第3話 天国と地獄、そして……

 高山は、自分の身体が弱いことは認識していた。

 童話作家にはなったが、それ以外の作品を書くということは、自分の寿命を縮めることになると医者から止められていた。

「神経をすり減らすような仕事をしていると、命にかかわります」

 と言われていた。

 童話作家が、神経をすり減らさない仕事だとは言わないが、作家という仕事を選んだ人は、いろいろなジャンルの中で、

「これだけは、神経をすり減らすことなくできるものがある」

 というジャンルを目指すことになる。

 それ以外のジャンルに手を出すと、よほどの神経の図太さがなければ、死と背中合わせになるだろうということを認識していた。

 ただ、それを認識できる人は作家の中でも一握りで、その認識のない人は、逆に神経が図太いか、作家としては長続きしない人ではないだろうか。

 高山は、そこまで分かっているつもりだったのに、どうして天国と地獄を描こうと思ったのか、自分でも不思議だった。

――作家になったのだって、他の職業ではとてもやっていけないという逃げ腰の気持ちがあったのも事実だし、童話作家として無難に生きていければそれでいいと思っていたはずなのに――

 と、急に考えが変わってしまったことに恐怖を感じていた。

 それが自分の意思とは別の意識がどこかで働いていて、逃げることのできない状況に追い込まれてしまったのではないかと思いながらも、三雲に話すことで、本当は止めてほしかったという気持ちがあったのも事実だ。

 高山の発想には敬意を表していたが、彼の中にある小心者としてのレッテルは、三雲にも分かっているつもりだった。

 だが、さすがの三雲にも、高山が抱えている精神的な苦悩は分からなかった。それは、最初から持ち合わせていたもので、他の人のレベルがゼロであるなら、高山は最初からマイナススタートだったのだ。

 三雲が高山に最初から興味を抱いたのは、このマイナススタートを意識していたからだった。

 ただ、

――どこか、他の作家とは違ったところがある――

 という意識があった程度で、まさかマイナススタートだとは思っていなかった。

 それを分かるようになったのは、三雲が高山の担当を離れて、綿貫の担当になったからだ。

 綿貫は最初から他の作家よりの突出したところがあった。もし、綿貫に突出した部分がなければ、三雲も高山の本性に気づかないままだったかも知れない。しかし、知ってしまうと、高山のことが気になって仕方がなくなり、担当を外れても、今までどおりの付き合いを続けていくことになるのだった。

 マイナススタートは三雲にとっては悲観的なものではなく、

――限りない可能性を秘めている――

 と、逆に感じられるようになったのだ。

 三雲は高山のことを考えながらぼんやりと歩いていると、目の前に白い閃光を感じた。今までにも見たことがあったような気がする閃光だったが、それがどこで見たものだったのか覚えていない。しかし、つい最近だったことに間違いはないようで、気が付くまでに少し時間が掛かる気がしていた。

 目が覚めると、目の前には白い壁の古めかしい建物があった。どこかの研究所のようで、昭和初期にタイムスリップしたのではないかと思えたが、それが高山の話していた「大学のような建物」を思わせるものだということに、すぐに気づいた。

「ここは一体?」

 空は真っ暗だった。夜なのか昼なのかも分からない感覚に、ただ目の前の建物の前で佇んでいるだけの三雲に話しかける人がいた。

「ようこそ、どうぞ中へ」

 その人は、黒装束に身を包んだ女性で、まるで魔女を思わせた。

「ここは一体どこなんですか?」

「あなたは、たぶん分かっておられると思うのですが、死んだ人間が最初に来るところです」

「えっ、僕は死んだんですか?」

「ええ、死んだという意識がないまま、ここに来られる方はたくさんいます。半分以上の方がそうではないでしょうか?」

「それは、死を受け入れられないということですか?」

「ええ、寿命で亡くなった方でさえ、最初は自分が死んだということを理解するまでに時間が掛かるくらいなので、若くして亡くなった方は、余計に死を受け入れることはなかなか難しいんでしょうね。だから、この施設があるんです。いきなり死後の世界へいざなったとしても、戸惑うだけですからね」

「じゃあ、どんな死に方をした人でも、ここを通るということですか?」

「ええ、そうです。そして、ここに来られる方は、生前にどんな生活を送っていたかということは一切関係ないんですよ。ここにいる間は皆が平等、それを忘れないようにしてくださいね」

 と、その女性は言ったが、生きている頃もそうだったのではないだろうか?

 三雲はそのことを訊ねてみる。

「平等って言っても、生きている間も平等だったのでは?」

 どう答えるかが気になっていた。本当は、生きていた世界で皆が平等などというのは理想であって、現実にはありえないということが分かっていたからだ。この世界でこの女性は、それでもここを平等だと言い切った。何か納得のいく説明がないと、承服できないと思っていた。

――そもそもこの世界自体、夢を見ているのではないだろうか?

 その思いが一番強かった。本当なら、

――夢なら早く覚めてほしい――

 と思うものなのだろうが、それでは納得がいかない。少なくともこの女性の正体を暴いてからでないと、目覚めが悪いと思った。

 彼女は静かに答えた。

「あなたは平等という言葉を私が考えている内容と違って解釈していますね。もっとも生きていた世界から来た人は、皆あなたと同じで、その感覚が、生きていた時代を象徴しているんですよ」

 三雲は少し苛立った。

――なぜ、この女性はこんなにも相手を否定するような言い方をするんだろう?

 生きている時代では、反感を買われるので、普通なら口にすることはないだろう。もちろん、頭の中で考えている人はいただろうが。そのことを思うと、この世界は、正直に思ったことを口にする世界なのかとも思えてきた。

「あなたの言い分は正当なのかも知れませんが、相手の気持ちを考えて口にしているとは思えませんね」

 というと、

「なぜ、相手の気持ちを考えないといけないんですか? 相手が傷つくからですか? 本当のことを言って傷つくのはあなたが生きていた時代のことであって、ここでは傷つくという感覚はありません。何しろ、皆が平等なんですからね?」

「平等という言葉は、言い換えれば、皆が対等だという言葉にもなると私は思うのですが、もしそうなら、皆が対等に過ごせる世の中というのは、理想郷であり、実際には不可能じゃないんですか?」

 と三雲がいうと、彼女はフッと嘲笑って、

「だから、あなたの生きていた時代の人は、自分の欲望や嫉妬、一旦起こってしまったことへの連鎖が働いて、殺し合いが絶えないんですよ。確かに平等や対等というのは理想郷の世界ですよ。それは、絶対の支配力を持った人間がいなかったからに他ならないんです」

 今度は、三雲が可笑しくなった。

「あなたは、独裁者を奨励するんですか? 独裁者の存在が犯罪を呼び、最大の殺し合いを引き起こしたのが、私の生きてきた時代の歴史なんですよ」

「どうやら、まだ分かっていないようですね。独裁者というのは、確かに最初は自由、平等、博愛を目指したかも知れませんが、手に入れた権力に自分の気持ちが支配されて、さらなる欲望、嫉妬、さらなる悪の連鎖を生むことになる。それは、その人本人だけの責任ではない。まわりの人がその人を自分の欲望のために担ぎ上げたことが原因でもある。それを忘れてはいけません」

 彼女の口調は、三雲の発想では、ギリギリの線であった。これ以上の暴言は、自分の理性を壊しかねないと思うほどで、自分がこのまま気が狂ってしまうのではないかと感じるほどだった。

