リセット

森本 晃次

第1話 自殺

 桜井楓がこのマンションにやってきたのは、五月も終わりかけの暑い日のことだった。引っ越し業者がテキパキしていたおかげで、実際の引っ越し作業は午前中までに終わったおかげで、夜には何とか部屋の形を保てるほどに片づけも終わった。誰かが引っ越しを手伝ってくれるわけではないので、一日で部屋の体裁が整うほどに片付いたのは、予定よりも早かったと言えよう。

 ちょうど土日を含めて、火曜日まで休みを取っていたので、引っ越し手続きなどの役所関係は最後の日でもいいということで、一日で体裁が整ったおかげで、二日目以降にかなり余裕ができることになった。

 それは時間的な余裕だけではなく、精神的にもかなりの余裕を与えた。ただ、楓は余計な余裕を持ってしまうと自分に甘えてしまうところがあった。特に時間的に余裕があるというときほど、精神的に余裕があるのを自覚していることで、その甘えはさらに強くなるのだった。

 時間配分が苦手なくせに、時間配分を得意だと思っていることで、得てして時間的に余裕がある時でも、最初は大体慌ててしまう。慌てることが功を奏することもあり、順調にいけば、予定よりもかなり早く終わってしまう。

 しかし、先が見えてくると、そこから先の時間配分に関しては誰よりもうまく調整できる。最後の帳尻合わせがうまくいくことで、

――終わりよければすべてよし――

 楓はいつも順調に物事をこなすことで、無難に今までの人生を乗りきってきたのだ。そのことを知っている人はあまりいない。楓は会社でもあまり人と馴染んでいる様子はない。元々彼女は自分のペースでコツコツとしか仕事のできないタイプだった。時間配分が苦手なところばかりを最初に見せつけているので、誰も彼女と協調しようとはしないのだ。それでも最後はうまく行っているのだから、まわりの人が近寄ってこないのも無理のないことだ。

「桜井さんが、最後にもたつくようなら、私たちが協力すればうまく行くように感じるので、協調性さえ持ってくれれば、うまく付き合っていけるのにね」

 と言っている人もいたが、それは最後にはうまくこなせてしまう彼女に対しての嫉妬も若干あったのかも知れない。会社というところ、しかも、女性だけの世界というのは、傍から見ているのとでは中身はかなり違っていることが多い。

「女の子が集まると、何を考えているか分からない人たちばかりに見えてくるよな」

 と、口の悪い男性社員は、飲み屋などで、そんなことを口にしながら、女性社員を肴に酒を呑んでいたりするのを、女性社員は知る由もないだろう。ただ、男性社員もすべてがそう思っているわけではなく、一人が言い出すと、そんなことを思ってもいない人であっても、まんざらでもなく感じてくるから不思議だった。

 楓の会社はそんな人たちが多い。表面上は波風がなくとも、裏では何を考えているか分からない。だが、もっともそれは彼女の会社に限ったことではなく、どこの会社にもあることなのかも知れない。

 楓は、まわりのことを気にしていないくせに、まわりが感じていることに敏感だったりする。そのことが今までに幸いしたこともあったのだろうが、ほとんどが損をすることの方が多く、そんな自分の性格が嫌いだった。

 今回の引っ越しも、会社の人は誰も知らないはずだ。会社への届けも住民票が必要なことから、出社後になる。それまでは誰にも話すこともなく一人の胸に閉まっていた。もちろん、楓のことなど気にしている人もいないだろうから、別に気にすることでもなかったのだ。

 今年、二十八歳になる楓は、短大を卒業して今の会社に入ったのだが、今の会社に入れた時は、結構嬉しかった。一応名前の通った広告代理店で、通っていた短大からはルートがあったので、採用にはさほど困難ではなかったのかも知れないが、それでも、最初は広告代理店など、何をする会社なのかハッキリと分かっていなかっただけに、あまり気乗りがしなかったのも事実だった。かといって、何をしたいという明確なビジョンを持っていたわけではない。

――人が築いてくれたレールに乗っかっただけだ――

 と言ってしまえばそれだけだった。とりあえず、就職活動を何とか終わらせたいという気持ちがあったのだ。

 それでもさすがに入社して半年くらいは、入社できたことを素直に喜んでいて、研修期間もさほど苦になるわけでもなかった。実際に就職して会社の仕事内容などを見ていると、自分がやってみたいと思えるようなことだった。最初は見習いでしかなかったが、そのうちに自分にも仕事が回ってくると思うとワクワクしたほどである。

 最初はドキドキしながら、心の底でワクワクしていたものだ。今から思えば就職してから一番楽しかった時期かも知れない。

 そんなことを思い出しながら引っ越しをしていると、就職してからここ数年、いろいろあったはずだったのに、あっという間だったことに気が付いた。

 一年という単位で考えると、結構長かったが、それを一つに繋げると、あっという間だったように思うことは結構あるようで、当然その逆もありうることだ。

 子供の頃がそうだった。

 小学生くらいの頃が一番その逆を感じていた。

 一年一年はあっという間だったはずなのに、六年間は果てしないほど長かったように感じた。

 それは小学生の頃が一番自分を嫌いだった時期だからだ。

 いつも学校では苛められていた。

 今から思えば苛めに遭っていたのには、それなりに理由もあったのだろうが、一番最初に苛められた時に逆らったことが苛めがなくならなかった一番の理由だった。

 苛めに遭った最初の理由は今でも覚えている。

 普段は給食だったが、たまに給食が休みで、お弁当持参の日があった。その時に家から持って行ったお弁当をバカにされたことが原因だった。

 あれは二年生の時のことだったが、持ってきたお弁当の形が少し崩れていたことを、同級生の男の子にバカにされたからだった。

 ただ、バカにされただけだったのに、何かのはずみで、お弁当が零れてしまい、床に散乱してしまった。泣きそうになっている楓を見て、

「お前が悪いんだからな。俺たちは悪くない」

 と言って、後ずさりしていた男の子を見ると無性に腹が立ち、食って掛かった。確か、噛みついたりしたような気がする。

 別にお弁当を作ってくれた母親にそれほど感謝していたわけではない。バカにされたことも、食って掛かるほど悔しかったわけでもない。

 確かにお弁当が床に落ちたことで情けなくなったのは事実だったが、最初は茫然自失だった。床に落ちたお弁当の残骸を見て、ただ情けなさから、目を真っ赤にさせいただけだったのに、男の子たちの下手な言い訳と、後ずさりした態度が許せなかったのだ。

 食って掛かったことを覚えていないほど、その時は興奮していたようだ。その時は先生が取りなしてくれて、何とかその場は収まったが、先生からその日、母親に対して注意勧告があったようだ。

 家に帰ってきてから、

「何で、お友達と喧嘩なんかしたの?」

 と、母親から言われた。さほど厳しく言われたわけではない。窘められていた程度だったはずなのに、楓は責められているという感覚しか浮かんでこない。

「お母さんの作ってくれたお弁当をバカにされたからよ」

 と、言えばよかったのだろうが、なぜか言えなかった。子供心にも、

――それを聞いた母親は、どうするだろう?

 と感じたのかも知れない。

――いや、小学二年生で、そこまで頭が回るはずもないわ――

 考えたとすれば、

――これ以上、私が何かを言って、話がこじれるのは嫌だ。私がこの場は黙っていれば、そのうちほとぼりが覚める――

 という程度のことだったように思う。

 それからの楓のまわりの人への態度は、この時に決まったのかも知れない。何があっても、自分から逆らうことはなくなった。苛めに遭っても、言い返したり食って掛かったりしたのは、最初のお弁当がひっくり返ったあの時だけで、それ以降苛めに遭っても、何ら逆らうことはなかった。最初に一度逆らっているだけに、この態度はまわりからすれば、一番苛めの対象になりやすいのかも知れない。

「どうした、最初に逆らったあの時の勢いは何だったんだ?」

 とでも言いたげな表情に見えた。誰もが上から目線で見ている。顔は正面を見ていて、目だけが見下ろしている。その顔はニンマリとしていて、厭らしさを含んだその顔は、恐ろしささえ感じさせる。逆らうことができなくなったのは、その表情を見たからなのだ。

 楓は、今でも小学生の頃の夢を見ることがある。

――一番嫌な記憶のはずなのに――

 本当は忘れていると思っていた思い出だったはずなのに、一度社会人になってから夢を見てしまうと、嫌でも思い出すことになってしまった。一度でも夢を見ると、それから定期的に嫌でも夢に出てくる顔があった。

――誰の顔なのかしら?

 と、最初はピンと来なかったが、何度も見ているうちに、それが子供の頃の自分の顔であることを自覚するようになった。

 自分の顔を覚えているなど普通では考えられないが、あの頃の楓は、毎日のように自分の顔を見ていた。

――昨日と同じ顔だ――

 顔が変わっていることを望んでいたのだろうか。顔が変わっていれば違う人になって、苛められることもないと思っていたのかも知れない。苛めっ子が苛めたくなる理由の一つには、自分の表情が関係しているということを分かっていたのかも知れない。

 それは当たらずとも遠からじだった。苛められなくなってからしばらくして、まるで時効だと思ったのか、当時楓を苛めていた男の子の一人が、

「顔を見るだけで、無性に苛めたくなるからな」

 と呟いたのを、ずっと忘れないでいた。

 当の本人は、無意識に呟いたのだろうが、楓はその言葉を忘れることができなかった。

――やはり苛められる側にもそれなりの理由があるんだわ――

 それは理不尽な理由であることに違いはないが、苛める側の気持ちになれるほど、苛められなくなった楓は、冷静に自己分析ができるようになっていた。むしろ、冷静すぎるほどで、

「彼女は、氷のような精神状態になることがあるみたい」

 と、高校生の頃に、楓のことを評している男の子がいた。面と向かって言われたわけではないが、そんな噂は自然と入ってくるもので、その時は別に何とも思わなかったが、時間が経つにつれて、忘れられない言葉になっていった。

 楓は引っ越してきたのは、会社で何かがあったわけではないが、精神的に引っ越さなければ、このまま何かズルズルと時間だけが流れていくのを感じたからだ。

 高校の頃までであれば、それでもいいと思っていたはずなのに、就職してから何かが変わったというわけではない。かといって、短大時代に変わったという思いもない。

――変わったというよりも、人の影響を受けやすいようになったのが原因なのかも知れないわ――

 高校の頃までは、人の影響を受けることが一番嫌いだった。「自分は自分」というスタンスをずっと保ってきたが、それが小学生の頃の苛められていた自分に対して、反面教師という側面が自分の中にあったからで、その思いも短大に入ったことから、徐々に消えていった。そのおかげなのか、短大に入ると、自分の思いとは裏腹に、まわりから楓に話しかけてくれることが多くなったのである。

 それまでは人と関わることを自らで拒否していたこともあり、まわりから寄ってくるなど、今までの自分からは信じられないようになったことで、今度はこっちからまわりに気を配るようになっていった。

――結構、心地よいものだわ――

 人と関わることを煩わしいと思っていたことが、まるでウソのようである。

 それまで喫茶店になど寄ったこともなかったのに、友達から喫茶店への誘いがあった時など、喜々としてワクワクしたものだった。

「私、喫茶店に入るのって、初めてなの」

「えっ、ウソでしょう?」

 友達のリアクションは、結構すごいものだった。

――初めてだということがどうしてそんなに珍しいのかしら?

