【九龍】

藤二井秋明

第一部分

Chapter1 一年ぶりの復帰


 アン善礼イーリーは目覚めた瞬間、出勤日の朝というものの気分を思い出して吐き気に襲われた。仕事がどれほど人間の精神を蝕むのか、朝の明晰な頭脳で瞬時に思い出した。彼が仕事に行くのは一年ぶりのことだった。


 香港の景色はいつもと変わらなかった。

 多くの人、多くの建物、空を飛び交う飛行機、騒音、異臭、その他色々。変わったのはアン自身の事情だけであり、彼が一年ぶりに大怪我から職務に復帰することなど大衆の中の誰の関心も惹きはしないのだった。

 彼は九龍区警察署のエントランスを潜った。

 嫌という程見てきたはずの署の玄関口に関しても、特に変わったところは無かった。ただ、街の景色と違って、この一年間全く、文字通り全く署には顔を出さなかったから、何だか人格を持った玄関にクスクス笑われているような気分になり、彼は変にこわばった。

 チャンがエントランスに降りてきて、アンと顔を合わせた。

 チャンは驚いた様子で言葉を絞り出す。「……お前、そ、そうか。今日からだったな」

「久しぶりだな。またよろしく頼むぜ」

「お前……お前ッ!!」

 人目も憚らず抱擁を交わす二人に視線が集まり、次第に人は集まって、さながら英雄が復帰してパレードでもせんばかりの盛り上がりとなった。アンを慕うものは大勢いた。

 ワン署長が歴代署長の肖像画が並んだ階段を下りてきて、アンに言った。

「復帰おめでとう、アン警部補。さっそく私の部屋へ」

 彼女がそれだけ言って署長室へ向かうと、アンもそれに続いた。他の署員も各々の職務に戻って行った。



× × ×



 今では署員たちにゲス野郎呼ばわりされている故・ホン警部補という男がいた。彼がまだ警察と瓜豆頭グアドウトウ(香港に拠点を置いていたマフィア)との二重スパイを働いていたとき、その事件は起こった。

 瓜豆頭を壊滅させるという香港政府の意向に従った九龍区警察が機動隊を突入させた際、事態を未然に防げず警察とマフィア両方の板挟みとなってしまったホンが、組織の拠点ごと爆破して自殺を図ったのである。

 当時、多くの子供たちがこの瓜豆頭によって拉致されていた。爆破によって深刻な火災に見舞われた本部の建物の中にも、多くの子供たちが取り残されていた。

 アンは火災の中、子供たちを命がけで救い、脱出させた。凄まじい執念で、一人、また一人と建物の外に子供を逃がした。彼の娘が拉致されていたからである。

 結局、最後まで彼は娘を見つけることが出来なかった。脱出がかなわなかったアンは、救助隊に搬送されるころにはほとんど死体同然だった。長時間の大手術で体組織のほとんどを人工物に入れ替えたことにより辛うじて生きながらえ、一年がかりでリハビリをして署に復帰したのである。


 ワンが言った。「……とりあえず、今日も今日とて香港には事件が溢れてる。アナタには去年までと同じように仕事をしてもらいたいのだけど」

「ええ。構いません。ただ一つ、空き時間にでも娘を探すことを許して頂ければ」

「アン警部補……言いにくいことだけれど、娘さんは……」

「わかっています。あのとき、あまりの損傷で個人の判別が不可能だった遺体がいくつもあったんでしょう」

「そうよ」

「しかしそれとこれとは関係がありません。犠牲者たちが火葬されて完全に消滅した今となっては、死体を調べて娘が死んだと証明することは永遠に出来ない。でも反対に、娘が生きていると証明するチャンスは、娘を見つけるその瞬間まで残されているのです」

「……」

「……」

 双方共に無言の状態が続いたが、やがてワンが口を開いた。

「わかりました。仕事の合間に娘さんの情報を収集することを許可します。あくまで業務に支障のない範囲で」

「ありがとうございます。署長」

「私も待ってるわ。それが証明される日を」

 二人は握手を交わし、ワンは椅子に腰かけて葉巻に火をつけ、その動作を見届けて懐かしさを感じながら、アンは署長室を後にした。



× × ×



 それから警部補としての日々が続いた。

 この巨大な港湾都市には犯罪が溢れており、ときには危険な橋も渡らなければならなかった。発砲に次ぐ発砲。アンは“どっちが犯罪者かわからなくなってくるな”とも考えたが、それでも仕事は忠実にこなした。

