第2話 リセット
楓が引っ越してきてから二週間が経とうとしていた。楓が幽霊と出会ってからかなり経つが、あれからそれほど進展しているわけではなかった。マンション住まいともなると、隣人がどんな生活をしているかなど、誰も関心を持っているわけではない。
「隣は何をする人ぞ」
下手に関心を持つことはプライバシーの侵害を及ぼすことになる。楓もそんなことは百も承知だったが、他の人はもっとその思いが強いのだろう。特に家族で住んでいる人は、他人などに構っている暇もない。夫婦共稼ぎなどの家も多く、同じ夫婦間でも会話のない家庭も少なくはないと聞く。最初に一人暮らしを始めた時は、
――やっと家から出ることができる。自分は自由だ――
と思っていたこともあって新鮮で嬉しかったが、ずっと一人でいると時々気が滅入ってしまうことがある。それを鬱状態というのだろうが、楓はその思いも最近では慣れに変わってきていた。
子供の頃、苛められていた楓は、まわりから何かにつけて干渉を受けるのは嫌だった。それが親であればなおさらで、
――大人になってまで、余計な干渉しないでほしいわ――
と感じていた。
親からすれば、
「また苛めに遭ったりすると大変でしょう?」
というに違いない。
自分が苛めに遭っていたことは、最初親には黙っていた。苛めが露見したのは学校で、担任の先生は親も知っているものだと思い、親に相談したのだ。
先生は、親が知らなかったことを意外に思ったようだ。
その時の正確な会話を知らないが、何となく見当はつく。
「お母さんは、娘さんが苛めを受けていたことをご存じなかったんですか?」
「ええ、まったく知りませんでした。あの娘は何も言わないもので……」
とでも親は言ったのだろう。
「それは少し家庭でもいろいろ考えていただきたいことですね」
先生の冷めた表情が目に浮かぶ。ひょっとすると、見下したような目をしているのではないだろうか。
「どういうことですか?」
「ご家庭の環境にも問題があるのではないかと思いまして。あまりお子さんとお話をしているわけではないんですね?」
今度は、母親が、
――心外だわ――
と思ったのではないだろうか、
「ええ、学校に行っている間のことは、こちらでは分かりかねますので」
ここまで来ると、売り言葉に買い言葉。お互いに責任のなすりつけ合いになる。
学校側とすれば、担任の先生に家に行かせて、家庭と一緒に問題を解決してほしいという考えがあったのだろうが、担任からすれば、
――いい迷惑だ。どうして担任というだけで、自分がこんな思いをしなければいけないんだ――
と思っていたことだろう。しょせん先生と言っても公務員。しかも、生徒が一人だけならまだしも、先生一人で何十人という生徒を見なければいけないのだ。一人にばかり構っていると、その時に発生しているかも知れない問題や、問題が起こるであろう火種に気付かないこともあるだろう。
そこまでの考えを、どこまで親が分かっていたのかと思うが、少なくとも、学校の方から、
――責任転嫁を押し付けられた――
と感じたに違いない。
学校側からすれば、生徒とはいえ、個人的なことは家庭の問題だと思っている。しかし、家庭の方では、学校に行っている間のことは学校の責任だと思っていただろう。どちらも間違いではないのだろうが、それが少しでも重なったところで推移すればいいのだろうが、重なるところは皆無である。
実に近いところをニアミスしているように思えるが、
――決して交わることのない平行線――
であることには変わりない。近くにあって、見えるだけの距離にいるだけに、、この溝を埋めることは永遠にできないだろう。そのことが、結果的に相手への、
――責任転嫁――
にしか繋がらないのだ。
楓は、子供の頃にその思いをしたので、
――自分のために、まわりが気を揉んでくれている――
という思いもあったが、
――お互いに醜い争いをしているのが分かるけど、自分が原因だというのは、ただ私をダシにして、言い争っているだけにしか見えないわ――
確かにまわりに迷惑はかけているが、だからといって、ここまでいがみ合わなくてもいいだろう。そう思うと、自己嫌悪に陥ってしまいそうになり、こんな思いをさせたのは、まわりのせいだと思わざるおえない。
楓は、そんな思いを子供の頃からずっと感じてきた。だから余計に、
――まわりとは関わりたくない――
という思いを強く持ち、一人暮らしを念願としていた。
しかも、小学生時代のことを親からすれば、
「あなたがしっかりしていないからよ」
と、先生との確執を完全に楓のせいにして、楓のことをずっと見下してきたのだ。
学校の先生には、
「大きなお世話」
とばかりに、喧嘩腰だったくせに、楓に対しても、庇う気持ちなどサラサラなかった。
先生に対して確執を持ったのは、学校側からすれば、楓の家族は学校と「国交断絶」でもしたかのように思っているだろう。
――完全に殻に閉じこもった――
という発想であろう。それなら楓を庇ってくれるのが本当であろうに、そうではなく、楓をまるで、
――危険人物扱い――
していたのだ。
楓が家庭も学校も信じられなくなるのも無理のないことだった。
そんな楓の心をそれ以上卑屈にさせなかったのは、短大時代の経験があったからであろう。
短大時代は楽しいことばかりだった。
――こんな楽しいことがあったなんて――
と感じたが、慣れてくると、今度は自由が寂しさに変わった時期があったのを、自覚していた。
寂しさはすぐになくなったが、心の奥に何らかの影を残したような気がしていた。
その理由は、
――自由というものに対しての穿き違え――
だった。
自由というものは、自分の考え通り何をやってもいいというものだと思っていた。しかし、道理をわきまえる必要もあるし、
――他人あっての自分――
という発想がなければ、自由に振る舞うことは、手前勝手な行動でしかなくなるのだった。
そんな時代も経験したが、母親から離れて一人になると、時々寂しさを感じることもあった。実際に一人になると、張り合いがないというイメージがあり、何と言っても、冬の寒い時期に部屋を開けて、真っ暗な中から、足元に冷たい空気が漂っているのを感じると、寂しさを隠しきれない自分を感じる。
表の寒さには慣れていたはずなのに、部屋の中からの空気にさえ冷たさを感じるのだから、かなりの冷たさだったに違いない。どれほど今まで暖かさというものを感じていたということなのか、身に沁みたような気がした。
それから、部屋にいる時の自分は、次第に孤独に慣れていく。孤独というものが自分の求めていた自由とは違うのだということに気が付いた時、後悔はあったが、
――最後は人間、自分一人なんだ――
という妙な納得を感じるようになり、いつの間にか、孤独も嫌ではなくなっていた。
――元々人と戯れるのが嫌な性格だったのかも知れない――
自由を謳歌できる環境でなければ、人と戯れることができない自分を自覚していた。それだけ自分は個性が強く、人に入りこまれたくない自分なりの聖域を持っていて、その範囲が比較的広いことを感じていた。
――一人の時間をいかに自由に過ごすか――
ということが、今後の自分の課題なのだろうと思うのだった。
そのおかげで、近所づきあいも適当になり、通路で挨拶を交わすのも、相手が挨拶をしてくれた時だけになっていた。それでも、引っ越してきた当初は、少しでも近所の人と知り合いたいという気持ちもあったが、結局誰も考えていることは同じで、まわりのことを気にしている人などいないのが分かってきた。
――それならそれで、こっちもやりやすい――
と、今後の態度はその時に決まったのだった。
楓の部屋の隣に住む山崎夫婦。最初に顔を合わせたきり、まったく出会うことはなくなった。
山崎夫婦に限ったことではなく、他の人と会うことはほとんど稀で、
――他の部屋に誰も住んでいないんじゃないかしら?
と思えるほど静かだった。
騒音がないのはありがたいことなのだが、こうも誰とも会わないのも気持ち悪い。少なくとも前に住んでいたマンションではもう少し誰かと出くわすことが多かった。それなのに、どうしたことなのか、皆行動を起こす時間が微妙に違うということなのだろうか。
その思いは、山崎夫婦も引っ越して来た時に、まったく同じことを考えていたようだ。
「あなた、このマンション、何となく気持ち悪いわ」
「どういうことだい?」
「このマンションに住んでいる人の姿をほとんど見かけることがないの。前に住んでいたお部屋では、そんなこともなく、朝などは、結構誰かと会ったりしていたものなの。少なくともゴミの日などは、ごみ収集場で会うことがあった。気まずさもあったけど、誰かの顔を見ると、どこか安心もできたんだけど、このマンションにはそんなことがないの、何となく気持ち悪い気がするわ」
「うん、確かにそれは気持ち悪い気がするね。でも、マンション住まいといっても、集合住宅というだけで、共同生活をしているわけではないんだから、あまり気にすることはないと思うよ。それもそのうちに慣れてくるんじゃないかな?」
「そうだといいんだけど」
と、奥さんは答えたが、内心では、
――そういう問題じゃないんだけどな――
と、夫に言いたかったが、それ以上言っても、期待しているような回答が返ってくる気がしなかったので、それ以上話題にすることはなかった。
確かに、夫のいう通り、引っ越してきてから、一月ほどは気になっていたが、急に気にならなくなった。そこに何かのきっかけがあったのではないかという思いがあったが、目に見えるものではなかったので、簡単にスル―していた。
それからの奥さんは、一人でいる時間は自由だと思うようになっていた。元々、独身時代に感じていた気持ちが新婚とはいえ、一か月で戻ってきたのだ。もちろん、夫と一緒にいる時は、夫との新婚生活を楽しんでいたが、一人の時は一人で、楽しみ方を思い出した時から、
――同じ部屋の中に、もう一人の自分が存在しているみたいだわ――
と感じるようになっていた。
奥さんは決して二重人格ではない。感情が環境によって変わるというだけで、きっと性格は一つなのだろう。
奥さんにとって、この部屋は新婚生活を営む部屋として新鮮なものだった。夜の生活にも満足していたし、夫は十分に愛してくれている。
しかし、どこか物足りないものがあった。寂しいはずなどないのに。どこか寂しさを感じていたのだ。
奥さんは、結婚することが決まってから、会社を辞めた。結婚してこのマンションに引っ越してくる半年前から、仕事をしていない。元々仕事には満足していて、仕事をしている自分が眩しく見えるくらい、楽しかったのだ。
それでも結婚を機に、仕事を辞めることになったのは、奥さんにとっての大きな節目だった。
――そろそろ新しいことをするのもいいかも知れない――
仕事が楽しいと思っている人間にとって、専業主婦は結構退屈なものだという話をよく聞かされていた。しかし、主婦という仕事もそれなりに忙しいという話も同時に聞いている。
――どちらが楽しいのだろう?
