第3話 未来

 由紀子は、自分が最近、

――昔のことは思い出せるのに、直近のことが分からないことが多くなった――

 と感じるようになったが、その同じ思いを、自分の身近でも感じている人がいるということを意識していた。しかも、一人ではないと思っている。それが誰なのか分からなかったが、そんなにありがちな性格ではないと思っているだけに、不思議な感覚だった。

 限られた自分に関わっている人をいろいろ思い浮かべてみたが、なかなか思いつくものではない。ふとしたきっかけでその人と同じ意識がぶつかることもあるだろうと考えていた。

 ただ、モノを捨てられないという意識が自分を変えつつあることを意識してくると、不安と怯えから、

――昔のことは思い出せるのに、直近のことが分からないことが多くなった――

 という感覚が、自分の身近に渦巻いているという意識を持つことに繋がっているのではないかと思うようになっていった。

――一体、自分の過去に何があったというのだろう?

 何か、カギが自分の意識の中で引っかかっているような気がする。

 今思い出せるのは、子供の頃に捨ててしまったカギだった。納屋と聞いてドキッとしたのを思い出したが、納屋で閉じ込められた子供がいて、その時、カギがなくて開かなかったという話を聞いた。

――私が捨ててしまったカギは、その納屋のカギだったんじゃないんだろうか?

 そう考えれば、いろいろ納得のいくことがあった。しかし、カギは捨ててしまったのだし、子供は何とか助けられた。自分が捨ててしまったカギが本当にその時のカギだったのかということは、今となっては誰にも分からない。

 そんなことはどうでもいいのだ。由紀子がその時のカギを自分が捨てたカギだと思い込んでいることが問題だった。

「子供のすることだから」

 という言い訳が通用するとは思わなかった。何よりも、

「逆の立場だったら」

 と思うと、恐ろしくて震えが止まらない。もし、助かってからしばらくして、どうして自分が閉じ込められなければならなかったのかということを考えないわけはないだろう。実際に理由を突き止めることができるかどうか分からないが、もし突き止められなかったとすれば、きっとまわりの人すべてを、信じられなくなるかも知れない。

 鬱状態を知っている由紀子なので、余計にそのことが引っかかってしまう。原因が分かったからといって、原因を作った人を恨みとおすことができるかどうか分からない。しかし、それは逆の立場から考えればのことで、自分が恨まれる立場になれば、ずっと恨み通されてしまうように思えてならなかった。

 その時の子供がどうなったのか、由紀子は知らなかった。ただ、由紀子はその子に対しての申し訳ないという思いと、自分がその子の立場だったらという思いとが交錯して、トラウマを作っていたことは分かっていた。

 しかし、そこまで分かっているのに、それ以外にどんな過去があるというのだろう?

由紀子が考えるに、過去のことで憂いがあるとすれば、その時のことしか考えられない。ただ、その時のことを思い出すと、ある程度思い出せるのだが、その時のことを思い出した後で、他にもそのことが理由で自分に憂いがあることを感じていた。

 由紀子は自分の憂いがある原因として、子供の頃のカギを捨ててしまったことを思い出したが、今度はそこから、時系列に沿って、自分の過去をどんどん今の記憶に近づけていこうとしていたが、ある場所で、時系列に沿っているのに、記憶が曖昧なところがあることに気が付いた。

「やっぱり、昔のことは思い出せるのに、直近のことが思い出せなかったりする」

 と感じたのは、一度過去に記憶が戻って、そこから時系列に沿って自分の記憶を呼び起こそうとしたからなのかも知れない。

 もし、そんな思い出し方さえしなければ、直近のことが思い出せないなどという意識を持つこともなく、普通に意識できていたのかも知れない。そんな風に思うと、由紀子は自分の中にいくつかのトラウマが眠っているのではないかと感じたのだ。

 由紀子は自分が他の誰かから、自分の意識を操作されているのではないかと思うようになっていた。あまり友達もいない由紀子は、自分を操作している人がいるとすれば、最近知り合った人ではないかと思っていた。

――頼子ではないな――

 自分と同じものを持っているように思えていたことで、一番自分に近い頼子を想像したが、どうもそうではないようだった。

――じゃあ、啓介さんかしら?

 啓介は少し図々しいところがあったが、由紀子は自分が彼には逆らえないところがあると思っていた。以前から知り合いだったような思いもあり、それは自分で感じたというよりも、啓介の態度から、違和感がないことから感じたことだった。

 彼も最初は由紀子に気を遣いながら話をしていた。そこに安心感を感じ、親近感のようなものも湧いてきたが、一緒にいる機会が長くなると、どこか図々しさを感じるようになっていた。

 本当は彼が図々しいわけではなく、自分に関りが深くなってきた人に対して、一度は感じる図々しさだった。その図々しさを感じた時、相手に嫌気が差すか、それとも、相手に逆らえないように思えてくるかという両極端なところが由紀子にはあったのだ。

 相手に対して両極端な気持ちになるのは、本当は嫌だったが、その時にどう感じるかで、自分にとってその人が、どのような立場の相手なのかということを知ることができる。啓介に限っていえば、今後の由紀子に対して多大な影響を及ぼす可能性を秘めた男性であるということが分かった。

 ただ、それがいいことなのかどうか、ハッキリとはしなかった。

 啓介という男に安心感を感じたのは、彼の微笑みを見たからだ。ただ、その安心感が急に図々しさに感じられたのは、本当に由紀子が人との関りを煩わしいと思うからだろうか?

 啓介は、

「僕は、学生の頃から、あまり女性と話すことはなかったんですよ」

 啓介から感じる安心感からは、意外な言葉に思えた。

「そんなことはないような気がしますけど、啓介さんなら、女性とうまくお話しができそうに思えますよ。私にだって、お話しできているじゃないですか」

「ええ、あなたには遠慮もなくお話ができるんですが、僕の場合、きっと話が合う人というのが少ないんでしょうね」

「そうなんですか? 私はあまり人と話をするのが得意な方ではないので、ただ、聞いているだけのことが多いんですよ」

「僕は、逆にそんな人相手ならお話ができるんですけど、相手から話を仕掛けてくるような人とは、どうもお話が合わないようなんですよ」

「話が噛み合わないということですか?」

「そうかも知れませんね。せっかく話題を振ってくれても、その人とお話が合わないのであれば、どうしようもないですよね」

「私の場合は、話題性があるわけではないので、話が人と噛み合わないことが多くって、自分から話しかけることができないんですよ。特に自分でも変わった性格だって思ったりしていますからね」

「どういうところがですか?」

「モノを捨てられない性格だったりするんですよ。それに、中途半端に人に気を遣ってみたり、自分でも嫌なところばかりが目立っているような気がして、挙句の果てに、躁鬱症だったりするみたいなんです」

「実は、僕も由紀子さんと同じような性格の女性と以前知り合いだったことがあったんですが、最初、自分をこんな性格にしたのが彼女ではないかと思い恨みに思ったことがあったくらいなんですが、でも、実際はそうじゃなかった」

「というと?」

「他に、自分をこんな性格にした人がいたことを知らされたんです」

「それは誰からですか?」

「姉からだったんですが、姉はその人に復讐したいって言っていたんですよ。それは僕のための復讐だったんですが、途中で『私、復讐なんてどうでもよくなっちゃったの。だから、あなたも変なことを考えるのはやめた方がいいわ』と言っていたんですよ。最初は何のことを言っているのか分かりませんでした。姉が僕のために復讐を考えているなんてことも知らなかったし、でも、その時姉は、確かにこう言ったんです。『あなたの心の中に残ったトラウマは子供の頃に閉じ込められた納屋が原因だ』ってですね」

 由紀子は、納屋に閉じ込められたという話を、まさか啓介の口から聞かされるとは思わなかった。

――森田啓介――

 子供の頃の記憶で、その名前は出てこない。少なくとも、子供の頃の由紀子に、啓介との接点はなかったとしか思えない。

 同じクラスになったことのある子であれば、たぶん思い出せるような気がしていたが、思い出そうとしても思い出せないということは、啓介とは少なくとも同じクラスにはなったことがないということだ。

 子供の頃に聞いた話だっただけに、勝手にその子が自分に接点のある子だと思い込んでいただけなのかも知れない。

「お姉さんというのは、おいくつくらいなんですか?」

「僕よりも一つ年上だったんだけど、姉はしっかりした人なので、後で僕がどうしてあんな目に遭ったのかということを調べたみたいなんです。もちろん、小学生の頃のことなので、姉が調べたというのは、事件がというのは、事件があってから、かなり経ってからのことのようなんです。それだけ姉は執念深いということなのか、それとも、僕のことをそれだけ気にかけているということなのかのどちらかなのでしょうが、弟の僕でも、恐ろしく感じられるくらいだったんです」

「それで、復讐というのは?」

「姉は、今ではもう復讐なんて考えていないようなんです。僕も姉が復讐しようとしてくれているのなら、姉のしたいようにさせてあげようと思っていたくらいで、それだけ姉には逆らうことができないと自分でも思っていて、実際に最近まではその通りだったんです」

「では、最近は違うということですか?」

「ええ、姉は今では復讐しようとしていたことすら、忘れてしまったのではないかと思うほど、精神的に穏やかなんです。姉の性格からすれば、姉は自分で自分の性格を変えることができるほどではないようです。しっかりしていると思ったのは。猪突猛進で突き進み、実際に目的を達成することができることから、しっかりしているように思えたんですね。でも目的というのは、復讐する相手を突き止めるところまでで、そこから先はまた別の目的になってしまう。その目標をいつどうして見失ってしまったのか、弟の僕にはわかりかねているんですよ」

