ヴォイス
西順
ヴォイス
「これ」
真面目に授業を受けていた私は、びっくりして声の方を振り向いてしまった。そこでは左隣の席のいっちゃんが、私の消しゴムを持ってこちらへ差し出している。私がいつの間にか落としたのを拾ってくれたのだろう。
「あ、ありがとう」
私がおずおずと消しゴムを手に取ると、いっちゃんはまるで何事も無かったかのように黒板へ向き直ったが、私がいつまでもいっちゃんの方を見ていたので、それが気になったのだろう、今一度こちらを振り向いた。
「どうかしたの?」
その声が脳に届くと、蕩けて何も考えられなくなり、心臓が飛び出るんじゃないかと思う程ドキドキが止まらない。
「あ、えっとー、声変わり、終わったんだね」
中1の夏。いっちゃんの声変わりは始まり、可愛らしかったあの声は、次第にカスカスになり、いっちゃんはそれが嫌だったのか話さなくなっていった。そして二学期、久しぶりに聴いたいっちゃんの声は、深く低い大人のそれとなっていて、凄く耳心地が良くなって、私の心と身体を蕩けさせた。
「あー、うん。変だろ?」
「そんな事無いよ!」
思わず大声を出してしまい、教室の注目が私に集まってしまった。
「大島、何がそんな事無いんだ?」
先生が睨んでいる。
☆ ☆ ☆
「笹川の声?」
「う、うん。声変わりが終わっててびっくりしちゃって」
友達のみゆちゃんに授業中の事を説明すると、何故か首を捻っている。
「って言うか、笹川って昔から声出さないじゃん。私、笹川が元々どんな声だったのか覚えてないよ」
ええ!? あの可愛らしい天使のような声を覚えてないなんて、人生損している。でももうあの声は聴けないのよね。
「笹川、声出して」
私の思いなんて関係無く、みゆちゃんは本を読んでいたいっちゃんの側まで行くと、当然とばかりにいっちゃんに声を出すように要求していた。いっちゃんはそんなみゆちゃんを見上げ、無視するように本に目を落とした。
「ちょっと、聞こえてるんでしょ? 声出しなさいよ?」
「何やっているの? みゆちゃん、いっちゃん困っているじゃん!」
私は更にいっちゃんに絡むみゆちゃんの片腕を掴むと、いっちゃんから離すように教室の後ろへと連れて行く。
「何よ、良い声なんでしょ? 聴いてみたいじゃん」
「でもいっちゃん困ってるよ」
それでも止まらないのがみゆちゃんである。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。普段からいっちゃんと話す事が多い男子たちに声を掛けると、鮮やかにカラオケに行く約束を取り付けたのだった。
☆ ☆ ☆
カラオケの個室は、お通夜状態になっていた。いっちゃんたち男子と私たち女子ではまるで歌の趣味が合わず、そもそもみゆちゃんがいっちゃんの声が聴きたいから開いた催しであるにも拘らず、いっちゃんが頑なに歌いたがらない姿勢を崩さなかった事もあって、みゆちゃんがどんどん不機嫌になっていき、それに合わせて女子たちも不機嫌になっていったからだ。盛り上げようと大声で歌っている男子たちが道化にしか見えず、可哀想になってきた。
「ねえ、帰って良い?」
心臓が止まった。いっちゃんが他の誰にも聴かれないように、耳元で囁いてきたからだ。私は自分の胸を何度か叩いて心臓を復活させる。
「だ、駄目だよ。みゆちゃんはいっちゃんの声が聴きたくて、このカラオケに誘ったんだから」
「何それ、意味分かんない」
そうかも知れないけど、脳が蕩けるから耳元で囁かないで。低音が、大人のバリトンボイスが私を深い海の底へ連れて行く。戻れなくなるよ〜。
☆ ☆ ☆
「なあ、もう俺たちも帰ろうぜ」
再びいっちゃんに耳元で囁かれ、私の心臓がドキッと動き出した。び、びっくりした。心臓止まってた。
「駄目だよ! まだ歌ってないでしょ!」
慌てていっちゃんを見上げると、キョトンとした顔をしている。
「もう歌ったけど?」
「へ?」
周囲を見渡すと、個室には既に私といっちゃん以外いなくなっていた。いつの間にかカラオケはお開きになっていたらしい。
「う、歌ったんだ?」
「ああ。童謡だけどな」
気もそぞろになっていたせいで、何も覚えていない。
「それで、皆、……みゆちゃんはどんな反応だった?」
「別に、聴き終わったら、部屋から飛び出して行って、それを女子が後を追って、その後を男子が追って、それでなし崩し的にお開きになった。俺たちも帰ろうぜ」
そうだったんだ。私もちゃんといっちゃんの歌聴きたかったな。
「ねえ、いっちゃん。もう少しカラオケしてから帰らない?」
私は勇気を振り絞るようにいっちゃんを見上げた。
「そうだな。女子たちがいたせいで、好きに歌えなかったからな。もう少し、歌っていくか」
こうして私は、この後一時間に及ぶいっちゃんのカラオケメドレーを堪能する事になるのだが、脳は蕩けるし、心臓は何度も止まりかけるし、生きて帰れたのが不思議だった。
翌日、ミイラ取りがミイラになるとばかりに、みゆちゃんがいっちゃんに告白してフラれたのは余談だ。
ヴォイス 西順 @nisijun624
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