という思いを抱いたら、その二つはまったく違うものとしてしか判断できなくなってしまう。奥さんは、
――主婦の仕事も、会社でやっていた仕事も、どちらも同じ仕事なんだわ――
と思うようにしていた。この二つを分けて考えるから、面白くないのだ。奥さんの考えは的を得ていた。実際に主婦業を勉強してみると、それなりに楽しい。特に今まであまり興味を持っていなかった料理だったが、実際に本を読んでいろいろ勉強してみると、奥が深く見えてきて、結構楽しい。会社を辞めてから主婦業を勉強していく中で興味を持った料理だったので、これを機会にお料理教室にも通い始めたほどだった。
最初は、期間限定でもいいと思って、結婚するまで料理教室に通おうと思っていたので、結婚してからすぐに辞めてしまった。半年間だけであったが、結構充実した時間だった。今までに感じたことのなかった楽しい時間だったことは間違いない。
新婚生活に入り、主婦業を始めると、
――なるほど、確かにやることはいろいろあって、自分の時間が意外と少ないくらいだわ――
と感じていた。
もちろん、充実はしていたが、充実しながらも近所づきあいは大切にしていこうという思いも持っていた。
最初の頃は、マンションの他の住民とも出会うこともあって、挨拶を交わしていたが、途中からピタリと他の住人に会わなくなった。
会わなくなって最初はあまり気にならなかったのは、主婦業で忙しかったからだが、主婦業にも慣れてくると、誰とも出会わないことに疑問を感じるようになっていた。
それまで感じることのなかった違和感を感じたからだったが、その違和感がどこから来るのか、すぐには分からなかった。
違和感というのは、漠然としたものであって、それがハッキリしてくるとすでに違和感ではなくなってくる。しかし、その時の奥さんは、理由が分かってきたにも関わらず、相変わらずの違和感を感じていた。そこには、ゾクッとしたものがあり、冷たさを感じたからだった。
奥さんが、感じた違和感の一つとして、引っ越してきてから半年ほど経った秋の頃だった。
あれは、それまで暑かったと思っていた日々だったのに、急に秋めいてきて、さらに寒さを一気に感じるようになった時のことだった。
部屋の扉を開けて、中に入ろうとした時、感じた足元からの冷たい風に、奥さんはゾクッとしたものを感じた。それまで霊感の類を感じることはなかったはずなのに、その時に限って、
――何か幽霊でもいるんじゃないかしら?
と感じたのだ。しかし、すぐに、
――そんなことはないわ――
と自分の考えを打ち消した。
同じような考えを、まさかその後に引っ越してきた隣の住人である楓が感じていようなどと、当然思いもよらなかった。もちろん、楓の方も、まったく同じ思いを奥さんがしているなど、その様子から、想像もできなかった。まったく違うイメージを持っている二人には、最初から共通点のようなものがあったのだ。
ただ、楓には自分と同じような思いを感じている人は自分だけではないことは分かっていた。他にもいるのは分かっていたが、まさか隣の奥さんのように、天真爛漫に見える女性が同じような感覚に陥っていたなど、想像できるはずもなかったのだ。
そういう意味では、
――人は見かけによらない――
ということなのだろうが、そのことは分かっているつもりでも、そう無限に可能性を考えられるわけではない。
――同じような性格の人が、意外と自分の近くに集まってくる――
という発想もまんざらではない。このことは、短大時代に何度か感じたことで、今でも楓の中で意識としては残っていることだった。
――幽霊にも言えるのかしら?
ミチルに対して、彼女の身になって考えてみようと思うようになっていたが、本当にできるかどうか、少し疑問ではあった。さすがに相手が幽霊では、話しからでしか想像ができないからだ。
奥さんは、他の人となかなか出会わないことを少しの間気にしていたが、しばらくすると他の人と出会うようになり、そんなことを考えていたことすら忘れてしまっていた。幽霊がいるかも知れないということも忘れてしまっていて、忘れてしまった時から、奥さんの頭の中はリセットされていたようで、また、結婚した当初の頃を思い出していた。楽天的な性格だと言えばそれまでなのだが、細かいことが気になると、なかなか抜けないものだ。それを神経質な性格だと思い、自分でも嫌なところだった。人から指摘されるのも嫌だったが、いつも何とか最後は帳尻を合わせられる性格が功を奏してか、あまりまわりから指摘されることはなかった。
そのあたりは楓に似ていた。奥さんが、どこか神経質に見えたが、楽天的な性格もすぐに分かった。どちらかというと、奥さんに対しての目は本人の思惑とは逆で、神経質に見られがちだったため、楽天的な性格は隠れていた。それなのに、すぐに楽天的な性格に気が付いたのは、二人の間に共通点が多いところだったからかも知れない。
楓が仕事から帰ってきたある日、隣の奥さんと玄関先でバッタリと出くわした。
「今お帰りですか?」
と訊ねられ、
「ええ、今日は半休だったもので」
楓も久しぶりに同じマンションに住む人に出会えたことは安心できることだった。
「おいしいコーヒーをいただいたので、少しだけいかがですか?」
ニッコリと微笑んで、奥さんが誘ってくれた。
ミチルのこともあって、ほとんどまわりのことが見えていなかった楓だけに、久しぶりに他の人とコーヒーを呑むというのもいいような気がした。ミチルのことは最初こそ、
――自分が何とかしてあげないといけない――
と思っていたが、最後はミチルでないとどうにもならないことであった。まずはミチルが自分のできるところがどこまでなのかを見極めることが大切だと思い、必要以上にミチルに干渉しないようにした。ただ、それでも精神的なところでは相談に乗ってあげるのもいいと思い、話を続けているが、一つの意見としてミチルが受け止めてくれているかどうかが疑問だった。深く考えすぎても堂々巡りを繰り返すだけであろうし、ミチルが自分とは違う人間であるという意識を持っていなければ、楓もまともに意見もできないだろう。
それはミチルにも言えること、楓が自分と同じ考えを持っていたとしても、まったく同じではないという当たり前のことをどこまで感じているかが問題になってくるに違いないだろう。
初めて入った新婚夫婦の部屋は、意外と普通だと思った。もう少し生活の匂いがするものかと思ったが、
――あなり自分と変わりないな――
という思いを抱いたことで、ほとんど変わりないと思いこんでしまった。
だが、本当はかなりのとこrで違っていた。一人暮らしであれば、最初から散らかることはあまりない。特に自炊をしているわけではない楓は、炊事場が片付いているのは、
――毎日奥さんが片づけているからだ――
ということを意識していなかったからだ。
――散らかさないから片付いているのと、片づけるから散らかっていないのとの違いである――
ということなのである。
結果が同じでも、プロセスが違えば、当然最初から違っていることは分かるというものだが、楓は意外とそのことは意識していた。それなのに、初めて入った隣の部屋を見た時、そのことに気付かなかったのは、それだけ人の部屋に入るのが物珍しく、柄にもなく緊張していたからなのかも知れない。
――それとも、もっと違った印象を深く持っていたからなのかな?
と思ったが、それが一種の妄想だということで、妄想というものを抱いてしまった自分が恥かしくも感じられた。
男性とほとんど付き合ったことのない楓にとって、新婚家庭というのは、かなり敷居の高いものだったのは間違いないことであった。それだけ自分がまだまだ世間知らずであることを思い知らされたが、
――待てよ。だからこそ、ミチルちゃんは、私のところに現れたんじゃないかしら?
