としては、

「やっと、大人になってくれたか」

 と思うようになっていたが、実際には不安感が募って、まわりに気を遣っているというよりも、薄氷を踏む思いだったに違いない。間違って足を踏み出せば、氷が割れて冷水の中に落ち込んでしまう。疑心暗鬼が不安に変わり、不安が結局はまわりの人の真似をすることで少しは和らぐという結論に落ち着いたのだ。

 だが、兄の気持ちに安らぎはない。人の真似をすればするほど、自分が分からなくなってくる。そのことを爺やは分かっていたが、何も言えなかった。

 次第に孤独感を感じるようになった兄は、妹に対しての目が、自分の中で妄想を抱いているように感じられるようになっていった。

 妹を見ていると、子供の頃に抱いた思い出が思い出されてくる。

 一度、近所の子供に妹がイタズラされているのを見たことがあったが、その時、助けなければいけないと思いながらも飛び出していくことができなかった。

――俺はこんなにも意気地なしなんだーー

 と自分に言い聞かせ、そのことを爺やにだけ話したことがあった。

「それは仕方ありません。まだ坊ちゃんは小さいんですし、相手は人数がいたんでしょう?」

「うん、四人いたんだ」

 本当は、普段から自分を苛めていた相手だったんだが、そのことを爺やには言わなかった。咽喉まで出かかった言葉を飲み込んだのは、自分が苛められているということを知られたくないという思いが強かったからだ。

 苛められていることを知られると、

「どうしてもっとしっかりしないんだ」

 と言って自分への教育が厳しくなるか、あるいは、

「爺やが、ここは何とか纏めてあげよう」

 と、子供の喧嘩に親が出てくるようなことになると、余計に話が拗れてしまうことになりかねないと思ったからだ。

 波風を立てたくないという思いから、余計なことを口にして、騒ぎになるのを嫌ったのだ。

 子供の頃に苛められていた少年が、無口になってまわりの誰にも知られたくないと思うのは、

「煩わしいことをわざわざ起こしたくない」

 という思いが強いからで、もし、騒動が大きくなれば、発端である自分たちだけの問題ではなくなり、子供の思ってもみなかった方向に話が向いてしまい、いつ何時、自分に災いが降ってくるか分からないという思いからだ。

――じめられっ子というのは、まわりが考えているよりも、結構先を見ているのかも知れない――

 その思いは、いじめられっ子だけにしか分からないものだった。

 そんないじめっ子たちの好きなようにされている自分の妹を見ていて、

「可哀そうだ」

 という思いとは別に、胸の奥にドキドキしたものが潜んでいた。まわりの喧騒とした雰囲気は耳鳴りとなって襲ってきて、次第に音が吸い込まれたようになってきた。薄い透明な空気の幕が張り巡らされていて、こちらからは相手が見えるが、向こうからは見えないのではないかとすら思えていた。

 相手は気づくはずがないとは思いながらも、必死で身を隠している自分は、身を隠すことで余計に誰にも知られてはいけない秘密を握ってしまったようで、余計に胸がドキドキしてしまっていた。

 妹が辱めを受けているのを見て、

「助けなければいけない」

 という思いと、

「助けるために飛び出して行っては、今度は自分も妹も、どんな報復を受けるか分からなない」

 という思いとが頭の中で交錯した。

 戸惑っていながら、時間だけが去っていくと、飛び出すタイミングを完全に失ってしまった。

「もし、ここで飛び出せば、妹はあらわな姿を俺に見られたと思って、これから先、二度と口をきいてくれないかも知れない」

 そんなことはできなかった。妹に兄としての尊厳を認めてもらえなければ、ここまで生きてきた意味も、そしてこれから生きていく意味もないとさえ思えていた。自分が妹のことを愛してしまったことに、その時、気が付いていた。

 それだけに助けに飛び出せない自分が情けなかった。もう、自分のことを主観的に見ることはできなくなっていて、自分のことであっても、他人事のようにしか思えなくなっていたのだ。

「いや、誰か助けて」

 妹は必死になってもがいている。声も荒げていたが、そんな妹をまわりの連中は、ニヤニヤ笑って見ているだけだった。

 思春期にも満たない子供のやることなので、理性のようなものはなかった。あるなら、最初からイタズラなど考えるはずもないだろう。手加減など、まったくなかった。

 子供たちのすることだから、大人が抱く猥褻な気持ちが頭をもたげているわけではないだろう。せめて、抵抗しようとする相手を羽交い絞めにして、抵抗しているのに、どうにもならない相手を見て楽しんでいる程度だ。

 いや、それがもっとも罪作りなことである。苛めている連中に、相手のことを考えるなどという思いがあるはずもない。そんなことは苛められている方にも、苛めている方にも分かっていることだった。

 それは、彼らに余裕がないからというわけでもなかった。余裕があるかないかということも分からずに、相手が必死になって拒んでいて、懇願している姿にゾクッとしたものを感じる。いわゆる

「サディスティックな感情」

 というやつである。

 彼らは、相手が必死になってくれなければ、気持ちは萎えてしまうだろう。苛めている行為そのものよりも、相手が懇願し、必死になって逃れようとしている姿を見ることが、快感であるに違いない。

 それはまるで虫を苛めている姿に似ていた。

 好奇心いっぱいの目は、無邪気に見えるが、その実やっていることは、虫を楊枝で突き刺したり、足や首をちょん切ったりしているのだ。

「天使の顔に悪魔の心」

 まさしく、そんな感じだった。

 武士が戦で相手と戦っているのとはわけが違う。相手が人間でなければ、別に悪いことをしているという意識はないのだ。

 その顔が無邪気なだけに、そう考えると、いたたまれなくなってしまう。

 それが普通の考えではないだろうか?

 もし、虫を苛めている子供たちを他の子供が見ていたとすればどうだろう? 残虐性に身を震わせるだろうか? それとも、自分もその輪の中に入ってみたいと考えるでろうか? 

 普通の子供であれば、残虐性に身を震わせるだろうと、以前、虫を苛めている場面を陰から見ていた時、兄はそう感じた。

 しかし、目の前で苛められているのが実の妹、好きになりかかっていることを自分でも自覚していたはずなのに、どうして、苛められているのを見て不快に思うどころか、胸がドキドキしてきてしまうのか。分かるはずもなかった。

 そんな兄が、そばから見ていたことに、妹は途中で気が付いた。

 妹の方としても、ここで兄に自分が分かってしまったことを気づかれたくないという思いがあった。

 これも、兄の気持ちと似たところがある。

 下手に騒ぎ立てて、恥ずかしい姿を見られたと思わせたくないということ。そして、心のどこかで、

「私を見て。お兄ちゃんになら、いいわ」

 という思いがあることに気づいていた。

 しかし、そのことを絶対に兄に知られてはいけない。知られてしまうと、自分の知っている兄ではなくなってしまうと思ったからだ。

 今ここで兄に覗かれていることに関しては嫌だとは思わないくせに、自分が見られたいという感情だけは、絶対に知られたくはなかった。

「私って、兄のことが好きなのかしら?」

 と、立場こそ正反対なのに、行き着く先は同じ感受性であった。そのことを苛められている本人である妹は、身体全体で感じていた。

「これって、女の悦び?」

 一瞬ではあったが、妹は感じた。妹のまわりを見る目がまったく変わってしまったのは、そのことを感じてしまったからだ。

 しかも、まわりにいるのは、憎きいじめっ子たちである。これから先、自分がどのように振舞えばいいのか、まったく分からない。ただ、そのことを考えることができるほど、苛められながら、精神的に落ち着きを取り戻していたのは確かだった。

