文欲 爆殺 オーバードライブ!

猫セミ

文欲爆殺オーバードライブ!

 1

 サイダーのような人だった。


 出会いの経緯は至って単純で、よくあるものだった。とある地方高校のバスケ部の先輩と後輩マネージャー。フィクションでも掃いて捨てるほど見た関係。それが私たちだった。


 春に出会い、夏に付き合いを始め冬を超えて──彼が卒業をする前に私たちは別れた。未熟で青臭い、私の青春を語るうえで欠かせない一人だ。


 彼には一つだけ癖があった。


 折々である言葉を口にする。何度も何度もおまじないのように。


 その度に私は「そんなことしないよ」と返していた。考え無しな、よくも悪くも向こう見ずな女子高生だからそう軽々と何度も言えたのだろう。それも今ではすっかり嘘になってしまったけれども。


 今でも何かしらフォローができたのではないか、と悔やむことがある。別れの直前にケンカをしたのだ。


 彼は受験期でぴりぴりしていた。うちの学校はいわゆる超進学校というやつで、二年生の終わりごろにははやばやと受験の話が出てくる。授業もそれに合わせて組み替えられていく。これに私もストレスを感じていた。変化したばかりは大体こんなものだ、と今では言えるのだけれど。


 そんな時期に彼が第一志望の大学を落とした。


 不幸なことだ。とはいえ、私には彼を擁護しがたい理由があった。こんなことを言って悪いとは思うのだけど、彼は全くと言っていいほど勉強をしていなかった。なんなら、私が一緒に勉強しようと言ったときでさえ真面目にやることはなかった。それでも根は真面目だと信じていたし、裏で努力をしているんだろうと思っていた。彼の邪魔をしまいと私は身を引いていた。


 しかし、それがよろしくなかったのだ。


 彼には寄り添って慰める存在が必要だったらしい。私は浮気を疑われた挙句、よく分からない理屈で一方的に弾劾された。……と言いたいところだが、私も私でちゃんと考えを言わなかったのも問題なのだろう。黙って消えるのはよくなかったと、今でも後悔している節がある。まあ、この程度で別れてしまったのだから、ここを乗り越えられたとて……待っているのは同じ結末だったのだろう。


 晩秋の公園で私たちは別れた。よくある喧嘩別れと言うやつで。お互いに言いたいことを言い合い、自然にその回答へとたどり着いた。


 そして彼はトレンチコートを脱ぎ捨てた。


 変なものである。あんなにしつこく言っていたのに、それを向こうから切り出すなんて。それでも私はいいと返した。おまじないが呪いと嘘になった瞬間だった。


 そんな少し前のことを思い出しながら参考書の文字をなぞる。私はエアコンの風から逃げるようにして、部屋の隅へ移動した。今日の分の試験勉強はこれくらいでいいかもしれない。昨日は詰まっていたし、きっと今の私は眠たいのだ。気持ちも下がっている。


 そんな具合で逃避理由を机に並べ立てて参考書を押し退けていく。ついに参考書が机から降りた、その時だった。廊下からどたどた、と派手な足音が部屋へ飛び込んでくる。


「ほら! 持ってきたよ!」


 がちゃり、と勢いよくドアを開けたのは妹だった。彼女は片手にコップ二つともう片手にはペットボトルを持っている。


「はいっ」


 そう言って妹が三ツ矢サイダーを私に投げて寄越した。それに対し思わず強い口調で言い返してしまう。



「だから、振らないでって言ったじゃん!」



 ──


「──なんて?」


 もう一度冒頭から読み返す。


 『そして彼はトレンチコートを脱ぎ捨てた』


「…………?」


 やはりノイズが紛れ込んでいる。


 作者、こと金清野かなしみのいたるはその一文を凝視した。こんな描写した覚えは全くない。しかしこの小説を書いたのは五、六年ほど前だ。記憶違いかもしれない、そう思いつつ彼は小説ページを一旦閉じる。


「気のせいじゃないな」


 自分のPCに残されている下書きを見ても、その一文は存在しない。つまりこのサイトに投稿したのちにその修正がされた、ということになる。


(ってそうじゃねぇ! ここはとりあえず俺以外のヤツが書いたとして、誰かが不正ログインしたってことか!?)


