それから、流れるようにして通り過ぎて行った二年という歳月のことを、なんと著そう。

 雄は義務教育を満了して間も無く、紀明の知人が経営する更生保護施設に就職した。業務内容は——書類の作成、備品の補充などといった細々としたものがほとんどだったが、雄はそれとなくやり甲斐を感じていた。

 高校進学はしなかった。紀明が「俺に遠慮することなんてないんだからな——こう見えても、おっちゃん、お前を大学に行かせてやれるくらいの貯金はあるんだから」と言ってくれたが、元より、生活費などで負担をかけてしまっているのだ——これ以上、迷惑をかける気には、とても、なれなかった。

「雄くん、今からお仕事?」

 カーペットの上に敷いた布団から、円が顔を覗かせる。就職祝いに、紀明に買ってもらった、依然として肌に馴染まないジャケットを羽織りながら頷くと、布団を被ったまま彼女は「そっかぁ」と短い相槌を打った。

「日曜日なのに、大変だねぇ」

 そのあまりののんびりとした口調に、気が抜ける。円は、雄が中学を卒業した後も、依然として雄のそばにいた。週に何度か、雄の家を訪れては——学校での出来事や、家族の愚痴などを語って聞かせることが、彼女の習慣になっていることは明白で、そのルーティンが崩れることは、滅多になかった。——今やこうして、彼女が雄の家に泊まることは、決して珍しいことではない。紀明が円のことを気に入ってくれて、本当に良かったと、雄は思う。

「——じゃあ私、夕飯作って、雄くんのこと、待ってるね」

 おう、と返事をしたのち、自室を後にする。階段を下り、玄関マットを両足で踏むと「いってきます」と、誰に宛てるでもなく口にする。廊下に蔓延した、静まり返った空気からして、紀明はまだ眠っているのだろう。音を響かせないよう心かけながら、引き戸を開き、外へ出る。

 夜が開けきっていないというのもあるのだろう——雄の頬を撫でる空気はひどく冷たい。雄は、庭に停車したバイクのエンジンをかけると、塀の向こう側に広がる海を一瞥した。登りかけの太陽の光を反射して、水面が輝いている。その煌めきがどうにも煩わしく、雄は目を伏せると——バイクに跨り、ハンドルを回した。


 ※


「袴田くん」

 雄が、年上の同僚から、そのように呼びかけられたのは、時計の短針が、二の上を通り過ぎて、暫く経った頃のことだった。右手にホチキスを、左手に書類をそれぞれ握ったまま顔を上げた雄に、彼は「お客さん、来てるよ」と続け、“受付”という紙の貼り付けられたカウンターを、顎で指した。

 腰ほどの高さしかない、その台の向こう側では、栗毛の特徴的な壮年の女性が、身を縮こませて立っている。その卑屈そうな輪郭に、雄はあのようにして立つ癖のある知人を何人か思い浮かべてみるも——記憶の中の面影と、視界の隅の実像とが完全に合致することはなく、雄は静かに首を捻る。

「ありがとうございます」

 同僚に礼を言い、立ち上がると、きょろきょろと忙しなく——あちこちへ視線を向けている女性へ、カウンター越しに声をかける。パーマのかけられた栗毛が——恐らくはあまり手入れされていないのだろうそれに塗された香水の匂いが、雄の鼻腔をくすぐった。

「あの、何か御用ですか——」

 眉を顰めた雄を、女性は落ち窪んだ目で見上げた。ひび割れた唇が「あなたが——雄くん?」と問いかけてきたので、雄は首を縦に振ることでそれに応じた。

「えぇ——袴田と申します」

 それで、一体全体何の御用ですか、と続けようとして——雄はぎょっとする。見ると、女性の落ち窪んだ目には、涙がいっぱいに溜まっており——雄がそれを認識し、どうしたのかと尋ねるより早く、彼女は動き出していた。彼女の肢体がカウンターにぶつかって、重低音を響かせる。途端、線香にも似た彼女自身の体臭と、先述の香水の匂いとが混じり合いながら漂ってきて、雄は小さく呻く。女性は、雄の首に自らの腕を絡め、雄に抱きつくと、彼の胸に、顔を埋めた。

