第4話 個人の輪廻
高山は一足先に地獄に向かっていた。
「ここは俺が創造したような世界のはずなんだ」
と自分に言い聞かせながら地獄へと向かう高山。
前に見えるのは、まるで京都の羅生門のようだった。羅生門がどんな門なのか知らないのに、そう信じて疑わなかったのは、羅生門の存在を、地獄への門だと位置づけていたからに違いない。
高山は、天国と地獄の夢を見て、それを小説にしようと考えていた。実際にプロローグ部分を発表までしていたのだが、志半ばで死んでしまっていた。
高山には自分が死ぬことになるであろうことは想像がついていた。
「人間誰でもいつかは死ぬんだから、死を覚悟している時に死ねるなら、それが一番楽なのかも知れないな」
と思っていた。
しかも、
「気が付いたら死んでいた」
という感覚が一番理屈に合っている表現であろう。
ただ、高山は死んでから少しの間、自分の死に三雲も巻き込まれていたことを知らなかった。担当の彼女から聞かされるまでは知らなかったのだが、聞かされた最初、
「どうして、すぐに教えてくれなかったんですか?」
と聞いたほどだった。
「教えなかったのには、理由がありますが、それをお教えするわけにはいきません。死んでしまえば、生きていた頃の人間関係は、一度リセットする必要があるとだけ言っておきましょう」
その言葉を聞いて、少し高山は考えていたが、
「分かりました。今はその理由が何なのか分かりませんが、きっと理解できる時が来ると思っています」
「さすが高山さんですね。あなたが導き出す結論に間違いはないと私は思いますが、ただ、それは高山さんの理論であって、他の人に当て嵌まるかどうか分かりませんよ」
「そうかも知れません。それがこの世界の秩序なんだと僕は思っています。秩序というものが、すべての人に共通だという考え方は、生きていた時だけのことなんでしょうね。そもそも、そんな考え方も、生きていた時の結論だとも思えませんけどね」
「高山さんも、この先、天国に行くか地獄に行くかの選択をしなければいけないんですが、もうすでに決まっているようですね」
「ええ、最初から行先は決めているつもりです。それでも、一定期間の間は、この世界にいなければいけないんでしょうね」
「ええ、そうです。ゆっくりしていればいいと思いますよ」
と彼女がいうと、高山は少し物足りなさそうな気がして、
「僕は貧乏性なので、じっとしているのは性に合っていないんですよ」
というと、
「貧乏性という言葉もおかしなものですよね。でも、それは今まで生きていた時への未練のようなものではないんですか?」
「そうかも知れませんね。小説を書き上げたいという思いが強くて、その思いを抱きながら頭の中ではいつも構想を練っていましたからね。プレッシャーだったんですけど、それが今思えば楽しみだったようにも思うんですよ。懐かしいというべきでしょうか」
「別に未練が悪いと言っているわけではないんですが、死んだ人のほとんどは、生きていた時のことを思い返して、なかなか死を受け入れようとはしないんです。もう二度と戻れないと思うと、あっちの世界に残してきた人への思いが未練になってしまうんですよ。生きている時は、自分の大切な人が死ぬと、『どうして自分を残して死んじゃったの?』って思い、自分が死んでしまうと、『残してきた人に対して悪い』と思ってしまうんですよね。それは、死後の世界を認めたくないという思いと、自分が死んだということを受け入れられない気持ちが強く働いて、まだまだ生きていた頃の自分から逃れることができない、一種の呪縛に掛かったようになっているんですよ」
「そうですね。人が死んで悲しいと思うのは、生きている人も、そのことをうっすらと感じているからなのかも知れないですね」
「あなたは、死を怖いとは思いませんでしたか?」
と彼女に聞かれて、
「ええ、怖いと思っていましたね。子供の頃は漠然と怖いと思っていました。その思いは、痛いのが嫌だというところから入っている思いであって、他の人への感情は二の次だったと思います。大人になるにつれて、親しい人や家族と離れ離れになるのは嫌だという思いが強かったですね。自分のまわりで死んでしまった人もいて、葬儀に出るたびに、静粛な雰囲気に呑まれてしまって、感極まって涙を流している人や、しくしくと涙を流す人、歯を食いしばって涙を堪える人と様々な中で、異様な雰囲気に包まれて、つつがなく進んでいく葬儀は、本当に難と表現していいか分かりません。一度味わってしまうと、二度と味わいたくないという思いと、もう一度この空気を味わいたいという思いとが複雑に絡まっているんですよ。そんな感覚、なかなかありませんからね」