 と思ったが、子供の頃も、親と喫茶店に入ったこともなかった。食堂やファミレスなどはあるが、喫茶店に入ることはなかった。

「コーヒーだけ飲むのにお店に入るなんて、時間がもったいない」

 と言っていたのを思い出した。

 ただ、楓の父親の仕事は出版社で編集の仕事をしているらしい。あまり家では仕事の話をしない父親は気難しいところがあり、普段の会話もあまりなかった。だから、「らしい」としか言えないのだが、後になって聞いた話では、当時の仕事では記事を書くこともあったらしく、喫茶店に入ることもあっただろう。ただ、利用するのは、人と一緒の時は、仕事の打ち合わせ、一人で利用する時は、記事を書くためということで、仕事以外での利用はなかったようだ。

 大人になってみれば分かるが、普段から仕事でしか使っていないところに、わざわざ休みの日に家族で行くのは憚りたいという気持ちがあるのだろう。母親も喫茶店に行くような人ではなく、ほとんど買い物以外は家から出ることのない人だったので、喫茶店など無縁だったようだ。

――私は、可哀そうな環境で育ったのかしら。でも、それも仕方がないことなのかも知れないわ――

 と、思うようになっていた。一人で喫茶店に入るのも億劫だし、人と一緒に入っても、何をすればいいのか分からない。最初から喫茶店を避けて通っていたのだ。

 初めて入る喫茶店は新鮮だった。高校の頃は、

――喫茶店に入るなんて、不真面目だわ――

 人と関わりたくないと思っている孤独な性格ならではの発想だったが、短大に入ってみると、遥か昔に感じたことのように、友達ができてからの楓は、考え方だけではなく、見えるものすべての角度が、違って見えてくるようで、世界観が変わったかのように感じるのだった。

 その喫茶店は、表から見ると、白木造りのなっているが、中に入ると、普通の木目調のデザインで、まるで山小屋のような雰囲気だ。天井も高く、ペンションに来たような感覚は、友達と来るだけではなく、一人で佇んでいたい空間でもあった。

 最初の頃は友達と一緒に来ることの方が多かったが、次第に一人でくることの方が多くなった。友達と一緒の時は窓際のテーブル席がほとんどで、一人で来る時は、カウンターの一番奥の席と、自分なりに指定席を決めていた。

 この店は常連客が多いようなので、常連客であれば、自分の指定席を持つことは可能だった。しかも、カウンターの一番奥の席など、よほど店内が満席の時でもない限り、誰かが座っているということはない。もし埋まるとすれば、平日のランチタイムくらいのものであろうか。

 そんな時間に店に来ることはほとんどなかった。ランチは他のお店で食べることがほとんどで、この店に来るのは昼下がりか、夕方近くが多かった。

 昼下がりには近所の住宅街からの奥さん連中が、「アフタヌーンティ」を楽しんでいることが多かった。学生の街であったが、少し先に丘のようになったところがあり、そこには住宅街が広がっている。その喫茶店は、短大と住宅街の中間くらいにあるので、時間帯によっては学生よりも住宅街からの奥さん連中の方が多い場合がある。それが昼下がりであり、逆にその時間は学生も少ない。そういう意味で、店が満員になることはランチタイム以外にはないが、それでも、時間帯によって客層が違うことで、客足が途絶えることはないようだ。たまに貸し切り状態になることもあるが、その時は店内が却って狭く感じられ、不思議な感じがしたものだった。

 そんな時だった、壁に懸けられている絵を発見したのは。

 その絵の存在に気付いていないわけではなかった。

――何か額が飾ってあるわ――

 という程度に思っていたのだが、絵をマジマジと見つめたことはなかった。ずっと今まで絵画などというものにまったく興味がなかったこともあって、絵が飾ってあったとしても、それは道に落ちている石と同じ感覚で、

――目には入ってきても、意識することなどない――

 というものであった。

 その絵は、どこかの湖のようだった。まわりを森に囲まれていて、その向こうには、山が聳えていた。綺麗な形の山で、山肌が限りなく直線に見えていた。

――富士山のようだわ――

「富士山には一番綺麗に見える距離や角度がある」

 という話を聞いたことがあったが、その絵に見える山が富士山だとすれば、その人が言っていた、

――一番綺麗に見える距離や角度の場所だったのかも知れない――

 と、感じた。

 ただ、楓が気になったのはその山ではなかった。森の手前に見える小さなコテージのような建物が見えていたのだが、気にしなければ意識しないほど目立たないように描かれていた。

 そのコテージには、誰も住んでいないような雰囲気があった。見た目は綺麗なのだが、人が住んでいる気配を感じないのだ。絵の中のことなので、平面だから人の気配を感じないと思えばそれまでだが、楓にはどうしてもそう思えなかった。

 逆を言えば、無意識にやり過ごす場合、裏で絵を見ていて、

――平面なんだ――

 という意識が働いていることを意味している。したがって、その時コテージに誰もいない雰囲気を感じた時点で楓は、その絵に対して、平面という意識を感じなかったことになる。それだけ立体感を感じさせる絵だったということは、見る人が見れば、さぞや高価な絵だったのかも知れない。

 ただ、その絵を意識したのは、それが最初で最後となった。次回その店に行った時、その場所には違う絵が飾られていた。その時の絵に感じた思いをマスターに話してみると、

「ああ、うちの絵は、ここの常連さんが描いた絵を飾ることにしているんだよ。最近は見かけなくなったけど、佐久間さんという人が時々持ってきて、飾っていくんだよ」

「この間、ここに飾ってあった絵もそうなんですか?」

「あの絵も佐久間さんの作品だよ。そういえば、いつもは新しい絵を持ってきても、前の絵はそのままここに置いていくんだけど、あの絵だけは返してほしいってことで、本人に返したよ」

 絵心があるわけではない楓なので、名のある絵描きの作品だと思っていたが、かなり買いかぶっていたようだ。それでもあの絵は印象深く、今でも頭に残っていた。

 あれから十年近く経ったわけだが、その喫茶店には短大以来通うことはなくなった。短大を卒業し、就職した会社の近くで一人暮らしを始めた。短大までは家からでも通えたが、就職先は、家からはかなり遠い。通勤しようと思えばできないわけでもなかったが、一人暮らしに憧れもあったので、楓はこれを機会に家を出ることにした。

 最初に引っ越した先は、会社まで歩いて行ける距離で、普通に歩けば、十五分ほどで会社に着けた。都会の真ん中でのマンション暮らし、これも学生時代から夢見ていたことだった。

 しかし、会社に近すぎるのも次第に億劫になってくる。毎日同じ道を通って通勤しているので、たまには寄り道でもしたくなるのだろうが、あまりにも近いと、それもしたくない気分になっていた。帰り道の途中にあるスーパーで惣菜を買いこみ、それを夕飯にする。部屋に帰っても、誰もいるわけでもなく、暗い部屋に電気が灯っても、元々人の気配がなかったのだから、暖かさを感じられるようになるまで時間が掛かる。それなのに、気が付けば、自分が部屋と同化しているようだ。暖かさを感じることもない。お風呂にお湯を溜めることもなく、シャワーだけで済ませる。夏だけでなく、冬も同じだった。湯船に浸かったとしても、暖かさを感じることができないような気がしたからだ。

――あれだけ一人暮らしをしてみたいと思っていたのに――

 元が寂しがり屋なのか、物ぐさな性格のくせに、一人が気が楽だと思っていたはずなのに、なぜに、ここまで暖かさを感じないことを虚しく思うのか、自分でもよく分からなかった。

 だが、帰りに寄り道をしようと思えばいくらでもできたはずなのだ。それをしないということは、何か普段と違うことをすることに怖さを感じていたのかも知れない。オカルトや迷信を信じているわけでもないのに、ゲンを担ぐような雰囲気に、まわりの人は楓のことを几帳面な性格だと思うだろう。

 しかし、楓は几帳面な性格というわけではなく、ただの神経質だというだけのことだった。神経質なので、普段と同じではないと気持ち悪いと感じるのだ。几帳面だと思わせるのは、男性の目から見える目が、几帳面な女性と似ているところがあるからなのかも知れない。几帳面な女性が男性の目にどのように写っているのか分からないが、ある角度から見ると、几帳面な性格に見えてしまうのだろう。几帳面ではないくせに几帳面だと思われるのは、楓にとって心外なことだった。

 また楓は自分の中に余計な余裕を持つと、自分に甘えることを分かっている。それは無意識な感情ではあるのだが、自分に甘えないようにしようとする思いが、余計な余裕を作らないようにしているのだろう。だから、帰りに寄り道するのも怖いと思っているに違いない。

 楓はこの街に引っ越してきたのは、少し会社から離れたところに住みたいという気持ちがあったのと、少しでも前に住んでいた街から離れたいという気持ちがあったからだ。一つには住んでいた街に片想いの人がいて、その人と少しでも離れたかったのだ。

 相手は楓のことを知っている程度の相手であった。同じマンションに住んでいて、時々顔を合わせることで、挨拶を交わす程度、相手から話しかけてくることもなく、楓から話しかけることもなかった。

 楓は彼を見ていて、

――ストイックな性格なのかも知れない――

 と感じていた。

 いつも表情を変えることもなく、涼し気に挨拶を交わすだけ、もっともそんな彼だから気になってしまったのだろうが、彼が会社にいる男性の誰とも違った雰囲気であることが一番気になった原因だった。

 会社の男性は、両極端な人が多かった。

 仕事に対して一心不乱で、女性に対して目もくれないような人なのか、それとも、仕事は適当で、社内の女性に対して、食指を伸ばすことに集中している人なのか、どちらにしても、楓から見ると、

――ギラギラした目を持っている――

 としか思えなかった。

 それが男だという意識が強かったので、同じマンションに住んでいた彼は、冷静で涼しげな目は、楓に新鮮な空気を与えてくれたとともに、男性に対してのイメージをあらためて考えさせられる相手でもあった。

――声を掛ける必要なんてない――

 ただ、毎日の挨拶が新鮮であれば、それでよかった。

 しかし、自分の気持ちとは裏腹に、ドキドキしたものがこみ上げてくる。それは無意識にこみ上げてくるものだったが、その正体が何なのか、楓には分からなかった。

 新鮮な空気はいつの間にか、新しい風を思わせ、その風がどこから吹いてくるものなのか、考えさせられた。

 その時、ふと感じたのは、短大時代に喫茶店で見た絵だった。

 一瞬ではあったが思い出した絵の中で、コテージのイメージが頭の中を通り抜けた。そして、すぐに記憶の奥に封印されたのか、それから思い出そうとしても、その光景を思い出すことができなくなってしまったのだ。

 それまでも、何度か思い出そうとして、思い出すことができなかった絵だった。思い出すのは突発的ではなく、定期的に頭の中でイメージしようと無意識に頭の中が反応するのだった。

 思い出すことができないことで、

――思い出そうとすることは、きっと最初は記憶の奥から引き出そうとする無意識な気持ちがあったのだろうが、そこにはどうしても無理が働いてしまい、無理をすることで、せっかく引き出そうとした記憶を、また記憶の奥に追いやってしまう結果を招いてしまうのではないだろうか?

