或る老人の休日

グリエール君戸部

第1話

 明け方に目が覚めるのは、もう随分年をとったからなのかもしれない。今日は日曜日であったはずだ。そう思いながら、私は目を覚ました。見慣れない天井に、そう言えばと、少々寝ぼけた頭で思い出す。長年住んできたあの家はもう売ってしまったのだ。先日、病気で妻に先立たれてからというもの塞ぎ込んでいた私は、思い出深い家を他人に明け渡し、小さな荷物で小狭いアパートメントに引っ越してきた。独りで住むには寂しすぎる、思い出の抜け殻があちこちに散らばる家。しかし見慣れない天井を見て目を覚ますのは、それはそれで悲しいものだった。

 ベッドに起き上がりしばらくの間、ぼうっとする。そして、息子夫婦の事を思う。滅多に帰ってこない仕事一辺倒の息子とそれに付き合わされているお嫁さん。私の所にもたまには顔を出してほしいが、それ以上にお嫁さんのご両親に挨拶もなしに失礼がないかが気がかりである。昔から真面目すぎる息子であったが、年々それに輪をかけて一つのものに取り組むと周りが見えなくなるようになっていった。それに反発するように、孫は不真面目になっているらしい。らしいというのは、お嫁さんから来る時候の便りに年々奔放さが増していくと書かれていたところから推測したものと、何年か前に会った時の印象だった。あんな真面目な息子からこんなに良くも悪くも奔放な子が生まれてくるのだと感心した。真面目なのは私と妻からの血だと思っていたが、そんなものは当てにならなかったらしい。前に会ったときには既にティーンエージャーで、孫は全ての大人に反発し、また私のような老人の話を鬱陶しがるようになっていた。しかしそれは誰もが通る道だ。そうは思うが、やはり可愛い孫に無碍にされるのは悲しい。爺馬鹿と言われればそれまでかもしれないが、それでも孫とは宝である。

 こんなとりとめのないことさえも喋る相手がおらず、また独り言にもできず、アパートメントはまだ起き抜けない住人達の寝息で静か過ぎて悲しいのだった。


 そろそろ身支度をせねばと、クローゼットを開ける。昨日アイロンをかけたズボンは皺が伸びきっておらずよれよれである。シャツも同様だ。妻のようにはいかぬ家事の一つだ。仕方がないので、比較的ましそうなものを選び着替える。そうして朝ごはんの準備をする。いつも妻が用意してくれたメニューを真似て、トーストしている間にフライパンで卵を焼き、サラダボウルにレタスをちぎって入れる。結局、目玉焼きとトーストは少し焦げてしまった。サラダも、どうも妻のもののように見栄えがよくない。これも、妻のようにはいかぬ家事である。思い出せば、妻のサラダはもっと色彩豊かであったように思う。切ったパプリカだとかトマトだとかが添えられていた。独りで食事の祈りをする。アーメンを復唱してくれる人はいない。寂しいものだと思いながら、もそもそと食事を咀嚼し牛乳でそれを流し込む。独りでいれば食事もまた楽しみではなく、生きるための作業であった。

 食事の後は、ほんの少しの洗濯物を洗う。ボタン一つで全ての衣服が綺麗になるとは便利な世の中になったものだ。そうして、回り終えた洗濯槽から洗濯物を引っ張り出してみると、なんとサスペンダーが出てきた。洗濯籠に入れた覚えはないと驚きながら、絡み合った洗濯物の中からそっと取り出すと、なんという失態だろうボタンは全て取れてしまっていた。このサスペンダーは年代物でボタンは最初についていたものとすっかり変わってしまっている。ボタンが取れるたびに妻が付け替えてくれたのだ。妻の付けてくれたボタンはどこへいっただろう。そう思いながら洗濯槽を覗き込むが見当たらず、また洗濯物にまぎれている事もなかった。他のサスペンダーもある。何も困る事はないが、ただ私はどうしようもなく泣きたい衝動に駆られた。ただ私の癖か、こういう時に泣く事を許さないのである。年をとると涙腺が緩くて困るな、と冷静なふりをして私はなんとか涙を引っ込めた。