と高山が言うと、
「大人になって、経験や死に対して考えるようになると、考えたくないという思いも絡むことで、複雑な感覚になることはあると思います。それが不安であり、恐怖でもあるんですよ。普通は、なかなかそこまで深く考えることはないと思いますが、ふいに考えてしまうと、考えが深みに嵌って、抜けられなくなるこがあります。そんな時、天国や地獄の夢を見たりすることがあるようですよ」
と、彼女が答えた。
「じゃあ、僕が天国と地獄の夢を見たのは、不安や恐怖が見せたものだっておっしゃりたいんですか?」
「高山さんの場合は何とも言えませんが、ないとは言い切れません。私は今までに何人もの人の担当をしてきましたが、中には天国と地獄の夢を見たと話してくれる人もいました。その人は、自分の中にハッキリと不安と恐怖を抱いていましたね。そして、その人は自分が死んだということを、すぐに納得されていました」
「そうなんだ。天国と地獄の夢を見たという人も他にいたんだ」
と高山は自分が見た夢を思い出そうとしていたが、すでに死んでしまっているので、生きていた頃に見た夢を思い出すことはできなかった。
「高山さんは。死んでしまったから生きていた頃の夢を思い出すことができないんだと思っているようですね」
まるで、自分の考えていることなどお見通しと言わんばかりの彼女を見て、少し癪に障った高山だったが、
「ええ、違うんですか?」
「高山さんの想像している通り、夢というのはその人が抱いている潜在意識が見せるものなんですよ」
「ええ」
「でも、死後の世界に潜在意識というものは存在しません。むしろ、生きていた頃の潜在意識と呼ばれていたものが、今あなたがいる死後の世界だと思ってもらって結構なんですよ」
「どういうことですか? それだったら、生きていた頃に持っていた潜在意識が、実は皆同じものだったというものなのか、それとも、死後というこの世界が、人それぞれで違っているものなのかのどちらかではないかと言っているように聞こえるんですが」
「そのどちらもですね。前者でいうところの、潜在意識が皆共通だったというのは、半分当たっています。共通する部分も存在するということですね」
「分かりやすく説明してください」
さすがに高山も頭が混乱してきたのだろう。彼女の方も、今までにここまで考えている人の担当をしたことがなかったのか、
「私がここまで話をすることはなかなかないんですが、あなたは、天国と地獄の夢を見られましたよね。それにさっき同じ夢を見た人から話を聞いたとも言いました。でも、それはあなた方二人だけに言えることではなく、皆さんそうなんです」
高山には、彼女が何を言いたいのか分かった上で、敢えて聞いてみた。
「どういうことですか?」
彼女は、一拍置いて、話し始めた。
「それは、天国と地獄の夢を見るということは、レアなケースではないということです。むしろ、皆見ていて、そのほとんどの人が夢を見たことを覚えていないだけなんです。それはその人の性格というよりも、見た夢を誰が覚えているかということは、最初から決まっていたということなんですよ」
さっきまでは、きっと今の言葉に驚愕していただろうが、あらためて聞くと、納得できる気がした。自分がここで納得できるのは、きっと死というものを簡単に受け入れることができたからなのだろうと思っていた。
「なるほど、それが潜在意識の中での皆がもっている共有部分なんですね?」
「そうです。それはあなたが今言ったように、共通部分というわけではなく、共有部分になるわけです」
「分かりました。では、後者は?」
「それは今から行く地獄であなたは分かることになると思います。今は少なくとも、あなた方が考えている生きていた頃に思い描いた天国と地獄ではありません」
「僕は、世間一般で言われていた天国と地獄とは違う世界をイメージしてきました。きっと、他の人も微妙に違っているのかも知れませんね」
