第3話 錯誤
――あれから一体何年経ったというのだろう? 俺の中に残っている女がなかなか消えてくれない。確かに俺はあの日、一緒に会う約束をした。その時の彼女の表情は、思い詰めていたのが分かった。俺は彼女のために何もしてやれないんじゃないかって思った。何かを求められても、叶えてあげられないと思う。それなのに、彼女に会いたいと言われて断ることをしなかった。何もできるはずもないのに……
倉沢秀之は、何度そんなことを考える夢を見たのだろう。それまで夢を見るとすれば、自分の意図とは関係なく、情景だけが勝手に流れていき、ただそれを傍観しているだけのことが多かった。ほとんどそうだったと言ってもいい。
「夢というのは、覚えていることの方が稀なのさ」
と言っている人がいた。
確かにたまにしか夢を見ていないような気がする。さらに、
――何かの夢を見たような気がするんだけどな――
という思いに駆られるが、夢の内容はまったく覚えていないし、思い出そうとしても思い出せるものではない。
やはり、夢というのは、
――目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――
という意識があった。それは今に始まったことではなく、子供の頃から持っていたものだった。今年、二十六歳になった秀之は、最近になって、夢のことを気にするようになった。それは自分の頭の中に残っている一人の女性のことが、頭から離れないからだった。
――俺は彼女のことを好きだったのだろうか?
本人にはそこまで意識はない。しかし、残ってしまった想いには、自分の意志に関係のないものが含まれている。それが何か分からない時点では、この思いから抜けられることもないだろうし、苦しみがいつまで続くのか、考えただけで、億劫になってしまうのだった。
秀之が心の中に残っている思いは、夢の中で見たような気がする。ほとんど覚えていないのだが、一度だけ気になる夢を見た記憶がある。それが夢が気になり始めた最初のころだったのか、途中だったのか意識はないが、たぶん、最初だったのではないかと思っている。
その夢というのは、電車に乗り遅れた夢だった。
とにかく、その時は急いでいた。どうしてそんなに急いでいたのか分からないが、分かっているのは、誰かと待ちあわせをしていたのではないかという意識である。人と待ちあわせをして、後にも先にも遅刻したことがないと自負している秀之だったが、
――本当に一度も近くがないのか?
と自分に問いただしてみると、果たしてそうも言えないのではないかという思いが頭を過ぎることがある。
――いったい、どうしてそんなに気になっているんだろう?
普段であれば、待ちあわせをすれば、必ず約束の時間の十五分前よりも先に到着しているのが自分だと思っている。その時は、寝坊をしたという意識もなければ、自分が悪いという意識もない。それなのに、待ちあわせで電車に乗り遅れたのであれば、それは自分が明らかに悪いはずである。それなのに、悪いと思っていないのはどうしてだろう?
秀之は、自分が悪いと思っていることを、自分の中でごまかすことができないタイプだ。正直者と言えなくもないが、自分でごまかせるほどの図太い神経を持っているわけではない。
――小心者のはずなのに――
だからこそ、いつまでも夢に見てしまって、忘れることができなくなっているはずだった。
そんな秀之だったが、その時に待ちあわせていた相手が誰だったのか、本人は忘れてしまっている。本当は、ミチルだったのだが、そのミチルがその後死ぬことになったことも知らなかったくらいだった。
――夢の中でだけ気になる存在としてミチルが残っている――
死んだことすらハッキリと自覚していないミチルに、待ちあわせをしていた相手もハッキリと意識していない。
――どこまで行っても交わることのない平行線――
そのことを二人は知らなかった。
秀之には、今付き合っている女性がいる。秀之は、そろそろ結婚を考えてもいいと思っているのだが、相手の女性はなぜか足踏みしているようだ。
積極的だったのは、相手の方だったはずである。いつの間にか立場が逆転していて、秀之の方が積極的になってきた。
――俺は焦っているのだろうか?
と感じるほどだった。
別に焦っているわけではないと思っているが、急に彼女のことがいとおしいと思い始めたわけではない。ただ、
――結婚、真剣に考えてもいいのではないか?
と思うようになってから、その時に目の前にいたのが彼女だということである。
秀之はそんな自分に自己嫌悪を感じていた。
――本当に好きかどうか分からない人に対して、結婚を考え始めたからと言って、この人に決めてもいいのだろうか?
という意識であった。
だが、
「結婚というのは、勢いだ」
という人もいた。その考えには、秀之は賛同できた。
「確かに恋愛の延長が結婚だとは言いきれない時があるし、恋愛相手が、必ずしも結婚相手にふさわしいと言えるわけではないからな」
と思ったからである。
秀之にとって、結婚がゴールでないことは、自分に限ったことではないと思っているが、節目としては十分に大切なことである。そう思うと、焦っているつもりではなくても、本当に彼女でいいのかと思うようになると、その頃から、電車に乗り遅れる夢を思い出すようになっていた。
――あれから、この夢を見たという記憶はないのに――
と思ってはいたが、妙に夢としては生々しく残っている。
――夢って、思い出として考えていいんだろうか?