 一番の恐怖はそこだった。不正ログインでなくとも、自身のサイトIDとパスワードが流出したことになる。パスワードは他のサイトの使い回しだ。一度の流出が致命傷となり得る。


「……なぁ、なぁおい」


 テレビの前でゲームをしていた兄に致は話かけた。彼は少し間を置いた後にのんびりと振り返って口を開いた。


「んー? なに? 致の好きな人の話?」

「ちげーよ、適当なこと言うな。俺のなろうのアカウントにログインした?」

「いや? してないけど」

「だよなぁ。すまん」

「いいよー」


 軽いやり取りの後に、兄はまたゲームに意識を戻す。


(まぁ、まぁ……なわけないだろうしなぁ)


 致は一瞬疑ってしまったことを心の中で謝りながら、もう一度小説ページを開く。そこには相変わらず、あからさまなノイズが入った小説が映し出されている。ログイン履歴などを遡ってみても、小説を投稿した三年前から今日まで記録は途絶えている。


「……それって、小説?」

「うわ、なんだよ……」

「いや、なんかそっち方面で話振ってくるの珍しいなって。もしかして何か疑われてる?」

「あー、ごめん。いや、なんかさ……昔投稿した小説に、変な修正が加えられてるんだよ。編集できるのは俺のアカウントからだけだから変だなって」


 そんな具合で致は兄の渡に事情を説明する。彼は身体を傾けて聞いたのちに首を何度も傾げながら「はえー、なにそれ」と呟いた。


「でも俺、小説は読む専だし……って修正が下手くそだからこれは証明にならないか。うーん、でも履歴無いんだよねぇ」

「そこがおかしいんだよな……」


 二人してPCの前で腕を組んで唸る。普通は足跡が残るはずである。端末を使わずに致の小説を書き換えたというのなら別なのだろうが。


「あ、そうだ。俺の友達にネットに詳しい奴いるから訊いてみる」

「え? まさかアイツか?」

「まぁまぁ、致もアイツが詳しいってのは知ってるでしょ?」

「まぁ……」


 そう言って兄はいそいそとスマホをいじり始める。その間に致は小説の修正をすることにした。このアカウントで投稿した小説はこれだけしかない。致にとって小説を書くというのは特別なことだからだ。気まぐれに書いたそれが何気に気に入っていた。


(なんというか、もうちょっと捻じ込み方あっただろう……雑なんだよなぁ。明らかに浮いてるし)


 見れば見るほど苛立ちが腹の底から湧いてくる。これが上手く挿入されていたら腹を立てるどころかこのままにしていたかもしれない。いいや、きっとそんなことはないのだが。


 修正が終わるより早く兄が顔を上げる。


「あ、今電話繋いだよー。はい、致」

「あー、もしもし? 代わりました」

『ハイハイ、そんで、何? アカウント情報流出だって? ドジだねぇ!』


 ワハハと豪快に笑うその声を聞いた途端に致は顔をしかめてしまう。鼓膜を破らんとする音圧から逃げながら、こめかみを強く押さえた。電話の向こうの相手は大森おおもり龍源りゅうげんだった。シロガネという名前でオカルト解説系動画投稿者をやっている男だ。仏教系統の流れを汲んだ魔術師の末裔……などと話していたことを致はよく覚えていた。彼がキャラクターとして大切にしていることだからだろう。頻繁にそれを致は耳にしていた。名前の通り体格も声も大きな男で、致とは友達と言うほど深い関係ではない。


 とはいえ、兄の親切を無下にするわけにもいかない。と、いうより致は無下にしたくなかった。そして何より悔しいことではあるが、こんな状況で、致たちの周りで頼れるのは彼しかいない。「これは仕方のないことなのだ」と己に言い聞かせて致は事情を丁寧に説明した。


『ふーん? トレンチコート、ねェ』


 事情を聞き終わった龍源は意味ありげな反応を示す。


「聞いたことあるのかよ」

『あるもないも、最近有名だぜ。色んな作家が改悪被害を受けてる』

「はぁ」


 そんな具合で電話の相手、もとい大森龍源は長い話を始める。


 最近とある作家がTwitterで呟いたことをきっかけにそれは発覚したらしい。ネット上に投稿された小説に『トレンチコートを脱ぎ捨てる』という描写が書き加えられていたそうだ。その作品は今流行のジャンプ漫画の二次創作らしく、多くの読者がいるそうだ。そのためにこのツイートは瞬く間に拡散された。


 そして不思議なことに、これと同じ改悪に遭遇したという報告がさまざまなところから出現したという。それは今下火になっている二次創作のジャンルから、いわゆるBLや夢小説。そして二次創作だけに留まらず、完全オリジナルの作品である、いわゆる一時創作の作品にまでその改悪が発生していたのである。


