MOONSCREW

柚木呂高

MOONSCREW

 夏の夜。都会の虫のかすかな声は車や喧騒にかき消される。月は高く煌々と光り、韓国語やヒンドゥー語で象られた街のネオンの灯りに負けることなく中空に留まっている。

「珠名、見て?」私が歩道脇の段差に座っていると、たまたま通りかかった亜弓が唐突に指をさす。その先の路地に、サリィ婆と呼ばれる一帯では有名な人種不明のお婆さんが、全裸のまま色とりどりの布を引き摺って歩いている。これは新大久保では幸運の兆しだ。

 亜弓は鼻を親指でこすると「今日は良いトリックをキメられそう」と言った。生ぬるい一陣の風が彼女の赫赤のショートヘアを揺らす。彼女はコーラを飲み終えてこちらを顧みることなく歩き出す。私は急いでそのあとについて二人で路地の暗闇へ大股で進んで行った。古びたビルに到着すると、正面入り口とは別に直接地下へ伸びる黒く湿ったコンクリートの階段を亜弓は口笛混じりに下っていく。地下の入口近くで既に低音が漏れて臓腑を重く振動させた。

 扉を開けると特徴的な高BPMの電子音楽が鳴り響く。地下室の天井の天辺近くに、男女三人が空中でスピンをしている。床に立つ四人の人影がビールを片手にアジテートするように叫んでいた。中でもひときわ存在感のある髭面のインド系の大男に私たちは近寄る。このヴァルナというダンスチームのリーダー、サイだ。

 挨拶をすると、サイは私にビールを二本寄越し「気持ちは整理できたか?」と聞いてきた。私の恋愛事情についてのことだろう。私はそこそこ良いところの出だから公にできるわけはなかったし、自分がそれに向き合う準備もできていない。そもそも私は本当に女性が好きなのかも確信がなかった。

「いえ、まあ」と曖昧に答えてビールを一本、亜弓に差し出したが彼女はそれを無視してストレッチを始めた。私の腕の先で行き場をなくしたビールが汗をかいている。

 彼女はいつもスカしてる。無関心、マイペースで、独立している。ここに来るまでの道で会うことも多いが、合わせるのはいつも私の方。気に食わない。サイは「まあ焦るな、ムーンスクリューはそういう連中の居場所なんだ」と言う。

「亜弓が出るぞ!」サイが両手をメガホンのようにして叫ぶと唾が飛沫のように飛んで空中に留まった。ムーンスクリュー、それはイタリアが開発した工業用重力操作装置、ラ・モーレ・ルナという名の機材を利用した軽重力状態で行うバトルダンス。

 亜弓は音楽に合わせステージへエントリーした。徐々に動作を加速していき、ロンダート側方倒立回転跳び1/4ひねりから後方宙返りをすると、そのまま回転速度を上げて二メートル近くまで飛ぶ。重力に逆らって更に上昇しながら横回転へと変化させ、両腕を広げると速度が緩まっていく。素早く上下左右が複雑に絡まった回転を加え、両足を交互に交差して出し入れするシックスステップを展開した。長い裾がはためき、ワインレッドのジョッパーズが回転に色を加えた。やがて天辺まで到達すると上下を反転させ、天井を地面のように見立ててアークアンドジャーク高速ステップを入れる。こういう遊びを入れるところも不真面目で気にいらない。亜弓は地面へ向けてジャンプし、ロールを挟んで着地した。誰もが踊るのを忘れて亜弓のダンスを見ていた。そして彼女の技に指笛を吹き口々に称賛したのだった。私だって小さい頃からバレエ、ブレイキンに至るまで一通りのダンスは通ってきている。その場所で私はいつも一番だった。だから彼女に負けないダンスができる自信はある。私の基盤のしっかりしたダンスに対して、彼女のダンスはストリートで育まれたダンスだ。

 亜弓は共用の一ガロン容器の水に直接口を付けて飲んで置くと、次々に仲間たちと短いクラップのハンドシェイクを交わしていった。私が踊っているところなんて見やしない。結局教育を受けてない人間たちには本物を見抜く目がないのだ。

 亜弓はサイのところまで来ると息をついて「今夜やるんでしょ?」と問う。彼は「まあ、売られた喧嘩はな」とビール瓶をあおった。ビビリの蓮が「待って、外でやるって? イカれてる! 絶対ヤバいことになるよ!」と両の手を広げて否定の意思を示したが、いささか筋肉質で太い腕を蓮は恥じるように急いで長袖で隠した。心は女であることを、怯えながらも離すまいと生きているのだ。ルナの使用が違法であるから外でやるのはリスクが高い。高さに関しても天井がないから落下の危険性もある。蓮の気持ちもわかるが、外だからこそ魅せられるダンスがあるとも思う。

 私は亜弓の瞳を追う。ムーンスクリューに集まるのはセクシャルマイノリティーや、雑多な人種で悩んでいる人たちだ、彼女はここでXジェンダーとしての自己を如何に受け入れ、あんな風に自由さを持って生きられたのだろうか。いや、ただ人に無関心で性格が悪いだけだ。