「何を言っているんですか、民衆は自分たちが生きるためのギリギリの生活から逃れるために、藁をも掴む思いで、その人にすがった。それを誰が非難できるというんですか?」

 すると、彼女は冷静に顔色一つ変えず、言い返してきた。

「誰が非難していると言ったんです? 私は責任があると言ったんです。責任があるというのは、非難していることにはなりません」

 どうやら、今までの感覚を一度リセットしなければ、この女性との会話はできないようだ。

「じゃあ、あなたはどうすればよかったというんですか?」

「どうもこうもないでしょう。確かに民衆が反対しても、独裁者は台頭するでしょうし、もっと悲惨なことになっていたかも知れませんね」

「この世界では、そんなことはないとおっしゃるんですか? 独裁者もおらず、皆平等で幸せに暮らしていると」

「そんなことは言っていません。ここには独裁者は存在します。そして平等ではありますが、あなたが考えているような幸せというのは、ここでは存在しません」

 不可解としか思えない発想だ。不愉快な気持ちは、最高潮に達した。

「あなたは、ここでやってきた死者に、一人一人諭しているんですか?」

「そんなことはしません。ほとんどの人は話をしても、分かるはずがないということは分かっていますからね」

「じゃあ、どうして私に話したんですか? 私だって、理解の限度をはるかに超えていて、不愉快でしかないんですが」

 彼女は、先ほどのような嘲笑いではなく、笑顔になった。それは親しみを感じさせるものだった。

「あなたなら、分かる気がします。だから、あなたには、VIP待遇を用意しています」

「どういうことですか?」

「この世界で皆が平等だというのは、一人のカリスマによって、統制されているからです。あなたのいう独裁者とは少し違っていますが、言葉にするなら、独裁者という言葉を使ってもいいと思っています」

「じゃあ、自由というのはないんですか?」

「そんなことはありません。あなた方の考えている自由というのはないとは思いますが、それを認めると、統制は取れません。あなたのいた時代は、それが一番の問題だった。自由を認めると、統制が取れずに、世の中が乱れる。それをあなたはどうしてだと思いますか?」

「人が勝手にそれぞれで動くからですか?」

「それもありますが、本当の理由は、人間には理性と欲望があるからです。ある程度の統制を取るためには、欲望を抑えなければいけない。宗教と呼ばれるものは、そこを強調していますよね。でも、一般の人は自由を求めます。そして自由を謳歌するには、理性が必要だということは分かっているはずなんです。でも、実際に自由を手に入れると、統制を鬱陶しく感じてしまい、欲望が表に出てきてしまう。つまりは、理性と欲望のバランスが取れないのは、あなた方がいた世界だったんです」

「ここでは、それを取れるとでもいうんですか?」

「ええ、ここでは、欲望はありません。理性もありません。だからと言って、あなた方がいた世界で持っていた夢がないわけではない。夢をうまくコントロールできる世界がこの世界なんですよ。あなた方から見れば、ここは理想郷と言えるところなんでしょうね」

「死後の世界に、そんな素晴らしいところがあるんだ」

「ただ、ここには長くとどまることはできません。あなた方の感覚で言えば、一か月ほどで、ここから出なければいけません」

「どうしてですか?」

「ここにも、許容人数に限界があるからです。何しろ理想郷を保っていかなければいけないんですから、人が増えすぎるわけには行きません。死んだ人で溢れかえってしまってはいけないんですよ。だから、言葉は悪いですが、長く滞在していた人から、締め出すことになる」

「締め出された人は、どこに行くんですか?」

「いわゆる天国が地獄かのどちらかに行くことになりますね」

「それは誰が決めるんですか?」

「決めるのは本人です」

「本人? それじゃあ、誰もが天国に行きたがるのではないですか?」

 三雲は不思議に思った。

――最初から地獄に行きたいと思う人なんているのだろうか?

 誰が考えても、地獄に行きたいと思う人などいるはずはない。死んだ時に、天国に行くのか地獄に行くのか決まっていて、それは、生きている間の行いで決まると思っているからだった。

 彼女はまた微笑んで、

「あなたが頭の中に描いている天国と地獄のイメージ、それは想像上のイメージでしょう? ひょっとして、想像しているのと違うのでは? と思っているとしても、すぐに打ち消すだけの思いだったりするんじゃないですか?」

「その通りです。でも、それ以外のイメージが浮かんで来ない以上、疑っても、それは無意味なことだとしか思えません」

「天国と地獄については、これからあなたは次第に知っていくことになるので、ここでは言及しませんが、あなたの考えている天国と地獄のイメージは、宗教的な色で凝り固まっていますよね。それがあなた方の世界の致命的なところでもあるんですよ。世の中が乱れるのは宗教がらみがほとんどです。一つ覚えていてほしいのですが、私があなたに言っている『自由』という言葉の意味の違いが、今のあなたと私を隔てる距離なんです。だから、あなたが私のいう『自由』を理解できれば、あなたは私の考えていること、そして、死後の世界を理解することができるんですよ」

 彼女はさっきまでの厳しい表情から一転、親しみを込めた表情になった。

 少し親しみを感じてはいたが、ここまで信憑性の高さを感じさせるものだとは思わなかった。

――これがこの人の本当の顔なんだ――

 確かに最初の頃の話を今の表情でされても、信憑性はおろか、聞く耳すら持たなかったに違いない。やはり彼女が自分には話しておこうと思った理由は、このあたりにあるのかも知れない。

「この世界を統制している人は、神なんですか?」

 どうしても、自分がいた時代の発想でしかモノを考えられない自分に憤りを感じていた三雲だったが、それでも、言葉に発する場合、それしかないと思っていた。

 今の彼女であれば、自分のいた時代の発想でしか言えないことでも許してくれそうに思ったからだ。

「私は、あなたのいた世界という表現を使わずに、あなたのいた時代という言葉を敢えて使っています。この世界は、あなたのいた時代のパラレルワールドではなく、まったく違った世界なんですよ。だから、時系列でも違う世代だと思っています。だからといって、この世界が優れていて、あなた方がいた世界が劣っているとは思いません。それなりの秩序の元に成立している世界であり、ずっと昔から決まっていた秩序なんですよ。だから、あなたが言う神というのは、この世界にも存在しません。神というくらいなら、独裁者と言った方が正解かも知れませんね」

「でも、独裁者というとイメージが……」

「それは、あなた方が勝手につけたイメージで、ここでは通用しません。そのことを理解できない人はここにはいることができないので、理解できない人には、理解しなくてもいいように、欲望や嫉妬心などの感情は、排除させてもらっています」

「じゃあ、その人たちは永遠に感情を排除されたままなんですか?」

「そんなことはありません。排除するのはここにいる間だけです。しかも排除するのは感情だけなので、思考能力や発想力は残っています。だから、行先の選択に対しては問題がないんですよ」

「ということは、ここから出て、天国や地獄にいく時には、感情を戻されてから行くということになるんですか?」

「そういうことです。感情を戻されたことで、ここにいたことを皆さん、記憶から消えてしまっています。正確には残っているんですが、思い出すことはまずありません」

「ここは、本当に不思議な世界なんですね?」

「そうかも知れませんが、ここにいる人には、他の世界の方が不思議に感じられます。お互い様ですよ」

 と、言って彼女は笑うのだった。

「ところで、これからここにいた人が天国か地獄かを選ぶ時間がやってきます。一日に何度かそんな時間が存在し、私はそれを見届ける係りでもあるんです」

「今からですか?」

「ええ、あなたもご一緒しませんか?」

「私がいてもいいんですか?」

「もちろん構いません。ここでは、誰もが人の選択を見守る権利があります。ただ、本人が選択したことを妨げる権利はありませんけどね」

「それは当然だと思います。それがあなたのいう『自由』なんですか?」

「ええ、そうです。ただ、あなたが考えているよりも自由というのはずっとシビアで、そこには人情は挟みません。どんなにことになっても、選択したのは本人。それが運命なんです」