「どうしてあなたは、その話を私にしてくれたんですか?」

「実は、姉が復讐するために狙っていた相手があなただったからです。あなたには、身に覚えがありませんか?」

「ええ、確かにあなたの言う通り、私はカギを持っていて、そのカギを捨ててしまったと思っています。納屋に閉じ込められた子がいたというのは後から知りました。私は、それからモノを捨てられない性格になってしまったんです」

「そのことは姉から聞きました」

「あなたのお姉さんと、私は直接関係ないと思っていたんだけど?」

「ええ、うちの姉とは確かに関係はなかったんですが、姉はあなたのお友達から聞き出すことができたようです」

「頼子さんのことかしら?」

「ええ、そうです。でも、頼子さんを恨むことはしないようにしてくださいね。姉は頼子さんの中にあなたを見たようなんですよ」

「そういえば、大学生の時、目力の強い森田さんという先輩がおられたのを思い出しました」

「それが僕の姉です。姉はなるべくあなたに近づかないようにしながら、あなたに意識だけはさせるようにしていると言っていました。たぶん、そういうことだったんでしょうね」

 何がそういうことなのか分からないが、

「でも、私はあなたのお姉さんを慕っていたような気がするんです。私のモノを捨てられない性格を変えてくれるような気がしたんですよ。きっとお姉さんの目力の強さに惹きつけられた気がしたからなんでしょうね」

「僕も姉の目力の強さには圧倒されることもあったくらいです。姉と言っても一人の女性、そんな風に考えたこともありました」

 少し頭を下げて考え込んでいる彼を見ながら、

――啓介さんは、お姉さんを姉としてだけ見ていたわけではないのかも知れないわ。それが彼の中にジレンマを作り出したとすれば、この二人は姉弟でありながら、愛し合っていたのかも知れないわ――

 と感じた。

 啓介は続けた。

「そういえば、昔のことは思い出せるのに、最近のことはなかなか思い出せないというのが姉の口癖だったような気がします」

「それは最近、私も思い始めていたことだわ」

「姉は、ずっと以前からそのことを言い続けていました。それこそ、あなたが『捨てられない』という意識を持ち始めた頃に近いかも知れないと思っています」

「私とあなたのお姉さんは、どこか似たところがあるのかも知れませんね」

「僕は頼子さんをよく知っていますが、あなたを見ていると、頼子さんを見ているようだ。本当なら僕はあなたを恨まなければいけないのかも知れないけど、恨みは不思議とないんです。最初に恨みがあって、それが自然と消滅していったのであれば分かる気がするんですが、あなたに対しては、なぜか最初から恨みを感じることがないんですよ。恨むことができないと言った方がいいかも知れませんね」

「お姉さんの名前は何と言うんですか?」

「森田恵と言います」

「私が慕っていた人も同じ名前でした」

「今は連絡を取り合ったりはしないんですか?」

「ええ、恵さんの方から連絡を断つようになりました。最初から恵さんの方が連絡をくれていたので、その流れでずっと来ました。私が慕っていたというのも、二人の関係が恵さん主導だったからだと思います」

「いや、それはあなたが『モノを捨てられない性格』だったからなのかも知れませんね。あなたは、学生時代とか、結構男性からモテたでしょう?」

「ええ、でも、私が好きだと思うような人からモテたことってないんですよ。しかも、お付き合いすることもほとんどなくて……」

「それはそうでしょうね、由紀子さん自身から見たのでは分からないかも知れないですが、あなたがモテていたのは、モテない男性から見て、モノを捨てることのできないあなたからは、自分が捨てられることはないと思っていたからなんですよ。でもよくよく考えれば、あなたは他のモノも捨てられないのだから、いくらモテない男性たちとはいえ、自分の他に誰かがいると思えば、彼らなりにプライドが許しませんからね。由紀子さんと付き合おうという気にまではならないんですよ」

 それだけ自分が浅いところでしか、男性と引き合うことができないということであろうか?

「実は僕の姉は、僕が死んだと思い込んでいるんですよ。そのせいもあってか、一時期の記憶が欠落しているようなんです」

「自分から、生きていることをお姉さんに話すわけにはいかないの?」

「それができるくらいなら苦労はしない。もし、そのことを話して、姉の欠落している記憶が永遠に思い出すことができなくなって、姉の精神状態に狂いが生じれば、僕は一生悔やんでも悔やみきれないことになる」

 啓介は声を荒げるかのように由紀子に訴えた。口調は突き放しているような感じだが、実際には由紀子に自分の苦しい胸の内を聞いてもらいたいという心境なのではないだろうか。

「お姉さんとはお話をされているんですか?」

「姉は記憶が欠落してから、病院に入院しています。僕のことも今は半分分かっていないような感じなんですよ。というよりも、姉は僕の死んだ弟と、僕に対しての記憶が交錯しているようで、そのあたりに姉の欠落した記憶の正体があるようなんですよ」

「お姉さんは、あなたと弟さんの区別がつかない?」

「それはまだしっかりしている時からのくせのようなものなんですよ」

「お医者さんは何とおっしゃってるんですか?」

「先生は、じっくり時間を掛けて治していくしかないと言っています。記憶の欠落は自分に原因があることが多く、忘れてしまいたい記憶の存在が、自分を苦しめていると話していました。つまりは、姉自身が自分を取り戻すか、トラウマを解消させなければ、先には進まないと言っているんです。一時期姉の状態がかなりひどくなって、僕も面会謝絶になったことがあったんですけど、その頃から僕も病院から遠ざかってしまって、話をする機会もなくなってしまいました」

「そうだったんですね。人には誰にも言えないような過去が一つや二つはあるってよく聞きますが、本当なんですね」

「あなたもそうですか?」

「え、ええ、私にもあります」

「僕にもあるんですよ。姉にも当然あって、それを自分の内に籠めているために、今のような状態になったのかも知れません」

「ところで、お姉さんはずっと悪いままなんですか?」

「いえ、いい時もあるんですよ。入退院を繰り返しているような感じですね」

 由紀子はお姉さんが自分の知っている恵だと確信している。恵は弟の復讐をしたいと言っていたという。それは自分に対しての復讐の思いだったはずだ。

――私が復讐したい相手だと分かっていて、私に近づいたのかしら?

 彼女の雰囲気からはそんなことは感じられなかった。それよりも、彼女が入退院を繰り返しているような精神が病んでいるような雰囲気も感じられなかった。

 確かに恵の目力の強さは病的なほどに感じられた。恵の中に、誰にも言えない何かが感じられたのも事実で、躁鬱の気があることも分かっていた。

――そういえば、私がモノを捨てられない性格だって話をした時、恵さんは間髪入れずに頷いていたのを感じたわ――

 その時それまで感じていた彼女の目力の強さに、ヘビに睨まれたカエルを想像していたが、それ以外の感情を感じたような気がした。その時の思いを今すぐには思い出せなかったが、その思いがあったことで、恵を慕いたいという気持ちになったのだと、由紀子は気が付いていた。

「お姉さんは、人から慕われるようなタイプだと思うんだけど」

 と由紀子がいうと、

「確かにそうかも知れない。でも、普段の姉はいつも明るく、知っている人がいたら、声を掛けないと気が済まない性格なんですよ。しかも、声を掛けた時というのは、実にタイミングのいい時で、相手も姉と話をしてみたいと思った時期だったりするらしいんです。医者はそれを姉の特異な性格の一つで、悪いことではないと言っていましたね」

 恵が今回の入院前に声を掛けた男性、真田正則とはそれからしばらく付き合っているような感じだった。本人たちは自然な付き合いだったようだが、まわりから見れば、

「これほどお似合いのカップルはいない」

 と思われていたようだ。

 しかし、恵の発作は突然だった。

 急にひきつけを起こしたかのような痙攣がいきなり恵を襲ってきた。連絡はすぐに弟である啓介のところに入った。携帯電話がけたたましく鳴り響き、すぐに病院からだと分かった。

 病院に駆け付けた時には、恵は意識を失っていて、

「いつもの発作のようですが、今回は少しいつもと違っているようです」

「というと?」

「定期的なものというよりも、何かショックなことがあって、発作を起こしたようです。ひょっとすると欠落した記憶を思い起こすような何かがあったのかも知れませんね」

 医者としては、プライバシーの問題もあるので、下手に掘り起こすことはできない。本人にはあらかじめ、発作を起こした時、記憶が取り戻せそうな時にはどうするかということを打診していたが、本人も悩んでいたようで、ハッキリとしたことは名言していなかった。そのため、医者もそれ以上、応急手当以外のことをするわけにもいかず、とりあえず、啓介に相談してみたという次第だった。啓介本人も、姉のことを思ってか、

「姉が困って迷っていることを、僕が勝手に判断できません」

 としか言えなかった。

 医者も、

「それはそうでしょうね」

 としか、言いようがなかった。

 発作が一段落して、姉の意識が戻った時、どんな状況になっているのかを黙って見守るしかない啓介だった。

 啓介はその時初めて正則と会った。

 啓介は正則を見て驚いた。だが、その表情を表に出さないようにしていたが、それは、正則の方が啓介を見て、別に何も感じなかったからだ。

――気のせいか?

 と、啓介は感じたが、その思いはなかなか消えるものではなかった。その思いを感じた時に啓介は、

――由紀子さんと会わなければいけない――

 と感じていた。

 正則の方に啓介の意識がないのか、それとも、本当に忘れてしまったのか。どちらにしても、もし正則が啓介の思っている人であれば、

――今までの僕と姉の人生がなんだったのか?

