第二部分

「船長、アイツちょっとヤバいぜ」

「……今どんな様子だ?」

「変わらねえっすよ。部屋のベッドに座ってずっと独り言。『俺は誰だ』『何故俺はここにいる』って」

「記憶喪失か?」

「知りませんよ。医者じゃあるまいし。大人しくしてる内は別にいいですがね、ああいう手合いは突然何の前触れもなく暴れ出したりするんです。ウチの息子がそうだ」

「……記憶以外に倫理や道徳を失ってないことを祈る、ってとこか」

 船長が休憩室を立ち去ると、すぐに別の船員が入ってきた。

「船長は何て?」

「……『倫理や道徳を失ってないことを祈る』だと。呑気だぜ。船さえ母国に帰れれば船員の安全はどうでもいいんだ」


 Kings Flameはイギリスまでの航路を着々と進んでいた。経由地としてはハワイやロスを辿り、パナマ運河を通ってさらに西へ、母国を目指す。生活必需品や作動油等の船用品は、そうした経由地で逐次補給する。荷役作業の終わった船員たちに急を要する仕事は無く、交代制の休憩時間には他の船員と駄弁ったりトランプで賭けたりする。そうした平穏な旅の途中も、リウは一切のコミュニケーションを遮断し、ぶつぶつと独り言を続けた。

 リウから得られる情報は何一つ無かった。ただ船長に下されていた「香港人を一人英国まで連れてきて欲しい」という命令だけが、この得体の知れない男の行き先だけを教えてくれた。

 こんな男が英国に来て何をするというのだ?

 訝しんだ船長は考えた。ひょっとして英領時代の香港で共産勢力と渡り合ったMI6の現地諜報員ではないかと期待した。当を得ない独り言の数々も、そうした身の上をカモフラージュするための演技なのではないか、と。

 しかし期待を膨らませつつも、コミュニケーションが取れないのでは確かめようもない。


 先ほどの二人がまだ休憩室で遊んでいた。

「茶が欲しくなってきたな」

「おう、俺が淹れよう」

 船長と話していた方の船員が、小さな壺に入った茶葉を匙で急須にあけ、その次に、更に小さな壺に入った粉末をほんの少量、急須の茶葉に混ぜた。

「こうして茶が飲めるのも、この船に乗った役得だな」

「何トンもある内の何グラムが無くなったところで、誰にもわかりゃしねえしな」


 Kings Flameは書類上、香港まで茶を運んでくる船ということになっていた。



× × ×



「……ここだよ」

 

 アンとイップの二人は立ち止まった。<東頭村道>は外に面していたから、二人の側を大量の通行人が通り過ぎていった。通行人にとって、九龍城は動物園のようなものだった。但し動物ではなく、犯罪者たちが閉じ込められた動物園だ。こちらからちょっかいをかけなければ、基本的に害はないというところがそっくりで、更にもう一つ、忙しい大人たちは滅多に関心を払わないというところまでそっくりだった。

 

 二人は<城砦福利会>と、赤地に金文字で書かれた看板を見上げていた。

 二人は入り口から伸びる階段を上がり、暗がりの中を四階の高さまで上がっていった。

 扉が現れた。その扉には様々なまじないいの札が掲げられていた。

 アンは扉の周りを観察した。監視装置の様なものは見当たらなかった。下から新たに上ってくる人物もなさそうだった。

「アンの旦那、ここだよ。いつもはここから福利会のオフィスに入れるんだ」

 アンはそれを聞き「そうか、ご苦労だった」と言うと、イップに銃を向けた。

 イップは慄いた。「なッ!だ、あ、アンタ一体……」


 アンは口を開いた。

「お前は福利会のオフィスの状況を説明するとき、最初に俺に言ったな。『わからねえんだ』と。それだけを漏らすために随分俺に殴られて、さぞ痛かっただろう。

 さあ教えてくれ。もしお前が本当にオフィスの場所が分からなかったのなら、最初から堂々と、わからねえと言えたはずだ。なぜわざわざ俺に殴られることで時間を稼いだ? あの場で誰か見てたのか? どこかで見てる誰かに、お前が何らかの方法で情報を送信し、この福利会のオフィスで武装して待ち構えられるように時間を稼いだんだとしたら、今俺はピンチなんじゃないか? 