思い出はあくまでも夢の世界とは違うもので、もっと現実的なものだ。では夢の中に思い出のようなものが存在しないのかということを考え始めていた。
夢を見ている間は、幽霊が入りこむことはできない。楓が見ていた夢も、奥さんが見ていた夢も、その中にはミチルが入りこむことはできない。それだけ夢というものは、見ている本人だけのものであり、他の人が入りこむことのできない神聖なものなのだ。それは、生きている人間にとって、普通幽霊が見えないのと同じことなのかも知れない。
――幽霊なんて本当はいないんだ――
と思っているからで、信じられないと思っているものは人間は見えないようになっているのかも知れない。そういう意味で、夢というのも、生きている人間にも言えることであるが、
――見ている本人にしか見ることのできない――
という発想から、幽霊であっても、入りこむことのできないものなのだろう。
だが、幽霊は、起きている時の人間の中に入り込めれば十分だと思っていて、その人が何を考えているか、その時に分かると思っている。それは潜在意識であっても同じことで、起きている時だけであっても相手の中に入り込めれば、大抵のことは分かると思っているのだ。
実際には、潜在意識を分かっていないことになるので、相手の心根の奥に存在している意識だけは読み取ることができない。そんな中途半端な状態では、本当に相手の気持ちを分かっているとは言えないだろう。それでも幽霊本人には分かっているつもりなので、却って厄介なのかも知れない。
ミチルは、自分の自殺の原因が、秀之にあるということを突き止めた。
楓の中からしばらくいなかったのは、自分独自に、自分が自殺した時のことを探ろうとしていたからだ。どうやってミチルが秀之に辿り着いたのか分からなかったが、どうやら、生前のミチルという女の子は、彼のことをなるべく他の人に悟られないようにしようと思っていたようだが、
――本当は知ってほしい。彼がいることを自慢したい――
という思いもあったようだ。彼を他の人に知られてチヤホヤされたいという思いと、下手をすると、余計な誤解を受けてしまうこともあるかも知れない。それは嫌だという思いが交差していた。
自分の性格を自分の中だけで収めておくことのできない性格であるミチルだったので、まわりからは、
――実に分かりやすい性格――
と思われていたようだ。
そういう意味ではまわりに親しみやすかった。
しかし、親しみやすいという表現には語弊がある。親しみやすいと思っているのはミチルの方だけで、まわりからは、
――利用しやすい、都合のいい人だ――
という風に思われていた。
適当におだてておけば、いろいろ利用価値があるとでも思っていたのか、ミチルのような存在は、まるで、
――パシリ――
を思わせた。
そんなミチルが死んだのだから、まわりは、適当なことを言う。だが、心の奥ではミチルがまだこの世に未練を残しているのではないかと思っている人も少なくはなかった。自殺したという事実が、ミチルを適当に利用しようと思っていた連中にとって、気になることだったからである。
「恨んで出てきたりしないでよ」
と、心の中が叫んでいる。ミチルも、おかしくなって、
「ふふふ、もう出てきてるわよ」
と、心の中で呟いた。
しかし、化けて出ることはできない。化けて出るには、相手の夢の中に入りこまなければいけないからだ。
そんなことはできない。死んだ人はこの世を彷徨うことができて、人の心の中に入りこむことはできても、夢にだけは入ることができなかったのだ。
――でも、生きている時は、夢の中に幽霊が出てきたという話を何度も聞いたことがあったけど、あれは迷信のようなものだったのかしら?
と思っていたが、実はそうではないのかも知れない。
同じ幽霊でも、相手の夢の中に入れる人と入れない人が存在しているとすれば、分からなくもない。では、それは一体どんな人だというのだろう?
やはり、本当に恨みを持っていて、呪い殺したいとまで思っている人にだけできる芸当なのかも知れない。
――私はそこまで人を恨んでなんかいない――
と思っているから、誰の人の夢の中にも入ることができない。もし、生きている人間が夢に幽霊を見たのだとすれば、本当に恨まれているので、幽霊に入りこまれたのか、それとも、起きている時に何となく感じた幽霊の存在を、夢の中で意識してしまい、意識が夢のストーリーを組み立てているのだとすると、自意識過剰な人間なら、夢の中に幽霊を存在させることもできるのだろう。そう思うと、ミチルは自分が夢の中に入りこめない理屈も分かってきた。
秀之は、夢の中でミチルの存在を感じていた。電車に乗り遅れて、待ちあわせに遅れてしまったという居S器が強いからだ。しかも、それからミチルと待ちあわせをすることが永遠にできなくなってしまった。ミチルが自殺したと聞かされたからだ。しかも、それが待ちあわせをした次の日だというではないか。
――一体、彼女に何があったというのだろう?
という思いと、
――もし、待ちあわせに間に合っていれば、ミチルは自殺なんかしないで済んだのかも知れない――
という思いが交錯してしまっていた。
どこまでが真相なのか分からない。ミチルも彼の心の中に入りこむことはできても、夢の中までは入りこむことはできなかった。
――この人、私のことを忘れてしまっているようだわ――
忘れようとしている人の真剣な気持ちを、その相手であるミチルには、いくら彼の心の中に入りこんだとしても、見ることができない。大きなシートに覆われているようで、幽霊から見ると、それはまるで路傍の石のように、
――本当は見えているのに、そこにあって当然だ――
という意識がある。そのため、夢を見ることができないのと同様、幽霊になってしまうと、この世では視界が極端に狭くなってしまい、信じている一点方向しか見ることができない。正直者だというよりも、融通が利かないと言った方が、この場合においては、正解なのかも知れない。
ミチルは、彼の中に入りこむことはできたのだが、夢の中には入りこむことができないということで、必要以上に頭を回転させてしまっていた。
見えているのが一方向だけだという意識はミチルにはなかった。
――幽霊なのだから、いろいろな方向を一度に見ることだってできるはずなんだ――
この世での行動が制限されているということすら意識していない。夢の中に入ることはできないとはいえ、人の心に入り込むことができるということが分かっただけでも十分だった。
そんな彼のことを自分なりに、総合的に考えると、
――私は、自殺したのではなく、本当は彼に殺されたのかも知れない――
と思うようになっていた。
そして、そのことがミチルの中に未練として残り、この世を彷徨うことになったのかも知れないと思うようになっていた。
その裏付けとして、
――自分が死んだ時の記憶もなければ、死んだということさえ自覚できないでいる――
ということの証明に思えてきたのだ。
辛い思いをして、思い出したくないという思いと、未練が残っているという思いとが交錯し、彷徨いながらも、死んだ理由を捜し求めているというのは、客観的に見ると、辛く感じられるが、もっと客観的に考えると、実に滑稽なものである。
ミチルが乗り移った秀之に対して、乗り移った瞬間、
――何、この違和感は?
と感じた。
それは一瞬だったが、確かに違和感はあった。それは、
――幽霊を否定しようとする力――
とでも言えるだろう。
入り込むことは容易にできたのだが、入りこんだ瞬間、背中にズシンと大きな何かを背負わされた気がしたからだ。これまで自分が乗り移った人間にはそんなことはなかったので、やはり自分の死に彼が大きく関わっていることは明白だった。
――この人のせいで、私は天国にもいけず、この世を彷徨っているのかしら?