「よし、お前たち、そろそろ出発だ」サイは皆を鼓舞する。きっと今夜は私の舞台になる。


 新大久保から歌舞伎町へ向かう途中の路地でヴァルナとセイントPの二つのチームは合流した。彼らのダンスを見逃すまいと訪れた、ダンサーやファンたちも合わせればゆうに五十人は超えている。サイは相手のリーダーとハンドシェイクをした。

 ルナ一個の効果範囲はおよそ直径十メートル弱、それを取り囲むサイファーの多くはクィアと雑多な人種で構成されている。喧騒の中バトルは開始され互いのチームのメンバーが交互に技を競い合っていた。蓮のダンスに対抗する相手チームのダンサーはトリックをキメてビル看板を蹴り着地をすると、「NOOPEノンオペ野郎」と蓮を煽った。蓮は怯えたような素振りをするがサイは黙っていない。

「ふざけんな、NOOPEだからなんだ! こんな世の中だからこそのムーンスクリューなんだよ! 人種もジェンダーも肯定する場だ!」

「関係ないね。ダンスが上手いやつが正義だろ」

 手を大きく回して観衆に煽りをかける相手に亜弓はニヤリと笑ってエントリーした。練度の高い地上技、上昇技、空中回転技、着地をこなす。相手のダンサーは完全に食われた。気にいらないけど蓮をバカにした奴らにやり返せたのは気分がいい。サイファーの歓声が上がった。やはり亜弓の人気は高い、でも彼女にできて私にできないはずはない。

 私は相手のダンサーに続いてエントリーした。亜弓にできる技、亜弓のテクニックは彼女だけのものではない。最初のステップに入る。

「なあ、あいつ、なんで自分のチームのダンスをバイトしてパクってるんだ?」

 なんとでも言え、これは私が彼女を超える舞台だ。上昇技、上手くいった。空中回転技、彼女はもっと速い、もっと速く、より速く。回転の中で見える人々の視線が私に注がれているのがわかる。なんて言っているのだろう、自分たちの目の悪さに後悔しているだろうか。新しい才能の発見に心躍っているだろうか。本当に基礎から培われたダンスってものを見せてやる。

「おい! 圏外に出るぞ!」誰かが叫んだ。

「えっ?」気がついたときにはもう遅い、私は自分のダンスに酔って上昇を続けた結果、効果範囲外に出てしまった。私を空へと押し上げる自由の力は効力を失い、十メートル弱の上空から落下が始まる。どうすることもできない状況下で頭の回転ばかりが加速していき、時間が酷くゆっくり流れていく。私は、自由になれるんじゃなかったの? この高さから落ちたらどうなる? 頭が割れる? 落下速度が加速していく。終わりの時間が近づく。

「亜弓」と私の唇からこぼれた。こんなときにどうしてそんな名前が出る? 嫌な感じだ。下を見る、彼女の姿は見えない。いっつもそう、彼女は自分のことにしか興味がない。最後まであの人は変わらない。

 私が目を閉じた次の瞬間、衝撃が身体を揺らして私は再び重力から開放された。空中で私は亜弓の腕の中に抱かれていた。

「これだから目が離せないよね、珠名は」

 亜弓のグレーの瞳が私の顔を真っ直ぐに射抜く。まさかあの位置から効果範囲に押し込むなんて。無謀すぎる!

「あは、こんなに近いと、恥ずいね」亜弓は囁く。

 私は耳の先まで熱くなっていることを感じていた。胸が甘く、窮屈で苦しい。亜弓は両手を開放して私を空中へ放り出した。不安の目で彼女を見るといつも通りの自信たっぷりの微笑みが返ってくる。

 すぐさま亜弓は鋭い回転技を繰り出す。ああ、彼女はただの上手いダンサーなんかじゃない、天才なんだ。でも何故だか前ほど彼女を遠くに感じない、今隣で一緒に踊るように促している。私はとっておきのトリックをする。ストリート育ちではない私の、それでも乱暴で、自由を渇望した踊りだ。空中で視線が交差する。思えば私はずっと亜弓を目で追っていた。私が梟ならさしずめ彼女は全てを食い破る鮫だ。

「自由を感じる?」

 踊りが交差するとき、鮫は梟に囁く。梟は大きく羽ばたいて縦横無尽に飛び回った。やがて二匹は地上に降り立ち、梟は駆け足で鮫に近寄ると、その獰猛な口に嘴を重ねるのだ。

「ワオ」サイが口笛を吹いた。それに合わせて歓声が上がった。

「凄く息の合ったダンスだ」

「珠名ってやつのキレも半端ないな」

 もう観客の声は聴こえていなかった。甘いコーラの味のする唇を包み込んでいた嘴がハッと離れる。自分のしたことに驚いて、全身が熱を帯びて彼女の顔を正視できなくなってしまった。しかし亜弓は優しく微笑み「目を逸らさなくていいよ」と言った。

その時「警察だ!」と誰かが叫んだ。

 声が夜のアスファルトに反響するよりも速くサイファーは崩れ、人々は散り散りに走ってゆく。私はまだ呆けていた。亜弓が私の腕を強く引いた。「どこへ?」ネオンの光に照らされた亜弓の目が微笑む。

「サリィ婆の街へ!」

 月は煌々と高く、今日も人間の喧騒を笑っている。その下では誰もが裸で良いのだ。

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