雨しとと

白井戸湯呑

雨しとと

 しとしとと雨が降る様を、私はシャターの閉まった古物店の前に立ち、見やる。

 何もおかしなことはない雨宿りであるのだが、おかしなことに私の左手には確かに傘が握られていた。今は見えぬが、きっとこの私の姿を見た通行人はなぜあの男は傘を持ちながら雨宿りをしているのか、おかしな男だと思うことだろう。

 私はちらりと左手の傘に目を向ける。外見上、何か変なところがあるわけでもない傘であるが、この傘はどこかしら壊れておりどうも開かないのだ。開かぬ傘など価値があるのか、同様に本来の役目を真っ当に達することのできぬものに意味はあるのか。

 答えのない問いを頭に巡らせて、雨が上がるまでの暇を潰す。

 どうにも手持無沙汰な手を動かして、両の手を柄に乗せて足の間に傘を立てる。丁度、チャップリンのステッキのように。

「私もお前も上手くいかんな」

 声に出すことはせず、男は傘にそう告げる。無論、音に発さぬ以前に相手は物言わぬ傘である。返答など、元より期待していない。

 男の妻は、齢二十一にして病床の末に伏した。男は愛する者に最高の喜びを、と考えて、妻の両親に頭を下げ、結婚の許しをせがんだ。病室の中にありながらプロポーズもした。医師や看護師の皆様に頼み、病室内で結婚式も上げた。

 ままならないな。

 男は、自らの服を見下ろして呟いた。

 出会った頃は、春のうららかな日差しのような女性であった。大学生も始まりたて、十八の時だったろう。同じ同人サークルに所属したのが出会いであると記憶している。

 私が告白し、大々的に付き合い始めてから彼女の印象は明るい面が強調されて、さながら真夏の陽光の下で燦燦と輝く向日葵のようであった。

 突然連絡が取れなくなり、彼女の友人に声を掛けて回っていた頃、彼女の病気を知った。ついこの前まで、彼女は紅葉の秋にあった。

 息を吐く。ため息ではない、白く揺らぐ。

 再び手持無沙汰となった私は、傘を右手に握り直した。その際、傘の先が閉ざされたシャッターに当たってしまい、風に揺れるのとは違う、ガシャガシャと騒がしい音を鳴らすことになってしまった。沈んだ気持ちを瞬間的に上回る驚きと、恥ずかしさ。自分の行為によって発生した音だというのに、驚きからシャッターの方へと顔を向ける。

 しまった、と焦りを覚える。傘の先端がシャッターにあたった音を不思議に思ったんだろう、中から足音がするのだ。パタパタこちらに、と接近してくる。それでも私は、一瞬でも彼女のことを頭から話してしまった考動に焦りを覚えた。そして、行動を恥じた。

 皆様は葬儀の終わりに手を洗う文化を知っているだろうか。この行為は弔った者の魂が生者についてくるのを防ぐ意味があるそうだ。私は無理を言ってこれを断った。まあ、元よりこの行為は東日本の伝統らしく、西日本では行われていないらしい。しかし私は、以降十年前後は引きずって生きようと思っていた――にも関わらず、一瞬でも彼女のことを頭から消してしまったのだ。

「あ……」

 しかし、私はどうやらどうしようもない人間らしく、そんな後悔も彼女への申し訳なささえも、上げられたシャッターの向こう側に立つ人を目にした刹那の内に蒸発していた。なぜなら、私は手に傘を持っていながらそれを使うこともなく雨宿りをして、尚且つあろうことかその傘でシャッターを叩いたのだ。

 私は焦った。

 中から出てきたのは女性で、歳のほどは二十代後半だろう。烏の濡れ羽色の髪は長く、後ろで結われていながら二の腕の半ばまで伸びている。

 人間、それも男というやつはどうにも上手くいかない生き物で、私は見ず知らずの彼女に奇異の目で見られたくないと無駄な矜持が掻き立てられまして、あれやこれやと、舌先三寸口八丁の言い逃れを行おうと口を開く。

 しかし、そんな私よりも早く、何を言うまでも何かを察してくれたのだろう。見ず知らずの彼女は黒曜石の瞳で私の姿を見つめながらも物腰柔らかな声色で言うのだ。

「将棋の相手がいないのですが、一局、お付き合いくださいませんか?」

 傷に触れず、事情を聞かず、それでいて屋根の中に導く彼女の在り方に、私は正しい人の生き方を見た。もし叶うのであればかくありたい。私は彼女のように何を語るまでもなく察して、寄り添える人間になりたいと願う。

「ありがとうございます。お受けします」

 返答としては不適切なようにも思われるが、今の私にはこれが限界値であり、何よりこのような言葉だけがこぼれ出た。

「上がってください」と身体をずらして店内に上がるよう促す彼女に従い、「お邪魔します」と一言口にした後で敷居を跨ぐ。

 店内は橙色の光に包まれており、さながら朝焼けのようである。光の出所に気を引かれ、頭を動かしてみれば、光は天井から下がっているささやかなシャンデリアから放たれている。