とも感じた。
下手に世間を知っている人のところでは、何を言っても説教されるとでも思ったのか、それとも、最初から自分の存在を信じてもらえないと思ったのか、どちらにしても、世間知らずなところがある楓だから、彼女は現れたのだと思うと、複雑な心境になってきたのだった。
結論から言うと、その考えは、
――当たらずとも遠からじ――
だった。
ミチルに直接訊ねてみたわけではないが、どこか遠慮深いところがあるミチルは、自殺した時の記憶がないまでも、自殺したということを自分なりに受け止めようとして、そのことが、却って後ろめたさを生み、ミチルに対してであっても、遠慮深いところがあるように感じられた。
それを悟られまいとしてなのか、喋り方はどこかそっけなさを感じさせるが、分かってくると、いじらしささえ感じられ、親近感が湧いてくる楓だった。楓のことを思い出していると思わず表情が崩れていたのか、
「何か、楽しいことでもあったの?」
と奥さんから声を掛けられた。
「あ、いえ、そういうわけではないんですよ。ちょっと、思い出していただけです」
「何を思い出していたの?」
「言っても信じてもらえないかも知れませんが、私、幽霊と会ったことがあるんですよ」
どうして、奥さんにその話をしてみようと思ったのか自分でも分からない。
――どうせ信じてもらえないんだし、含み笑いをしていたことの言い訳が他に思いつきもしなかったので、それなら、本当のことを話してみよう――
と思ったのだ。
彼氏もいないのに、彼氏のことを思い出していると思われる方がよほど癪だった。だから幽霊のことを話そうと思ったのだが、そのことが思っていたよりも波紋を巻き起こすことになろうとは、その時の楓には想像もつかなかった。
自分のことを過大判断されることを、誰よりも嫌っているのだということを自覚している楓だったが、その思いが今まではあまりいい方に作用してきたわけではない。今回も同じように、彼氏がいないことを、まるでいることのように感じられるのが嫌な場合、なるべくその話題全体から離れてしまうことを願っている。そういう意味では、新婚夫婦に関わるのはあまりいいことではないと思っているのに、簡単に誘いに乗ったのは、奥さんを見ていると、他人のように感じられないところがあったからに違いない。
奥さんは、人から誤解されることを極端に嫌った。しかも、楓と同じように、過大判断に繋がるようなことに対しては敏感だった。後ろめたさすら感じるほどに人から言われるお世辞には敏感に反応してしまうところがあった。それが逆に人から誤解を受ける原因になっているというのも、皮肉なことだった。奥さんは、そのことまでは分かっていなかった。
「そうなんですね。なかなか信じられるお話ではないけれど……」
と、急に神妙な雰囲気になった奥さんに対して、
――おや?
と楓は感じた。まるで分かっていたことを、隠そうとしているように見えたからだ。人によっては、隠そうとすればするほど目立つもので、普段から天真爛漫に見える奥さんが神妙な態度に出ると、そこに違和感を感じるのも無理のないことだろう。
もし、自分にも幽霊が見えたとすれば、つまりは、奥さんの立場に立って考えてみればどうだろう?
以前に、自分は幽霊の存在というものに気付いていた。しかし、その時は、
――そんなことは信じられない――
と思うことで、自分の勘を否定した。
その理由として一番考えられるのは、
――怖いから――
ということであろう。
怖いからこそ、信じられない。だから否定もしたし、自分の勘を捻じ曲げてでも考えないようにした。
しばらくは気になったかも知れないが、本当に現れることはなければ、自然と忘れていく。
ミチルの性格から考えると、自分のことを信じてもらえそうにない人の前には決して現れないような気がした。だから、奥さんは、自然と自分が感じた幽霊のことも忘れていったに違いない。
それなのに、まるで話を蒸し返すように楓からいきなり話があった。それも自分が呼び止めたことで話をすることになった相手からである。
ここで分かることは、奥さんは楓とは性格的に決定的な違いがあるということである。もし楓の考えが当たっているとして、奥さんが臆病だから幽霊のことを信じないのだとすれば、楓が考える性格の人であれば、楓が話をした時、
「私も見たことがあるの」
と答えるだろう。
今まで一人で悶々として抱え込んできたことを、目の前にいる人が簡単に話をした。――悶々と話を抱え込んできたことで、前に進めなかった自分を相手が進めてくれるかも知れない――
そう思うと、楓であれば、前に進みたい一心で、話を合わせようとするに違いないからだった。
――奥さんは、私が思っているよりも、ずっと臆病なのかしら?
と、最初は思ったが、
逆に奥さんが、
――本当はミチルと会話をしたことがあるのではないか?
と感じると、少し話が変わってくるような気がした。
そう思うと、今度はミチルのことが疑わしくなってきた。
今まで誰にも話しをしたことがないようなことを言っていたが、奥さんにも話しているのだとすれば、これは楓に対しての裏切り行為ではないだろうか?
楓は最近、ミチルが現れないことも少し気にしていた。
――私ではダメだと思って見切りをつけたのだろうか?
と感じたからだ。
もし、自分に見切りをさっさとつけてしまったのだとすれば、また新しい人を見つけて、自分を取り戻そうとしているのかも知れない。さっきは裏切り行為だと思ったが、元々、何かを約束したわけでもなく、勝手に、楓の方が気になっていただけのことだった。熱くなっているのは楓の方で、ミチルの中ではとっくに楓に対して冷めていたのかも知れない。
それにしても寂しい話だ。ミチルが、楓の前に出るのと、奥さんの前に出るのとどちらが早かったにせよ、もし、本当に奥さんの前に現れて、話をしたのだとすれば、一人、幽霊と話をしたことがあるなどと思って、
――自分は他の人と違うんだ――
と感じていたとすれば、何とも恥かしいことだった。ミチルのことを口にしたのは余計なことだった。
だが、これはあくまでも楓の勝手な発想だった。奥さんの態度から、
――幽霊を見たことがあるんじゃないか?
と思っただけで、もし、幽霊を見たとしても、それがミチルであるというわけでもないだろう。
確かに、化けて出ることができる幽霊がそんなにたくさんいるというよりも、ミチル一人が何人かの前に現れたと思う方が、遥かに可能性としてはありえることだった。元々、幽霊の存在自体が、
――ありえないこと――
なのだから、ミチルの存在を見てしまった時点で、楓の発想はすでに常軌を逸していると言っても過言ではない。
――奥さんは、幽霊の存在に関わらず、何か他の人に知られては困る何か秘密を持っているのかも知れない――
と勝手に思いこんだ。だからこそ、楓に話を合わせることを戸惑ったのかも知れない。では、
――それだったらなぜ奥さんは、楓と話をしようと思ったのだろう?
と感じた。一人になりたくなかったという思いもあり、自分が抱えている何か同じものを楓の中に感じたのかも知れない。
その時、楓はハッと感じた。
――私って、こんなに疑り深かったのかしら?
どちらかというと、人の話を真に受けてしまうようなバカ正直なところがある楓だった。なぜ自分がバカ正直なのかということも、自分では分かっているつもりだった。
――いつも、まわりの人は自分よりも上なんだって思っているからだわ――
時々、自分が一番だと虚勢を張ってしまうことがあることで、なかなか気付いていても自分の中で認めたくない性格、それが、自分がまわりの人より劣っているという思いだった。
そんな思いをするようになったのは、やはり子供の頃に苛められていたという思いが強かったからなのかも知れない。自分がどうあがいても、超えることのできない壁のようなものがあって、その壁のために、たまに虚勢を張ってみたり、人と話をしている時には、相手の話を鵜呑みにしてしまう自分がいる。
壁を作っているのは自分本人なのに、それをまわりのせいにして、逃げている自分を感じた時だけ、まわりに対して虚勢を張ってしまう。自分が非を認めたということを、まわりの人に知られたくないからだった。
――壁って一体何なのだろう?