 外は、麗らかな陽気である。折角のお天気なのだから散歩にでも出かけたらどう、とどこからか聞こえてきそうな陽気である。何をしても返答のないこの部屋は寂しい。そう思い、私は日曜の街に散歩に行くのだ。


 しばらくは古いアパートメントや戸建の並ぶ住宅地の道を歩き、その先にある公園に出る。そこには日曜だからか、父親とキャッチボールする少年がいたり、赤ん坊の乳母車を押して散歩する若い母親がいたり、またベンチに腰掛ける老夫婦がいたりした。孫と同じ位のティーンエージャーが私の横をスケートボードで通り過ぎる。その姿に、なんとなく元気を貰った気がした私は、今日の晩ごはんにおかずを一品増やすか、食後のデザートに果物でも買って帰ろうと思うのだった。

 公園を抜けると、そこには商店街がある。顔なじみになりつつあるパン屋や肉屋、八百屋や青果店。しかし、それ以外の店はまだよく知らない。私は散歩がてら商店街の散策をすることにした。普段はよく見ずに通り過ぎていたが、服屋や靴屋なども並んでおり、また本屋や文具店などもある。たまに楽器店やよく分からないガラクタのようなものばかりを売っている店もあり、新鮮な気持ちで辺りを見て回った。


 そろそろ、商店街も一通り見終えたかと思い、もと来た道を引き返すと、一軒だけ見慣れない店があった。その店は商店街には似合わない酷く小洒落た雰囲気の店であった。雰囲気に惹かれ近寄ってみる。下がっている看板を見てみると、そこには流れるような書体で

『サスペンダー専門店』

と書かれていた。サスペンダーと見て、私は朝の失態を思い出し落ち込んだ。しかし、通りで落ち込んだままにいるわけにもいかず、またあのボタンの取れたサスペンダーのことを放って置くわけにもいかない。そう思い直し、私は惹かれるままに店に入っていった。

 店に入ると、カランコロンとどこか惚けたようなドアベルが鳴った。私は、目の前の光景に思わず目を見張った。そこにはありとあらゆる種類のサスペンダーが並べてあった。整然とではないが、雑然としているわけでもなく、いわばそこにあるのがさも当然といったように、しかもセンス良く並べられた様々なサスペンダー。私は近くの棚を眺めた。一目でわかる高級品やどう考えてもおもちゃのようなもの、子供用から大人用、悪趣味なゴテゴテと飾りの付いたものや抜群にスマートなものまでが、所狭しとしかし自然体でそこに置かれている。しげしげと眺めていると、いつの間にか店の奥から店主らしき人物がやってきた。

「いらっしゃいませ」

にこやかにそう言ったのは初老の男性だった。

「お客様は、当店は初めてでいらっしゃいますね」

「はい」

そう答えて、そういえばこんなに洒落た店に入るのは初めてだと思い、些か緊張しそうになった。場違いではなかろうか。しかし、不思議とこの空間は心地よく、また店主も穏やかに笑ったまま私の来店を歓迎してくれているようだった。

「今日はどういったものをお探しで?」

店主の物腰柔らかな問いに、私は少々恥ずかしかったが今朝の顛末をそのまま話すことにした。

「はい、実は、お恥ずかしながら今朝洗濯をしたときにサスペンダーを一本駄目にしてしまいまして」

「さようでございますか」

それでしたら、と店主は店の色々なところから様々の種類のサスペンダーを取ってきてくれた。

「型はどのようなものがお好みですか?」

「いつもY型を使っております」

「それでしたら、こちらなどいかがでしょう」

そう言って、いくつかサスペンダーを見せて鏡の前で合わせたりもしてくれた。店主は私の要望をよく聞いてくれ、それにあったサスペンダーを探し当ててきてくれた。しかし、その中には高級品は一切なく、かといっておもちゃのようなものもなく、いわゆる普通のサスペンダーばかりだった。さすが、サスペンダー専門店というだけあって私の要望にあったものはすぐに出てくるが、よく考えたら専門店なのだから、そういうところはどちらかというと高級品を売りたいのではないかと思った。もしかしたら、店主は丁寧に対応してくれているが、私は場違いだったのかもしれない。そう思うといたたまれなくなってきた。かといって、これだけ見ておいて何も買わずに帰るのも迷惑だろう、どうしたものかと思っていると、カランコロンとまた惚けたベルの音がした。


