全力捕球!

おかやま

第1話

 遠い昔の記憶である。その日、俺は家族に連れられ、はじめてプロ野球の観戦をしに行った。でも、その頃自分は野球に関してはあまり詳しくなくて、とてつもない周りの喧騒に囲まれながら、外野スタンドから眺める選手たちの攻防は、楽しさに昇華できるものでは決してなかった。早く家に帰って、ゲームでもしたいな、なんて、そんなくだらないことを考えているその時だった。球場の奥の方から、とてつもない打撃音が、俺の耳の鼓膜をどうしようもないぐらいに震わせた。バッターボックスから放たれる、とても小さな白い塊が、どんどんと俺の前に迫ってくる。今にも俺に直撃しそうな、その玉の速さに身震いしながら、俺は持っていたグローブを体の前に構え、必死に自分の身を守ろうとした。目をつむり、真っ暗闇の世界の中、強い衝撃が俺のグローブから、確かに感じられた。ゆっくりと目を開け、どうしてか熱くなった自分のグローブの中を見てみると、そこには見たことがないぐらいに真っ白なボールが、大きな照明の光を反射して、輝いていた。その時俺は、強く思った。


 「自分は特別な存在なんだ」って。


 まあ、それも幼い頃に良くする、勘違いの一種みたいなもんだ。どんな人間だって、そういう些細なことをきっかけに、自分をなにか唯一的なものだと思っちゃうことはよくあるだろう?

 そして自分はそういう存在なんだって、信じて疑わず、そこから何年かは過ごしてきた。でも自分の体も成長して、思春期を超え、物事を多少客観的に捉えられるようになってからは、そんな考えも薄れていき、でもきっと自分の進む先には、輝かしい未来が待っているんじゃないかと、ちょっぴり期待しながら、普通の人生を歩んできた。テレビに映るあの有名な人だとか、今をときめくカリスマ性に溢れたロックスターだとか、そういう感じの存在にいつかなれるんじゃないかって、頭の奥底で考えながらも、そこに達せるほどの目的や努力も、情熱も何も持たずに、また、持とうともせずに、日々をただただ無駄に貪ってきた。


 いや、そういうものを探そうとはしたよ?でも、何もかも全部、探そうとしただけ。これが自分の天職なんじゃないかって、根拠もなにもない期待に胸を膨らませながら始めたあれやこれも、自分の才能の無さがやけに癪に障り、全部開始一日二日で、飽きてやめてしまった。


 そんなこんなで、なんの特異性のない普通の生活を送り、普通に学校を卒業して、普通の企業に入社し勤めている、どこにでもいそうな普通の新米社会人、それが今の俺だ。他人に誇れることなんてなにもない、ごくごく平凡な一般人。


 「おい鬼塚。そんなに休憩する暇があるなら、手を動かしたらどうだ?」


 時刻は午後7時を過ぎようとしている。ふと、椅子にもたれかかり、ボーッとしていた俺に対して、隣からそんな文句が発せられた。聞き馴染みのあるその声は、間違いなく上司である丘野さんのものであった。


 弱冠25歳という、驚きの若さで部長となり、その敏腕さから、この会社の利益を何倍にも上げ、勿論、全幅の信頼を社長からも置かれている。間違いなくこの会社の原動力となっている、欠かせないスーパー会社員。それがこの目の前の丘野さんだ。こんな普通な俺とは比べ物にならないほど、すごい人。

 それに、丘野さんは、その中性的でかつ目鼻立ちのキリッとした美しい顔と、結んだ長い、サラサラとしたきれいな髪が印象的で、時々、俺もその端麗さに見惚れてしまうことがある。背丈はあまりないものの、逆にそのことが、その美しい顔立ちをより女性的なものにしている。


 しかしながら、実は彼は男である。


「ああ、すいません。ちょっと、考え事が…。」


「そうか、勤務中に長時間考え事とは、お前も随分偉くなったものだな?」


 そんな皮肉を言う姿も、一枚の絵画になりそうなほどに美しい。


 だが、男である。


 ため息を一つつき、丘野さんは続ける。


「とりあえず、今日の分は終わらせておけよ。明日に回すとかなり面倒くさくなるからな。」


「はい、わかってますよ。まあ、最悪明日でも、俺、やるときはやるんで、任せてください!」


 俺は自信有りげに、そう言ってみる。


「そう言って、前俺に手伝ってくれと縋り付いてきたバカは、どこの誰だったっけな

?」


「うぅ…。まあ、それは…。」


 痛いところを突かれた。でも、その時は頼み込んだら、結局丘野さん、俺を手伝ってくれたし、厳しい事言いながらも、意外と優しいんだよな。


 腕を組みながら、俺を怪しむような感じで見てくる丘野さんの、綺麗な小動物のような目の中に、少々の慈悲の心があるような気がして、嬉しくなり、ちょっとばかし俺はニヤけた。


「じゃあ俺はもう帰るから、さっさと仕事を終わらしてお前も早いうちに帰りなよ。」


 そう気だるそうに言って、丘野さんは颯爽と会社を出ていった。そんな姿さえも、すごく優美で、カッコよく見えてしまう。

 不思議だなぁ。


「よーし、ちゃちゃっと終わらせちゃいますか。」


 馬鹿みたいなことを考えるのはやめにして、気合を入れ直すために、袖をまくり、自分の頬を数回叩いた。そうして俺はようやく自らの仕事に本腰を入れ始める。

 さあ、ラストスパートだ!