「それは当たり前のことだと思いますよ。いくら定説があると言っても、実際に見たわけではないし、見た人から話を聞いたわけでもない。想像された話を聞いて、さらに自分で想像を加えているんだから、一人として同じ感覚に思っている人はいないと思いますよ」
「じゃあ、僕がここで待機している時間も大切な時間なのかも知れませんね」
「ええ、でも、想像はあくまでも想像でしかない。あなたは、生きている時に自分の中で結論を見つけた。だから死んだとしても、それ以上の発想を浮かべることはできません。ここで想像力を膨らませることができるのは、生きている頃に、想像することを怖がって、何も考えてこなかった人だけです。ここで嫌でも想像しなければいけなくなるわけですから、その人にとって、ここは苦しいだけの世界になっているのかも知れませんよ」
「しかも、苦しみの中から、天国に行くか、地獄に行くかを決めなければいけないんですよね」
「ええ、でも苦しみの中からその結論は生まれてくるので、それ以上の苦しみはありません。いわゆる『産みの苦しみ』とは、このことを言うんでしょうね」
「なるほど、その通りなんでしょうね。これから僕が行く地獄がどんなところなのか自分で想像しているつもりなんですが、間違いないと思っています」
「ええ、ただ、完全に間違いないとは言い切れないんですよ。間違いないという言葉には、完全という概念は確定しているわけではありません」
ここまで言うと、この話題はそこで終わった。
「ところで、ここにいる期間というのは、人によって違いがあるんですか?」
と高山はさっきまで聞いてみたいと思っていたことを、やっと切り出した。
「ええ、だから一定期間としか言っていません」
「でも、ここの世界で、時間や期間という感覚は、皆同じものなんですか? どうも人によって違っているような気がするんです。一つ気になっているのは、ここに来てから、担当者やこの建物の人間としか会っていないんですよね。同じ時期に死んだ人と出会うことはない。三雲さんの話だって、さっき聞くまで知らなかったくらいですからね」
「なかなか高山さんは鋭いですね。確かにその通りです。人によって微妙に時間の動きは違っています。いいですか? 今まで生きてきたあなた方がいた世界とは、ここはまったく違う世界なんですよ。死というイベントを通り超えてやってきた世界。つまりは、人の中にある想像力を与えることのできる唯一の世界なんですよ」
と彼女に言われて、
「ということは、いずれ、ここの世界を過ごせば、いつかは生きていた世界に戻れるということですか?」
「ええ、もちろん、まったく違った人間としてですね」
「じゃあ、人間は死んだら必ず生まれ返ることになり、人間以外に生まれ変わることはないということなんですね?」
「ええ、その人の一生は一回きりなんですが、魂は生まれ変わることができるんです」
という彼女の言葉に、今度は今までで一番意外そうな顔をした高山が、
「じゃあ、今の僕は魂だけの存在なんじゃないんですか?」
「そうです。あなたの存在は魂ではありません。もっと漠然としたもの。一種のエネルギーのようなものだと思っていただければいいと思います」
「じゃあ、僕の魂は今どこに?」
「生まれ変わるための準備をしています。新しいエネルギーを注入していると言えばいいかな?」
「魂は、また別の世界にあるということなんですね?」
「ええ、今のあなたがいる世界、そしてこれから行くであろう、天国か地獄とも違い、当然、生きていた時とも違う世界が広がっているんですよ」
高山はまたまた、頭が混乱してきた気がした。
「一体、世界と呼ばれる世界っていくつあるんだろう?」
というと、
「それは私にも分かりません。ただ、あなたよりも少なくとも少しは知っているという程度です。本当にすべてを理解している人なんているんでしょうかね?」
ここでは先生のような何でも知っていると思っていた人も万能ではなかった。もうここまで来ると、想像力の範囲を完全に逸脱していた。
高山はそれからしばらくしてから、地獄へと向かった。
「俺の想像していた通りのところだな」
確かに、血の池地獄や、針の山などと言った地獄はその場所に存在した。
しかし、それは地獄において、「悪いこと」をした人が行くところだ。しかも、未来永劫その場所から逃れることができないわけではない。いわゆる生前の世界での刑務所のようなところだった。