「それじゃあ……トレンチコートは俺のところだけではないと」

『そのとーり! 共通点は描写だけ。描写が加えられるキャラクターや季節、舞台に関係はない』

「つまり、極端なことを言えば……江戸時代の日本を舞台にした小説であってもトレンチコートを着せられるのか?」

『イエア。場面も関係なしだぜ。情事の直前、最終決戦、告白シーン。探偵の推理シーンに悪役の正体が判明するところとか』

「最悪だ……」


 ジャンルごとに一番盛り上がるシーンというものは変わってくる。しかしどうやら、『トレンチコート脱ぎ捨て』の描写はどこへも関係なく挿入されているようだった。龍源は「これはオレも読んで確認したから間違いないぜ」と付け加える。


『でもよ、一番不思議なのがな。その全てにおいてアカウントにログインしなければ修正ができないこと、なんだよ。おめぇのところもそうだけど。有志が調べた感じだとログイン履歴も本人のもののみなんだぜ』

「それは……俺も確認した。そういうのを書き換える方法はあるのか?」

『んー、あるかもしれないけども。オレが知らないだけで。でもこれが複数、いやウン十件も発生してんだぜ? 一人でやってねぇってんならともかく、ちょっと規模が大きすぎるってぇか』

「ふーん……」


 龍源の言葉に致は目を伏せた。やはりと言うべきだろうか、彼はすでに情報を集めていた。さすがの足の速さと言えるだろう。


(そんなに改悪して、どうしたいんだよ向こうは)


 致が改悪者の意図の理解に苦しんでいると、龍源は調子よさげに話を再開する。


『てなわけでェ、そちらさんの小説、ウチの動画で公開してもいい? 今回の件も動画化したいんだよねー』

「はぁー……?」


 致は思い切りため息をついてしまった。彼が龍源を苦手に思うのはこの一点がどうにも受け入れがたいからだ。


 とにかくとにかく、この男は動画のことしか考えていない。致は陰で再生数乞食と呼んでいる。そこまで執着しているようには見えないのだが、生業だからだろうか。彼は事あるごとに再生数という単語を口にする。


(出たな鳴き声)


 しかし致としては本業に支障が出るようなことがあると大変困る。それゆえに露出は控えたいのだが。


 この男はというと、致の本業を知る前からもこうして度々出演依頼(?)をしてくるのだ。そんな彼に致は辟易としていた。兄の友達である以上、関わり合いを断ち切るのは難しいだろう。双子の兄弟であるのに、どうしてこうも人付き合いの仕方に違いが出てしまうのか。致はもう一度ため息をついた。


「ダメに決まってんだろ。それにもう直したから例の文は消えてる」

『えぇ!? なんてもったいないことを!』

「うるせぇ……」

『せっかくのバズチャンスなんだぜ!? いいの!?』

「やかましい! いいんだよそういうのじゃねーんだから! 俺の場合こっちが賑やかになると困るんだわ! じゃあな! 情報提供どうもありがとう!」


 そう一方的に言った後に電話を切る。龍源の方はまだ何か、むにゃむにゃと言っていたが致がそれに耳を貸す必要はない。もう一度大きくため息をついて体を伸ばす。兄のわたるはいつの間にか飽きたのか、テレビの前に戻ってゲームをしていた。その茶色いもふもふの頭の上にスマホを置く。


「はい、ありがとな」

「おー、随分と盛り上がってたけど解決しそう?」


 スマホを受け取りながら兄は問う。致は首を横に振ってからそれに答えた


「いんや。ダメそう。けど俺だけじゃなくて他所でもたくさん起きてることっぽいから、あんま心配する必要ないかもな」

「そりゃよかったー。致が住所流出したら、俺も巻き添え食らうからなぁ」

「それは本当に……気を付ける……」

「うん、よろしくねぇ」


 2

 翌朝。


 致は残っていた仕事を片付けようとしながら時間を潰し、深夜一時ごろに床に就いた。そのせいだろう。普段は反応すらしない着信音で目が覚めてしまった。反射的に枕元のスマホを掴み取る。眼鏡をつけていないせいで発信者が誰なのか確認もできない。


「……はい、金清野のー……致の方ですが」

『あっ、やっと出たなー』

「……」


 舌打ちをして電話を切る。これが真昼なら許しただろう。己の運の悪さを恨め、と心の中で唱えながら致は二度寝するために布団の中に潜った。しかし。


「致―、龍源から電話―」


 兄の声で意識は引き戻される。


「くそがよ……」


 悪態をつきながら致は身を起こした。春先とはいえ朝はまだ冷える。軽い羽毛布団の中で致は深呼吸をした。


「もしもし?」


 怒気を前面に押し出して再び己のスマホにかかってきた電話に出る。


『やっと出たー。ちょっと確認したいことがあってだなー』

「昨日話したこと以外にないぞ」


 早く話を終わらせようと致はばっさりとそう答えた。しかし龍源はそれで引き下がらなかった。


『いやいや。修正したんだよなー? それ今確認できる?』

「はあ……」


 なんとなく嫌な予感がした致は布団を肩にかけたま作業机まで移動する。冷えたPCを起動させ、ブックマークバーから小説のページへ飛んだ。そしてそれを改めて読み返して驚愕した。


