第4話 再生

 楓は、ミチルに乗り移られてから、急に高校時代の頃のことを思い出すようになっていた。

 楓にも人に言えない思い出があったのだが、そのことをミチルは何も言わなかった。自分のことで精一杯なので、楓のことになど構ってはいられないというのが本心なのだろうが、ミチルにも楓の心の中にポッカリと空いた穴が見えていたはずだ。その穴を無視して楓の中に居座ることなどできなかったはずだからだ。

 その時のことを、楓は覚えていないわけではない。必死に忘れようとしているうちに思い出さなくなっただけだ。それは時間が経つことによって自然に生まれた忘却なのか、楓には分からなかった。

 楓はその時、自殺を考えていた。ただ、それは一瞬だけのことで、後にも先にも自殺などということが頭を掠めたのは、その時だけだった。

 だから、ミチルが自殺をしたと言われても、他人事にしか思えないにも関わらず、ミチルは楓の中に入ってきた。何か自分と同じ匂いのようなものを感じたのかも知れない。

 自分の部屋で、十年前に見た絵を思い出させるテレビの映像を見た時、楓の中で、何かがよみがえってきた気がした。

――何か、大切なことを忘れてしまったような気がする――

 それは忘れてしまったのではなく、思い出したくないことを自分で封印しようとした結果であることに、その時の楓は気付かなかった。

 しばらくしてから楓の中からミチルがいなくなると、楓はミチルが入りこむ前の自分に戻ったという気にはなれなかった。

――私の中は変わってしまったのかしら?

 誰かに乗り移られたことで、自分の中にある精神的なバランスが崩れてしまったのかも知れない。

 楓は、喫茶店の絵の中から、誰かに見られているという錯覚を覚えた。気になっていたが、

――次回立ち寄った時、もう一度確かめてみよう――

 と思い、数日経ってまた立ち寄ると、その絵はなくなっていた。

 そして、絵について初めてマスターと話をしたのだが、その絵を描いた作者は、自分で絵を持ってきて、飾ってもらうのを楽しみにしていたという。普段なら、絵を引き取ることはないが、楓が気になっていた絵だけは、本人が自ら引き取って帰ったというから、余計に気になるものだった。

――絵がないのだから仕方がない――

 と、普段なら諦めたのだろうが、諦めることは、そのまま自分を後悔の念に陥れるような気がしたので、どうしても確かめたくなっていたのだ。しかも、マスターに聞いてみると、絵を描いた人と楓は会ったことがないわけではない。会話をしたことはなかったが、同じ時にこの店にいたことはあるというのだ。今気になっている人が、かつて同じ空間に、お互いに何も知らずにいたというのが、何とも神秘的な気がして、楓は余計にその佐久間という青年を意識しないわけにはいかなかった。

 楓はそれからしばらく、その喫茶店に毎日のように通っていた。目的はもちろん、佐久間画伯に会うためだった。

「佐久間さんという人はどういう人なんですか?」

 とマスターに訊ねてみると、

「近くに住んでいる美大生なんだ。いつも一人でコーヒーを飲みながら、絵の本を読んでいるだよ」

「どれくらいの頻度で来られるんですか?」

 と聞くと、マスターも楓が聞いている意味が分かったようで、

「大体一週間に一回程度くらいのものかな? 夕方が多くって、二時間くらいはいるんじゃないかな? 座る席もカウンターばかりで、話をすることがあっても私とだけで、他にもいっぱい常連さんがいるのに、常連さんとは話をしようとはしないところがある人だね」

 と、聞いてもいないことまで教えてくれた。聞く手間が省けて助かったが、話の内容からすると、あまり人懐っこい人ではなさそうだ。

――どこか神秘的なところを醸し出しているような人なのも知れない――

 そう思い、自分がこの店で見かけた人で、気になった人を思い浮かべてみたが、思い当たるような人に行きつくことはなかった。

――ますます気になってくるわ――

 と感じたが、すでにその時から、楓はその人の魅力に魅了されてしまっていたのかも知れない。まだ見ぬ相手に、すでに魅了されているなど考えられないことであるが、もしその時に少しでも魅了されていたことに気付いていたら、楓にとって違った道も存在していたのかも知れなかった。

 楓は、佐久間が現れるのを待っていた。大体一週間に一度というわりに、曜日は不定期だという。木曜日に現れたかと思うと、次は月曜日だったりするらしい。ただ、いつも日曜日から土曜日までの一週間単位でいくと、必ずどこか一日は現れるということで、一週間に一度という表現になったようだ。