 あるときには、瓜豆頭の残党が事件を起こすこともあった。


「知らねえ。お前の娘なんか知らねえよ!! 頼むから勘弁してくれよ!!」

「爪はいくらでも生えかわるぞ。全部剥がしたらまた生え揃うまでここで世話してやる。娘のことを話せ」

「だから全く知らッ……」


 悲鳴が、取調室に響き渡った。

 業務に関係ないことで犯罪者を拷問にかけることはタブーとされていたが、アンはそれをした。事情を知る署員はみなアンに協力したし、ときに残党が命を落とすようなことがあっても、ホン警部補への恨みとマフィアそのものへの憎しみを持った署員たちは積極的に隠蔽工作を買って出た。


 ある日。

「……うぅ……リウさんだ。リウさんが……連れて行ったはずだ」

「なんだと?……お前、もう一度言え。誰が娘を連れ去った!!?」

「お、お前の娘は、リウさんに可愛がられてた。あ、あのとき、ホンのクソ野郎が俺たちのアジトを爆破したとき、リウさんは外出してアジトにいなかった。もしお前の娘を一緒に外に連れて行っていれば、無事なはずだ……」

「そのリウとやらは……リウはどこにいる!?」

「し、知らねえ……知らねえよ……」

 アンは勢いよく男の爪を剥がした。

 その男がリウの外出先について知り得る限りの情報を全て吐き出すまで、何枚でも爪を剥がした。爪が足りなくなると、目や、陰茎にも手を出した。やがてリウという男に関する情報がリスト化されてくる頃、その男は殆ど近似的に死んでいたが、近似的であるというだけだったのでアンは気にも留めず、さっさとリウを探しに出かけていった。あとには夥しい血痕の飛び散った壁や、無機質なデスク。数十分もすればそこに倒れ伏している男も、ただの物になるだろう。



× × ×



Chapter2 王室御用達の紅茶


 香港の夜。

 黄金と七色の九龍港に、巨大な貨物船が着桟した。<Kings Flame>と大層な名前が付いていたが、ただの貨物船だ。縁に立った船員たちがヒービングラインを放り投げ、陸の作業員たちがそれを回収してビットに綱を掛ける。

 黒々とした水面に、船のキャビンから漏れる明りや投光器の光が反射して煌めいている。

 とある男が、その煌びやかな海を眺めていた。彼は船の光を見て、子供の頃のクリスマスの憧憬を胸の中で思い起こしていた。が、そもそも自分がどこでクリスマスというものを知ったのか、てんで思い出すことが出来ない。

 その男は船側から桟橋に梯子が掛けられるのを待って、貨物船に乗り込んだ。

 キャビンの奥まで行き、階段を降り、エンジンルームで船員と話をしているのがこの船の船長だった。

 西洋人の船長は、勝手に乗り込んできた男の顔を見てしばらく考え込んだ。

 やがて口を開いて、船長が言った。「ああ、あなたがリウウェイさん?」

「……わからない。何がなんだか、とにかくわからないんだ」

「はっ……はっはっはっは!! 面白いヒトだ。とにかく話には伺っています。ウチの会社の方でも許可は取ってありますから、とりあえず船員たちの居室へ。ほら、お前、ご案内して」

 船員の後について、彼は二段ベッドのある部屋に案内された。その間、彼は他人が聞き取れない位の声量で、「何故だ? 俺は何故ここにいる?」と呟いた。

 気味悪がった船員は、ここがお前の部屋だとだけ言ってそそくさと立ち去った。

「どうして俺はこの船に乗り込んだ?」

 男は二段ベッドの下段に寝転がり、毛布をかぶり、目を閉じもせずひたすら独白を繰り返した。


 貨物の荷役作業が夜通し行われ、夜が明けた。

 約一名、名簿に無い人間が乗り込んだ以外は空荷になった船は、次の港へと向けて出港していった。これからいくつかの港を経て、Kings Flameはその出身地である英国へと戻って行く。香港と英国とは、奇妙な歴史を共有する貿易相手だからだ。