 と感じるようになっていた。

 無意識に感じたことは無意識のまま、無理をしない方がいいのだろうが、一度意識してしまうと、そうもいかなくなる。思い出せないことが焦りに繋がって、そのまま自分の存在価値すら疑問に感じてしまうほど、深刻に落ち込んでしまうほどであった。

 彼のことを片想いでいれば、それでもよかったはずなのに、片想いという言葉を意識した瞬間に思い出した絵の風景を、どうしても思い出せないことで、楓は自分の中に無用な意識が働いた。

 それが焦りになったのだろう。片想いという言葉を否定しようとしている自分がいることに気付いたのだ。

 それは、拒否ではなく、否定だった。

 拒否であれば、一時的なもので、また彼への気持ちを繋ぎとめることができると思うのだが、自分の気持ちを否定してしまうと、今度は一時的なものではなく、後戻りすることができない。

 なぜ、彼への気持ちを否定しなければいけないほどになったのかというと、彼には付き合っている女性がいて、近く婚約をするという話を聞いたからだ。

――もし、自分が彼に気持ちを伝えていれば、こんな気持ちにはならなかったのに――

 こんな気持ちというのは、もちろん、後悔することだった。

――話しかけていれば、失恋したかも知れないが、当たって砕けたことで、さっぱりした気分にもなれたかも知れない――

 と思ったからだ。

 すべては結果論でしかないが、結果論も結果のうちである。結果だけを考えると、自分の考えを拒否するだけでは自分を許すことができない。自分を一度否定してしまわないと、自分で納得することができないと思うのだった。

 何となく負い目を感じながらの引っ越しであったが、自分の中で、

――逃げている――

 という意識はなかった。

 もし、自分の考えを拒否する程度であれば、逃げているという感覚に陥ったかも知れないが、自分を否定しているのであれば、それは逃げていることにはならないと思った。その考えが正しいのか間違っているのか確かめるすべはないが、引っ越して来た先で再度、自分を肯定してみようと思えるかどうか、自分の環境を変えるということが、どれほど大きな影響をもたらすのかということが、楓には分かりそうな気がしていた。

 普通であれば、たかが失恋。しかも片想いだったというだけのことで、何が自分を否定する必要があるのかと思われるであろう。

 片想いだったからこそ、自分の中でだけで解決しなければいけないこと、今まで生きてきた自分が片想いであったとしても、人を好きになるなど、考えたこともなかった。

 その時、

――どうして今まで人を好きになったりしなかったのだろう?

 と感じた。それは、片想いであっても、人を好きになるということが、今までの自分にはなかった新鮮な気持ちにさせてくれたことであることが分かったからだ。

 それが失恋に繋がっても、自分で納得できたはずだった。自分にも人を好きになることができる気持ちがあったということで、それだけで満足できるはずだったのに、なぜ、自分を否定してしまいたくなるほどに苦しまなければいけないのか、自分の気持ちの変化に、自意識がついていけなかったのだ。

 だが、その男性とは少しだけ口を利いたことがあるだけだった。

――この人には、彼女がいるんだ――

 考えてみれば、今まで人を好きになったことのない自分が初めて好きになった人である。そんな人に彼女がいても不思議ではない。逆に彼女がいると言われた方が納得もいく。彼女もいないような相手であれば、

――私は、彼女もいないような男性を好きになったのかしら?

 と、自分の恋愛間隔を疑ってみたくもなるかも知れない。まだ、そこまで自分の恋愛感覚に自信もなければ、ハッキリとした感覚があるわけでもない。だが、一度でも人を好きになると、そこから少しでも今までの自分から変われるような気がした。少なくとも、少しでも自分を好きになれるのではないかという思いが生まれただけでも、いいことなのかも知れない。

 自分のことを好きになれなかった理由は、子供の頃、苛められるきっかけになった「お弁当事件」が原因だった。

 あの時は、せっかく母親が作ってくれたお弁当をひっくり返されたことで怒りを覚えたのだったが、もちろん、それは母親をバカにされたような気がしたことでの怒りだった。しかし、その頃の楓は、母親のことを自分が怒りを覚えるほどまでに好きではなかったのである。むしろ、いつも家では口やかましい母親に対して、心の奥では恨んでいた。それなのに、

――なぜ、あの時、友達に逆らってしまったのだろう?

 何のために身体を震わせるほどの怒りを覚えたのか、その時は後悔したが、その後悔がどこから来るものなのか分からなかった。

 怒りを向けられた矛先に後悔する理由がないのだから、当たり前のことである。

――あの時は、精神的なバランスが崩れていたんだ――

 と感じた。

 あの時は怒りがこみ上げてきたのだが、何に対しての怒りなのか分からなかった。それを正当化するために、母親をバカにされたことへの怒りだと、自分で勝手に思いこんでいたのだった。そのことがずっと引っかかっていたことも、子供の頃に苛めがなかなかなくならなかった理由でもあるし、今までに男性を好きになることがなかったことの原因だったのかも知れない。

 男性を好きになった時、それまで感じたことのない心地よさを感じたが、それと同時に、何か胸を締め付けられるような思いもあった。

 切ない気持ちと言えば一番適切なのだろうか。きっと精神のバランスを保とうとする気持ちが、絶えずどちらかに気持ちの重きを持って行こうとしていたに違いない。

 そのバランスが整わず、行ったり来たりしている間、

――最後には帳尻を合わせることになるんだ――

 と、どこか自分で諦めの境地に達していたのだろう。

 だから、片想いで終わってしまうのだ。告白すると、精神のバランスが崩れ、最後に合わせるべき帳尻が見えてこないことを怖がっていたのかも知れない。そんな自分が嫌になりかけていたのだ。

――引っ越すことで、何かが変わるかも知れない――

 という思いを持って引っ越してきたのだが、その気持ちの持ちようの中に、何か隙のようなものがあったのだろうか? 引っ越してきてからの楓はそれまでの楓とは違っていた。そのことはまわりから指摘されるまで分からなかったが、指摘されてみると、

――最初から分かっていたような気がする――

 と感じるのだった。

 引っ越しのための時間はたくさん持っていたが、ある程度までの片づけは一気にしてしまいたかった。三日引っ越しに費やそうと思っていた一日目で、あらかたの片づけは終わった。

――後は、ゆっくりとやればいい――

 と思うのだが、一度落ち着いてしまうと、それ以上やろうと思わなくなるのも楓の性格で、それでも最後の一日が終わった時には、体裁はしっかりと整っている。今回も同じことの繰り返しだろう。

 一日目が終わって一段落ついてしまうと、なぜかこの部屋にいようとは思わなかった。シャワーを浴びてから、夕飯は表で食べようと思い、午後七時頃に部屋を出た。近くに何があるのか知っているわけではなかったが、大通りが近くにあることで、そこまで行けば、何かあるだろうことは想像がついた。

 近くのファミレスで、カレーを食べて帰ってくると、ちょうど隣の人がお出かけから帰ってきたところを出くわした。隣には新婚夫婦が住んでいるということは不動産屋さんから聞かされていたので、仲睦まじい二人を見てすぐに、

――お隣の新婚夫婦だわ――

 とすぐに分かった。

「隣に引っ越してきた桜井です。宜しくお願いします」

「これはご丁寧に、私たちは隣の山崎です。ここに住んで一年になるので、分からないことがあれば聞いてくださいね」

 奥さんが旦那さんを制して話してくれた。女性相手には、奥さんが話す方がしっくりくるのかも知れない。

「ありがとうございます」

 引っ越しの挨拶の手間が省けたことはありがたかった。一見、仲睦まじい新婚夫婦、何でも聞いてくださいとは言われたが、無粋なことにはなりたくない。今日のように偶然出会うのであれば聞きやすいが、わざわざ、部屋に赴くようなことは、まだまだ敷居が高い気がした。

 引っ越しの片づけもほとんど終わった月曜日の夜、前日までは引っ越しの疲れからか、襲ってくる睡魔に勝てず、すぐに眠ってしまっていたのだが、その日はそれまでとは打って変わって、夜が更けるにしたがって、目が冴えてきた。

 今までにも夜の方が目が冴えることはあった。眠れないと思えば思うほど、焦るのだが、そんな時はテレビをつけて、番組を見ているわけではなく、画面から流れる映像を、何も考えずに見ているだけだった。そうすることで、時間が勝手に過ぎていくという意識が生まれ、そのうちに眠ってしまっているというのが、今までのパターンだったのだ。

 その日も、画面から流れる映像を、何も考えずに眺めていた。部屋を真っ暗にして見ていると、まわりの音が気にならなくなり、部屋の中が真空状態になったかのように、何も聞こえなくなってしまう。

 その日も布団の中から毛布にくるまるようにして映像を見ていたが、軽音楽が流れる中で、景色だけが音楽に合わせて流れていた。何も考えずに見るにはちょうどいい。同じように眠れない時には、結構風景映像の番組を見ることが多い楓だった。今回の風景は欧州のどこかの国の映像に思えた。森の中を流れる川を舞台に、景色が展開されていく。ほとんど深緑一色の光景は、涼し気に見えるが、何も起こるはずもない光景からは、自分が船に乗って川を下っている印象を受ける。流れが急になると、身体が浮いてくるような錯覚を覚え、そのうちにどこかに流れ着きそうな予感がしてくるのだった。

――こんな光景を、以前にもどこかで見たことがあるような気がする――

 と感じた。

 一番可能性があるのは、前にも同じように眠れなかった時に見た深夜放送の光景、同じシチュエーションなのに、すぐに思い出せないのは、やはり引っ越しをしたことで、部屋が変わっているからなのかも知れない。

 しかも、今回は同じ光景でも違って感じるのは、誰もいない風景の中に、誰かの存在を感じたからだった。今までにも同じように、深夜放送を見ていて、そこには誰もいないはずなのに、人の気配を感じたことがあったが、

――一番最後に意識して見た人だったような気がする――

 という意識が残っていた。

――ということは、今回は山崎夫婦ということになるのかな?