 最初は数日に一度くらいの割り合いで来ていたが、どうやら行き違いになっているようなので、もう少し頻度を増やした。二日に一度の割り合いで来るようになると、翌週には佐久間に出会うことができた。

 お互いに初めてではなかった。ただ、いつも一人でいるという印象の彼は、楓の中では想像以上に印象に残っていなかった。

――本当にこんな人がいたんだ――

 と感じたほど、すぐに思い出せなかったくらいだった。佐久間の方もマスターから楓が気にしていたことを聞いていたのか、楓の目の前に出ると、緊張して何も言えなくなっていた。

――思ったよりもシャイな人なんだわ――

 いつも一人でいる人が人見知りするのは分かるが、彼は人見知りしているわけでも、女性の前に出ると恥かしくて何も言えなくなるタイプというわけでもなさそうだ。本当に何を喋ればいいのかが分からずに、困っているだけのようだった。

――それだけ変わり者だということだろうか?

 確かに一人でいることが多い人は、何を考えているか分からないように見える。楓自身も一人でいることが多いので、集団で行動している人の中に入るのは苦手だった。しかも集団で行動している人の群れを見るのはあまり気持ちのいいものではない。誰が誰だか分からないからだ。たくさんの人に紛れてしまうと、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまいそうで、息苦しさと同じくらいに却って自分に孤独を感じるかも知れない。

――その他大勢――

 という言葉があるが、楓は大嫌いな言葉だった。集団に紛れていると誰もが同じ顔に見えてきて、自分が人の顔を覚えられない原因もそこにあるのではないかと思うこともあったくらいだ。

 その日現れた佐久間さんは、楓が想像していた男性とは違っていた。いつも一人でいる人だという意識があるのに、見た目は、その他大勢の中にいる、

――皆同じ顔に見えてくる――

 と感じる男性の雰囲気を醸し出していた。

 最初は、それがどこから来るのか分からなかったが、次第に見ているうちに、

――軽いんだ。まるで空気のようだわ――

 と感じた。

 河川敷に落ちている大小無数の石ころに表情がないように、たくさんの人に紛れてしまうと確認することが不可能になってしまうのではないかと思うほど、重たさを感じなかった。

――顔にも表情にも、個性的な趣きがあるにも関わらず、どうしてそんなに空気のように軽く感じたのだろう?

 おそらく、たくさんの人に紛れやすい表情になっているからではないだろうか? しかも気配が薄く感じられることから、何を考えているのか、想像もつかない。それがいつの間にか、楓の中で冷たいものを感じさせた。

 だが、一瞬でも目を逸らすとどうだろう? 佐久間から見つめられている気配は、針で突かれているような痛みさえ感じられた。正面を向いて、彼と目を合わせれば、また最初のように軽い気持ちになるのだろうが、一度目を逸らして彼の痛いほどの視線を感じると、もう一度目を合わせることができなくなってしまった。

――この隙になら、逃げられても追いかけることはできないわ――

 まるで敵から身を守るための防御法のようだわ――

 保護色だけではなく、浴びせられた視線で、もう一度見返すことができなくなると、二度と彼の顔を見ることができないような気がしてきた。

――ひょっとすると、彼に見つめられて、彼の顔を二度と見ることができなくなった人も少なくはないだろう――

 楓はそう思った。

 一度、彼から目を逸らした人で、彼の顔を二度と見れなくなった人は、彼の顔を覚えているのだろうか?

 覚えていないような気がする。シルエットのその奥に、彼の顔は隠れていて、次第に彼と出会ったことすら忘れていくのではないだろうか?

 それが彼の特徴、その特徴が絵の中にも序実に現れているのだとすれば、彼の描く絵に感じた、

――絵の中から誰かが覗いているような気がする――

 と思ったのも分からなくもない。

 それが誰なのか、絵を見ていても分からない。どのあたりに、こちらを見ている人がいるのかも分からない。それはまるで軽い存在感を醸し出し、路傍の石のように、そこにあっても不思議のないその他大勢に紛れているために、発見することができない雰囲気に似ているではないか。それにも関わらず、鋭い視線を浴びせられた感覚も、彼以外の何者でもない。

 彼の存在を見つけることができないのだから、目を合わせることはできない。したがって鋭い視線を感じたら最後、その視線から逃れることはできない。もちろん、絵から離れたところに行ってしまえば逃れられるが、呪縛から解き放たれるだけの移動は、なかなか難しかった。

 だが、それでも一旦離れてしまうと、あれだけ痛いほどの視線があったことなど、すっかり忘れてしまっていた。それは、

――夢だったのではないか?