と感じた。
そんなことよりも、自殺だと思っていたが、本当は殺されたのだとすれば、それまでの自分の立ち位置がまったく違ったものになるではないか。それなのに、ミチルはそれほどこのギャップを感じているにも関わらず、結構冷静である。それほどまったく違ったものに思えないのだった。
そこまで来ると、ミチルは、彼に殺されたということも、俄かには信じられなかった。しかし、自殺したということよりも、彼に殺されたと思う方が、幽霊の自分としては、スッキリくるような気がしていた。
そのことを裏付けるものは、さらに何も残っていなかった。すべての人がミチルは自殺をしたのだという理屈でいた。しかも、ミチルが密かに誰かを好きだったということが広まっていたようだ。勝手に歩き出した噂だったが、好きな人がいてもおかしくはない。そのせいで、失恋による自殺にされてしまった。
「何も失恋ごときで自殺なんかしなくてもねぇ」
と言っている人もいれば、
「まるで相手に対しての当てつけのようだわね。せめてもの救いは相手が誰だか分からないことだわ。それだけが彼女にとって救いだわね」
などと好き勝手言っている。
――私にとって救いって何よ。それじゃあ、まるで私が悪者じゃない。人一人が覚悟の上で自殺したんだから、男性が誰だったのかくらい調べてくれたっていいじゃない。彼を法で裁くことはできなくても、今後の人生にとって、私の死が大きな影響を与えてくれないと困るのよ――
と、叫んでいたが、誰に聞こえるわけでもない。
――世の中って、そんなに薄情なものなの? これだったら、死に損じゃない。まるで死んだ人にすべての罪をかぶせて、すべてを解決してしまうというのは、まるで「臭いものには蓋」という理屈と同じじゃない――
怒りがこみ上げてきたが、幽霊であるミチルは、その怒りを表すことはできない。右から左に抜けていくのを感じ、死んでしまったことを後悔していた。
――不思議だわね。私はいまだに死んだっていう感覚がないのに、死んでしまったことを後悔するなんて、まるで他人の後悔を、自分がしているようなおかしな感覚だわ――
それにしても、どうして死んでしまった感覚がないのだろう?
――死に切れなくて、この世を彷徨っているから?
そんな風にも感じた。
中途半端な死を迎えてしまったために、感情も中途半端になり、肉体がないために、自分のことであっても、すべてを他人事のように感じることが、ミチルを成仏させないことに繋がっている。
――自分の死を確かめようなんて思わなければよかった――
いや、死を確認しなければ、結局はこの世をずっと彷徨っていることに変わりはない。
――では、一体どうすればいいんだ? 自分は誰かに殺されたわけでもなければ、自分から死んだのだ。いくら、誰かのせいで死ぬことになったとしても、その人を恨み殺すことができるはずもない。ただの逆恨みにしかならないわ――
と、自分に言い聞かせた。
ただ、それでも、他人の無責任な発言にはどうしようもない憤りを感じた。確かに他人だから好き放題言えるのだろう。もし、ミチルが彼女たちの立場にいたとすれば、同じこと言っていたかも知れない。そう、しょせんは他人事、好き勝手に言えるのも、生きている人間の特権なのだろう。そう思うと余計に自らが命を断ったことに、納得がいかなかった。せめて、誰かに殺されたということであれば、自分にとって救いに思えた。
しかし、その時のミチルには分かっていなかった。
確かに、人の命を奪うのは悪いことだ。どんな言い訳も通用しないだろう。しかし、それを踏まえた上で、人を殺すには、それなりの理由があるはずだ。殺してしまうということへの罪の呵責、そしてそれが露見してしまった時に、自分のそれから以降の人生がどうなるか、それらすべてを考えた上で、それでもその人を殺そうと思うのだろう。相当、殺された人も罪深いはずである。
ひょっとすると、殺した人よりも罪深いことをしたのかも知れない。
そのことを、その時のミチルには分かっていなかった。
というのも、そこまで考えが及ぶほど、まだミチルは大人になりきっていない間に死んでしまった。もっとも、失恋で自殺をするくらいなので、自殺をした時の感情は、一方向からしか人生を見えなくなっていたに違いない。それだけ、その頃のミチルは、まだ大人になりきれていなかったのだ。ミチルが後悔するのであれば、死んだとうことよりも、もっと広い目で、そして大人の目で見ることが少しでもできていたら、死ぬことまではなかったのではないかということだろう。
幽霊になったミチルは、死んでしまったその時から時間が止まってしまっていた。成長するわけでもなく、永遠に子供のままである。それでも、何とか自分のことを分かりたいと思った分だけ、少し前に進んだのだろうが、それも、微々たるものだ。
――私、幽霊になったんだ――
と、心の中で言い聞かせてはいるが、どうしても考えることも、人が言っていることも、そのすべてが他人事のように思えて、右から左へと抜けていってしまう。
――これじゃあ、幽霊になってまでこの世を彷徨っている理由が分からないじゃないの?
と、自問自答を繰り返すが、自分に対しての質問も、返ってくる答えは、他人事にしか思えない情けなさがあったのだ。
ミチルは以前、自分が心中したのではないかと思ったことがあったが、それを飛び越して殺されたと思ったのは、飛躍しすぎなのかも知れない。
ミチルは、自分の死に関係のある秀之という男性の心の中に入りこむことができなかった。そのために、勝手な想像を巡らすことになったのだが、本当は違っていることにその時は気付かなかった。
幽霊になったから、誰の心の中に入りこめるというわけではない。いや、厳密に言えば、ミチルは死んで幽霊になったわけではなく、どこか死に切れないところがあって、そのままこの世を彷徨っているのだった。
だから他の人のようにこの世に未練があって、一度死んでから、舞い戻ってきたのとは少し違っている。その違いをミチルは分かっていないし、他の幽霊たちには、ミチルの存在すら分かっていないのだろう。
だが、ミチルには、他の幽霊の存在は分かっている。分かっているが、彼らと話をすることもできなければ、同じ世界にいるという感覚もない。霊感が鋭い人が幽霊を見ることができても、話をすることができないのと似たような感覚なのかも知れない。
ミチルにとって、自分がどれほど中途半端な存在になったのか、そのことを認めたくないという気持ちが働いている。ということは、ミチルは自分が中途半端な幽霊になってしまったということを自覚しているということだ。
その理由を、自分は誰かに殺されたのであり、殺した相手を本当は庇いたいとでも思っているのかも知れないと感じていた。それであれば、何ともいじらしいことではないか。それこそ、自分が生前に夢見ていたような人間と言えないだろうか。
――死んで本望――
と思っている。
しかし、そんな自分に、代償がないというのも、おかしなものなのかも知れない。この中途半端な状況は、自分を殺した相手を庇うという自分は、本当なら天国に行けるべきなのに、どこでどう間違えたか、この世を彷徨っている。
――ひょっとして、自分が庇いたいと思っている人が、自分の考えているような態度を取っておらず、まるで自分を裏切っているように思えたからではないか――
と感じていた。
元々、人を殺すだけの人間なので、ミチルに対してどんな思いがあったのか分かったものではない。きっと他の人に話をすれば、
「あなたもバカよね。自分を殺した人を庇うなんて、お人好しにもほどがあるわ」
というに決まっている。ミチルがその人の立場でも同じことを言うだろう。
しかし、それもあくまで他人事、それでも的を得ている言葉に違いない。確かに自分を殺すような相手のことを庇ったとしても、殺した相手に都合よく使われるだけで、死んだ本人には、何ら得はない。
――死人に口なし――
として、都合よく使われるだけだ。
「あなたは悲劇のヒロインを演じているだけ」
心の中の自分に言われても言い返せないだろう。
そんなミチルは、殺した相手の心の中に入りこもうとして入りこめないのは、入りこむのが怖いからでもあった。
だが、本当は、入りこむのが怖いだけではなく、本当に入りこむことができないということに、気付かなかった。入りこむのが怖いと思いこんでいたからである。
だから、誤解が誤解を生み、何をどうしていいのか分からなくなったことで、ミチルは死ぬこともできず、この世を彷徨い、楓の心の中に現れた。
ミチルは、自分が殺されたと思ったのは、秀之の心の中に入りこむことができなかったからだ。本当は、彼から殺されたわけでも、心中を考えていたわけでもない。どうしてそこまで飛躍した考えに至ったのか、自分でも分からなくなっていた。
秀之には好きな人がいた。その相手のことをミチルは知らないわけではない。
二人の関係が怪しいと気付き始めた時、ミチルは自分が秀之のことが本当に好きなのだということに初めて気が付いた。今だからこそ言えることなのかも知れないが、
――どうして告白しちゃったのだろう?