――いつまでも私の身体を貪って楽しんでいるようだけど、こっちはさっさと冷めてしまったわ――

 と、抵抗する気も失せていた彼女は、そう考えていた。

「ついに観念したか」

 と、男たちは、彼女がすでに自分の気持ちを先の方に持っていっていて、彼らの見えない寸前まで来ているというのに、まだ同じところにとどまっていた。

「本当にバカだわ」

 と男たちを見る目は冷静を通り越し、冷徹になっていた。

「今なら、この男たちを殺しても、罪悪感の欠片もないかも知れないわね」

 と感じていた。

 様子を見ていた兄も、妹が完全に冷めてしまっているのを感じていた。

 男たちの姿が無様に見え、情けなささえ感じられた。

 ただ、妹を見ていると、ここまで冷徹な雰囲気になるなど、想像もできなかった。

 黄昏たように、遠くを見る目に哀愁が漂い、さらに今まで見たことのないような威圧感を感じた。しかし、

「この威圧感、これが本当の妹の姿なのかも知れない」

 と感じた。

 最初に感じた。ゾクッとした感情よりも、今はゾッとくる感情の方が強くなった。気持ち悪く思えたが、

「本当に助けなくてよかったのだろうか?」

 助けられなかった自分に対して、情けなさを感じていたが、この表情を見てからその後は、

「助けなくて正解だったのかも知れない」

 と思った。

「こんな妹の顔、見たくなかった」

 という感情が表に出ているはずなのに、どうして助けなくて正解だと思ったのか、そこには、

「相手が妹だ」

 という感情があったからだ。

 これがもし血のつながりのない女の子だったら、女の子が妹と同じような冷徹な表情になったとしても、助けなくて正解だったなどとは思わないだろう。

「あれは妹だから、冷徹に見えたのかも知れない」

 と思った。

 他の女の子だったら、その場から立ち去っていたに違いないと感じたからだ。

「金縛りに遭っていたのか?」

 と思ったが、どうやらそうでもないようだ。確かに心臓はドキドキしていたが、動こうと思えばいくらでも動けた。ただ、その時に、

「逃げる」

 という感情は存在しなかった。その場にじっとしていなければ、後は飛び出すかどうかだけのことだった。

 妹が羽交い絞めにされている場所までの距離も微妙だった。飛び出していったとしても、相手は態勢を立て直して、こっちに向かってきたり、あるいは、何もせずに逃げ出すに十分な距離だった。

 こちらに向かってくれば、勝ち目はない。

「飛んで火にいる夏の虫」

 とはこのことだ。

 逆に、相手が何もせずに逃げ出せばどうだろう?

 その場に取り残された妹に、何もしてやれない兄貴である。まず、間違いなく気まずい雰囲気に包まれるだろう。そしてその気まずさはその時だけのとどまらず、二人の間に致命的な溝を作り出すかも知れない。そのことが兄には一番恐ろしかったのだ。

「いまさらながら、子供の頃のそんな話を思い出しても仕方がない」

 と、兄は妹に、

――自分は何も見ていない――

 という確固たる態度をとり続けていた。しかし、それは大人になっていくにしたがって、どんどん苦しくなってくるものだった。

「時は繰り返す」

 という言葉を知ってか知らずか、身をもって知る時がやってくるなど、兄には想像もつかなかった。妹の方は、子供の頃のあの時から、どうしても身構えてしまうことが身についてしまったので、自分の中に残ってしまったトラウマを、うまく操作できないまでも、表に決して出すことはなかった。

 妹は、十四歳になってから、急に女らしく感じられるようになった。それを兄は、

「誰か好きな人でもできたのか?」

 と思うようになった。

 最初は、ちょっとした気持ちの綻びに過ぎなかったが、次第に大きくなっていった。最初に綻びだけで終わっていれば、自分の本性に気づかなかったのかも知れないが、その時に感じた兄の思いは二つだった。それは、

「妹への恋心と、嫉妬」

 だった。

 正反対の感情ではあるが、

「長所と短所は紙一重」

 というではないか。

 紙一重というのは、正反対という意味も含んでいる。それが、この村にその後から伝わる「どんでん返し」というイメージに繋がってくるなどということを、知る由もなかった二人だった。

 兄は、子供の頃、妹が苛められているのを見て、どうすればよかったのかということを、ずっと悩んでいた。

 あの時は金縛りに遭ってしまったかのように身動きが取れなかった。そのために、見たくないと思うほどの冷徹な妹の顔を見る羽目になってしまった。

 しかし、もしあの場面で立ち去ってしまっていれば、妹を見殺しにしてしまったという自責の念に押し潰されていたことだろう。何とか自責の念に駆られずに済んだのは、良きも悪きも、

「最後まで見守ることができた」

 という気持ちがあったからだ。

「助けに飛び出さなくてよかった」

 という思いは、ずっと持っていた。その思いは大人になっても変わらない。そういう意味では、その場を逃げ出すことをしなかったのは、間違いではなかったと思っている。

 しかし、見たくはなかった妹の冷徹な顔、兄には何年経っても消えることのないトラウマになってしまっていた。

 トラウマは、最初はどんどん大きくなっていった。だが、トラウマも頂点まで達したのだろうか、それ以上は、その上に天井があるかのように、上に行くことはなかった。自分の成長が天井に近づいてくるにしたがって、妹に対しての目が落ち着いてきたのを感じていた。

 しかし、妹が十四歳になり、急に女らしさを感じられるようになると、自分の気持ちがそわそわしてくるのを感じた。

「妹は綺麗になった」

 と感じることで、兄として嬉しいという気持ちよりも、

「そのうちに、他の男に」

 という思いがおっかぶさってきた。

 ある日、妹が山に入り、滝の近くまで来た時、少し広くなったエリアの端の方で腰を下ろしていた。

 その日はたまたま隣村まで出かけていた兄が帰ってきた時、妹が山に入っていくのを見かけた。

 この頃はまだ、隣の村と交流があり、兄だけではなく、村の男たちは、隣村に時々は出かけていた。隣村と言っても山を二つ越えなければいけないところにあり、ちょっと行ってくると言っても、一日仕事だった。

 隣村から帰ってきた頃は、昼をだいぶ回っていた。滝のある山の中は、日差しがあまり入るところではなく、滝の存在もあって、湿気がひどく、あまり長居をする場所ではなかった。

 兄は知らなかったが、妹は時々、滝のあるこの山に入っていた。湿気が多いせいか、村では見られない珍しい植物が生えていた。きのこの類も豊富で、ただ、中には毒性のあるものもあるので、よほど気を付けなければいけなかった。妹は、珍しい植物を見ていると、昔の嫌なことが忘れられるという思いがあり、時々やってきていた。滝の轟音に、風の強さに惑わされることのない、生暖かい湿気を帯びた空気。そこに何かしらの思い入れがあった。

 この空気は、女性を淫靡な気持ちにさせるもののようだ。そして男性にも同じ効果があるが、男性は理性で何とか抑えることができるかも知れない。しかし、ひとたびタガが外れると、狂ったようになるのは男性の方かも知れない。

 だから、ここに来るのはいつも一人だった。もし、他の女性が一緒にいれば、お互いに淫靡な気持ちになり、身体を貪りあうかも知れない。妹には、他に中のいい女性がいたが、彼女とは決してそんな関係になりたくなかった。下手をすると知られたくない過去の忌まわしい思い出を思い出さなければならなくなり、そうなると、自分がどのような精神状態になってしまうか、想像もつかなかった。

