終章 少女と
目を覚ませば、妙に頭がぼんやりしている。
まるで、夢の中に、大事なものを丸ごと置いてきてしまったかのよう。
それは事実で、自分の名前が分からなかった。けれど少し間違ってもいた。どれか分からなかったのだ。思い出そうにもいくつもの名前が浮かんでは消え、どれが誰のものなのか分からない。俺、僕、私、自分。さて、ワタシはどれだろう。
こういう経験は、何度かあった、と思い出したのでさほど取り乱さなかった。
起き上がろうとして、身体に力が入らない。否、そもそも力を入れるべき身体がどこにあるのか分からない。手も足も何もかも、頭だけを残して消えてしまったような。――否。既に頭さえ無いかもしれない。目の前の景色は白くぼんやりと朧気で、天なのか地なのかも分からない。あるいはどちらもなのだろうか、と。
そんな自分を、覗き込む、誰かが居た。
青髪の女性。
どこか寂し気な笑顔。
ああ、でも、良かった。
彼女のことは、はっきり覚えている。
彼女は、いつものように言う。
「おかえり、向日葵」
「――ああ。ただいま。白雪」
そうして、向日葵は目を覚ました。
白雪に抱き起こされ、向日葵はどうにか腰を据える。赤の前髪が顔にかかる。視線を下げれば、右手に握り締めた、赤いナマクラめいた短剣が、淡く紅蓮の光を灯していた。
白雪は、向日葵の顔を訝し気に覗き込み、首を傾げる。
「元顔はともかく、なんだってウィッグまで戻ったのよ」
「分からん……。女装も俺の一部だとみなされたのか?」
「『剣聖』の趣味は分からないわね……。気に入っては貰えたのかしら?」
「やめてくれよ……」
ケツに嫌な寒気を感じ向日葵は身震いする。いや、奴は俺と同じく妹キチのはずだ。こんな男モドキに興味など――そういやすげえ楽しそうに斬り合ってたな。うむ、人生の絶頂みたいなテンションで
「次会ったら必ず殺す」
「手段は一貫してるのに目的変わったわね。そもそも生きてるの?」
「
「冗談よ。ユーフィリアも居なかったもんね」
しぶといものだと、あまりにもお互い様な物言いに、二人で笑う。喉を鳴らしくっくっと、肩を震わせていれば、不意に、白雪の瞳に涙が浮いて。
思い切り、飛びかかるように、抱き締められた。
「馬鹿。馬鹿。本当に馬鹿。この女装。変態」
「痛い、痛いって白雪。あとすげえ柔らかくていい匂いがする」
「不正解。次で殺す」
「――待っててくれて、ありがとう。ゴメン、心配かけた」
「分かってるんだから始めから言いなさいよ」
無茶を言う。真面目な空気はふざけて壊したくなる欲望に忠実に生きている。お互いに何かと重たい身の上なので、なるべく身軽に生きたいのだ。
今、向日葵の腕の中にあるのは、絶対に手放してはならない重荷だった。
白雪の両手がわしゃわしゃと髪を掻き混ぜる。傷だらけの手の平が背中を、顔をもみくちゃにする。右手首の抉り傷が頬を撫でる。首筋に顔を突っ込まれ、グリグリと押し付けられる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになろうとされるがまま。汚れとも思わない。
宥めるように白雪の頭を、背中を撫でていたら首を噛まれた。結構強めに、確実に犬歯が皮膚を貫いた。向日葵の内にある剣が、空気を読まず塞ごうとするのを睨んで止める。極度の犬派が機嫌を直すまではこのままである。一生治せないかも。
そうこうしている内に、薄らぼんやりとした視界が開けてきた。
瓦礫だらけの、荒野だった。遠く続く茶色の大地。青々と広がる夏の空。降り注ぐ日の光は、ありったけの慈悲をもって、残酷に世界を照らしている。
荒野には、多くの人々の姿があった。獣人、鬼、エルフにドワーフ。皆があちこちを行き交い、瓦礫を退かし地を均し、建築物の基礎を築いていく。
それらに指示を出していく、橙色の髪をした幼女が、こちらに気付き手を振った。その隣では灰髪のハーフリングの少年が、黄色い有翼種の少女と忙しく駆け回っている。
背後を見れば、十基の大型結晶が、五基二列の並びで置かれていた。固定の途中なのだろうか、即席の足場が組まれて寄り添っており。
「何か、言うことはありませんか」
むすっと、白銀の髪に碧眼の少女が、頬を膨らませ腰かけて、見下ろしていた。
向日葵はしばし呆けたように、少女を見つめて。
「犬耳どうした?」
「不正解! 次で殺します、あと犬じゃありません狼です!」
ガルルッ! と牙を剥き出して唸る白い少女、京香。こだわりの狼耳が無くなっていた。珍しく覚えていたのは、ありったけ喰らった光のお陰か、折れない剣のお陰かは分からない。向日葵の胸元で思いっきり鼻をかんだ白雪が、ズビズビと顔を上げる。
「向日葵が戻らないのは霊力の枯渇じゃないかって、助けてくれたのよ」
「あー、そういやそんな話あったな……」
「助けてませんよ! 私の手でぶっ殺すために協力したんです!」
「なあなあ白雪。めちゃくちゃ言われてるけどアレ何? ツンデレ?」
「好感度上がったらツン出たからデレツンよ。一般ウケはしないわね」
「誰がデレツンですか!? デレてもツンてもいませんよ!」
