廃墟

佐伯 安奈

廃墟

 家の近所に廃墟がある。いや、近いとは言えない。5キロくらいは離れている。しかし私は、高校の頃、私と同じ街に住んではいたが、小学校も中学校も別であった同級生から聞くまでその存在を知らなかった。地元では有名な廃墟だったらしいが、私自身の学区からは離れていたので知る機会がなかったのだ。この廃墟は昔は病院だったらしく、生体解剖をしたという噂も飛びかっていたそうだが、これは大方話を面白くするためのデマだろう。そういう噂もあったくらいだから、肝試しスポットでもあったという。

 何年か経って、親しくなった人と車でそこに行ってみることにした。錆びてはいるがそれなりに立派な門扉がある。開けることはできなそうなので左脇の隙間から入る。伸び放題の名前も知らない樹木から散った葉が地面を埋めている。ふと階段を見つける。地下へ向かって口をあけている。地下鉄駅の入口のように。階段も落ち葉が積もっていたが、滑らないように注意しながらゆっくりと降りていった。

 講堂のような広い一室にたどり着いた。ここも落ち葉の絨毯で充たされている・・・?と思いきや、床に散らばっているのは神社のお札ほどの大きさの紙片である。そこには「十万年コオロギ」と書かれている。違う一枚を拾ってみたが、そこにもやはり「十万年コオロギ」とあった。別の一枚にも、また別の一枚にも。楷書ではっきりと、ただそれだけが書かれている。恐らくこの室内を埋め尽くす全ての紙切れに同じことが書かれているのだろう。「十万年コオロギ」。

 足元に散らばった紙切れどもを踏み分け踏み分けて次の部屋に入る。何か医療に使うと思しき器具が置かれた空間だ。ビーカーやフラスコも置かれていて、理科室みたいである。そのどれにも横長の白いラベルが貼られている。目を凝らしてみると、「十万年コオロギ」と書かれている。一つ一つに同じようにくっきりとした書体で書かれている。この部屋にある器具すべてに「十万年コオロギ」のラベルがつけられているようだ。天井まで山とダンボールが積まれているが、その中にはぎっしりと何かの器具が詰まっていて、恐らくそのどれにも「十万年コオロギ」と貼られているのだろう。

 その部屋を出てしばらく歩くと、「図書室」と色褪せた看板の表示された一室があり、中にこわごわと入ってみる。扉を開いてみると雲を衝くかと思えるほどの高い書棚が目の前にそびえている。人一人、ようやく通れる程度の隙間を窮屈な思いをしながら前へ進んでいく。どこまで進んでいっても書棚が続くばかり。薄暗くてじきに来た道を見失いそうだ。次第に不安が増してきたので紛らわすために目の前に広がる書棚から適当な一冊を手に取る。その時初めて気づいたのだが、書棚にあるのは全てファイルのようだ。どれも何かの紙がこれ以上は無理というほど分厚く綴じられていて、片手で持つのがやっとである。薄暗かったので手元に引き寄せるまでわからなかったが、その背表紙には「十万年コオロギ」という白いラベルが貼られているようだ。嫌な予感がした。ファイルを開いて中に閉じられた紙を読むまでもなく、そこにはぎっしりと「十万年コオロギ」と印字されている。紙面の上から下まで余白というものが全くなく、ただその文字だけで埋め尽くされている。裏側も同様。次のページも、また次のページも、「十万年コオロギ」の洪水だ。すると恐らく、この部屋にある全ての書棚に収められた全てのファイルの背表紙には「十万年コオロギ」というラベルが貼られていて、そこに綴じられた全ての紙には一部の隙間もなく「十万年コオロギ」という文字が並んでいるはずだ。

 部屋には私と同伴者の二人しかおらず、どちらも何か目に見えないものに気おされるような気持ちでただ佇んでいた。しかし、やがてどこからともなく重いものを引きずるような鈍く響く音が聞こえてきた。だんだんこちらに近づいてくるのかもしれない。そう思いたくはないが、聴覚は裏切らない。これは誰かの足音だ。そしてぶつぶつと何かを呟いているような低い物憂げな声もする。ずっと同じ一つの言葉を繰り返しているのか、同じトーンの声が何度も聞こえる。「じ・・・ゆ・・・う・・・」と声は続く。「ま・・・ん・・・」。私の同伴者の方が先に逃げ出した。得体の知れない恐怖が頂上に達したのだろか。「ねん・・・こ・・・お・・・」そこまで聞けば十分だ。声の持ち主と出くわさないうちに逃げよう。どこをどう通ったかわからないが入口の門扉のところまで辿り着いた。家に着くと、部屋の真ん中に見慣れない紙切れが落ちていて、表にすると、くっきりとした字体で「十万年コオロギ」と書かれていた。

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