「ここは私だけの場所」

 自分を癒すことができるのは、自分だけしかいないという思いもあり、そんな心境に入らせてくれる場所がここだった。他に誰か人がいれば、邪念が入ってしまい、自分の世界に入ることができない。自分の世界に人が入り込んでくるのは、無理やりでしかないと思っている妹にとって、

「もう無理やりという言葉は二度と使いたくない」

 という言葉を身に刻ませるような断腸の思いだったに違いない。

 兄は、妹が山に入っていくのを見て、最初は誰だか分からなかった。正直妹だとは思わなかった。なぜなら、子供の頃にひどい目に遭った妹が、一人寂しい山の中に入っていくなど、考えられないと思ったからだ。

「一体、誰なんだろう?」

 興味本位で近づいてみた。

 後姿だけで判断できるほど、山に入っていく妹を見た時は、かなり距離が遠かった。かすかに見えた姿が女性だと分かったのもすごいと思うほどの距離だった。

 山に入っていく女の姿を追いかけて近づいてくると、あっという間に山に入る小さな道に辿り着いた。

「俺って、こんなに歩くのが早かったのかな?」

 と思うほどで、近づいてみると、

「こんなところがあったなんて、ずっと今まで知らなかったな」

 隣村に行くには、必ずここを通るので、結構頻繁に通っていたはずだ。確かに分かりにくい道ではあるが、横に逸れる山道を知らなかったというのは、少し迂闊だったのではないだろうか。

 山に入っていくと、鳥がバタバタと羽根の音を震わせて、甲高い奇声を上げて飛び立っていった。

「おや?」

 その時に、男は何か不思議な感覚を感じたが、それが一体どこから来るものなのか分からなかった。

「気持ち悪いな」

 と思ったが、とりあえずは、その状況に身を任せるしかなかった。

 下から鳥が飛び立って行ったのを確認しようと上を見上げると、一本ずつがまっすぐに天に向かって伸びている細い木が、葉を生い茂らせながら伸びている。下から見ていると、上に行くにしたがって狭まっていくような錯覚を感じるので、一気に方向感覚がなくなってくるのを感じた。

「俺は今、どこから来て、どっちに行こうとしているのだろう?」

 急に分からなくなった状況を思うと、

「上なんか見るんじゃなかった」

 と感じた。

 そういえば、山には人を迷わせる魔物がいて、

「入り込んではいけない人間が入り込むと、二度と出られない」

 というような話を聞いたことがあった。

 急に山の中に入ってしまったことを後悔した兄だったが、後は先ほど見つけた女性を探し出すしか方法はなかったのだ。

 最初は何とか小さいながらも山道と思しき道があったが、進めば進むほど、道がどれなのか分からなくなってきた。

「迷ってしまう」

 そう思うと、余計に山に迷い込ませる魔物を感じずにはいられなかった。

「まさか、さっきの女がその魔物なんじゃないだろうか?」

 そう思えてきた。

 後姿だけが頭の中に残像として残っているが、彼女の顔は想像できないまでも、その女が淫靡な感情を持っている女性のように思えてならなかった。

 それは、山に迷い込んで途方に暮れなければいけないはずの自分に対して、不思議と淫靡な感覚がイメージできてしまうことで思うようになった。

「ここには、異様な匂いが立ち込めている」

 そう感じると、男は匂いが自分の理性と方向感覚を狂わせているのではないかと思えてきた。

 確かに、山道に入った瞬間から匂いが違った。しかも、山独特の匂いではないものを感じた。

 山独特の匂いとは、木々を削った時に感じる樹汁がその元であった。しかし、男が感じた匂いは、どこかいい匂いだと思えるものだったが、次第にその匂いに、酸味が感じられるようになってきた。

 その酸味がなければ、淫靡な感情とは無縁だったかも知れない。しかし、ひとたび淫靡な感覚を感じてしまうと、そこから逃げることはできない。

 ただ、この匂いは、淫靡な汁の匂いだった。

 もっとも、兄はまだ十五歳。好きになった女の子もいないほど女に関しては未熟で、これが淫靡な匂いなのかどうか、分かるわけではなかった。

 だが、最初に感じた甘いいい匂いが、次第に酸味を帯びてくると、

「どこか懐かしい感じがする」

 と、頭を抱え始めた。

「どこでだったんだろう?」

 と、場所を思い出そうとしたが、思い出せるものではなかった。次第にその感覚が懐かしいということで、かなり昔のことだったのではないかと感じたのは、それからすぐだったのだろうか?

 普段感じたことのない初めて感じるはずの匂いに懐かしさを感じることで、時間の感覚がマヒしてくるのも感じていた。

 男は、その匂いが、まわりからしてくるものだと思っていたが、どうやら違った。ある一定の方向からしてくるのを感じると、その方向に進んでみることにした。少なくとも進んでいけば、そこにさっきの女がいると思ったからだ。

「女も匂いに誘われてやってきたのだろうか?」

 と思いながら進んでいくと、少し広くなったところに出てきたのを感じた。

 さっきまでは木々の生い茂った葉に包まれて、暗い道を通ってきたが、やっと明るさのある場所に辿りついた気がした。それでも、本来の明るさからは程遠い暗さだったのだが、兄には、そんなことは分からなかった。

 男は耳がツンとしてくるのを感じた。

 高山に登れば鼓膜が張ってくるのは分かっていたが、それとは少し違った感覚だった。さっきまで耳鳴りのように聞こえていた音が、急にしなくなったからである。唾を飲み込むと、耳の通りがよくなり、遠くまで聞こえてくる気がしたが、それよりも、想像以上に喧騒とした音がどこからか聞こえてきた。それが滝の落ちる音だということに、兄はなかなか気づかなかった。

 ゴーという音が遠くから聞こえてくるのを感じると、近くに滝があるということにやっと気づいた。兄は当然この村に滝があることは知っていたし、行ったこともあったのだが、正規の道を通ってしか行ったことがなかった。滝の音は聞こえてきたが、何といっても山の中のこと、聞こえてくるのはまるでやまびこのように響く音で、どっちの方向からなのか、それよりもどれほどの距離があるのかということすら分からなかった。

 もう一度上を見つめてみると、今度は、さっき聞こえてきた鳥の飛び立つ音が再度聞こえてきた。

 その時に、先ほど聞こえた奇声のようなものが聞こえてきたが、今度はその声を鳥の声だとはどうしても思えなかった。さっきは、いきなりでしかも一瞬だったのでそこまで考えが及ばなかったが、今度は二度目ということもあり、最初になんとなく感じていた疑問だったが、今度は曖昧に済ませてはいけないような気がした。

 不思議な感覚を持ったまま、兄は再度上を見上げたが、確かに方向感覚を失わせる何かが木々にはあるというのは最初と同じ考えだが、どこか微妙に何かが違っているという感覚に陥っていたのも事実である。

 不思議な感覚をいうものを持ったまま、意識の中で膨らんできたものが、飽和状態になりかかっていることに気づいていた。

「ここが終点なのかも知れない」

 この先に道があるかどうか分からなかったが、分かっているのは、

「俺はここから先に足を踏み入れることはないだろう」

 という思いだった。

 その思いの根拠に繋がっているものは、自分がこの山に入り込むきっかけを見つけた女性に、この場所で追いつくことができるという思いからだった。

 すると、果たして目の前に広がったスペースの端の方で、背を丸めるようにしてしゃがみこんだ女性が。無防備にもこちらに背中を向けていたのが見えた。その背中は何かを訴えるというわけでもなく、っこには自分しかいないと信じて疑わない気持ちが、背中を見ていると感じられた。

 兄は、その瞬間、「オトコ」になってしまった。後ろ向きで無防備な女を見ていると、襲いたいという衝動に駆られていたのである。

 今まで女性と手を繋いだこともない自分が、どうしてこんな気持ちになったのか、それが先ほど感じた不思議な感覚と、どこからともなく漂ってくる酸味の利いた甘い香りが成せる業であることに、兄は気づいていたのだろうか?