「運命?」

「ええ、そうです。ここでいう運命というのは、あなたが考えている運命と同じものです。つまりは、いくら本人であっても逆らうことのできないもの、絶対のものなんです」

「ということは、まず自由という発想があり、その中に本人が選択するという自由がある。ただ、それよりも上に絶対的な運命というものがあり、それには誰も逆らうことができないということなんですね」

「一口に言えばそういうことになります。でも、もっと正確に言えば、本人が選択する自由というのも、運命なんですよ」

「どういうことですか?」

「本人が選択することは、元々決まっていたことで、それを運命だといえば、何となくイメージが湧くでしょう?」

「ええ、それは私の中でも当たり前のことだと思っています」

「でも、あなたが思っている自由というのは、本人のためにあるというイメージが強いと思うので、そこが少し違っています。あくまでも自由は本人が選ぶ権利というだけで、それが本人にとっていいことなのかどうなのかというのは、運命にしか分からないことなんです。とりあえず、見ていただきましょう」

 そういって、彼女は三雲を別室に招いた。

 最初にいた部屋を出ると、表の通路は真っ暗だった。最初は、

「えっ、前が見えませんけど」

 というと、

「少しだけ目を瞑ってから、すぐに目を開けてください。すぐに見えるようになりますよ」

 と言われて、三雲はとりあえず目を閉じた。

――どれくらいの間、閉じていればいいんだろう?

 と思ったが、すぐに目を開けてもいいという思いが巡ってきた。

 最初からその感覚が自分の中にあったかのような感覚に驚いていたが、やはりここは彼女のいうように、死んだ人間が来るところなんだろうか?

 目を開けると、さっきまで見えなかった通路がウソのように、綺麗に見えていた。明かりはどこにもないはずなのに、夜中のガード下よりも、かなりの明るさだ。

 しかし、すぐにおかしなことに気が付いた。

「影がない」

 思わず、声に出してしまい、気持ちを確かめるように、彼女の顔を見た。彼女は微笑みながら、

「さすが三雲様、よくお分かりになりましたね」

 三雲は、明るさからすぐに想像したのはガード下だった。ガード下でいつも気になっているのは、影の大きさだった。その大きな影に見つめられていることで恐怖を煽られているのに、まさか、その影がないことが、この世界の恐怖の正体だということが分かるなど、何とも皮肉なことだった。

「ええ、でも思ったよりも明るいので、影のないことが分かったのは、明るさのおかげなのかも知れません。それにしても、本当に影がないなんて……。あなたの言ったとおり、ここは死後の世界なんですね」

 と三雲が言うと、

「確かに死後の世界ではあるんですが、正確には、死後の世界の最終地点ではないということですね」

「じゃあ、生まれてくる時も、実は同じような世界があったりして」

 と、三雲は好奇心からそう言った。

「その通りです。生まれてくる時も、誰の子供として生まれてくるのかということを決めるところはあります。でも、そこでは生まれてくる子供の意思はまだありませんので、決めるのは、いわゆるスタッフなんですよ。本当にランダムですね」

 という言葉を聞くと、

「子供は親を選べないとよく言っていましたけど、まさしくその通りなんですね」

「ええ、でも生まれてきた限りは生きる権利と義務が発生します。それはあなたが思っていることと同じですね」

「じゃあ、生まれる時と死ぬ時とでは、自由があるとすれば、ここで選択する天国か地獄への行き先だけということになるんでしょうか?」

「そうです。ここでいう自由という意味でですけどね」

 彼女はやたらと自由に対して、いちいち断わってくる。

 歩きながら、次第にさっきまで自分が何を考えていたのか分からなくなってきた。少なくとも通路に出る前と出てからでは、まったく違った印象を感じていることに気が付いていた。

――通路に出る前のことって、まるで一ヶ月以上も前のことのような気がするーー

 それほど、記憶が曖昧だった。

 それなら、その間、自分はどこにいたというのだろう。その間の記憶はどこかにあるようなんだけれど、それがどこにあるのか分からない。それよりも、誰か違う人の考えが自分の中に宿っているような気もしてきたくらいで、その人が自分の心に何かを問いかけているように思えてならなかった。

「どうしたんですか?」

 彼女は、三雲の様子の変化に今気づいたような口ぶりだった。しかし、その表情は、自信に満ち溢れているように見え、

――私は何でもお見通しよ――

 とでも言いたげに思えた。

 まっすぐに歩いていると、目の前に扉が見えてきた。さっきまで扉などどこにもないところを歩いていたはずなのに、一つ扉が気になると、いくつもの扉が目の前に現れてきたのだ。

――そんな、扉なんかなかったはずなのに――

 本当に不思議な世界である。

 ただ、最初から扉がないのは不思議に感じていたこともあり、自分の中で扉を想像してみると、一つ現れた。それが妄想となって膨れ上がり、いくつもの扉が見えたのだとすれば、ここは夢の世界に似たものなのかも知れない。

 夢というのが、潜在意識の見せるものだという思いを抱いていたので、ここでの出来事は夢よりもリアルであり、想像したことがストレートに目の前に飛び込んでくる感覚を作り出しているものだといえるのではないだろうか。

 そしてもう一つ感じたことは、真っ白い壁の間を歩いていたので、自分が歩いているスピードがどれほどのものなのか、よく分かっていなかったようだ。扉が現れたおかげで、自分の歩いているスピードの感覚を感じることができたのだが、そのスピードが自分で感じていたよりも、かなり遅かったことに気が付いた。

 そのことを彼女にも分かったのか、

「ここはあなたが感じているよりも、時間が経つのはかなり早いです。今、扉を見て、歩くスピードが自分の感覚よりも遅く感じているでしょう? それは実際の感覚よりも時間の方が早いからなんですよ」

 その言葉を聞くと、

「ああ、そういうことか。だから、さっき扉からこの通路に出てから、さっきの部屋のことを思い出そうとしたとき、かなり以前のことだったように感じたのは」

 それにしても、かなりの以前ではあるが、

「ええ、その通りです。さすが三雲様は聡明でいらっしゃる。私が想像していたよりも、かなり賢明なお方なのではないかと思うようになってきました」

「それは、嬉しいですね。でも、まだ私はこの世界のことを何も知らないので、あなたがいないと、何をどうしていいのか分からなくなります」

 と言って、また三雲は我に返った。

「あれ? 他の人はどうなんです? 僕に対してのあなたのような、『道先案内人』のような人が付いているんでしょうか?」

 と聞くと、彼女は少し微笑んで、

「ついている人とついていない人がいます」

 と答えた。

「ついている人とついていない人とで何か違いがあるんですか?」

「それは私には分かりません。上の方で決めて、割り当てられるんです」

「じゃあ、あなたが僕についたのも割り当てられたからなんですか?」

「いえ、あなたは私が選んだんです。ここでは案内人が死者を選ぶこともできるんですよ」

「あなたは、案内人という職業なんですか?」

「職業という考えとは少し違いますね。案内人をすることは、ここでは義務ですので、選ばれればしなければいけない。でも、義務の前に権利でもあるので、案内人の相手を選ぶこともできるんですよ」

「どうしてあなたは私を?」

「どうしてなんでしょうね? ただ、運命のようなものを感じたというのが、一番近い感覚なのかも知れません」

「選んでくれて光栄です。それが運命だとすれば、今まで運命なんどという言葉をあまり気にしたことのなかった僕が、初めて感じる運命になるのではないかと思っています」

「ただ、ここの世界はあなたが思っているよりも、かなりシビアですので、そのことだけは感じておられた方がいいと思います。忠告のようなものだと思ってくださいね」

 最初は、彼女の顔を直視できなかった。

 自分がこの世界にいるということは、自分が死んだということであり、それを認めたくはなかった。つまりはこの世界を否定したかったのだ。

――これは夢なんだ――

 誰もが感じることだろう。

 案内人の彼女の顔を直視できないのも当たり前というものだ。

 しかし、そのうちに顔を見ることができるようになった。それは扉を開けてからのことだった。

 扉を開けて、その向こうに飛び出すと、それまで見えていなかったはずの彼女の顔を感じるようになった。

――背中を向けているはずなのに、どうして彼女の顔が確認できるんだ?