「こちらです」

 導かれるままに足を進めて行きますと、店内の片隅にポツンと設置されているカウンターテーブルの上に将棋盤が広げられているのが目に止まりました。そのカウンターテーブルがレジであると気付くのに、そう長い時は要さない。

 女性は、「少しお待ちください」と言うと近くに飾られていた商品と思われる木製の椅子を運んで来ると、「どうぞ」なんて口にして、私に腰を落ち着けるよう促した。私は「失礼します」と告げて腰を据えて、少し迷った後にJ字に曲がった柄をカウンターテーブルのフチに掛かるようにして壊れた傘を立てかける。そんな私の姿を満足げに見届けると、女性は私と対辺上、カウンターテーブルを挟んだ向こう側に腰を下ろした。

 腰を下ろすなり、盤上のコマを並べ直し始める彼女に習い、私も玉将を主に駒を並べる。

 コマを並べ終えると、お互いの間に合図はないまでも開始の合図に沿って対局が始まった。

 7六歩。/3四歩。

 6六角。/2六歩。

 2五歩。/同銀

 同香。/7五歩。

 8六歩。/2四歩。

 7六歩成。/同金。

 同香。/8六歩成。

 7五桂。/6八角。

 同桂成。/7八金。

 4六歩。/4五歩。

「今日は……」

 同桂。

「学生さんですか?」

 私は、同金を指そうと動かした手を二秒と止めることはせず、唇を軽く噛み、次手を投じた。

 同金。

「はい」

 沈黙の中に突然発生した声であったため、驚いて手を止めてしまったが、別段、おかしなことでもないだろう。沈黙に耐えかねた、それだけだ、きっと。

「学部は……文系ですかね」

 4七金。

「よくわかりましたね」

 4八金。

「理系の学生はカフェでノートパソコンを開いているタイプだと、伝え聞きましたので。あなたは、"ぽく"ないですから」

 4六金。

「なんですかそれ」

 あまりの彼女の言い草に、思わず鼻で笑うように口にする。

 2八飛。

「大学、良いですね。私、大学進学はしなかったので、感じ、わからないですけど、サークルとかって、楽しいんですか?」

 同桂成。

「高校の部活動をより自由にしたようなものですかね……まあ、かなり楽しいです」

 同飛。

「それはなかなか」

 3四歩成。/同金。

 5五角。/同銀。

 6四角。/3四銀。

「この古物店は、まだやってるんですか?」

 5三銀。

「先日、祖母が他界しまして。閉店廃業です」

 後手。

「すみません」

 2三銀。

「謝らないでください。まるで悲しいことみたいじゃないですか」

 7四銀。/同銀。

 8六歩。/同歩。

 ………………。

「参りました」

 窓の外に目を向けてみれば、空の灰は姿を消して、橙の火が灯っている。

 私は、盤上に散らばる駒を最初の配置に戻した後で立て掛けていた壊れた傘を手に取り、彼女の方へと向き直って、安っぽいものではあるが頭を下げる。

「ありがとうございました」

 感謝を述べて自己満足に酩酊しながらも、入って来たシャッターの向こう——今はこちら側——の戸に足を向けて歩き出す。

「ああ、少しお待ちを」

 進み始めてすぐに、私は彼女の呼び声に足を取られた。軽快な足取りで店の奥へと消えた彼女は、二分もすると変わらぬ足取りで舞い戻った。しかし、変わるところも確かにあり、その手には、一本の傘が握られていた。

「傘、買い取りますよ」

 私は彼女の心遣いに敬意を表し、みなまで言われる前に傘を受け取り、代わりに私の手にある壊れて開かない傘を彼女に渡した。

「何から何まで」と私が言い切るより早く、

「ありがとうございました」と彼女は言った。

 拒むような、それでいて送り出すような言葉に引きずられて、私は抵抗も反逆もなしに惨めに店を後にする。空を見れば、鬱々とした厚い雲が地平線上を覆い隠していた。

 帰路も終盤に差し迫った頃、再び空を覆い尽くした雲は在らん限りの驟雨によって私の道行きを閉ざしてみせた。差し迫る水の壁に慄きながらも、しかし、此度の私の手には使用可能な傘が握られていた為にこれを開き、中棒を肩に当てて余裕を返す。

 そんな中、傘を開いた際、何やら一枚の紙が宙空を舞ったことに気がついた私は、疑問に駆られ、腰を落とした濡れた地面に張り付いた紙を拾い上げた。


 7六歩

 〒×××-××××


 私は耐えもせず口元を緩ませて、考える。

 どうやら将棋盤を買わなければならないらしい。

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雨しとと 白井戸湯呑 @YunomiSiraido

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