 すでに理性は吹っ飛んでいた。気づかれないように速やかに近づいているつもりだったが、目の前にいる相手になかなか近づけない。しかし、相手もこちらに気づく素振りもあるわけでもなく、

「まさか、分かっていてわざと無視しているのでは?」

 と思わせるほど、まったく後ろを振り返す素振りも見せなかった。そんな素振りに、わざとらしさを感じ、イライラし始めていた。これが男としての女性への感情の表れであることに兄は、気づいていなかった。

 そのため、これからの行動はすべて、本能によるものだったのだ。

 だが、これは後から考えた男の言い訳だった。しかし、女の後姿が男を誘惑したのだということは間違いではなかった。

 男は、その時しゃがみこんでいる後姿を、自分の妹だとしてしか見ていなかったが、よく見ると、猫背のように曲がった後姿に感じる哀愁は、妹のものではないような気がしてきた。

 淫靡な香りの漂う空間で、男と女が二人だけ。最初はそれを妹だと信じて疑わなかったので、飛び出していくことはできなかったが、後姿を見ているうちに、

「あれは妹ではない」

 と思うようになっていった。

 男は、この瞬間に理性は吹っ飛んでしまった。女に対して自分が奥手だったことも忘れていた。どうして奥手だったのかということを考えていたが、その理由が今分かった気がした。

「俺は妹のことが好きだったんだ」

 そのせいで他の女性と話をすることができない。目の前に妹以外の女性を前にすると、どうしても妹と比較してしまう。そして、その気持ちを相手の女性に見抜かれてしまっているのではないかと思うと、何も言えなくなってしまうのだ。

 女性の方も、イジイジと煮え切らない雰囲気の男を、快く感じるはずもなかった。

「女の腐ったような性格だわ」

 と、一般的に女性が一番嫌うタイプの男性が、この男だったのだ。

 男は、自分が妹を好きだったなど、想像もしていなかった。思い出すのが、子供の頃に見た、

――妹が苛められている姿――

 だったのだ。

 妹はもちろん、苛められていたところを誰かに見られていたなどということを知らない。しかもそれが兄だったなど、分かるはずもない。なぜなら、妹はその時の記憶の半分近くを失っていたからである。

 男は、妹だとずっと思って追いかけてきた女が、

「妹ではない」

 と感じた瞬間、何を考えたであろうか?

 今まで自分がまわりの人に気を遣ってきたつもりだったが、その感覚が伝わっているようには思えなかった。女性であればもちろんのこと、相手が男性でも、どこかぎこちなさを感じた。その時、

「距離感があるのかも知れない」

 ぎこちなさを考えてみると、相手を見ていて、とても腹を割って話のできる人ではないと思えてきた。目の前には、超えることのできない結界があることに気づいたのだ。

 結界は一人に感じただけではなく、他の人皆に感じた。

 相手は男性だけでなく、女性に対してもである。

「人に対しては、気を遣わなくてはいけない」

 という思いが強く、それは親を見ていて感じることだった。

 いつもまわりの誰かにペコペコしながらなんとか生活をしている。ペコペコしなければ生きていけないのだ。

 ただ、その思いがぐらついたことがあった。それが妹が苛められているのを見て、飛び出していけなかった自分を感じたからだ。

――あの時、飛び出していけなかったのは、妹が見られたくない姿を見られたと思って、傷ついてしまう――

 と感じたからだ。

 実際に、いたぶられている中で、助けてあげられなかった自分を情けないと思いながらも、ずっと妹が何を考えているのかを思いながら見ていたからだと思っている。

 あの時から妹は、自分の後ろを異常に気にするようになった。

 もし、妹の後ろに立とうものなら、

「誰? 私の後ろに立たないで」

 と、厳しく糾弾されていたことだろう。

 そういう意味でも、無防備に猫背のまま後ろを隙だらけにしている目の前の女性が妹であるはずがないと思ったのだ。

「背中から感じる哀愁は、何かを訴えているようだ」

 男は、そう感じた。

 もし、その時、女がすでに記憶喪失状態にあるということに気づいていれば、その後の行動は変わっていただろうか?

 いや、変わることはなかっただろう。しかし、少なからず心境の変化はあったはずだ。それが大きなものなのか些細なものなのかは、その時のどちらにも分かるはずのものではなかった。

 その時に漂っていた淫靡な香り、それは男にも女にも感じられたはずだ。ただ、その香りがその二人のどのような影響を及ぼすのかということは、まさしく、

「神のみぞ知る」

 と言ってもいいだろう。

 男は恐る恐る女の背後から忍び寄る。女は男が近づいてきているなど知る由もなく、猫背で丸まった背中は、微妙な動きはするものの、逃げ出す雰囲気も、怯えのため、足が立たないという雰囲気も感じられなかった。

 両腕を伸ばし、後ろから覆いかぶさるように羽交い絞めにした男は、

――まるで包み込んであげているようだ――

 と、襲っているにも関わらず、まるで自分が守ってあげているような錯覚に陥っていた。いや、相手の女も一瞬、たじろいだかのように見えたが、すぐに抵抗がなくなった。男の手の甲に、自分の手の甲を重ねて、逆に手は、女の方が男を包み込んでいた。

「お兄ちゃん」

 女は、男の妹だった。

 最初は自分の妹だということを意識していたにも関わらず、抱きしめてみると、

「お兄ちゃん」

 というその声や抑揚は、間違いなく自分の妹だった。

 ハッとなって意識を取り戻したかのようになった男だったが、いまさら後悔などしていない。

「ええい、ままよ」

 とばかりに、ここは開き直るしかないと思えた。

 しかし、開き直るには、あまりにも妹は素直だった。もう少し抵抗してくれれば、開き直るか、自分の意識を元に戻して、その一瞬の過ちを自ら悔いることで、後は精神的なことは時間が解決してくれると思えた。

 それなのに、妹は素直に兄の感情を受け止めようとしている。兄として、こうなってしまったら、どうすればいいというのだろう?