 という疑問はあったが、それはきっと、最初に何も見えなかった空間で、一度目を閉じて、それから少しして目を開いた時、自分の中で何かが変わったのかも知れない。

 それは、今までは生きていた頃の自分に近かったものが、目を閉じて、その後開けた瞬間に、死後の世界の人間に近づいたことを示しているのかも知れない。

――だから見えなかった扉が見えるようになったり、さっきまでの部屋での出来事がかなり昔に感じられるように思えたからなのかも知れない――

 と感じた。

 さらに不思議に感じたことは、さっきまでの部屋での会話よりも、生きていた頃のことの方が身近に感じられた。

――確か、最後に記憶しているのは、バーで高山さんやマスターと天国と地獄の話をしていた時だったよな――

 というのを思い出した。

 最後にしたのが、天国と地獄の話だったというのも、実に皮肉なものだ。今頃自分のいなくなった世界では、自分の葬儀が行われているのかも知れない。そんなことを想像していると、死んだというよりも、まったく違う世界に飛び出したという感覚の方が強いことで、本当に自分が死んだということを、どうしても信じることができなかった。

――死んだということは信じられないのに、この世界のことは信じられるんだ――

 そんな不思議な感覚になっていた。

 三雲は、最初自分が死んだということで、

――この世界にいるには、今まで生きていた自分を否定しないと、ここではいられないのではないか?

 と思っていたが、彼女と一緒に通路を歩いているうちに、次第に考え方が変わってくるのを感じた。

――今まで生きてきた自分がいて、その延長上に今がある。ただ、その間に自分が死んだというイベントが存在するだけのことだった――

 と感じるようになった。

 そう感じることが、

――人間、最後は一人なんだ――

 ということを感じさせるに至ったのだが、その思いは、最近持ち始めた気がした。

 それは生きている間ではあったが、一人だと意識した時を思い出してみると、

――あの時、自分の死期が近いということを悟っていたのではないか?

 と感じていたような気がした。

 最初は信じられなかった自分の死を、何となくだが受け入れられるように思えたのは、この時に死期が近いことを感じていたからなのかも知れない。

――本能のようなものが働いたのか?

 動物は、自分の死期が近づくと、それが分かるという。

 しかも、自分の死ぬところを見られたくないという意識から、姿をくらますというくらいなので、本能が彼らにとってどれほど大切なものなのかということは分かるというものだ。

 人間の場合も、寿命が近づくと分かるものだという。ただ、ほんの少しだが、気力で寿命を延ばすこともできるのかも知れない。病院で入院していた、もう助からないという人が、

「死ぬなら自分の家で」

 という希望を持って退院し、その翌日、自分の家で静かに息を引き取ったという話を聞いたこともあった。

「最後の力を振り絞って、自分の運命に打ち勝ったんだ。すごい気力だよな」

 という人もいたが、冷静に考えると、

「本当の寿命が、その日になっていただけで、ただの偶然だよ」

 という思いが浮かんだが、さすがにそれを口にする勇気はなかった。

 その人がそう信じているのならそれでいいし、ひょっとすると時間が経って冷静に考えると、もう少しシビアな考えになれるのかも知れない。

 しかし、死期が近づいて、そのことを悟った人は、自分が死んでしまった時、そのことにすぐに気づくのだろうか?

 死後の世界で最初に来る場所が、この研究所のような建物だとすると、死んだ人はまだ自分が死んでいないと思うかも知れない。中には、

「俺はここで生まれ変わったんじゃないだろうか?」

 と思う人もいるだろう。

 そして、死んでしまったことを知らされて、ショックを受ける。

 しかし、あまりにも死後の世界が生前の世界と似ていると、このままこの世界で生まれ変われるのかも知れないと思う人もいたりして、この後自分が進むことになる天国か地獄、その二つの世界がどんなものかということは、生きている時に聞かされた、あくまでも架空の話でしかないのだ。

――それにしても生きている人が、どうして死後に天国と地獄という世界があることを知ったのだろう?

 という疑問も抱く。

 死後の世界の誰かは、生前の世界に行くことができる人もいて、その人が、

「人は死んだら、天国か地獄に行くんだ」

 ということを大昔に教えたのかも知れない。

 もちろん、その頃の人間が、そんなに簡単にその話を信じたのかどうか怪しいものだが、そこから宗教のようなものが生まれてきたと考えるのが一番妥当な気がする。人間は、自分が生きている世界、つまり自分たちの世界だけが本当の自分たちがいられる世界だと思っているが、実際には、死後の世界や、それ以外にもまだ想像もされていない世界がどこかに存在しているのかも知れない。

 小説家や漫画家の中には、そんな誰も信じられないような世界を想像し、自分なりに表現しているが、夢で見たものを自分なりの表現で形にしていると考えると、夢を見せるのは、その人の潜在意識だけではないという考え方も生まれてくる。

 自分にとって何が信じられるかということが、その中に真実が隠されているのかも知れない。

「あれから、どれほどの時間があったんだろう?」

 この世界に来てから、次第に時間の感覚がなくなってくるのを感じていた。

 さらに記憶力もどんどん低下している。

 この世界には一定期間しかいることができず、いずれ、天国か地獄のどちらかを選ばなければいけないという話だけは覚えていた。

 記憶が曖昧になってくることで、今まで考えたこともなかったような発想が浮かんでくるような気がして仕方がなかった。

「あの人は、一定期間と言ったが、ひょっとすると、この世界は時間というものは、規則的に動いているものではないのかも知れない」

 と感じた。

 生きている間は、規則的に時を刻むことが大前提で成り立っていた世界だった。しかし、この世界には、本当に時という概念があるのだろうか?

 ひょっとすると、個人個人が納得できた時、それが達成されるまでの時間として確定し、その時間は他人に影響しないものだと考えるのは危険と言えるだろう。

 しかし、時が柔軟に対応できれば、その人個人個人には、余計なプレッシャーが起きることもなく、冷静に考えることができて、正しい答えを生み出せるのだとすれば、それほど素晴らしいことはない。そうなれば、人と人が争うこともない。相手に気を遣う気持ちの余裕も出てくるだろう。

 そう思うと、この世界の天国と地獄というものの発想が頭の中で徐々に組み立てられてくるのを感じた。

「俺たちが考えていた世界とはまったく違ったものではないか。考えを変えなければ、間違った選択をするかも知れないな」

 その時に思い出したのは、高山が書いていた小説だった。まだプロローグだと言っていたが、彼の話を今思い出したというのは、何かの虫の知らせのようなものなのかも知れない。

 確か、彼の発想では、男と女が現れて、二人は自分が天国に行くか地獄に行くかの手前のところだったはずだ。そして、確か、

「地獄に行ったけど、断られた」

 というような話をしていたような気がするが、それも曖昧な記憶だった。

 記憶が曖昧だというのは、それだけ彼の話を真剣に聞いていなかったのか?