 と思いながら、映像の中で、山崎夫婦を思い浮かべてみた。

 しかし、最初に意識してしまうと、得てして予感までは感じることができても、それ以上のことは起こらない。意識がアダになることもあるのだ。

 そんなことを思いながら見ていると、さっきまで欧州のどこかの国だと思って見ていた光景がいつの間にか、違う意識に変わっていた。そしてまたしても、

――こんな光景を、以前にもどこかで見たことがあるような気がする――

 と感じたのだ。

 一晩に二度までも同じような感覚に陥ったことなどなかったはずだ。

 その光景が、以前に短大時代に馴染みの喫茶店で見た絵だということに、すぐに気付いた。もし、すぐに気付かなければ、永遠に気付かなかったのではないかと思うのは、気付いたタイミングが、絶妙だったと感じたからだ。

 短大時代と言えば、十年も前の話。そんな昔の記憶を思い出すなど、あまり記憶力のよくない楓にしてみれば、奇跡に近いくらいだった。それを思うと、一度で思い出したのであれば、それはタイミングが絶妙だったとしか思えないではないか。これも何かの縁だと思うのも、無理もないことなのかも知れない。

 ただ、楓は今までの経験上、十年という単位で何かを感じているような気がした。それは今から十年前ということに限ったわけではなく、昨年であれば、十一年前、その前の年であれば、十二年前と、その時々で、十年という単位が自分の意識や記憶を反映させているように思えてならなかった。

 何かがあったというわけではない。漠然とそう感じるだけなのだが、感じるということは、その瞬間にちょうど十年前のことを思い出してはいるのだが、一度記憶を跳ね返らせると、もう一度思い出した記憶を引っ張り出すのは無理なことだった。だから、意識の中で、

――漠然として――

 としか感じさせないのだった。

 画面をじっと見ていたつもりだったが、気が付けば眠ってしまっていたようだ。番組はすでに変わっていて、時計を見れば、起きる時間が近づいていた。

 いや、目が覚めるにしたがって意識がハッキリしてくると、今日という日が休みであることを思い出した。

――このまま寝ていても問題ない――

 と思うと安心してきた。

 それにしても、いつの間にか寝ていたということは、さっきのテレビの画面は夢だったのかも知れないと思うようになっていた。

 そのことを考えていると、以前に感じたことを思い出した。

――夢を見ているという夢を見たことがあった――

 その日も目が覚めるにしたがって意識がハッキリしてきていると思っているが、その日が休みだということでホッとしてしまい、完全に目を覚ますことができなくなっている。まるで夢の中にいるような感覚だが、このまま眠ってしまうことが、今度は怖くなってきた。

――あの時も感じたことだったけど、このまま目が覚めないなんてことはないわよね――

 確かに以前、夢を見ているという夢を見ていた時、

――ひょっとして、このまま目が覚めなかったらどうしよう――

 と感じたのを思い出した。

 あの時は、夢の中で何かを思い出そうとしていた気がする。夢の中でなければ思い出せないことだから、自分の中で無意識に、

――夢から覚めたくない――

 という思いがその時はあった。

 だが、思い出したいことをその時、夢の中で思い出したのだ。思い出してしまえば、そのまま目が覚めてくれると思っていたのに、一向に目を覚ます気配がなかった。そのことが今度は、

――このまま目が覚めないなんてことはないだろうか?

 という恐怖を感じさせ、その時初めて、

――夢を見ているという夢を見ているのではないだろうか?

 と感じたのだ。

 ということは、今回同じ感覚であるということは、何か夢の中で思い出したいことがあり、それを一度思い出したことで、このまま夢から覚めないかも知れないという恐怖がよみがえってきたのではないかと感じた。

 しかし、夢の中でしか思い出せないという思いを感じたわけではなかった。ただ、漠然と、

――夢を見ているという夢を見ているんだ――

 と感じただけだった。

 何か肝心なことが抜け落ちている。それが何なのか分からなかったが、ゆっくり思い出してくると、テレビの画面を見ていた自分が頭の中によみがえってきた。

 確かに画面の中で、今まで見たことがあるような光景を思い出したような気がしたのだ。それが短大時代に見た絵の光景だというところに落ち着くまでに、少し時間が掛かった。そのおかげで目が覚めることができるような気がした。

 だが、目が覚めてしまうと、せっかく意識したことが今度は忘れてしまうように思えて複雑な心境だった。

――思い出したということは、何か意味があることではなかったのだろうか?

 と思うと、このまま夢から覚めてしまってもいいのかが気になっていた。

 しかし、本当に何か意味のあることなら、目が覚めて忘れてしまっても、近い将来、もう一度思い出す機会が訪れる気がした。そして、そのことを思い出した時、一緒に今日のことも思い出せそうな気もしている。その時こそ、今日見た夢が何のためだったのかということも、分かるのではないかと思うのだ。

 もちろん、そこに何か意味があるのであればの話であるが、楓にはどうしても、この夢が意味のないことだったとは思えなかった。やはり、夢を見ているという夢には、どこか続きがあるように思えてならないからだった。

 その思いが実現するまでに、どれだけの時間が必要なのか、その時々で違いはあるのだろうが、それは夢の長さに比例しているのではないかと思っている、同じ夢を見るのでも、長い夢を見ているとすれば、それだけ少し時間も掛かるのだろう。

 夢というのが、自分にその意味を感じさせるまでの準備だとすれば、夢の長さが比例するというのも、決して無理な考えではないような気がしていたのだ。

 楓は、次の日が休みだということで、油断したのだろうか、朝から体調が悪かった。一人暮らしを初めて、何が一番辛いかというと、体調が悪い時に寂しさを感じてしまうと、普段よりも不安感が一気に増してきて、まるで鬱状態に陥ってしまったかのようになってしまう。

 テレビを見ていても、画面に集中できない。普段なら、目は画面を向いていても、番組に集中していない時があったとしても、考え事をしているだけだと思うことで、別に気にすることではないのに、体調が悪い時、画面に集中できないと、その日は何をやってもうまくいかないような気がして仕方がない。

 体調が悪いのだから、寝ていればいいのだが、じっと寝ていると、却って身体が固まってしまうことで、膠着した状態が続き、痙攣を起こしてしまいそうになる。寝返りを打っても、治るものでもなく、

――薬を飲んで、眠ってしまうしかないのかも知れない――

 と感じるのだった。

――とにかく眠ってしまいたい――

 と思えば思うほど、なかなか眠れないものなのだが、気が付けば眠りに就いていることもあるので、薬を飲んだら大人しくしているしかなかった。その日は、うまいこと薬を飲んでしばらくすると睡魔が襲ってきた。

――今なら、眠ってしまえそうだ――

 と、感じていると、さっきまでの気分の悪さがウソのように、心地よさから、眠りに就いていたようだ。

 やはり夢を見ていた。その日は、夢の中でも頭痛がしていたようだ。頭痛がする中で、自分は何かを探しているのを感じた。彷徨っているというのが一番適切な表現なのかも知れない。

 家の近くを歩いていて、角を曲がればマンションが見えてくると思って曲がってみると、さっきまで歩いていた道に、またしても出てきてしまった。そして、前を見ると、さっき自分が曲がったその場所を今にも曲がろうとしている人が見えた。

――私だ――

 思わず、声が出そうになるのを必死に抑えたが、もし抑えなくても、自分では声を出したつもりでいても、前の角を曲がろうとしている女性に聞こえるはずはなかった。

 それなのに、彼女はこちらを振り向いた。しかし、見えていないのか、すぐに踵を返すと、そのまま角を曲がり、姿が消えた。

――そういえば――

 今、思えばさっき角を曲がろうとした時、何かに気が付いたような気がしたのを思い出した。それは、まるで今目の前の自分が気が付いたことで思い出したかのようだった。そんなことがありうるのだろうか?

 それこそ夢の世界のようである。夢の中であれば、自分の潜在意識の世界、後から思いついたことが、最初から感じていたように思うことなど、不思議でも何でもないことである。

 だが、角を曲がると最初に通った場所に戻ってきたはずなのに、最初にこの道に差し掛かった時に、何かを感じたという意識はない。むしろ、角を曲がった瞬間、嫌な予感がしただけだった。

 もう一度同じ道を歩いていると、今度角を曲がった時、また同じところに出てくるような気がしなかった。今度はどこに出るというのだろう?

 同じ道を歩き始めた時には、すでに夢を見ているという自覚はあった。夢を見ていると感じるようになったのがいつからなのかということを、考えていたが、考えられることとすれば、角を曲がった時以外には考えられなかった。

――あの時――

 後ろから誰かに見られているのを承知していたはずなのに、角を曲がった瞬間、

――ここは夢の世界なんだわ――

 と感じたその時に、見られていたことも、ひょっとすると、最初から夢の世界だという意識を持っていたことも、すべて一度リセットされたのかも知れない。

 そして、二度目に同じ角を曲がった時、楓は腰を抜かすほど驚いた。そこには最初に差し掛かった道が広がっているだけだと思っていたので無理もないことだった。そこには、一人の女性がこちらを向いて立っている。見たこともない女性だった。

 その女性はこちらの驚きとはまったく正反対で、表情がなかった。

――何を考えているのか分からない――

 第一印象は、そう感じた。怖いというよりも、最初にあれだけ驚いたはずなのに、次の瞬間、驚きどころか、驚きすら吸いこんでしまうような、こんな落ち着きが自分の中にあったのだということを思い知らされたのだった。

――本当に、今のは二回目に曲がった時なんだろうか?

 前にも同じように曲がったとさっきまで思っていたのに、曲がってみると、最初の記憶が消えていることに気が付いた。

――夢の中で、時系列が戻ってしまったのかしら?

 とも思ったが、どうもそうではないようだ。やはり、初めて曲がったという意識が強い。

――ではさっきの感覚は何だったのだろう?