 それとも、こんな推理もあるか。

 イップ、お前は確かに福利会から締め出された。しかし、既に城の外にいる福利会の幹部と接触することに成功しているんだ。そしてその幹部はオフィスが別の部屋と入れ替わる謎を――その仕組みを――知っている。アンタはその幹部の機嫌を取って何とか福利会に戻らなきゃいけないから、このオフィスのことを部外者に話してしまう訳にはいかないんだ。

 前者の推理が正しいとしたら、とっくに扉からお前の仲間が殺到して、俺は蜂の巣にされてるだろう。ということは後者が大体正しいのかな? どうだイップ。福利会での立場か、香港の居住権か。今この場でしっかりと選べ」


 アンが引き金に指を掛けた。カチャリという微かな音が反響し、階下から聞こえてくる雑踏の音に混じった。

 イップは這いつくばり、「ゆ、許してく――」「謝罪する必要は無いよイップ」


 アンは階下から来る声に銃を向け直した。いつの間にか一人の女が立っていた。

「ごめんねイップ。この場は私が預かるから、自分の部屋に戻って。ね」

「リ、リンさん!! すみません、俺――」

「いいから!……早く行って」

「へ、へへ……」

 イップはちらとアンを見ると、何も言わずリンと呼ばれた女性に会釈だけして去っていった。

 微かな外光を背にした女。彼女の表情はうかがい知れない。腰の辺りまで伸びた長い黒髪とレザージャケットのつややかな漆黒が、彼女の輪郭を九龍城の内壁に溶け込ませている。

 

 唐突に開戦した。

 リンが三段跳びで仕掛けてきた。

 アンの放った弾丸は彼女の黒髪のカーテンに丸い跡を残した。彼女は両手を階段について逆立ちしつつ、回し蹴りを披露した。長い脚が狭い空間を薙ぎ払った。不意を突かれたアンの拳銃が明後日の方向へ蹴り飛ばされる。

 着地を狙ってのアンの前蹴り。肩でそれを防いだリンだが勢い余って階段を後ろ歩きで落ちていく。足を八の字にして停止、体勢を安定させ彼女は改めて構えを取る。

 詠春拳か――。アンは思った。脇を閉め、開くとも閉じるともしない微妙なニュアンスの手が前後に配置されている。その構えには確かに木人椿の影が浮かび上がっていた。しかし解せない。さっきの回し蹴りはいかにもカポエイラ風だった。

 あらゆる武術に精通した美人格闘家――?

 香港映画でもお目に掛かれない設定が頭をよぎったアンだが、彼は彼で自らの構えを取った。

 戴拳道ジークンドー。最短最速の実践武術。


 数秒見つめ合った。

 リンが口を開いた。「アナタは誰?」

 アンが言った。「安・善礼。九龍区警察」

 リンが返す。「私は城砦福利会幹部 琳・春天チュンティエン。ここの阿片ジャンキーでも捕まえに来た?」

 アンは飛び掛かりざま、目一杯脚を広げて蹴りを放った。彼女は右ひじを盾にして受けつつ、体捌きでアンの勢いを受け流した。階下へ落下するアン。壁面に足を擦らせ勢いを殺して着地し、裏拳で彼女の追撃を防ぎつつ数発の縦拳を放った。

 捌き切った彼女が拳を繰り出した。アンは数センチ顔を遠ざけて躱す。腕を掴み捻りあげるアン。体勢を崩されまいとリンは反対の手で突いた。それを内からいなし、再び縦拳。彼女は掌で防いだ。

 両者が再び静止した。


「……詠春拳の理念は護身にあるの。もしアナタが敵でないとわかったなら、こんな階段での武術の競い合いは無意味になる」

「……俺はリウという男を探してここまで来た。あのイップを締め上げてたのはついでだ。元・瓜豆頭幹部、劉・威。ご存じかな?」

「……劉って、あの劉?一年くらい前にここに来た?」

「!!」



× × ×



 そう、劉・威という男は確かに一年前、この九龍城を訪れた。そのとき女の娘を一人連れていたのを覚えている。名前は知らない。


――安・龍麗ロンリーだ。どんな背格好をしてた?


 小柄で一○歳くらいに見えた。黒髪で……眼鏡はしてなかった。


――ああ、俺の娘だ! 今何処にいる!?


 消えた。


――消えた?