 と考えさせられてしまう。

 啓介は、自分の弟が死んだものだと思っていた。恵も同じように思っているに違いない。

啓介は父親を問い詰めた。

「弟の正則は、本当に死んだのかい?」

 父は、何とかごまかそうとするのかと思ったが、

「お前も、大人になったことなので、離しておくべきか」

 と言って、恐る恐る話し始めた。

「弟の正則は、ある人の養子にもらわれて行ったんだよ。ちょうどその時お父さんは大きな借金をしていて、養子にほしいという人からお金を借りていたので、どうしても、断ることができなかった。それをお前たちに分からないようにするために、弟は事故で死んだということにしてしまったんだ」

「そんなことができるのかい?」

「正則を引き取ってくれる人に万事任せることになって、それから正則がどうなったのか私もよくは分からないんだ。とにかくかなりの富豪だったので、任せておけば正則も幸福になれると思っていたんだ」

「弟は幸せだったんだろうか?」

「引き取られた後、しばらくしてから、その家は没落したという話を聞いたんだが、お父さんはそれを確かめるのが怖かった。しかも、ちょうどその時、お前が閉じ込められる事件が起こったり、それと前後して、お姉さんの精神状態に異常を期したりして、それどころではなかった。これもお父さんが情けないばっかりに起きてしまったことだと思い、私はそれ以上何もできなくなってしまったんだよ」

「じゃあ、お姉さんがあんなになってしまったのも、お父さんの因果が姉さんに報いたということなのかな?」

「私はそう思っている。だから、お父さんは、それ以上のことは何も言えないんだよ」

「でも、お姉さんが僕のことで誰かに復讐しようとしていたことは知っているの?」

「いや、知らない」

 そこまで聞くと、啓介は急に気合が抜けていくのを感じた。何かの運命が働いているのは分かっていたが、その運命は細かいところで微妙に捻じれている。微妙な捻じれが大きくなっていき、今の自分や姉、そして正則の運命を何かに導いているような気がした。そのカギを握っているのが、カギを捨ててしまったことでモノを捨てることができなくなってしまった由紀子だというのも皮肉なことだ。しかも、姉が復讐を考えていた相手がカギを握っているということになる。啓介は運命の悪戯を感じていたのだ。

「弟は、どうやら友達が死ぬのをその場で見ていたようなんだ」

 人の死を見てしまうというのは、どんなものなのだろう? しかも、まだ子供だったという弟は、それを人の死として受け止めることができたのだろうか?

「じゃあ、弟さんが記憶を失ったというのは、友達の死を見たからなの?」

「お父さんはそう言っている。お父さんもここまで僕に話をしてきたんだから、今さら細かいウソやごまかしはしないと思うので、ほぼ信用してもいいと思っているんだ」

 その意見には由紀子も賛成だった。

「それに、姉が定期的に精神に異常をきたすのは、躁鬱症の気があるからだというのは先生の話だったんだけど、躁鬱症という意味では、由紀子さんにもあるんじゃないですか?」

「えっ、どうしてそんなことを知っているんですか?」

「頼子さんから聞いたんだよ。頼子さんとは由紀子さんのことを知る前からの知り合いで、実は頼子さんから、由紀子さんがモノを捨てられない性格の女性だって聞いたんですよ。僕はその時まで、僕を以前閉じ込めた原因が由紀子さんだって知らなかった。でも知ってしまうと、急に由紀子さんを知りたくなったんですよ。復讐なんてことは思わない。でも、僕が由紀子さんの前に現れて、由紀子さんが自分の過去のことを知るとどうなるか、それが気になっていたんです」

「お姉さんとシンクロしたのかしら?」

「そうかも知れませんね。でも、僕は頼子さんのことが好きだった。それがさらに由紀子さんへの歪んだ気持ちにさせたんですよ」

「どういうことなの?」

「由紀子さんは知らないかも知れないけど、頼子さんは由紀子さんのことが好きだったんですよ。愛情と言ってもいい」

「えっ」

 それ以上何も言えなくなった。

「でも、僕が由紀子さんと関係のある人間だって頼子さんは知らないから、自分の知っている由紀子さんのことを、僕にいろいろ話してくれる。きっと、自分が由紀子さんを好きだということを他の人に知られたくないという思いから、そういう態度に出たのかも知れないですね。まさか僕が由紀子さんいゆかりのある人間だと知らないからですね」

 由紀子にゆかりがあるということを強調して話した。それは明らかに、由紀子に対しての挑戦のような表現だった。

 啓介は続ける。

「でも僕は頼子さんを由紀子さんというよりも、姉が後ろにいるような気がしてみていたんですよ。頼子さんが見ていたのは由紀子さんではなく、姉だったような気がしています」

「お姉さんと頼子は、知り合いだったの?」

「いえ、知り合いだったわけではないです。二人は面識はないと思います。でも、頼子さんを見ていると姉を見ているような気がして仕方がないんですよ」

 そう言われてみると、恵さんを慕っていた時の心境は、最初は友達のような感覚だったはずだ。その思いが短かったので気づかなかったが、言われてみれば頼子の雰囲気に似ていた。頼子が由紀子のことを好きだったと言っていたが、頼子に慕われていたことに心地よさを感じていた。その思いに近いものが、恵にも感じられ、恵が慕ってくれていないことが分かると、今度は自分が慕う気持ちになっていたのだ。自分から慕う気持ちであっても、慕われる気持ちであっても、同じ心地よさに変わりはなかった。

 頼子に精神の異常を感じることはなかった。

 だが、それは由紀子と似ているところがありすぎることで、見えていない部分がたくさんあったのではないだろうか。同じ部分が多すぎると死角になる部分が多くなり、普通なら見えてくるものも見えなくなってしまう。

 啓介は恵の後ろに頼子を見たという。似ているからというわけではないのかも知れない。逆に似ていないから、普段見えないものが見えたのかも知れない。同じ時期に頼子は由紀子を好きだったというが、どこまで啓介の言葉を信じていいのか分からなくなった。ただ、言われてみれば自分も恵を慕っていたのだから、まわりから見れば好きだという感情が現れているように見えたとしても不思議ではない。恵と由紀子の両方を知っている人が見ると、由紀子の後ろに恵が、あるいは、恵の後ろに由紀子の姿が見えていたかも知れない。ここにきて頼子の存在が急にクローズアップしてくるなど、想像もしていなかっただけに、由紀子にとって啓介の登場は、何かを変えるきっかけとなって立ちふさがることになるのかも知れない。

 啓介の話を聞いて、

――そういえば、私も頼子の後ろに誰かがいるような気配を感じたことがあった気がする――

 それは、啓介が頼子の後ろに姉を見たという感覚とは違っていた。

 由紀子が感じたのは気配であって、

――誰かがいる――

 という感覚はあるのだが、そこに誰がいるのかは分からなかった。もし分かっていたとしても、

――そんなバカな――

 ということで、自分の方がおかしいとしか思わずに、そのおかしいということも、信じなければいいだけのことで、すぐに忘れてしまうだけのことだった。

 元々、頼子の方が由紀子を意識していて、由紀子の方ではあまり友達という思いはなかったはずなのに、なぜここまで頼子を意識してしまっているのかということを考えた時、頼子の後ろに誰かを見ていたと思うと、納得もいくものである。

 由紀子は、頼子が何かを恐れていたことを思い出した。

――そういえば、頼子は男性恐怖症だったはず――

 それなのに、啓介とは付き合っていたと、啓介自身が語っている。

――啓介を見ていると、女性に安心感を与えるところがあるわ――

 と感じた。

 どこか女性っぽいところがあり、そこが女性に安心感を与える。だが、同性愛という雰囲気ではない。ただ、そのことを心のどこかで悩んでいるように思えてならない。

 由紀子は頼子を意識しすぎて、自分も男性に襲われている夢を見たことを思い出した。その時の男性の顔を今までに何度か襲われた夢を見てきたが、結局思い出すことができなかった。

――もう、思い出すこともないんでしょうねーー

 と自分に言い聞かせてきたが、今回頼子のことを思い出して、その時の夢をまた意識してしまったが、

――今度こそ、思い出せそうな気がする――

 と感じた。

 逆に今度思い出せなければ、もう二度と思い出すこともないだろうと思うのだった。

 由紀子は頼子に対して、途中で急に興味が失せてしまったことを思い出していた。モノを捨てられないことへの反動のように思っていたが、ひょっとすると、頼子の中に恵の存在を見ていたからなのかも知れない。

 頼子と一緒にいる時ほど、由紀子は自分を考えてみたことはなかった。客観的に見てのことだったが、その思いが今の自分の性格に影響している。性格とは生まれながらのモノと育っていく環境によるものとがあるというが、頼子は由紀子に影響を与えたことに間違いはないだろう。

 由紀子は自分が男性にモテていたことで有頂天になっていた時期があった。しかしそれも、

――モテない男性から見れば、モノを捨てられない由紀子なら、フラれることはない――

 と思われているからであったが、逆に、

――モノを捨てないのだから、自分以外にも、他に付き合っている男性がいるかも知れない――

 という思いを持たれても当然だった。

 しかもモテてるのは、女性から相手にされない相手ばかりであった。そんな状態に由紀子は自分のプライドを傷つけられた気分にさせられるのも当然のことだ。

――まるでヘビの生殺しのようだわ――

 そんな思いがトラウマとなり、頼子に感じた男性不振を思い起こさせる。

 それなのに、啓介には安心感があるのはなぜなのか?