「は……? なんでまたトレンチコート脱ぎ捨ててんだよ……!?」


 小説は、昨晩しっかりと直したはずだ。それなのになぜかまたトレンチコートを脱ぎ捨てる描写が付け加えられている。しかも前とは微妙に違う文章でだ。


「しかもよくなってるどころか改悪に改悪重ねてんじゃねーよ……マジか……」


 前回よりもさらに、トレンチコートとそれについての描写が書き加えられている


(いやいやいや、この小説は主人公の元カレと炭酸を重ねた夏の権化みてぇな小説だってのに、なんでトレンチコートを着せる!?


 新しく書き加えられた部分、最後のシーンでは妹が三ツ矢サイダーではなくトレンチコートを脱ぎ捨てて渡しているではないか。改悪どころか作品を完全にぶち壊している。致の反応を見た龍源は「そうくるかー」と小さく呟いている。


「あっ……まさか、他のところでもこうなってんのか!?」

『そーそー。直した人の分はすべからく改悪が重ねられてるみたいでさァ。もしかしてーと、思った次第よ』


 悔しいが当たりである。致は謎の敗北感を覚えつつもTwitterで検索をかけてみる。Twitterに限らず、ネット上ではどこもこの話題で持ちきりのようだ。新しい都市伝説の発生に喜んでいるものもいれば、難渋する作家もいる。書き換えた人物にはトレンチコートマンなどというあだ名までついている。いつか以来のお祭り騒ぎに頭痛がして致はページをそっと閉じた。自分も渦中にいなければ便乗できただろうに


「……これ、どうしようもなくないか」

『まぁ、履歴にも残らないんじゃあ、追跡のしようもないしなァ。何者なんだろうなァ、トレンチコートマン』

「くそ、他人事みてぇに……」

『んと……まぁ、なんとかしようと思えばできるんじゃないか』

「おい、適当言ったら次こそ──」


 いつも通りの文句を言おうとした致を龍源は慌てて遮った。


『致くん発言がいつになく怖いんだぜ……っていうのはまぁ、まず置いといて。オレ、アレに似た怪異を知ってんだよ』

「ふーん、いんのかよ。こんな変態コート野郎がすでに」


 致は苛立ちからか挑発するような口調でその名を問う。龍源は少し間を置いてから、神妙な声でそれに答えた。


『字食い虫』

「うん?」


 龍源の言葉に致は首を傾げる。そんな様子の致が面白いのか彼は少し声を震わせながら説明を付け加える。


『文字通り紙の文字を食べてしまう虫の怪異なんだぜ』

「紙食い虫……紙魚とは違うのか」


 確か兄が目の敵にしていた虫だ。潰すと銀色の粉が指に着くのだ。致にはそのイメージが強く残っていた。


『紙魚は紙魚だぞ』

「知ってる。馬鹿にしてんのか」


 ほとんど反射で噛みつくように致が反応すれば龍源は「ヤレヤレ」と言ってそれを茶化した。


『字食い虫は妖怪みたいなもん! 紙を傷つけずに、文字だけ食べちゃうってヤツな』

「ふーん。詳しいんだな」

『やー、これでも魔術師の末裔なんで。オカルト系配信者は後付けよ』

「そういやそういう設定あったな。じゃあその字食い虫がネットの世界に出現したと。そんなことあるのか? 紙の文字を食べるんじゃないのかよ」

『さぁ……でもほら、最近は史料のオンライン公開とかされてんじゃん? だからそれに乗っかってネット世界にやってきたのカモ』

「適当言ってんじゃねぇぞ」


 再び茶化すような言い方をしてきた彼を致は威嚇する。どうせこれも一切効果がないのだろう。これで引き下がるようであるなら致はこの男をここまで邪険に扱わない。


『うわ、すぐそういう怖い声出すのやめろよォ。今回の場合はその発展形でェ、食った文字を吐くなり排出するなりして、別の文章として置いているってのがミソ。字食い虫に何かしらの強い拘りが……こう、追加された感じでああなったのかなーと』