と死ぬ前に考えていたのだ。
今だからこそ言えることすら、今は忘れてしまっている。秀之を遠くから見ていると、今ではその時に秀之が好きだった女性と、結婚していて、平凡な家庭を築いている。
――私と結婚していたら、どうなっていたのかしら?
と思うこともあったが、自分が殺されたと思っている以上、彼との結婚を今さら考えてはいけないという思いに駆られていた。
秀之には、どこか後ろめたさがあった。
ミチルは彼の後ろめたさに気付いた時、
――やっぱり、私は彼に殺されたんだ――
と感じた。
人を殺してしまったという後ろめたさは、何よりも強い思いだと思っていたのだ。
しかし、実際には違っていた。今までミチルは、人の夢の中にまでは入りこむことができなかったが、秀之の夢の中にだけは入りこむことができた。
それが、恨みを持った人の夢にだけ、入りこむことができるのだということに気が付いた時、その人が後ろめたいと思っている相手であったことが、本当に偶然なのかという思いに駆られた。
秀之の夢の中は、一言で言えば、グレーだった。灰色の世界が基調になっていて、ミチルは、自分が入りこんでしまって、
――もし、秀之に見つかってしまったら、どうしよう?
という懸念を抱いていたが、それが取り越し苦労であることに気がついて、ホッとしていた。
自分もグレーであることに、ミチルは気が付いた。しかも、秀之が抱いているグレーと、同じである。ミチルは、自分が幽霊なので、グレーという色が保護色になっているのか、それとも、秀之の考えていることとミチルの感じていることとが、限りなく近い存在になっていることで、同じ色を示しているのかのどちらかだろうと思っていたのだ。
秀之の夢の中がこれほど現実と違っているとは、ミチルにもビックリだった。しかし、考えてみれば、実際に見ている本人であっても、夢から覚めていくうちに、どんなに覚えていようと思っていても、夢の中で起こったことを思い出すことは難しい。後になって、ふと思い出すことはあっても、一瞬であり、ほとんど覚えていないものだ。
ミチルは、そういえば以前、
「夢というものは、目が覚める寸前に、一瞬だけ見るものらしいよ」
と、聞かされたことがあったが、思い出すのも一瞬、つまり、目が覚めている状態で、夢を思い出そうとするのは、無理があるということだった。
――じゃあ、夢を見ている時に、前に見た夢を思い出すことというのはできるのだろうか?
ということを考えてみたことがあったが、自分の中では、
――それは不可能ではないのだろうか?
という答えを導いたような気がした。
夢というのは、潜在意識が作り出す虚空のものであり、現実とは違っている。潜在意識には限りがあるので、見る夢も限られてくる。
――だったら、夢の中が繋がっていてもいいではないか?
とも考えられるが、一つの夢の世界が単独のものであるというのは、もしその夢の中に前に見た夢を創造してしまうと、前の夢での主人公であったもう一人の自分を呼び起こすことになる。
夢を見ている自分にとって一番怖いのは、もう一人の自分を夢の中で意識することだと思ったので、そんな怖いことを潜在意識が許すはずはない。そういう意味で、以前に見た夢を違う夢の中で見るというのは、不可能だと思っている。
――だから、幽霊であっても、人の夢の中にはそう簡単に入りこむことはできないんだ――
と思った。
ただ、それでも恨みの力には勝てないのだろう。恨みを持った人の夢にだけは入り込むことができる。それが何かを暗示しているのかどうか、ミチルには分からなかった。
彼が見ている夢は暗黒ではない。グレーだということは、どこからか光が漏れている。ただ、光が漏れているだけで、前も後ろもまったく分からない。そこには何があるのか、見当もつかない。
光があるのだから、何かがあるのなら、影が差していそうなものだが、影も感じることができない。色の濃い部分と薄い部分に別れているような気がするが、絶えず変化している。
――まるで何かが蠢いているようだ――
と、ミチルは感じた。
ここが、秀之の心の中を写していることに、すぐには気付かなかったミチルだが、気付いてみると、蠢いているものが、
――彼が忘れることのできないもの。つまりは殺してしまった私なのではないか?
と感じた。
よく見てみると、そこに命の息吹らしいものは感じない。蠢いているのに、生きている感じがしないのは、人間ではないものに思えてきた。
最初は、それを自分だと思っていたミチルだったが、本当の夢の世界では、秀之には見えているものに思えてならなかった。それはミチルではなく、もう一人の自分、つまり秀之本人だったのではないだろうか?
