さて、本当に身勝手だったのは誰だったのかな?

水神瑠架

第1話・さて、本当に身勝手だったのは誰だったのかな?




<1>




 ブルーメ国の王都に存在するブルーメンガルテン学園は王国一の規模を誇る学園である。


 この世界の存在は皆大小あれど魔力を保有する。

 一般的に貴族の方が膨大な魔力保有量を誇ると言われているが、貴族を凌駕する魔力量を保有する平民が現れる事も珍しくはない。

 そんな彼、彼女等が魔力を制御するために設立された学園。それがブルーメンガルテン学園である。

 ただし、先程も言った通り魔力量が多いのは基本的に貴族なので、学園には貴族が多く通う事となるのも必然である。

 年頃になると貴族は学園に通い、その年、その年により、奨学金や援助を受けた平民が入学する。

 最初の理念からは外れた経営形態になって数百年。

 何時の日か、学園は貴族のための学園と言われるようになり、平民にとっては敷居の高いモノとなっていた。

 それ故に学園は貴族社会の縮図となり、平等と言われようとも完全に身分を無視する事は出来ない場所となっていったのである。


 だが、それをただおかしいと糾弾する事は出来ない。

 ある面ではそれも致し方ないと言えるからだ。

 封建社会において身分と、それに伴う序列は決して無視できるものではない。

 更に言えば、身分を気にせず学ぶ事が出来るという理念はイコールで無法地帯と化して良いという訳ではないのだ。


 一例を上げよう。

 学園の校則の中には「家の権力を振るい他者を虐げる事を禁じる」という記述がある。

 これは家格が上にあるものから暴力の如き権力をふるう事を禁じるという意味である。

 他にも数々の校則により学園は「学びの上では平等」と言う理念を護り続けているのだ。

 確かに、それを言葉に騙されたまやかしであると思う存在もいる。

 学園とは全ての上においての平等ではなく、あくまで学びにおいての平等であるに過ぎないのだから、そう感じる存在が出るのは仕方ないと言える。

 ましてや貴族が多く通う事により、学園のカリキュラムはマナー全般を基礎として淑女教育、紳士教育など様々な貴族としての在り方を学ぶ場であり、時に侍女や執事としての経験を積むための場として使われるため、貴族のための学園であり理念などもはや無いと嘆く存在がいてもおかしい話ではない。

 それでも学園は「学びの上は平等である」と謳っている。それもまた間違っていないからである。

 何方が正当であるかなど論じても決着はつかない。そのために数十年に一度、問題提起として出たとしても、結局は現状を変えるまではいかず、と結論が出るのだ。

 学園自体が変化を受け入れている以上、不平等を幾ら叫んでも、一つの意見として取られるだけで、改革まではいかない。結局人とは「慣れる」生き物であるために、長い時をかけて変わっていった変化を無理矢理変える事は無駄とも言える。

 そのため、現在でも学園は「学びの上は平等である」と謳い、貴族を多く受け入れ、運営されている。


 変化を受け入れて多くの貴族を有する学園は社交の練習の場として扱われるため、卒業後、成人となり、国のために働くための前哨戦と言う側面を孕んでいる。

 勿論、こういった教育は平民でも平等に受ける事は出来る。学園の平民出身の卒業生が国政に関わる役職に就く事があったり、貴族の後ろ盾を得て躍進したという前例もある。

 本来ならば交わる事が少ない貴族と平民。彼、彼女等がそういった繋がりを得る事が出来るのも学園の一つの役割となっている。


 これから失敗の許されない貴族社会という戦いの場に足を踏み入れる貴族達に、家格をある程度気にせず友を作る場として。

 これから平民が社会に出て、自ら学んだ事を生かし躍進していくための繋がりと様々な力を得るための場として。

 気の抜けない社会へと飛び出す彼、彼女等に暖かくも優しい記憶を作る場として。


 今、学園はそういった場として存在しているのだ。

 学園の在り方は設立当初と少し変わったかもしれない。

 だが、決して、それは悪い変化ではないと言えるのではないだろうか?

 学園は確かに時代の流れに沿うよいうに変化していった。

 しかし、学園の根底は決して変わっていないとも言える。


 学園を設立した過去の偉人達、そして今現在教職員達が学園に関わる者達が共有して望む事は一つ。

 

 ――学園で過ごしている者達が学園での事を良き思い出を記憶を胸に羽ばたいていかん事を。

 

 そのために彼、彼女等は日々、生徒達と共に学び過ごしているのだ。









<2>





 学園においての卒業パーティー。

 それは子供が大人と認められ、世界へと羽ばたく。そんな彼、彼女達が最後に家格も派閥も無く、友と笑いあう、それが許される最後の機会なのである。

 学園を出れば貴族として、ある者は領地を護るため働き、ある者は城にて国を護るため動く事となる。それはイコール、個人の意志のみで動く事は出来なくなるという事である。過去に笑いあった記憶あれど、時には交渉相手、最悪敵対する事すらあるのが貴族社会というものである。

 非情と云うなかれ。誰しも好き好んで嘗て友と呼んだ者と利益を挟み動きたくはない。だが貴族というものはそうでなければいけない。民を護るためならば私情を押し殺さなければいけない。


 ならば、何故学園などという箱庭では平等とされるのか。


 それは貴族もまた一人の人であるという事を知るためである。

 人は個人を押し殺し過ぎれば、傀儡と成り果てるか、情緒の育たぬ人形となりはてる。貴族だからと言って全ての心を殺すのを良しとしてはいけない。

 もしかしたら友と育んだ思い出はその人を苦しめるかもしれない。心など無い方が良いのかもしれない。

 だが、それではいけない。


 領民とは“人”の集まりなのだから。


 束ねる貴族が心を殺した者では領政も国政も上手くはいかない。情を押しこめる必要はあれど情を殺す事はない。

 優しい思い出や失敗で笑いあった思い出は隙間開く心を温めてくれる。

 諸刃の刃となれど、貴族とはどうあがいても人でしかない。

 だからこそ学園は平等という名で人の間の垣根を一時的にとは言え低くし、よく学び、よく遊ぶ事を推奨しているのだ。


 卒業パーティーはそういった雛達が鳥となる前、微睡の終わりを知らせる儀式とも言える。

 王族も参加するパーティーは大規模なものとなる。

 失敗しても許される子供の時代に終わりを告げて失敗の許さない世界へと一歩踏み出す事を言祝ぐ宴。

 それが卒業パーティーの役割だった。


 卒業する生徒達もそれをしっかりと胸に刻んでいる。だからこそ卒業パーティーは華やかに、忘れる事の出来ない楽しき思い出として飾るのだ。

 友と家格関係無く語り合い、意見を言い合い、そして美しき思い出として胸に抱き羽ばたいていく。それを惜しむ心は決して消せないとしても、決してその思い出は悪いモノではないとなるのだ。

 


 今年のパーティーも又、そうやって生徒達の最後を飾るはずだった。



 本来は華やかにパーティーを彩るはずの絢爛豪華な講堂が今は異様な雰囲気に包まれていた。

 その中核をなしているのは、今年卒業となる第三王子たるドライユーバー殿下とその側近候補たる子供達。そして何故か殿下に侍る婚約者ではない女子生徒の姿だった。

 ……そう。殿下には婚約者が存在している。子供の頃から王命により定められた婚約者が。

 本来ならば殿下に寄り添い、将来を誓いあい語り合うのは婚約者たる女性の役目。だと言うのに、その位置にいるのは、何故か違う女性だった。

 

 ならば、婚約者たる女性は一体何処にいるというのだろうか?

 

 その答えは殿下達がパーティーには不釣り合いな険を孕んだ視線を向けている先。そこに一人の女性が毅然とした姿で立っていた。

 銀色の長い髪はまるで銀糸のように細く繊細だ。線細く玲瓏たる面差しに嵌め込まれたように金色に輝く双眸はこの状況に何を思うのか月明りのように優しくも冷ややかだ。

 星煌く夜空のような藍色のドレスは彼女の冷艶な美しさを引き立てている。

 まるで月の女神のように冷たく艶やかでありながらも品を決して失う事の無い女性。

 彼女こそがドライユーバー殿下の婚約者であるリーリエ嬢である。


 モラトリアムの終わりを告げる美しい最後の想い出の時間。何故かそんな祝いの場にて一組の婚約者は冷ややかな視線を交わしていた。


「リーリエ=クグラーフ=シュバルツ! 貴様の悪行は全て把握している! 貴様のような者を将来の王子妃にするわけにはいかない! 私はこの場を持って貴様との婚約を破棄する!!」


 ドライユーバー殿下が講堂中に響き渡る大音声で宣言する。

 その内容に対して他の卒業生が感じたのは驚愕と落胆と、そして何よりも失望であった。

 密やかに囁かれる言葉は隣り合わせの者しか聞こえない。だが王子達にとって、その失望や落胆の行き先は全て令嬢、いや悪女に対してのものだと疑いもしない。

 少し冷静なり、周囲を見渡せば分かる事なのにだ。その視線が一体誰に向いているかなど、見れば分からない者などいない。けれど彼は気づかない。

 彼は酔っているのだ。自らは正義の使者であると。そしてこの後に待っているのは自ら達の輝かしい未来と真実愛した女性との蜜月であると。


 自身に酔っている彼は絶対に気づかない。


 その感情が本当は誰に向けられているのかを。

 自分に向けられている視線の意味を。

 この時一体「誰が」切り捨てられたのかを。


 ドライユーバー殿下の愉悦を孕んだ勝ちを疑わない視線。それを真っ向から受けリーリエ嬢は口元に当てた扇の下で口元を歪める。

 滑稽な舞台に無理矢理あげられた挙句、悪役という役割を押し付けられた彼女にとって、形ばかりとは言え婚約者の本性ともいえる醜悪な視線はさぞ気持ち悪い事だろう。


 ――自分が相手に対して一切好意を抱いていなかったからこそ余計に。


 リーリエ=クグラーフ=シュバルツ嬢は辺境伯の次女である。

 本来ならば辺境伯故に第三とはいえ王子に嫁ぐには家格が足りないかもしれない。だが、それはシュバルツ家が辺境の地に封じられただけの家だった場合だ。

 シュバルツ家は辺境伯が担う役割を全うしている、本当の意味での辺境伯家なのである。

 辺境伯の本来の役割……それは他国に睨みをきかせる国防の要である事だ。

 シュバルツ家は辺境伯として、他国から自国をその精強な軍事体系により護っている。そのためにその家格は侯爵家の下程度と国政に関して口を挟める程度には大きい。

 そんな家の娘であるためにリーリエは第三王子の王子妃となる家格を持ち合わせていた。その事もあり、彼女は幼少より王命によりドライユーバー殿下の婚約者に任じられたのである。