 啓介の女性っぽさは、男性から見ても同じなのだろうか? 啓介の過去にトラウマがあるのは、納屋に閉じ込められたからではなく、男性に襲われたからではないかという恐ろしい想像が由紀子の中にあった。

――ということは、私が納屋に閉じ込めたという相手は啓介さんではないんだ――

 と思うと、啓介が急に他人のように思えてきた。

 意識の中で負い目があると、その人に対して、

――私は一生、この人に尽くさなければいけない――

 と感じることだろう。

 それは、拘束されてしまうということであり、今までの自分の人生を思い起こさせるものでもあった。ただ、負い目を一度感じてしまうと、もしそれが後になって違うと言われても、簡単には解消できるものではないはずだ。

 由紀子は、啓介のトラウマが自分のせいではないということを感じて、ホッとした。こんなことなら、余計な心配なんてしなければよかった。十年以上の自分の人生を返してほしいとさえ思うようになっていた。

 だが、面白いもので、気持ちに余裕が出てくると、啓介のことが違う意味で気になってきた。

 もし、頼子が啓介と知り合いでも何でもなければ、気にもならなかった。

 頼子は男性に襲われる夢を見たと言った。その思いがまるで伝染したかのように、その後由紀子も同じような夢を見た。あの頃は、ショッキングなことを聞いてしまったので、気の弱い自分は気になったことを夢として見てしまったのだということを感じていた。

 しかし、本当にそうなのだろうか?

 由紀子は確かに気が弱いところがある。そのくせ、意地を張ってしまい、寂しくても寂しいと言わない性格を自分でも分かっていた。

――本当に因果な性格だわ――

 と、まるで他人事のように思っていたが、他人事のように思えるだけまだマシではないかと思っている。

 頼子と一緒にいると、頼子が自分の気持ちの奥底まで分かっているのではないかと思うこともあったが、本当に分かってくれていた方が気が楽である。

――私が考えなければいけないことを頼子が考えてくれる――

 つまりは、二人は以心伝心、考えることを頼子に任せていれば、それでいいのだと考えていた。

 その代わり、頼子に対して、逆らうことはできない。頼子に逆らうということは、自分の気持ちに逆らうことだと思うからで、それだけの代償はしょうがないことだと思っていた。

 頼子と一緒にいる時は、頼子だけがいてくれればよかったのだが、就職して頼子と離れ離れになってしまうと、由紀子よりも頼子の方が寂しいようで、連絡を入れてくるのは頼子の方だった。

 由紀子は、就職してしまうと、頼子がいなくても、もう自分は大丈夫だと思うことで、今度は頼子の影響を避けるようになっていた。逆に頼子の方は、今まで自分を慕ってくれていて当たり前だと思っていた由紀子が急にそばからいなくなったことで、焦りのようなものが生まれたのだろう。

 慕うと言えば、由紀子には学生時代に慕っていた恵がいた。

 恵は慕われていることを知っていたのか、由紀子が恵から離れても、別に焦るようなことはなかった。それだけに、頼子の態度が由紀子には不思議だった。

 だが、由紀子の態度に対して正常な対応をしたのは、むしろ頼子の方ではないかと思った。由紀子が恵から離れたのと時期を同じくして、恵も由紀子の前から姿を消していた。

 誰も恵のことを語ろうとしない。ちょうどそれが入院した頃のことだったに違いない。そんなこととは知らない由紀子は、

――これが自然の成り行きなんだ――

 と思うようになり、恵のことは、記憶の奥にそっとしまい込んでしまっていたのだ。

 まさか、啓介の登場で、恵のことを思い出させることになろうとは、思ってもみなかったのだ。

「僕の弟と姉さんは、実は出会っていたんだ」

 啓介がおもむろに話し始めた。

「どういうことなの?」

「姉はたぶん、無意識だったんだと思うけど、偶然姉がアルバイトしていた喫茶店の客として来ていた弟に声を掛けたみたいなんだ。お互いにまさか姉弟だなんて思ってもいなかったんだろうけど、でも、お互いに好きになってはいけない相手だということを意識したっていうんだ」

「それは誰から聞いた話なの?」

「お姉さんからなんだ。姉は、好きになってはいけない相手だということを分かってしまったことで、却って、弟のことが気になり始めて、本当に好きになりそうだって言っているんだ。でも、弟には好きな人がいる。それが実は頼子さんなんだ」

「それもお姉さんから聞かされたの?」

「弟が好きな相手を探していたら、そこで頼子さんにぶつかった。実は由紀子さんの存在も、頼子さんを通して、僕は初めて知ったんだ」

「それは、私たちが最初に出会う前からのこと?」

「ええ、まだ頼子さんと由紀子さんが友達だった頃ですね」

「私と頼子は、そんなに親しかったという意識はないんだけど?」

 本当は慕っていたのに、表向きはそうでもなかった。しかも興味が薄れていったのも事実である。一度慕っていた相手に対して興味が薄れてしまったのでは、複雑な心境だが、そこには由紀子の中に頼子に対してのコンプレックスがあったという証拠であろう。

――由紀子が、頼子に対して持っていたコンプレックス、それは、あまりにも自分に似ているということであり、しかも、最初から似ていたわけではなく、頼子の方が自分に似てきたということ。つまりは、慕うというだけの「価値」がなくなってきたということにあるんだわ――

 そのあたりが啓介の目にはどのように写ったのだろう?

「頼子さんの方では結構あったみたいですよ」

 頼子が由紀子のことを意識していたのは分かっていたが、慕われることに優越感を感じているだけだと思っていただけに、複雑な心境になった。コンプレックスは優越感とは正反対の感覚。根柢のコンプレックスには太刀打ちできるわけもない。

 由紀子は啓介を見ていると、

――この人も頼子のことが好きなのかも知れない――

 由紀子は、自分がモノを捨てられない性格だから、あまりモテない男性にモテていた経験があったが、そのおかげというべきか、目の前にいる人が誰かを好きになったとして、無意識にでも、その人が自分の好きになった人の話をしている時、

――今話をしている人が好きなんだ――

 と分かるようになってきた。

 勘のいい人なら分かるのかも知れないが、由紀子はどちらかと言えば鈍感な方だ。そういう意味でも誰かに好意を持っていることを分かるというのは由紀子にとって奇跡に近いことだと以前は思っていた。それなのに、いつの間にか分かるようになったのも、今まで気づかなかった自分を好きになってくれた人の本当の気持ちを分かるようになったからなのかも知れない。

 だが、何か違っているような気がした。

 確かに、頼子のことを好きだということは間違いない。だが、頼子のことを好きなのは、本当は彼の弟ではないだろうか。自分が女性っぽいところがあることから、どうしても自分へのコンプレックスに打ち勝つことができない。しかも、競争相手が自分の弟だ。

 相手は自分のことをどこまで意識しているのか分からないが、兄だという意識だけは持ってほしくないと思っていた。同じ女性を好きになった兄弟というだけでも難しい関係なのに、弟に対しての後ろめたさもあるのでは、勝ち目はないだろう。

 由紀子は自分が啓介に同情しているのを感じていた。

 啓介は見ている限り、コンプレックスの固まりに思えてきた。

 自分が女性っぽいことをコンプレックスに感じている。表面上、いかにもと感じられるのは女性っぽい仕草だった。

 いくら隠そうとしても、すればするほど表に出てくるものだ。特にそのことは同性の男性から見るよりも、異性の女性から見た方がよく分かる。元々近くにあって遠ざかっていくものよりも、元々遠くても近づいてくるものの方が、同じ距離であっても、よりハッキリと見えてくるものだからだ。

 姉の恵を思い出していた。

 彼女は、いつも何かを守ろうとしていた。その反面何かから逃げようとしている。それが何かすぐには分からなかった由紀子だが、啓介と話をしているうちに分かってきたような気がしていた。

 恵が何かを守ろうとしていたことは、恵のことを慕っている時から感じていた。そんなことを思っていると、

「そういえば、頼子さんはいつも何かを守ろうとしていたような気がするんだ」

 由紀子はそれを聞いてハッとした。

 今、恵のことを思い出そうとして、同じことを感じた。それと時を同じくして、まるで図ったかのように、啓介の口から、頼子がいつも何かを守ろうとしていたということを聞かされるなんて、本当に偶然で片づけてもいいのだろうか?

 由紀子は、そう簡単に偶然という言葉で片づけられるものではないと思っている。偶然というのは、あくまでも予測不能なことが起こってしまうことだと思ったからだ。

――私が恵のことを思い出したのは決して偶然ではなかった。目の前にいるのが恵の弟だという意識がどんどん強くなっているのを感じているのだから、それも当然のことではないだろうか?

 と思うようになっていた。

 啓介の言葉は頭の隅にまずは置いておいて、最初に感じた恵のことを考えようと思った。恵が何を守ろうとしていたのかを考える時、恵の持っていたトラウマが何であるかを考えてみた。

――どうしても、弟を死なせてしまったという思いが強かったのだとすれば、守ろうとしているのは、啓介ではないだろうか?

 ただ、啓介だけを見ていると、それだけではないように思えた。出会ったことのないもう一人の弟を思い浮かべてみたが、どうしても啓介とダブってしか見ることができなかった。彼は女性っぽいというわけではないだろうが、啓介と似すぎているくらいに似ているという発想が浮かんでくる。

 どうしても、一人を見ていると、その人の後ろに見える存在を、

――似すぎるくらいに似ている人だ――

 という発想に至ってしまう。

 ということは、頼子と恵も似すぎているということになるのだろうか?

 似ているという感覚と似すぎているという感覚は違うものだと由紀子は考えている。

 普通に似ているのであれば、それぞれを並べて比較することもできるが、似すぎているという感覚に陥った人には、

――同じ次元で並べてみることはできない――

 と思うようになっていた。

 頼子と由紀子は同じ次元に存在していることは分かりきっている。友達なのだから当たり前のことだ。

 しかし、頼子と恵が同じ次元に存在しているというわけではない。それぞれ、存在は知っているかも知れないが面識はないのだ。似すぎていると考えても不思議ではない。

 由紀子は恵を慕っていたが、今の恵はあの頃の恵ではない。

 もし、今の恵を見たとすれば、

――本当に私が慕っていた恵さんなのかしら?