針の山地獄と言っても、さほど痛いものではない。何しろ死んでいるのだから、肉体的な痛みと呼ばれるものはない。精神的な苦痛を味わうことにはなるのだが、精神が破壊されたり、人格が失われるようなこともない。あくまでも「刑罰」の範疇だ。
地獄というところは、生前の人間が考えているような自由がないわけではない。むしろ自由を謳歌できる場所でもあった。男もいれば女もいる。誰が誰を好きになっても問題はない。欲望は悪いことではないので、性欲というのもむしろ奨励されていたのだ。
ただ、地獄というところは、実に地味なところである。照明らしいものもあまりあるわけではなく、他の人と共生することが正しい過ごし方だと思っている人には辛いところかも知れない。
地獄というところは、基本的に孤独なところで、一人でいろいろ考えるにはいい環境なのだが、誰かと一緒でないと辛いという人には苦しいところであった。
死ぬまでは皆、
「人は一人では生きていくことができない」
という生きていた頃の意識が強く働いていたので、。天国への道を望んでいる人ばかりだったはずだ。
しかし、天国にばかり人が集中してしまっては、あの世のバランスが保てない。そのために、天国と地獄への分かれ道の間に、ワンクッション置いて、そこでどちらに行くのかを考えさせる場所が必要だった。その場所が、この間までいた場所であり、天国ばかりを夢見ていた人に対して、ここでの生活の中で、本人の意識していないところで、天国と地獄の実態をおぼろげに意識させ、地獄へと導くようにしていたのだ。
導く側には、選択権はない。あくまでも選ぶのは死んだ本人、その人をいかにうまく導くかというのが、あの場所の役割だったのだ。
高山は、最初からそのことを分かっていた。
分かっていたのだから、最初から地獄にいけばよかったのだが、ここでの滞在は決められていることだった。ただ、人によって滞在期間は違う。決定できなければ、そこから出ることはできないからだ。
高山は、閻魔大王を見かけた。
思っていたよりもカリスマ性があるが、鬼の首領のようないでたちではない。服装は裁判官の服装で、雰囲気は紳士と言ってもいい感じだった。しかし、閻魔大王のまわりには鬼しかいない。それは生きていた頃に誰もが想像したとおりだった。
鬼と呼ばれる人たちも、本当の畜生ではない。話もできるし、仲良くなることだってできる。彼らは、鬼として生きていた世界があり、同じように死後の世界をこの地獄で過ごすということが決まっている。人間のように天国があるわけではない。その理由は分かってはいたが、鬼に聞いてみた。
「我々鬼は、自由であればそれでいいんだ。だから天国のような欲を制限するところにはとても行くことはできない」
と言っていた。
天国というところは、欲を抑えた想像上の世界であった。人間のみが創造したもので、それは宗教の思想によって築き上げられたものだった。その頃の天国の思想は、生きていた頃の思想とは違い、お釈迦様のような人がいるわけではなかった。
そのことを鬼に聞いてみると、
「天国というところは、鬼が行くことはできないのでハッキリは知らないんだけど、分かっていることは、天国も閻魔大王が統治しているということです。でも、閻魔大王はほとんど地獄にいます。天国というところは、宗教に被れた禁欲した人ばかりで、さらには、下から天国に住んでいた女神と呼ばれるような女たちの世界なんだ。それがどんな世界なのか、あなたには想像できますか?」
高山は、天国というところが、生前に誰もが想像しているような、極楽浄土ではないということは分かっていた。元々極楽浄土という言葉は、宗教で使う言葉であり、生きている時から宗教に対して一定の違和感を持っていた高山には、何となくだが、想像がついていた。
「天国というところは、一触即発というか、爆弾を抱えているようなところに思えてならないんだけどね」
というと、鬼は、
「そうかも知れませんね。だから、我々鬼はそんなところには行かないんですよ。人間が我々鬼をどう想像しているのか分かりませんが、我々は本当におとなしい人種なんです」
鬼は自分たちのことを「人種」だと言った。
「鬼の方々は、自分たちも人類だと思っているんですか?」
と聞くと、
「ええ、不本意ながら、そう思っています。閻魔大王がそう言うんですから、逆らうことはできません」
「というよりも、どうして不本意なんですか?」
