影駆ける夜は

kgin

第1話 影駆ける夜は



 月がかかる小高い丘の頂上、一本の大木を横切るように不気味な影が走った。あたりは、先程までの喧噪が嘘のように静まりかえっていた。戦火を逃れた大木は、戦そのものを知らなかったかのようにぽつねんと立っていた。その大木の足下、古ぼけたほこらの裏に影は身を潜めた。


影は手負いの男だった。


 戦あるところにこの人ありと言われた男だった。敵将に死に神とあだ名された男だった。魔性の炎を纏った剣に貫き通せぬものはなく、数々の戦場で鬼のような戦果を挙げてきた。戦うことしか取り柄がなく、戦うことにしか生きがいを見いだせない男だった。味方にすら恐れられ、友の一人もおらぬ孤高の戦士だった。

 ある日、歴戦の功によって男は勲章を授かった。深紅に輝く勲章をいただこうとしたその瞬間、群衆の合間から一人の少女が飛び出してきた。短刀を持った少女はその切っ先を男に向け、一心不乱に突進してきたのだ。剣を構える時間も、炎を宿す時間も、この男であれば十分にあったはずだった。しかし、焼けただれた少女の美しい顔が涙に歪むその様を見た刹那、男は金縛りにあったように動けなくなってしまった。少女の短刀が男の脇腹に突っ立ったとき、その痛みにようやく男は身震いし、少女を一刀の元に切り捨てた。赤く燃える炎の中で、切られた少女は黒く燃えて、灰になった。後には、金色のロゼッタだけが残った。中には母親と少女の写真が、セピア色に焼け焦げていた。母親の顔は、若かりし頃、男が愛した女だった。男が一月前に火を放った村にその女がいたことは、後になって知らされたのだった。


 腹の傷が痛む度に、男は少女のことを思い出した。


 そして、その度に言い知れぬ虚脱感と絶望感に見舞われた。己の武勲は、己の生き様は、一体何なのか。全身の血液が鉛のように重く沈んだ。次第に男は、戦うことに懐疑的になってきた。刀も研がず、寝食も忘れて、自問自答した。それでも戦は待ってはくれなかった。




 男は今、静かに目を閉じて終わりを待っている。晴れた静かな夜だ。大木の隙間から射す月明かりが眩しいほどだ。奇しくも不意打ちで食らわされた傷は、件の傷と重なっていた。肉の切れ目から血が滲む感覚が熱い。もう、指一本も動かしたくなかった。


(ついに、年貢の納め時か)


 痛みと裏腹に頭の中は冷え切っていくようだった。惨めな最期だと思った。戦いを生業に、人の死を糧に生きてきた己には、お似合いだ。細く、大きく息を吐いた。


 その時だ。ふいに、男の痩けた頬の上を生温いものが這った。熊か、狼か。男はハッと目を開けた。すると、目の前に、驚くほど黒く、おののくほど間抜けな顔の犬がいるではないか。短い四肢は不格好に和み、ちょうど口笛を吹くような表情でこちらを見ている。その口元に、わずかに男の血がついている。


(さっきのは、こいつか?)


 こんななりでもこいつも獣、きっと男を喰らう気なのだろう。それも悪くないかもしれない。男は犬の牙が己の首筋に食らいついてくるのを待った。しばらく両者は無言で見つめ合った。犬は瞬きひとつしない。不思議と殺気も、息遣いさえ感じない。されども犬は、訝しがる男を余所に、何とも間抜けな音で屁を吐いた。男は、男は、思わず吹き出した。笑った。腹の傷の痛みも忘れて笑った。これだけ笑ったのは、いつぶりだったろうか。息も絶え絶えになった男は、大きく息を吐いてもう一度目を閉じた。


「お前はお前のように生きればよいではないか」


 その声に、急いで体を起こして犬を見ると、賢者のような表情の犬が静かに微笑んでいた。月のような光を纏って香るようだ。先程まで漆黒に見えた犬の瞳は、優しく濡れて、ちょうどロゼッタの女のようだった。瞬間、男は悟った。男が悩み、苦しみ、敗れ、追われてここに辿り着いたことは、全て必然だったのだ。男は、息を呑んだ。そして、力強く言った。


「感謝するぜ お前と出会えた これまでの全てに」


 男の体に紅い炎が宿った。その炎は男の全身を包んだ。細胞から魔力を絞り出すようにして、男は立ち上がった。そして大地を踏みしめて、一歩また一歩と歩き出した。風の鳴る方へ向かって。

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