「ちょっ——ちょっと、なんなんですか、あんた——」

 雄は身を捩る。仮に彼女が、自らの悪質なストーカーで、気が狂っているのだとしても、あるいは何かしらかの勘違いをしているだけの、善良な一市民なのだとしても、この場で彼女に怪我をさせるわけにはいかない。そんな雄の憂慮を見抜いているかのように、彼の体にしがみつく力を一層強めて、女性は答えた。

「私だよ、私——あんたの母親——」

 舌先で繰り返して、雄は彼女を見る。——塗りたくられたルージュのために、その唇は、下品にてかてかと光っていた。



 ——ガラスコップの中に積み立てられた氷が、からん、と音を立てて鳴いた。ファミリーレストランの過敏なまでの空調は、つい数分前まで、経費削減のためと言ってはエアコンの電源を切りたがる事務長のそばで仕事に勤しんでいた雄の体を、不健康なほどに冷やしていく。

「あんたはなんか頼まないの? これとか、なかなか美味しいわよ」

 女は、スプーンの先端でオムライスを突く。あと三時間ほどで仕事が終わるから、事務所の近くのファミレスで、どうかそれまで待っていてほしいと——女に一万円札を握らせたのが、ちょうど今から三時間前。その場に居合わせた同僚や、上司たちの——気遣うような視線が心地悪く、普段より早く仕事を切り上げた雄を出迎えたのが、こんな太々しい科白だと知ったなら——あの事務長は果たして、どんな顔をするだろう。

「いい——腹、減ってないし——」

 もつれる舌で返事をすると、女はふぅんと鼻を鳴らし、またスプーンを口へ運んだ。店内に反響する、流行りのJ-popの、甲高いボーカルの声でさえ誤魔化せないほどに、はっきりとした輪郭の咀嚼音に、雄はうんざりとした息を吐く。

「それで、どうやって俺のこと——」

 雄はコップの表層に映る自分の顔を——不自然なほどに引き攣り、強張っているそれを見た。自分に産みの母親がいることは勿論知覚していたが、このようにして、膝を突き合わせる日が来るとは、夢にも思ってはいなかった。

 口の中に残る米の塊に気を払う様子を微塵も見せずに、女は「ネットよ、ネット」と手を仰ぐ。

「だとしても——なんで今更」

 くぐもった雄の言葉に、女が、その台詞を待っていたと言わんばかりに目を輝かせる。女がテーブル越しに距離を詰めてきたので——雄は咄嗟に身を引いた。

「ねぇ、雄——私と、隣町で、一緒に暮らさない?」

 は、と声が漏れる。女が、雄の肩越しに眴すると、それまで、雄の背後の席に座っていた——そして、雄と女との遣り取りに、黙って耳を傾けていたのだろう——ひとりの客が立ち上がる。女はなんてことないような顔で、自らの隣の椅子を引いた。ケチャップによって、赤みの強調された唇が「紹介するわね」と動く。

「こちら、宮田さん」

 宮田と呼ばれた男は、わざとらしいほどに控えめな調子で「どうも」と挨拶し、目を伏せる。宮田が膝の上で丸めていた手を、女は半ば無理やりに卓上へ引き摺り出すと、それに指を絡め「あたしたち、同棲してるの」とどこか誇らしげに言い放った。

 はぁ、と、情けのない返事をする。宮田の照れたような、卑屈なニヤニヤ笑いが腹立たしいが、雄の苛立ちに彼らが気付くことはない。

「宮田さん、とってもいい人なのよ——あたしのこと、受け入れてくれて——」

女の語調には、艶々とした恍惚が滲んでいる。夢見る生娘のようなその目線が気味悪く、雄は目を逸らす。

「だから——きっと大丈夫だと思うのよ」

 何がだよ、と毒づきたいのをぐっと堪えて「少し考えさせて」と言い捨た。立ち上がり、その場を後にしようとした雄を、女が呼び止める。それにね。

「あたしのお腹の中には——宮田さんの赤ちゃんもいるの」

 「は?」と問い直した雄の、愕然とした表情にも気付いていないとみえる、女は相変わらずのうっとりとした表情で——目線を自らの下腹部に落とすと、そこに骨張った手を添えた。この季節にはそぐわない赤いタートルネックをはじめとした、幾枚かの層越しに、自らの子宮を撫でながら、彼女は「あんたの弟よ」と言葉を続けた。