自分とまわりの人の間に壁があるのは分かっているが、時々、自分の中にも壁を感じることがある。そんな時ふと、
――自分の影が存在していないかも知れない――
光がなければ、影は存在しない。つまり、影を存在させないために、光を遮断する壁を自分自身が作ってしまっているという考えだった。その壁が自分に及ぼす影響は、鬱状態への直行便だった。影が存在していないことを感じた時、楓は自分が何をやっても、何を考えても、うまく行くはずなどないと思い始める。
人と話をするのが嫌になり、まわりの人が小さな世界で踊らされているように思えてくるのだが、自分はそんなまわりの人から比べても、さらに小さな世界の中で蠢いているのを実感すると、考えることをやめてしまおうと思うのだった。
普段の楓は、何も考えていないように見える時ほど、何かを考えている。頭が考えのスピードについてこれないことで、感覚がマヒしてしまい、まわりからは、ボーっとしているようにしか見えないだろう。楓は自分の世界に入りこみ、抜けられない自分を感じていた。
鬱状態になると、自分の世界に入りこんで抜けられない自分を感じてはいるが、頭の中が高速回転で思考しているわけではない。漠然と流される中で、思いつくことは悪い方にしか向いていない。そんな状態を自分では鬱状態だと思っていた。
――鬱状態に陥る人は、多少の誤差はあるだろうが、皆同じような状態にいるのかも知れない――
と楓は感じた。
それを感じることができるのは鬱状態の時だけで、鬱状態の時に何も考えていないわけではなく、鬱状態から抜けると、忘れてしまっているから、何も考えていないように思うのだ。
――まるで夢の中のようだ――
何度も鬱状態に陥っていると、さすがに頭の中が整理されてきて、鬱状態と夢の中の状態とが似ているような気がしてくることを感じるようになってくる。
楓は、鬱状態に陥っている友達を何度も見たことがあったが、その心の奥まで覗くことはできなかった。きっとまわりの人も楓が鬱状態に陥っていることを察したとしても、その心の奥まで覗くことは困難であるに違いない。
「鬱状態に陥った時、まわりの誰とも話をしたくなくなるのって、誰も同じことなのかしらね」
と、友達から聞かれたが、楓も同じ疑問を抱きながら、人に聞いてみたことはなかった。
「そうね、私も同じようなものかしらね」
それ以上は言わなかったが、本人はぼかしたつもりだった。しかし、相手にはどのように伝わったのか疑問である。不思議そうに怪訝な表情をしたかと思うと、すぐに満足げな表情になったが、どっちが本心なのか分からない。楓も鬱状態の時に人を観察していると、きっと怪訝な表情を浮かべていることだろう。その表情を見て、まわりの人から、
――この人は鬱状態に陥っているんだわ――
と思われているに違いない。そんな時は、表情だけではなく行動に関しても、挙動不審になっているに違いない。
奥さんに対して疑り深く感じていたのは、自分も考えていることがおかしいということを自覚させないようにしていたからなのかも知れない。
――ミチルは人に乗り移って、自分の思っているように行動させることができるんだ――
と、感じたが、それにしては乗り移った相手に悟られるというのは、若干、彼女に備わっている力というのも、微妙な感じがしてきた。
――いや、意外と幽霊が持っている力というのも、案外そんな程度のものなのかも知れない――
と感じた。
自分たちが想像を膨らませ、できることできないことを勝手に想像することは、一種の妄想と言ってもいいだろう。幽霊に乗り移られたことがある人は楓以外にもいるのだろうが、そのことを他の人に話すことは誰もしていない。
――呪い殺されては困る――
と思っているからだろう。
昔話などで、
「誰かに話してはいけません」
あるいは、
「決して見てはいけません」
などと言われて、言いつけに背いたためにその人の末路が悲惨なのは、周知のことだ。昔話というのは、
「いけません」
と言われたことをしてしまったことで、悲惨な末路が待っているという戒めのためのものではないかと思えるほどである。そう思うと、幽霊を相手に迂闊な行動など、できるはずもない。
最近、ミチルが自分の前に現れないと思っていたが、ずっと楓自身の中に潜んでいたのか、それとも他の人の前に現れていたのか、はたまた、他の人の中に入りこんでいたのか、どれであっても、不思議はない気がしていた。神出鬼没なミチルには、今さら驚くこともなかったからだ。
楓はミチルが自分の中にいると思うと、奥さんに対しての見方も少し変わってきたような気がした。
というよりも、奥さんの方が楓を意識しているように思っていたが、ひょっとすると、楓自身を意識しているのではなく、その中にいるミチルを意識して見ているからなのかも知れない。
「楓さんを見ていると、昔のお友達を思い出すんですよ」
と、奥さんはボソッと呟いた。
「お友達……、ですか?」
「ええ、私がまだ高校の頃のことなんですけど、いつも一人でいて、寂しそうにしていた女の子なんですけど、でも、なぜか目立っていたんですよ。いつも見られているような気がして、時々怖いくらいでした。でも、きっかけというのはあるものなんですね。一度話す機会があれば、結構意気投合して、それから結構一緒に過ごす時間があったりしたんです」
「その人今は?」
恐る恐る聞いてみた。楓の胸騒ぎは頂点に達していた。
「死んだんですよ」
的中してみると、急に胸の高鳴りが収まってくるのを感じた。
――そうだ、私の中にはミチルちゃんがいるかも知れないんだった――
忘れていたわけではないが、少なくとも胸騒ぎが頂点に達した時、楓の頭の中は一度リセットされたようだ。
「どうして死んだんですか?」
もう楓の頭の中はミチルに支配されているかのようで、自分が考える前に、すでに口にしていた。幽霊になると、頭の回転が早くなるのか、それとも、先を見通す力が鋭くなるのか、自分の中にいるミチルには、大きな力が働いているようだ。
――あなたが助けてくれているからよ――
心の声が聞こえた気がした。
ミチルには肉体がない。楓の中に入ることで、魂だけの自分だったが、入りこんだ人の力を借りることで、人間としては考えられないような力を発揮できるのかも知れない。そう思うと、楓の口から出てくる言葉は、時間差で自分もその考えに至っていたということになる。同じ考えを持つことのできる人間でないと、たとえ幽霊であっても、乗り移ることはできないのだろう。
「どうして死んだのかということは、私には分からないわ。でも、そのせいか、いろいろな噂が立ったのは確かなの。私はそんな噂に惑わされたくないという思いから、彼女が死んだということを、自分の中で消し去ってしまおうと思ったの。でも、できるわけもないので、今度は彼女と友達だったということを頭の中から消し去らないといけないような気がしたの」
「友達だったことを消し去る方が簡単だって思ったの?」
「そういうわけではないと思うんだけど、そうしないと、先に進めない気がしたの。どうしても、彼女に対してこだわってしまうようでね」
「でも、こだわりは消えなかったんでしょう?」
「そうですね。確かに時間が経つにつれて、薄れていく感覚はあったんだけど、最後まで消えてしまうことはないような気がしていたの」
奥さんの中で、
――他の人に知られては困る――
と思っていることがあるように思っていたが、
「私、どうしてなのか、楓さんと一緒だと、言いにくいことも言えてしまうような気がするの」
今までなら、自分のことを信じてもらえているようで嬉しい限りなのだが、今日ばかりは、そうとばかり言っていられない。自分の中にミチルがいるのではないかと思っていることがどうしても、楓の中で消化できない部分だった。
「そこまでして、その人のことを意識から消さなければいけない理由が、奥さんにはあったということですね?」
「ええ、笑われるかも知れませんが、彼女が亡くなってしばらくしてから、彼女の夢を連続で見たりしたんです。何かを言いたげだったんですが、彼女は何も私には言おうとしない」
「どうしてだったんでしょうね?」
「夢の中のことだったので、何とも言えないんですが、でも、夢の中だからこそ、何も言わなかったんじゃないかって思っていたんですよ」
「それはどういうことですか?」
「夢というのは、潜在意識が見せるものだって聞いたことがあります。つまり、彼女のことを気にしている私が、彼女の夢を見た。でも、彼女のことを気にはしているけど、何をどう気にしているのか、自分でも分かっていない。だから、彼女は無口だった。それだけ夢というのは、主観的なものではないかって思ったんですね」
「夢に対してですが、私の考えは少し違っているんです」
「どういうことですか?」
「夢というのは、決して主観的なものではないと思っているんですよ。夢の中には自分がいる。でも、その自分はあくまでも夢の中の主人公としての自分であって、夢を見ている自分ではない。つまり、主観的に夢を見ているわけではないという感覚ですね」
「それは私も感じたことがあります。だからだと思うんですけど、私にとって今まで覚えている中で、怖い夢の中の一つに、もう一人の自分が出てくるというのがありました。もう一人の自分の存在は夢を見ている自分にしか最初は分からない。でも、夢から覚める寸前に、夢の中の主人公である自分が気付いてしまった。あまりの恐怖に私の夢はそこから記憶がないんですよ。きっと、そのまま目が覚めてしまったのかも知れませんね」
「もう一人の自分が夢の中に出てきたことは私にはないので、話を聞いただけで怖いと思いました。でも、それは記憶にないだけで、本当は見たことがある夢だったのかも知れません」
楓がそこまで話すと、会話は少しそのまま滞ってしまった。しかし、すぐに思い出したかのように口を開いたのは奥さんだった。それは、何かを話したいというよりも、凍ってしまったその場の雰囲気を何とか解かそうという思いがあったからなのかも知れない。
「でも、彼女は確かに無口だったんですけど、今から思えば何かを言いたいと思ったのも、私の思い過ごしだったのかも知れません。逆に最初に、何かを言いたいんだって思ったことが、私の中でトラウマを産んでしまい、しばらく彼女の夢を見ることになったのかも知れないと思うんですよ」
「奥さんは、今までに同じ夢を連続して見たことってあったんですか?」
「私の記憶の中では、その時だけだったですね。楓さんはいかがなんですか?」
「私も、同じ夢を続けて見たという記憶はないですね。もっとも、見た夢を覚えているということの方が稀だったので、本当は見ていたのかも知れません」
「でも、もし見ているとすれば、かなりインパクトの強いものだって思うので、忘れてしまっているというのは、いかがなものかと思います。忘れているとすれば、それは本人が故意に忘れようと思っているのかも知れないと思うんですよ」
奥さんは、自分に言い聞かせるように話を続けた。楓はそんな奥さんを見ていて、
――立場が逆だったら、どうなんだろう?
と感じていた。
まるで自分が奥さんを追いつめているように感じたからだ。
「私ね。時々、自分の夫が他の女性と一緒にいる夢を見ることがあるの」
奥さんが何かに不安を感じているとは思っていたが、まさかそんないきなり核心をつくような話になろうとは思わなかった。
楓は何と答えていいのか分からずに黙っていると、
「まだ、独身のあなたには、この不安は分からないかも知れないわ」
確かに独身だし、彼氏に疑いを掛けて嫉妬するほど好きになった男性がいるわけでもなかった。
今までなら、そう言われても別に気にすることはなかったはずなのに、胸の奥から、何かこみ上げてくるものを感じた。
――やっぱり、私の中にミチルちゃんがいて、会話に反応しているのかしら?
と思うようになっていた。
ミチルは、決して表に出てこようとはしなかった。ただ、一つ気になるのは、自分の中にミチルがいないという意識を持っている時、ふいに奥さんを見ていると、まるで別人に思えてくることがあった。
――子供っぽいところがある――
と感じるところだったが、確かに、奥さんは幼さが雰囲気から滲み出ているところはあったが、会話していると、思っていたよりも大人の雰囲気を漂わせ、
――このギャップが男性を惹きつける魅力なのかしら?