「どうしてって、人間のような下等動物と同等に見られるなんて、我々には不本意以外の何者でもないですよ」
彼らは人間のことを下等動物だと言った。
確かに、人間が一番偉いというのは、他の動物が喋れないのをいいことに、人間が勝手に言っているだけで、誰が高等動物だというのだろう。
鬼は続けた。
「人間なんて、自分たちのエゴで殺し合いをするじゃないですか。生きるための本能だけではなく、エゴでも殺し合いをする。しかもそれを宗教のせいにして殺しあう。そして、宗教というのは、生きている間に幸福になれなかった人が死後の世界でいかに幸福になれるかということを説いています。これは、死後の世界の人に対しての冒涜に他ならないんじゃないですか?」
それを聞くと、高山も、
「きっとそれは、死後の世界をどこまで信じているかというところに影響しているのかも知れませんね。すべての宗教をいい悪いというつもりはありませんが、少なくとも人を洗脳して、営利を貪る宗教団体もないわけではない。死後の世界という自分たちが本当に信じているかどうか怪しいものを祭り上げ、自分たちの至福を肥やすなんてとんでもないとしか言いようがないですね」
というと、鬼も
「さすがに、私たちには何も言えませんが、高山さんのお話には感服するものがあります。人間の中にもそんな考え方を持った人もおられるんですね」
「同じような考えを持っている人は、ひょっとすると結構いるかも知れませんが、どうしても人は一人では生きていけないという発想から、奇抜な考えは封印するという思いが強くなっているのかも知れませんね」
「我々鬼は、集団という意識はないんですよ。秩序のために集団行動はありますが、誰もが違った考えを持っているのは当たり前で、強制することはできない。強制するだけのカリスマ的な考えはありませんからね。いくら絶対的なカリスマ性を持った閻魔大王だといっても、個人個人の考え方にまで入り込むことはできないんですよ。だから鬼は自由であり、地獄も自由なんです」
それを聞いた高山は一つの考えが浮かんだ。
「ということは、地獄は元々鬼が死んでから来るという場所だったんですか?」
「ええ、そうです。だから、鬼という人種の歴史は、人間という人種の歴史よりもずっと古いんですよ。だから、人間は生きている時、鬼を想像上の生き物として、おとぎ話などに登場させている。でも、その実態に関してはよく分かっていないので、人間は鬼を怖いものであり、悪者のように仕立ててしまっているんです」
鬼の言葉には説得力があった。
「なるほど、言っている話を聞いていると、生前に自分が考えていたことが裏付けられていることが分かるのと同時に、どうしても結びつけることができなかった死後の世界への感覚が、次第に繋がってくるように思えてきました」
「だからと言って、鬼である自分たちが、人間よりも優れているとは思っていません。人間は同じ人類である自分たちとは別個の進化を遂げ、鬼にはない頭の構造を作り上げた。それにより鬼に作ることのできなかったものを作るに至ったんだと思います」
「その鬼に作ることのできなかったものというのは何ですか?」
「それは文明です」
文明という言葉を聞いて、高山は何かが弾けたような気がした。確かに文明は人間にとって他の動物にはない唯一のものである。
「なるほど、鬼には文明と呼ばれるものはないんですか?」
「ええ、でも文明を築いたせいで、人間が人間たるに至ったというのも真理だと思っています」
「どういうことですか?」
「文明は、一人ではできません。人がたくさん集まってできるものです。だからこそ、集団ができれば、考えの違う人も生まれてきます。集団と集団が争うことで世界は戦争を免れることができなくなった。そこには国家であったり、主義であったり、戦争する理由づけになるものがどんどん形成されていく。これが人間の犯し続ける罪の流れになっていくんですよ」
「じゃあ、文明と破壊が表裏一体だと言われるんですか?」
「ええ、そうですね。文明が人間という動物の成果だとすると、その裏には破滅への『パンドラの匣』が潜んでいるということになりますね」
「地獄には、そんなものはありませんよね」
「ええ、地獄はあくまでも自由です。欲であっても、認められています。悪いことさえしなければ、自由に暮らせる世界です。そういう意味では天国というところには自由はありません。禁欲を中心に、あくまでも質素を貫く姿勢の場所なんです。しかし、天国というところはそれに反して、華やかなところなんですよ。地獄のように地味ではありません」