「俺は結構好きだなあ」
「私も好きだけどねえ」
「話を逸らさないでください!」
不安定な足場の上で腕を振り上げぎゃあぎゃあと、騒ぐデレツン元わんこは天然まで入っているらしい。腹黒まで加わればますます一般ウケしねえなと、
「ありがとう、助かった。落ち着いたら、また話そうぜ」
「ホント、分かってて外しますよねあなた。いいですよ。邪魔してくれたのも、人の力持って行ったのも、次に全部まとめて取り立ててあげます」
フン、と鼻を鳴らし、踵を返した一歩の置き場が無かった。あああー、と情けない声を上げて頭から地面に着地する。耳が無くなってもバケモノだ。多分大丈夫だろうと、気にしないことに決めれば、急に近づいてきた足音に胸倉を掴み上げられた。
呆けた顔に頭突きが叩き込まれる。額が割れて脳が揺れる。
鈍い痛みに薄目を開ければ、深紅の瞳が向日葵を睨みつけていた。
「余計なことしてくれやがって、このクソ野郎が」
猫耳の消えた黒鉄の髪に紅目の少女、弥生が歯を剥き出す。向日葵は恐る恐る、胸元の左手を掴んで両足を地に立てるが、特に振り払われるようなことはなかった。さて、どうするべきか。テヘペロしたら確実に頬を砕かれそうだと思案すれば、
「……でも、京香を救ってくれて、ありがとう。礼は、必ずする」
パッと手を放して、京香の下へと歩いていく。どうにもポンコツ化が進んでいるような姉に、仕方ないと手を貸して、顔の汚れなど拭う妹。二人の姿は、ただ仲の良い、どこにでもいるような、普通の姉妹のように見えた。
「アレは、ツンデレなのかね」
「正統派か、あるいはクーデレかしらね」
「ツンギレの方かもしれんな……。身体持つかね」
「本気で怒らせなければ大丈夫よ。私と同じで」
自分で言うかよ、と向日葵は苦笑し、改めて、周囲を見る。荒野となった神域、旧工房の跡地に、新たな営みを作り上げようとする人々の姿を。
「崩天霊災の原因究明がてら、魔導科学の基盤を作るんだって」
「更地の再利用には都合良いか。転んでもただじゃ起きないなあウチの姉は」
「そうね。でも」
白雪は振り返り、遠く海の向こう、その先に広がる世界を見つめる。
「第二次崩天霊災は阻止された。それでも、戦争は止まらないわ」
共和国の英雄、京香と弥生が、ついでの事とはいえ世界へ打ち込んだ楔。アメノミハシラは圧し折られた。戦端は既に開かれている。
人命資本魔術主義。
連盟共産英雄主義。
魔導科学民主主義。
世界は選択を迫られる。戦わなければ歩み寄れないことばかりだと、誰もがもう、嫌というほどに思い知っている。誰もが、かつてあった理想と、今掲げる理想に囚われて。
「それでも、叶えるの?」
白雪は、向日葵を見上げる。
「何度も言うけどね。私はどうだっていいのよ。こんな世界がどうなろうが、誰が不幸で居ようが。向日葵さえ、幸せでいてくれればいい」
それでも。
「ああ。俺は『誰もが幸せでいられる世界』を作る」
向日葵は、笑った。
どこまでも清々しい、屈託のない、笑顔で。
「俺は救われたからな」
一度、鼻をすすって目を眇める白雪に、苦笑する。
それに、と。
「叶わなければ、やっぱ、こんな願いは捨ててよかったって、思えるだろ?」
どこまでも、白雪を救うためだけに。
「こんな、叶っても叶わなくても勝ち確の願い、捨ててたまるかよ」
「ふざけんな、馬鹿」
軽いデコピンを受けて、顔を仰け反らせる。
額をさすって頭を戻せば、白雪は座った目で胸元のWODに触れ。
「なら、今殺すわ。アンタがせめて幸せな内に、殺してやる」
「うおう待て待て白雪、ガチ全起動するな! あとそれは俺の持ちネタだ!」
「霊術起――」
「『誓願』まで使う気かよマジちょっと待て! 不正解! 不正解でした今の!」
持ちネタだのなんだの、酷いポンコツ二人は息を荒げながら向き合う。
向日葵は頭を掻きつつ、やや顔を赤らめ、近くに人がいないことを確認してから。
「もし、俺に叶えられなかったとしても。
俺が救えた中に、いつか、叶えてくれる誰かが居るかもしれないだろ」
そんなことを。
ルーカスや、アマリリス。
京香や、弥生を見ながら。
白雪は――音を立てながら息を吸い、特大の、盛大な溜め息を吐く。
俯き、肩を落とし、腰まで曲げて、長く長く、ありったけの諦めをぶちまけて。
「分かった。そういうことなら、ついていってあげる」
仕方がない、と。本当に仕方がないと、寂しい笑顔は。
けれど、どこか満足そうな、喜びを滲ませて。
そうだ。二人は描き続ける。
決して叶わない理想を、共に。
永遠の願いを抱いて、遥か彼方まで。
「一緒に来てくれるか。白雪」
「嫌って言われても、一緒に居るわ。向日葵」
二つの花は、咲き続ける。
―終―
――――――――――
【AIイラスト】
・少女と
https://kakuyomu.jp/users/hisekirei/news/16817330659605655900
遥か彼方、永遠の願いへ捧ぐ花 ヒセキレイ @hisekirei
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