 いや、そうではない。まともにすべてを信じてしまうことは自分にとって誤った認識を持つのを嫌ったからなのかも知れないという考えも浮かんできた。

 三雲は、高山が何を言いたかったのかを考えていた。

「彼はひょっとすると、本当はすべてを分かっていて、話の中で小出しにしていたのかも知れない」

 小説で言えば、書き下ろしとしてではなく、連載として出し惜しみをしていたという感覚だ。

「高山さんの話もまた聞いてみたくなってきた」

 と考えていると、その思いは、すぐに叶えられることになった。

 自分の担当と言っていた人が、一人の女性を連れてきた。

「この人は、ある男性の担当なんだけど、その男性があなたのことを気にしているらしいんです」

 という話をした。

 すぐには、それが誰なのかということを教えてくれなかったが、この建物の中にいるということは、少なくとも自分と同じくらいの時に死んだ人だということだろう。ただ、すぐに疑問が浮かんだ。

「その人は、どうして僕がここにいることを知っているんですか? その人も死んだからここにいるんですよね? ということは、その人は自分よりも後に死んだということになりますよね。僕が死んだということを知っているのだから」

 というと、その女性担当者は、

「ええ、その通りですね。でも正確には、その人はあなたと一緒に死んだんです。あなたは覚えていないかも知れませんが、あなたが遭った交通事故で、本当はあなただけが車に轢かれるはずだったんですが、その人はあなたを庇おうとしたんです。そして、結果として二人とも一緒に死んでしまった」

「そんな……」

 それではまるで自分がその人を巻き込んでしまったかのようではないか。急に罪悪感が芽生えてきて、さっきまで死んでしまった自分への哀れみだけを感じていた自分が情けなく感じられた。

「でも、あなたは悲観することはありません。二人は死ぬべくして死んだんです。彼には話していませんが、彼はあなたを庇わなくても、少しして、やはり交通事故に遭う運命だったんです。人が死ぬ時というのは、寿命、病気、事故……、いろいろありますが、事故の場合は、運命では決まっていても、どこで事故に遭って死ぬかというのは、この世界でも、少し前にならなければ分からないんです。そういう意味では、あなた方が考えているよりも、人の運命なんて、曖昧なものなんですよ」

 三雲は、またしても考え込んだ。

――今聞いた話、唐突な感じもするが、想定内の発想だったような気がする――

 つまりは、初めて浮かんだ考えではないという思いが強かった。

「三雲様は、難しく考えておられるようですが、自分の頭の中で浮かんだ考えは、素直に受け止めればいいと思いますよ」

 と、その女性が言ったが、自分の担当の男性は少し考えが違うようだ。

「そんなことはないと思いますよ。三雲さんはだいぶ柔軟にモノを考えることができるようになってきています。彼の想像力は素晴らしいと思います。ただ、彼が生きてきた時代では、その発想は過激すぎて、誰も信じてくれないという思いからか、だいぶ内に籠めていたようですけどね」

 というと、女性の方は、

「私が担当している人もそうですね。彼もかなり生きている間は奇抜な発想を持っていて、どちらかというと、この世界に近いものがあったかも知れません。でも、本当は彼のような人が、元の世界にいてほしいと思うのは私だけでしょうか?」

 相手が誰なのか分からないのに、聞かれても分かるはずなどないというものだ。

 だが、逆に、

「あなたなら分かってくれるはず」

 という言い回しから考えると、かなり自分に近しい人であることは間違いない。

 そう思うと、その人が誰なのか分かってきた。

「ひょっとして、その人は高山廉太郎?」

「ええ、その通りです」

――やっと分かったの?

 と言わんばかりの彼女の表情を見ながら、なぜかしたり顔の三雲だった。

 自分と高山は、まわりが思うよりもきつい絆で結ばれていると思っている。

 三雲は、その絆を、

「硬い絆」

 ではなく、

「きつい絆」

 だと思っている。

 硬いよりもきついの方がより密着感が感じられるので、三雲は勝手にそう思っていた。

 腐れ縁という言葉があるが、それに近いものだと思っている。言葉は悪いが、絆の強さを示す言葉としては最適だ。

「高山さんが、僕を助けるために車に飛び込んだんですか?」

「ええ、でもそれは彼の意思というよりも、本能的なものが強かったのかも知れませんね」

 そう彼女は言ったが、そう言われる方が、三雲としては傷つくことになるのだが、そのことを彼女は分かっているのだろうか?

――ここでは、感情などというものは関係のないことなのかも知れない。事実がすべてだと考える方が無難であり、自分を納得させられるものではないだろうか――

 と考えていた。

 そこまで思うと、自分が難しく考えすぎていると言った彼女の言葉の意味を裏付けているような気がした。

「僕は高山さんと会うことはできるんですか?」

「ええ、会いたいと思えば会うことはできます。ただ、それも相手が会いたいと望めばの話ですけどね」

 と、彼女は言った。

「高山さんなら、会いたいと思ってくれると思うんですが……」

 というと、少し寂しそうな顔を浮かべた彼女は、

「残念ながら、高山さんをあなたと会わせることはできません」

「じゃあ、あなたはなぜ私を訪ねてきたんですか? あの人は僕のことを気にしているんでしょう?」

「ええ、気にはされていますが、会いたいと思っているわけではないんです。会ったところで何かが変わるわけではないからですね」

「それは、僕にも言えることなんですか?」

 彼女の言った、

「会ったところで何かが変わるわけではない」

 という言葉が気になって仕方がなかった三雲は、どうしても、気になることを自分に結びつけて考えないわけにはいかなかった。

「ええ、あなたにももちろん言えることです。ここの目的は、死んだ人間を適切に天国か地獄に送ることなので、生前から持ち越している問題をクリアにして、次第にその意識を曖昧にすることで、自分たちが向かう『死後の世界』への道へと導いてあげることなんですよ」

 と言った。

「そこには感情は含まれないんですか?」

「感情というのは、あなた方が生きてきた世界に存在していた悪しき感覚ですね。そんなものは存在しません。あなた方が生きてきた世界を否定しないと、これから向かう死後の世界では、耐えられないんですよ」

 という彼女の顔が能面のような冷たいものに変わった。

「どうしてそんな冷徹な表情ができるんですか?」

 と三雲がいうと、彼女は不思議そうな顔になり、

「冷徹……ですか?」

「ええ、あなたのいうように感情を失くせば、そんな表情になるということなんでしょうか?」

 というと、

「そうかも知れません。でも、私は高山さんをちゃんと導いてあげなければならない。彼の心の中に残っているわだかまりを解いてあげないと、彼はここから抜け出すことはできないんです」

「抜け出す? その表現は、まるでここが悪いところのように聞こえるんですが?」

「そういう意味ではありません。ただ、ここは通過点であってゴールではない。そのことは最初に聞かれているはずです」

「これから僕がいくことになる天国か地獄という世界は、生前に考えられていた世界とはかなり違ったところのように思えるんですが、どうなんでしょう?」

「世界観は、さほど違いはないと思いますが、存在意義という意味ではかなり違っていますね。考え方はむしろ、皆さんの生前の考えに近いかも知れません。ただ、一つ一つの言葉の解釈が違っているので、世界観がそのまま形成されている世界ではないということになりますね」

「でも、何か根本的な違いを感じるんですが」

「そうですね、今あなたが考えている、いわゆる生前に考えられてきた一般的な死後の世界とは、根本的なところで違います。それがあるから、死後の世界は生きている人には見ることのできないものであり、知ることはタブーとされているんですよ」

「何か僕に隠していませんか?」

「隠している? というよりも、この世界では隠し事はないんですよ。あなたが気づいて行くことが新たに生まれる秩序になる。そういう意味では、あなたがいた世界とはかなり違っているんですよね」