 と感じてしまうと、それ以外に感じられなくなる。一旦夢だと思うと、後は忘れていくだけのことだった。

――私は、佐久間さんに興味を持ったのかしら? それとも、この絵に興味を持ったのかしら?

 どちらとも言えなかった。

 確かに絵は佐久間の描いたものだし、佐久間には絵の中に感じたそのままを感じることができる。しかし、この二つの思いが同じものだとは、なかなか思うことができないでいた。それは、自分が佐久間の絵を見ている限り、夢の世界から出ることができなくなりそうな気がしたからだ。

――あまりにも型に嵌った、自分の都合のいい考えではないか?

 と考えるようになったからだ。

 夢の世界というのは、潜在意識が作り出すものだという思いが強く、夢を見る人によって、いくらでも都合よく作り上げることができるものだと思っていた。

 絵を見ていて、吸い込まれそうになった経験があるから、逆に自分の中に引きよせる力が生まれたのではないか。その力に反応したのがミチルだと思えば、ミチルが楓の中に入りこんだのも分からなくもない。

 そして、それと同じ力を持っている人として、楓のすぐそばにその人はいた。

 そう、山崎夫人だったのだ。

 楓がこの部屋に引っ越してきたのは、本当に偶然なのだろうか? お互いに何か引き合うものがあったのではないか。

 山崎夫人が、一度は楓を夫の不倫相手ではないかと疑ったのは、引き合う力が、逆の作用をもたらしたからなのかも知れない。ただ、二人は限りなく近い存在でありながら、決して交わることのない平行線でもあった。適度な距離は近すぎず、遠すぎるわけでもない。そして二人の間を通る空気は、音もなく匂いもなく、ただ、息吹きだけを感じさせながら、通りすぎていくのであった。

 楓は、佐久間と話をした記憶が残っていない。佐久間が現れるまで待っていて、彼が来なかったことで、会うのを諦めたという意識もないのだ。

 ということは、一度は会って話をしたのだが、そのことを忘れてしまったと考える方が楓にとって自然な気がした。他の人に言わせれば、

「それっておかしくない?」

 と言われるに違いない。それでも、楓は佐久間と会って話をしたのだと思っている。まるで夢のような時間だったに違いない。それから楓は夢のような時間を過ごしたと思った時は、そのことを忘れてしまっていることが多い。逆に言えば、おぼろげな記憶の中で、まるで夢のような気分にさせてくれる意識は、本当にあったことだと確信できることであった。

――思い出さない方がいいことなのかも知れないな――

 夢が自分の都合のいいものであるならば、思い出せない記憶も都合のいいことだと考えるのも自然である。

 佐久間には、他の人にはない雰囲気があるが、それが彼の魅力というべきなのだろうか? 確かに人を魅了する力はありそうだ。

――内に秘めたるものが、自然と表に出てきて、まわりの人から見れば、醸し出されているように見えるものが魅力というもので、別に意識して見ているわけではないのに、どこか惹かれてしまうところが相手にあることで、気が付けば、その人が気になってしまっているのを魅了されたというのではないだろうか?

 と、楓は考えていた。言葉としても似てはいるが、実は正反対の動きをするものではないかと思うようになっていた。

 最初、佐久間に出会う人は、誰もが彼に魅了されるのではないだろうか。先に魅了されてしまうと、相手の魅力は分からない。気が付けば彼を気にしていて、気になって仕方がない状態が薄れていくと、後は忘れてしまうまでまっしぐら、佐久間は、人の心の中を一気に駆け抜けていく存在なのかも知れない。

 それは、自分の頭の中のリセットのタイミングに、スッポリと嵌っていた。だからこそ、彼に魅了されてから、忘れてしまうまでの記憶がまるっきり消えていて、まるで夢の中のことであったかのような意識になるのだった。

――私の意識はどこに行ってしまったのかしら?

 いろいろな発想を繰り広げる中で、

――佐久間さんと、ミチルちゃんを忘れることのできない倉沢秀之という男性が同一人物だなんて発想は、あまりにも突飛で都合のいいものになりはしないかしら?

 佐久間というのは彼のペンネームのようなもので、彼自身、絵を描いている時の自分は、普段の自分とは違うのだと思っているのかも知れない。

 都合のいい発想でも、そうだと思ってしまうと、なかなか消し去ることは難しい。

 ミチルが成仏できないほど、過去のことを気にしているくせに、まわりの人を魅了しておきながら自分のことを気にしようとするならば、相手の記憶を消してしまうという、いかにも身勝手に見える彼の力は、何に作用しようというのだろう?