恨みを持っている人の夢の中には入りこめると思っていたミチルだったが、実際には途中までしか入りこむことはできなかった。その先にあるものが、その人にとっての苦悩、誰も入りこむことのできない領域は、絶対に誰にも触れられてはいけないものだった。
秀之の夢の中は、幽霊が彷徨う世界に似ているような気がした。そこに出口はない。一度見た夢は二度と見ないはずなのに、秀之には、悪夢が続いているようだった。それなのに、現実世界の彼は、そんな夢を見ているなど想像もできないほど、平穏な暮らしをしていた。
――人の夢の中って、本当はドロドロしたものが蠢いていて、目が覚めてから覚えていないのは、蠢いている世界が、一瞬だけ夢として意識させた記憶を食い尽くそうとしているからなのかも知れない――
と感じた。
もちろん、夢というのは悪夢ばかりとは限らない。楽しい夢も見ているはずだ。一瞬だけであっても、楽しい夢を見ているのであれば、それ以外の時間グレーの世界が蠢いていても、楽しい夢として記憶だけはされているに違いない。ただ、それを思い出すにはグレーの世界を避けて通ることはできず、その存在すら意識していない状況で、夢を思い出すことなどできるはずもなかった。
秀之の夢も、本当はそんなに深刻なものではなく、ミチルは自分が殺されたなどと思っているが、そんなことはないのかも知れない。
ただ、義之の中にある良心の呵責が、彼を苦しめていることだけは確かなようだ。そして、その良心の呵責を生む原因になったのは、ミチルであることに間違いはないようだった。
――一体、私の何が彼を苦しめているのだろう?
さっきまでは、
――自分は彼に殺された可哀そうな悲劇のヒロインだわ――
と思っていたのに、いつの間にか秀之に対して同情的な気持ちになっていた。そこまで思い返してみると、
――私はやっぱり、彼のことが好きだったんだわ――
と思えてきた。
自分はどうなってもいいから、彼に幸せになってもらいたいという思いから、いつの間にか、彼を手放したくないという思いの方が強くなっていて、そのことに気付いていなかったミチルは、秀之が変わってしまったかのように思えていた。
本当は変わってしまったのは自分だったのに、その思いがあることから、死んでしまってから、秀之のことが夢の中での一瞬の出来事であったかのように思えてきて、いくら幽霊であっても、自分の中の夢の世界まで覗くことはできないのと同じで、すべて、記憶の中からも消されていたのかも知れない。
――では、今のこの思いは何だろう?
消されたと思っていた記憶が残っていて、彼の夢に入り込むことで、次第に忘れてしまっていたことを思い出そうとしているのだろうか? もしそうであれば、なぜ、こんな回りくどいことをしなければならないのか、疑問に感じられた。
――秀之という男性は、今もずっと、私のことを想い続けているのかも知れない――
と感じた。
だが、それが恋愛感情なのかと言われると、ミチルにも分からなかった。現実世界で、彼は以前から気になっていた女性と結婚していて、幸せそうに見えるではないか。ミチルには、彼の夢の世界には入ることができるが、彼が見ている側の夢には決して入ることはできない。
だが、秀之にはミチルの幽霊が夢の中に現れているのを知っていた。秀之が自分の意識の中で作り出す夢の世界のミチルとは違うミチルが存在しているのだ。それが幽霊のミチルなのだが、夢を見ながら、二人のミチルがいるようで、その正体を知る由もない秀之には、夢の中が気持ち悪くて仕方がないようだった。
蠢いているものが秀之だと感じたが、それは当たらずとも遠からじであった。
秀之の夢には表と裏が存在する。それはまるで光と影のような存在で、ミチルのいる裏の世界の夢は、最初から影のようなものなので、影の中に影は存在しないのだ。
そして、ミチルが見ている蠢いているものは、表の夢の世界を見ている秀之であり、表と裏の間に入り込んで、表の夢の世界を傍観しているその姿だったのだ。裏からは蠢いているように見えるが、表からは、きっと何も見えていないのだろう。
いや、見えているとしても、それは目が覚めるにしたがって忘れ去ってしまうもの。しかし、裏から見ているミチルには、忘れることのできないものでもある。それだけ夢の世界というのは、不可思議なものに違いない。
表の夢を見ている秀之には、まさか裏の夢にミチルが潜んでいようなどということは分からない。しかし、秀之には裏の夢の存在を、何となくではあるが感じているふしがあった。裏の夢が表の夢にどのような作用をもたらすのか分からないが、夢に対して他の人とは違った発想を持っている自分をは、少し有頂天にもなっていた。
「夢には裏の世界があって、そこにもう一人の自分が潜んでいるのさ。その自分が表の夢をいい夢にしているのか、悪い夢にしているのかを操作しているんじゃないかって俺は思っているんだ」
と、秀之は奥さんにそう話したことがあった。
「そうなんだ、でも、私はその夢の中に出てはこないの?」
「あまり出てくることはないな。やっぱり君とはこの世界でいつも一緒にいるという印象があるからね」
半分は冗談だが、半分は本気だった。
秀之にとって、奥さんは大切な存在ではあるが、頭の中にいて、どうしても離れない相手がいるのを感じていた。しかも、それは一人ではない。二人だった。一人は誰だか分かっている。その人とは、高校時代に付き合っていた相手だった。大学入学とともに別れを迎えたが、それは相手が遠くの大学に入学したからだ。
「私は、遠距離恋愛はできないと思うの」
彼女のその言葉に、秀之はあっけにとられた。
「えっ? 君の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかったよ。どういうことなんだい?」
彼女は、普段から楽天的で、どちらかというと神経質なところがあった秀之にとって、ちょうどいい相手だった。しかも、正反対とも思える性格にも関わらず、彼女は、秀之の話をちゃんと聞いてくれる。
秀之の発想は、今も昔もあまり変わっていない。時々突飛なことを言い出して、まわりを驚かさるが、彼女だけは、驚くよりも前に、ちゃんと話を聞こうとしてくれる。
「秀之さんの話は、ちゃんと聞いていれば、理解できないことなんかないのにね」
と言ってくれる。
そんな彼女は、秀之にとって彼女であり、
――よき理解者――
でもあったのだ。
「もし、男女間で親友なんて言葉が存在するのだとすると、俺と君のような関係をいうのかも知れないね」
と、秀之がいうと、彼女は黙って頷きながら、笑っているだけだった。
そのことに関しては、一度も返事を返してきたことはなかった。
秀之の話を黙って聞いてはいるが、最後まで聞き終わると、
「私も話をしていい?」
という前置きの元、ゆっくりと口を開くと、結構毒の入った話をしてくれることもあった。
――本当は思ってはいるんだけど、こんなことを口にしていいものだろうか?