「そういう意味では、あなた方のような担当者がいてくれないと、いきなり死んでからここに来た我々には分からないからですね」

「生まれる時だってそうじゃないですか。何も知らない無垢な赤ん坊が生まれてくる。そこには親がついているわけですからね」

「確かに同じ理屈ですよね」

「高山さんは今後悔しています」

「どういうことですか?」

「自分が天国と地獄の話を本にしたいなどと言わなければ、三雲さんが死ぬことはなかったと思っているからですね」

「交通事故というのは偶発的に起こることなので、誰が悪いというわけではないと思うんですが」

「その通りです。高山さんが気にしすぎているからだと思います。でも、彼は天国と地獄をイメージしたことで、必要以上に三雲さんが死後の世界を想像してしまったと思っています」

「死後の世界に対して、普通の人はあまり気にしている人はいないと思います。実際に余命を宣告された人や、何らかの宗教を信じていて、死後の世界にこそ、救いがあると考えている人がそのほとんどでしょうね」

「僕は、宗教というものを信じてはいませんでした。生きている間に、どうして死後の世界を思って、まるで死んでからのことのために、今の世界を生きなければいけないのかということに矛盾を感じていたんです。今の世の中を与えられているんだから、今を一生懸命に生きることが本当じゃないかってね」

「それは誰もが抱いている感覚だと思います。でも、それがなかなかうまくはいかない。戦争があったり、人殺しがあったりと、自分が望んでもいない理不尽なことが多すぎる。だから宗教にすがろうという気持ちは分からなくもないですね」

「僕は死後の世界を本当は信じてはいませんでした」

「どう思っていたんですか?」

「死んだら、すぐに誰かの元に生まれてくるものではないかと思っていたんですよ。ただ、それは子供の頃のことで、今はそれだけではないと思っています。それでもなぜか、死後の世界が存在している気はしなかったんですよ。なぜなら、誰も見たことがないはずなのに、皆が想像している世界というのは、そんなに変わりはないでしょう? 何か不思議な力によって、頭の中を洗脳されていると考えた方がいいような気がしていたんです」

「それは、少し乱暴な考え方ですね」

「ええ、確かに乱暴ではあるんですが、死後の世界を誰も見たことがないくせに、誰もが死後の世界の存在を疑う人はいないですよね。もちろん、似たような世界であっても、そこに対する世界観には大きな隔たりがあるとは思うんですが、皆が一つの方向を向かって見ているのに、その先が見えてこないということに、矛盾を感じているんですよ」

 というのが、三雲の考え方だった。

「なるほど、それが三雲さんの考えなんですね。高山さんも似たような考えを持っているようですよ。高山さんが夢で見た天国と地獄の話を小説にして残したいと思ったのは、忘れてしまわないうちに書いてしまおうという思いが強かったからです。本人は、すぐに忘れてしまうと思っていたようで、そんな中、忘れたくないという思いも強かったようです。そのためには、文章にして残すことが一番だと思ったんですね。高山さんは、自分が文章にし始めると、忘れかけているものでも、最後まで書ききらなければ忘れることはないと自分で信じていたようです。確かに彼はそういう性格で、書き切ることができるでしょう。でも、書き切ることができなかったのは、彼の運命だったんです」

「ところで、高山さんは、今どこにいるんですか?」

 と、三雲が聞くと、

「彼は地獄を選んで地獄に行きました。それが彼の結論だったんです。自分の夢に出てきた地獄を、実際に見てみたいと思ったんでしょうね」

 それを聞くと、三雲は背筋がゾクゾクしてくるのを感じた。

「どうして、地獄を選んだりしたんでしょう? 地獄というと、生前に悪いことをした人が落ちるところで、苦しみしかないというイメージがあるんですが……」

「ここは、死んだ人が、自分で天国か地獄かを選べるところ、あなたたちの感覚では、生前の行いを審査されて、行き先は最初から決まっているような感覚ですよね。ここの世界はそうではないんです。あなたたちが考えているほど、天国と地獄に苦痛の差はないんですよ」

「どういうことですか? 天国にも苦痛があって、地獄にも安息があるような言い方に聞こえますが」

「何を持って苦痛というのか、安息というのかにもよると思います。その思いは人それぞれではないでしょうか? 天国と地獄を、誰もが同じ世界だと思って考えてしまうと、見えてくるものも見えてこないということになりますね」

 と彼女がいうと、

「じゃあ、どうして、死んだ人、つまりは何も分かっていない人に、天国か地獄を選ばせるんですか? 知識も判断材料もない人に、自分のこれからの行き先を決めさせるなんて、無茶ではないですか?」

「そうでしょうか? あなた方だって、生きている間、判断材料もない状態で決めなければいけないことだってあるでしょう? 自分が悪いわけでもないのに、貧困な家庭に生まれたから、進学もできない。家族や親類に犯罪者がいたということで、就職もうまくいかないなどということだってあるでしょう?」

「ええ、そんな理不尽なことは、今までまわりには日常茶飯事でした」

「あなたは自分で気づいていないかも知れませんが、あなた自身もそんな理不尽な思いを今までに何度もしてきたと思います。なるべくそれを感じないようにしようとすればするほど、あなたは、自分の中で選択肢を狭めて行った」

 確かに彼女の言うとおりである。

 自分がいかにまわりに対して理不尽な状況に置かれていたかということを考えると、ネガティブになってしまい、前を向けなくなると思ったからだ。だが、それは生きていくうえで大切なことであり、選択肢が狭まったとしても、それは仕方がないことではなかっただろうか。そのために、一方ばかりしか見えていなかったという自覚もなかった。すべてを、

――仕方のないことだ――

 という一言で片付けていたからだった。

「それでは、理不尽なことに目を瞑ってこなければ、選択肢はたくさんあったということですか? 選択肢が増えたとしても、却ってどれを選んでいいか分からずに、もっと苦しむことになると思うんですけど?」

「いえ、理不尽なことに目を瞑ってしまうのは仕方のないことだと思うんですが、感じることはできたと思うんです。ただ、それだけの違いです」

 何を言っているのか、よく分からなかった。しかし、それ以上、このことについて議論をする気もなかった。

「高山さんが地獄に行ったのなら、僕も地獄に行こうかな?」

 それを聞いた、自分の担当者の人は、ただ頷くだけだった。

 高山の担当者が来てから、余計なことを何も言わなかった担当者だったが、三雲が地獄への道を決めたことに満足しているようだった。

「じゃあ、三雲さんは地獄に行かれるわけですね?」

「ええ、地獄にします」

「分かりました。では少しお待ちください。あなたのその選択に私の方が手続きをいたします」

「手続きがあるんですか?」

「ええ、ここで決められた本人の意思は、それぞれの受け入れ部署に伝達されて、さらに審議があります。特に地獄の場合は、審議に少し時間が掛かる場合がありますが、たぶん、三雲さんは大丈夫だと思います。ですので、少しお待ちください」

 彼の言っている意味がよく分からなかったが、とりあえず待つしかないようなので、待機していることにした。

「しばらくではありますが、きっとあなたにとってはあっという間のことですので、そのおつもりでいらしてください。余計なことを考えてしまうと、せっかくのあっという間の時間が、必要以上の時間になりかねませんからね」

「どういうことですか?」

「この世界、天国も地獄も含めてのことですけれども、生前の世界にいたような時間の感覚ではないんですよ。人間というものには寿命というものがあり、時間が経てば、老いていき、最後には死んでしまうという認識ですよね。それは生物だけに限らず、形あるものは必ず壊れてしまうという感覚が当たり前の世界でした。でも、この世界は違うんです。だから、『時間を無駄に使ってはいけない』という感覚を持たない方がいいんです。時間が掛かっても、自分の納得の行く答えを導き出すことが大切なんですよ。ある意味、それはあなた方が生きてきた世界よりも、厳しいことなのかも知れませんね」