 王都に居る王族であるドライユーバーと辺境伯の娘であるリーリエ。つまりお互いに恋愛感情など芽生えていない、完全なる政略結婚である事は周知の事実であった。

 

 これでお互いに敬意があれば問題は無いかもしれないが、結果は今この状況が表しているだろう。

 完全にリーリエ嬢を見下し、一人よがりな正義に酔っているドライユーバー王子とそんな王子を冷静に、だが何処までも冷ややかに見つめるリーリエ嬢。

 そして周囲の人間の胸に渦巻く失望と落胆。

 この空気に気づかぬのは脳内がお花畑に犯された憐れな人間のみだろう。


 リーリエは周囲の騒めき、そして彼、彼女等の抱いている感情を見間違えたりはしない。だからこそそれに気づかない王子達の無様とも言える姿に扇の下で小さく嘆息した。


「……ドライユーバー第三王子。私の悪行とは? それに私達の婚約は王命にて定められたものに御座います。婚約を解消するにしろ白紙撤回するにしろ、陛下とわが父を通さなければならない案件に御座いますれば。それをこのような場所で宣言する事に何の意義が御座いましょうや?」


 扇を閉じ淡々と言葉を紡ぐリーリエに向けられる視線の大半は同情と憐憫である。だが涙一つ、眉一つ顰める態度にドライユーバーは眦を吊り上げ先程よりも鋭い視線をリーリエに叩きつける。


「貴様は自らのやった事も分からぬと申すか! 我が愛しのローゼに対して行った様々な嫌がらせを知らぬとは言わせぬ! だが貴様は狡猾故にこうして大勢の人間に貴様の悪行を知らしめ、我らが罰を下すのだ!」

「――貴方様はそれだけの理由で卒業パーティーという大事な場を壊したのですか? この場が一体何のために開かれているのかを本来は知っているはずの貴方様が?」


 リーリエの「それだけの理由」という言葉が気に障ったのだろう。ドライユーバーは傍らに侍っている女性――ローゼ――の腰を引き寄せ抱きしめるとリーリエを指さす。


「言うに事を欠いてたったそれだけの理由とは。貴様の性根は何処まで腐りきっているのだ! そのような女が俺の婚約者であったなど悍ましい事だ。貴様には相応の罰が下される。覚悟しておく事だ!」


 この時ドライユーバー殿下、他取り巻きとかしている側近候補、そして「愛しのローゼ」と言われて舞い上がっている女性徒は気づかなかった。リーリエ嬢が「婚約を解消」や「白紙撤回」と言った事に。それがある種リーリエからのヒント……助言に近しいものであった事に。

 同時に引き返す最後の分岐点であった事にも。


 このまま進めば破滅するのはどちらか?

 

 それを彼等以外の誰もが気づいていたのだ。だがそんなリーリエの最後の情も自分の絶対正義を疑わない彼には届かない。だからこそ、彼は自ら破滅への道を何の疑いも無く突き進む事になるのである。


「貴様の悪行は全て調べがついている!」


 ドライユーバーがそう言うと側近候補の一人が前に出て来てリーリエ嬢を鼻で笑うと悪行を高々と述べていく。


 曰く、ローゼの持ち物を盗み壊した

 曰く、お茶会などに呼ばず孤立させた

 曰く、身分を笠に着て嫌味や暴言を吐いていた


 まだあるようだが、取りあえず此処まで述べた側近候補は「言い訳など出来るはずがない」と言った顔でリーリエ嬢を見やる。だがそんな側近候補の告発文とも言えぬ主張に対するリーリエ嬢の表情は「無」だった。

 真っ青になるはずもなく、怒りを露わにする事も無く、ひたすら感情の無い状態。それは彼女が言われた事に対して一切関心を払っていない事への証左であった。

 静かな湖面のような眸に側近候補は鼻白み、罵声を浴びせようとするが、その前にリーリエがパチンと音と立てて扇を閉じる。その眸と音に側近候補は何故か次の言葉が紡げず、開けていた口を閉じてしまう。

 ――その事が彼の罪を僅かながらに減らしている事に気づいているのは周囲の人間達だった。

 リーリエは辺境伯である。それに比べて側近候補は第三王子付きのため、揃いも揃って彼女よりは家格的には下なのだ。此処で一方的に罵倒などしようものなら、不敬罪が成立する可能性が高い。

 ただ今のこの場においてそれを問うて問題に上げる事の出来る人間はいなかっただろうが。


「茶番は早々に終えましょうか? ――学園では勉学に勤しむ方々のために教科書などは無料で提供され、本人の過失以外の紛失、損害の場合、教師に伝える事で“無料”で新しいモノが提供されます。その際、壊された物証が見つかり次第【追跡魔法】によりそれを行った人物を突き止める事が出来ます。……それらのご確認は致しましたの?」

「え?! ……いいえ」

「さようでございますか。他、私物を持ち込み、持ち込んだ物が学園の風紀に合わない場合一時的に取り上げ教員に預ける事がありますが、後程、一時的に教員に預けられた物を持ち込む許可を申請する事が可能で御座います。過去に親族の形見などを学園に持ち込みたいと申請し通った例も御座いますから、それらの証明書を見せれば学園の者ならば基本的に強硬手段に出る事は御座いません。更に申請書を持っておらず、一時的に取り上げた場合も帰宅の際に教職員に申し出ればお返しされるはずですわ。その際、損傷が見られれば、この場合も【追跡魔法】を使う事が許可されております」


 リーリエは言葉を紡ぎながらチラっと周囲に視線を巡らせる。その際幾人かの顔色が変わったのを認めたが、そのまま流す。どうやら嫌がらせの類は本当にあった事らしい。その罪をリーリエが被る必要性などは一切無い。だから彼女は事実を事実として述べる事に戸惑いは無い。更に、混乱を呼ぶであろう彼女等を舞台に上げるつもりもない彼女は感情のこもらない眸のまま再び王子達に視線を戻す。

 未だ彼等は自分達の優位を信じているのか、横柄な態度を治める事は無い。

 一つの罪において裏付けが取れていないと言ったばかりだと言うのに、他のものは大丈夫だと頭から疑わないお気楽さにリーリエは扇を広げ、その下で小さく嘆息する。


「次はお茶会でしたわね? 学園においての私の立場としては招く側ではなく招かれる側が殆どでしたが? けれど、そうですわね。数少ない私がお茶会を主催した際、其方の方がお茶会に来なかったのは事実ですわ」

「そうやってローゼを孤立させたと云うのか! 何と悪辣な!」

「殿下。御言葉ですが、私は“お招きしなかった”のではなく“来なかった”と申しました。……最初に招待状を出した際、其方の令嬢は一切のお答えが御座いませんでした。一度目でしたし、私が直接お伺いに行った際「面白くない話しかしないだろうし、堅苦しいから行かなかった」「招待状なんて見た途端に捨てたけど?」とおっしゃられました。その時はお答えを返すのが常識である事を告げるにとどめ、以降二度程招待状を送りましたが、同じく一切反応は御座いませんでした。故に私からのお茶会を受けるつもりはないと判断致しました。他の方々にお聞きした所、同じ対応だったとの事ですので、そのような態度で居れば自然と距離が出来てしまうのは仕方無き事では?」


 リーリエの説明に観客と化していた令嬢達も当時の事を思い出したのか顔を顰めたり、ため息をついたりしている。令息達の中にもその場に居合わせた者がいるのか周囲に事実であると話している様子も見られる。

 だと言うのに、盲目状態の王子だけが、そんな周囲の様子に気づかない。


「貴様! そのような嘘までついてローゼを孤立させたかったのか!」


 周囲の状況が一切目に入っていないとしか言いようのないドライユーバーの言葉に周囲の彼に向ける視線が更に冷たくなる。


「嘘ではなく事実に御座います。そもそもクラスも違う私にその方を孤立させる事は出来ませんわ」

「ふん! 取り巻きを使ったのだろう?」

「そも、取り巻きという言葉自体おかしな事なのですが……私に“取り巻き”など存在致しませんわ。私が基本的に一人で居る所を殿下はご存知のはずです。……その事を論い「田舎者に近づく物好きはおるまい!」とおっしゃたのは殿下だったと記憶しておりますが?」

「っ!?」


 ドライユーバーも自分の言った事は覚えていないとは言えないのかリーリエの反論に顔を赤らめる。更にリーリエが常に一人で行動していた事を論い見下し嘲笑っていた事を思い出す。明らかにドライユーバーの人間性を疑う光景なのだが、彼はそれが当然あると思っているのか、その事自体に反省は感じられない。その上、彼は自分が優位である事を未だ疑わない。一体彼の頑固さは何処にあるのだろうか? と少々疑問になってくる程だ。現に側近候補の中には自分達の優位に揺らいできたのかリーリエと殿下、そしてローゼを交互に見て段々顔色が悪くなっている者が出て来ている。

 ――それすら“今更”でしかないと何処からか嘲笑と共に呟かれているのだが。

 困惑状態の側近候補、自分の絶対優位を疑いドライユーバーの反応を一切無視してリーリエはなおも言葉を繋ぐ。


「最後に身分を笠に着てと言いましたか? それはまさか「婚約者のいる殿方とは適切な距離を取った方が良い」や「廊下を走るのは淑女としてはしたない」と言った事でしょうか? でしたら、身分関係無く、学園に置いての注意に過ぎません。その他に暴言の類を投げかけた記憶は御座いません」

「でも~。あたし、すごい顔でにらまれたもん」


 茶番が始まって初めて口を開いたローゼ嬢だったが、そのあまりの口調に観客のほぼ全員が顔を顰める。

 

 ローゼ=バロニア=シュネーヴァイス


 彼女は薄紅色の髪に茶色の可愛らしい顔をした令嬢である。そのあどけない顔とは違い豊満な肢体を持ち、此度のパーティーをその肢体を存分に披露する衣装を身に纏っている。……卒業パーティーに似つかわしいか? と問われると困ってしまうが。

 彼女はシュネーヴァイス男爵家の令嬢なのだが、元々平民の方を男爵が見初めた結果生まれたために、学園に入る直前まで平民であったらしいのだ。現在男爵家には御子は彼女以外おらず、結果として血を引くローゼ嬢を引き取り学園に入れた。

 だが、正直彼女の学園での評判は良くはない。学園は貴族の後見人を得るか、特殊な才能を持つ場合、入学する事が出来る。故に数は少なくとも平民も学ぶ事は出来る場所ではある。とは言え、平民の常識と貴族の常識が違う事はお互いに承知している。そのために貴族は平民の生活を紙の上とはいえ学ぶし、平民は学園に入学する上でマナーなどを一から学ぶ事が出来る。