「え? じゃあ俺の小説はワケわからん怪異のクソで汚されたということか?」

『うん』

「…………」


 致は黙り込んだ。長い沈黙にさすがの龍源も困惑する


『んん? あのー、もしもーし』

「龍源。ソイツへの対処法はあるのか」

『今のところはない』

「対処法を作ることは?」

『可能なんじゃない? 自分たちで色々試せばできなくはないと思うぜ……』

「やるぞ」

『へ?』

「虫ケラを俺たちの手でぶっ潰す」


 3

 陽気な春の日が差し込む昼下がりのファミレス。その隅の席では大柄な赤髪の男と、線の細い黒縁眼鏡の男が向かい合って話し込んでいる。前者は注文したであろうフライドポテトをつまみながら、後者はPCの画面を凝視しながらだ。


「そこのメガネくん! 紙魚の対策は定期的な虫干しだぜ。倉は風通しよくしようなッ」


 ウインクをしながら龍源はそう言ってフライドポテトを口に入れる。致は顔を上げて白けた目を向ける。


「インターネットが虫干しできるわけないだろ。湿度千パーセントの世界だぞ」

「まァー……否定はしねえ」

「やるなら油ぶっかけて大炎上くらいか……? 清めの炎は確か火種を使わないんだったな。金属を叩いて出した火花を使ってやるのか。なら、この場合の金属は……」


 ぶつぶつ、と致は画面にのめりこんでいく。それを龍源は若干引き気味に止めようとする。


「いや、それは色々とマズくね?」

「虫ケラを燃やさなくてどうする」

「だからといって倉に火を放つのはどうなんかねェ。神の作品も燃えるぜ」

「……冗談だ。そっちは何を見てるんだ」

「ん? これ」


 そう言って龍源が見せた画像には何かの祭壇のようなものと赤い光が映り込んでいる。


「なんだこれ」

「アステカの祭壇」

「なんだそれは」

「見たら呪われる画像」

「おい、ふざけるなよ」


 とりあえずファミレスに集まり、作戦会議を始めたところまではよかった。しかしそれ以上に進歩はしていない。龍源に至ってはすでに少し飽きている。頭を抱える致の横で彼は二度目の注文を済ませた。


「にしてもなんで、よりによって『トレンチコートを脱ぎ捨てる』ことに固執するんだろうな」


 メニュー表を机の角に押し込みながら龍源はそう呟く。共通点である描写は全て『トレンチコートを脱ぎ捨てる』というものだ。そう、脱ぎ捨てるまでがセットなのである。龍源の疑問を聞いた致は大きなため息をついて机に突っ伏した


「脱ぎ捨てることがそんなに大事には思えないぜ」

「……いや、分かるぞ。俺の予想だけど、これは一種の露出欲みたいなものだと思う。隠されていたものが一気に露わになるその瞬間の得も言われぬ快感を、コイツは求めてるのかもしれない」


 のそりと視線を上げ、大真面目な顔で致は答えた。それに若干気圧され龍源は瞬きを繰り返す。


「はあ。詳しいな。もしかしてそういう……」

「そんなわけないだろ! でもそれに類似した感覚は知ってる」

「……裸体の露出じゃないのならなんだって言うんだよ」


 首を傾げながら龍源は言い返す。致はのろりと体を起こし、PCを閉じてから、眼鏡の縁に指を当てる


「創作物だ。でなきゃ俺は漫画家なんてやってねーし小説もネット上に投稿してねーんだよ! 普通に考えてみろ、自分の妄想を形にした挙句人に見せびらかしてるんだぞ! 普通は見せない部分だ。特級のセンシティブだぞ。そう考えたら露出狂と作家なんてもんはなぁ、紙一重、表裏一体の関係なんだよ!」

「そ、そっか」


 龍源が眉を下げてそう反応すれば、致は再び机に突っ伏した。どうやら自分で言った言葉にダメージを受けたらしい。またも大きく長いため息が腕の隙間から聞こえてくる。


「ちょっと、自沈するのやめてくんない? オレが悪いみたいだぜコレ? なァ」

「いや……待てよ? それをすれば、いい、のか……?」

「んん? なんて?」

「さ、晒上げて……いや、そんなの非道すぎる! というか俺はトレンチコートというよりダッフルコートの方が……」


 そう言ってもう一度PCの画面に目を落とす。


 そこにはまたもや改悪された自分の小説が表示されていた。


(やっぱり、やるならもうちっと上手くやってくれねぇかな。ただの荒らしにそんなこと言っても無駄なんだろうけど……俺ならもう少しマシにできるぞ)


 そうだ。こんなのでは許せない。本当に受け入れがたいことなのだ。


 しかし相手はトレンチコートを脱ぎ捨てることに拘る変態だ。その改悪を見つめているだけでは致の満足する書き換えはされないだろう。もし、もしそれが致にとって悪くないものであったとしても「素晴らしい」と手放しで褒めたたえるようなことはおそらく起きない。


(この作品は最初の一文と最後の一文が合わさって初めていい形に収まるんだからよ!)