 考えられるのは、以前に曲がった時のことを夢の中でフラッシュバックしているのではないかという思いであった。一番分かりやすい解釈だが、夢の中というのは、案外分かりやすい解釈で考えた方が、納得できるものなのかも知れない。

 目の前に立ちはだかった女性を見ていると、血色が感じられない。その人がもう、この世の人でないことは一目瞭然だった。

 思わず楓は、彼女の足元を見てみた。

――やっぱり影がない――

 と思い、顔を上げて、正面から彼女を見ると、初めて二コリと笑っていた。

 だが、相変わらず何も喋ろうとしない。何かを言いたいような気がするのだが、こちらから聞こうと思うと、今まで二コリと微笑んでいた表情が、またしても感情のない表情に戻ってしまっていた。

――これでは何も聞けないわ――

 と思うと、このまま睨み合いがずっと続くのではないかと思えてならなかった。すでに楓は金縛りに遭っていて、動くことができないでいた。あとは、夢から覚めてくれることを願うばかりだった。

――これって怖い夢なのかしら?

 今まで、

――夢なら早く覚めてほしい――

 と思うのは、怖い夢を見た時だと決まっていた。楽しい夢を見ているのに、早く覚めてほしいなどと思うはずもないからだ。

 しかし、楓はこれを怖い夢だという意識はない。確かに金縛りに遭ってしまい、いつ終わるとも知れない睨み合いの真っ只中にいるのだから、早く覚めてほしいと思うのも無理のないことだが、それが怖い夢という認識に、どうしても結びついてこないのだった。

 楓は、自分は霊感が強いなどという意識を今までに持ったこともなければ、幽霊を怖いという思いがあっても、それを現実味を帯びて考えることはなかった。それでも、

――早く夢なら覚めてほしい――

 と思ったからであろうか。今度は、また布団の中だった。

――あれ?

 今度は、寝る前に見ていた番組の続きが映し出されていた。

――さっき、目を覚ましたと思ったのは、何だったんだろう?

 朝、目が覚めて体調が悪いから薬を飲んで眠ったはずなのに、その記憶を持ったまま、時計を見ると、確かに同じ日の早朝だった。

――体調が悪いと思っていた朝は、夢だったのかしら?

 今までにも同じようなことがあったような気がした。目が覚めて、体調が悪いと思い、薬を飲んで寝ると夢を見ていた。

 目が覚めると、体調が悪いと思ったその前の時間に戻っていたという、今回とまったく同じ現象だった。あの時のことがまるで昨日のことのように思い出されたが、今から思えば、却って夢を見ていたような錯覚に陥るから不思議だった。

 真っ暗な部屋の中で流れている映像を見ていると、

――なかなか眠れない――

 とさっきまで感じていたのを思い出した。

 今からもう一度寝ようとは思わないので、眠れないことでイライラすることはなかったが、テレビ画面を見ていると、吸い込まれそうになる錯覚を覚えながら、

――今見ている映像も、夢なのかも知れない――

 と感じていた。

 ただ、さっきまでとの一番の違いは、さっきまでは自分が感じているよりも、時間がなかなか過ぎてくれなかったが、今は、あっという間に時間が過ぎていくような気がする。しかもさっきまで集中できなかったはずの画面に集中している自分を感じると、気が付いたら夜が明けていたというオチを迎えるように思えてならなかったのだ。

――テレビ画面に集中しないようにしよう――

 というさっきとは正反対の感情を持っていたが、却って意識すると、意識とは裏腹の行動に出てしまうのが人間というものなのかも知れない。しかも、画面を見ているうちに、

――やっぱり、どこかで見たことのあるような光景なのよね――

 と感じるのだった。

 そのうちに森を抜けるか抜けないかという風景の中で、コテージのようなものが見えてきた。

――あっ、以前喫茶店で見た絵だ――

 と、条件反射のように思い出した。

 その瞬間、今度は睡魔が襲ってきて、さっきまで眠れないと思っていたのがウソのように、もう目を開けていられなくなった。

――テレビを消さなければ――

 と、寝るのならテレビを消さないといけないという律儀な思いが頭を過ぎったが、すでに身体は動かなかった。

――夢を見ているという夢を見るかも知れない――

 と思いながら、眠りに就いていた。そう思うと夢を見るに違いない。だからこれから見るものはすべてが夢なのだ。そして、今まで見ていたテレビの画面も夢の中でのことだったに違いない……。

 やはり、見ているのは夢である。目の前にまたしても知れない女性がいた。

「あなたは誰なの?」

 と聞いてみると、彼女は横を向いたまま正面を見ようとはしなかった。

「私は、幽霊なのよ。成仏できずに、この世を彷徨っているの。もう十年になるわね」

 その人は、二十歳前後くらいに見えた。本人は幽霊と言っているが、よくテレビに出てくるような白装束の衣装に、三角巾を頭に巻いているわけでもない。幽霊と言われて、

「はい、そうですか」

 と、簡単に信じられるものではない。服装も普段着で、ただ、楓には彼女を見ていると、

「はい、そうですか」

 と答えてしまうように思えていた。

「一体、成仏できない理由は?」

「失恋……」

 まだ横を向いたまま、少し俯き加減で答えた。女性にとっての失恋は、かなり大事件であることは楓にも分かっていたが、成仏できない理由に失恋というのは、いささか軽いような気がしてならない。本当にそれだけなのだろうか?

 ただ、失恋と聞いて成仏できないということを考えると、

「あなた、ひょっとして自殺したの?」

 と訊ねると、さらに寂しそうな顔をして、うつむき加減の状態から、頭を縦に振った。

「そう。成仏できない理由の一つには、その自殺というのも大きかったのかも知れないわね」

「私には、成仏できない理由は分からないけど、成仏できないということは、同じ死者から教えられたの。その人は私と同じ時期に亡くなった人で、自分は死の世界に行くけど、あなたは行けないんだって、言われたわ」

 死の世界というのは、同じ時期に死んだ人を使って、成仏できない人を諭すようになっているのだろうか? もしそうだとすると、使者が出てくるわけではなく、同じ時期に死んだ人に言わせるのだとすると、そこに何の意味があるというのだろうか?

 考えられることとすれば、彼女のように現世を彷徨うことになった時、今のように、

――化けて出た――

 その時、自分たちのことを話されては都合が悪いとでもいうのだろうか? ただ、これも生きている者の勝手な理屈、相手を知らないだけに、想像でしかない。しかも、楓は、いや楓に限らず、生きている人間はこの世のことを、現世と呼ぶ。あくまでも自分たちがいる世界が、

――真実の世界――

 という考えである。

 考えてみれば、「この世」、「あの世」という言い方もおかしなものだ。「この」、「あの」というと、実に近い距離を想像するが、実際には「あの世」の存在を信じている人ばかりではないだろう。意外と信じていない人が「この世」、「あの世」などという言い方を始めたのかも知れない。もし、信じているのであれば、「あの」などという近い距離の喩えの言葉を使うはずもない。

――信じられない――

 と思いながらも、頭ごなしに否定できない中途半端な気持ちが、生きているこの世界を中心に、中途半端な考えを言葉にした結果が「この世」、「あの世」となったのではないだろうか。

 楓の夢の中に現れた幽霊に対して楓は、自分も同じ中途半端にしか考えられないことを自覚していた。だから、考えのすべては「この世」であり、だからこそ、逆に彼女のいう言葉は信じられないというよりも、新たに新鮮な気持ちで聞いてみようという思いに駆られているのを感じた。そう思うと、怖いなどという感覚は失せていて、親近感すら覚えるのだった。

 相手にも、こちらが親近感を持ったことが伝わったのだろうか、表情が落ち着いてきたのが分かる気がした。ひょっとして、幽霊の方も生きている人間と接することは勇気のいることなのかも知れない。

「私、これでも緊張していたんですよ」

 と言って微笑んでいた。幽霊と言ってもまだ二十歳そこそこにしか見えない相手、彼女がいつ亡くなったのか分からないけど、失恋で自殺するほどシャイなハートの持ち主のわりに、自殺という思い切ったことをする危険性を孕んだ女性であることは分かった。それだけ、まだまだ子供だとも言えるだろう。

「あなたは、いつ自殺したの?」

「十年前になるわ」

 この世と、彼女が彷徨っている世界で、どれほどの時間に対しての感覚的な違いがあるのか分からないが、十年というと気が遠くなるほどの年月にしか思えてならなかった。十年もの間、一つのことを考えながら彷徨っているなど、想像を絶するものがある。さぞや数えきれないほどの堂々巡りを繰り返しているのだろう。楓は自分の身に置き換えて考えてみようと思ったが、できるはずもなかった。

――堂々巡り?

 先ほど夢の中で一つの角を曲がると、その先の角を曲がる自分を見る夢を見た。これも何かの堂々巡りを暗示させるものだったのではないかと思うと、あの時にも、

――これは何かの予兆のような気がする――

 と感じたのを思い出した。

 いや、正確にはあの時に本当に感じたという意識はなかったような気がする。今から考えると結果論として、その時に何かを感じたような気がするというのを感じるのだった。

――人って、得てしてそういうことがあるのかも知れない――

 虫の知らせであったり、予知能力だったりと言われるものというのは、誰もが持っていて発揮する力もあるのだろうが、発揮できる時間があまりにも一瞬のことなので、発揮できたとしても、すぐに意識から消えてしまい、遠い将来において、

――ひょっとすれば思い出す――

 というようなものなのかも知れない。

 後になって思い出した時には、それが虫の知らせであったり、予知能力であったりという意識はすでになく、意識の中の曖昧な部分としてしか記憶されていない。そんな意識を自覚できる人がいるとすれば、その人はよほど自分というものに自信を持てる人であるに違いない。

 最初は幽霊など信じられるものではなく、ただ夢を見ているだけだと思っていた。いや、今もきっと夢を見ているのであろう。

――限りなく現実に近い夢――

 それが、目を覚ます寸前に、夢の世界のことを忘れている瞬間であったとすれば、楓は幽霊の存在を信じようが信じまいが、自分の意識を曖昧な形で消したくはないという思いだけは信じようと思うようになっていた。

――どうして彼女は私のところに現れたのだろう?