と思っているようなことを、彼女は平気で口にするのだ。
もちろん、相手が秀之だから話をするのだろうが、毒の入った話であるわりには、考え方は楽天的だった。そのギャップが、さらなる発想を秀之に抱かせて、会話に花が咲くことが多かった。
言いたいことを言い合える仲は、相手が異性であろうがなかろうが、親友として話ができる相手であることに違いない。話をしている時は、毒のある言葉が印象に残っているのだが、会話が終わって一段落して、会話の内容を思い出そうとすると、彼女に対しての印象は、
――楽天的な発想から来ているのではないだろうか?
と感じさせるものだった。
そんな彼女が、
「遠距離恋愛は、自分にはできない」
と言ったということは、本当に無理だと感じているのだろう。少しでも大丈夫だと思える可能性があれば、楽天的な性格から、少しの考えを最大限に広げる力を持っているからだった。
「でも、やってみないと分からないことじゃないのかい?」
と秀之が言うと、
「いつも一緒にいて、確認できるから付き合うことができるの。離れてしまうと、きっと相手のことを想うあまり、普段の生活のリズムが狂ってしまって、お互いに外れてしまった歯車が、自分たちの生活に直接影響してくると思うの。もし、近くにいれば話もできて修復もできるんだろうけど、離れていると、二人のうちのどちらかに負担が掛かってしまう。そうなると、バランスどころではなくなると思うの」
言われてみれば、当たり前の話だった。
遠距離恋愛になりそうだということになった時点で、彼女の気持ちは秀之から離れてしまったのだろうか?
秀之はなかなか彼女のことを割り切ることはできなかったが、次第に彼女が遠距離恋愛を考えた時点で、自分からすでに離れていたと思うことで、心の中が晴れてくるのを感じた。
開き直りとはまた違った感覚であったが、開き直りのように、何かのきっかけがあったわけではない。ただ、彼女の潔さが、秀之の心に響くものを感じさせただけだった。
――俺たちは、生きる世界が違うのかな?
そう思うと、未練がなかったのに、なかなか割り切ることができなかった自分が、分かってきた気がした。
――そのうちに、また俺を好きになってくれる人が現れるさ――
秀之は、自分が好きになった相手と付き合いたいと思うよりも、自分を好きになってくれる人を待っている方だった。別れた彼女も、最初に彼女の方が秀之のことを好きになってくれたことで、秀之も彼女のことを好きになったのだ。
――こんなことは、他の人には口が裂けても言えないな――
「それは、本当の恋愛じゃないんじゃないか?」
と言われるだろうと思ったからだ。
自分でも、本当はそうではないかと思っている。しかし、自分が最初に好きになっても、相手が好きになってくれなければ、結局は付き合うことも叶わずに、好きになってくれるはずもないことを、無意味に追いかけてしまうのではないかと思ったからだ。
そういう意味では、恋愛に対しては冷めた目で見ているのではないかと思っていた。そんな自分であっても、好きになってくれる人でなければ、自分も相手を好きになることはないと思ったからだ。
だから、好きになってくれないと、相手を好きになることはないのだ。
――元々、恋愛に形なんてないのかも知れない――
と思っていたのだが、それは、裏を返せば、人それぞれで形が違うということを言いたかったのかも知れない。
秀之はそんな自分に後ろめたさを感じることがあった。
――せっかく好きになってくれたのに、その人のことを本当に好きになれるかどうか、自信がない――
と、思うようになっていた。
今までに付き合った女性に対しては、すべて自分は好きになったのだと思っていた。
遠距離恋愛を断られ、結局、別れることになった彼女に対しては、未練はなかったが、好きになったという事実に変わりはないだろう。
しかし、彼女と別れて少ししてから知り合った女性に対しては、秀之は好きになったとは思えなかった。
その女性がミチルだったのである。
ミチルは、秀之の前にいきなり現れた。それまで近くにいたのだが、お互いに意識することはなかった。存在を知っていたという程度で、お互いに恋愛感情など生まれるはずもない環境だったようだ。
ミチルが秀之に近づいたのは、偶然だった。まるで映画のワンシーンを見ているような出会いで、いきなり降ってきた雨に、傘もなく、コンビニの軒先で、空を恨めしそうに眺めていた秀之に対して、
「入っていきませんか?」
と、さりげなく傘を彼の上にかぶせたのがミチルだった。
その時に大した会話をしたわけではなかったが、ミチルには、秀之の中で、何か寂しそうな声が聞こえたのを感じた。それが、前に付き合っていた女性をまだ彼が引きずっているということだと、ミチルは感じた。
――ここで好きになったのなら、それは同情からかも知れない――
と思ったが、ミチルには、
――同情から好きになったとしても、それは悪いことではない――
と、感じるものがあった。だから、ミチルはその時、秀之のことを好きになったのだと思った。
ミチルが自分のことを好きになってくれたのだと秀之が感じたのも、ミチルが好きになったと感じた時と、ほぼ同時だった。もちろん、お互いにそんなことを知る由もないが、死んでしまったミチルになら分かるかも知れない。
しかし、死んだ時に、覚えていたはずの秀之が、記憶をすべて失ってしまったのも事実で、逆に言えば、一つ何かを思い出せば、芋づる式にいろいろなことが思い出されてくるに違いない。
ミチルを好きになる前に付き合っていた女性は、ミチルと知り合った時、将来結婚することになる男性に出会っていた。彼女はまだ大学生だったが、卒業と同時に結婚することが決まっていて、ちょうど幸せに上りつめる前の麓にいるようなものだった。
彼女が結婚に憧れていたのもウソではない。また、秀之と別れて、寂しかったというのも事実だろう。
彼女が結婚しようと思った相手は、彼女に対して一目惚れだった。秀之のように、自分を好きになってくれる女性だけを捜し求めるようなことはなく、誰に対してもわけ隔てのないところが気に入っていた。
本当であれば、
「私だけを愛して」
と言いたいところなのだが、どちらかが強い愛を持っていては、相手に対しての押し付けになってしまうことを、彼女は分かっていた。元々が楽天的な性格なので、お互いに同じ力の愛情で結ばれるのが一番だと思っている。そういう意味では、知り合った彼は、結婚相手にとって不足はなかったのである。
その彼女というのが、実は山崎夫婦の奥さんだった。
ここまで書くと、山崎夫婦の旦那さんは、かなりよくできた旦那に思えてくるだろうが、実際には、神経質でプライドの高いところがあった。