 その間のノイズが許せないのは然り、修正が単純に無理やりで下手くそな点も腹が立って仕方がない。


「あの? ヘイ、致クン」


 急に黙り込んだ致を覗き込みながら龍源は問いかける。しかし致はそれに反応を示さずにぶつぶつと何かを呟いている。


「そうだ……そうだぞ……自分の妄想にいちいち文句つけられるの嫌すぎる……俺はただ、人の存在があるところに己の作品をだして、あわよくば少しだけ反応が欲しいだけで、批判されたいわけではないんだが。露出狂だってナニに文句言われたくて露出をしているわけでは、ない」


(そ、そうなのか?)


 いまいちピンと来ていない様子の龍源に致は提案をする。


「なぁこれ全部全部否定してやればいいんじゃねえ?」

「ウン? つまり?」

「つまり、これから俺が書き換えられる度にそれをすべて修正してかかる! 相手はトレンチコートに拘る脱ぎ捨て変態野郎! ダッフルコートを着込んだ主人公が登場するこの小説に食いつかないわけがない! ソイツが改悪する側から、全部俺が書き直していく!」


 致は開眼して一気にそう言い切った。そしてようやく、席の隣に立った店員に気が付いた。


「……ご注文のボロネーゼです」


 数年に一度しか見ないであろう気まずい空気がその場に流れた。直前の勢いとその後の致のしょげ具合に龍源は思わず噴き出した。


 4

「……何か変化はあったァ?」

「ない……」


 餌としては完璧なはずである。真逆のことをしているのだから、拘りのある字食い虫としては見逃せないだろう。ファミレスでの作戦会議を終えた二人は、金清野家に戻り小説を作成し投稿した。


 致が小説を書いている間、龍源は動画編集と情報収集に勤しんでいた。しかし目立った新情報はなく、何時間経っても致の投稿した小説に変化は見られない。ログインすると現れないかもしれない、と思った二人はお互いの持てる端末の全てを駆使して交互に小説の監視を行っていた。


「他のところには出てるのによ……」


 今夜もまた、改悪に悲鳴を上げる字書きがいる。


 先方の修正……改悪が気に食わない。その一心で筆を進めていた。しかしその成果は一向に現れない。


「……お眼鏡には敵わねぇと。もう一度書き直すか」


 頭を抱えながら再び画面に戻る。どうせなら、いいものを生み出したいというのは欲張りな発想だろうか。そうして夜は更けていく。ゴミ箱は丸めた付箋紙でいっぱいになっていた。



「なー、できそう? もーそろ夜明けだけどー」

「ダメだ。まだかかる」


 致は机から顔を上げずにそう返す。このやり取りも何度目だろうか。致が頑張っている横で寝るわけにもいない。その一心で龍源も画面に向かっていたがそろそろ限界だ。


「えぇ!? てっきりああ言うから、すぐできるのかと」


 思わずそんな文句が口を突いて出る。書き上げたと思いきや、致はそれをすぐ捨ててしまう。満足できる出来のものができるまで、彼はそれを続けるつもりらしい。そんなことをしていては、解決は遠のいてしまうというのに。誰よりも解決したがっている彼がその様子では先が思いやられてしまう。


 致は龍源の文句に手を止めて、ようやく振り返った。


「ハァー……じゃあお前が書いてみろよ。できるか? できんのか? それですぐ神作ができるってんなら俺は喜んで筆を折るぜ。お前らが思ってるほど、簡単に作品ってのはできねえんだよ。馬鹿みたいに山ほど知識を積み上げていっても、使うのはその一部だけ。人の目に触れる部分なんてほんの一部。いい作品であればあるほど、苦労が読者に伝わることなんてな、絶対にありえないことなんだよ」


 レンズの奥の瞳は苦し気に歪む。


 氷山の一角、とはよく言ったものだ。まさしくそれである。ハリボテではいけない。含蓄と多様な視点からなる、質量のあるそれでなければならない。それを作り上げるにはとてつもない時間がかかる。