 まったく想像もしていなかった展開に、戸惑っていた。その戸惑いの原因が、子供の頃に苛められていた妹の記憶がよみがえってきたことだった。

――そうだ、あの時、自分がドキドキしたのは、抵抗してもどうにもならない状況で、恥じらいの中、辱めを受けていた妹を見たことだ――

 と感じた。

 今の妹は、抵抗するどころか、自分の気持ちを知ってか知らずか、後ろから抱きしめてきた男性の手を包み込もうとしている。自分が近づいているのに気づいていないと思っていたが、本当は知っていたのかも知れない。

 そう思うと、男がこの山の中に入ってきたのも、最初から女の計算のうちだったのかも知れないと思うようになると、今度は、

「何を信じていいのか、分からなくなってきた」

 と思うようになっていたのだ。

 それにしても、後ろから抱きしめた時の彼女の身体の暖かかったこと、それはびっくりするほどだった。普通、前半身は暖かさを感じることができるとしても、背中に暖かさを感じるなど思えないと男は思っていた。

 ただ、それは男が誰にも抱きついたことがない証拠なのだが、しばらくじっと抱いているうちに、

「前にも同じような感覚を覚えたことがあったな」

 と、感じた。

 ただ、それは思い出そうとすると、一日や二日ではできないような気がするほど、気が遠くなる時間を遡らなければいけないような気がしていた。

 本当は、懐かしく感じたのは、自分が抱きしめる方ではなく、抱きしめられた方だった。その時男は女を抱きしめながら、自分が抱きしめられているような感覚にも一緒になっていたのかも知れない。どうやらこの男、自分が感じている思いとは別に、相手が考えていることも分かる体質だったようだ。

 自分が感じた暖かさ、それは遠い昔に抱きしめられて感じた暖かさだった。それが本当に自分の記憶なのか、疑いたくなるほど曖昧なもので、だいたい、自分が抱きしめられている時に相手の身体の暖かさを感じるなど、遠い昔の記憶であるはずがない。記憶が曖昧な過去の記憶というと、それは子供の頃の記憶に相違ない。それならば、余計に自分の記憶であるはずがないと思ったのだ。

――ひょっとして、これから感じるはずの思いを夢で見て、記憶の一部として意識しているものではないだろうか?

 とも考えられた。

 男は、昔からあまり余計なことを考えたことがなかったのに、この時だけは、なぜかやたらと頭が働く、まるで今までの分を一気に考えているようだ。

 今までは辻褄の合うような考え方をしたことがなかった。しかし、ひとたび考え始めてから、どんどんと辻褄が合ってくるように思えてくると、考えるのが楽しくなってきた。

「俺って、こんなに賢かったのかな?」

 と感じたが、一つの歯車が噛み合ってくると、どんどん辻褄が合ってくるという考えが芽生えてきても不思議ではない。

 そもそも歯車というのは、一つ一つの役割を持っていて、そして、一つとして同じ大きさのものがないという機械ほど、精密で数多くの歯車によって形成されたものなのだ。

 しかし、目的はあくまでも一つだけ。一つの形を作り上げるまでに無数の歯車を?み合わせるという考え方は、実際に歯車が噛み合っているところを見たり経験した人間にしか理解のできるものではないだろう。

 男は、抱きしめている女が妹であっても、他の女であっても。どうでもいいと思った。目の前にいる女が歯車を作り、噛み合わせて行った結果、自分という結論に辿りついたのだ。

 男の方も、手繰り寄せられる意識はなかったはずなのに、無意識に繋がった瞬間、一切の違和感が消えていた。

――出会うべくして出会った相手――

 それがこの場所だったのだ。

 目の前にいる女は、やはり妹だった。しかし、ここで男を求めている女は、この時だけは男の妹ではなかった。

――妹でありながら妹ではない――

 この感覚は以前に感じたことがあった。

――そうだ、子供の頃に、蹂躙された妹が見せた冷徹な表情――

 どこに感情があるのか分からないと言った表情、それはまさしく、

――兄の知らない妹の、もう一つの顔――

 と言ってもいいのではないだろうか。

 背中に男の暖かさを感じた妹は、黙って下を向いたままだった。猫背は相変わらずで、兄の手の甲を自分の手で覆い、さらには、背中に兄の暖かさを感じていた。

 兄が妹の背中に暖かさを感じているのに、妹も背中に兄の暖かさを感じる。お互いに暖かさを感じるというのは不思議な感情だが、なぜかその時お互いに、

――自分が感じている暖かさを、相手も感じてくれているに違いない――

 という思いを同時に抱いていた。

「お兄ちゃん」

 妹は、もう一度そう呼ぶ。兄も妹を抱きしめながら、妹の名前を囁こうと思ったのだが、声が出なかった。

――あれ? どうして声にならないんだ?

 妹は兄の返事を待っているはずなのに、

――声にならないなど、どうしてなんだ?

 と、思って焦れば焦るほど、声を発することができない。

 この思いも以前に感じたことがあった。

――そうだ、これは夢に見たことだった――

 それがいつの夢だったのか思い出せない。最近のことだったのか。かなり前だったのか。少なくとも、妹が苛められていたのを見たあの時よりも後であることに違いはない。なぜなら、声に出せないのは、あの時、妹が苛められているのを見て見ぬふりをしてしまったことへの戒めだと思ったからだった。

 焦っている兄を横目に、妹はゆっくりと後ろを振り向いた。ニコリと微笑んだその表情は、今までに見たこともないような顔だった。

――無垢というのは、こういう表情を言うんだろうか?

 男は、思わず微笑み返す。声にならないもどかしさは確かに残ったが、すでに焦りは消えていた。

 そして、女は、猫背のまま、男の正面に座り直したのだ。

 女は目を閉じ、唇を突き出す。これが接吻というものを期待している女の顔であることは男にも分かった。

 男は唇を近づけて、重ねてみた。柔らかく暖かい唇が自分の全身の血を激流に変えるほどの緊張感であることを、男は初めて知った。しかも、これはお互いに納得の上での行動であり決して開き直りではないことも分かっていた。

 男の右手が抱きしめていた背中から離れ、首筋を撫でていた。

 一度も女を愛したことがないのに、無意識の行動だった。だが、それが女の悦びに代わるのだと、男はそこまで分かっていなかった。

 ビクンと震わせた首筋に、一瞬緊張が走ったが、男が首筋を撫でるようにすると、身体の力が抜けていくように、こちらにしな垂れてくるのを感じた。綺麗に化粧の施されたその顔を覗き込んでみると、

「明らかに知らない女性だ。でも……」

 と、疑問符の残るその表情に見覚えがあったのだ。

 遠い昔の記憶の中に引っかかっているその表情は、子供の頃の妹だった。辱めを受けているのに、赤らんだその顔には光沢があり、仄かに頬は赤らんでいた。その時の記憶としては、綺麗だという印象があった。自分の妹で、しかも、まだ子供なのに、綺麗だという発想が浮かんでくること自体、自分でも信じられないものがあったのだ。

「化粧でもしているようだな」

 もちろん、子供が化粧を施しているはずもない。それでもその次に感じたのは、

「妹に化粧をさせたら、こんなに綺麗なんだ」

 と、化粧をしているわけでもないのに、化粧をしているのと同じ感覚になって見ていたのだ。

 男は、大人の女性が化粧をしているのを見ても、決して綺麗だとは思わない。むしろ素面の方が綺麗に見えることもあるかと思っていた。特に自分の母親は化粧をしない人だったが、時折、綺麗だと思うことがあった。それと同じ思いを妹に抱いていたに違いない。そうでなければ、紅潮した顔に浮かんだ恥じらいの表情に対して、

「綺麗だ」

 などと感じることはないはずだからである。

 ただ、目の前の女性に恥じらいは感じられなかった。逆に男を誘っているのは分かっている。今まで女性と親しくしたことなどない男にとって、自分を誘っている相手の態度は、この上なく心地よいものだったに違いない。有頂天になり、身体が宙に浮いて感じられたことだろう。

 口づけがどれほどの時間続いたのか。自分でもよくは分からなかった。唇を離した時、呼吸を荒げてしまっていたことで、結構長かったように思えたのだが、一度深呼吸をしただけで、すぐに収まったのを見ると、呼吸が荒くなったのは、精神的なものだったに違いない。

 唇を離して、女を再度見ていると、その顔を見ることができなかった。長い黒髪が顔の前に誰下がっていて、その表情を垣間見ることはできない。まるで幽霊のようだ。

 そう感じると、それまで分からなかったが、身体が濡れているのが分かってきた。

――どうして濡れているんだ?