 …と言いたいところだけど、


 だけどごめん、丘野さん。


 俺、今日全然仕事進んでないから、早いうちには帰れないや…。


 今日中にやらなくてはいけない山のような仕事の量に、涙目になりながらも、俺はすこしずつ沈んでゆく太陽の10倍の速さで仕事を進め、どうにかして終電には間に合ったのであった。やっぱ俺ってやるときはやるね!丘野さん!


 最低6時間以上の睡眠は必要不可欠な俺にとって、やはり、気分は最悪であった次の日、眠い目をこすりながらも、朝早くから他の会社に何件か営業をしに行かなくてはならなかった。しかし、寝不足が原因となってか、結果はまあ…ぼちぼちとでも言っておこうか。察してくれ。あまり思い出したくもない。

 会社への帰り道、非常にメランコリックな気分の俺は、人で溢れかえるであろう電車を使うのを避け、川に沿った河川敷の側の歩道から、帰ってみることにした。


 やはり自然というのは心を落ち着かせる。街の忙しない、いつまでも流動的な感じとは違い、川は非常にゆっくりだ。何年もかけて、その形を作り、そしてまた何年もかけて、消えていく。その過程ではもちろん難しいことはいらない。ただただ何も考えず、その身をすべて「自然」に委ねる。ああ、なんと素晴らしいことか。


 そういう自分のヘタクソな考えを元に、詩人チックな雰囲気を味わいながら、道を歩いてる途中、ふと河川敷の方から、小気味よい「カキーン」という音が聞こえてきた。


「…野球、やってる。」


 野球だ。野球をやっている。

 河川敷の、野球をやるにしては少し狭いような、そんな野球場では、野球の試合が少人数で行われていた。


 別に、特に俺は野球が好きというわけではない。知識についても一般人程度だし、経験だって学校の授業でやった程度だ。その野球場で野球が行われていることなど、別に珍しくもなんともない。きっと、いつもなら見過ごして、そのまま会社に帰っていたことだろう。

 しかし、その時の俺は、何故かそれについて異様に気になりだした。いや、厳密には、別に気になってはないのかしら?まあ、よくわからないので、そう表現しておく。


 歩道の横の古びた石の階段を下り、俺はその野球場からは少し遠くにある、錆びたベンチに腰を掛け、そこから彼らの試合をぼーっと観察していた。


 意外とあの投手の投げる球は速いんだな。いや、野球やってる人はみんなこんなもんなのかな?


 あのバッター、いいスイングするなぁ。俺も練習したらあの位できるようになるのかな?


 そんなくだらないことを考えながら、ぼけーっとしていると、俺の耳をつんざくような、大きな音が、あの良いスイングをするバッターのバットから、突然発せられた。そこから白球が、さんさんと照らす太陽の光を反射しながら、美しく、大きな放物線を描いていく。


「似てる…。」


 そんなこの場面に、どこか見覚えがあるようで、俺は「自然」と、周りへの意識が働かないほどに、ひたすらにノスタルジーに浸っていた。


 どんなことにでも希望が見いだせたあの頃。自分の未来には、きっと驚くようなものが待っていると信じてやまなかったあの頃。できることなら、もう一度戻ってみたいなぁ。


 まばゆい光が俺の前にどんどんと迫ってくる。それが俺の希望だったものなのか、ただの太陽の光なのか、良くはわからない。でも、それでいい。こんな感傷に浸ってみるのも、たまには悪くないなあ。


 ふと球場の中の選手たちの騒がしい声で、俺は現実に引き戻された。そしてそんな彼らを見ながら、俺は思った。


 あの選手たちも、きっと、なかなかうまくいかない現実に耐えながらも、必死に日々を生きているんだなぁ。


 と。俺の心が少し軽くなったのは、きっと、集団心理の応用みたいなもんだ。

 

 「よし、今日も一日、がんばりますか、と。」


そう言い、俺がベンチから立ち上がった次の瞬間、


「ドカッ」


 突如俺の顔面に稲妻のようなものが走った。


 その時、初めて俺は理解した。


 なんとびっくり、あのまばゆい光は、希望でも太陽の光でもなく、大きく飛んだホームランボールだったなんて。


「ぅ…ぐ………。」


 初めて知ったよ。あまりにも痛いと、痛みって、あとから来るものなんだね。なんだか辛い食べ物みたいで面白いね。


 俺の顔面からポテっと転げたボールを、どうしてか、素手でキャッチしてから、俺は漫画のワンシーンのごとく、地面にドサッと倒れた。そして、変にノスタルジーに浸っていたことを、俺は激しく後悔した。




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