 と感じるに違いない。

 モノを捨てられない性格である由紀子の頭の中には、慕っていた頃の恵の姿しか映らない。しかし、それは由紀子に限ったことではなく、誰でも同じなのかも知れない。それだけにモノを捨てられない自分が特殊であり、余計に当時の恵のイメージを自分の中で引きずってしまっているのではないだろうか。

 由紀子は、自分と頼子が似ていると思っていた。しかし、実際に似ていると感じている時、目の前に頼子がいるわけではない。面と向かうと、似ているところを意識することはない。

――自分と同じ人間など、存在するわけはない――

 と思っているからだ。

 いくら同じ人間ではないとはいえ、

――限りなく近い存在――

 というのは、面と向かっている時に感じられるものではない。

 由紀子は自分と似すぎていると頼子に感じたその時は、由紀子の虚像を眺めていたのかも知れない。

――自分が頼子から離れていったのは、頼子に対して自分と限りなく近い存在であるということに気が付いたからなのかも知れない――

 興味が薄れていったというのは、後から取って付けた言い訳ではないだろうか。興味が薄れたのではなく、近い存在に気づいたことで、由紀子は頼子を遠ざけなければ、その思いの本当のところを見つけることはできない。

 このままずっと一緒にいることもできるのだが、それ以上に、どうして頼子が自分と似すぎているのかを知りたいと思ったのだ。

 限りなく近い存在と、似すぎているという発想も、厳密に言えば同じものではない。同じものだとして考えてしまうと、自分の気持ちを見誤ってしまうように思えてならなかった。

 由紀子はそのことにしばらくしてから気が付いた。それでも、同じように違う次元で考えなければいけないことに変わりはない。

 最初は、

――二人は似すぎている――

 という考えから、次第に、

――限りなく近い存在――

 という風に考えが変わっていった。

 だが、気が付けばいつの間にか、考えは最初に戻っていた。その時には、一緒にいた頃の頼子は、遠い過去の存在に思えてならなかった。厳密には違っていても、本人も無意識のうちに考えが移行し、また元の考えに戻ってしまっていたということもあり得ないことではない。むしろ、頻繁に起こっていることで、誰も意識していないことだとすれば、それを意識してしまったということで今後の自分の人生に、何らかの影響を及ぼすのではないかと思えてきた。

 由紀子は、似すぎている二人には、

――いつも何かを守ろうとしている思いと、その反面、何かから逃れようとしている思いが交錯している――

 と思っていた。由紀子にも頼子にも同じ感覚があったとは思っているが、それが同じものだったかどうか、今となっては、想像もできないのではないかと思えていた。

 恵が何を守ろうとしているのか? 由紀子には最初それが弟のうちのどちらかだと思っていたが、啓介の話を聞いているうちに少し変わってきた。

「僕は、姉が遠くを見ているのを感じたんだ」

「それは、精神に異常をきたしているというところからきているということ?」

「いや、そうじゃないんだ。僕は今まで精神に異常のきたした姉をずっと見てきたけど、今まで僕を見る時に上の空だったことはあっても、虚空を見つめるような眼をしたことはなかったんだ。それが急に遠くを見つめる目を見ると、その先に見えるものが、自分や弟ではないことに気が付いた。その時初めて姉が僕たち兄弟以外の誰かを守ろうとしているって分かった。まるで姉が他人のように感じたよ」

 今度は啓介が虚空を見つめていた。

 その時の啓介は、言葉では男らしい発言をしていたが、女性として姉を見ているのが分かった。

――大好きな姉が他の誰かを好きになった――

 という意識よりも、

――姉が遠くに行ってしまった――

 という思いが見て取れる。

 相手の男性に対しての嫉妬ではない。相手がどうのというよりも、自分から離れてしまったことへの口惜しさだった。

 しかし、その思いも若干違っていることに気が付いた。

 それは、恵が相手を好きになったわけではなく、

――守りたい――

 と思っていることに気が付いたのだ。

 その思いは、あからさまに表に出ているものではなかった。明らかに自分の内に向けられたものだ。相手が肉親であれば、感情を剥き出しにしてもいいのではないかと思っている。それなのに、内に秘めるというのは、恵の中で、

――人に言えない想い――

 があるからで、それは男性に向けられるものだというよりも、女性に向けられるものと考える方が自然だった。

「お姉さんは、自分の気持ちを内に秘める方なんですか?」

 と、啓介に聞いてみた。

 唐突な質問だったので、啓介も拍子抜けしたようだが、それだけに返答にウソはないだろう。

「そんなことはないですよ。精神に異常を期してからというのは、逆に表に気持ちを出すようになったみたいなんですよ」

「でも、肝心なことは隠そうとするんじゃないですか?」

 ある程度、自分の中で確信を持って聞いているつもりだった。きっと、啓介を正面からまともに見ているに違いない。

 由紀子が何を聞きたいのかを図り知ることができない啓介は、少しうろたえるようにしながら、

「え、ええ、そうですね」

 確信はあるつもりだが、啓介のようなタイプほど、自分の気持ちを内に籠めようとするに違いない。ウソのない返答をしてくるだろうが、肝心なことは黙秘するかも知れない。間髪入れずに質問することは、肝心なことを引き出すには効果的ではないかと由紀子は思っていた。

 恵が守りたいと思っている人は、女であることは確信している。しかし、自分の知っている人のような気がするのは、啓介の態度を見るからだった。

――この人は、本音としては、その人の名前を私に告げたいのだろうけど、姉を守りたいという気持ちが邪魔をして口にすることができない。ジレンマに陥っているに違いないわ――

 と思えた。

 由紀子に聞いてほしいと思わない限り、唐突に、

「そういえば、頼子さんはいつも何かを守ろうとしていたような気がするんだ」

 とは言わないだろう。しかも、偶然にも、由紀子が恵に同じことを考えていた時に口にしたことで、ハッとなって気が付いたのだ。もし、さっき啓介がこのセリフを口にしない限り、恵が誰かを守りたいと思っていたなどということを思いつくはずもないのだ。

「会話での偶然には、何か含みがあるのかも知れない」

 由紀子はいつもそんな風に思っていたが、最初から啓介は、由紀子に何かを訴えたいと思っていたように思えてならなかった。

「お姉さんは、毎日病院のベッドで臥せっているんですか?」

 由紀子は思わず自分が同じ立場になった時のことを考えて、思わずそんなことを聞いてみた。

 しかし、啓介はその質問には狼狽える素振りは見せなかった。最初から質問されることを想像していたのか、それとも、内容はどうであれ、質問は避けられないと思ったのか、それとも、質問されることに慣れてきたのか、そのどれかであろう。

 由紀子は、啓介が質問されることに慣れてきたような気がした。次第に狼狽えた様子は見えなくなったからである。ただ、それが本当に精神的に落ち着いてきたからなのか、それとも開き直りによるものなのか判断がつかなかった。精神的に落ち着いてくることと、気持ちが落ち着いてくることは似ているようで違うことのように思えたからだ。

 精神的に落ち着いてくるということは、広い意味で気持ちが身体を凌駕するかのように気持ちが前面に押し出されているのが分かることで、気持ちが落ち着いてくるというのは、狭い意味で気持ちだけが落ち着いてくるというものだ。狭い意味での落ち着きは、開き直りのような何かのきっかけがなければ起こりえないことだと思っている。ただ、その二つを見分けるん尾は容易なことではない。最初から相手に開き直りがないかどうかを見極めるつもりでいなければ、見切ることはできないだろう。

 そう思って次の言葉を待っていたが、相手に開き直りがなければ、冷静な判断が加わっているということで、話をしっかりと聞くことができれば、真実に辿り着けるまでの直線距離を見切ることができる。しかし、逆に開き直りであった場合、相手が焦っている分、言葉にウソもないことも事実だろう。そう考えると、開き直ってくれた方が、容易に真実に辿り着ける。しかし、相手の言葉に一貫性があるとは思えない。単語一つ一つを拾い上げて、こちらで判断しながら、真実を組み立てていく必要がある。

 もし、肝心なところが抜けていれば、先に進めないどころか、ミスリードされてしまうことも大いにある。下手をすれば、堂々巡りを繰り返させられる。それは、戦国時代の城の縄張りに似ているものがあるように思えてきた。

 由紀子は、啓介と話をしているうちに、啓介を見ているつもりで、自分の心の奥を覗いているように思えてきた。いろいろなパターンを考えられるのも、自分に置き換えているからであり、そのおかげで、筋道も見つけられるように思えていた。

――ということは、啓介さんの返答をある程度予期しているつもりでいるのかしら?