 疑問に感じたが、よく考えてみると、この近くには滝がある。細かい水滴が宙に舞っていると考えてもおかしくはない。

 そう思うと、自分の身体もべたべたしてきたのを感じてきた。彼女だけではない。もしここに他に誰かいれば、その人も身体がべたべたしてきているに違いない。

 最初からそのことに気づかなかったのは、自分も同じように濡れていたからだろう。抱きしめた時に感じた暖かさだけが身体に残ってしまい、それ以外の感覚がマヒしていたのかも知れない。抱きしめた後、接吻したことで、一度マヒした感覚が元に戻ったと考えてもいいだろう。

 男は、急ごうとはしなかったが、それ以上に恥じらいからなのか、顔を見ようとしない彼女に、少し苛立ちを覚えていた。こんな時は苛立ってはいけないことくらい男は分かっているつもりだったが、そんな思いは相手に伝わるのか、男が苛立ちを覚えた瞬間に、彼女は身体を固くして、グイっと男の腕を掴む手に、力が入ってしまっていた。

 少し痛いくらいにグイっとした力が加わると、男は自分の理性が飛んでしまうのを感じいていた。普通なら、理性が飛びそうになるのを感じると、少しでも抑えようとするものなのかも知れない。それが無駄であったとしても、とりあえずは試みるに違いない。

 だが、男はその時、自分の理性を抑えようという気持ちはなかった。理性が飛んでしまうのであれば、それならそれでいいと思っている。目の前にいる女を抱きしめて、そして合意の上での接吻まで行ったのだ。いまさら理性で自分を抑えてどうするというのだ。今は自分の中にある男の本能を剥き出しにしてもいいだろう。男はそう思い、女の腕に力が入るだろう瞬間を狙って、その気持ちに答えるかのように、腕に自分も力を入れていたのだ。

 女を抱きしめたその腕は、次第に女の敏感な部分に近づいていく。今度は、女は腕以外にも力が入り、抗おうとしているのか、身体を離そうとするのだが、その力を男は利用して、さらに自分の腕に力を込めた。それでも抗おうと無駄だと思える努力を続けていた彼女だったが、あきらめたのか、一気に身体から力が抜けてくるのを感じた。それも一気に身体から力が抜けたので、まるで全身の骨がなくなったかのような感触に、

――これが女というものか――

 と、悩まし気な動きをしている女性をどうやって支えようかというのが次の課題だったのだ。

 最初は抗っていた女だったが、次第にされるがままになっていた。男であれば、そんな時、どんな感情になるのが普通なのだろう? その時の男は女が抗わないのをいいことに、本懐を遂げようとしている。ただ、それは最初から徹底して本能の動きによるもので、感情が先に立ったというわけではなかった。

 その証拠に男は終始、

「夢を見ているようだ」

 と思っている。

 女を蹂躙している自分に対して罪悪感もないかわりに、

「こんなものなのか?」

 と思うほど、感じるはずの快感があまりにもアッサリしていることで、まるで自分の身体ではないような気さえしていた。もし、途中から女が少しでも抵抗していれば、罪悪感と快感が一緒に襲ってきて、そのジレンマに対してどのような感情を持つのか、それを感じることができない自分をもどかしく感じていた。

「これじゃあ、まるで生殺しのようだ」

 このまま、何の感情も持たなければ、これからの人生で、何かを感じることもないようなつまらない生き方しかできないような気がした。抑えきれない理性を爆発させて、女を襲ったという方が、まだマシではないかと思えたほどだ。

 一生、罪悪感に苛まれて生きるのも地獄ならば、何も感じることもなく、自分が自分ではないという一生が待っていると分かっている人生は、もっと地獄ではないかと思えたのだ。

 男は、相手が本当に妹だったのかということも分からない。女はその時の前後の記憶をその後失うことになる。男はそのあとフラフラと滝の方に向かっていった。そして、滝つぼの中に消えていった。

 男がいなくなったことで捜索が行われたが、死体が見つかることはなかった。襲われた女も、その日の記憶を一切失っているので、襲われたことはおろか、滝の近くにあるそんな場所に行ったという意識もなかったのだ。

 女のその時の記憶は決して戻ることはない。それは滝つぼに消えていった男の死体が絶対に上がらないのと同じだった。

 村はそれからすぐに落ち武者事件が起こり、それどころではなくなっていた。そのことも男の死体が絶対に上がらないという確証を確固たるものにしたと言ってもいいだろう。

 女は自分が子供の頃にイタズラされた記憶も失くしていた。それは潜在意識として残っていた記憶を、この間、兄から襲われた時、一度は完全に思い出した。思い出したからこそ、襲われた時、然したる抵抗もできなかったのだ。本当であれば男に襲われたのだから、本能的にももっと抗ってよかったはずだ。それができなかったのは、過去の抵抗できないという記憶が潜在意識の中で確立していたからに違いない。妹の中では、そんな記憶を持て余していたのだろう。思い出すには、ちょっとしたきっかけがあれば足りたに違いない。

 それなのに、襲われてしまったことで一気に思い出した。抵抗できない自分を女はどのように思っただろう。情けないというよりも臆病に震えている自分を、客観的に気の毒に思っていたのかも知れない。

 この兄妹の共通点は、

――自分を客観的に見ること――

 であった。

 それは、すべてを他人事として処理してしまうことが、自分にとっての最善策だと思っているからだった。自分を渦中に置くということができず、一人殻に閉じこもる。それも生きていく上では十分に大切なことなのだろうが、何かの結論を得なければいけないという時に、最初から逃げに回ってしまっては、それ以上の進展などあるはずがない。それがこの二人の悲劇に繋がったと言っても、過言ではないだろう。

 男がいなくなったことで、女は自分の大切なことを思い出せなくなってしまっていた。どうして兄がいなくなったのか、そこに自分がどのようにかかわっているかなど、まったく分からなかった。ただ、兄がいなくなったことに自分がかかわっているということは予想できたのだが、それ以上考えることはできなかった。

「自分が自分でなくなってしまう」

 と思ったからだが、自分が自分ではなくなったからといって、それが自分や、自分のまわりにどのような影響を与えるかということは想像もできなかったのだ。

 ただ、女は兄がいなくなったその日から、ずっと滝の近くの山の中に入り込んでいた。それは何かを思い出したいという思いからではない。何かに誘われるように足が向くというのが、正直な気持ちだろう。

「私を誰かが呼んでいる?」

 という思いが頭をよぎったのだ。

 女が落ち武者を救ったのは、兄がいなくなったことで、自分の感覚がマヒしていた時だった。

 落ち武者は兄とは正反対の男で、そういう意味では、女には新鮮だった。男というと兄だという単純な結びつけだけしか女にはなかった。他の村とも隔絶され、子供の頃の忌まわしい記憶を封印しながら静かに生きてきた女にとって、それは仕方のないことだったのだ。

 落ち武者は、いつも自分を見つめ直すような性格の男だった。自分は足軽で、武士といてもいつも最前線、いつ命を落としても、それは覚悟の上だと思っていた。

 しかし、戦では負けてしまい、味方もバラバラとなり、もはや武士としての面目も何もあったものではなくなっていた。

 だが、それでも普段から、

「俺は一体何のために生きているんだ?」

 と、自問自答を繰り返してきた彼にとって、落ち武者となって逃げまわりながらも、何とか助かろうとしている行動の意味が、理解できないでいた。

「このまま生き続けていてどうだというのだ? このまま逃げ回っても、いつかは見つかってしまい、結局は処刑されてしまうのがオチなんだ」

 と思っていた。

 これは彼に限らず、バラバラになって落ちていった連中にも言えることだろう。だが、そこから先、自分の存在意義にまで発想を移すことができる人は、まずいないだろう。

 落ち武者は、生きるために何でも食べたり、地面に這いつくばって逃げまわったり、自分がどれほど惨めかを分かっていた。

「こんなことなら、早く見つかって、楽になりたい」

 と思うこともあったが、気が付けば、それでも逃げているのであった。

 そんな時に出会ったのが、自分を助けてくれることになる女だった。

 最初、落ち武者は彼女のことが怖かった。それは、自分を村人に突き出すのではないかという恐怖ではなく、むしろ彼女は絶対にそんなことをするはずはないように見えたのだ。それなのに、何が怖いというのか?