 お互いの溝を少しでも埋め、お互い勉学のために切磋琢磨できる環境を整えるために今までの学園経営に置いて培われた経験より生まれた制度の一つである。

 本来ならローゼ嬢も元々市井で育ったため平民の入学者と共にマナーを一から学ぶ必要がある。だが彼女は何を考えたのか「自分は男爵家である」という理由で講義を断ったのだ。ならばさぞかし礼儀作法等を男爵家にて仕込まれたのだと周囲は考えたのだが、入学した彼女は驚く事に一切貴族的なマナーも教育も受けていなかったのだ。

 これには学園側も驚愕した。一体何を考えているのかと男爵家に話を通した程だ。これによりシュネーヴァイス男爵家も娘の引き戻し、一年間かけてマナーを学び、其の上で貴族として恥ずかしくはない令嬢として入学し直すという事に一度はなった……はずだった。

 だがそんな学園と男爵家の好意すらローゼ嬢は蹴ったのだ。

 何故かローゼ嬢はこの年に入学する事に固執していた。そのため散々渋り学園や男爵家を困らせた。そのため最後には学園側が折れ「平民と同じく補習を行い、淑女教育を身に着ける事」という約束の元学園に残る事となったのである。

 こうしてローゼ嬢は無事? 入学する事となったのだが、一体どういった学園生活を送っていたのだろうか? ――その答えは現状が表している通りである。


 ローゼ嬢の貴族らしかぬ口調にリーリエ嬢は一切関心を払わなかった。今更と思ったのか、それとも心の底から興味が無いのかは分からないが。


「睨んだ覚えは全く御座いませんが、あまりに貴族らしかぬ対応に呆れていたのかもしれませんわね」

「ひっどーい。ねー、ドライ様~。いっつもこんな感じでいじめられていたんですよぉ」

「何てことだ! ローゼ、大変だったな。こんな性悪な女の嫌がらせに其方のような可憐で純真な心の持ち主が耐えられるはずもない。今までよく頑張った」


 ローゼ嬢を宝物のように抱きしめるドライユーバー殿下。そんな二人をただ沈黙したまま見据えるリーリエ嬢。

 明らかにおかしな状況に周囲で傍観していた者達は何も言えなかった。今此処で口を挟めば自分達も茶番劇に巻き込まれてしまう。ローゼ嬢にもドライユーバー殿下にも言いたい事は沢山あれど、幾ら足りないとはいえ王族である王子に盾ついてまで辺境伯の跡取りでもないリーリエ嬢を庇う理由も彼、彼女等には無いのだ。

 ――そんな周囲の思考をリーリエ嬢が察している事にも彼、彼女等は気づかなかったのだが。


「何時から叱責は蔭口と同意義になったのかは知りませんが。私は貴族として、学園の生徒の一人として恥じた行為はしておりません。更に言わせて頂ければ、する理由も御座いません」

「ローゼに嫌がらせをする理由が無い? そんなもの王子妃という地位が欲しいためであろう?」

「私と殿下の婚約は王命で御座います。それゆえに私達側から解消する事など出来るはずもなく、私自身王子妃になりたいなどと思った事は御座いませんが?」


 リーリエ嬢の思わぬ返しにドライユーバーが目を見開く。だが直ぐに顔を顰めて剣呑な眼差しでリーリエを睨む。


「ならば俺がローゼに心惹かれた事による嫉妬からだろう! 貴様のような醜い田舎者に俺が惚れるはずもないと言うのに、貴様はその事に気づく事無く、俺が愛したローゼを攻撃した! 俺は一度足りとも貴様など愛した事など無いというのにな! 俺が心から誰かを愛する様を傍から見る事が余程、屈辱だっただろうな! 政略的な結婚故に俺がどれだけ我慢していた事か。貴様のように政略結婚の相手に愛されているなどと有り得ない空想しか出来ぬ女には一生分からないだろうがな!」


 ドライユーバーの言葉はある種貴族の政略的な婚姻全てに喧嘩を売る行為である。だからか、周囲が殿下を見る目に不穏な色が混じりだす。

 だが何より、侮辱されたリーリエ嬢は無言だった。いや、先程までの“無”ではない。目を細め、口元は吊り上がる様にたわんでいる。のだが、形は笑みを象っているのに、眸は一切の喜色を現さず、何処までも凪いでいる。

 表情と感情が完全に乖離している状態に気づいた側近候補は背筋が凍り付いた錯覚に襲われていた。


「ふ、ふふ」


 笑い声、というのはあまりに空虚な声に誰もが声の主であるリーリエ嬢を凝視する。

 リーリエ嬢は嗤っていた。

 何処までも凪いだ眸のまま、空虚な嗤い声でもって。


「私が貴方様を愛している? ふふ。面白い事をおっしゃいますのね、殿下は。私、貴方様にそのような才があるとは思いもしませんでしたわ」


 扇を下ろしたリーリエ嬢の口元は笑みを象っていた。だが、その目には一切の感情が乗っていない。冷静を通り越し冷徹とも言える眼差しと空虚な笑い声に誰もが口を開く事が出来ない。

 今、この場はリーリエ嬢によって完全に支配されていた。


「私と殿下が婚約を結んだのは五つの時。初めてお会いした時殿下は私に何とおっしゃったか覚えておりますか?」

「何だと? …………」


 本気で覚えてない様子のドライユーバーにリーリエが彼に向ける感情は更に凍り付いていく。もはや彼女の中ではドライユーバーという人間自体関心を向ける対象ではなくなりかけていた。


「ああ、それほど殿下にとっては日常茶飯事だったのですね。――貴方様はこういいましたのよ? 『田舎者のむすめぶぜいがおれの相手だと? しかもぎんいろのかみのくらい女などおれは好きではない。おれはおまえの顔なぞみたくはない! ひつような時いがいはちかづくな!』とおっしゃって、走り去っていきましたわよね?」


 リーリエ嬢の言葉に誰もが絶句する。確かに人には好みと云うモノが存在する。それでも王命による政略的な結びつきを求められたための婚約なのだ。リーリエ嬢とて相手を選ぶ事は出来なかった。だというのに自分だけが被害者のようなドライユーバーの言葉は年を考慮してもとてもじゃないが王族として許されるモノではない。

 ドライユーバーも当時の事が蘇ったのか、顔を顰めるものの否定しない。つまりそれはリーリエ嬢の言葉が真実であるという事に違いはない。

 一体彼は周囲の人間をどれだけ失望させれば良いのと云うのか。

 だが彼等はまだ知らない。ドライユーバーの酷いとされる言動はこれだけに収まらない事を。

 リーリエは既に彼の評判など慮る必要は無い。あっさりと彼の悪行とも言える行いを連ねる。


「以降、月一回の交流としてのお茶会には殆ど出席せず、出たとしてもお茶を一気にのみ、私に罵詈雑言を浴びせ去っていく。まともにお茶会などした事もありません。ならばと勉学を共にすれば、私が間違えれば、それを論い罵倒し、逆に正解すれば勉強の時間の最後まで不貞腐れたまま。ああ、武術の時間ともなれば私を的にし、私が避ければ王族として命令してまで足止めして鬱憤を私にぶつけていましたわよね?」


 リーリエ嬢の言葉から次々とドライユーバーの悪行とも言える事が明かされていく。これには今までリーリエ嬢を羨んでいた下級貴族令嬢達も顔を顰める。


 そもそもドライユーバー第三王子という人間は王族の中でも問題児なのである。

 顔立ちを言えば、王子の中でも一番良いと言える。光を当てずとも輝く金色の髪に空を思わせるような青い双眸。高い身長に引き締まった体格を持つ彼は乙女が考える王子というものを体現しているような存在である。まるで神に寵愛されたと噂される容姿は微笑むだけで令嬢が倒れてしまうとまで言わしめる程であった。

 だが、内面はそれに追いついているとはとても言えなかった。口先は良く回る割に勉強嫌いであり、体を動かす事が得意とは言っても第二王子には才能では叶わない。

 挙句、王族として教育は三人の王子平等に施されたはずなのに、彼だけは選民思想に溺れ、下を見下し、蔑ろにし、苦言を呈する忠義者を遠ざけ、甘言を弄する者を侍らせる。

 一応国王夫妻や兄二人に言われればその場では反省したように見せるが、勿論それは見せかけだけの事。次の日には言われた事は全て忘れて元に戻る有様である。

 だからこそ彼の婚約者選びは難航した。

 高位貴族になればなるほど、彼の悪評は真実であると分かるためである。幾ら将来王子妃となれると言っても、顔立ちが素晴らしく整っていたとしても、他で全て台無しにしてしまう。しかも彼のパートナーという事はドライユーバーの代わりに執務を肩代わりする事になるのは目に見えていた。

 第一王子は王太子として素晴らしい資質を発揮している。第二王子は武に優れ既に騎士団をまとめ上げている。第三王子に求められるのは内政、又は外交である。故に彼が何も出来ぬと分かれば、その負担は全て彼のパートナーが担う事になる。

 これではどんな野心家の親だとしても娘を嫁がせようとは思わないだろう。下手すれば第三王子と共倒れになってしまう。

 そんなもはや事故物件扱いの王子だったからこそ、国に対する揺るぎない忠誠心を持ち、五つながら賢い娘として有名であったリーリエ嬢に白羽の矢が立ったのだ。


 王家にとっても苦肉の策であり、第三王子に対する確かなる愛情の証だった。とはいえ、結果、こうしてドライユーバーがリーリエ嬢を嫌い抜き、自滅の道を進む事となったのだが。


「祝い事の際一度の贈り物も無し。手紙の返信もありませんでしたわ。……私とて関係改善のため努力致しましたのよ? 貴方様の好きなものを教えて頂き、それを送ったり、誕生日の際にはプレゼントと共にメッセージカードを添えたり、と。ふふ、どうやら貴方様にはどれもこれも余計な事だったようですけれど」


 「てっきり、そういった何かを贈る事自体が好きではないと思っていましたけれど、違ったようですわね。ですけれど、婚約者に贈るという名目で買った代物をローゼ嬢に贈る行為は許されないはずですが?」と言うリーリエ嬢の言葉に周囲が再び騒めく。もしリーリエ嬢の言った事が本当ならば、ドライユーバーのやった事は決して許される事ではない。