 入り口を見遣ると、恰幅のよいというには少々肥えすぎた中年の男が立っていた。髪をぺったりとポマードで撫でつけ、いかにも金持ちというような腕時計や装飾品を数々身に付けていた。店主は私に、

「ちょっと失礼しますね」

と言うと、その男に向かっていった。

「どうも、いつもご贔屓にありがとうございます。今日はどういったものをお探しで?」

店主の言葉から、その男はどうも常連客のようだった。やはりこういった人達の御用達の店なのだ。そう思うと、男の体格の威圧感もあってか私はなんとなく居辛くなった。中年の男は、私に気付くとふんと鼻を鳴らして、店主の方へ向き直った。

「今日は、大事な会食がある。取引先との接待用に新しいのを一つ買ってやろうかと思ってな」

「さようでございますか、それでしたらこちらがよろしいかと」

そう言って、店主は少し地味目のしかし光沢感のある革のサスペンダーを差し出した。すると男は怒ったように、

「だから、大事な会食だと言ってるだろう! これで私の人生は大きく変わるんだ。もっと良いのを選んでくれ!」

「申し訳ございません。それでしたらこちらなどはいかがでしょう」

そうして、店主が勧めるものを、男はことごとく断り続けた。そして最後は痺れを切らしたように、

「もういい! わしが選ぶ!」

と店主の意見もそっちのけで、ゴテゴテとした宝石飾りの多くついた高価なサスペンダーを買い上げて、満足そうに帰っていった。

「またのお越しをお待ち申し上げております」

店主はにこやかに丁寧に店の外で見送っていたが、店に入ってきたときの表情は苦いものだった。


 店主は、また私のほうにやってきて

「申し訳ございません、お待たせいたしました」

と私のサスペンダーを見繕い続けた。私は気になっていた事を尋ねようと思った。

「その、ここは常連のお客さんが多いんですかね?」

「さようでございます」

「さっきの方みたいに、その、お金持ちの人が多いんですか?」

「お客様には様々な方がいらっしゃいますよ。しかし先ほどのお客様は、あと来店されても一回きりでしょう」

金持ちだけだと言いにくかったからなのか本当なのか分からなかったが、先ほどの苦い表情を見ると私も送り出された後、あんな表情をされやしないか、と少し怖くなった。それに、常連客だろうにあと一回きりと言う店主も不思議だった。すると再びベルの音が鳴った。


 次に入ってきたのは、まだ青年と言ってもいいような男だった。しかし、ピシッと決めた髪形から相当の品の良さが漂っていた。彼もまた、一目では分からないが着こなしのよさや生地、仕立てから高級なスーツに身を包んでいた。店主はまたも私に断りを入れてから、青年の方へ行った。

「どうも、いつもご贔屓にありがとうございます。今日はどういったものをお探しで?」

この青年も常連客らしい。私は見立ててもらったサスペンダーの中から気になるものを見ているふりをしながら、二人の会話に耳を傾けた。

「デート用にサスペンダーを新調しようかと思ってね。何かお勧めはありますか?」

「そうですね、いくつかお持ちしましょう」

そう言って、店主は店の奥へと行った。じっと青年の方を見ていると、ふと目が合った。私は不躾にもまじまじと見てしまった事を申し訳ないと思ったが、青年はそんな私の心境を気にする様子もなく気さくに声をかけてくれた。