 彼の言う話は、説得力があった。最初は優しそうな話であったが、次第に話に入り込むように誘導している。誘導に気づく方がいいのか、気づかない方がいいのか、三雲はその答えを見つけることはできないような気がしてきた。

「天国と地獄というと、普通なら誰もが天国に行きたいと思うはずなのに、どうして、地獄に行きたいという人もいるんでしょうね? それに地獄に行くにも審査がいるというのは、地獄にふさわしくない人がいるということでしょうか?」

「どうしても、生きていた頃の発想になってしまうんですね。あなたは、天国というところをどういうところだとお考えですか?」

「天国というと、蓮の花の咲いた池のほとりにお釈迦様がおられる世界であり、生前にいいことをした人や、悪いことをしなかった人が行くところで、さらには、俗世に染まっていない聖人君子のような人が行くところではないかと思っています」

「じゃあ、地獄は?」

「悪いことをした人が行くところで、閻魔大王や鬼がいて、地獄に落ちた人を血の池地獄や、針の山の地獄で、苦しめているというイメージです」

「なるほど、ひょっとすると、そういう世界も他には存在しているかも知れませんが、ここはそういう世界ではありません。あくまでも、死んだ人がどちらの世界に行くかを決めることから始まる世界で、地獄だからと言って、責め苦にあえぐということはありません。少なくとも、この死後の世界は、責め苦というのはない世界なんですよ」

「どうしてですか?」

「あなたがいた世界では、人から強制される責め苦はあります。理不尽な戦争や紛争で、利害から権力闘争や、身分による絶対的な立場の違いから、人は迫害されたりしました。死後の世界ではそんなことはありません」

「それで、秩序が守れるんですか?」

「秩序? そうですね。秩序を守るには、絶対的な支配者がいなければ成立しませんよね。地獄には絶対的な支配者がいます」

「それが閻魔大王というわけですか?」

「ええ、あなた方が思い描いている地獄という世界で、一番正しく描かれているのは、閻魔大王という人の存在でしょうね。閻魔大王のまわりには、彼を警護するという意味で鬼がたくさんいます。でも、鬼も閻魔大王も人の自由を奪ったりしません。少なくとも自由を奪ってしまっては、地獄という世界は成り立たないことになりますからね」

「一人の独裁者に支配される世界というのは、危険なんじゃないですか?」

「確かにあなたの頭の中で考えている発想であれば、危険を伴います。でも、ここは、あなた方が思っている天国と地獄とは違っているんですよ。そのことは、高山さんが一番よくご存知なんですけどね。あなたも高山さんと天国と地獄の話をしたことがあったはずなので、何となくイメージのようなものが芽生えているのではないかと私は思っていたんですよ」

 三雲が少し考えていると、

「三雲さん、あなたの時間に対してのイメージが、ここで話をしている間に少しずつ変わってきていませんか?」

 言われてみれば、

――なるほど――

 と感じた。

「時間に対しての感覚なのかどうかは分からないんですが、話をしているのに、考えが前に進んでいるような気がしないんです。かといって、後ろ向きになっているような気もしない。どういうことなんでしょうかね?」

 立ち止まっているというわけでもない。ひょっとすると、時間という概念はないのかも知れない。そのことを訊ねてみた。

「時間の感覚がないような気がするんですが」

「それは気のせいです。あなたは、確実に時間という道を歩んでいるんですよ。ただ、あなた方がいた世界とは概念が違います。あなた方は、時間に支配されているという意識を持ちながら、生きてきたでしょう?」

「ええ、支配されるというよりも、時間の概念がないと、生きていけないんですよ。でも、人によっては、支配されているという感覚に陥っている人もいたと思います」

「それはそうでしょうね。楽しいことが待っていれば、それまでの時間は早く済んでほしいと思っているし、楽しいことがやってくると、今度はその時間が永遠に続いてほしいと思う。それが終わると、次の楽しいことが起こるのを待ち望んでいるんですよ。目標があれば、目標に向かっていく時間が貴重だと思うんでしょうが、それ以外の時は、時間に対して漠然とした感覚しか持っていないんですよ。それを皆さんは、『他人事』だっていうんでしょうね」

「どういうことですか?」

「実際には、支配されているという意識があるから、他人事のように思ってしまうんじゃないですか? 人間というのは、いつでも逃げ道を探している生き物だからですね」

「それが悪いと言われるんですか?」

「いいえ、そんなことは言いません。逃げ道を求めるのは当然のことだと思います。誰だって、苦しい道を敢えて進もうなんて思っていませんからね」

「でも、いばらの道を歩む人だっているじゃないですか?」

「その人にとってはいばらの道でも、その道が逃げ道に見える場合もあるんですよ。それが間違っているのかどうなのかは、誰にも分からない。その人が、その瞬間瞬間で選択する無限の可能性の積み重ねが、未来に続いていくんですからね」

「それが時間だとおっしゃるんですか?」

「そうですね。時間というのは、無限の可能性によって導き出されるものだというのが、概念といえば概念なのかも知れませんね」

「話が難しくなりました」

「ゆっくりと考えてみればいいんです。あなたには、まだ時間がありますからね」

「ところで、天国か地獄か決めることのできない人もいるんじゃないですか? そういう人はどうなるんでしょう?」

 三雲の感じた素朴な疑問だった。

「そういう人は天国に送られます。天国に行って、修行をすることを強要されるんですよ」

「修行ですか?」

 三雲は、首を傾げたが、意識としては何となく分かっているような気がしていた。

「そうです。自分で自分の行き先を決められないような人は、修行が必要ということですね。これはあなた方が前にいた世界と同じ理屈になります」

「それで天国なんですか?」

「ええ、そうです。天国は修行をするところです。まさか、何もしないでもおいしいご飯が出てきたり、リラックスできる環境が最初から与えられているだなんて思っていないでしょうね」

 ギクリと感じた。今までの考えを見透かされたかのようだ。

「生前では、宗教に入信している人は、死んでから天国にいけるように、修行を重ねていたんですよ。それなのに、死んでからも修行をしなければいけないというのは、どうにも納得がいかないような気がするんですが。しかも、天国というところは、正しいことをした人が行くところでしょう? それをいまさら何の修行をするというんですか?」

「またしても、あなたの発想は生前のものに戻ってしまいましたね。いいですか、ここでは天国に行くか。地獄に行くかというのは、その本人の意思だけにかかっているんです。もちろん、断わられる場合もありますけどね。生前、どんな人間だったのかということは、この際関係ないんですよ。ここの世界から、天国と地獄のどちらを選ぶかを決められない人は、その感覚から逃れられない人なんですよ。つまりは自分に自信がない。自分には、自分が考えているような天国に行く資格はないと思っている人たちですね」

「じゃあ、僕はどっちに行ってもいいんですか?」

「ええ、そうです。選択権は本人にあるんですよ」

 彼は余裕を持った顔でそう言ったが、三雲はその言葉を聞いて、ゾッとするのを感じていた。

「選択権が自分にある……」

 と呟くように言うと、

「そうです。自分の権利です」

 権利という言葉がこれほど重たいものだとは、生きている時に考えたこともなかった。権利とは、与えられたものであり、特権のような感覚だった。しかし、決断ということに関しての権利は、間違えたとしても、その責任はすべて自分にある。取り返しのつかないことであるのだ。

――どうして、こんな簡単なことを、生きている時に感じなかったんだろう?