 やましい事を暴かれたのか顔を真っ赤にさせドライユーバーはがなり立てる。


「俺の金を何に使おうと勝手だろう!」

「それが真に貴方様のお金ならば何ら問題は御座いません。ですが此度、貴方様のお使いになったお金は婚約者に贈る物として支給されたお金。それ以外に使い、だと言うのに婚約者に贈ったと記載なされた場合、公文書の改竄となりますわ。それが罪である事などは……それすらお分かりになりませんのね」


 自分のした事の拙さに一切気づいていないドライユーバーの様子にリーリエ嬢は内心嘆息するしかない。だが、今更と言えば今更なのだ。彼女は幼少期からずっと、こうやって殿下に対して王族とは何たるかを説明し続けていたのだから。そしてそれを一度たりともマトモに取り合ってもらえなかった事も分かっていた。だからこそこうしてドライユーバーとリーリエは対峙し、リーリエは王子に対する全ての感情が凍り付いているのだから。


「……話を戻しましょう。勉強を共にする事が無くなって以降になりますが、私が主に勉強のため王城に上がった時には「媚びを売っても無駄だ」と鼻で笑い、嫌味を言っては去っていきましたわね。貴方様に会いに行った事など一度も御座いませんでしたのに。――さて学園では色々御座いましたが、長くなるので省略致しましょう」


 学園でも公然の場で堂々とリーリエ嬢を罵倒し、ローゼ嬢と一目憚らず寄り添い続けたドライユーバーの所業はこの場にいる人間ならば誰でも知っている。それ程までにドライユーバーとリーリエ嬢の不仲は有名であったし、ドライユーバーの不貞行為もまた有名だったのだから。


「此処までされた私が一体貴方様の何処に惚れるというのでしょうか? 私は特殊な性癖も御座いませんし、此処まで自分を毛嫌いし、此方の歩み寄りを蹴ったお相手に友好的な感情を抱く事など出来ませんわ。――ドライユーバー殿下。私はおかしな事を言っていますでしょうか?」


 小首を傾げ問いかえてくるリーリエ嬢。だがそれは問いかけの形を取った断定でしかない。流石にこれには同意せざるをえないのかドライユーバーも反論する事は出来なかった。

 側近候補達はそろそろ周囲を見回す余裕が出来たのか、自分達が圧倒的に不利な状況であり、自分達の行為が決して正義ではない事に気づき始めていた。だが既に遅い。舞台の幕は既に開いてしまっているのだから。……いや、彼等が無理矢理上げてしまったのだから。

 

 圧倒的にリーリエ嬢が有利な沈黙の中、口を開いたのは何故か得意満面の笑みを浮かべたローゼ嬢であった。


「それはぁ、アンタがドライ様の心を得られなかったせいでしょう~。自分の力不足を人のせいにするっておとなげなーい。そんなんだからドライ様に嫌われたんじゃない?」


 観客となっていた周囲は我が耳を疑った。それ程までにローゼ嬢の言っている事が分からない……理解したくはなかったのだ。

 ドライユーバー殿下のやった事は王侯貴族として有り得ない。出逢いも最悪ならば、今に至るまで失望される事しかしていない。何より何故リーリエ嬢だけが歩み寄る努力をせねばならないのだろうか? 政略的な婚姻だというならば、お互い歩み寄る事で信頼を積み重ね、熱情のような愛情を抱く事は出来ずとも穏やかな愛情を育むか、仮面夫婦として割り切り戦友となるかのどちらかだ。

 だと言うのに、ドライユーバー殿下はその努力を一切放棄して置きながらリーリエ嬢の努力に胡坐をかき、遂にはこうして彼女に対して最低の行為でもって裏切ったのだ。

 大体、ローゼ嬢は気づいているのだろうか? 婚約者のいる異性に擦り寄る行為ははしたないという事に。しかもそれが複数の男性ならば、もはや貴族淑女としてではなく娼婦として見られるという事に。

 更に更に言わせてもらえば、相手は辺境伯の娘。そのような相手に向かって男爵令嬢が「アンタ」と言った事自体が既にどうしようもない罪なのだという事に。

 確かに学園では平等を謳っている。だが決して貴族社会としての序列が無い訳では無いのだ。上の家格の者が不当に自分よりも下の家格の者を虐げるならば、学園は全力で被害者を庇うだろう。そういった意味では平等だ。だが、それは平等に学ぶ機会を与えるためであり、決して無法地帯を作り出すという意味ではない。彼女は一体平等という言葉を学園の理念をどう解釈しているのか。

 

 ローゼ嬢は学園生活で一体何を学んだのだろうか?


 周囲が得体のしれないもののようにローゼ嬢を見ている。いや、周囲の人間だけではない。それは側近候補の殿下の取り巻きも同じだったらしい。全員が数歩殿下とローゼ嬢から身を引いていた。

 だが殿下はそんなローゼ嬢の異常性に気づかなかったらしい。……いや、はっきり言おう。殿下もローゼ嬢の同類であったのだ。味方を得たと思い明るくなったドライユーバー殿下は再びリーリエ嬢を見ると、鼻で笑った。


「愛しのローゼの言う通りだ。貴様はその醜い行為により俺に嫌われた癖に俺のせいにするとは。何処までも性根の腐った奴なのだ!」


 一体殿下は何処まで盲目になれるのだろうか?

 ふとこの場にいる二人以外の全員の脳裏にそんな疑問が浮かぶ。

 今までリーリエ嬢がやらかしたと告発した事は全て彼女自身に論破されている。その上、動機すら彼女には存在しない。だと言うのに、殿下もローゼ嬢も自分の優位性を一切疑わない。普通ならば此処まで言い負かされれば自分が間違ってはいないかと少しぐらい思うものだ。それすらない程何か決定的なものを殿下達は持っているのだろうか?

 誰もがそのような疑問を持った時、ドライユーバー殿下は先程告発文を読み上げていた青年に対して「最後であり最大の悪行を突き付けてやれ」と命じた。

 だが言われた方は今までの事で告発文の有効性を信じられなくなっていたのか困惑の表情のままドライユーバー殿下を見ていた。そんな弱気な態度に殿下は舌打ちすると告発文を取り上げて高々と持ち上げリーリエに対して突き付けた。


「貴様の最悪にして最大の悪行。それは私とローゼ嬢の乗った馬車を襲撃した事件だ!」


 ドライユーバーの宣言に先程とは違う動揺が講堂内に広がる。

 そしてその動揺はリーリエ嬢も同じだったらしい。彼女の先程までの冷たい笑みが崩れ、一瞬目を見開く。だがそれも一瞬の事だった。再び無表情に戻ると口を開く。


「有り得ません。殿下達が襲撃を受けた事自体初耳で御座いますが、何よりそのような事を私がやったという証拠がおありなのですか? 実行者が既に捕まり、私の名を口走っているなどと言いませんわよね?」

「それならば、既に貴様は牢屋にいるはずだ。残念だが実行者は捕まっていない。だが貴様がゴロツキを雇いやったのだろう? それ以外ありえないからな!」

「殿下。襲撃事件ともなれば殿下の私情だけではお話は終わりません。一体何処で襲撃を受けたのですか? それに捜査などは一体何処まで進んでいますの?」

「襲撃を受けた場所など貴様が良く知っているはずだ。西通りの人気のない場所にて俺達は襲撃を受けた。……捜査などする必要もあるまい。此処に首謀者がいるのだからな!」


 ドライユーバーの私情としか言えない言葉に誰もが眉を顰める。

 この際、襲撃された場所が王都有数の歓楽街である事はおいておこう。

 だとしても、王族を襲撃したとなれば徹底的な捜査の上、実行犯だけではなく、関連している人間全てを捕まえなければいけない。だというのに、殿下はそれらを一切行わず、自分の好悪だけでリーリエ嬢が主犯であると訴えているのだ。

 この国は王を頂点に頂こうとも法により成り立っている国家だ。だと言うのに、王族の感情だけで罪状が決まるなんて事が当たり前となれば人心は離れていく。

 今、殿下は自らの発言でもって独裁政治を推奨したのだ。しかも無自覚で、だ。


 第三王子がこのまま王族である事は国を危機に晒す。


 この場に誰もが、その危険性に背筋が凍った。

 当然リーリエもその危険性は理解し、恐れている。それでも今、此処で言葉を止めドライユーバーを諫めないという選択肢を彼女はとれなかった。それは婚約者であった矜持だけではない。ドライユーバーの身を案じた訳でもない。ただそれよりも強い焦燥感からだった。


「私は一切関与しておりません。ドライユーバー殿下。徹底的な捜査を願います」

「必要無い! 貴様を処罰すれば全てが終わるのだからな! ――ああ、そう言えば俺達を襲ったゴロツキ共は、その身の割には統率がとれていたな。ゴロツキを雇ったと思ったが、実はシュバルツ家の者だったのか? だからそれ程までに焦っているのではないか?」


 ドライユーバーの言葉が全て真実とは限らない。なにせ彼等以外に襲撃を受けた事を知る者はいないのだから。だからか、中には「殿下の剣や魔法の腕前でゴロツキだろうと追い払う事が出来るのだろうか?」などと疑問に思う者もいた。だが、最後に言った言葉に、そんな疑問すら吹き飛び、有り得ないと思った心持ちで殿下を凝視する。それ程までにドライユーバーの言った事は決めつけにしても酷いモノだったのだ。

 下卑た顔で言い放った言葉にリーリエ嬢は一瞬目を見開いた後、すぅっと目を細めた。同時に信じられない程の威圧感が殿下達を襲う。

 先程まで凪いでいた金色は爛々と輝き、まるで太陽に見据えられているような熱量を相手に齎している。もしオーラというものが皆の目に見えるものならば、彼女の周りをとてつもないオーラが渦巻いている事だろう。そんなリーリエ嬢に見据えられたドライユーバーは圧倒され、笑みを引っ込み、口元を引きつらせる。


「……くださいませ」

「な、なんだ?」

「訂正してくださいませ!!」


 まるで風を叩きつけるようなリーリエ嬢の怒号に誰もが目を見開く。

 彼女は何時何時だろうと優雅さを忘れず、決して人前で激情を見せる事無く、穏やかであり続けた人である。人を注意する事あれど、それは全て諭すような声色で行った、徹底して貴族として優美な姿を崩さなかった。学園時代を共にした者の中で彼女の此処まで大きな声を聴いた者など存在しないだろう。……いや、殿下の様子を見る限り、もしかしたら誰もが彼女が此処まで声を荒げた姿など見た事が無かったのかもしれない。