「ここは初めてですか?」

「ええ」

私は、孫もこんな好青年になってくれたらと思った。それほどにこの青年の話し方は快活で誰からも信頼されるような人物に思えた。

「どのようなものをお探しに?」

まるで、店主のような事を聞くなあ、と思いながら私は答えた。

「いえね、今朝洗濯で駄目にしてしまったので代わりをと思いまして」

「そうでしたか。サスペンダーは是非店主さんのお薦めのものを買うと良いですよ」

にっこり笑って青年はそう言った。

「僕はデート用に新調しようかと思いまして」

聞いていましたとは、とても言えなかったので私は曖昧に頷いた。

「今日は僕にとって大事な日でね。ずっと付き合ってきた彼女にプロポーズしようと思っているんですよ。指輪も買って、だけど、どうしてもそれに相応しいサスペンダーが見当たらなくって。仕事用のはたくさん持っているんですけどね。だから思い切って新調しようと思いまして」

そこまで青年が言い、私が頷こうとすると思わず近くから店主の声がした。

「なんと! そういうことでしたか!」

私が驚いて横を見ると、店主も腕にたくさんのサスペンダーをかけたまま驚いていた。

「嗚呼、立ち聞きしてしまい大変申し訳ございません。しかし、そのような大切な日でしたら、もっとそれに合ったサスペンダーをご用意いたしましょう」

そう言って、店主はまた店の奥に引っ込んだ。しばらくして出てきた店主の腕には、厳選されたであろう青年に似合いそうな品のいいサスペンダーが数本下がっていた。そうして、私と鏡の立ち位置を変わった彼は次々にそれらを合わせていった。

「これ、結構派手じゃないかな。もっと暗い色でも良いかなと思ったんだけれど」

「いえ、貴方の年であれば、そこまでしては地味に見えてしまいます。これくらいのお色の方がよろしいかと」

店主と青年の会話を聞きながら、私も失礼ながら後ろからそっと鏡をのぞき見る。すると、確かに店主の言うとおり青年らしく溌剌とした色で、しかし品のあるこの青年に似合いのサスペンダーだと思った。

「店主さんがそう言うなら、これにしよう」

そうして青年は店主の薦めたとおりのものを買っていった。結構な値段であったが、青年は気にした風もなかった。そうして出がけに、

「貴方にもぴったりのサスペンダーが見つかりますように!」

と言ってくれた。店主は先ほどと同じように店の外で青年を見送った。

「またのお越しをお待ち申し上げております」

そう言って店に入ってきた店主の表情は、先ほどと違い穏やかなものだった。

「申し訳ございません、お待たせしました」


 そう言って、店主はまた私のサスペンダー選びに付き合ってくれた。そうして、色々な会話をしている内に、今朝駄目にしてしまったサスペンダーの話に戻った。私が、

「もう長いこと使ってるんですよ。ボタンが取れるたびに妻が付け替えてくれて、大事にしていたんですけどねぇ」

と言うと、店主は先ほどの青年の時と同じように、

「なんと! そういうことでしたか!」

と驚いた風だった。

「それでしたら替えのボタンと糸を用意いたしましょう。永く大事にされていたようですし、思い入れもおありでしょうから」

「しかし、私は不器用なもので、妻のように上手く付け替えられるかどうか」

「ですが、ここにあるどのサスペンダーより貴方にお似合いだと思いますよ」

 その時、勢いよくドアが開きベルがガランゴロンと鳴った。飛び込んできたのは最初に店に来た中年の男だった。男は汗だくで酷く息を切らしたまま店主に詰め寄った。

「終わりだ、破滅だ! 接待どころじゃない、これじゃあ何もかもお終いだ!」

そう喚きながら、汗は噴き出しているのに青白い顔をした男は膝を折って懇願するように店主に縋りついた。

「頼む! 今からでも良い、身の丈に合ったものを用意してくれ!」

すると店主は慌てる様子もなく、

「かしこまりました」

と店の最奥へ進んでいった。そうして、一つの埃をかぶっている箱をカウンターに置いた。男は、急いでカウンターに近づき箱を開けた。すると、男は箱の中身を一目見ただけで

「ひぃい!」

と悲鳴をあげ、店の棚にぶつかりぶつかり商品のサスペンダーを落としながら、店を飛び出していった。

「さようなら」

そう言いながら、店主は店の外で男を見送っていた。私は箱の中身が気になったが、鏡のある位置からはカウンターにおいてある箱の中身は見えず、また盗み見るのも気がひけたので気にしないことにした。店長は落胆したような表情で店に入ってきた。