と感じさせた。
楓は、自分なら絶対に好きになるタイプではないと感じていたが、それは自分が女性の目としてしか見ていないからそう思うのであって、男性の目で見るとどうなのか、疑問に感じるところだった。
子供っぽさは、会話を始めた時には感じることがなかったのに、途中から時々感じられた。ちょうど楓が、
――自分の中にミチルがいるのかも知れない――
と感じ始めた時で、最初は、
――ミチルちゃんが、私にそんな感じを受けさせるように仕向けているのかしら?
と感じたが、
――何のために?
と思うと、理由がまったく見つからない。そんなことをして、ミチルに何のメリットがあるというのか、それよりも、奥さんの中にも誰か霊が乗り移っているのかも知れないと思う方が、今の楓にはよほど自然に感じられた。
「その夢は続けて見たりされたんですか?」
「いいえ、一度きりだったんですけど、その時夢の中で、もう一人の自分を感じたんです。でも、すぐに否定したんですけどね」
「どうして、すぐに否定したんですか?」
「最初に見た時は、本当に自分だって思ったんですけど、主人公の自分を見る目を感じた時、自分がこんなに恐ろしい目をするなんて信じられないと思うほどの顔をしたんです。そう、まるで断末魔の表情っていうのかしら」
奥さんはそこまで言うと、背筋をブルッと震わせた。
奥さんの口から、
――断末魔の表情――
などという言葉が出てくるなど、雰囲気的に考えられなかったが、その時は別に不自然さを感じなかった。さっき感じた不安そうな表情も、思い詰めたような表情も、感じてこないのだ。
――私の中のミチルちゃんが感じさせないのかしら?
ミチルがいるという感覚がどんなものなのか、少ししてから、自分の身体が急に軽くなったのを感じた。
ということは、重くなった時もあったということなのだろうが、そんな感覚はなかった。考えられることとすれば、重くなった時というのは一気に重くなったわけではなく、ゆっくりと段階を踏んで重くなってきたということであれば、分からなくもない。ミチルが入ってくる時は、ゆっくりと入ってくるのだが、抜ける時は一気に抜けているのかも知れない。そのようにしかできないのか、それとも、何かの意図を持ってそうしているのか、楓には分からなかった。
「旦那さんが、一緒にいた女性というのは、どんな人だったんですか?」
「顔はよく分からなかったんだけど、夫が私の見たこともないような顔をしたのが印象的だったんです。でも、それは本当に楽しそうな表情だったのかって言われると、そうでもないように見えたんですよ」
普通、不倫している男性は、自分の奥さんには見せたことのないような表情を不倫相手に見せるというのは、楽しい表情だと思っていたが、それだけではないのかも知れない。
「どんな表情だったんですか?」
「最初は分からなかったんですけど、夫の気持ちを考えているうちに分かってきました。その時の夫は、『癒されている』という表情をしていたんです。私と一緒にいては癒されない思いを、その人に求めて、その人が答えてくれているような気がしたんです」
結婚していない楓には、その気持ちは分からないが、話を聞いているうちに感じたことは、
「奥さんが気にしているのは、その表情を見たからなのかも知れませんね」
とは言ったものの、
――奥さんには求められないものをその人に求めている――
と、喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、それ以上のことは言わなかったが、当たらずとも遠からじであることに違いはないだろう。
「私の考えすぎなのかも知れないと、何度言い聞かせてみたんだけど、何度も夢に見ると、さすがに言い聞かせるのは無理だって分かりました」
「無理をすればするほど逆効果ということもありますよ。あまり気になさらない方がいいのかも知れませんね」
楓は慰めるつもりで言ったが、当たり前のことを当たり前に言っているだけの何もできない自分が情けなくも感じたが、その一方で、どこか他人事だと思っている自分にも気付いていて、その両方が精神のバランスを取っているのだと思えた。
「そうですね、楓さんのおっしゃる通りなのかも知れません」
二人は、しばし会話を断って、コーヒーを飲みながら、音楽を聴いていた。
「私、学生時代には吹奏楽部でアルトサックスを吹いていたんですよ」
室内にはクラシックが流れていた。
「アルトサックスですか、いいですね。私は音楽には、あまり興味がなかったので分からないんですが、今から思えば、何か楽器を一つくらいできていれば趣味が広がったような気がしています」
本当は違ったが、なぜか、奥さん相手に、楽器をやっていたことを、少し黙っていようと思った。
「夫とは、その頃に知り合ったんですが、夫はギターが弾けるので、音楽を共通の話題にして話をしているうちに、付き合うようになったんです」
奥さんは、旦那さんと知り合った頃を思い出しているようだった。
「その頃、私の友達が亡くなったというのを聞いた時、夫と付き合うのをやめようかとも思ったくらいショックが大きかったんです。その人と友達だったということを頭の中から消し去ろうとしたくらいですからね。でも、今から思うと、どうしてそこまでのショックを感じたのか、ハッキリと分からないんです。ひょっとすると、自分が彼女の立場だったら、私も彼女のように死を選んでいたかも知れないと思ったからなんじゃないかって思ったこともありました」
「確かに、知り合いが自殺したということを聞くと、精神的に穏やかではいられなくなるものだと思いますけど、まわりの人を見ていると、時間が解決してくれているように思います。奥さんもそうだったんですか?」
「そうかも知れないわね。でも、時間だけが解決してくれたわけではないような気もするんです。それにあれほど彼女のことを頭の中から消し去ろうと思ってはみたものの、結局消し去ることはできなかったんですよ。今では、ほとんど思い出すこともなくなりましたけど、やっぱり知り合いが自殺したということは、そう簡単に自分の記憶や意識から抜けてくれることはないんですね」
「旦那さんは、その時奥さんに何か声を掛けてくれたんですか?」
「これと言ったことは何も言わなかったんですけど、却ってその方がよかったのか、次第に彼が私のそばにいてくれていることを意識するようになったんです。それだけ寂しかったということなのかも知れませんね」
「こういう言い方は変なのかも知れないけど、付き合っている時、他に何か障害になるようなことがあった方が、結びつきが深まるとお互いに感じていたのかも知れないですね」
「それはあるかも知れません。ただ、優しいだけとか、甘えられるだけだというだけでは、なかなか長く付き合っていられるものでもありませんからね」
「学生時代からということは、お付き合いも結構長かったんでしょうね」
「夫とは学生時代に付き合っていて、就職してから遠距離恋愛になったんですけど、やっぱり遠距離というのはなかなか続かないもので、一年ほどで別れたんです。でも、彼がまた転勤で近くに戻ってきて、連絡を貰ってからは、また付き合い始めるようになったんですね。それから結婚まで、四年くらいでした」
「四年というと、長いような気がしますけど」
「確かに長いかも知れないわね。でも、私は彼と一度別れていたので、その時の方が長かったような気がするんです。別れていたのは三年ほどだったんですが、それだけにその後の四年というのは、そんなに長いという印象はありません」
「一日一日は長く感じるけど、一年の単位になるとあっという間だったと感じたり、逆に一日一日があっという間だと思っていたのに、一年経ってみたら、一年前が遥か昔だったりなんて思い、したことあります?」
「ええ、結構しているんじゃないかって思っています。子供の頃は毎日が長く感じられたのに、一年を思うとあっという間だったような気がします」
「それは私も同じです」
楓がそう感じるのは、苛めに遭っていた時期があったからだと思っている。ということは、
――この奥さんも、昔は私と同じように苛めにあった記憶があるのかしら?
聞いてみるにはあまりにも失礼なので聞かなかったが、会話をしながら、そのつもりで話をしていると、おのずと聞きたいことが分かってくるような気がした。
苛めに遭ったことがある人には、話題に触れなくても、どこか通じるところがあるものだ。お互いに、
――触れたくない過去の傷――
と思っている以上、どこかに接点があったりする。
「見たくないものほど目についたりするものだ」
という話を聞いたことがあるが、まるで傷の舐め合いになりそうで、触れたくないと思いながらも気づいてしまうのは、悲しい性と言ってもいいだろう。
楓は、子供の頃、ピアノを習っていた。苛められていた時でもピアノを弾いていると気分転換になったのはよかったと思っている。友達の中には親から強制的に習わされている人もいたが、心の中で、
――時間の無駄じゃないの?