 シュバルツ家の者としては覇気に欠ける者と裏で囁かれなかったわけではない。だが、今の姿を見ればそのような風評は吹き飛ぶ事だろう。

 自然と人を従わせる覇気を持ち、曲げる事の出来ない信念をそのままぶつけるような眸に、ドライユーバーは目を逸らしたくとも逸らす事が出来なかった。


「シュバルツ家はその名を頂き領地を拝領した時から今代に至るまで一点の曇りも無く、王家に忠誠を誓っております。その忠誠をよりにもよって王家の人間であるドライユーバー様が疑うなど。――仮に私がそのような有り得ない事を命じたとしてもシュバルツ領に居る者は誰一人として命ずるままに動く事はないでしょう。逆に私は王家にとっての不穏分子として切り捨てられるはずに御座います。そう言い切れる程にシュバルツ領の者達は王家への忠誠を胸に、日々国防の要として精進し自らの武を磨いているのです。そんな彼等の忠誠を疑う先程の御言葉。それだけは訂正してくださいませ!」


 リーリエ嬢の言葉に彼等はようやく思い出すのだ。

 シュバルツ家は確かに辺境伯だ。だがかの家は無能者として田舎に封じられたのではなく、国防の要として、決して裏切らない者として時に敵国、時に魔物達と戦い国を護って来たのだと。彼等は真の意味で辺境伯として存在している数少ない御家なのだという事を。

 そのためにシュバルツ家は「王家の剣」として名高い家であった事に。

 シュバルツ家がそう言った家である事は誰もが知っている。それでもシュバルツ家の娘だとしても、王家への反逆を考えれば領地の者に切って捨てられる。それを何よりもシュバルツ家の人間が良しとし、口にしているのだ。その苛烈なまでな忠誠心を彼等は改めて思い知らされた気分だった。 


「姉上」


 婚約者のはずのドライユーバーが何故かリーリエのエスコートを断ったために卒業パーティーのエスコート役としてパーティー入りしていたリーリエの弟は、姉の心情を一番理解出来る立場にいる。彼もまたシュバルツの人間なのだから。

 リーリエに似た麗しい顔を歪ませドライユーバー達を見据える彼からもまた、威圧が放たれていた。弟の近くにいた人間が一歩引いてしまう程の威圧感。それも又彼がシュバルツ家の人間である証左であった。

 殆どの人間は弟の言葉など聞こえなかったはずだ。だがリーリエだけは違う。自分にとって可愛い最愛の弟の言葉に、少しばかり正気を取り戻したのか、彼女は先程までの荒れた様子ではなく、だが何処までも力強い眼差しでドライユーバー達を見据える。

 彼女の覇気にも似た気迫にドライユーバーとローゼの足が後ろに一歩引けた。無意識ながらに彼女の気迫に負けたのだ。

 その事に直ぐに気づいたドライユーバーは自分の行動を恥じる。仮にも王族が高々女子一人に気迫負けしたのだ、と。

 それを自らの未熟さと思い反省する心があれば少しはマシだったのかもしれない。だがそんな性根ではないからこそこんな茶番劇が始まったのだ。案の定ドライユーバーは先程の自分の行動の全てをリーリエのせいにし、彼女の事を終生の敵かの如く強く睨みつける。そして同時に小賢しい彼はリーリエ嬢の弱みがシュバルツ家であると見抜くと、醜悪な笑みを浮かべ彼女と共に彼女の家を虚仮下す。

 

「「王家の剣」と自惚れ、権力を欲し、王族に取り入るために俺と婚約したのだろう? なんと狡猾な家なのだろうか! だと言うのにシュバルツ家の何を信じろと言うのだ? 権威欲に取りつかれた貴様達を忠誠心高き一族として扱う事など絶対に出来ん」


 今まで一度たりとも国家に対して反逆した事もあらず、一度たりとも権力を欲した事も無い、忠誠心の代名詞とも言われるシュバルツ家を完全に馬鹿にしたドライユーバーにリーリエよりも先に弟の方が我慢できなかったらしい。殺気にも似た覇気をドライユーバーに叩きつけるとリーリエを庇おう一歩前に出る。――同時に何処かでガシャンと言う音と制止する声が聞こえたが、そちらはざわめきによって掻き消されたようだった。

 だが、そんな行為はリーリエ嬢自身によって止められた。リーリエは扇を持つで前に出る事を制止すると後ろを振り向き弟に対してすまなさそうな、それでいて淡い笑みで弟の動き完全に制止した。

 姉の笑みの意味は分からずとも、自分を巻き込みたくはないと意志だけは感じ、唇を噛みながらも足を止めた弟にもう一度微笑みかけるとリーリエ嬢は笑みを消し再びドライユーバー達を対峙する。


「殿下がどうお考えだろうと、シュバルツ領の者はそのような不忠行為は行いません。捜査を要請致します」

「必要ない。――――ああ、いや。そうだな」


 一蹴したはずのドライユーバーはその後少し考えた後、何を思いついたのかリーリエ嬢に対して嘲笑うような笑みを浮かべると「条件を満たすならば再捜査とやらをやってやろう」と言い出した。

 そのとても王子とは思えない笑みに反した条件付きとは言え了承の言葉に誰もが訝し気に王子を見やる。そんな中王子は何を思ったか近くにいた側近候補、それも騎士候補の青年に対して「剣を寄越せ」と言い出した。

 今までのドライユーバーの言動を考えても碌な事にはならないのは明らかだ。言われた青年は困惑し、しばしの沈黙の後首を横に振った。まさか自分の命令を断ると思わず驚いたドライユーバーだったが、直ぐに癇癪を起し青年を罵りつつ無理矢理剣を取り上げる。王族に対しての遠慮がある騎士の青年は、うまく動けず剣を取られてしまうが、何とかそれを奪い返そうとする。だがドライユーバーの次の行動の方が早かった。

 驚く事にドライユーバーは取り上げた剣を勢いそのままにリーリエの近くに投げつけたのだ。

 剣自体はショートソードと言った長さであり、重量も然程無く、中途半端に鍛えている王子であろうと問題無く扱える代物だったようだ。だが、だからと言って王子の行動が見逃されるわけではない。幸いにも剣はリーリエの足元に突き刺さったが、目測が誤ればリーリエが怪我をしても可笑しくはない。無造作に、人の怪我など欠片も気にしないドライユーバーの言動に講堂内の人間はどれだけ彼に対して失望を募らせれば良いのだろうか?

 そんな落胆を通り越し絶望すら感じる周囲を他所にリーリエは足元に刺さっている剣を一瞥するとドライユーバーに視線を戻す。

 ニヤニヤ、いやもはやニタニタとも言える笑みを浮かべたドライユーバーはソードを指さすと「それにて証明しろ」と宣ったのだ。


「再捜査をして欲しければ命を賭けろ」


 王子の口から吐き出されたとんでもない言葉に今まで一番の騒めきが講堂内を包む。

 ドライユーバーは暗にこう言ったのだ。「再捜査したければ死ね」と。碌な捜査もしていないにも関わらずあくまで「再捜査」と言い切る厚かましさもさることながら、彼はこの晴れの舞台を血で汚すように命じたのだ。それだけでもあり得ないというのに、例え言う通りリーリエ嬢が命を賭けたとしても王子が履行する可能性は低いだろうと誰もが思った。これは明確な証明書がある訳では無いただの口約束以下の一方的な脅迫行為でしかない。。

 ドライユーバーの先程までの言動からすれば碌な捜査をするかも分からない……いや、彼ではきっとリーリエ嬢が死んだ事で全ての首謀者としリーリエの名誉と共にシュバルツの名誉を地の底まで貶めるだろう。

 だからと言って此処でリーリエ嬢が命を賭けなければ「その程度の忠誠心か」と言ってやはりシュバルツ家を徹底的に攻撃し、名誉を貶め、シュバルツ家をいいように虚仮下すだろう。

 何処までも悪辣な、王族として有り得ないドライユーバーの言動に誰もが息をのむ。そして人々は悟る……彼は此処まで落ちていたのだ、と。


「どうした? できぬのか?」


 愉悦すら感じている笑みを浮かべリーリエ嬢を見るドライユーバー。しかも隣のローゼ嬢も「ドライ殿下のご厚意をけるんですかぁ?」と煽っている。二人のあまりに醜悪な態度に側近候補であった青年達は顔を青ざめさせる。今にも倒れそうな人間すらいる。

 それは観客と化していた周囲の人間も同じだった。


 だが、リーリエ嬢の弟以外、誰一人としてリーリエ嬢を庇い立てする人間はいなかった。中には飛び出しそうなリーリエ嬢の弟を止める人間まで居るのだ。

 確かに今、講堂内にいる中で一番家格が高いのは王子であるドライユーバーだ。それでも王子の蛮行を止める事は可能のはずなのだ。それ程までにドライユーバーの言動はおかしいのだから。

 だと言うのに、誰もリーリエ嬢を庇う事は無い。――誰もが次の標的になる事を避け、自己を優先させたのだ。


 リーリエはそんな周囲の事無かれ主義を理解していた。彼女は此処で味方となる人間が出てこない事をいない事を身に染みて知っていた。自分にとって彼、彼女等は決して“味方とはなり得ない”――王城に上がっていた頃からリーリエにとって“その事”は決して変わる事の無い事実である。

 足元の剣をじっと見ていたリーリエは小さく嘆息すると扇をしまい剣を握った。


「ドライユーバー第三殿下。“命”と引き換えに捜査をお約束頂けるのですね?」

「そうだな」

「口にした以上、必ず履行されますよね? 王族なのですから――この晴れの場でそう命ずる事の意味を知り、それでもそう命ずるのですね?」

「ああ! 場所が何処だろうとなんだと言うのだ! 何だ?! 時間稼ぎか? そんな無駄な事をしても誰も貴様に助けなど来ないぞ? それでも、そうだな。貴様の辛気臭い顔は見飽きたな。……そうだ。さっさとせねば条件を変えてしまうぞ?」


 腕を組みダンダンと足を床に叩きつけるドライユーバーにリーリエは「何処までも堕ちていくのですね、殿下は」と言い薄っすらと微笑むと剣を持ち上げると逆手に持った。


「賭けるモノが“命”ならば、これでも対価には充分のはずですわ」


 リーリエは一度だけ振り返ると弟に向かって口パクで「ごめんね」と呟くと微笑む。そして笑みを消すとドライユーバー達を見据え剣を掲げ、空いている手で自分の髪を掴んだ。

 ザリッと嫌な音が講堂内に響き、同時に短い悲鳴が彼方此方から上がる。最後にカランと剣が落ちた音とハラハラと軽いモノが落ちる音が講堂内に響き渡る。


「リーリエ=クグラーフ=シュバルツの貴族としての“命”と引き換えに殿下の馬車に対しての襲撃事件の捜査を誓願致します」


 リーリエは剣にて切り落とした髪をそのままにその場に跪くとまるで怯む事無く、朗々たる声で口上を述べる。

 今、リーリエは貴族女性として最大とも言える切り札を切ったのだ。

 

 貴族女性が自らの意志で髪を切る。


 それは自ら貴族である事の放棄である。不慮の事故ややむを得ない場合を除き髪を切った貴族女性の行く末は二つだ。修道院に入るか平民に下るか。何方にしろ今後貴族として生きていく事は出来ないとされている。

 それをリーリエはシュバルツ家の名誉と引き換えに行ったのだ。この行為こそがシュバルツ家の忠誠心の証とも言えるのではないだろうか?