 私は、店の床に落ちたサスペンダーを拾い集めていた。すると店主が慌てたように、

「お客様、わたくしめの仕事ですので」

と言った。私は拾い集めた分のサスペンダーを店主に差し出した。

「申し訳ございません、ありがとうございます」

店主は、まだ床に落ちているサスペンダーを拾うともとのとおりに並べ始めた。


 ようやく、全てを並べ終えた店主が私の方を向き直り、

「お客様には何度もお待ちいただき申し訳ございませんでした」

と深々と頭を下げた。私は、

「いいえ。急いでいるわけでもありませんし気にしませんよ」

と言った。店主が、

「お待たせいたしました。それではこちらへ」

と案内してくれた先には、サスペンダーの様々な種類のボタンが揃った引き出しがあった。店主は、私に事細かにサスペンダーの事を尋ね、私は頭の引き出しから色々な思い出と共に記憶を取り出して答えた。いつ頃買ったものか、色はどんなものか、何年ほど使っているか、今日まで付いていたボタンはどんな色でどんな形だったか。実はそのサスペンダーは妻からの初めてのプレゼントで、色は白髪になる前の私の髪に合わせたもので、もう何十年も使っていてといった事を答えた。そして今日まで付いていたボタンは妻が病床で最後にやった裁縫仕事であったと伝えた。それだけで店主は、妻が付けてくれたものとそっくりそのままのボタンと糸を取り出した。私は心底驚いて、店主を見たが彼はにっこりと笑うだけであった。


 その後、店のカウンターでちょっとした押し問答があった。というのも、店主は代金を払わなくていいといったのだ。それは何故かと問うと、

「お客様にはお手数おかけしまして、そのお詫びです」

と言われた。

「お詫びだなんてとんでもない。こちらこそ長いことサスペンダー選びに付き合ってもらいましたし」

と、私が代金を払う姿勢を見せると店主は、

「それでは、わたくしめが大切にしておりますサスペンダーを拾ってくださったお礼と言う事で」

と言い、頑として譲らなかった。私はそういうことならと、しぶしぶではあるがボタンと糸の入った小さな紙袋を受け取ったのだ。そうして、店を出ると店主は丁寧に店の外で見送ってくれた。振り返ると深々とお辞儀をしていたので、これは早く立ち去らないとずっと頭を下げさせることになるなと、私はポケットに紙袋を突っ込みながら急ぎ足でもと来た道を戻ったのだ。


 帰り道に、そう言えば果物を買って帰るんだったと思い出し、商店街でもそこそこ馴染みの青果店に寄った。そこの店主は体格のいい主人で、ちょくちょく試食と言っては珍しい果物を味見させてくれた。今日も珍しい東国の果物が手に入ったと一口味見をさせてくれた。私はその果物を大変気に入ったので買って帰ることにした。調度その時、世間話の延長であのサスペンダー専門店の話をした。すると主人は、

「サスペンダー専門店? そんなのあったかねぇ」

と言った。私が大体の位置を教えると、

「しかし、そこは空き店舗だったはずだよ」

と言われた。何かと見間違えたんじゃないかい、なんて笑いながら果物を手渡す主人に、しかし確かにあったのだと言えず、そのまま果物を受け取った。

 帰って、果物の袋を置く。そしてポケットに手をやると、確かに紙袋はあった。ちゃんと中にボタンも糸も入っていた。やはり、サスペンダー専門店はあったのだ。その後は、不器用ながらいつも妻が用意してくれたメニューを真似て晩ごはんを作り、独りでお祈りをし、そうして食事をとった。食事の後には不器用なりに、何度も手や指を刺しながらではあったが、無事にサスペンダーのボタンを付け替えた。老眼の、しかも病床にあった妻には、ボタンの付け替えすら大変なことだったろう。それを文句一つ言わずやってくれたのだ。

 次の日曜には、鬱陶しがられても孫に会いに行こう。このサスペンダーをつけて。そう思った。

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