 だからこそあんなふざけた改悪が致には許せないのだ。許すわけにはいかないのだ。


 自分で文章を書かず、人様の文章を改変してそれを味わう。それがよりによって致が心の拠り所にしていた作品で行われた。


「アレはな、俺がスランプになったときに復活するための大事な楔なんだよ。未熟さも含めてまた描こうってなれる大事な作品なんだよ」


 致は呻くようにそう言った。ボールペンを握る手は小刻みに震えている。



『あのー、そういうわけでそろそろ休載期間開けますけど……進捗どうですかね? 清水先生』


 電話の向こうの担当は控えめにそう訊いてきた。先日のことだ。体調不良から復活した致は漫画の描き方を忘れていたのだ。スランプと言うよりは単純に間が空いて筆が硬くなってしまった、と言った方がいいだろう。きっと描き始めればどうということはない。しかし、その描き始めというのが厄介だ。何事も最初の一歩を踏み出すのに時間がかかる。続けることでそのハードルを低くすることができるのは、致も知っていた。


 だから本当はこんなところでぐずついている場合ではないのだ。


 伸び悩むアンケートに苦しんでいた。作画能力が目立った向上をしないために不安になった。年下の漫画家に嫉妬した。こんなところで立ち止まりやがって、と己を叱咤した。思い通りに表現できない己の未熟さを恥じた。


 それが、それらが実を結ぶことはない。今の今まで致は筆を折らぬように必死に握りこんで耐えようとしてきていた。


 そして最後の最後、最終手段としてあの古い小説を見に行ったのだ。


 晒上げが非道なこと、とは言ったが正直致としてはそれだけではすっきりできないというのが本音だ。


「だからな、絶対に変態コートはぶちのめす。引きずり出してぶん殴ってやる。これはな、お前の再生数のためなんかじゃねぇ。俺の矜持のためなんだよ」


 龍源は目を丸くした。てっきり致はこの件を忌避しているものだと思っていたからだ。それがどうだ、彼は「真正面からぶっ飛ばす」と言っているのだ。


「分かった! オレも書く」

「はぁ!?」

「なんで驚いてんの? そっちがそう言ったんじゃん。釣り針は多い方がいいだろうし……オレもちょっと軽率だったわ。作るのに時間がかかるのは当たり前だしな。この本借りるぜ」


 そう言ってから龍源は致の本棚から創作論の本を取り出す。致はようやく状況を飲み込んで一つ息をついた。


「は、はぁ……まぁ、いいけど。俺もなんか興奮して悪かったわ。なんかもう、集中切れたし……俺は寝る……」


 ふらふらと彼は布団の中に潜り込んだ。


 数時間後。深く短い眠りを経て致は再び作業に取り掛かった。進捗は悪くない。


 昼飯を食べ、作業を再開しようとする。そこへちょうど、外へ出ていた龍源が帰ってきた。彼は両手に袋いっぱいに入った本を持っている。それを見た致は首を傾げた。


「ん? 図書館、閉まってたんじゃないのか」


 そう、昼食をとる直前にLINEに「今日閉館日だった(涙)」というメッセージが来ていた。月に一度しかない閉館日にあってしまうなんて、龍源もなかなかツキの悪い男である。しかしどういうわけか、彼は本を持って帰ってきている。買ってきたのだろうか。


「あぁ、そうなんだけども。オレの家にいいのがあったから代わりに持ってきてみたぜ」


 そう言いながら龍源はどや顔と共に袋を掲げる。


「……お前の家、本とかあるんだな」

「ひっでェ偏見! オレだって何の根拠もなしにオカルト解説系動画投稿者やってるんじゃないんですー! 適当言うのは性に合わないんですー! 超超参考文献は読む派だぜオレはよ!」

「ふーん……オカルトって適当なのが魅力なんじゃないのか」

「それはそうだけど! ある程度の根拠は要るの! そうでなきゃ再生数伸びないんだからな! 視聴者は答えを求めてオレの動画観てんだから」


 その目にあるのはプライドだった。致は絶対に質を落とさない、という強い拘りを感じ取った。どうも何かが彼の拘りに火を着けたらしい。


「それにオレも改悪はあんま放っておきたくないし。好きな作品が書き換えられるのは気分が悪い」


 致に背を向けてから龍源はそう言った。



 ※※※



「……! かかった!」

「エ!?」


 二人して画面を覗き込む。先ほどアップロードした小説に「トレンチコート」の文字がある。三度目の正直で投稿されたそれにようやく獲物が引っかかった。


「来たな……」


 致は腕まくりをして積み上げたメモを取り出す。この戦いのために修正用の文章を没から抽出して積んでおいたのだ。丸二日これを積み続けていたのだから、多少は持ちこたえられるはずだ。電子空間を泳ぐ虫という相手のスタミナが未知数な以上、長期戦も覚悟しなければならない。


