年末の葬式(3)
もし、ばあさんが患わなかったとしたら、いまごろ、志帆の声を聞くことができたのだろう。信広はやりきれない気持ちになった。
――と思ったら、悲鳴のような声が突然響き渡った。信広の身体は、ビクッと反応した。「おっと」という康志の呟き、というよりこちらに聞こえさせようというような、短い間投詞が耳に届いた。
映画かなにかを見ているのだろうか。あれは悲鳴だったのだろうか。悲鳴というより――と、そんな一事があったあと、重苦しいけれどはっきりと聞こえる足音が近づいてきた。
「じいさん、どうしたんや?」
「あかん、康志はお酒飲んどらんやろ。病院に連れてってくれんか」
息苦しいのか、鈍くかすれた声をしている。
「ばあさんが悪くなったんか?」
「違う!」
うっすらと開いていた両眼が、パチンと弾けて、信広は上体を起こした。
「わしが、おかしいんや。胸に手を当ててると、止まってるときがあるんや。熱もはかったらな、いつもより高くて、死ぬんじゃないか、なあ、わしは死ぬんじゃ」
「熱は、どれくらいあるんや?」
「九分、三十六度、九分。いつもは、六度五分くらいやのに……」
「平熱やんか。そんなときもあるって。心臓の方だって、気のせいやって。眠る前に薬を飲んだんか? 医者も言っとるんやろ、飲めって――」
「ええわ、もう。どうなっても、しらん」
うらめしそうに、ゆっくりと、ドアが閉まっていった。
「ちゃんと閉めてけや……」
康志は、舌打ちをひとつした。そして、叩くようにドアを閉めきった。
「こんなんで、車を出せるわけがないやろに」
もう、映画かなにかを観る気も失せたらしい。欄間の向こうは真っ暗になり、ふとんをかぶる音が聞こえてきた。
すると今度は、玄関の方から、階段を踏む音がして、居間の
「どうしたの?」と、眠くてたまらない調子で、香織は
康志は電気スタンドを
「じいさんが、病院に連れてけって言ってきたんや。もう、降りてこんくてもいいから。あっちで、信広くんが寝てるんやし。勝手にタクシーを呼んで、病院に行くなんてこともないやろ」
と、冷たく言い放った。香織は
「あなたも、寝てください。明日も、雪かきをしないといけないんですから」
と、声をかけて、「寒い」と呟いた。
「そういえば、向かいのサブさん、最近見かけんけど、どうしたんやろ」
香織がもう、自分のふとんにもぐりこみたいと分かっているのに、康志はあえてそうした話題を振った。目をつむり、くの字に身体を折りながら。
「サブさん、ちょっと悪いみたいよ。この前、ナオさんに謝られたわ。うちの前まで雪かきしてもらってしまって……って」
「そうか、それくらい酷くなってしもうたんか」
「缶ビールまで持ってきてくれて」
「気い遣わんでもええのに。子供が帰ってこんのやから」
電気が消えてしまうと、香織は襖を閉めた。階段の前で、大きなため息をひとつついた。居間と仏間と、どちらにも聞こえるように。
× × ×
信広は吹雪のなか、ジャンパーを着こんで、スコップを雪のなかに刺しては、手押し車に積んでいった。それを用水路の方へと押していき、車輪の跡をたどるように手押し車を引いて、康志が戻ってくる。
国道まで抜けるこの道を、車が通れるようにしなければならない。その使命感が村人たちを突き動かし、
昼ごろになり、ようやく雪の勢いが収まってきた。「お疲れさん」と言い合いながら、みな、それぞれの家に引き返していった。
「良枝さんの具合はどうなんですか?」
「悪くもなく、良くもなく。まだ寝とるよ」
康志は玄関で雪を払いながら、そう淡々と答えて、長靴のなかですっかりと濡れきった靴下を履きかえると、信広を置いて居間へと入っていった。
「お疲れ様。信広くんは?」
「いま、着がえとる」
康志は、大きなくしゃみをして、「信広くんがいてくれて助かるわあ」と、玄関にまで聞こえるくらいに大袈裟に、その実反対の感情を含めたように感嘆してみせた。
× × ×
夜明け前――疲れているということを、身体の節々のしびれと、背中全体の重さから、信広は実感した。右手で額をおさえると、青ざめたような冷たさと寂しさのなかに、焚火の残りのような熱が、掌の真ん中あたりに感じられた。
信広は、二度寝をしようと目を
そしてそれは、愉快な妄想へと転化し、信広は、思わず微笑してしまった。眠っていく前のまだうっすらとした意識のなかで、言いようもない喜びを感じたのだ。
記憶のなかの志帆の声を、暗やみのなかの静寂から守るために、頭の中で彼女との蜜月を妄想し、そこに実際の体験を混交させながら――くの字に身体を折ってふとんに顔の半分までを
あの日見た微笑みと優しい言葉を
しかし、こうした愉快な妄想は、ときには迷子にいたることもあった。いままで彼を苦しめたり嘲笑したり、見下したり自尊心を毀損させたりしてきた者どもが、志帆を連れ去り、彼女もまた新しい恋と愛のなかに生きることに悦びを見出す――といった、独占欲が臨界点を迎えたことにより生じた、悲劇の結末までもが、意志とは反対に想像されてしまった。
そんな妄想をしているうちに、夜はどんどん明けていき、夏に貼り替えた障子の下半分の
白雪と泥濘の間 紫鳥コウ @Smilitary
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