 貴族としての特権全てと引き換えにシュバルツ家を護ろうとしているリーリエの行為は貴族だからこそ、その重みを感じなければいけない。だからこそ髪を切ったリーリエを見て誰もが息を呑み、そして悲鳴を上げたのだ。

 さしもの殿下もそんなリーリエ嬢の覚悟は伝わったのだろう。数度口を開くが、結局言葉が出なかった。

 ザンバラの髪を整える事無く、跪く姿は無残と言える。だが名誉を護るために行った行為のためか、それとも彼女が怯む事無く、口上を上げ、凛としているためか? 彼女の姿は何処までも気高く、そして貴族として在るべく姿だと人々の目にはうつっていた。

 このやり取りの軍配はリーリエに上がったと言える。後は殿下が「再捜査を約束する」と言えば一端場は収まった事だろう。だが、そんな空気を読む気もない人間がとんでもない事を口にしたがために茶番劇は継続されてしまう。


「えぇ。たかが髪をきっただけじゃないですかぁ。それでぇ許されちゃうんですかぁ?」


 ローゼ嬢の言葉に講堂内が凍り付く。

 一体彼女は何を言っているのだろうか? 誰もが意味が分からなかった。全員の視線がローゼ嬢に集まる。だが彼女は自分の言った事の非常識さが理解できないらしい。全く平素と変わらない風情でドライユーバーに腕を搦めて堂々と立っていた。それがどれだけ恥知らずな行為なのかも一切分かっていない。

 ローゼ嬢は男爵令嬢である。幾ら学園入学前は自らを平民だと思っていたとしても、学園に入学し貴族として常識やマナーを学んだからこそ、こうして卒業パーティーに出ているはずなのだ。

 そんな彼女が貴族女性が自ら髪を切る事の意味もその覚悟も理解していない。――ようやく理解が其処まで及んだ幾人かの女生徒が眩暈を起こし、倒れかけて婚約者や友人に支えられた。


「ねぇドライ様ぁ。高々ぁ髪を切るくらいでいいんですかぁ?」

「あ、ああ。――そうだな。俺は命を賭けろと言ったんだ。髪を切る行為はそれにはあ「殿下! それ以上はいけません!」――なんだと?」


 非常識なローゼ嬢に説得されとんでもない事を言い出しそうなドライユーバーを側近候補であった騎士の青年が諫めた。今更だという視線が彼に集まるが、彼はそれを甘んじて受けて殿下とリーリエ嬢の間に入るとまるで王子からリーリエ嬢を護るかのような位置で跪く。


「殿下。令嬢にとって髪を切る行為は“命”を賭ける行為に相違御座いません。シュバルツ辺境伯令嬢は充分すぎる程の対価を殿下にお渡ししました」

「えぇ! 髪を切っただけなのにぃ?」


 ローゼ嬢が口を挟むが騎士の青年は一切取り合わず殿下を見上げている。だが知っているはずのドライユーバーも納得がいかないのか眉を顰めている状態に騎士の青年は唇を噛む。血の味を感じながらも彼はなおも口を開く。


「殿下。令嬢が自ら御髪をお切りになった場合、行く末は修道院に入るか平民に下る事に御座います。シュバルツ嬢は自らの貴族として生きるはずだった一生を賭けたのです。これ以上の対価が必要でしょうか?」

「う、うむ。そうか」


 流石に今まで共に居た側近候補の言葉は僅かに届くのかドライユーバーの心が揺れる。だがそれもローゼ嬢が口を開くまでだった。


「じゃあ、つまりぃ。今のアイツはただの平民ってことぉ? ならドライ様の一言でどうにでもできるのねぇ」

「ああっ! そうだな! ――リーリエ=クグラーフ=シュバルツ。……いや、もはやただのリーリエだな。平民が俺達に意見する事は不敬である。衛兵! 目ざわりな平民を捕縛し牢屋に連れていけ!」


 ローゼ嬢とドライユーバー王子だけは別の世界を生きているに違いない。

 講堂内にいる誰もがそう理解した。

 話が通じないだけではなく、自分達の世界、常識だけで生きているのだ、この二人は。だからこそ二人は周囲の視線が失望から絶望を通りこうして怒りになっている事にも気づかないし、今まで味方であった側近候補が遅いとは言え必死に諫めている事にも気づかない。

 二人だけが頂点であり、それ以外は有象無象でしかない世界。箱庭の世界を外から眺めるとどれだけ醜悪に見えるのだろうか?

 もはや誰も二人の暴走を止める事が出来ない、いっその事この二人をつまみ出してしまおうか? とそんな物騒な事を誰もが考えた時、講堂内に声が響き渡った。


「ドライユーバー。其方はどれだけ愚か者に堕ちる気だ」

「っ!? 父上!?」


 ドライユーバーの父親……ブルーメ国の国王他王太子である第一王子に第二王子、そして護衛のために共にいる近衛騎士達。ブルーメ国の王族が今講堂内に勢ぞろいしていた。

 講堂内に居た全員が跪き頭を垂れる。例外はドライユーバー王子とローゼ嬢くらいであった。少なくとも礼を取らねばならない場面で礼を取る事すらしない息子に国王は内心落胆の気持ち抱かずにはいられない。


「私は今、国王として此処に在る。言葉は控えろ」

「っ! も、申し訳御座いません」


 幾らドライユーバーが王族だろうと、国王陛下は頂点に立つ御方なのだ。その事に気づき直ぐに謝罪の言葉を口にする。だがそれでも礼を取る事も無いドライユーバーに王妃が扇を開き口元を隠すとあからさまに目を逸らした。まるで見たくないものを見たかのような対応にドライユーバーはショックを受けローゼ嬢は王妃を睨みつける。そんな二人の態度に第三王子を抜いた王家の人間はふっと揃って視線を外した。――もはや二人に関心をはらう時が惜しいのだと。人々はそう判断した。


「皆の者、顔を上げるが良い」


 王の言葉に次々と顔を上げる中、リーリエだけはなおも頭を垂れたままであった。ドライユーバーやローゼ嬢の言葉ではないが、リーリエ嬢が自ら髪を切り、貴族ではない存在となったのは事実なのだ。令嬢ではなくなった彼女は幾ら国王に顔を上げる事を許されたとしても顔を上げる事は出来ない。

 自らのした事がどれだけ重大な事かを理解していると態度で示しているリーリエに王妃が痛ましそうな視線を投げかけていた。


「リーリエ=クグラーフ=シュバルツ。其方の願いを王家が必ず叶えると誓おう。ドライユーバーの身に起こった襲撃事件を含めた一連の騒動は徹底的に捜査し、シュバルツ家の名誉は必ず護りぬく。少なくとも全てが詳らかになるまでは其方は貴族だ。故に顔を上げても良いのだ……いや、顔を上げてはくれまいか?」


 この場においてリーリエが未だ令嬢であると国王が保証した事にドライユーバーが不満を口にしようとするが、王太子達の睨みに口を噤む。

 真摯な国王の言葉にリーリエも顔を上げた。切った事で短くなった銀糸がサラッとリーリエの頬を撫ぜる。

 王家を前にして怯む事無く真っすぐと相手を見据える双眸には今までの激情など全く感じられず、最初の頃のように湖面のように凪いでいた。だが、この場面において、感情を表さない事は令嬢としては素晴らしいかもしれない。それでも一人の娘とは悲しいとも言える姿だった。

 立ち上がったリーリエは静かにその場に佇んでいる。そんな彼女に何と声をかければよいのか……それは国王ですら正解を見つけるのが難しい問題であった。


「リーリエ」


 沈黙を破ったのは王妃であった。


「息子や私共に対して何かありませんか? 今なら不敬など一切問いません。貴女の心からの言葉を聞かせて欲しいわ」


 リーリエは王妃の言葉に僅かに目を見開き、国王の方に視線を向けた。リーリエの視線を受けて国王も皆に分かるように頷く。

 国王夫婦の本気にリーリエは一礼すると顔を上げた。


「過分な恩情を頂き有難う御座います。――ドライユーバー第三王子の暴走を止める事が出来ず大変申し訳御座いませんでした。それと同時にシュバルツ領の者達の名誉のため、捜査をして下さると誓って下さった事に大変感謝致します。シュバルツ領の者は皆は忠義の者達に御座います。その事だけは御心に止めて頂きたいと存じます」


 一言の恨み言も言わないリーリエに誰もが信じられない気持ちで彼女を見やる。向けられる視線に分からないはずもないリーリエはそこで苦笑する。それは彼女がこの場において初めて見せた“娘”らしい姿であった。


「恨みは元より御座いません。悲しみも……何時しか感じなくなりました。その事実に対して改善する意欲を持つ事が出来なかった。そういう意味では私もまた良き婚約者では無かったのでしょう。暴走を止める事も出来ず、このような晴れの舞台を台無しにした咎は私にもあります。だと言うのに私には場を治める処か、悪化させ、最後にはこういった結末を招いてしまいました」


 リーリエは自ら切り短くなった髪を後ろに払う。


「皆様の晴れの舞台をこのような騒動で穢してしまった事を当事者の一人として謝罪したく思います。皆様、本当に申し訳御座いませんでした」


 リーリエは其処まで言うと深く頭を下げる。

 そんな潔すぎる姿に誰もが後悔に苛まれる。彼女を此処まで追い詰める前に出来る事が自分達にはあったのではないかと。

 事無かれ主義は悪い事ではないかもしれない。だが、自分達は何処かで彼女に対して侮りがあったのではないか? 彼女ならばどうにかなると思いながらも、失敗しても彼女一人が泥被れば良い。自分達には関係のない事だと。

 だが実際彼女一人がこうして頭を下げている場面に遭遇すると自分達の勝手さが浮き彫りになり、胸をつまされる。彼女が誰も責めない事が更に罪悪感を感じ、重たいものを背負った気分になるのだろう。

 それは王家の人間も同じだった。

 リーリエが一言でも誰かを責めれば、そうすれば少しは自分達も救われるだろう。だがそんな心にあった醜い心を見透かされたような気がした。

 