「この子——宮田さん、あんたと、それからあたし——家族四人で暮らせたら、とっても素敵だと思わない?」

 首を横に振る気力さえ、雄には残っていなかった。女はそれからも——彼女からしてみれば、とても麗しいものなのだろう——ひどく幼稚な家族計画を語り続けていたが、雄がその内容に感銘を受けることはなかった。



 さしたる物が入っている訳でもないのに、ずっしりと重たいリュックサックを、壁に叩きつけるようにして下す。自分で、自分が——ひどく苛立っているのがわかった。目に映る全てが腹立たしく、かといって瞼を閉ざしても、今度は遠鳴りのように聞こえる波の音や、蝉の臨終の喉鳴りが、雄の心臓の表層をいたずらにくすぐっていくばかりで——仕様がない。

「あ、雄くん、おかえりぃ」

 のんびりとした声に、雄は目を開ける。声の主人は、軽やかな足音とともに階段を下ると、雄の背中に抱き着いてくる。柔らかな体温が——普段ならば雄の胸に、暖かいものを満たしてくれるはずのそれが——今は、ひどく、煩わしかった。

「夕飯、もうできてるよ。あと、着替えたら——一緒に食べようね」

 雄の眉間によった皺に気付いていないとみえる——円は、相変わらずの、のんびりとした調子で続けた。彼女が自らの背中に顔を埋めるのを感じて、雄は頷く。

「ごめん、まどか——ちょっと、離れてくんない?」

 腰に巻きついた腕が、そろそろと離れていくのが、わかった。あたりに充満する、ささくれ立った空気を感じ取ったのだろう、円は少し間を置いてから「どうかした、?」と問いかけてきた。

「別に——ただちょっと疲れてるから、ベタベタして欲しくないだけ」

「うそ、」

 間髪置かず、返ってきた言葉に——雄は僅かに眉を潜める。円の、澄んだ色の瞳孔——この村を象徴するかの海とよく似た色のそれに雄の姿が反射していた。その歪な輪郭から目を逸らし——雄は自らの唇を噛む。

「ねぇ、雄くん、なんかあったなら、話してよ。私、馬鹿だけど——」

 円の指先が、自らの肩に触れようとしてることに気付き——咄嗟に雄は「さわんな、」と声を荒げる。折り畳まれていく白い指に罪悪感を抱くより早く、彼の口をついて出たのは「 もうたくさんだ」という言葉だった。

「なんで、そんな、俺に構うんだよ——」

 顔を覆い隠したまま、唸る雄の声は、ほとんど文章としての体裁を保っていない。獣の咆哮、地響きの残響、ワックスで固めた髪の表層に指を埋めて、単語を手探るも、相応しいものはどこにも見当たらず、雄は自分の愚かさにますます苛立ちを募らせた。

頭皮を掻きむしりながら「お前だって」と雄は口走る。

「いつか、俺のことを捨てるくせに——」

 いずれ自分が、円にとって必要のない存在になるだろうことは、わかっていた。円は、自分とは違う——自分のような、前科者とは。声という肉体を得た劣等感が棘となり、円の胸を貫いていることは容易に察しがついたが、しかしながら、動き出した舌はさながら、陸上に打ち上げられた魚のように、のたうち回る。雄の意思さえも、置き去りにして。

「俺のこと、利用しやがって」

 そう言い終わるのと同時に、辺りがしんと静まり返った。自分の呼吸音さえ、聞こえない。不審に思って、顔を上げた雄の目に、真っ先に飛び込んできたのは——自分を見る、円の姿だった。半透明のリップグロスが夕陽を反射させて、彼女の唇を淡く色付けていた。薄い橙色に染め上げられたそれが、ゆっくりと、動く。