「絶対に、絶対に俺はお前を許さねぇからな」


 そう呟いて致はデスクトップに向かった。


 5

 丸々六時間が経った。


「くそ……そろそろ腕が、限界だぞ……」


 憔悴しきった顔で致は画面を見上げる。画面には改悪に改悪を重ねられ、原形を留めていない小説が表示されている。


 ただ単に修正するだけならば別ファイルとして小説を保存しておけばいいだろう。しかしそれだけでは完全なる否定には繋がらない。何度も何度も同じ個所を書き換えられ、修正を加えるたびに新たに改悪された部分が発生する。これを繰り返していくと、すべてを改悪した『トレンチコートを脱ぎ捨てる』小説が完成するというわけだ。


 それに対抗するために修正をする側も、修正をするたびに新たな内容を追加していくことになった。


(虫の癖に結構やるな……本当に虫かよ)


 その知能レベルを疑いながらこの数時間戦ってきた。直すたびに新しく書き加えていく。段階ごとに原稿を用意しておいたので、致でなくとも修正が可能になっていた。基本的には龍源と致で、たまにちょっかいをかけに来た渡も加えて修正をし続ける。


「…………なぁ、なんか変化、あるか?」


 前回の修正から一時間が経った。その間何一つ変化は起きていない。もはや時報と化したその確認に龍源は反応する。


「ナイ……」


 畳の上に突っ伏しながら彼はそう返す。


 そして、字食い虫の動きが無くなって丸一日が経った。


「これは」

「あぁ……俺らの完全勝利、じゃねーの」


 投稿されたそれに変化がないことを確認して、二人は顔を見合わせた。お互いに酷く疲れ切った顔をしている。致は特にクマが酷い。互いの顔を認めた二人は思わず吹き出して、その場に寝転がった。冷たい床が疲労で鈍った感覚を刺激する。


 その後二人はひとしきり笑った後にそのまま寝落ちた。


「うーん、字食い虫がアップグレードされてたって感じだよねぇ。これはオレの予想なんだけどー、デジタル化した字食い虫に何かしらの強い感情が取り憑いた……とか。それこそトレンチコートを脱ぐ、ということに拘っていた変態さんとか。生霊か悪霊かは知らないけど」


 その後目を覚ました二人は深夜のファミレスで遅すぎる晩御飯兼祝賀会をしていた。


 致の疑問に対して龍源は緑茶を飲みながら丁寧に答えた。


「迷惑すぎるだろ……」

「なんかこういうのウン年周期で発生するらしいぜ! ちなみにトレンチコートは二〇一三年から三年周期」

「蝉か」


 全くもって迷惑な話である。あれからあの虫は致のところに出現していないが、他所では相変わらず改悪行為を繰り返しているらしい。活動するのはひと月だけらしいが、騒動が始まってからまだ一週間ほどしか経っていない。虫に悩まされる作家はまだ増え続けるだろう。


「にしてもさァ、オレが言うのもなんだけど、本当に動画で取り上げてイイんか?」

「背に腹は替えられんだろ。本当は嫌だけど、俺だって好きな作家の作品が書き換えられるのは嫌なんだよ」

「マァー……そうね。オレらの方法が再現できるとも思わないけどよ」

「俺らは長期戦を嫌ったからああするしかなかっただけだろ。毎日修正するってだけでも効果はあると思うけどな」


 致はそう言ってピザをつまむ。


「なぁなぁ、ペンネーム教えて。それで動画に載せるわ」

「え、嫌だ」

「いいだろー! な! 動画には出さねぇからさ!」

「今動画に載せるって言ったよな?」

「いやぁ、いやぁ、だって、だってよ?」


 祈るようなポーズをとり、龍源はウインクをする。癖なのだろう。彼なりのお礼のつもりであることは致も理解している。全くの無名ではないシロガネのチャンネルであれば少しの宣伝効果はあるだろう。それがアンケートや単行本の売り上げに繋がればこのお礼は最上級のものになるだろう。


(結局俺の作品が面白くなきゃ意味はないけどな……)


 そんなことをふと思うがすぐに頭からかき消す。できることはやっておくべきだろうか。疲労の抜けきらない頭は判断力を鈍らせた。


「……清水あゆみ」


 二十歳、いいや確実にそれ以前から致が使っているペンネームだ。少女漫画家清水あゆみ。それが致の本職である。その名を聞いた龍源は少し人の悪い顔をしながら反応する。


「それってぇ」

「黙れ、言うな。思うことはあるかもしれないが、言うな。時と場合によってはお前を殺す」


 彼の言わんとすることを読み取った致は、いつも通り邪険にそう言い返したのだった。

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文欲 爆殺 オーバードライブ! 猫セミ @tamako34

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