 誰もが言葉にしきれない何かに苛まれている中リーリエは頭を上げて再び前を見据えた。


「このままこの場に居てはお目汚しになりましょう。退出してもよろしいでしょうか?」

「……ああ。屋敷に戻り体を休めてくれ。――愚息がすまなかった」


 国王陛下の言葉にリーリエは無言で一礼するとカツカツと背筋を伸ばし、一定の音を足取りで出口を目指す。いつの間にかリーリエと扉の間に人は端に避けて道が出来ていた。その道を気負う事無く歩き続けるリーリエ。その姿を見て、誰が彼女が悲惨な姿だと思うだろうか? 貴族とは心なのだと、その姿は語っているようであった。

 彼女は扉の前に到着すると振り返りお手本のようなカテーシーを行う。


「卒業パーティーという大事な場を茶番劇で騒がせて本当に申し訳御座いません。これからの皆様の行き先に幸多からん事を心から願っております」


 頭を上げたリーリエは近くにいた弟と、王家と共に護衛として入って来た兄に対して顔を綻ばせるが、小さく、だが透明な笑みを浮かべると「さよなら」と小さく、とても小さく呟き講堂内を出ていった。









 ブルーメ国には教訓と共にとある名前が歴史書に刻まれている。

 その名は「ドライユーバー=ケニーヒ=ブルーメ」と「ローゼ=バロニア=シュネーヴァイス」

 この二人は国に多大な損害を齎し、王家に汚点を残し続けた。生涯自分のなした事の何が悪いかを理解する事無く、最終的には悪しき者達と手を組みクーデターを企んだ者達として、国家反逆罪で処罰され、逃げ出したのか命こそ助かったが最期には行方不明となったと言われている。一説には毒杯を賜ったにもかからず逃げ出し行方不明になったとも、国民の前で惨たらしく処刑されたとも言われている。謎は多いが、事実が記されたとされる書物は存在していない。

 

 そんな二人とは対照的に「真の忠義者」「月の淑女」と称される女性の名も伝わっている。

 彼女の名は「リーリエ=クグラーフ=シュバルツ」。

 貴族として令嬢として屈辱を味わい、それでもなお王家への忠義を貫き、最後の時まで淑女としての姿を貫いた彼女は後に国中の娘たちの憧れや見本となった。

 そんな彼女もまた最期の時を記した書物が存在していない。一説では他国に嫁いだとも、一生を自領で過ごしたとも言われている。面白い説では月に帰ったとも言われていた。だが、そんな面白い説が出る程、彼女の後年を記した書物は存在しておらず、何も明らかになっていないのである。


 この三名について詳細な記述がある書物は殆ど存在せず、実在の人物であったかすら疑われている時期すらあっという。そんな三名の謎多き生涯を解明する事は今なお歴史学者達にとって永遠のテーマとなっているという。



















<3>










 馬車がガタコゴトと音を立てて街道を走っている。何時もと変わらぬ音を聞きながらもシュバルツ家の御者は中にいる令嬢を思い溜息を付く。

 彼は卒業パーティーで起こった出来事の事を何も知らない。中に入る事を許される立場でも身分でもないからだ。

 それでもシュバルツ家の令嬢がパーティーの途中で退出し、一人屋敷に戻るという事態が普通ではない事は分かる。しかも彼女の銀糸のように綺麗な髪が短くなり、ガタガタな状態だったのだ。衣服の乱れが無かったために最悪の状態は起こらなかったと理解できたが、令嬢の変わり果てた姿に動揺しなかったわけではない。

 それでも彼が令嬢の言う通り屋敷に向かって馬車を動かしているのは、令嬢が冷静だったからだ。感情のブレが一切無く、湖面のような、見られると自然と背筋が伸びる眼差しと静かな、それでいて従わずにはいられない声音に命じられ男は結局何も問いかける事無く、馬車を動かしたのだ。

 馬を動かすかな男は空を見上げる。憎らしいくらいまんまるな月に男は乗っている令嬢を思う。

 一体何があったのか、問いかける事は男には出来ない。けれど、少しでも令嬢の心が傷ついてないと願わん事を。






 馬車の中で今は一応とついてしまった令嬢であるリーリエは静かな表情で窓から月を見上げていた。月明りに照らされた令嬢の横顔は馬車の中にリーリエ以外の人間が居れば、あまりにも現実味の無い美しさに息を呑んだ事だろう。

 髪を自ら切り、令嬢あるまじき短さとなった姿だろうと、リーリエの美しさに対して何の瑕疵ともなっていなかった。

 リーリエは小さく嘆息すると窓のカーテンを閉め、紙とペンと取り出し、ペンを紙の上に滑らせる。

 カリカリとペンの音だけが響く中、何の前ぶりも無く、リーリエの影から突然白い物体が飛び出ると彼女の向かいに乗り形を形成する。

 白い影はあっという間に白い狼の姿となり、椅子の上に鎮座した。狼は自らの出現に全く驚く事無く、何かをしたためているリーリエをじっと見つめている。

 明らかに異常な状態だというのに、一人と一匹を取り巻く空気は静かだった。

 そんな優しい沈黙を破ったのはリーリエがペンを置き、小さく嘆息した事だった。

 白狼は人間臭くニィと笑うと小さく吠えた。

 すると今度は突然馬車の内部が何か魔力的なモノに包まれる。魔法によって何かが起こったのだが、御者は気づかない。彼には魔力が無いが故に魔力の変動に気づかなかったのだ。だが魔力を持ち、異変に気づいているはずのリーリエも白狼のした事に対して悲鳴を上げる事無く、当然という姿で騒ぐ事無く座っている。

 そう、一人と一匹にとって、白狼のした事は予定調和でしかないのだ。


「これで音が外に漏れる事は無い。後、面倒だからな。外から覗き込んだ場合オマエが物思いにふけっている様に見えるようにしておいた。――幾ら騒いでも問題ないぞ?」


 白狼の言葉にリーリエはゆっくりと目を細めるとニィと白狼そっくりの笑みを浮かべた。


「そう。――――これで私は自由って事ね!」


 「月の化身」「物静かな令嬢」「淑女の見本」とまで言われたリーリエの満面の笑みに向けられた白狼は驚く事無く、喉で笑う。


「取りあえずお疲れさん、ってやつか?」

「んー。後はこの手紙を屋敷において、纏めてある荷物を持って屋敷を出るだけね。まぁ、一応王都から出たら『missioncomplete』じゃないかな?」


 言葉使いすら砕けたリーリエの有様は、この場に誰かが居れば恐慌状態に陥った事だろう。それ程までに彼女の変貌は凄まじいものであった。だが、その姿が白狼にとっては当たり前なのか、全く驚く様子も、直すように諫める様子も見られない。


「それにしても、結局この世界はオマエさん的に『げーむ』とやらの世界だったのか?」

「さぁ? 第三王子達のやらかした事なんかは『テンプレ』だとは思うけど、結局あのローゼ嬢が『ヒロイン』だったのか、それとも『転生者』だったのかも分からなかったし。真実は闇の中って奴かな」

「『断罪』とやらをされる役割だったくせにそれでいいのか?」

「いいの、いいの。だって例えこの世界と似た『ゲーム』があったとしても、此処でこうして生きている私は私なわけだしね。あんまり『幻想』に固執して今を蔑ろにしたら本末転倒でしょう?」


 手をヒラヒラさせて笑うリーリエに白狼も笑みを深める。


 『ゲーム』『テンプレ』『転生者』『幻想』


 そう、言葉から分かる様にリーリエはこの世界に生まれ落ちた異端であった。

 『日本』で生きた記憶を持ち生まれ落ちたリーリエは早くから自分が異世界で生きる一人の人間であると認識できてはいた。だが同時に『乙女ゲーム』をやった事がある軽度のオタクでもあったがために、この世界と似た『ゲーム』があるのでは? という疑いがどうしても拭えなかった。

 自分は国の名前にも学園の名前にも、ついでに婚約者の名前にも『前世』において聞いた覚えはない。だが自分が知らないだけでは? と言う疑惑はずっと持って育ってきた。自分がその王子の婚約者となった時には「え? 私って『悪役令嬢』ってやつなの?」などと思った程だ。

 とは言え、似たゲームを知る訳で御無い彼女にとってここは単なる現実である。だからこそ『幻想』に溺れる事無く、地に足をつけて歩いてきたつもりだ。

 ――例え、この国の人達を見て思う所があったとしても。

 だから、それをあっさり打ち壊された事に思う所が無い訳では無いのだ。今はそれ以上に望みが叶う可能性に胸を躍らせているようだが。


「まさか本当に婚約破棄なんぞをやらかすやつがいるとはな」

「何百年生きたアンタでも驚きでしょう? ま、あのアホ王子ならなんかやらかすとは思ってたけどねぇ。まさかあそこまでおバカさんだとは私も思わなかったけど」

「その割には準備万端でいたようだが?」

「そりゃエスコートが出来ないって言われた時点で何かしらあるとは思ったもの。ただでやられてあげる程私優しくないし」


 「他の生徒が助けてくれる事はないってのも分かってたしね」と何でもない事かのように言うリーリエに白狼は溜息をついた。孤立無援である事が事前に分かっていながら何故彼女は事前に味方に根回しをしなかったのかと思ったのだ。それが出来るだけの能力があると知っているから余計に。

 そんな白狼の考えている事が分かったのだろう。リーリエは意味深に微笑む。


「ねぇ【白夜】知っていた? この国の貴族は皆事無かれ主義なのよ。自分が一番大事で、その次に家族かな? だからね? 幾ら根回しをしようとも利益を齎すと確約出来ない相手との約束なんてあっさり破ってしまうのよ。そうじゃなければ私は学園で一人でいる事なんて無かったわ」


 学園においてリーリエの立場は微妙だった。

 第三王子の婚約者でありながら、その婚約者に疎まれている。だが、その反面、年が上の高位の令嬢達に何故か可愛がられている。付き合いを深める事で利益となるか不利益となるか分からない曖昧な立ち位置。

 それ故に触らぬ神に祟りなし、と言った扱いをずっと受けていたのだ。


「私もそれを良しとしていたし?」

「もしかして、オマエはこの婚約が破棄されると分かっていたのか?」

「そうねぇ。低くない確率で婚約は破棄されると思ってたわね。だってあのおバカさんは絶対に私と結婚したくないと思っていたから」


 たとえローゼ嬢がいなくとも、何かしらの罪をでっちあげてリーリエとの婚約を破棄しただろう。それ程までにドライユーバーは何故かリーリエを毛嫌いしていた。


「ま。離婚って場合もあっただろうけどね」

「万が一心を入れ替える可能性もあったんじゃないのか? その場合はどうしていたんだ?」

「無いと思うけど? うーん。けど、そうだなぁ。……その場合は大人しく王子妃をやってたかな?」


 リーリエとて今まで貴族として育てられた自分を疎ましいとは思っていない。自由が少ない代わりに衣食住が保証されている事が幸運である事も理解していた。だからこそ貴族にとって政略結婚は当たり前であり、相手がどんな相手であろうと文句を言うつもりはなかったし、相手と歩み寄る努力も欠かさなかった。

