1 初めてのワープロ専用機

1. 難行苦行のノート取り



 ワープロ専用機が一般でも容易に手に入る直前、一九八〇年代前半は、過疎地域と言われ始めた地方の中学生だった。当時、通っていた中学校には一九七〇年代最先端と言われた教育機器を多数取り入れ、テレビでも校内放送もできた。入学した頃は、校内放送用のモノクロ受像機も保守していなかったのか、他の教育機器と同様、大半は使われず故障していた。


 機器の更新をしてこなかったのは、ハードウェアは揃えたものの、使う側の先生が使いこなせなかったと記憶している。これは、情報通信技術が入り、タブレット端末を用いた授業、コロナ禍でオンライン授業と言われる通信を用いた遠隔が上手く使いこなせいと同じ図式である。


 二〇二〇年代を超える頃に、ICTとか言って学校教育に情報通信技術を入れる動きはあるにせよ。授業の板書をノートに手書きする作業は二〇世紀と同じである。書字障害などで情報端末を用いて完全に紙のノートを代替するまでには至っていない。


 手書きするのが苦手、字が下手で書くのか遅く嫌いだった当時、ノート取りは難行苦行。きれいに書く機械があればいいなと思っていた。当時、ワープロ専用機が初めて市場投入が発表されたのが小学校四年生。と、言っても当時ニュースや新聞で見たかも知れない。記憶に残っていないから関心がなかったのであろうか。


 気がついたとしても、事務机の大きさに六三〇万円の事務機器に個人では到底手が出せるわけもないから、欲しい以前の問題。中学時代、力士がワープロ専用機のテレビ広告もあった。それでも七五万円。小遣い貯めても無理だった。


 そんな中、クラスメイトが活字の文書を作って私に披露した。住んでいた地域では大きな洋服店を営んでいた長男で、事務用に和文タイプライタを所有していた。それで作って来たのである。藍色のインクでタイプされた整然と並ぶ活字に魅了された。これで板書したノートをタイプすればきれいで教科書のような仕上がりになる。これがワープロ専用機を欲しがる遠因となった。


 一九八三年、ワープロ専用機専用機の値段は三〇万円を切った。液晶一行表示、英文タイプライタのような形状をしたものだった。まだ、中学生の身分ではまだ無理であった。


 当時は、任天堂のゲームアンドウォッチ、カシオのゲーム電卓が流行り、私は後者に夢中になった。それでも、きれいな文字でタイプできる和文タイプライタが欲しくてたまらなかった。


 ワープロ専用機の他にもパーソナルコンピュータでも日本語表示可能なBASIC言語、ワープロソフトが存在していた。漢字ROMを搭載するもの、本体より高価だったからフロッピーディスク装置とフロッピーディスクを組み合わせ、漢字フォントや辞書を読み込むソフトウェアも存在した。


 和文タイプライタの実物を見て、中学生の身分ではやはり手に届かぬ価格、大きさ、重さにノートを取って活用しようと思いは夢物語だった。和文タイプライタで文書を作って来た同級生もノートの清書までは用いていなかった。


 無理だとしても和文タイプライタが欲しかった理由はノートの清書よりも友人たちと印刷物を作ろうと話していた時に出た。その印刷物は、友人たちと架空新聞をわら半紙に書いてクラスの生徒たちに見せていた。友人が新聞形式でイラストや記事を書くのが好きでその面白さで仲間に入った。新聞社ごっこの始まりだった。


 架空新聞の内容は友人を茶化す、イジると言えば分かるだろうか。学年成績常に一番の男子生徒。和文タイプライタで文書を作って来たクラスメイトだった。イジると言ってもいじめるではなく、冗談を言い合う仲だった。給食に出されるジャムがとても好きで余った分を集めていた。私はジャムが苦手であげていた。その縁でいつの間にか中国大陸の白地図を描き三国志ごっこを楽しんでいた。



 字が恐ろしくヘタクソで自分で書いたものを読めば読むほど自信を無くすほど。成績上位のノートが文字がきちんと揃っていた。読むに耐えない字を書くと読み消えすのもうんざり。ゆえに反復学習も怠るから成績は下降線。


 学習は反復を行うと記憶に定着する。自分が書いた文字に自信を持てない私はノートで反復学習をしよう書き込みを入れようという気が失せていた。


 先生から文字は丁寧に書きなさいと《指導された》のは答案返却時に時折。一九八〇年代中学高校時代だった当時は英語のノートは《筆記体》で書くようになっていた。書いているうちにミミズの大行進、そして大文字のGと小文字のrはどうしてもうまく書けずに苦労した。


 高校時代はブロック体で書いていた。黒板には筆記体が並んでいた。それでもブロック体でノートや試験の回答を書いても何もなかった。学校の印刷室にホコリを被り全く使われなくなった英文タイプライタを譲ってもらった。その思い出は別の項目で取り上げる。


 高校時代まで書くことが嫌いで、ノートの他に作文も苦行の一つだった。消しゴムで消しているうちに紙は汚くなって紙まで破れたらもう憂鬱。夏休みの宿題で読書感想文は難行、汚い字を適当に埋め合わせていた。書評や感想文はこの《悪い思い出》のおかげで苦手である。あの時代、ワープロやバソコンがあったらなとまた違った人生が違っていたなと思った。コロナ禍で遠隔教育の場合、障害によって配慮が必要な以外は手書きが主流は二一世紀になっても変わっていない。


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平成ネット史外伝~ワープロ専用機 藤堂俊介 @shunsuketodo

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