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村上鬼城記念館へ行く(行った)

随分前から放置完結状態の「わたしの好きな俳句たち」が、とても地味に読まれ続けている。殊に村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」は、PVの三分の一くらいを占めている。これは私も全体の中で一番好きなので、構わないのだが、そんなに愛読しているような人がいるのかと思うと不思議だ。だが最近はこうも思えてきた。この句をネットで検索すると、私の書いたこの句についてのエッセイが表示されるのだ。それでアクセスされているということではないかと。他にもこの句については言及している人は多い。それだけ広く知られた名句なわけだが、例えばこの句について調べようとしている学生が、検索結果の私や他の人が書いたこの句の解釈や感想をコピペして課題として提出しているのではないかと思うと、あまりいい気はしない。大体詩文の解釈を生徒に強いるにとどまらず、それを採点することに何の意味があるのか。自分が学生のころはさして疑問に思わなかったそんなことが、このごろ気になる。

その村上鬼城の記念館が高崎にあると知って、行くことにした。鬼城が高崎とゆかりのある人だったことは、知っていたような気もしたが深く印象に残っていたわけでもなかった。北高崎駅という冴えない小駅を降りて歩くこと15分ほど、言われなければ確実に通過してしまう細い路地を直進し、ちょっと曲がったところに塀のような門に囲まれたあまり大きくない二階建ての家があって、そこが村上鬼城記念館だった。館内では鬼城が書いたという軸なんかが展示されている。鬼城は生れは鳥取(だったか島根)だが、8歳で高崎に移り住んで以来死ぬまで高崎を離れなかったらしい。生計は高崎裁判所の「代書人」をして立てていた。そう言えば村上鬼城と言えば(と、こんな言い方をしては失礼だが)若いころから耳が悪かったことで知られている。それで軍人を志願したが果たせず、「代書人」という、黙っていてもできそうな仕事に就いたのだろう。壁には四季に合わせた鬼城直筆の句が表装されて掛けられていて、内容からしてまだ冬のままだったらしい。「冬蜂の死にどころなく歩みけり」はあったが、私の好きな「生きかはり~」はなかった。これは春の句だろう。

このいま記念館となっている家には晩年10年ほど住んでいたそうだ。その頃は周囲に家はほとんどなく、浅間や赤城の山もよく見えたという。今は周囲にごみごみ家が立ち並んでいて、消防車が立ち入るのはかなり困難だろうと思える。空き家も見かけた。

どの部屋も5、6畳ほどで、小作りである。二階には鬼城の書斎があって、こういう空間を見るのが一番面白い。ここが彼の創作が流れ出た場所、と思うと感慨がある。例によって愛用の硯や小物類が展示されている。補聴器の現物は残っていないのか、彼の使っていたのと同型のものの写真が置いてあって、その下に補聴器入れにしていたという布袋があった。補聴器は20センチくらいのホースのような見た目でその先に小型のラッパみたいなものがついている。よく飲食店で注文を頼む時鳴らすのに似た鈴も置かれていた。用がある時、これを鳴らしては家人を呼んでいたとのことで、本居宣長の鈴舎みたいである。この鈴の下の説明書きに、しかし鬼城自身はこの鈴の音は聞こえなかった云々と書かれていたのが、微妙に私の心を打った。

山吹や鬼城無音の國に坐す

これは帰って来てから作ったのだが(庭に咲いていた白山吹が印象的だった)、基本的に彼は音の聞こえない世界で俳句を作っていたわけで、これはこの人の俳句を心読する上で大事な事実だと思う。彼の俳句は、必然的に「見る人・凝視する人」の俳句で、「冬蜂」の句など、よろよろ歩いている蜂以上に、その姿を刺し貫くかのような鬼城の視線が刻み込まれていると感じる。

 一階に降りてきて、館員に促されて毎年行われているらしい、村上鬼城を顕彰する俳句大会の冊子を手に取った。成人の部と小中学生の部とあるそうで、大人の句は要するに大人の句であって、言うことはない。小中学生の句のほうが、よほど面白かった。成人の方の選者として名を連ねているお歴々の手練れ句より優れた句が大いに違いない。
中でも

 かたつむりこれでいいのだぼくのみち(小学生)
 父親と話すきっかけ柏餅(中学生)

 の二句は強く印象に残った。

2件のコメント

  • 「山吹や鬼城無音の國に坐す」この句を読んでから「冬蜂」の句を読むと違う視線が見えてきますね。
  • コメントありがとうございます。
    身体的な条件がその人の表現に影響しているという例はきっと他にもあるんでしょうね。
    鬼城は大家族を抱えていつも貧しかったそうなので、そんな自分の境遇を弱った鉢に重ねていた側面もあるのだと思います。
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