× × ×



 九龍港近くにある旧空港、今では<啓徳カイタク国際ターミナル>と呼ばれる施設から飛び立った飛行機が、アンの頭上を飛んでいく。九龍城の東側、<東正トンチェン道>の壁面に飛行機が影を落とす。その間、アンは通行人たちの時が停止したような錯覚に陥った。そして飛行機の影が通り過ぎた瞬間、活気に満ちた香港の雑踏が再び時間の歩みを始めたかように思った。

 香港は秋だというのに衰えを知らない熱気だ。


 アンがこの九龍城を訪れたのは、積極的な演繹的推理の賜物ではない。むしろ真逆。消極的な、そして消去法的な妥協の産物だ。

 彼が頼みの綱としていた瓜豆頭の残党という情報源もめっきり見かけなくなった。ここだという決定的手がかりは得られそうもない。仕方なく、数多くの犯罪者たちが自分の人生の最後のセーフティーネットとして寄り集まる、この九龍城の捜査に乗り出したのだ。


「……その自治組織、<城砦福利会>とやらはどこにある?」

 アンが小声で尋ねる。返答は足元から聞こえてくる。「お前……こんなことして、タダで……済むと思うなッ」

 アンは男の顔面を踏みつけて言った。「確かにタダで済むとは思っちゃいない。お前はこれから俺が呼んだ仲間によって署に連行され、麻薬所持の罪と公務執行妨害で起訴される。ここの住人には色々と聞きたいこともあるしな」

「……なんだと?」

「身に覚えがない訳じゃあるまい。九龍当局の権限が及ばないことをいいことに好き勝手やってるのは俺も知ってる。ただ具体的に何をヤッてるのか、知っておくのは署にとっても重要だ。皆、お前の話を聞きたがるだろうよ」

「はッ、俺が話さなかったらそれまでじゃねえか」

「……俺たちが話すまで殴るのを止めなかったら、お前もそれまでだとは思わないか?」

「……」

「……城砦福利会の場所を教えてくれたら、この件は不問にしてもいい。どうだ」

「!……わ、分からねえんだ」

「わからない? 何が分からない?」


 アンが足をどけた。男は立ち上がって服の汚れを払った。

「場所が変わってるんだよ。前まで、城砦福利会のオフィスは<東頭村トンタウツェン道>に面した階段を上がった先にあった。東頭村道ってのは、城の北側を東西に走ってる道路だ。カフェやら医者やらが並んでて、その中に城砦福利会の看板が出てる」

「なんだ、お前ラリってるのか? 城砦福利会の看板があるなら、そこに城砦福利会があるんだろうが」

「違うんだよ!……辿り着けねェんだ」

「は?……説明しろ」

「前まで確かに福利会はそこにあった。でもあるとき、俺がいつものようにオフィスに行こうとしてドアを開けたら、何でもねえ婆ちゃんの部屋に入っちまった。お察しの通り俺はヤク中だからよ、幻覚見てるんじゃねえかと思って婆ちゃんに聞いた。“ここはどこの部屋だ”って。『B23/8だよ』ときた。城の中の<老人後巷アルムズハウス>と<大井タイチャン街>が交差する、十五階建ての棟だ。知ってるか? 九龍城ってのはいくつもの棟が寄り集まって出来てるんだぜ」

「お前らロクでなしが寄り集まるようにか?……いい。続きを話せ」

「次の日、俺は仲間を引き連れてもう一度オフィスのドアを開けた。今度は『C30/100』についた。<龍津ロンチュン路>沿いの饅頭屋の住所だよ。そっから何度も試してみたが、一度もオフィスにはたどり着けず終いだ」

「俺をその福利会の看板があるところまで案内しろ。お前、名前は?」

イップだ」

「よし。上手く福利会まで案内出来たら、香港の居住権を用意してやる」

「ホントかよオイ!! マジかよ!!」

 

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