 という疑問は、今考えていることが答えを出してくれているような気がしていた。

 夢と現実の狭間の世界のことを、楓は時々考えるようになっていた。

――夢を見ている夢を見る――

 という考えもその一つで、ある条件が揃うことでそんなことも起こりうると思っていた。そこには夢と現実の狭間の世界が存在し、夢にもれっきとした世界があって、現実世界に戻った時、通る狭間の世界で、夢の世界の記憶を消し去る役目を持つ世界が、存在しているのではないかと思うのだった。

 ただ、そんな考えを持っていることなど、普段はまったく意識しない。これも何かの発想が頭を過ぎった時に感じることで、いきなり発想が頭をよぎることはない。本人にとっては、

――いきなり思いついた――

 という意識があるのだが、実際はそんなことはない。幽霊と思しき女性と出会ったことで、そのあたりの思考回路が明らかになりそうな気がした。

 しかし、逆に明らかになったとしても、またそれは幽霊と一緒のこの時間だけの発想であって、現実に目覚めてしまえば忘れてしまうことなのかも知れない。

――それでもいいか――

 と思いながらも、忘れたくはないという思いも強く、今までになかった夢と現実の狭間の世界を見てみたいという思いが、この先どのように幽霊に対して接していけないいのかということにも重なって、少なくとも何かの結論めいたものを見つけられそうな気がしてきたのは事実だった。

「ところで、あなたお名前は何て言うんですか? 幽霊さんって話しかけるのもおかしなものですからね」

「私は相川ミチルと言います。死んだ時は十八歳でした」

 二十歳を過ぎていると思い、それでも少し幼さがあるように思えたが、それでも十八歳には見えなかった。彼女に対する幼さは、落ち着きを感じる反動で見え隠れするものだと思っていたので、落ち着きの方が断然強く感じられ、それだけ未成年には見えなかったのだ。

「未成年だったんだ。高校三年生?」

「ええ、卒業間近だったわ」

 未成年ということよりも、楓には彼女が高校生だったということの方が強い印象を与えた。楓自身、未成年と成人との間よりも、高校生から短大生になった時の方が遥かに大きな差を感じたからだ。その差を知ることもなく死んでしまった。しかも、自らで命を断ってしまった。その事実は、楓を神妙な気持ちにさせるに十分だった。

 高校生の頃の楓には、自ら命を断つなどという勇気もなかった。だから、ミチルに対して、自殺したことへの戒めを口にする資格など、最初からないものだということは心得ている。ただ、自殺しなかったのは勇気がなかったからだと思っていた楓も、目の前のミチルを見ていると、それだけではなかったように思えてならなかった。なぜなら、高校時代、自殺をしないまでも、自殺を考えることは、何度かあったからだ。

 もっとも、今となっては、高校生の頃、

――自殺を一度も考えなかった人なんていないんじゃないかしら?

 と思うようになっていた。それだけ高校時代というのは、楓にとって、グレーに近い、曖昧な精神状態だったように思えるからだ。

 だからといって、誰もが皆同じ考えだとは言えないだろう。それでも、高校時代のまわりの皆を見ている限り、同じような表情だったのを、今でも思い浮かべる「ことができるからだった。

 自殺をしようと考える時間が長ければ長いほど、その気持ちが強いというものではない。それだけ迷っているという証拠だからだ。楓はふと買い物をする時の気持ちを思い出していた。

――高いものや安いものを買う時よりも、中途半端な高さのモノを買う時の方が、結構迷うもの――

 と、楓はいつも思っていた。

 安いものを買う時は、迷うこともない。高いものを買う時は、買う段階になった時には、すでに買うという気持ちを固めている。中途半端な値段のものほど、迷いが生じ易い、それはたくさんの可能性を考えてしまうからだ。

――これを買ってしまうと、後でこのお金が必要になって足りなくなったらどうしよう――

 あるいは、

――他のお店にいけば、同じものでも、安く売っているかも知れない――

 などと、頭を過ぎると、なかなか手を出しにくくなってしまう。迷いが袋小路に入り込むと、まさしく可能性の問題が膨れ上がることになる。

――自殺を中途半端な気持ちでなんかできるはずない――

 という気持ちがあるから、本当に自殺してしまう人は一握りなのだろう。実際に自殺をしなかった人は、自殺をしようと考えたことを思い出すなど、あまりないことのように思えていた。楓もミチルと出会わなければ、自分が高校時代に自殺を考えたことがあったなどということを思い出すことはなかったに違いない。

 楓は、高いものを買う時のことを思い出した時、短大時代に付き合っていた男性を別れたのを思い出した。

 付き合い始めた時、

「小説家を目指すんだ」

 と言って、燃えていたのが印象的で、眩しく見えた。しかし、付き合っているうちに彼の口から出てくる言葉があまりにも軽すぎるので、おかしいと思って冷静に見ていると、彼の言葉のほとんどが口から出まかせ、適当なことを言っては、相手に信用を与えていただけだったのだ。

 ウソをついているというわけではなかったのだが、安易に信用させるというのは、ウソをついているのと同じ。いや、もっとたちが悪いことなのかも知れない。楓はそんな彼に見切りをつけたが、その時彼の本性が見えた。

 未練たっぷりにしがみついてくるような彼の態度に、完全に嫌気が差していた。そして、彼に対して別れを口にした時の自分が、すでに彼との気持ちを断絶していたことに気がついた。

――私に限らず、思いを口にする時というのは、すでに腹は決まっている時なんだわ――

 それが女性一般に言えることだということをその時楓は知らなかったが、ミチルと話をしているうちに、そのことに気付き始める。ミチルを見ていると、自分を写しているように思えてならなかったのだ。

 だが、その彼と付き合っていた時の短大時代というのが、本当に彼だけが悪いのかと言われると、そうでもないような気がしていた。

 確かに彼は、小説家を目指すと言って、実際にすぐに挫折したのだったが、楓はそんな彼の表面上しか見えていなかったことに、その時は気付かなかった。

 彼が楓に執着したのも、楓が彼の考えているよりも諦めが早かったからではないだろうか。楓は見えているところだけで判断していたのではないかとしか思えなかったのだ。それは、短大時代が自分にとてある程度有頂天で始まった時期であり、今から思えば喜怒哀楽の一番激しかった時期だった。それだけに、一つのことを思うと、それがすべて正しいという思いこみに駆られてしまうこともあったであろう。特に彼に対しての思いは楓の独りよがりだったとも言えなくもない。そういう意味では彼に悪いことをしたという思いを今は抱いていた。

 彼は確かに小説家を目指していた。その途中で苦悩を繰り返していたのも、本当は分かっていたのかも知れない。だが、それも表面上しか見ていなかったので、彼の本心を見ようとしなかっただけだった。

 そのため、彼に対して過大な思いを抱いていたのも事実で、少なくとも自分よりもしっかりしているという思いがあった。

 しっかりしているという思いが少しでも揺らいでくれば、

――しっかりしていてほしい――

 という思いにトーンダウンすればよかったのだろうが、いきなり彼に対して拒絶反応を起こしてしまったことで、自分の中にある思いが、どこに向かっているのか分からなくなってしまった。

 楓は彼が、

「小説家を目指している」

 と言った時点で、最初から過大な評価を自分の中に植えつけてしまった。それがそもそもの間違いだったのではないだろうか。思いこみは相手に対しての目線を違えてしまう。そのことに気付かなかったことで、彼にいきなり最後通牒を突きつけるようになってしまったのだろう。

 ただ、別れてからすぐは、少し後悔もあったかも知れない。それを自分の中で納得させるためには、

――後悔などしていない――

 と自分に言い聞かせることが大切だった。

 彼とは、初めて付き合った男性であった。新鮮な気持ちで付き合い始めたはずなのに、その思いを彼の方が一方的に壊したと思いこんだ楓は、彼と別れてから、他の男性と付き合うこともなかった。

 その理由の一つとしては、別れるのはいきなりだったのだが、付き合っている間、自分の中で、結構ズルズルと付き合っていたような気がしている。本当ならもっと早く別れを切り出していれば、いきなり別れるというような彼にとってスッキリとしない別れ方にならなかったのだろう。

 それも、今から思えば、

――女性一般に言えることだったのかも知れない――

 と感じることで、

「女の人の性格として、ギリギリまで我慢するけど、我慢ができなくなると、後は相手が何と言おうとも腹は決まっているので、どうすることもできなくなるのよね。私も同じ女性として、因果なものだって思うわ」

 楓がスッキリとしない別れ方をしてからしばらくして、友達から聞いた話だった。その時は何も言わずに、ただ黙って聞いていたが、彼女の話を自分に置き換えて聞いていると、身に沁みてくるように思えてならなかった。

 確かに楓は彼との付き合いをギリギリまで引き延ばしていたような気がした。

――別れようと思えば、それまでにいくらでも機会はあったような気がする――

 と感じたからで、

――どうして別れようとしなかったのか?

 と考えてみると、やっぱり自分の中にも未練のようなものがあり、少しでも延命しようという気持ちもあったのかも知れない。

 それを未練と言っていいのかは分からないが、自分の中だけで巡らせている考えは、もちろん、他の人と一緒に考えるようなものではないが、堂々巡りを繰り返すだけだった。

 堂々巡りは、すぐには自分の中に結論を与えるものではなく、かといって、何度もめぐるからと言って、新しい考えが生まれてくるわけではない。

――それでは時間の無駄なんじゃないのかしら?

 と思わせるが、本当に時間の無駄なのか、楓にはよく分からなかった。そのことが彼に対して結果的に未練を残す形になってしまったことを、楓は今では後悔している。

――やはり、これって女性だからこんな考えになったのかしら?

 と思ったが、それだけで解決できるほど、恋愛問題は簡単なものではないだろう。

 ただ、さすがに失恋で自ら命を断つということは、楓にとって信じられるものではなかった。

「卒業間近なのに、自ら命を断つというのが私にはよく分からないんだけど、どんな心境だったのかしらね?」

 高校時代まで、必死に我慢を重ねて短大に入った。それまでの我慢が報われたような気がしたのも事実だったが、

――人生が変わった――

 という思いが一番強かった。

 自分が我慢できたのに、我慢できない人がいたと思うと複雑な気分になっていた。楓は実際に我慢強い方ではない。それなのに、彼と別れる時も、ギリギリまで我慢したのも事実だし、実際に高校時代も我慢を重ねてきた。

――我慢できることと、我慢しなければいけないこと、そして、どこが我慢のしどころなのか、自覚できているところがあるのかも知れない――

 と感じていると思えてきた。

 ミチルが我慢できなかった理由がどこにあるのか分からないが、本当は死にたくなかったのに、衝動で死んでしまったということも考えられる。だから、彼女がどんな心境だったのか知りたいと口から出てきたのだった。

「実は私、どうして死んだのか、自分でも分からないの。成仏できずにこの世を彷徨っているというのも、自分で心当たりがあるわけでもない。確かに彼のことが好きだったんだけど、死にたいと思うほど、失恋が苦しかったわけでもないのよ。時間が経つにつれて、痛手が少しずつ癒されていたのも分かっていたのに、どうして私は死ななければいけなかったのかしら?」

 成仏できずにこの世を彷徨っている人の中には、自分がどうして死んだのか分からない人もいるのではないかと思えた。理由が分からないから、この世に未練がある。そう思うと、死んでも死に切れないという思いに駆られるのも無理もないことなのであろう。

――本当にこの世に未練を残して、そのまま現世を彷徨っている人と、訳が分からずに死んでしまい、そのままこの世を彷徨っている人とどちらが多いのだろう?