 リウは最初に訪れてから一週間程でこの九龍城を去った。そのとき女の娘はもう居なかった。豚肉屋のおばあちゃんが言うには、香港島の児童保護施設に行ったんじゃないかって。

 この九龍城には一○○○○○人近くの人間が住んでる。福利会も全員分の出入りを把握してる訳じゃない。

 最近は特に得体の知れない輩が増えた……阿片のせいでね。

 一年前のあの事件で瓜豆頭が滅んだ。彼らが牛耳ってた密売買ルートは崩壊した。素人共が誰彼構わず阿片を売りつけるようになった。

 元々ここは瓜豆頭の一番の上客だったのよ。だから瓜豆頭から買えなくなったジャンキーたちは何としてでも手に入れたがる。もう中毒になっちゃってるからね。

 足元を見た売人はボったくり、ねずみ講のように勧誘された不良共は城に出入りし、終わらない連鎖が続いてジャンキーだけが増殖し、やがてここは昔の楽しかった九龍城ではなくなってしまうでしょう。


――ルートが崩壊したのは分かる。しかし阿片ってのは香港で栽培されてる訳じゃない。大元が……つまり“瓜豆頭に”阿片を売りつけてた黒幕がいるんだ。その情報はホンていうゲス野郎のせいで闇に葬られたが、そこを叩かない限り、阿片問題は根本的には解決しないぞ……。



× × ×



「……お前はこの九龍城が好きなのか?」

「ここで育ったんだもの。幹部になったのだって、ここの阿片を撲滅したいと思ったからなのよ」

 リンは福利会の、呪いの札で溢れた扉を開けた。


「……やあ、琳さんじゃないか。インターホンくらい鳴らしてくれればいいのに。そちらの方は?」

 それは一国一城の自治を担う組織のオフィスとしては、あまりにも一般家庭の部屋に酷似していた。子供用のベッドが奥に見え、そのすぐ隣に小さなブラウン管テレビが置いてあり、アメリカのフィットネス番組が流れているのを二人の子供が食い入るように見ている。

「……いえ、いいのよ。ただの見回り。幹部の仕事だから」

「そうですか? いや、ご苦労様です。本当に」


 扉を閉めたリンは溜息をついた。

 今度はアンが扉を開けてみた。狭く暗い部屋で、愛を育む若いカップルが九龍城にもいるということが分かったアンは、無心で扉を閉めた。

 彼は自分がイップに披露した推理が外れたことを悟った。幹部のリンも福利会から締め出されているのだ。


「イップから話は聞いているわね。福利会のオフィスにはどういう訳か辿りつけない。それだけじゃない。同じ通路が何度も繰り返し現れたり、上ったはずの階段が実は降りていたり」

「アンタ以外の幹部はどうしてるんだ?」

「連絡もつかないのよ。携帯の電波が何者かに遮断されてるみたいで。WiFiの電波だってオフィスを引き返してるんじゃないかしら」

 リンは投げやりな態度だった。彼女に相当のフラストレーションが溜まっていることを見て取ったアンは、一年前にリウの行き先は聞いたかと尋ねた。


「そういえば不思議ね。リウがここに来たのも、怪奇現象が起き出したのも丁度一年前だった。彼、様子がおかしくなってたわ。『俺は何をしてる』とか『わからない』とか。記憶喪失で目覚めたアニメの主人公みたいだった」


 二人は昼食を共にした。

 リンが勧めた食堂やカフェで腹を満たした後は、城内を回って実際に怪奇現象が起こるのを目の当たりにした。

 地図に無い住所がある、など序の口だった。

 開けて閉めたドアが次の瞬間には施錠されていた。

 後ろを向くと別の交差点に立っていた。

 城内中央部に位置する部屋の壁から、外周の<東頭村道>にあるはずの歯医者の音が聞こえてきた。


「リウが瓜豆頭の幹部だったなんて驚き。だけどそうだとしたら……仮に国外へ逃亡するんだとしたら、<啓徳国際ターミナル>は使えない。検問が厳しすぎるわ」

「じゃあ船か。陸路で香港から中国へ行くなど、それこそ絶望的だ」


 一日で得られる成果にしては上の上だった。

 アンは娘が生きていると確信していた。少なくとも、あのマフィア組織の本拠に山積みになったであろう炭化した黒い死体の山の中に、娘のロンリーがいなかったということは言えそうだった。

 リウの居場所――。

 目下アンの目的はそれになった。

 


 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【九龍】 藤二井秋明 @FujiiSyumei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