 相手の返答を予測することは今までにも何度もあった。いや、無意識に返答を予測するようになっていたと言っても過言ではない。

 由紀子は啓介の回答を待っているつもりはなかった。もし回答がなくても、自分の考えの行き着くところに間違いはないと思うようになっていたからだ。

――加算法と消去法で考えると、私の考えは消去法なのかも知れないわ――

 と、最近考えるようになっていた。

 ただ、どちらが好きかと聞かれると、加算法だと答えるだろう。自分の好きだと思っていることが、自分の考えと一致するというわけではないことを、自覚している由紀子だった。

 しばしの沈黙を破って、啓介が口を開いた。

「姉は、ずっと臥せっているわけではないですよ。最近では、絵を描くことが好きなようで、いつも表を見ながら、スケッチブックに鉛筆でデッサンしている姿をよく見かけます」

 沈黙の時間がしばしあったような気がしたが、啓介の言葉が終わるか終わらない瞬間に、自分が訊ねたセリフはたった今だったように思えていた。

「まあ、絵を描くんですね。素敵ですわ」

 由紀子も今までに何度か自分でも絵を描いてみようと思い立ったことがあった。そのたびに挫折してしまったかのように、すぐに諦めていた。

「あんたも、飽きっぽいわね」

 と、人から言われたことがあったが、何度も挑戦してすぐに諦めてしまうというのは、飽きっぽいのとは違う。だが、捨てゼリフのような相手の言葉にいちいち反応する気はなかった。下手に反応して熱くなることほど、自分にとって無駄なことはないと思ったからだ。

 由紀子は何度も諦めては、また描いてみたいと思うようになるのだが、その諦める理由というのは毎回違っている。これでも、一度何かの理由で諦めたとすれば、その部分を少しでも克服することができる自信を持って、再度挑戦していた。そうでなければ、同じことの繰り返しである。そういう意味では、

――何度も挑戦して、何度も諦めての繰り返し――

 というのは、決して同じことの繰り返しではないのだった。

 いくら表面上同じことを繰り返しているようでも、その内容が違わない限り、何度も繰り返してみようとは、さすがに思わない。そこまで由紀子は自分が執念深いとは思っていなかった。

 ここでいう、

――執念深さ――

 というのは、悪い意味での執念深さである。

 一口に執念深さと言っても、いい意味と悪い意味があると思っている。どちらかというと悪い意味で使われることの多い言葉だが、それは、いい意味で使う時というのは、もう少し違った言葉があるのではないかと思うからである。

――もっと気の利いた言葉――

 というのが存在していると思うのだった。

 由紀子は、諦めもせずに続けている恵のことを、

――羨ましい――

 と思っている。

 しかし、もし彼女にも自分と同じように挫折を味わうようなものが訪れていたとしても、それを払いのけることができるのは、精神に異常をきたしているからだとすると、複雑な気持ちになっていた。

 それは、恵が病院のベッドの上から窓の外の風景をデッサンしている姿を想像することができるからであった。その表情にはあどけなさとも言えるような、まるで幼女のような表情が浮かんでいるのが見えていたからだ。

――自分にあんな表情、できるわけはない――

 疑問符どころか、最初から否定していた。

 それは、精神に異常をきたしている人間と自分のような人間との違いである。

――精神に異常をきたしているというのは、誰が決めたことなんだ?

 もちろん、その様子が常軌を逸しているから誰かが病院に連れていき、医者の見立てから、

――精神に異常をきたしている――

 という診断が下されたのだろう。

 しかし、

――例外というのが本当に存在しないのか?

 あるいは、

――医者の誤診ということはないのか?

 ということが頭の中を巡っていく。

 その思いは由紀子だけではないだろう。特に家族や肉親にとっては大切なこと、疑問が本当であってほしいと思っているが、口に出せないだけなのかも知れない。

 人には、大なり小なり、人には言えない何かを持っているものだ。それがトラウマだったり、表に出せないこととして、内に籠めていたりする。それを由紀子はいつも考えていた。

――人それぞれに個性があるように、十羽一絡げなどというわけにはいかないんだ――

 という考えである。

 由紀子は、自分が絵を描けない理由が一つではないとずっと思っていた。毎回途中であきらめる時の理由が違うからだ。だが、最近は違う考えを持っている。

――一度諦めてもう一度始める時には、前に挫折したことを、少なくとも自分で克服できると思っていた――

 と感じていた。

 自信があったというわけではない。

――本当は最初から克服できていたことでもなければ、再度始めようとは思えないからだ――

 とも思う。

 今まではぶつかる壁がたくさんあって、それを一つ一つ潰しているしかないと思っていたのだが、その壁が一つではなかったのかと思うようになっていた。

 壁が一つだと考えると、自分が再度挑戦してみようと思ったところは、最初とは違った切り口から攻めているはずである。一方向からの突進では猪突猛進でしかなく、打ち破られるのがオチだ。その理由を、

――全体が見えてこないからだ――

 と感じるようになると、そのうちに攻略できるのではないかと思うようになっていた。

 それでも、なかなか攻略することができない。全方向から当たっても砕けない時は、それこそ自分には絵の才能がないと思う時であり、完全に諦めがつく時だった。しかし、今の由紀子には、

――何か一番大切なことを忘れているだけだ――

 という思いがあり、それを思い出すことで解決することがたくさんあるのだと思っている。しかも、それは忘れていることであり、自分で本当は分かっていることだということへの思いに揺るぎはなかった。

 恵が絵を描いていると聞いて、由紀子は、ベッドの上で絵を描いる姿を思い浮かべてみたのだが、その顔を確認することができなかった。まるでシルエットに浮かび上がるその顔は、光と影に包まれて凸凹を確認することができるが、その顔や表情を確認することができない。

 その人が一体誰なのか? 男なのか女なのかすらも自信がない。そこにいるのが啓介だと言われても、違和感はないだろう。

 もちろんその表情は分からない。笑っているのか泣いているのか、怒っているのか、それとも、無表情なのかもである。

 だが、次第に由紀子は相手が無表情ではないかと思うようになっていた。しばしの間目を逸らすことができずに見つめていて、相手の顔を確認することができないからだ。今度は相手の顔を見続けている時間に錯覚がないという自信があった。あっという間だったということはありえなかった。

 痺れを切らしたのは、由紀子の方だった。

 今までなら、妄想や錯覚の類は、自分が見切る前に、向こうから姿を消していた。それだけ長い時間だと思っていたことでも、あっという間だったということなのかも知れないが、妄想や錯覚を見た時、金縛りに遭ってしまっていたのではないだろうか。

 見切ってしまった由紀子は、今度は啓介の口が開くのを待っていた。

――次の言葉が興味深いものになりそうな気がする――

 と感じたからだ。

 啓介の顔を見ていると由紀子は自分がこの後何を喋っていいのか、そこで決まるのではないかとさえ思えた。だからこそ、ベッドの上で恵が描いているところを想像していた時間が、自分の想像通りの長いものだと思っているのだ。

 だが、啓介の表情はまったく変わらない。啓介のように女性っぽい人は、えてして表情が豊かで、表情によって自分の感情を表に出そうとしているのではないかと思っている。特にそのことを信念のように思っているおは、啓介のように、女性っぽさを持った人だと思っていた。

――男性でもあり、女性の心も持っている――

 そんな人は、普段の人の全体を一とすると、半分ずつの思いを持っているように感じられたが、啓介を見ていると、その割合が、それぞれ七十パーセントくらいのものであるように思えてならなかった。すべてを足せば本当は一のはずなのに、これはどういう錯覚だと言えるのだろう?

――表に出ている感情を少しでも、一に近づけたい――

 という思いがあるからではないだろうか。

 どうしても、女性が表に出ている時は、男性を隠さなければいけない。しかし、本当は男性なので、女性をすべて表に出すわけにはいかないという思いが渦巻いている。それは彼の男性としてのプライドなのかも知れない。

 しかし、逆に男性が表に出ている時は、女性を隠さなければいけない。それでも、自分の気持ちにウソを付けない啓介は、男性をすべて表に出すことはできない。これは、気持ちにウソを付けないという彼の意地というものではないだろうか。

 意地とプライドはそれぞれ似たものである。性が一つであれば、その二つが協力しあうのだろうが、性同一症候群の彼にとっては、意地とプライドは一緒にはできないものだった。

――むしろ、表裏相まみれるものではない――

 と思っていることだろう。

 歌舞伎の舞台の「どんでん返し」のように、表と裏は決して一緒には出ることができない。その思いが、

――どうして、人間には男と女の区別があるんだろう?

 と思わせるのだった。

 種の保存という考え方から動物、いや植物も含めて、性が二つあるのは当たり前のことだ。生物の中には、一つの肉体に二つの性が共存しているものもいるが、そんな風にはなりたくはない。あくまでも人間としての二つの性の共存を考えるしかなかった。

 啓介を見ていて、そこまで苦しんでいるように見えないのはなぜなのか、由紀子は考えていた。

――私にも同じような思いが頭の中にあるのかしら?

 それは、性が二つという意味ではない。あくまで自分は女なのだが、その中で二つの性格を保有している。

――ひょっとすれば、二つに限らないかも知れないわ――

 とも思っていた。

 自分のことを、

――私は二重人格だわ――

 と思うことはしばしば、しかし、その性格が正反対のものだとはどうしても思わなかった。

「長所と短所というのは紙一重であって、表裏相まみれないもの。つまりは、長所が表に出ている時は短所が隠れていて、短所が表に出ている時は、長所が隠れているものだって思うのよ」

 こう話していたのは、頼子だった。

 あれは、何人かで話をしていた時で、頼子の話に誰も反論しなかった。賛成していたというよりも、皆考え込んでいたと言った方がいいかも知れない。

 もちろん、こんな話に最初から興味のない人もいたが、ほとんど皆考え込んでしまったということは、今までに一度は似たようなことを考えたことがあるということだろう。

 由紀子だけが、最初から反対だった。

「そんなことはないわ。長所が表に出ている時にだって、短所は燻っているものなのよ。そう思うのは、相手の長所だけを見ようと思う気持ちが前面に出ているからなんじゃないかしら?」

「どうして、そんなことが言えるの?」

「だってあなた自分で言ったじゃない。『長所と短所は紙一重』だって」

「紙一重なのに、長所と短所として、明らかに違うものだっていうことは、相まみれないものがあると私は思うの。だからこそ、決して一緒には表に出てこないものだって思うのよ。躁鬱症だってそうでしょう? 躁状態の時に鬱が顔を出すわけないわけだしね」

 頼子の話には信憑性があった。躁鬱状態をよく知っている頼子である。躁状態の時か、鬱状態の時のどちらかの時、長所と短所を自分で感じたのかも知れない。

――それにしても、今ここで頼子の話を思い出すというのは……

 啓介が目の前にいることで感じたような気がする。

――そういえば、女性っぽさを啓介さんに感じる時、頼子のイメージがダブって感じられるような気がしてくる――

 と思ったからだ。

 啓介を見ていて、

――どこかで見たことがあるような気がする――

 と最初に感じたが、それがまだ啓介に女性っぽさを感じる前だったことで、まさか頼子を思っているなど、想像もしていなかったからである。

 由紀子は、頼子の話も、

――もっともだ――

 と思っていた。

 しかし、心の中で、

――どうしても、譲れない――

 と思っていることもあった。

 その理由が、まさかこんなに後になって分かることだと、果たしてその時に感じたであろうか。由紀子が感じたどうしても譲れないことというのは、啓介の中に感じた、

――二つの性――

 ということだったのだ。

 啓介のことを見ながら、由紀子の話を思い出していると、またしても、違う発想が思い浮かんでいた。

――二つの性というけど、本当に二つの異なる性なんだろうか?