 未練が残っている人のほとんどは、自殺や殺された人が多いのだろうと思う。しかし、訳が分からずにこの世を彷徨っている人は、自殺や殺されたというよりも、不慮の事故で死んだ人間と思う方が自然ではないだろうか。死ぬ意味がまったくないのに、急な事故に遭って、人生をいきなり終わらせられてしまう。ある意味で一番未練が残るのは、不慮の事故により死んでしまった人なのかも知れない。

「ミチルちゃん、あなた本当に失恋の痛手で自殺したの?」

 と聞いてみると、さっきまでの落ち着いた雰囲気に少し焦りが見られた。幽霊というのは、こちらが怖がって怯えているから、相手が見えているようで見えていないが、冷静になってみると、幽霊の方も人間に対して怯えを感じているように思えてきた。

 考えてみれば、相手も元は同じ人間だったのだ。(幽霊を人間として見ないというの、反則なのかも知れないが)相手は人間というものを分かっているはずなのである。だから幽霊が人間を怖がるのはおかしいと思うのだったが、実際は人間同士ほど、分かり合えないものはなかったのかも知れない。

「私、どうして死のうと思ったのか、正直分からないの。でも、事故で死んだわけではなく、自殺したのだということは確からしいの。私がこの世界を彷徨い始めたのは、自分の葬儀の前で、こちらの世界から自分の葬儀を見ていた時、まわりの人が私の自殺の話をしていたのを聞いたから、間違いないと思うの」

「私の感覚では、自殺した人の葬儀って、いろいろな噂が飛び交っているような気がするの。遺書でもあれば別なんでしょうけど、普通は自殺の原因がどこにあるのか、なかなか分からないものですよね。何しろ、一番知っているはずの本人が死んでしまっているのですからね」

「ええ、生きている人の話を聞いていても、自分が自殺したなんて、理解できない。ましてや、自分が死んだということ自体、理解するのに、かなりの時間が掛かったわ」

「そうかも知れないわね。自分が死んだということ自体を理解するのが一番難しいのかもね」

「算数と同じなのよ。最初に一足す一は二だということをどう思うかで、算数を分かるか分からないかが決まってくるようなものですもんね」

「どういうこと?」

「最初に習うことが本当は一番簡単なことのはずなのに、そこに疑問を持ってしまうと、先に進めないでしょう? たとえば難しいことを理解できずにいて、それを理解しようと思うと、一つ前に習ったことに立ち戻って考え直すこともできる。でも、一番最初でつまずいてしまったら、戻るところがないわけだから、理解するための大きな手段がなくなったわけ。だから、そこで埋めることのできない差が生まれることになるのよね」

 その話を聞いた時、楓は目からウロコが落ちたような気がした。今まで楓も同じように立ち止まると、一歩前に立ち戻って考え直すこともあったので、ミチルの話には同感できるものがあったのだ。

「でも、自殺した理由をあなたは、失恋だと思ったわけでしょう? それは他に思いつく原因がなかったからなの?」

「自殺するとすれば、失恋しかないというのは確かかも知れないわ。よく言われるように、世を儚んでというのとは違うような気がするの。この世が儚むようなものだとは、私には思えない。ましてや、死んだからと言って、そこに何があるというわけではない。私が最初に死んだということを知った時、事故でなければ、心中じゃないのかって思ったくらいだったわ」

「心中なんて、私には分からないわ」

「どうして?」

「死を迎える瞬間は苦しいものだって思っているから、もし、相手が自分よりも先に死んでしまったら、目の前で苦しんでいる人を見ながら、自分も追いかけるように死ぬわけでしょう? 私にはとてもじゃないけど、そんなことはできない。きっと先に相手に死なれてしまっては、自分が死に切れないと思うの。もし、毒で自殺するのであれば、たぶん助からないでしょう? 自分が倍苦しむかも知れないと思うと、最初から心中なんて考えないわ」

「あなたは、なかなか冷静ですね」

「そうかも知れないわね。でも、死にたいと思うことはないわけではないのよ」

「でも、死のうとしないのは、どうしてなのかしらね?」

「死ぬ勇気がないだけよ。その時になれば、きっと誰だって後悔すると私は思っているから」

 すると、ミチルは微笑みながら、軽く頷いた。

「幽霊相手に、する話でもなかったわね」

 というと、

「そんなことはないわよ。覚えていないだけで、私もきっと後悔したと思うから」

 楓は、ミチルの笑顔を見た時、

――彼女が成仏できないのは、きっと好きだった人に自分のことを忘れてほしくないと思っているからなのかも知れないわ―― 

 だからこそ、この世に未練が残って、彷徨っているのであろうと思った。

「でも、ミチルちゃんが、自殺ではなく、心中だったんじゃないかって思ったのには、何か理由があるような気もするわ。ミチルちゃんは、生きていた頃も今のような性格だったの?」

「それが覚えていないの。死んでしまうと、確かに同じ人間なんだけど、生きている時の自分は別の人間だったような気がして仕方がないの。きっと魂が身体から離れた瞬間に、自分を放棄するようなことになるのかも知れないわ」

 この世では、

「死んで肉体が滅んでも、魂だけは生き続ける」

 ということを言われる。

 それはどんな宗教であっても、共通していることで、疑いようのないことだと思っていたが、当の幽霊であるミチルに言われると、ミチルの言っていることの方が真実ではないかと思えてくるから不思議だった。

「ミチルちゃんが、自分のことを冷静に見えているのに、実際に自殺したのだとして、その理由が分からないということは、今の話を聞いていると分かってくるような気がするわ」

 前に読んだ小説で、心中する人の話を描いたものがあったが、主人公は女性であった。彼女は自分が死んだことを知らずに、目だけがまるで不思議な能力を持っているかのように描かれていた。

 自分が男性を待っているという設定で、男性はなかなか追いついてこない。時間だけが悪戯に過ぎていくのだが、彼女には次第に彼の気持ちが分からなくなっていた。

 それでも、彼の気持ちは固まって、自分のところに来てくれようとしている。つまりは死を迎えようとしているのだ。

 だが、そこで彼女は思い立った。

「いや、やめて。死んではいけないわ」

 彼女は思わず声を出した。しかし、彼にその声は届かない。彼はそのまま冷たくなり、そこに横たわっている。

――これで、二人は永遠に一緒だわ――

 と思って彼を待っていたが、彼は一向に現れない。どうやら、自分を追い越して先に行ってしまったようだ。小説の結末としては、彼女には彼が見えても、彼には彼女が見えていない。ひょっとすると、彼の方でも、自分は彼女が見えているのに、彼女は彼が見えていない世界に入りこんでいる。死ぬことによって、二人は永遠に出会うことのない世界に入りこんでしまったという結末だった。

 悲しくて、自然と涙が出てきた記憶があった。それが現実であれば、涙は流れないだろうと思いながら、小説だからこそ、悲しい気分になったのだと思っていた。

「ミチルちゃんは、好きになった人というのは、確かに存在しているのよね?」

「ええ、でも自殺するまで好きだったというのが思い出せないの。それにどんなに好きな相手に失恋したとしても、自分から死のうと考えるなんて、私には信じられないような気がするの」

「だから、この世を彷徨っているのかも知れないわね」

「ええ、やっぱりどうして死んだのか分かるまでは、このまま彷徨っているような気がするの」

「それは困ったわね。私はあなたの気持ちが分かる気がするからいいんだけど」

 と言ってはみたが、すぐに言葉を止めてしまった。

――ミチルちゃんの気持ちが分かる?

 自分がどうして死んだのか、分からない人の気持ちが分かるというのもおかしな話だった。

 どうして死ぬことになったのかを確かめたいという気持ちになっていることは分からなくもないが、ただ、それが分かったとして、どうなるというのだろう? ミチルの記憶がないことには何かの力が働いているように思えてならない。

「ミチルちゃんは、どこからどこまでの記憶がないの? 生まれてからずっと記憶がないわけではないんでしょう?」

 楓は、ふと、そのことが気になった。

「死ぬ前の記憶だけがないんだけど、でも、他の人のように、子供の頃からの記憶はしっかりしているのに、死ぬ前からの記憶がないだけで、それ以前の記憶が私は信じられないの。まるで作られた記憶のような気がするの」

 ミチルにそう言われた時、楓はハッと思った。

――私は、自分の記憶が繋がっていることで、記憶に関して何ら疑問を感じたこともなかったけど、本当に意識している記憶が自分の経験してきたことだとハッキリ言えるだろうか? 何かの力が働いて、実際とは違った形で記憶していることもあるのではないだろうか?

 そう思うと、

――記憶は、都合よく作られたものなのかも知れない――

 とも思えてきた。これ以上、余計なことを考えると、今度はミチルのことだけではなく、自分のことも分からなくなり、信じられなくなりそうなので、一度頭の中をリセットしないといけないと思った。そう思うと、見えてこなかったことが見えてくるように感じられるから不思議だった。

――却って冷静になれたのかも知れない――

「ミチルちゃんが、この世を彷徨っているというのも、分かるような気がするわ」

「どういうことなんですか?」

「今のミチルちゃんは、死んだ時の記憶がないから、この世を彷徨っているんだってずっと思ってきたけど、それだけじゃないのかも知れない。死んだ時の記憶がないことで、今まで生きてきたこと全体が、そして何よりも自分自身が信じられないことで、成仏できないのかも知れないわね。やっぱり自分を信じられるようになるためにも、どうして死んだのかということを知りたいと思うのは当たり前のことだと思うの」

「その通りだわ」

「まずは、あなたが失恋で死んだのだということを人から聞いたのなら、そこだけが今は手がかりなんでしょう? その時、誰が好きだったのかということは思い出せるの?」

 楓がミチルの記憶がどこからないのかを知りたかったのは、ミチルが自殺する原因になった男性が誰だったのかを知りたいと思うところから始まったのだが、記憶が途中で切れてしまうことが、どれほど自分を不安にさせることになるのかということを知ったような気がした。

 そういえば、自分が高校生の時、交通事故に遭った同級生がいて、彼女が一時期、軽い記憶喪失に掛かっていたことがあった。事故に遭うまでは本当に天真爛漫な性格だったのに、事故に遭ってから、

――こんなに変わってしまうの?