「違う、違うよ——雄くん——」

 円の、目——その震える虹彩に——居た堪れなくなって、雄は——荷物の入ったリュックサックさえ置き去りに、階段を駆け上がる。自分の名を呼ぶ円の声をかき消す様にして扉を閉めると、後ろ手で鍵をかけた。

 薄い戸に身体を預け、その場に屈み込む。膝に顔を埋め、嗚咽を漏らした。円の、怯えきった瞳が脳裏に蘇る。そのこころを踏み躙っておきながら、一丁前に傷ついた顔をしている自分への嫌悪感で——ますます、息ができなくなった。

 床板を数枚挟んだ向こう側からは、いつもと変わらない生活音が響いている。紀明が、テレビの電源を消すのが、その気配の移り変わりからわかった。

 紀明が、就職祝いに買ってくれたパイプベットの上には、円のものだろう、革製の通学鞄が投げ出されている。その口から覗く、キャラクターものの——幼稚なデザインのペンケースを視認したのち、雄は、立ち上がった。

 背を丸め、周囲の様子を窺いながら——雄はやけに幅の広い階段を、一段一段踏みしめていく。今のところ、円の姿はどこにも見受けられない。雄のあまりの狼藉ぶりに呆れ返り、家に帰ってしまったのだろうかと、玄関先に意識を向けるも、几帳面に揃えられたローファーは、相変わらず、所在なさげな様子で、男物の靴の間に挟まれている。

 なるだけ足音を立てないよう心がけながら、廊下を進む。一歩、足を前に突き出すたびに——それまでも、どこからともなく聞こえてきていた——しかしながら、彼らと雄との間に、あまりにも障壁が多すぎるがために、くぐもっていた話し声が——次第に明確さを帯びていくのがわかった。

「ごめんな、円ちゃん」

 耳に慣れた、しゃがれ声。そうだ、と——茶の間に引き戸へ伸ばした手を宙に漂わせたままで、雄は思う。——雄が児童養護施設で暮らしていた頃から、そうだった。紀明は——本来ならば子供の絶対的な味方であるはずの、親という存在を持たない雄を、彼らに代わって庇護し、雄が誰かとトラブルを起こしたときには、仲裁に奔走してくれた。

「あいつも、悪気があって、円ちゃんにきつく当たったんじゃないと思うんだ」

しかしながら、そうまでして——紀明が雄を守ろうとする理由を、雄は知らなかった。思い当たる節があるとすれば、紀明が、孤児院の前に置き去られた、赤ん坊の雄を、誰より早く見つけ、保護した巡査部長、その人であるということ、それくらいのものだが——だからといって——。

 紀明に語りかけられた円は、鼻を啜り上げると、甲高い声で「わかってます」と答えた。その、いつになく寂しげな響きに、雄は自らの気道が締め付けられていくのを感じる。

「でも、やっぱり、悲しい」

 円が、捨てられた子犬のような、悲しげな瞳のまま微笑むその姿が——目に浮かぶようだった。

 呼吸の乱れを整えるためだろう、深く息を吐くと、円は「どうして、信じてくれないんだろう」と呟いた。ゆっくりと、しかしながら着実に縮こまっていく、自らの指先を、どこか釈然としない気分のまま、雄は見つめている。

「俺のせいだよ」

 そう、紀明が言ったので——雄はハッとして顔を上げる。紀明は——扉越しでも聞き取れるほどに喉を鳴らすと、つい数秒前に、吐き捨てるようにして呟いた台詞を、繰り返した。

「ぜんぶ——俺のせいだ」

 ——警官二人に腕を引かれ、パトカーに乗り込もうとする雄のことを、誰かが呼び止める、その声を、今でも雄は覚えていた。面白半分に集まってきた群衆をかき分けるようにして、雄の元に駆け寄ってこようとする、一人の男の姿も、また。立ち入り禁止の黄色いテープを振り切って、彼は雄の名前を呼ぶ。その場に居合わせた警察官にどれだけ制止されても——地面に押さえつけられてもなお、男は叫ぶことをやめなかった。雄は、彼の短く切り込まれた髪に、おっちゃん、と口走った。続けて唱えた「——今更、何しにきたんだよ」という呪詛が、彼の耳に届いたのかどうかは、定かではない。——それは、その頃の雄が、紀明に対して感じていたことの全てだった。何度訴えても、“ひまわり園”での虐待を、あそこで起こっていた悍ましいことの一切を、信じてくれなかったくせに。紀明から顔を背けると、雄は体を屈め、黒いシートに腰を下ろした。