 ただ、これも楓は覚えていないことだったのだが、一度楓も衝動的な自殺を図ろうとしたことがあった。その時にも、ミチルが楓の前に現れて、自分がこの世を彷徨っていることを告げた。だから、楓は自殺をせずに済んだのだが、ミチルに出会ったことも、自殺をしようとした事実さえも、忘れてしまっていた。

 再度楓の中にミチルが現れたのは、楓の中に何か自分が死んだということを納得させてくれるものを持っていると感じたからだったが、それは今回に限ったことではなかった。以前に自殺しようとした楓の中に入りこんだ時、ミチルには分かっていた。楓が自分を納得させてくれることをである。

 しかし、以前は、まず自殺を止めることが最優先だった。自殺されてしまっては、元も子もない。同じ立場に立ってしまっては、絶対にダメな相手だった。必ずミチルは自分を導いてくれる立場にいる相手、つまりは、近くにいて、自分よりも少しだけ上の人でなければいけない。そんな楓の近くに寄ってくると、それまでに感じたことのない胸騒ぎを感じた。そこから来るものなのか最初は分からなかったが、それが山崎夫人であることに気が付くと、彼女が、自分と同じ立場にいる女性である気がしてきたのだ。

 その時すぐに、秀之のことが思い浮かべばよかったのだが、ミチル自身の中で封印してしまっている秀之と、気になってはいるが、まだどんな人なのかも分からない山崎夫人を結びつけるには、あまりにも距離があったような気がした。

 楓は、自分の中にいるミチルが幽霊だということで、この世でできることは限られているので、自分の方が立場としては上だと思っていた。まさか、ミチルのおかげで、今まで自分が助けられたなどという自覚は毛頭ない。ミチルも、現世にいた頃のような人に対して恩を売ったなどという感覚はないが、

――してあげた――

 という気持ちには変わりはなかった。ミチルにはしてあげたという意識があるのに、楓にはしてもらったという感覚がない。そこには、現世でのドロドロとした人間臭さがあるわけではない。幽霊と人間との気持ちの上で差があるとすれば、そのあたりなのではないだろうか。

 人間には頭の中をリセットできる力があるが、幽霊にはない。その代わり、魂だけの存在になったことで、人の中に入りこむことができる。ただ、幽霊にもルールのようなものがあり、入りこむことができる人間は、自分のことが見える人でなければいけない。もし、入りこむことができたとしても、入りこんだ相手は何ら意識することはない。入り込んだとしても無駄であるということだ。

 ただ、頭の中をリセットできる力は超能力という意識と同じで、誰にでも持っている力であるにも関わらず、使いこなせる人は限られている。少なくとも、頭の中がリセットされたことを悟ることができる人でなければ、成立しない力なのだ。

 楓は、高校時代に付き合っていた小説家を目指していた彼がいたことを思い出していた。今から思えば、彼の口から出まかせだったことだけが思い出されるが、彼との別れを考えていた頃のことも思い出されてきた。

 彼との別れを自分の中だけで考え、勝手に引き延ばし、堂々巡りを繰り返すことで、結局最後は開き直りからのいきなり別れを告げたことで、最後には自分でも意識しない未練を残していたような気がした。

 未練というのは、どんなに小さなものであっても、何かのきっかけがなければ、取り除くことはできない。

 きっかけというのが、自分自身で見つけたものではなく、まわりから与えられる他力本願でなければいけないことに気付く人はまずいないだろう。

 だが、楓はその時に気付いていた。自分に憑りついた未練がどうしても消えてくれないことに疑問を感じていたからだった。

 軽くて、口から出まかせをいう相手に、未練などあろうはずもないのに、自分の中に残っている未練がどこから来るのか分からなかった。自分としては、目にも見えないほど小さなものであると思っていただけに、未練を消すには、何かの力が必要であることは分かっていたつもりだった。それがまさか何かのきっかけで、しかも、他力本願でなければいけないなどというのは、理不尽だと思っていた。

 頭の中で巻き起こった堂々巡り、これを抑えるには、頭の中をリセットするしかない。頭の中で繰り広げられる堂々巡りとリセットは、切っても切り離せないものなのかも知れない。

 そう思うと、

――頭の中をリセットできる人間というのは、絶えず頭の中で堂々巡りを繰り返している人ではないだろうか?