 それは、彼女の中にある黒い部分だった。

 落ち武者は、必死になって相手の心を読もうと試みた。最初はまったく無防備とも思える彼女の気持ちにすいすい入り込むことができた。女に何ら疑いも抗いもなかった。気持ちくらいであったが、その時の落ち武者は、そこまで考える余裕がなかった。

 まるでゴーストタウンを進むがごとく、彼女の中には何もなかった。もし、これが戦なら、

「罠かも知れない」

 と思い、警戒もするだろう。

 しかし、彼女に対して、

「疑う」

 という気持ちがなぜか沸き起こってこなかった。

 落ち武者は、女の心の中にあるものがまったく見えなかった。ここまで何の抵抗もなく奥まで入ってきたのに、その奥が見えないのだ。

 何もないから見えないというわけではない。真っ暗で見えないのだ。

――やはり、何もないのかも知れない――

 と思ったが、もちろん、根拠などあるはずもなかった。

 そんな落ち武者と女が愛し合うようになり、子供を設けるまでになったのは、どういう心境からなのか、そのことを感じているのは、実はそのずっと後になって現れた喜兵衛だったのだ。

 喜兵衛は、古文書を見つけ、いろいろ読み漁っているうちに、女の気持ちが分かるようになった。

 ただ、落ち武者の気持ちは分からなかったが、女を襲った男の気持ちは分かっていた気がした。

 喜兵衛は、さすがにここまで読んでくると、かなり古文書が着色されて書かれているのではないかと思い始めた。本人たちも覚えていない話を、一体誰が分かるというのだろう?

 落ち武者か、滝に身を投げた男か、主人公である女が、この古文書を書いたのだとすれば、一応の説得力もあるかも知れない。しかし、この三人の中の一人として、残りの二人の気持ちが分かるはずはないという話になっている。

 ということは、書き方がそうなっているだけで、本当は女が記憶喪失だったということや、兄が弟を襲ったということ、あるいは、ここで出てくる落ち武者の存在すら、怪しいものになってしまうのではないだろうか?

 そこで喜兵衛は、一つの仮説を立ててみた。これがどこまで信憑性のあることなのか分からないが、喜兵衛とすれば、一番納得がいくことだった。

「私の先祖、つまり女が産み落とした子供の父親は、落ち武者だということになっているが、本当は、兄が生ませた子供ではなかったか?」

 というものだった。

 かなり斬新な発想だが、落ち武者の子供だと考えるよりも、しっくりくるものだった。

 落ち武者の子供ではないという発想は、兄に襲われたという件がなければ、生まれてくるものではなかった。

 それは落ち武者の子供ではないという可能性をゼロから、少しでも信憑性のあるものにするには十分だった。

「もし、この古文書を読んだのが俺ではなく他の人だったら、同じことを考えただろうか?」

 と感じた。

 喜兵衛は、

「他の人も同じだろうな。ただ……」

 と、しばらく考えて思ったが、どこか引っかかるところもあった。

 だが、この村では村人の中での結婚した許さないという発想、そして家を存続させるためであれば、近親相姦もやむ負えないという発想。それも、自分の兄に孕まされたいう事実があるからこそ、この村では許されることになったのではないかという思えたからだ。

「なんて因果な運命なんだ」

 と感じた。

 そして、喜兵衛がどうしてこの村に戻ってきたのかということを、また考えてみた。

「そういえば、どうして男の躯は見つからなかったのだろう?」

 そう考えた時、女が最初に身を投げた時に起きなかった竜巻が、その時には起こったのではないかと思った。その時に起こった竜巻で、男は死体が見つからず、女だけではなく、村人皆の記憶の中から消えた。

 そしてその竜巻は、下から上に突き上げるというこの村独特のものだった。巻き上げられた男は一体どこに行ってしまったというのだろう?

 喜兵衛は、この村が閉鎖的であり、近親相姦を繰り返し、さらには、村長が世襲であり、その間一度起こったことは二度と起きないといういくつかの伝説に包まれていることを知ったのだ。

 この古文書は喜兵衛によっても、少し書き加えられたようだった。

 喜兵衛自身のことも書き加えられていたし、それだけではなく、喜兵衛の思いも入っていた。

 喜兵衛の思いとしては、自分の子孫が実は近親相姦によるものであることを伝えるかどうか迷っていたようだが、思い切って付け加えていた。それによって分からなかった部分も明確になっていったようで、立て続けに分かっていったことが目に見えるようだった。

 今、緒方が読んでいる書物は、喜兵衛の代になり、喜兵衛によって書き換えられたものだった。もちろん、その原本は古文書であり、その古文書には、喜兵衛の先祖への思いがふんだんに散りばめられているものだった。

 そして新しい書物には、喜兵衛自身の感情や、想像。いや、妄想ともいえる思いがさらに散りばめられていた。

「どれを信じればいいというのだろう?」

 という思いが頭をよぎったのも当然のことであり、

「ひょっとして、喜兵衛も古文書を見た時、今の俺と同じ心境だったのかも知れないな」

 自分が新しい書物に書き換えようという大それた思いまでは持たないが、喜兵衛も最初はそうだったに違いない。

「喜兵衛の一体何が、彼を書物制作に駆り立てたというのだろう?」

 と感じた。

 というよりも、喜兵衛の時代のことは、あまり書かれているわけではない。もちろん、時系列として一つの章として描かれてはいるが、客観的すぎるのだ。

「確かに、自分たちの祖先、つまりは落ち武者を中心とした世代の人間、そして喜兵衛の時代の人間、自分の家系は皆、他人事のように客観的に考える人が多いようだ」

 その方が、書物制作には向いていて、文章にもそれが表れていることだろう。

 緒方は自分のことを落ち武者の時代に出てきた登場人物や、喜兵衛のような人物とは一概には比較はできないものだと思っていた。

 緒方も喜兵衛も自分の先祖のことをそれまでは、ほとんど考えたこともなかっただろう。二人とも、古文書であり、書物を見つけて先祖の気持ちになってみた時、この村のことや自分たちの運命について考えるようになった。

 他の人たちが、いや、それまでの自分も同じなのだが、運命というものが、過去から培われてきたものに影響を受けているということを、頭では分かっていながら、実感できていなかったはずだからだ。

 この村では、喜兵衛の時代に、この村名産の食べ物が一度だけ、他の村を伝って、中央でも有名になったことがあったが、その時一度だけだった。古文書にも他の村から誰かが入ってきたという話も聞かないし、この村の話題が他の書物に残されることはなかった。

 緒方は、この村の過去のことを調べていくうちに、自分が何者であるのか、疑問に思えてきた。調べると言っても、古文書を見ることしかできない。なぜなら、この村を出ることができないからだ。

 このことに気づいたのはいつからだっただろうか?