と、優越感に浸っていたのも事実だった。
ただ、苛めを受けていた影響で、人と争うという意識には乏しく、コンクールに出てもそれほど貪欲でもなかったので、成績はそれほどいいわけではなかった。競争意識という観念があまりなかったのだ。
中学に入ると、ピアノを習うことを止めてしまった。もし、苛めがなくなってからもピアノを習っていたとすれば、
――結構、競争意識を持っていたかも知れない――
と思った。
競争意識を持ったからと言って、もっと上達できたかどうか分からないが、少なくとも、ピアノをずっと続けることになったように思えた。中学に入って止めてしまってから、ピアノを弾くことは止めてしまった。今では弾けるかどうかすら、怪しいものだった。
「アルトサックスは、今でも続けているんですか?」
「今はもうやっていません。夫と結婚することが決まってから止めました」
「それはどうして?」
「夫がギターを弾いていたというのは先ほど話しましたが、夫は就職してから、ギターを止めたんです。仕事を優先したということでしたけど、そんな夫を前に、私だけ楽器をやっているというのはまずいんじゃないかって思ったんですよ」
「でも、音楽を聴くことだけはやめていないんですね?」
「ええ、クラシックが好きな夫も、音楽を聴くことはやめていませんから、気分転換をしたい時には、夫も部屋の中で自分でクラシックを掛けたりしているんですよ。音楽を聴いていると、時間が経つのを忘れますからね」
部屋の中で流れているクラシックを聴いていると、懐かしさが感じられた。中学までピアノをしていたこともあって、クラシックは子供の頃から聴いていたのだが、その時に感じた思いは、
――自分から聴こうと思って聴いたというよりも、誰かクラシックが好きな人のそばで、安心感を覚えながら聴いていたような気がするわ――
というものだった。
一緒に聴いていた相手というのが男性であることは分かっていたが、楓はそれが誰だったのか、まるっきり見当が付かない。
――私の中にいるミチルちゃんが感じていることなのかしら?
と思い、自分の心の中に聞いてみた。
先ほども、ミチルの存在に気付き始めてから、自分の心の中に問いただしてみると、ミチルが答えてくれたような気がしたので聞いてみたのだが、今度は何も返事が返ってこなかった。まだミチルがいる感覚は残っているので、ミチルにとって答えたくないことのように思えてならなかった。
――自殺する原因になった彼のことを考えているのかしら?
そう思っていると、楓は今までに見たことのない光景が目の前に広がっていくのを感じた。ただ、本当に初めて見る光景なのか疑問に感じ始めていた。見たことがないはずなのに、どこか懐かしさを感じるからだ。
――どこかで見たような――
と、それがどこで見た光景なのかを思い出そうとした時、さっきまで目の前に広がっていた光景が、頭の中から消えてしまっていた。
起きているのに、夢を見ているような感覚に陥ることが、今までにもあった。目を開けて前を見ているはずなのに、見えている光景とは別の光景が頭の中に湧いてくる。今までは湧いてきた光景に対して、明らかに以前に見たことのある光景だったのに対し、今度は懐かしさは感じるが初めて見る光景だった。
――ミチルちゃんが頭の中に抱いている光景なんだわ――
そう思うと、懐かしいと思ったのに見たこともないと思った光景が頭の中から消えたのは、ちょうど、聞いていたクラシックの音楽が別の曲に変わった瞬間だったような気がした。
――目の前に見えていた光景は、クラシックの音色が生み出した光景なのかも知れない――
懐かしく感じたのは、光景に対してではなく、クラシックの音色に対してだと思えば、納得がいった。喫茶店などに入れば掛かっていそうな曲で、最近も聴いたことがあったはずなのに懐かしく感じられるというのは、よほどその曲に思い入れを感じたことが、懐かしく感じるほど以前にあったということなのだろう。楓は覚えていないだけで、懐かしさを思い出したいと思ったのだから、
――苛めを受けていた時期に、心の支えにしていたことがあったに違いない――
そうでなければ、苛めを受けていた時期があまりにも情けないではないか。立ち直れないほどのショックを受けたと思うだけのことは何度もあった。そのたびに、ショックから立ち直るための何かが存在していた。その一つがクラシックを聴くことだったのは、懐かしいと感じたことで分かるというものだった。
奥さんは、クラシックを聴いている楓をじっと見ていた。楓の方は、自分の中にいるミチルの方に意識が行っていて、奥さんが見つめていることに気付かない。
奥さんの方では、
――私がこんなに意識して見つめているのに、分かっていないのかしら?
と感じていた。
それよりも、楓が視線を分かっていて、それでも無視できるような図太い神経の持ち主なのかも知れないと思うようになると、今度は奥さんの中で、何か不安がこみ上げてくるのだった。
その不安がどこからこみ上げてくるものなのか分かっていなかったが、夫に関してのことのように思えて、胸騒ぎを隠すことはできなかった。
――この人は、私たちのことを知って、わざとお隣に引っ越してきたのかしら?
ただ、不倫だとすれば、ただでさえ見つかりたくないのに、わざわざ近くに引っ越してくることなどありえない。となると、自分の旦那に別れを切り出されたのか、あるいは、捨てられたのかなどして、自分たち夫婦に恨みを持って、これ見よがしに近くに引っ越して来たのかも知れない。
もちろん、目的は嫌がらせ。旦那に対しての嫌がらせがそのまま夫婦間の亀裂に繋がれば、恨みは少しでも晴れるというもの。もし、それが本当だとすれば、逆恨みもいいところだが、真意を確かめられるほど、自分は神経が図太くない……。
それが奥さんの考えていることだった。
しかし、その考えも限りなくゼロに近いと思えた。肝心の夫が楓と何度も顔を合わせているのに、二人とも動じるところがない。楓の方も、いくら嫌がらせのためとはいえ、一度は不倫相手として付き合っていた相手なので、普通の神経でいられるはずもない。
もっとも、普通の神経でいられるくらいなら、最初から逆恨みなど考えないだろう。逆恨みでもしないと、自分の気が収まらない。あるいは、夜も眠れないなどの精神に異常をきたしているのであればあるほど、好きだった相手が目の前に鎮座していて、しかも奥さんと仲良くしているところなど、まともに見れるはずもない。そう考えると、自分の発想は矛盾を孕んでいることに気付く。そこでホッと胸を撫で下ろせばいいのだろうが、一度起こってしまった不安は、考えに矛盾が生じたくらいでは、なかなか解消してくれないものだ。
「じゃあ、私はそろそろお暇させていただきます」
窓から西日が差しかかるのを感じると、さすがにそろそろお暇した方がいいと感じた。楓が感じたというよりも、楓の中のミチルが何か我慢できない雰囲気を感じたようだ。
「そうですか、私の方もそろそろ夫も帰ってくる時間なので、夕飯の準備に取りかかることにしますわ」
旦那さんの仕事はシフト制の仕事のようで、その日は早番だということだった。日が昇る前から出掛けて行ったのかも知れない。
実はこの頃、楓もマンションの人となかなか出会わないことを気にしていた。前に住んでいたところも、なかなか他の住人と出会うこともなかったが、それほど気になることでもなかったのに、ここに引っ越してきてから気になっていたのだ。
それなのに、出会った相手が幽霊だというのも、複雑な気持ちだった。逆に言えば、他の人と出会っていれば、幽霊を気にすることもなかっただろうし、幽霊を見ることもなかったはずだと思うのだった。
楓は、部屋に帰ると、待っていたかのように、ミチルが目の前に控えていた。
「ミチルちゃん、私の中にいたでしょう?」
別に責めているわけではない。いたならいたで、ハッキリとさせたいだけだった。それなのに、ミチルはすぐには返事をしようとはしない。それなら、なぜ楓の前に帰ってきてからすぐに現れたのだろう?
「最近、見かけないと思ったけど、どうしてたの?」
と聞いてみると、
「楓さんの前に現れるのが、少し忍びない気がしたの」
その言葉を額面通りに受け取れば、さっきまで自分の中にミチルがいたと思っていたのは勘違いだったということになる。しかし、自分の中にいたのかどうかを訊ねた時、即答できずに考え込んでいる姿を見ると、よほど言いにくいことである気がした。
ミチルは楓から見るとまだまだ子供に見える。少々の言い訳くらいなら、屈するなどということはありえない。ただ、ミチルは幽霊だ。この世のことも知っていて、あの世のことも知っているという意味では、自分よりも広い世界を知っているということに変わりはない。そう思うと、どうしても臆してしまう楓だった。
そんなミチルだったが、その日は今までと違っていた。最近なかなか現れないと思っていたこともあって、
――何かあったのかしら?
と感じたのも無理のないことであり。最初に、最近見かけなかったことを指摘してみたかったのも、いつもと雰囲気が違ったからだ。
その日のミチルは、子供っぽさというものは感じられなかった。顔も正面を向いて、真面目な面持ちだった。だが、それは最初に会った時も同じことを感じたのだが、その時にはこちらが少しでも強い視線を浴びせようものなら、すぐに視線を逸らしていた。どこか自分が幽霊であることに、コンプレックスのようなものを感じていたのかも知れない。
――ということは、今のミチルちゃんには、コンプレックスは感じられないということになるのかしら?
元々、人間同士であれば、コンプレックスという概念もある。どんぐりの背比べのような状況で、相手に対して絶対的な劣等感を持っていたり、不特定多数の人に感じる劣等感を、コンプレックスというものだと思っていた。しかし、相手は幽霊、どちらが劣等感を抱き、優越感を抱くものなのか分からない。それは、楓が幽霊の世界を知らないからだ。
しかし、ミチルは生きていた頃の人間世界と、死んでからの世界の両方を知っている。だからその違いも分かっているはずだ。もし、それなのにコンプレックスを抱くのであれば、幽霊の世界も、この世の世界も、さほど差がないということになるのだろう。
――いくら幽霊であっても、この世を彷徨っているのだから、気持ちはこの世の人に近いものになっているのかも知れない――
と感じた。
「私、死んだんですよね」
と、蚊の鳴くような声でミチルは呟いた。
――まさか、この娘。自分が本当に死んだということを信じられなくて、その確証を得ようと、この世を彷徨っているのかしら? 最近、見かけなかったのは、それを確かめに行っていたのかも知れないわ――
そう思うと、死ぬことというのが、どういうことなのか、楓には分からなくなった。確かに、
――痛い、苦しい――
という極度の苦痛を伴って死ぬものなので、死ぬことがどういうことかということよりも、目先の苦しさに耐えられるかということの方が切実に感じる思いのはずである。しかし、自殺を考えている人を説得するのに、たいていは、
「死んだら、何もならない。生きていればまだまだ楽しいことがたくさんある」
などと言って説得するが、本当は、
「死ぬのは苦しいわよ。嗚咽に脱糞、格好悪いったらありはしない」
という方が、よほど切実に感じられる。
ただ、そういう説得は、する方も苦しみを感じるのではないか? まるで自分にも死が迫っているかのように思えてしまう人もいるだろう。そう思った時、
――私も、本当は死を覚悟したことがあったのかしら?