「じゃあ、天国で反乱が起こるかも知れませんね」
「実は、今地獄の鬼と、天国の女たちが秘密裏にある行動を進めています」
「えっ、それっていいことなんですか?」
「私はいいことだと思っています。まだ閻魔大王とかは知らないんですが、実は……」
と言って、鬼は高山に耳打ちをして、その計画を打ち明けたが、
「それはまずいかも知れませんよ。天国の女たちというのがどれほどの者なのかが分からないので何とも言えませんが、甘く見ていると、地獄が危険な状態になったりしないか、それが私は心配です」
それを聞いて、鬼は不安そうになっていた。
鬼の表情は、普通の人が見れば、まったく変わっていないように見えるだろう。縁日で買うお面のように、牙があり、歯が剥き出しになった様子から、どのように表情が読み取れるというのだろう。
「どうすればいいんでしょう?」
「計画を止めることはできないんですか?」
「ええ、鬼の先遣隊がすでに天国に向かっていますし、何よりも天国の女たちは大いに乗り気なんですよ」
「それはそうでしょうね。天国というところが、禁欲の世界なんだからですね。しかも、今の天国には秩序というものはないんでしょう? 統治も閻魔大王が兼任していて、天国では抑えることができる人はいないんですからね」
鬼の話は、こうであった。
一人の天国の女が、閻魔大王に連れ添って、天国から地獄にやってきたことがあった。それまでには一度も閻魔大王が天国の女を地獄に連れてくることはなかったのだそうだが、きっと、それは閻魔大王がいよいよ天国に秩序と統治を本格化させようと考えたからではないかと言っている。鬼たちの考えとしては、閻魔大王は、いずれは天国と地獄の垣根を取っ払って、それぞれに自由な場所であってほしいという願いを持っているようだと分析しているという。
その考えに高山も賛成だった。
閻魔大王の気持ちは分かるが、そのために天国の女を地獄に連れてくるということがどれほど危険なことか分かっていたのだろうか?
天国の女は、禁欲に縛られている。華やかな天国というところで、形ばかりの自由を謳歌しているように見せているだけだ。どれほどのストレスが溜まっていることだろう。暴動が起きても仕方のない状態になるのではないかというのが、高山の考えだった。
この考えは、性欲や嫉妬、などの人間特有の感情を持った者でしか分からない。鬼たちのように、人間のいうところの性欲がなく、ただ本能だけで女を抱くもう一つの人類には分からないことだった。だから、彼らの計画を止めることができないのは当たり前のことだった。
話をしている鬼も、高山の話を聞いて、切羽詰った状況に追いやられるかも知れないとは思っていても、まだまだ実感としては湧いてこない。高山が一番懸念しているのは、性欲を持っている地獄にいる人間と、禁欲に縛られてきた天国からやってくる女が交わることでどうなるかということが恐ろしかった。
「天国の女が地獄に来ることで、まるで酒池肉林のようになって、秩序は崩壊してしまうか、あるいは、女に蹂躙されてしまって、天国の女に男たちが食い尽くされ、天国の支配下にでもなってしまわないか」
という危惧が頭に浮かんでくるのだった。
恐れていたことが起こった。天国の女が、閻魔大王に付き添っていた女から地獄の何たるかを聞き、天国からの脱出を試みた。
まず、地獄の鬼を懐柔し、自分たちの思いのままになる連中を作った。彼女たちがいかにして天国を抜け出し、地獄へ向かうことができたのか、不思議な感じがしたが、考えてみれば、天国から地獄への門番は鬼がしているのだ。女たちも道さえ分かっていれば、鬼が助けてくれるので、地獄へと向かうことができた。
地獄というところは、確かに自由だが、男女の比率からいえば、圧倒的に男性の方が多い。特に鬼には元来人間のような性欲はなかった。元々女が少ないのだから、性欲を湧かないように最初から作られていたのだが、それでも性欲がないわけではない。欲というものに気が付けば、彼らが溺れてしまうのも無理もないこと、知能は人間よりも優れているにもかかわらず、人間の方が鬼たちよりも立場が上なのは、人間には鬼にない欲というものがあるからだった。