 確かに肉体的には決定的な違いがある。また、生理的にも絶対的な違いがある。

――だからといって性というのが精神的にも二つなければいけないというのは、違うんじゃないかしら?

 と思うようになっていた。

 肉体的にも生理的にも確かに絶対的な違いがあるが、それがあまりにも絶対的過ぎて、――精神的にも違っていて当然だ――

 と思うようになったのかも知れない。

 しかし、思い込みというものがどれほど危険なものであるかということを、由紀子は分かっているつもりだった。

――子供の頃のカギを捨ててしまった記憶――

 それを引きずってしまうのは、仕方がないと思っている。それをトラウマというのだろうが、トラウマに苛まれているのはもちろん、自分だけではない。誰もが大なり小なりのトラウマを抱え持っていると考えれば、

――トラウマとは、永遠になくなることのない人間界の「トラウマ」と言えるのではないだろうか――

 という禅問答に陥ってしまうことだろう。

 カギを失くしてしまったというのは、捨ててしまったという意識に繋がり、

――モノを捨てられない――

 という性格になってしまった。

 つまりは、トラウマというのはきっかけであり、トラウマが性格に影響してしまうことで、性格を含めたところまでをトラウマとして、広い意味で見たことが、一般的な「トラウマ」となっているのだ。だからこそ、禅問答に陥ってしまうのだろう。

 頼子のことを思い出していた。思い出してみると、自分のイメージしていた雰囲気とは違っているように感じられた。

――どこが違うのだろう?

 違っているところばかりを探していると、なかなか思いつかない。逆に思い出せる部分をしっかりと思い出していると、違和感を感じるところが出てくるはずだ。

――何か最近意識し始めたことに影響しているように思える――

 と感じていたが、最近意識し始めたことと言っても、なかなか思いつくものではなかった。

 特に最近は、

――毎日を無為に過ごしている――

 という意識があったが、特に直近のことは思い出せなくなっていた。

――まるで恵さんのようだ――

 恵を慕っていた頃、本人から聞いたことがあった。

「どうしてなのか、昔のことは思い出せるのに、直近のことって思い出せないのよ」

 その時は、

――恵さんでもそんなことがあるんだ――

 と、慕っている恵さんのことなので、自分のような者には感じることのできないものだという意識しかなかった。

 今から思えば、あの時の恵さんも、今の自分のように、無為に過ごしているという意識があったのかも知れないと感じていた。

 確かに無為に過ごしていると、毎日が早く感じられ、駆け抜けてしまった毎日をいちいち気にすることもなくなった。

 また恵さんのことを思い出した。恵さんと頼子を交互に思い出していると、頼子が男性っぽかったのを思い出した。恵が男性っぽいというわけではない。むしろ、明朗快活なところがあったくらいだ。頼子に男性っぽさを感じたのは、今に始まったことではないような気がした。一緒にいる時も感じていたはずだった。

 自分と似たところの多い頼子だと思っていたが、似たところを掘り下げて考えてみると、残ったところが、頼子の男性っぽさというところだったのだ。

 ただ、それも今だから感じることだった。

 一緒にいる時に少しでも感じていたのなら、もっと早くに思い出せたはずだ。まるで撮って付けたように頼子に男性っぽさを感じたというのは、今思えば、男性なのに女性っぽさを感じた啓介を知ったからではないかと感じる。

――逆も真なり――

 という言葉を思えば、

――頼子という存在を忘れていなかったから、啓介に対してすぐに、女性っぽさを感じなかったことだろう。感じたとしても、ここまで確信めいた思いに至らなかったに違いない――

 と、頼子と啓介の間に何か運命のようなものを感じた。

 少し考えが飛躍し、横道に逸れてしまったような気がしたが、由紀子は絵画について何を忘れているのか、また考えるようになった。

 絵を描き始めた時のことを思い出していた。

 別に誰かから習ったわけでもなければ、本を読んだわけでもない。ただ、スケッチブックと鉛筆を用意して、

――まずはデッサンから――

 と思って、軽い気持ちで始めたのだった。

「油絵のような高度な技術が必要なものは、私にはできない」

 と、まずはデッサンを「入門編」として位置づけ、しかも、仰々しい道具も必要ないことが、

「まずは、デッサンから」

 と思って始めたのだった。

 その考えが甘かったことを、すぐに思い知らされた。それでも、すぐ諦めたとしてもまた始めたのは、デッサンに魅了されていたからだった。

――あと少しで思い出せるのに――

 と感じたのは、やはり、ベッドの上でスケッチブックと、鉛筆を手にしている姿を思い浮かべていたからだ。

――それにしても、どうして、顔がシルエットになって見えないのかしら?

 どうしても、自分が絵画を描いている姿を想像させたくない何かがあるに違いないのだろう。

 ベッドの上にいる人の顔を思い出せないと思い。一度目を瞑って、すぐに目を覚ましてみた。すると、今度は見えてきたものがまったく違っていた。

 目の前にベッドはあったが、見えているものは違っている。部屋を見渡すと、どこかで見た光景だということはピンときたのだが、いつ見たものか、すぐには思い出せなかった。

――つい最近のことだったように思うわ――

 気が付いたら天井を見つめていた。明らかに自分が目を開けた時にいたのは、ベッドの中である。

 由紀子は自分には入院したことはないと思っていたので、

――病院のベッドから見渡した姿はどんな感じなんだろう?

 と思っていた。

 もちろん、それは子供の頃のことで、大人になってから、入院してみたいなどと感じるわけもなかった。子供の頃は入院すると、

――学校も休めるし、皆心配してお見舞いにも来てくれるわ――

 という、甘い考えを持っていたのだ。

 家族も少しは心配してくれるという思いもあり、その時は精神的に本当に入院した時のように気弱になった自分を思い出すに違いない。

 さっき、最初に入院ベッドに横になっている人の顔のシルエットを感じたのは、そこに自分の顔を想像してしまったからなのかも知れない。子供の頃はよく自分の顔を鏡で確認することもあったが、大人になってからは、朝化粧を施す時くらいだった。もちろん、他の時も自分の顔を見ることはあったが、表情をいちいち確認することはなかった。

――自分がどんな表情なのか、忘れてしまっているのかも知れないわ――

 と思うようになっていたのだ。

――自分がどんな表情をするかなんて、あまり考えたことはなかったわ――

 と、今さらながらに感じていた。

 子供の頃には確かにあった。

 それは誰かに気を遣っている気持ちがあったからではなかったか。だが、本当に誰かに気を遣っていたと思っていたのは大学時代のことだった。就職してからも気は遣っているが、それはあくまでも仕事上でのこと、

――上司や同僚に気を遣っている――

 などと感じてしまうと、余計な神経をすり減らすことになるのが分かっているので、必要以上に感じないようになっていた。

 由紀子はベッドの上でスケッチブックを持っていた。

 部屋を見渡すとそこには誰もいなかった。表は明るいので、昼間であることは分かっている。部屋の外からは喧騒とした雰囲気が感じられるので、

――やっぱり病院なんだわ――

 と、今さらながらに感じていた。

 病院であることを再認識していると、さっきまで感じなかった匂いを感じるようになった。薬品の匂いで、いかにも病院にいるのが分かってくる。目が覚めてくるにしたがって、そこが病院であるということを再認識させられるような事実が、次第に自分に襲い掛かってくるのを感じていた。

「病院というところは、ただいるだけで、病気でもないのに、病気になったような気がしている」

 という話を聞いて、

「それはもっともなことだわ。私も同意見ね」

 と、言い返したことがあったのを覚えている。

 あれは、高校の頃だっただろうか? 誰かが入院していたのをお見舞いに行った時のことだった。

――お見舞いに行くような親密な友達が高校時代にいたかしら?

 と思い、その時のことを思い出そうとしたが、考えれば考えるほど、記憶が薄れていった。

――これって、本当に自分の記憶なんだろうか?

 確かに、いるだけで病気になったような気がするという意識を持ったことがあったのは間違いのないことだったのだが、それ以外の記憶は本当に自分が意識してのことだったのかどうかの自信がなくなっていた。

――病院というところ、しかも病室というところは、自分の中にある意識をおかしくさせる効果があるんじゃないかしら?