と感じた。
すると、自分の中の何かが反応したような気がする。
「そうよ。そんなあなただから、ミチルちゃんがあなたに近づけたのよ」
それは、自分の心の声だった。
「どういうこと?」
「ミチルちゃんは、自分が死んだということを、いまだ理解できていない。その理由もさることながら、本当に自分が死んだのだということすら、信じられないでいるのよ。きっと何かショックなことがあったのかも知れないわね」
「そこまで分かっているの?」
「ええ、でも、それ以上のことは分からない。でも、それはあなたにも言えることなのよ。あなたにだって、ちょっと考えを変えれば、ミチルちゃんの気持ちが分かるはずよ」
「えっ、私に分かるというの?」
「ええ、私はあなたのことなら大体分かるわ。あなたなら、ミチルちゃんの気持ちが分かるはずよ。私よりも分かるんじゃないかしら? だって、ミチルちゃんと向き合ってお話をしているのは私じゃない。あなたなの。そのことを自覚してごらんなさい」
そう言われて、少し俯いて考えてみた。
――私は今までに自分の心の声と話をしたことがあったような気がする――
それがいつだったのか、ハッキリと覚えてはいないが、確か苦しみが終わった後だったような気がする。
しかもその苦しみというのは、自分が望んだ苦しみで、その壁を超えられなかったように思えた。
――完全に忘れていたけど、思い出してみると、いろいろなことが見えてくるような気がするわ――
とは言っても、完全に思い出したわけではない。
なぜかというと、その時と今とでは、現実的にも精神的にも、環境が違っているからに違いない。
そう思うと、その時の環境というのは、楓が苛めに遭っていたあの頃のことだったのではないだろうか。
――ということは、子供の頃?
楓は、一度自殺を試みたことがあった。確実に死ねる方法ではなく、子供の浅はかな考えの元、今から思えば、本気だったとは思えないほどであるが、確かに死のうという気持ちでいた。
もちろん、こうやって生きているわけだから、死に切れなかったのは間違いない。子供の発想なので、死の向こうに何があるかなど、考えもしなかっただろう。もし、大人だったら、死に切れたかも知れない。でも、死ねなかったことで、死のうとした自分の意識が、そこでまたしてもリセットされたのだ。
――私って、時々頭の中をリセットするようにできているのかしら?
と感じた。
都合の悪いことは忘れてしまったり、意識をリセットする。それで精神の安定を図ってきたのだとすると、そこには、まるで脱皮をしながら生きている動物の本能のようなものを感じるのだった。
だから、楓は人の死について、時々冷静で、しかも冷徹に見ることができる。
人が自殺しようとしている人への説得に、きれいごとを並べているのを聞いて、
――それっておかしいんじゃない?
という思いを抱きながら、それを口にすることもなく、また、そんなことを考えているなど、まわりに悟らせないようにしていた。
しかし、本心では、
――自分が考えていることを分かってくれる人が一人でもいればいいのに――
と感じてもいた。
もし、そんな人がいるのであれば、その人は自分のよき理解者であり、親友と言える人になってくれるような気がした。
ただ、楓はこの「親友」という言葉はあまり使いたくはない。他の人が使っている「親友」という言葉は、楓が考えている「親友」という意識に比べて、軽い気がしていた。
――他の人が使う「親友」という言葉に対する相手は、平気で人を裏切る人もいるような気がする――
つまり、親友であっても、全幅の信頼を置くことはできないということだった。
――信じれば裏切られる。一体誰を信じればいいんだ?
と考えていた。
いかにも自分の気持ちを分かってくれているように見える人は、こちらの都合のいいことしか言わない。その方が付き合いやすいし、角も立たない。それでは、相手の考えていることの奥は見えてくるはずもない。薄っぺらいものに感じられるからだ。そういう意味では親友などという言葉は、楓の中ではありえないものになっていた。だから、楓は「親友」という言葉は嫌いなのだ。
楓は、余裕を持つと甘えてしまうところがあったが、それは人に甘えるわけではなく自分に甘えていたのだ。もう一人の自分の存在を分かっていて、もう一人の自分なら何とかしてくれると思っていたのだ。
もう一人の自分が現れず、今までは何とかなってきた。それは、何も言わずとも、もう一人の自分が望みを叶えてくれたからだと思っていた。
しかし、そこにも限界があるのか、いつも完全に叶えてくれることはない。それを当然のように思ってきた。
望みを叶えてくれるのも、限界があるというのも、どちらも当然、だから楓の前に現れることはなかった。
しかし、今回は現れた。きっと、もう一人の自分がいる場所に、ミチルという女性の侵入を許してしまったからなのだろう。本当なら煩わしい侵入者であるにも関わらず、ミチルの気持ちを分かれと言う。さぞや、もう一人の自分とミチルは、自分としたよりも、もっと深いところで話をしたのだろう。いや、ひょっとすると、まったく違った話になったのかも知れない。それを感じたもう一人の自分が、わざわざ現れて、自分に分からないことでも分かっているはずだと告げたのだろう。これは助言として受け取るべきだと思えてならない。
ミチルが自分が死んだということを、今さらながらに自覚しようとしている。それは成仏したいからなのか、自分が師を受け入れないことで、何かが自分の意に反した世界が広がっているように思えたのかも知れない。
ミチルが話し始めた。
「私、死んだという意識が最初になかったのは、生きている時と、まったく意識が変わらなかったからなの。もちろん、肉体がなくて、自分の声は誰にも届かない。私を見ることもできなければ、私の気持ちを伝えることができない。これが、いわゆる幽霊というやつよね」
「そうね。この世を彷徨っているということは、何かに未練を残しているということよね」
「でもね。私何に未練があるのか分からないんだけど、生きていた頃に見えなかったものが見えてきた気がしているの。それは、パラレルワールドというものなのかしら? 生きている時は、目の前に何本か道があるのが見えても、その一つを選んで進めば、他の道はまったく見えない。そんなものがあったことすら、忘れてしまっているでしょう?」
「確かにそうね。人生の分岐点はいくつもあるっていうけど、それが分岐点だったのかどうかという意識は結構薄い。正直分からないものだったんじゃないかって私は思っているのよ」
「あなたの言う通り。私にはその理屈が今は分かるようになった。それだけでも死んだという意識を持っていいくらいだと思うんですよ。最初に自分が死んだということを受け入れようとしたのはその時だった。そう思っていると、今まで見えなかったものも見えてきたんですよ。ちょうどその時だったあなたに出会ったのは。そして、あなたに出会って、お話をし始めると、また頭がリセットされた気がしたんです。さっきまで死んだことを分かっていたはずなのに、あなたと話していると、死んだという意識が頭の中から消えてしまった。死んだということが事実だということしか残っていない。まるで肉体を亡くし、魂だけの存在になった私には、皮肉に思えることだったんですけどね」
「私は、自分の中で、時々意識がリセットされるんじゃないかって思うことがあるの。ひょっとするとあなたが私の中に入ってきた時、ちょうど私の意識も何かのリセット状態に入ったのかも知れないわ」
楓の言う通り、自分では意識がリセットされているのかも知れないということをウスウス気付いていたが、それをハッキリと言いきれるだけのものが自分の中にはなかった。
それを証明してくれたのが、まさか今目の前にいる幽霊だというのも実に面白い。さっき
――皮肉だ――
と言ったミチルの言葉を、同じ気持ちで表現したくなった楓だった。
「私ね。自分が死んだのだという意識を持ってあなたの中から飛び出すと、今まで見えていなかったものが見えてきたような気がしたの。さっきお話した分岐点なんだけど、一つの道を選んでその道を進んでも、他の道を選んだ自分がどんな世界にいるかということが分かるようになったのね」
「でも、それって、その時に分岐はいくつかしかなくても、その先にも分岐は無数に広がっているものじゃないの? 人間として意識したり、見えている分岐というのは限られているんでしょうけど、私は分岐って無限に広がっているような気がするし、分岐自体、どこにでも存在しているような気がするの」
「その思いは私も同じものを持っているわ。でも幽霊になると実に都合よくできているのね。きっと自分が見える分岐というのは、いくら無限に広がっているとしても、人間だった自分が選ぶことができるであろう分岐の数しか見えてこないの。もちろん、生きている間には意識できるはずのないこと。ひょっとすると、死んでからこの世に残ることができないというのは、今のような私の力を持った人が無数にこの世に残ることを嫌った神様の力なのかも知れないわ」
「確かにそうね。死後の世界がどうなっているのか知らないけど、もし死んだ人が再生、つまり『生き直す』ことができなければ、死後の世界ってパンクしてしまいそうだもんね。死後の世界に限界というものがなければ別なんだけど、だったら、生まれてくる子供ってどこから来るのかが、分からないわよね」
「でも、もう一度生き直せる人というのも限られているわ。結構少ないんじゃないかしら?」