 と考えると、この世界が、今まで生きてきた世界に比べて、本当はもっとリアルな気がして仕方がない。世界は漠然としているのだが、自分が信じられないだけで、リアルな感覚をヒシヒシと感じているにもかかわらず、考えないようにしようとしているだけなのかも知れない。

「高山さんは、地獄に行ったんですよね? 彼にも今と同じような話をしたんですか?」

 というと、高山の担当だったという女性が答えた。

「いいえ、私はここまで詳しいことは言っていません。ただ、この世界は天国と地獄への通過点であり、どちらに行くかは、本人が決めることだって教えただけです」

「じゃあ、天国がどんなところで、地獄がどんなところなのか知らないで選んだんですか?」

「そういうことになりますね」

「そういう人は稀なんでしょう?」

「そうですね。私たちが死んだ人の一人に一人が担当としてつくのも、誤った判断をなるべくしないように導いてあげるのが役目なんです。担当者によっては、自分の担当した人が、どっちに行くべきかを独自に判断して、担当者の意思で導いている人もいるみたいですよ」

「そんなことは許されるんですか?」

「ええ、許されます。確かに担当者の意思が入った説明であったとしても、それを死んだ人が信じたのであれば、それはその人の意思ということになります。それをダメだということにしてしまうと、時間という感覚が皆さんのいた世界に近くなってしまい、この世界の存在自体が危うくなってしまう可能性がありますからね。だから、ここでの担当者の力は、ある程度認められています」

「じゃあ、あなたたち担当者に、僕も誘導されてしまう可能性もあるということですね?」

「それはあなた次第です。私はあなたが自分で決めることになるので、黙って見ているだけですけどね」

「でも、こうやって答えてくれているからじゃないですか」

「それはあなたが、自分で決めようとして、情報を集めようという意識があるからです。その気持ちを尊重するのも私たちの役目ですからね」

「もう少し、ここにいて、いろいろ考えてみたいと思います」

「それはそれでいいことだと思います。私は、あなたが選んだ道に進む時、この世界が正規の姿になっていると思っているんですよ」

「それはどういうことですか? 今は少し違うということですか?」

「そういうわけではないんですが、少なくとも天国は今、あなた方が考えている世界とは違っているので、似た形になろうとしている力を感じるんですよ」

「どういうことですか?」

「これは決まりなので、ハッキリとしたことは申し上げられません。ただ、私にはある程度の未来を予測できる力があるんです。その力が教えてくれているんですが、天国は繰り返しているんです」

 何が言いたいのか分からなかった。しかし、彼はその後、さらに言葉を続ける。

「このことは、高山さんが生前に書かれていた小説に著されるはずだったんです。だから、高山さんは、迷うことなく地獄に行かれたんだと思いますよ」

「えっ、そうなんですか?」

 それは意外な言葉だった。

 まだ高山の小説は、プロローグのあたりしかできておらず、発想がどこまで膨れ上がっているのか、三雲にも分からなかった。

――そういえば、僕は高山の担当者だったんだな――

 と思い返して、今度は自分にこの世界で担当者が存在しているということに不思議な縁のようなものを感じた。

「フフッ」

 思わず苦笑いをしてしまったが、

「担当者に担当者がつくというのは、どういう気分ですか?」

 完全に自分の心を読まれていた。

「よく分かりましたね」

 というと、

「それが担当者というものでしょう?」

「まさしく」

 と言って、笑いが止まらなくなってしまった。

 そこまで話をしてくると、急に恐ろしい発想が三雲の中に生まれてきた。

「まさか、僕たちが死んだのは、偶然ではない?」

「というと?」

「確かに人の生き死にには、それなりの理由があるという考えもありますが、今、僕はそのことを身をもって体験したんじゃないかって思うんですよ。しかも、死ぬべきだったのは僕ではなく、高山さんではなかったのかと思っているんですよ」

「どうしてそう思うんですか?」

 担当者は思ったよりも冷静だ。まるで、このことを自分が言い出すことを最初から予期していたかのようだ。

「高山さんが、天国と地獄の夢を見て、それを小説にしたいと言い出した。そして、彼が書こうとしていることは、この世界の秘密にかかわることだった。だから、彼は抹殺されてしまったのではないかと考えるのは、無茶なことでしょうか?」

 彼は、まだ冷静だった。

「無茶なことではないと思いますが、私が今言えることは、その発想は本末転倒も甚だしいとだけ言っておきましょう。もし、あなたの発想が間違いないとすれば、どうしてあなたまで死ななければいけないんですか? 今あなたは、人の生き死ににはそれなりの理由があるといいましたね? だから、高山さんは死ななければいけなかったと。でも、それならあなたが死ぬ理由はなんですか? それこそ矛盾ではないですか。私が本末転倒だと言ったのは、そのことなんですよ」

 三雲は、反論できなかった。

「確かに……」

 これ以上は何も言えなかったのだ。

 三雲は、それでも引き下がらず、何かを考えている。

「じゃあ、自分たちが死ぬことに何か理由があったわけではないということでしょうか?」

「私は、人の生き死にに理由が必要だというのがよく分かりません。この世界では、そんなわだかまりは考えない方がいいのではないかと思いますよ」

 少し沈黙があり、担当者が口を開いた。

「ここの世界は、高山さんがどうだ、あるいは、三雲さんがどうだという発想ではないんです。むしろ、個人の存在はそれほど重要ではないんです。名前を呼ぶよりも、番号で呼ぶ方がしっくり来るくらいで、人によっては、生前受刑者だった人が、受刑時代を思い出すと言っていましたが、私たちが、番号で呼ぶのは、個人主義ではないからだと説明すれば、納得してくれました。彼にとっては、個人主義の生前でその苦しみを嫌というほど味わったので、個人の存在を重要視しないこの世界を気に入ってくれましたね」

「受刑者というのは、そうかも知れませんね。人と人のわだかまりのために罪を犯した。そして、そのため、その人やその家族のために、自分個人を殺して生きなければいけないんですからね。彼が受刑しなければならない裁きを下すのも、人間ですからね」

「生前、苦しみを感じずに生きてきた人は、ここにくれば、苦痛に思うかも知れません。でも、人は元来一人ではない。それは生きている間に嫌というほど教えられていますよね」

「ええ、一人では生きていけないから、他人を大切にしないといけないとかいう教育を受けてきましたからね」

「でも、人間にはエゴがあるので、それでもいつの間にか殺し合いになってしまったり、戦争が起こってしまったりする。戦争が起こる原因の大部分は、宗教が絡んでいるというのも、実に皮肉なものではないですか。戦争を引き起こすのも独裁者なら、戦争をしないようにするのも独裁者。中途半端な国家元首では、個人主義の世の中を守りきれるはずなどないんですよ」

 担当者は、自分たちの生前の世界をよく知っている。

 その世界を生きてきた自分たちよりもよく分かっている。ここに来てから他人事という言葉に何度もぶつかるが、やはり、その言葉とは避けて通ることのできない世界なのであろう。

 担当者は言葉を続けた。

「そんなことをきっと高山さんは理解していたんでしょうね。だから高山さんは、天国と地獄の夢を見た。そしてその印象が深く心の中に残り、小説として残しておきたいと考えた」

「その時は、まさか、自分が死んでしまうなんて想像もしていなかったんでしょうね。そうじゃなければ、まわりから反対されていたにもかかわらず、天国と地獄の話を小説にしようなどと言い出すはずもないからですね」

 と三雲は言ったが、

「そんなことはないと思いますよ。高山さんは、分かっていて、敢えて天国と地獄の話を生前の世界に残したいと思ったのかも知れません」

「遺作のつもりだった?」

 それに対して、担当者の答えはなかった。

――この世界は、今自分が思っている世界とは違う。だけど、その世界に近づきつつあるような気がするな――

 三雲はそう思いながら、もうしばらくここにいることを考えていた……。

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