そんな彼だったが奥さんの前では従順になる。どんな人でも、従順になれる人が一人はいるものだと思っていた奥さんは、彼にどんな過去があったとしても、驚くようなことはなかった。
「俺は、学生時代、絵を描いていたんだよ」
筋肉質に見える彼から、絵を描いている雰囲気は想像ができない。だが、釣りをする人には、短気な人が多いと聞いた。それに似た感覚なのかも知れない。
彼の絵は、風景画が多かった。たまに風景画の中に、人を描いているように見える作品もあるが、
「これは人じゃないんだ」
と、明らかに人に見える絵であっても、頑なに否定していた。
「どうして、あなたは自分の絵の中に人間を否定するの?」
「僕は純粋に風景画を描きたいんだ。そこに人というものが入ると、僕の思っている風景画ではなくなるんだ」
「どういうことなの?」
「人や動物は動くでしょう? 僕の絵は動きのないものをずっと追いかけて描いているから、動くものが存在すると、一瞬で描きたいものが変わってしまう。それは僕の目指すところではないからね」
「あなたの目指すものって、止まっているものなの?」
「そうだよ。動いていると見誤ってしまう」
少し沈黙があり、彼がまた語り始めた。
「絵というのは、バランスがあるものなんだ。描き始めもどこから描くかで、バランスが決まってくる。僕の場合は、少しでも動いていると、一瞬でいいと思っていたバランスが崩れる場合がある。だから、僕は静止画しか描かないんだ」
理屈は通っていた。
確かに彼の絵には、静止画ならではの奥深さがある。逆に言えば、静止画というのは、バランスが命だとも言えるだろう。奥さんは、そんな彼の絵に対する考え方に共感していると言ってもいいだろう。彼女の楽天的な性格ともあいまって、彼の絵は、今までで一番清涼な雰囲気を感じさせるものだった。
「あなたの絵に一番感じるのは、壮大さなのかも知れないわ」
奥さんはそう言いながら、自分が絵に吸い込まれていくような錯覚を覚えたのに気が付いた。いつの間にか絵の中に自分が入りこんでいるのを感じていた。しかし、彼の絵はあくまでも静止画なので、絵の中に入りこんだとしても、絵を見ている人たちに気付かれることはない。
それは夢の中のことだったはずだ。夢の中というのは、
――誰も侵すことのできない、その人にとって、もっとも神秘的な場所――
という意識を持っていた。それだけに、奥さんは絵を見た時に感じた絵の中に入りこんだ錯覚が、以前に見た夢であることを悟られないようにしなければいけないという取り越し苦労を頭に描いていた。
取り越し苦労というのは、自分で取り越し苦労だと感じ安心した瞬間に、まわりに対して、自分から取り越し苦労をしたという感情をあらわにさせるものだ。フッと気を抜いた時に忍び込んでくる風は、まわりの目が影響しているに違いない。
奥さんは、そんな彼が一度だけ自分の絵に、描きたい人間を描いたことがあるのを知らない。その相手というのは、奥さんのことだった。
付き合っている時に描いていた絵だが、この絵だけは、奥さんに対してはもちろんのこと、他の誰にも見せていなかった。これからも誰の目にも触れさせるつもりのない絵で、
「じゃあ、一体何のために描いたんだ?」
と聞かれても、彼はその答えを見つけているわけではない。しかし、満足感や充実感という言葉で割り切れるようなものではないものであることは確かだった。これを下手に人に見せると、自分の中の感動が半減する。
――内に向かって一気に突き進む感情――
とでも言えばいいのだろうか。自分一人だけの宝物で、他人には理解できないものだと自負していた。
たった一人だけ、その絵を見たことがある人がいる。そのことを作者である旦那さんも知らない。それは現実に見たものではなく、楓が見た夢の中の絵だったのだ。
楓は今までに何度か絵を見ている夢を見たことがある。夢に見た絵を、実際に見ることができるのではないかという思いもあった。
学生時代、喫茶店で見た絵、実際には彼が描いた絵ではなかったが、似たような絵を見ていた。そして夢でも同じものを見た。絵の中から見られているという感覚に陥っていたことを忘れてしまっていたが、それを思い出すと、きっと絵の作者がそばにいることを悟るのではないだろうか?
奥さんから見つめられたと感じたのは楓ではなく、楓に入り込んでいたミチルだった。ミチルは楓の夢の中にまで入りこむことはできない。もし入り込んでいれば、その時に見つめていたのが奥さんであることを悟ったはずだ。だから、ミチルにも楓にも、見つめられていることは分かったのだが、それが誰からなのか分からない。
ミチルは、絵の中から見つめられていると思うと、ゾッとしたものを感じた。自分が成仏できないのも、やはり誰かが自分のことを気にし過ぎて、そこから離れられないからではないかと思うのだった。
その誰かというのが秀之であり、秀之にとって忘れられないもう一人の女性がミチルであることを悟った。
――秀之さんは、私のことを殺したわけでも、心中しようとしたわけでもないだわ――
秀之と結婚したくて、その気持ちを伝えようと、待ちあわせをしていた。
秀之はその時、電車で待ちあわせの場所まで来ようとしてくれたのだが、ちょうどその日は運が悪く、彼が移動に使っていた電車で事故があったようで、彼は待ちあわせに間に合わなかった。
――携帯で連絡をくれればよかったのに――
と、思ったが、ちょうどその時、脱線した電車の中にいて、救助待ちの状態だった。
気が付けば、病院のベッドの上、軽傷だったが、病院はけが人がいっぱいで騒然としていた。とても電話ができる状態ではなかった。彼のカバンは他の人の荷物と一緒に一か所に集められていて、すぐには、どれが自分のか分からなかった。時計を見れば、午後十時前、八時に待ちあわせをしていたのに、すでに二時間が経過していた。
ミチルは、何時間ほど待ったのだろう?
最初の一時間は、とても長く感じられた。その間に何度か連絡を取ってみたが、呼び出し音は鳴っているのに、一向に出る気配はなかった。
――何かあったのかしら?
とは思ったが、自分の気持ちを落ち着かせるのに精一杯で、必要以上のことは考えられなかった。一時間が経っているのを確認すると、あとは十五分刻みくらいで、時間を気にするようになっていた。すでに携帯電話でこちらからの連絡はできないのだと諦めて、電話する回数が減っていた。
その時点で、すでに普段のミチルではなかった。そのまま待ちあわせの場所の近くにある喫茶店に入った。そこからは待ちあわせの場所も見ることができる。喫茶店の壁に架かっている絵を見たような気がしたが、一瞬、その絵に見つめられている気がしたまま、窓際の席に座り、表を見ていた。
やはり彼はやってこない。ミチルは、そこで一旦、自分の頭の中をリセットさせた。
――リセット?
そうだ、ミチルは定期的に自分の頭の中をリセットできる能力があった。しかし、その能力を使ってしまうと、それまでの記憶がなくなってしまう。厳密に言えば、記憶の遠近感がなくなってしまうのであって、記憶が極端に薄くなってしまった上に、時系列がバラバラになってしまったことから、記憶がないという意識に陥っているだけのことだった。
ただ、ミチルがその能力を発揮できるためには、何かのきっかけが必要だった。それが喫茶店の壁に架かっている絵を見た時だということに気付かなかった。
――絵の中から見つめられた――
という意識はあったはずなのだが、頭の中がリセットされた瞬間に、絵の中から見つめられたという意識も飛んでしまっていたのだった。
ミチルが自殺をしたのは、その時だった。
ミチルは、彼がもう来ることはないとハッキリと分かったその時、ちょうど、頭の中をリセットしていた。帰りにももう一度同じ絵を見たからだ。
しかし、その絵が最初に見た時と、精神状態が明らかに違っていた。最初は不安が表に出ていたが、帰りに見た時のミチルの頭の中には、開き直りが表に出ていたのだ。少しでもミチルのことを意識している人がいれば、頭の中をリセットさせたミチルにその時、自殺のオーラがあったことに気付いたかも知れない。精神的には開き直っているのに、思い詰めたような目をしている。そんなギャップから導き出される頭の中の答えは、自殺のオーラなのではないだろうか?
理由など分からない。彼が待ちあわせに来なかったというだけで、自殺にまで頭がリセットされてしまうというのも飛躍しすぎである。
だが、ミチルは自殺してしまった。まわりの人はいろいろな憶測を並び立てる。その日ミチルが誰かと待ちあわせをしていたというのは分かっても、相手が誰かというところまでは行きつかなかった。警察は自殺として、必要以上な調査は行わなかった。自殺のショックで、携帯電話も粉々に壊れていて、連絡をしていた履歴も分からない。
原因も分からない自殺として処理されてしまっては、中途半端な噂が飛び交うのは仕方のないことだ。ミチルはそれでもよかった。ただ、自分がどうしてこの世を彷徨っているのかが分からなかっただけだった。
もし、その日、秀之に会えていたら、結婚相手は自分だったかも知れないという思いがあったのかも知れない。
ミチルは秀之が絵を描いているのは知っていた。そして、絵の中に人物を描かないのも知っていた。そして、奥さんになった人だけをイメージして描いた絵が存在していることを、自殺した瞬間に悟ったのかも知れない。それが、壁に架かっていた絵を見た時に、すべてを悟ったのだとすると、衝動的に自殺したくなった理由も分からなくはない。
「衝動的な自殺ってあるのかな?」
捜査していた刑事の一人がボソッと呟いていたのだが、それほどミチルの死は、自殺としては、動機が曖昧だったのだろう。
しかし、ここまで来ると、ミチルは自分が自殺したことに疑いはなくなってきた。楓と話ができたのもよかったと思っている。
ミチルは自分が死んでしまったことで、彼が良心の呵責に押し潰されてしまったのではないかと思い、それが気になって成仏できない。それだけだと思っていたが、ミチルは彼が奥さんのことをどれだけ愛しているかということを、成仏できずに彷徨っている間に知ってしまった。
――知りたくもないことのはずなのに――
奥さんは、顔には出さないが、自分の夫が何かに怯えているのは感じていたようだ。
ただ、それは大きな勘違いだった。
奥さんは、楓に話したように、夢の中で自分の知らない女性に、彼が微笑みかけ、癒されているのを見てしまった。それは、幽霊になったミチルの仕業で、奥さんの知らない女性というのは、ミチルのことだろう。そのことが妻である自分にバレるのが怖くて、旦那が怯えているのではないかと思っていた。
――ミチルは夢の世界に入ることは、ミチルにはできないのではなかったか?
と、ふと感じたが、ミチルは奥さんに恨みを持っているのであろうか? 持っているとすれば恨みではなく嫉妬である。もし、ミチルが夢の中に入りこめることができるのが、恨みのある人だけではなく、嫉妬を感じる相手もであるということになると、入りこめる幅は、単純に倍というわけではなく、もっともっと広がって、かなりの広い幅を制しているように思えてくる。それだけ人間の中に嫉妬心というのは渦巻いていて、たとえ関係のない人であっても、嫉妬は生まれてくる。そう思えば、夢の中に入りこめる相手は、ほとんどの人間だと思ってもいいのではないかと思えてきた。
ただ、入りこむことはできても、夢の中を操作できるものなのだろうか? 元々が夢を見ている人の潜在意識が生み出すもの。もし、操作するのであれば、潜在意識に入り込む以外にはないのではないだろうか。
――そんなことはない――
夢というものが潜在意識によるものだということを否定はしないが、
――夢を見ることで、人は自分の頭の中をリセットしようとしているのではないか?
と考えるようになった。
そうなると、夢は誰にでも見れるものだが、それなら、誰もが自分の頭の中をリセットできる力を持っているということになる。
しかし、目が覚めてしまうと、夢を見ていたことを忘れてしまっている。
いろいろな科学者が、夢のメカニズムについて研究しているのだろうが、人によって見る夢も違えば、いい夢ばかりを見ている人もいれば、中には悪夢ばかりを見ている人もいる。目が覚めてから覚えているのは、
「見た夢がいい夢の時は、ほとんどいい夢を見たということしか覚えていないけど、見た夢が悪夢の時は、意外とその内容まで覚えていることが多い」
そんな話を聞いたこともあった。
ミチルはいろいろ考えているうちに、秀之がミチルを忘れられなくなったのは、奥さんへの思いも残っていて、それがミチルに対しての良心の呵責と重なって、一つになってしまっていたのかも知れないと感じた。秀之は旦那の奥さんを描いたという絵を見てしまったのかも知れない。その絵の中に奥さんがいることで自分には、それ以上近づくことのできない結界が存在しているように思え、約束に間に合わなかったことと、結界の存在とがジレンマとなって、秀之の中に大きな後悔の念を植え付けてしまったのだろう。
秀之の後悔、それがそのままミチルを成仏させてくれないことに繋がるなど、ミチルにしてみれば、いい迷惑だったのだ。
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