「じゃあ、生まれてくる人の中には生き直している人ばかりではないということなのかしら? 一体どこから来たのかしらね?」
「でも、その人は死んでからもう一度生き直すということが、生まれた時から確定しているとすれば、分からなくもないわね」
「そんなに都合よくいくのかしら?」
二人はそこで一旦会話が止まってしまった。それぞれに考えがあるのだろうが、きっと違う考えで黙ってしまったと思えた。同じ考えなら、会話が続くと思ったからだ。
沈黙を破ったのは、ミチルだった。
「私、パラレルワールドが見えてくると、自分が死んだということが確信に思えてきたわ。でもどうしてこの世を彷徨っているのかが、いまだに分からない気がするの。だから、今日は楓さんのところに戻ってきたの」
「どういうことなの?」
「きっと私も楓さんのように、自分の気持ちをリセットできる人間だったような気がするの」
「どうしてそう思うの?」
「それは楓さんは意識していないようだけど、楓さんは無意識のうちに自分と同じように自分の気持ちをリセットすることができる人を引き寄せているのよ」
「そうなの?」
「引き寄せられた人の中には、自分が気持ちをリセットできる人間だという意識を持っていない人もいるのよ。しかも、楓さんもそうなんだと思うけど、自分の気持ちをリセットしてしまう人が他にいるなんて意識、持っていないはずなのよ」
「ええ、私も持っていなかったわ」
「他の人のほとんどは、自分にそんな力があることすら気付いていない。でも、楓さんを意識するようになると、自分の中にある力に気付くはずなの。それでも気付くまでで、他に同じような性格の人がいるなんて、きっと信じないでしょうね」
「結構、ハードルが高いのね」
「それはそうよ。この私にだって、死ぬまで気付かなかったんだから。しかも死んでからすぐに気付いたわけではない。楓さんを意識したから気付いたの。もし、この世に残っていなかったら、気付かないまま終わったかも知れないわ」
「生まれ変わったということ?」
「そうかも知れない。生まれ変われたらね」
「私も赤ん坊というのは、誰かの生まれ変わりだって思うようになったんですよ」
「どうしてですか?」
「赤ん坊は物心が付くまで、本当に意識がないでしょう? その間に、前世の記憶をリセットしているんじゃないかって思っていたんですよ」
「今は違うということ?」
「違うというわけではないんだけど、ひょっとすると、赤ん坊が本当は一番神聖なもので、神に近いのかも知れないわね。生まれてから時間が経つにつれて、俗に当てられ、この世に染まってくる。人間になっていくということね」
「じゃあ、赤ん坊は人間ではないと?」
「私はそう思っているの。人間よりも神に近い存在ということよね」
「じゃあ、さっきの生き直すというのは、全員が生まれ変われるわけではないという発想に戻るんだけど、赤ん坊が神に近いと考えれば、理屈に合っているように思えてくるから不思議よね」
「そうでしょう。今の楓さんは、私がこの話をしたから、初めて今こうやって考えているんだって思っているかも知れないけど、楓さんは自分の中でこのことくらいはずっと意識しているのよ」
「どうして分かるの?」
「あなたの中にいるもう一人の自分。それが楓さん本人に、限りなく近いと感じたからなのかも知れないわね」
「他の人の中にも、もう一人の自分というのはいるのかしら?」
「ええ、いるわよ。でも、ほとんどの人がもう一人の自分というのがいて、結構正反対の性格の人が多いわ。ある意味、それで精神のバランスを取っていると思えるのよ」
「私の場合はどうなのかしら?」
「楓さんは、自分の中に、二重人格的な性格を感じたことってない?」
ミチルの話はドキッとさせたが、
「私にはそんな意識はなかったわ。しいて言えば、躁鬱状態に陥ることはあるんだけどね」
「私は躁鬱状態と二重人格は違うと思っているわ」
「どうして?」
「二重人格というのは、一人の人間に二つの人格が備わっていて、一人が表に出ている時、もう一人は中に籠っている。その記憶はないのが普通でしょう? だから、二重人格の人というのは、きっと自分で本当に自覚はできないと思うの。でも躁鬱症の人というのは、躁の状態であっても、鬱の自分を意識で来たり、鬱の状態の時、躁の自分を意識できるでしょう? これが大きな違いだと思うの」
「私は、躁鬱症の時は、鬱状態と躁状態が定期的に繰り返しているような気がしているの。まるでバイオリズムのグラフを見ているような気がするのよ」
「バイオリズムがそのままその人の性格でしょう? そう思えば、大なり小なり、誰もが躁鬱症なのかも知れないと思うの。そう思うと、もう一つの仮説も出てきたわ」
「それはどういう仮説なの?」
「躁鬱症じゃない人間というのは、皆二重人格なんじゃないかって思えてきたの。つまり、人間誰しも躁鬱症か二重人格のどちらかではないかという発想ね」
「また奇抜な発想ね」
と言ってミチルは苦笑いをしたが、
「私がこの世を彷徨いながら、楓さんに惹かれたような気がしたのは、そんな楓さんの考え方に陶酔しているからなのかも知れないわ。でも、その発想を持っていてくれているおかげで、ひょっとすると私は成仏することができる日が近づいてきたような気がしてきたわ」
「そう言ってくれると嬉しいけど、私には何か見えない力のようなものが備わっているということなのかしら?」
「楓さんなら、私が成仏できない理由について気付いてくれるかも知れないって思っているわ」
「そんなこと言われるとプレッシャーじゃない」
と口ではそう言って苦笑いした楓だったが、本心では、
――まんざらでもない――
と思っていた。
しかし、本当に自分にミチルが成仏できるための何かを見つけることができるのか疑問だった。せめて、そのきっかけになることさえ見つけることができれば、後はミチルの問題のように思えた。そう思えば、少し気も楽になってくるというものだった。
その日の楓は、隣の部屋から自分の部屋に帰って来てからミチルとの会話に時間が掛かってしまい、気が付けばいつもであれば寝ようかと思うくらいの時間になっていた。だが、その日はなぜか目が冴えてしまい、そのまま寝る気にはなれなかった。
――また、夢を見ているという夢を見てしまいそうだわ――
と苦笑いをしたが、その日はなぜか、それでも構わない気がした。
ミチルはいつの間にか、楓の中からいなくなっていた。それなのに、まだ何かがいるような気がしている。
――もう一人の自分を意識している証拠なのかしら?
ミチルは楓のもう一人の自分が、限りなく今の自分に近いと言った。まるで自分の影のようである。影というものに、以前から意識を持っていた楓にとって、その存在がもう一人の自分というもっとも身近なものであったというのは意外ではあったが、その考えに至る寸前まで来ていたような気がする。
――後は扉を開くかどうか――
それだけに掛かっていたのではないか。
眠れないと思っていたのがウソのように、布団に入って考え事をしていると、いつの間にか睡魔が襲ってきていた。そのまま眠りに就いていたようだった。
楓の夢の中にはミチルが出てきた。
「ミチルちゃん?」
声を掛けてみたが、返事をしない。気付いていないようだが、その様子を見ていると、初めて自分が夢の中にいることに気付いた。しかも、ミチルから返事がないことで、夢の中のミチルが、
――自分が作り出した想像の中のミチル――
であることに気が付いた。
想像の中のミチルは何も言わない。ただ、俯いて何かを考えている。楓の知っているミチルとは明らかに違う。その表情には明るさなど欠片も残っていなかった。
それを見た時、
――ミチルは本当は孤独なのではないか?
ということを悟った。そして、ミチルが成仏できない原因を今まで、自分が好きになった人が、自分が好きだったということに気付いてくれないからだと思っていたが、ひょっとすると、その逆なのではないかと考えるようになった。
――自分のことを意識してほしいのではなくて、自分のことを忘れてほしい――
つまりは、相手に気にされ続けているので、却ってその人が気になってしまい、成仏できない。本当はこの世への気持ちを断ち切らなければいけないのに断ち切れない。この世に残った想いというのが、未練であったり、好きな人への想いであったりだとばかり思っていたが、それ以外の感情もあるのだろう。
ミチルは、自分が死んだことすらハッキリと自覚できなかったのは、死んだのに彷徨っているのは、この世に未練があるからだと思い、その未練を探して断ち切ろうという思いがあったからに違いない。しかし、それがまったく違った発想だということになると、あるはずのないものを探して、永遠に彷徨ってしまう。それが今のミチルの状況なのではないだろうか。しかも、ミチルには自分を思ってくれている人が誰なのか分からない。本当に自分が好きだった人なのかどうなのかも分からない。
楓はミチルを見ていると、今自分が考えている奇想天外だと思えるような発想でも、まだそれ以上に奇想天外な事実が隠されているような気はしてならなかった。そのことを突き止めることがミチルのためというだけではなく、自分にとっても大きく関わってくることなのではないかと思うようになっていた。
そのためには、今一度自分の気持ちをリセットさせなければいけないと思っている。今は夢の中だが、そう思うことが今後の自分に大きな影響を与えることになるだろう。定期的に起こるリセット、いつのことになるのだろうか……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます