空蝉の少年少女

中田カナタ

第1話

 蝉の抜け殻がコンクリートの道にポツポツと落ち始める季節。僕は現世に生まれ落ちたように眠りから目を覚ました。

 滴る汗が体をなぞり、僕にその肉体の形をハッキリと認識させ、不快にさせる。君の心の居場所はこの肉体しかないぞと言わんばかりに流れるこの汗が僕は何よりも嫌いだ。

 僕はずっと夢の中に居たいのに。

 全能感カルタシスすら覚える、あの夢の中に。


「また来たのね」

 名前も知らぬ彼女はホトトギスのような優しい声で僕を歓迎する。

 僕はまた彼女のその長く真っ直ぐな艶のある黒髪や、吸い込まれるほど美しい黒曜石のような瞳に心奪われ返答できずにいる。

「もう、何か言いってよ」

 彼女はそう言ってツバキみたいな笑顔を僕に見せる。

「こ、こんばんわ」

 ハッとした僕にはこのくらいの挨拶しか返せなかった。不甲斐ないのは自分でも分かっているのだが僕にはこれが精一杯だ。

「こんばんわ。今日は何しに来たの?」

「......特に何かしに来た訳じゃないかな」

「じゃあ今日も私の話を聞いてよ」

「うん、そうするよ」

 いつも最初に同じ会話をする。

 でも、それは僕と彼女が話す時間の始まりの儀式のようなもので、彼女と意思疎通ができているのが実感できるから嫌いじゃなかったし、むしろ好きだった。


 そのあとは僕はいつものようにひたすら聞き手にまわった。

 彼女の話は何よりも面白くて、聞いていて心地が良い。

 何時間も話を聞いているようだったし、一瞬しか経っていないようにも思えた。

 その時だけは、僕は全てのしがらみから解放されていたと思う。

 いや、きっとそうだ。

 僕はこの空間の中でだけ生きていることを実感できる。

 ただ話を聞いてるだけかもしれなが、彼女から発せられるその声が、その吐息が、僕を満たしてくれ、僕の心をなぞってくれる。

 きっと彼女を通してでしか自分を満たせず、自分自身を認識出来ない僕は他から見たら愚かに見えるかもしれない。

 でも、ここには僕を愚かだと蔑む奴は一人もいない。

 ここは僕と彼女だけのセカイだ。

 誰も僕を邪魔しない。

 誰も僕を否定しない。

 誰も、僕を、見ていない。

 僕は、感じる、これが、自由だと。


「自由と思った時点でそれは自由ではない」


 そう聞き慣れた声が聞こえた途端、セカイが暗転した。


 僕は引き戻される。

 僕を蔑む奴らのいるこの世界に。

 

 しかし、僕はまた虚構ゆめのセカイに逃げ込むだろう。

 だが誰が現実から逃げるのを非難しようか?

 君が拠り所を求めるように、僕も虚構に居場所を求めているだけなのだ。

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空蝉の少年少女 中田カナタ @nakata_kanata

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