 意味の無い“IF”だがドライユーバーがリーリエを認め、共に努力すると誓ったならば、彼女は政略結婚として、その婚姻を受け入れただろう。


「オマエはそれ程この国が好きだったのか?」

「この国が好きか、ねぇ?」


 リーリエは目を眇めて虚空を見つめる。その眸に宿っている感情は複雑な色をしていた。


「シュバルツ領で日々、国のためと鍛錬し、領地を、国を護っている彼等は好きよ?」

「後は、弟と他国に嫁いだ姉か?」

「うん。そうね。あの二人は私の理解者だったから。私もあの二人を愛しているわ」


 リーリエはパーティーで自分が侮辱されるたびに飛び出て庇ってくれようとしていた弟の事を思い浮かべて微笑む。

 シュバルツ家の当主である父と次期当主である長兄はご護国精神の強い、いわゆる軍人気質の人間であった。故に王家の言葉を絶対視する傾向にあり、家族にもそれを当たり前の事だと考え、同じようにあるように強いていた。

 実際リーリエは一度だけドライユーバーの愚行とも言える全てを手紙にしたため実家に送った事があるのだ。

 だが、その返信は「お前の努力が足りない故だ。一層精進し殿下の御力となれ」の一言だった。

 確かに彼女が書いた内容は実際受けた仕打ちよりもマイルドに遠まわしに書いたのも事実だ。それでも普通ならば娘の受けた仕打ちに怒りを覚える程度には酷いと思われる事を書き連ねたのだ。それで、その返信ではリーリエが以降手紙を書かなかったのも仕方の無い事を言える。

 シュバルツ家当主が娘を愛していなかったわけではない。政治の道具として扱う気もない。そもそも彼等にとって権力とは王家を護れる程度にあれば、それで良いのだ。だからこそ娘を政治の道具とするという発想すらなかった事だろう。

 それでも当主にとって王家の言葉は絶対であり、殿下が愚行を行った場合、それは窘める事が出来なかった娘のせいと彼等は考える。王家に対して忠誠心が目を曇らせ、王家の事に関してのみ視野が極端に狭くなっているのだ。

 忠誠心が強すぎると言えば聞こえはいいが、ある種王家に依存しているともいえる。

 当主と長兄以外のシュバルツ家の人間はそんな家の危うさに気づいていた。だからこそ姉は他国に嫁いだとしてもこまめにリーリエ達に手紙を書き気遣っていたし、弟は長兄を反面教師に依存する程の忠誠心は恐ろしいと学んだ。

 リーリエもまた彼等程の忠誠心を王家に抱いてはいない。


「結局、あの人達はシュバルツ家の当主や次期当主であって、父親や兄上ではなかったって事かもね」

「よく言ったもんだな。シュバルツ家を『王家の剣』だから襲撃など有り得ないと言っておきながら。しかもそれを証明するために髪まで切ったくせにな」


 白夜と名付けられた白狼はリーリエの短くなった髪を見て鼻で笑う。


「だから領地の人達は好きだって言ってるじゃない。シュバルツ家が貶められたら。彼等の努力まで否定されるじゃない。だからこの髪はシュバルツ家の名誉を護る事で領地の皆を護っただけだよ? 大体、私は「シュバルツ家」ではなく「シュバルツ領の者達」と言っていたと思うけど?」

「ああ、そういえばそうだったな。……成程な。それで? 自分の所の領民が大切なのは分かったが、国はどうなんだ?」


 はぐらかそうとするリーリエに白狼は再び問いかける。その問いかけにリーリエははぐらかされてはくれないかと思ったのか苦笑する。


「国は……嫌いじゃない、かな?」

「だが一応あのアホ以外の王族にはよくしてもらってたんじゃないのか?」

「確かに、色々学ばせて頂いた恩はあるけどね。高位貴族の方々にもね。けど……それは全部“あのおバカさんの生贄”に対しての同情からなる好意だったからね」


 どうしようもない第三王子を影から支え、負担の全てを引き受ける事が出来る、王家に逆らう事は出来ない年頃の令嬢――それがリーリエだった。

 最初から彼女は無能な第三王子の生贄として差し出されたのだ。だからこそ高位貴族程リーリエには同情し、そして慈悲を見せた。とは言え、あの場で庇う程の情ではなかったのだから、どれほどの好意だったのだろうか? とリーリエは心の中で思う。


「同情から発展した好意を素直に受け取れる程、私は可愛くなれないから」

「……はぁ。問題はそれが理解できた事だろうに」

「そこは、ほら。『前世』の記憶がね?」

「そうか。……つまり、皆、何だかんだと言いながらも好き勝手やっていたという事か。どいつもこいつも身勝手な事だ」

「あはは。人なんて皆身勝手な生き物でしょう?」


 白夜の呆れたような、蔑んだような言葉に対してもリーリエは鮮やかに笑い「人はそんなものだ」と言い切る。自分もその一人である事を自覚しながらも笑うリーリエに白狼は溜息をついた後、笑う。


「そう言いきっちまうどころがなぁ。まぁだからこそオマエは面白いんだがな」


 白狼は太く笑うと尻尾をパタと振る。


「それで? オマエはこれからどうするんだ?」

「髪を自らの意志で切った女性の行き先なんて修道院に入るか平民に下るかの二つでしょう?」

「どうやらこのまま待ってれば令嬢のままでいられそうだが?」


 白夜は口ではそう言いながら、絶対にそうはならないだろう事を分かっていた。リーリエもそんな軽口にも似た白夜の問いかけに笑んだ。


「そうして今度は下の王子と婚約するの? そうして憐れな令嬢は誠実な王子と結婚し幸せになりました? ……そんな茶番冗談じゃないわ。哀れみの中で生涯を生きるなんて絶対嫌」


 リーリエは今さっきまで書いていた手紙をヒラヒラと振ると目を細める。


「これには私の努力不足で殿下を諫めきる事が出来ず、あのような形でパーティーを乱した事を私自身が何よりも許せない、と。だから平民と下り、遠巻きながら国を護りたいと思います。――なんて事をツラツラと書いてあるのよ。これを屋敷に置いて、夜が明ける前に王都を出るわ」

「そんな事全く思ってないくせにか?」

「いやだなー。一応悪いとは思ってるよ? まさかパーティーであそこまでやるとは思ってなかったし。そりゃさ、暫くはこの国を離れる気ではいるから全部が全部本当ではないけどさ。人なんだから嘘を言ってもおかしくはないでしょう?」

「嘘吐きである自分を肯定するのも大概だと思うがな。それで、何だ? 姉の所にでも行くのか?」

「ううん。冒険者になってほとぼり冷めるまで適当にやってくつもり。――折角魔法のある世界に生まれたんだしね!」


 リーリエは目を輝かせ未来を思う。『日本』では御伽噺の中でしか存在しなかった魔法という力。それをこの世界で使える事が分かり彼女はどれだけ興奮した事か。密かに色々試したのは懐かしい思い出だ。白夜には大層呆れられているが。

 大体、そういった魔法の練習中に白狼と遭遇し、最終的には白夜と名付け【使い魔契約】をしたのだから、白夜とてリーリエがこういった性格である事は重々承知のはずだ。

 彼女は白夜には一切自分の素を隠さなかったのだから。


「そのうち姉上経由で弟には生きている事とか元気でやってる事とか知らせるつもりだけどね」

「オマエ。冒険者になって直ぐに死んじまうって事は考えて無いのかよ?」

「え? その時はその時でしょう? どうせ一度は死んだ身だし、今更死をそこまで怖がってもねぇ。もし冒険者になって家族に何かを知らせる事無く死ぬなら、私もそこまでの人間だったって事」

「その事で悲しむ人間がいてもか?」


 白夜の問いかけにリーリエは何の憂いも無く笑う。


「今まで家のため、国のため色々妥協して生きて来たわ。枠組みにうんざりした事も家族に思う所もあった。檻の中にいるようだと思った事もあったわね。そんな柵の中で生きて死ぬ事を一度は覚悟したし、今までの生き方の全てが悲しみと憐れみだけだった訳でもない。けど、今私はそういった柵から解放される機会を得たのよ? そして私はそんな機会を見逃すなんて、絶対に嫌。それは例え愛しい家族に止められても私は絶対に止まらないわ。家族が泣いたとしても私はこの機会をモノにしたい。それが本音だわ――だって私の人生は私のものでしょう?」


 清々しいまでに自分の意志を貫くと宣言したリーリエに白夜は目を細める。


「本当にオマエは人間らしい。――何処までも身勝手な奴だな」


 言葉の辛辣さの割にその声音は何処までも明るく優しかった。

 だからリーリエも貴族らしくはない晴れやかな笑みを浮かべる。


「誉め言葉だわ、白夜」


 この夜を境にリーリエ=クグラーフ=シュバルツという人間は姿を消す事になる。そうして残されたリーリエという自分勝手な少女は期待と希望を胸に柵の檻から飛び出すのであった。






 ただ彼女も知らない。この後冒険者となった彼女が実は魔法的にチートであったためにあっという間に高位ランクまで駆け上がってしまう事も、ある国でとあるパーティーから追放されるというテンプレをかまされた『同郷の人間』と出逢った挙句、その人間と意気投合。後方チートで生産チートである彼と無二の相棒となり、冒険者の中では知らぬ者はいない存在となる事も。

 更に更に彼女達は知らない。どこぞの傭兵が王となった傭兵王が統べる国の双子の王子と王女がかなりのバトルジャンキーで、王子の好みが隣を歩ける女(勿論戦場で)という事で彼女に目を付ける事も。王女の好みが私を後ろから支えてくれる(やはり戦場で、つまり後方支援的に)人であり、相棒が同じく目を付けられる事も。

 そんなはた迷惑な双子に目を付けられた結果、国というものに関わりを持ってしまう事も。

 

 ただ輝かしい未来を夢見て前を向ている現時点の彼女は決して知り得ない事なのである。


 ――とは言え、彼女がその事をこの時点で知ったとしても、国を飛び出すという選択肢以外は無かったであろうが。



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さて、本当に身勝手だったのは誰だったのかな? 水神瑠架 @ruka-mizukami

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