涙の湖



 夜が深まっていく。私はだんだん無感覚になる。これから、どうやって電車を乗り継いでいこう。たった、ひとりで。

 今晩はいつもに増して霧が深かった。あれだけ眠ることが好きやったのに最近はなかなか眠られへん。こうして片肘をついて、窓の外を眺めて夜を明かすことが多くなった。

 じいっと見つめていると、霧の僅かな動きに気づく。水平線のあたりに、シュリーレン現象が起きて、やがてそれは人のかたちになった。


「……なにあれ。おに……?」


 カラ……カラカラ……。


 聞こえる。何度も夢で見た、あの音。


 カラカラ……カラカラカラカラ。


 ものすごい速度で、こちらに向かってくるのが。

 身を隠す暇なんてなかった。気づけば、私の電車の目の前に鬼はいた。

 透明な身体。子どもにしか見えないという、大きな人型の塊。大人になるにつれ、だんだんと忘れてしまうのだとか。

 今まで、鬼が何なのか、なんて考えたこともなかった。急に現れて、電車をかっさらっていく、魔物。そういうふうに、考えていた。やけど。

 棒が振り下ろされる。私だけに向かって。ものすごい勢いと衝撃を受けて、ぽーん、と私は投げ出された。

 空中に舞う中で、私は鬼の顔を初めて見て、絶句した。そこには、お面のようにはめられた、えみちゃんの小さな顔があったのだから。

 えみちゃんが、私のこと恨んで降ろしに来たんやな。

 そう思うと、今まで一滴もこぼれなかった涙がぼろぼろとこぼれた。

 それでいい、と思うのに、悲しくてしょうがなかった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったのに。

 これは、自分のために過去に戻った罰やろうか。やり直したいと願った私への、罰やろうか。

 えみちゃんの顔とは別に、お腹のあたりに開かれた口みたいな穴に私は落ちていく。

 私のこぼした大粒の涙が水面に波紋を作って同化する。

 あぁ、この世界を覆う海のようなものは全部人間の涙やったんやな。

 鬼の手が伸びてくる。私は目を閉じて、大人しく鬼になったえみちゃんに食べられた。



 ❃ ❃ ❃



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