 と思うほど、目は踊っていて、いかにも不安そうな雰囲気は、それまでの彼女からは信じられないものだった。

 医者からは、

「軽い記憶喪失状態で、一時的なショックによるものだから、すぐに記憶が戻ると思うよ」

 と言われて、実際に記憶はすぐによみがえってきた。

 そして、記憶が戻ってきた瞬間から、元通りの彼女に戻っていた。まるで、それは記憶を失っていた時期の記憶がないような感じだった。きっと彼女に記憶喪失になっていた時のことを聞くと、

「えっ、ウソでしょう? 私が記憶喪失になっていたなんて、私には自覚もないし、信じられないわ」

 と答えるに違いなかった。

 ということは、ミチルも自殺をした時の記憶が戻ってくると、その後の記憶が消えてしまうのかも知れない。楓のことも記憶から消えてしまっていて、覚えていないことになるだろう。

――でも、その時はミチルちゃんに会うことは、もうできないはずだわ――

 それはミチルが成仏しているという証拠になる。

 それはそれで悲しい気がしたが。それは今、ミチルを目の前にしていて考えている感傷的な気持ちになっているからだ。ミチルを見ていると冷静な自分を感じるが、決してそうではない。本心は感傷的な気持ちになっていて、ミチルに対して、これ以上ないと思えるほどの同情を抱いているに違いない。

 そうでもなければ、幽霊の存在など信じられるわけではなく、ミチルの存在に怯えているか、完全に夢だとして割り切ろうとするに違いない。

――そもそも、ミチルちゃんが私の前に現れるはずはないんだわ――

 冷静に見ることができて、それでいて感傷に浸ることのできる楓のような女性はなかなかいなかったに違いない。そんな楓だからこそ、ミチルのことが見えていて、ミチルの存在を信じられるのかも知れない。他の人にミチルのことが見えるのかどうか、それも一つ興味深いことだった。

――ひょっとして見えてはいるけど、何も言わなければ普通の女の子。誰がミチルちゃんを幽霊だなんて思うかしら?

 と感じていた。

――ミチルが好きになった男の子は、果たしてミチルのことが見えるのだろうか?

 彼がミチルのことをどれほど意識していたかということにも繋がってくる。

「ミチルちゃんが好きになった男の子に対しては、片想いだったのよね?」

「私、今まで男の人を好きになったという意識があまりないの。その人が初めてだったような気がするわ」

――同じじゃないか?

 と楓は感じた。

 自分も、好きになった男性は片想いをしたその人だけで、告白なんてできなかった。状況だけを見てみると、ミチルと何ら変わりはないように思えた。

 ただ、精神状態が同じだったのかどうか、楓には分からない。

「楓さんも、私と同じだったようね」

「えっ」

「私、生きている頃はそんなことなかったんだけど。今、楓さんと話をしているだけで、楓さんがどんな人なのか分かってきたような気がするんです」

 それが幽霊としての特徴なのか、それとも、死んでしまって魂だけになったことで、話をしているだけで相手の気持ちを吸収できるだけの場所を自分の中に持てるようになったのかも知れない。何か目に見えない仮想的な領域を感じるのだった。

 人間はなまじ肉体があるから、どうしても、限界を感じないわけにはいかない。

 逆に限界がないと、不安になってしまう。

――そういえば、果てしないものに対しては、恐怖の方が先に立っていたわ――

 楓の記憶の中にある果てしないものとしては、子供の頃に行った縁日で、ミラーハウスというものに入ったことがあった。そこはまわりがすべて鏡になっていて、鏡の迷路で会った。お化け屋敷よりも怖かったという記憶があるのだが、それは、ミラーハウスに入ると、そこには無数の自分だけが映し出されている。

――どこまで行っても自分が果てしなく繋がっている――

 そんな光景に恐ろしさを感じていたが、子供心には漠然とした恐怖しかなかった。今では果てしなさが怖いと分かるのだが、逆に分かってしまうと、余計に恐ろしさが増してくるような気がした。子供の頃の漠然とした恐怖は今でも忘れられない記憶として、楓の心の奥に封印されていた。

 逆にミチルには肉体がないことで、果てしなさへの恐怖はないようだ。だからこそ、相手を見ていて、相手の気持ちになって考えることができるのだ。それが肉体を持った人間には、果てしない妄想に繋がりそうで、相手の心を読むことが、そのまま恐怖に繋がると思い、最初から相手の気持ちになろうとはしないに違いない。

 ただ、その感覚は無意識によるものなのだろう。

――相手の気持ちを知りたい――

 という思いは確かに持っている。それができないのは、

――してはいけないこと――

 という意識があるからだ。相手の気持ちにならないと話をしていても、話の内容すら理解できないと思っているくせに、正反対の思いがあるから、してはいけないというよりも、最初からできないことだという意識を持っているのだろう。

――これも一つのジレンマなのかしら?

 生きていると、今までにも

――これって何かのジレンマなのかも知れない――

 と思うことがあるが、それが何と何の間でのジレンマなのか対象になる相手が分からないことで、それ以上考えることができなくなった。それが一種の「堂々巡り」であるということになる。

――堂々巡りの中で堂々巡りを繰り返しているみたいだ――

 と思うと、これも、果てしなさを感じさせるのだと思い、ミラーハウスの恐怖がよみがえってくる。実に面白いことである。こんな発想はミチルと出会わなければできるはずもなかったことだった。

「確かに私、死んだ時の記憶がないんだけど、こうやって話をしていると、別に死んだ時のことを思い出しているわけではないんだけど、自分が本当に死にたいと思って死んだわけではないような気がしてきたわ」

 自殺した人が死んだ後、魂だけの存在になった時、本当に自分が自殺したという意識を持っているのかどうか、不思議に感じたことがあった。死んだ先のことまであまり考えたことはなかった数少ない記憶の中で、楓もミチルと話をしていて思い出したり、思いついたりすることがあるのだった。

「死んだ時に、苦しかった思いとか、よみがえってきたりするものなの?」

「いいえ、そんなことはないわ」

「じゃあ、死を通り抜ける時の苦しみを思い出したくないという思いがあるので、死んでから死ぬ瞬間と、その前後のことを思い出さないようにしているのかも知れないわね」

「それは、私、生きている頃に感じたことがあるわ。死んでから、何かを考えることなんかあるんだろうかってね。でも、すぐに考えるのをやめたの。死んだ先のことを考えてしまうと、死にたくもないのに、死んでしまうんじゃないかって思ってね」

「じゃあ、あなたはその時、死んだらどうなるかって考えていたのかも知れないわね」

「そうかも知れない。でも、今はそうではないと思うことの方が強いの」

「どうして?」

「もし、死ぬ時に死んだらどうなるって考えると、現世を彷徨うことなどないような気がしたのよ。現世を彷徨うというよりも、もっと中途半端なところで抜けられない苦しみを味わうんじゃないかって。それがこうやって現世で、しかも、生きている人とお話できるなんてと思うと、意外と死のうとした時、何も考えていなかったような気がするの」

 その話を聞いた時、楓は少しゾクッと悪寒が走った。

――ミチルが死んだ時のことを回想しているのを聞いていると、この世を彷徨っているミチルと話ができる自分が、最初はただの特殊な人間だからだって思っていたけど、ひょっとすると、自分も死期が近いのかも知れないと思わせるような「気配」を感じた気がするわ――

 と思っていた。

「気配」という言葉がこの場合一番適切な気がする。

「気配」とは、

――目に見えないけど、ちゃんとそこにあって、その存在を知っているのは自分だけなんだ――

 という気持ちになれるものだと思っている。「気配」という言葉をここで感じることができるから、ミチルが見えるのだし、存在も感じられ、話をすることもできる。ミチル本人もさぞや、生きている人と話をしたかったのではないかという思いも滲み出ているような気がしていた。

 楓にはミチルの気持ちが分かるような気がしているが、ミチルの方はどうなのだろう?

 少しは楓が自分と似ているという感覚を持っているようだが、すでにこの世のものではないミチルには、楓の考えていることが本当に分かるのか、ミチルも分かっているつもりでいるが、自信を持てているわけではない。ただ楓がミチルと話を重ねるにつれ、どんどんミチルのことを分かってくれているのは実感していた。それは生きている人間同士ではありえないほどの早さでのことである。ミチルは楓を見ていると、

――羨ましい――

 と思うことが多いのだが、具体的にはどんな部分が羨ましいのか、ハッキリと分かっているわけではなかった。

「それにしてもミチルちゃん。本当に好きになった人はあなたの片想いなの?」

「ええ、私はそう思っているわ。でも、楓さんとお話をしているうちに、何かモヤモヤしたものが少しずつ解消してくるのを感じるの。次第にハッキリしてくる記憶の中で、キリに包まれた部分で、私は誰かに思われていたことを分かっていた気がするの」

「ミチルちゃんがこの世を彷徨っているのは、好きな人に自分のことを忘れてほしくないからだって思っているのかも知れないわね」

「そうかも知れない。でも、次第にハッキリとしてくる記憶の中で、やっぱり私は自殺をしたという思いはまだまだハッキリとしてこないの。どうしてなのかしらね?」

「やはり。信じられないという気持ちが強いからなのかも知れないわね。この世を彷徨っている理由はそこにあるのかも知れない」

「それって、自分の中で死を受け入れられないということ?」

「そうね。そういうことなのかも知れない。記憶がないことでまるで自分が何者なのか分からないというような意識ね。彼に自分のことを忘れてほしくないという意識と、死んだ時の記憶を思い出したいという意識が、あなたを成仏させていないのよ」

「どうしたらいいのかしら?」

「死んでしまったあなたにはできないことでも、私が協力すればできることもあるかも知れないわね」

「お願いできるのかしら?」

「そのつもりで私の前に出てきたんでしょう? 私もこのまま放っておくことができないような気がするの。もしこのまま放っておけば、私も嫌な予感が的中してしまいそうな気がするわ」

「嫌な予感?」

「ええ」

 きっと、ミチルは楓が考えている「嫌な予感」というものを分かっているような気がする。ただ、この時の楓の選択が本当に正しかったのかどうか、微妙なところだ。

――ミチルを放ってはおけない――

 という部分に間違いはないのだが、これから何をどうすればいいのかというところで、一歩間違えると、「嫌な予感」が的中してしまうことを、その時の楓にもミチルにも分かるはずもなかった……。

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