 と思うようになった。

 その一番の原因が薬品の匂いにあるということは、間違いのないことだと思っている。

 今から思えば、よくケガをして、病院に行っていたものだ。

「あんたは、女の子なんだから、あまり危険なことをして、親を困らせないで」

 と、母親から言われたものだ。

 その言葉を聞いて、子供心に、

――理不尽だ――

 と思ったものだが、どうして理不尽なのかを、深くは考えてみなかった。今考えればすぐに分かることだが、親は子供がケガをして心配するよりも、子供の行動が親を困らせたということが重要なのだ。

「余計なことはしないで」

 と言っているだけのことだった。

 最初は病院が嫌だったが、なぜか途中から病院にいることに違和感がなくなっていた。嫌だというよりも、どこか楽しんでいる自分に不思議な思いを抱いていたのだ。それが親に対しての細やかな抵抗だということに自分では意識しないまま、優越感に浸っていたのかも知れない。

 外科というところは、薬品の匂いが強烈だ。由紀子も病院にいる時は、薬品の匂いでのぼせてしまうような気がした。気持ち悪くなるというわけではなかったのは、いつの間にか匂いにも慣れていたからなのだろう。

 その匂いは、いつの間にか自分の中にあるトラウマと一緒になったのか、薬品の匂いを嗅ぐと、トラウマがよみがえってくるような気がした。そのトラウマは、自分が意識しているものではなく、薬品の匂いを嗅いだ時にだけ感じるもので、薬品の匂いを嗅いでいる時だけが、その世界の扉を開くのだ。

――まるで夢を見ているような感覚だわ――

 と思うのも無理はない。薬品の匂いを感じたのが気のせいであっても、トラウマはよみがえってくる。逆に、

――トラウマを思い出したから、薬品の匂いを感じたんだわ――

 と感じることもあるくらいで、そんな時、

――遠い過去は思い出せるような気がするのに、近い過去を思い出せない――

 という意識に駆られるのだった。

 由紀子が薬品の匂いを感じた時、ある発想が生まれてきた。

――直近の記憶を思い出せないのは、その時に直近の未来までも見ようと思っているからではないだろうか?

 と感じることがあった。

 過去を見ているつもりで、未来を見ている。それは、今。この瞬間が、一瞬でも過ぎてしまうと、過去になってしまうという発想から来ている。

――時間の流れというのは、心臓の動きと同じで、止めることはできない。止めようなどと思ってはいけない――

 と感じている。

 逆に言えば、

――時間の流れを止められるのではないか、あるいは、止められるものであれば、止めてしまいたい――

 という発想の裏返しでもあるように思えた。

 どうして時間を止めようと思うのか、それは、未来が開けることに恐怖を感じているからだった。現在が次第に過去になっていき、次第に忘れてしまうことを怖がっている。今は、遠い過去になってしまえば、思い出すこともあると思っているのだが、それでは遅いのではないかと感じることが、恐ろしいではないだろうか。

 最近見た映画で、薬品の匂いを嗅ぐことで、過去の記憶を思い出せたり、逆に封印してしまい、思い出せないようにできるという、匂いによって意識や記憶をコントロールできる発明を巡って繰り広げられるサスペンスを見たことがあった。

 サスペンスでありながら、恋愛も絡んでいて、ミステリアスな内容が好きな人には好評で、人気ランキングの上位を占めていた。由紀子もその映画を見たのだが、その映画を見終わってから、自分が少し変わっていったのを意識した。

 映画には一人で行った。他の映画ならいざ知らず、この映画だけは、一人で見たいと思ったのだ。誰かと一緒に行って、自分と違う発想を抱いたことで会話になった時、お互いの意見をぶつけ合うと、せっかく感じた自分の思いが半減してしまいそうになるだろう。今までにも同じような理由で映画を一人で見に行くことはあった。意外とそういう映画には一人で来ている人が多い。女性一人というのも少なくなく、

――私と同じような意識の人も結構いるんじゃないかしら?

 と、思うようになっていた。

 そのことを思い出すと、自分が過去に見ていたものは、過去を思い起こしていたというよりも未来を探っていたのではないかと感じた。過去のことを思い出す時期が必ず来て、その時に想像したであろう未来と実際の今がどのように違うかを感じようとする。

 しかし、実際には同じであるはずもなく、現在との違いを思い知らされたことで、過去に未来のことを感じようとしたことをなかったことにしたいという意識が働いて、直近の過去を思い出せないという意識に繋がっているのではないだろうか。

 それは、

――モノを捨てられない――

 という自分の意識から、混乱してしまう頭の中を反映して、未来のことを考えているはずなのに、そちらを意識から遠ざけて、過去にばかり目を向けているのだ。そんな自分を情けなくも悲しくも思えない由紀子は、ただ、薬品の匂いを感じながら、病室のベッドの上で天井を眺めていたのだ。

――今他の誰かを思い出すとすれば誰なんだろう?

 病室のベッドを感じてからは、一人孤独な時間を味わっていた。嫌だという意識もなく、人のことを思い出すことが億劫に感じられたこの時間、忘れていたものを、思い出せたような気がして、他の人を意識する必要はなかったのだ。

――今までに思い出したこともない人を急に思い出すかも知れない――

 しかし、由紀子にはそれが誰なのか分からない。未来という意識を持ってしまったことで、

――これから出会う人を、今から感じているのだとすれば、これは特殊な能力なのではないかしら?

 と感じるようになり、こんな能力を持つことができたとすれば、それは、モノを捨てられないという意識から来ているものだということを感じないわけにはいかなかった。

 ただ、この能力が本当に自分のためになるのかということは、由紀子には分からなかった。むしろ今は、

――こんな能力いらないわ――

 と思える。

 自分の未来を知るというのは、いけないことなのだという思いが強い。

 タイムマシンで未来に行くことができない。そして未来の人が過去に来ることはない。いや、未来の人は過去に来ることがあるのかも知れないが、

――過去に影響を及ぼすと、未来が変わってしまう――

 という、タイムパラドックを考えた時、本当に未来にタイムマシンが発明されるものなのか知るすべはないのだ。

 タイムマシンができていなければ、むろん過去に来ることはできないが、もし、できていたとしても、過去に関わることができないということで、タイムマシンの存在を知るすべはないのだ。

――ひょっとして、この意識があるから、自分が未来を予見していても、それを認めることができず、直近の過去を思い出すことができないと思うようになったのかも知れない――

 とも考えられる。

 由紀子が見ている過去と未来、そして、啓介が抱いている自分の中にある「男と女」という二つの性。そして、それは頼子にも言えることだった。恵が精神に異常をきたしているというが、すべてに異常をきたしているわけではない。つまり正常な部分と異常をきたしている部分が同居している。これも、「二つの性格」として考えることができるのではないだろうか。

 そして、光となり影となった二人の弟、正則と啓介、この二人は、

「二人で一人」

 という発想を由紀子は抱いていた。

 皆、それぞれ、似ているようで微妙に違っている。まったく違っているように見ていると、共通点はなかなか見つからない。深く入り込むことで相手を理解できるということに、当て嵌っているだけではない。ただ、今ままで見えていなかったものが見えてくるのは事実だった。

 由紀子は自分のことを、

――人の影響を受けないと思っていたが、未来を感じたその瞬間から、人の影響を受けやすい人間なのだ――

 と思うようになっていた。

 未来のことを見ていたのかも知れないと思うようになると、今度は今までに考えたこともない発想が浮かんでくるのを感じていた。ただ、それは自分だけがそう思っているだけで、もし他の人が自分の立場なら、発想の範囲内であったのではないかと思っていることだった。

――そもそも、カギを捨ててしまったというのも、本当に自分の記憶なのだろうか?

 記憶していることは間違いないが、それが自分の記憶なのかどうか、怪しいものだと思うようになっていた。トラウマとなってしまい、モノを捨てられなくなったり、直近の記憶が思い出せなかったりするのは、自分の記憶だからではなく、他の人の記憶が自分の中に混在してしまっているからなのではないかと思うようになっていた。

 本当にそうなら、幾分か自分の意識は楽になり、トラウマになっていることも消えてしまうのではないかと思うが、むしろその方が怖いと思っている自分がいるのも事実だった。

――そういえば、恵さんも私と同じように、遠い過去のことは思い出せるのに、直近の過去は思い出せないと言っていたわ――

 そう考えると、次第に自分と同じ性格に見えてくるから不思議で、

――ひょっとして、あの人もモノを捨てられない習性を持っているのではないか?

 と思えてくると、今度は彼女が精神に異常をきたしているという事実が恐ろしくなった。

――下手をすると、私も同じように、精神に異常をきたす時が来るのではないか?

 と思ったが、

――いや、すでに異常をきたしていて、ただそれに気付いていないだけなのかも知れない――

 そう思ってしまうと、もう頭の中の混乱を抑えることができなくなった。

「未来が見えているのではないか?」

 という意識が今は一番強い。そう思えてくると、今度は今まで忘れてしまっていたと思っていることが、雪崩を打ったように思い出されてくるような気がしてきた。

 もし、今そんなことになってしまうと、由紀子は自分を抑えることができなくなる。

――忘れてしまったと思わないようにしよう――

 モノを捨てられずに溜まりに溜まったストレスが、今形となりつつあったのだ。

 きっと今まで忘れてしまっていたことは、自分の中で、少なくとも、

「忘れてしまいたいこと」

 として認識していたのだろう。

 しかし、忘れているわけではない。きっと魂が覚えているに違いないのだ。

「魂の記憶」

 それは、さっきまで未来だと思っていたことが、いつの間にか今になり、そして過去になっていくという紛れもない事実が次第に由紀子を包んでいく。

 魂と一体になった由紀子がどこへ行こうとしているのか、それを知っている人がいるとすれば、それは頼子と恵だけだろう。

――一体知っているとすれば、どっちなのだろう?

 それによって、すぐに訪れるであろう由紀子の未来は、まったく違ったものになっているに違いない……。


                 (  完  )

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魂の記憶 森本 晃次 @kakku

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