 堪らなくなって、雄は扉を開ける。ごめん、と口にしようとしてはじめて彼は——自らの頬を伝うものに気づいた。掌で、頬を拭う。指先に追い縋ってくる、半透明なものを視認してはじめて雄は——自らが、いつの間にやら——泣いていたことを自覚する。途端、堰を切ったように涙が溢れ出してきて——気付けば雄は嗚咽していた。

「——どうしたんだよ、お前——」

 紀明が立ち上がり、慌てふためいた様子で、うまく息を吐けずにいる雄の背を摩る。

 自分を、これほどまでに強く思ってくれる人間がいること——自らの目が曇っていたがために、気付くことができなかった——ひかりに、胸を刺されたようだった。

「おっちゃん——まどか——ごめん——ありがとう」

 霞む視界を、無理矢理にこじ開けて——雄は円へと意識を向ける。ふと、円が、彼女自身の胸に押し付けるようにして、抱えているものが目に止まった。彼女が息を吐き、その胸を上下させるたび、かの小箱を覆う、藍色の光沢が——蛍光灯の光を反射して、鈍く光った。

「まどか、それ——」

指を差した雄に、円は「これ?」と聞き返して——それまで手の中で温めていたものに視線を落とす。それは——すっかり歪み、塗装も所々剥がれかけてこそいたが——煙草の箱のように見えた。その表層に印字された、メビウス10mgの表記に、雄ははっと息を呑む。

 泣き腫らした痕の残る目を細めて、円は笑った。

「——愛、だよ」



 ポケットの中で、くしゃくしゃになったメモを取り出す——その表面を這うミミズ文字が示したいのであろう番号と、橙色の液晶に表示された数字の羅列が、一致していることを再三に確かめたあと、雄は発信ボタンを押した。

 頭上で蠅が飛んでいる。コンビニの照明——まだ夜も明け切っていないこの場においては、唯一の灯りとも言えるそれに吸い寄せられたのだろう彼らは、店外に設置された蛍光灯に頭をぶつけては、コツ、コツと耳障りな音を鳴らしている。

 数秒の発信音の後、「……はい」という怪訝そうな声が、受話器から聞こえてくる。雄は、薄いガラスを挟んだ向こう側で——雑誌を立ち読みしている、作業着の男に意識を払ったまま「俺だけど」と答えた。

「——あれから、色々考えてみたんだけどさ。やっぱ、一緒には暮らせないよ」

「母さんと——あの宮田さんとか言う人が、どうってことじゃなくて」

 一通り、雑誌の内容に目を通しきったのだろう——作業着の男が店から出てきた。開いた自動ドアからまるで波のようにして押し寄せてくる、冷たい空気に——雄はTシャツの袖から覗く、日焼けした腕をさする。

「俺——自分の、今いる場所が、好きなんだ」

 女が何かを言いたそうにしていることは——受話器越しでもはっきりとわかる、ささくれ立った気配から察していたが「そういうことだから、じゃあ」と一方的に言って、雄は電話を切った。

 緑色の受話器を置くと、踵を返し、雄は静まり返った街を一瞥する。地平線の向こうから、朝日が半分だけ顔を出していた。このような田舎町には到底そぐわない、近代的な佇まいのビルディング。いつかの台風により、瓦の何枚かが剥がれ落ちた瓦屋根と、ムラの目立つ漆喰の壁。そのいずれも、柔らかい色の朝陽に照らされ、輝いている。

自宅へと続く道を歩き出して、雄は——目の前に広がる海へ、意識を向ける。その水面を走る光の粒が、いつになく美しく見えた。

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