鬼はあっさりしたものだった。地獄であっても自由さえ謳歌できれば、余計な欲は必要なかった。食べ物も食べられればそれでいいし、女を抱くという習慣もなかった。
そんな地獄に天国の女が一斉になだれ込んで来た。理由としては、
「自由を求めて」
というのが表向きだったが、実際には地獄の鬼を相手に、自分たちの性欲を満たそうというのが目的だった。
彼女たちは、地獄の人間には興味はない。天国にいる人間を見ていて、俗世間から離れた禁欲であったり、欲深かったことが災いして天国を選んだために、禁欲を余儀なくされた彼らにはもはや感情はほとんど存在しなかった。つまりは、男としての魅力はまったくなかったのである。
「人間の男なんて、つまらないわ」
というのが、天国の女の考えだった。
彼女たちは人間ではない。天国にいても、男は禁欲、戒律を破れば、男も女も、まるで人間が生きている時に思い描いていた地獄絵図を見ることになる。まさしく天国の中の地獄であった。
彼女たちは、人間よりも鬼に近かった。ただし、男の鬼は自由だけを求めていたが、天国の女たちは、さらに欲望を求めた。つまりは性欲である。
彼女たちが地獄の鬼に憧れるのは無理もない。姿形は違えども、同じ進化を遂げてきた男女だったのだ。引き合うところがあってしかるべきである。
「私たちは、地獄で鬼どもを懐柔して、地獄で自由と性欲を謳歌するのよ」
と言って、地獄へとなだれ込んでいったのである。
なだれ込んだと言っても、秘密裏に進んだ行動だったので、ほとんど表に出ることはなかった。地獄の秩序を預かる鬼たちを懐柔したのだから、気づいた時には地獄は天国にいた女たちに蹂躙されていた。
ただ、彼女たちは、自分の欲望を満たすことができればそれでいいと思っていた。実際に今までできなかったことを謳歌していると、これこそ天国を味わっているのだ。身体の欲はあるが、征服欲や出世欲のようなものは一切なかった。
このまま彼女たちは地獄に納まることができればそれが一番よかったのだが、地獄の秩序は乱れてしまった。閻魔大王も、彼女たちの気持ちが分かるだけに、解決策を急ぐことはなかった。ただ、ダラダラになってしまうと、収拾がつかなくなることから、まずは、彼女たちに地獄の秩序を教えることから始まった。
最初はそれでもよかったのだが、そのうちに女たちの中から、
「天国が懐かしい」
という者が現れた。
「裏切り者」
という意見もあったが、
「尊重してもいいのではないか」
と、意見が分かれてしまった。
その中で、
「天国を地獄のようにしてしまえばいいんじゃないの?」
という意見が生まれたが、これが一番最悪の考えであった。
天国は天国であって地獄ではない。天国には天国の存在意義があるからだ。しかし、今の天国というところには、戒律はあるが秩序がない。そのため、禁欲に苛まれてしまっていたのだ。
彼女たちは一計を案じた。自分たちが地獄の鬼にさらわれて、人質になっているというシナリオだった。
その時、地獄の閻魔大王が地獄にいる「釈迦」を生きている時代に修行にやらせて、そこで仏教を広げた。そして、寿命を全うして、また天国に戻ってきた。それが天国の歴史の始まりだった。
その釈迦という人物が、実は三雲であることを知っているのは、高山と閻魔大王だけだった。
三雲や高山が生きていた時代、もちろん仏教というものは存在し、釈迦の存在は広く知られている。それなのに、なぜ三雲が高山と一緒に交通事故に遭って死んでしまい、天国と地獄の狭間でどちらに行くかの選択を行った。
ちょうどその時、まだ完成されていなかった天国の女が反乱を起こし、地獄になだれ込む。地獄の秩序と天国は確立されていなかった。
そんな時、三雲は釈迦になり生き直すことになり、地獄の秩序と天国が確立されることになる。
これが、高山と三雲の天国と地獄。この世界は輪廻のように繰り返している。他の人の天国と地獄も同じように輪廻の中にあるのだろうが、それはそれぞれの人間の物語。
そう、天国と地獄は、人それぞれに存在している。それが、高山が書いた、
「【真説】天国と地獄」
という本の内容であり、輪廻は自分の中だけで繰り返されるものであった……。
( 完 )
【真説】天国と地獄 森本 晃次 @kakku
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