 とも考えられた。

 ただ、これもリセットと同じで、堂々巡りを繰り返しているという意識をハッキリと持っている人でなければダメなのだ。

 堂々巡りを繰り返していると意識している人は、堂々巡りを繰り返しているのは、自分だけではなく、誰にでもあることだと思っている。人の頭の中までは見えないので、誰も言わないから分からないが、楓は堂々巡りを繰り返しているということを他言することはタブーなのだと思っていた。

 そのため、誰かの介入がなければ、人の心が分からないという常識がそのまま、

――誰にでも頭の中をリセットすることは可能なのだ――

 と思うようになっていた。

 ただ、自分の頭の中をリセットしているという意識を持っている人間すべてが、頭の中をリセットできているわけではない。あくまでも、頭の中の堂々巡りを意識できる人にしか、リセットを意識することができない。

 しかも、そのリセットも、定期的に行われている。もちろん、何かのきっかけは必要なのだが、リセットを必要とする時、きっかけというのは相手から寄ってくるもので、必要とするリセットが、きっかけを引き寄せているのかも知れない。

 ミチルはなぜ十年間も、この世を彷徨ってきたのだろう?

 この世での十年という感覚はミチルには、どれくらいの長さに感じられているのか分からなかった。あっという間のことだったのかも知れないし、気が付けば、十年が経っていたのかも知れない。自分の中で堂々巡りを繰り返していたのは自分の頭の中だけで、時間というのは、個人に関わらず、通りすぎていくものだ。時間の感覚がマヒしてくると、

――気が付けばそこにいた――

 という感覚に陥っていただけのことなのかも知れない。

 ミチルにとって、気が付けばいたその場所とは、楓の中だったのだろう。堂々巡りは一度先に進んで後戻りする。結果として進んでいるのか、後退しているのか、本人にもハッキリとしない。しかし、時間だけは確実に過ぎていく。時間に追いつけないと後戻りしているように感じるのだが、時間よりも前には進まないようにしようという意識が自然と働いているのかも知れない。

――堂々巡りであっても、時間を追い越してはいけない――

 楓はそう思うようになっていた。

 ミチルが楓の中にいることで、楓もいろいろなことを考えるようになった。

 元々ミチルもいろいろ考えていたのだが、楓と同じように堂々巡りを繰り返していた。ミチルと楓の違いは、

――二人とも同じように堂々巡りを繰り返しているのに、ミチルの頭の中はリセットできていない――

 ということだった。

――幽霊になってしまったからだわ――

 とミチルは思っていたが、果たしてそうなのだろうか?

 ミチルは自分が身近な人に乗り移ってみると、意外に関係のある人が近くにいるのを感じた。

――これって本当に偶然なの?

 と思っていたが、それぞれの表には出ない利害関係の均衡がうまく作用して、この世が回っているのだと考えると、人間が自分の頭の中をリセットする力を持っていることが当然のごとくに感じられた。

――今なら私、自分の頭の中をリセットできるかも知れない――

 と感じた。

 もしリセットできたのであれば、成仏できるのだろうという思いである。成仏できなかったのは、自分のことを気にし続けている人がいたからで、その人はミチルに対して、愛情があるわけではない。愛情は奥さんであったり、生きている人にだけ注がれるものだからだ。

――私、どうして死んじゃったんだろう?

 後悔の念ではないが、この時ほど自分が死んでしまったということを意識したことはなかった。

――これが死というものへの意識なんだ――

 と思った時、

――どうして死んだのか、そして、死んだというのは、どういう認識なのか――

 ということを、探していた自分がまるでウソのようだった。

――それだけ心境が変わってしまったのだ――

 これが頭の中をリセットしたということになるのかと思うと、気持ちがスーッとしてくるのを感じた。

 生きている時に感じていた生々しい心境が、死んでしまうとどこか虚空の存在のように思えてくる。

 だが、頭の中をリセットできるようになると成仏できるというのは、考えてみれば当然のことのように思えてきた。今までミチルは、当然のことを当然として受け取ることができていなかった。本当は頭の中に浮かんでいた発想だったはずなのに、わざと無視していたような気がした。素直になれなかったのだ。

――成仏するということは、自分自身に素直になれるかどうかで変わってくる――

 ミチルは、そう考えながら、成仏していくのだった。

 そして、この世はミチルのような存在がたくさんいるのだろうが、そんなことに関わらず、生きている人間が中心で、動いていくのだった……。


                 ( 完 )

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リセット 森本 晃次 @kakku

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