 気づいていながら、何の疑問も抱いていなかった。この村の外には確かに他の村があるのは間違いないはずなのに、他の村に行ってみようという気にはならなかった。

 そういえば一度だけこの村を出てみようと思ったことがあった。村の外れまで行って、そこから一歩足を踏み出したはずだった。しかし、何もしていないのに、踵を返したように、目の前には村が広がっていた。

「夢を見ているのだろうか?」

 と感じた。

 普通なら、そこでどうして自分が村を出ることができないのか、もう少し考えてみるのだろうが、その時の緒方は、それが当たり前のことだと思い、それ以上考えないようにした。そして、村を出てみようなどという思いを、今後二度と考えることはないと思うのだった。

 実際に、村を出てみようと思うことはなかった。緒方の他の村人も、誰も何も言わないが、村を出ようという思いを、一度は抱いたのだと思った。そして、村を一歩踏み出そうとして、緒方が感じたように、村から出ることができずに、それ以上、村から出ることを考えないようになったのかも知れない。

 かつてこの村では、他の村との往来は普通に行われていたはずだ。しかし、ある時から村は他から遮断された。それが落ち武者が入ってきた時ではないだろうか。

 落ち武者は村の娘と心中しようとしたが、結局どこに行ってしまったのか分からない。女だけが助かって、その女を助けた男に襲われるという悲劇があったが、それ以前に、自分の兄に襲われたという過去を持っていた。

 彼女は、波乱万丈の人生の中で、絶えず何かの記憶を失っていた。それが封印されたものだったのか、それとも、本当になくなったものだったのか分からない。

 その時、村には竜巻が起こった。

 その竜巻は、普通の竜巻と違い、下から上に向かって起こるもので、この村独特の地形によるものなのか、この村の特殊性によって作られるものなのか、分からなかったが、それでも竜巻によって人が助かったり、死んだりしたのも確かなようだ。

 この竜巻は、世襲する村長が在任中には、決して二度は起こらないものだった。しかも、この竜巻を実際に見た人はいない。いたとすれば、その人は竜巻に巻き込まれた人で、助かったとしても、記憶を失ってしまっていたようだ。

 緒方は、この古文書を最後まで読みこんでくると、そこに書かれていることが、曖昧な内容が多いのに、やたらとリアルな雰囲気も感じられた。何か予感めいたものを感じたのだ。

 この古文書に書かれている人は、ほとんどの人の名前が記されていない。ただ、喜兵衛という名前だけが記されている。

「この古文書は、喜兵衛という男が記したのではあるまいか?」

 と感じるようになった。

 喜兵衛の書いている内容は、物語のようでもあるが、ところどころ、まるで学問書のような錯覚を覚えることがあった。竜巻の話など、かなり学術的で、

「江戸時代と思しき時代に、どうしてよくここまで学術的なことが分かるのだろうか?」

 と、感じられた。

 まるで現代の研究書を読んで、自分の時代と照らし合わせて書かれたようなものではないか。そう思うと、緒方の興味はどんどん増してくるのだった。

 ただ一つ不安なこともあった。

「余計なことを知りすぎるのは怖い気がする」

 ただ、この村に残る滝つぼは、緒方にとっても因縁深いものであることは確かである。「滝つぼに対しての思い入れは、今の時代では俺以上の人は誰もいないだろう」

 と、感じるほどだった。

 戦国時代から考えれば、五百年近くが経っている。これまでにここにどんな人が住んでいたのか、実に興味があった。

「俺と同じような考えの人もいたんだろうな?」

 とも思えたが、喜兵衛のように、古文書を書き替えるほどの感覚はなかっただろう。

 しかし、それも古文書の時代を知っていなければここまで昔の時代をリアルに表現できるはずもない。この喜兵衛という男はどんな人間だったというのだろう?

 落ち武者がやってきた時代に、兄妹の悲劇があり、僧侶による暴行など、生々しさは目を覆いたくなるほどだった。

 それをここまで忠実に書けるということは、まるで見てきたかのようではないか。

 こんな光景、目の前に広がっていれば、まともに見れるというのは、精神にどこか異常をきたしていなければできないのではないかと思える。少しは暈かしでも入れないと、まともに見ることはできないだろう。

 しかも、文章というのは読む人によって、かなりの違いが生じるものだが、喜兵衛の書き加えたと思しき部分は、誰が読んでも感じることに変わりはないような気がする。緒方の考えすぎだろうか?

「こんな生々しいリアルな本は、まるで見てきたようだ」

 この発想は、緒方に一つの疑問を感じさせた。

「ひょっとして、自分が同じことをするという予感めいたものが、リアルな想像を掻き立てるのではないだろうか?」

 まるで正夢を見ているような感覚だ。

 そして、竜巻の件を読んでいるだけで、自分がまきこまれたかのように身体が宙に浮いてしまうかのようだった。

 村長が同じ時代に、二度と起きない竜巻というのは、竜巻を起こすための滝つぼが、一度竜巻を引き起こすと、消えてしまうからではないだろうか。古文書の最後の方で、急に滝つぼの話が出てこなくなる。

 最初の時代の女と落ち武者が身を投げた時、その時、落ち武者の一件のせいで、村長が変わっている。

 そして、その後、自分を助けてくれた男に襲われ、二度目に身を投げた時。

 その後は、原因に関してはハッキリとはしないが、竜巻が起こる時、滝つぼの話が出てくる。

 しかも、その内容は、滝つぼがまるで急に現れたような発想だった。

 そういえば、今の時代、この村にはどこを探しても、滝つぼなど存在していない。

 しかし時々、村人の中で、

「ゴーッという、勢いよく水が流れる音がするんだ」

 という話を聞かされた。

 古文書を読んだ緒方は今では、

「この村で何かがある時、竜巻を引き起こすために滝つぼが急に出現するんじゃないだろうか?」

 と考えた。

 そう思えば、古文書を読んでいてリアルな気分になるのも、最初から滝つぼの存在を意識しているからではないかと思えてくる。

 しかも、最近では、

「この古文書に書かれていることは、未来に起こることも予言しているんじゃないだろうか?」

 とも思えてくる。

 一つに信憑性を感じると、どんどんとリアルな発想が思い浮かんでくる。これも古文書をリアルに感じて読み進んでいるからではないかと思えてきた。

 この村は、昔から、

「存在しない村」

 と言われていたという。伝説の村だという噂がもっぱらだと言われているが、なまじ嘘でもないような気がしてきた。

「この村を出ることも。入ることも許されない」

 元々は、この村を出ることが許されていたが、落ち武者の殺された時代、村を出ようと考えていた人が、村を出る時の首謀者から、

「この村を出るからには、決してこの村を振り返ってはいけない」

 と言われていたという。

 その話を信じなかった人が振り返ったということまでは古文書に書かれているが、その人がどうなったのかは書かれていない。

「滝の音は聞こえるのに、滝を見つけることができない」

 と言っている人は、確かに滝のあったと目される場所を探していた。

 湿気のあるはずのその場所には、木々が生い茂っている山もない。人の気配はするのに、誰もいないその場所は、無数の霊が漂っているかのようだ。

「本当にこんなところに滝が?」

 そこにあるのは、無数の白い石がまるで墓石のように、広がっている平原だったのだ……。

 そして、その場所に石が並んでいるのが見えるのは、この村の出身ではない緒方だけだったのだ……。


                 (  完  )

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落ち武者がいた村 森本 晃次 @kakku

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