十七歳の地図

天使 幸

 潮風に乗せられた煙草の灰が、目の中に飛び込んできて——袴田雄は「いて、」と声を洩らす。咄嗟に、眼球の表面を指で撫でるも——痛みはなかなか消えない。落下防止のフェンスの向こう側に広がる海が——瞼の裏に入り込んだ灰のためだろう、いつにも増して淀んで見えた。

 ぼんやりと恢復した視界に、真っ先に飛び込んできたものが——市役所の横に据えられた、「我妻村へようこそ! 日本の原風景が残る場所」という看板だったので、雄はうんざりとして息を吐く。物は言いようだな、と毒づいて——雄は指に張り付いたもの——涙と混じり合って、湿り気を帯びた灰を見つめる。

 彼は、この村が嫌いだった。ひとつ、いいところがあるとしたら——それは、中学校の屋上から、村全体が一望できることくらいだろう。雄はフェンスに身をもたれさせると——煙を肺いっぱいに吸い込み、児童養護施設の檸檬色の壁に目を向ける。  施設の園庭では、まだ年端も行かない子供たちが——弾んだ声を上げ、駆け回っている。それを見ているうちに——自然と、雄の表情も緩んでいた。彼らがどのような事情で、そこで暮らしているのか、彼には皆目見当がつかなかったが——真冬の、雪が降り頻る中、施設の玄関に置き去りにされたのは、きっと自分だけだろうと確信できる。

 ねっとりとした風が、伸びかけの前髪にまとわりついて——雄はそれを振り払おうと、頭を大きく左右に振った。金色に染め上げられた髪が太陽の光を反射して、キラキラと輝く。その輝きがこれまた鬱陶しく——雄は重苦しい息を吐いた。

 まだ15歳になったばかりの——つまりは、義務教育を満了してさえいない雄が、髪を金色に染めていることについて、またこのように、学校の屋上で煙草を吸っていることについて、苦言を呈するものは、殆どいない。同級生たちはもちろんのこと、教師さえも——雄の反感を買うことを——いいや、それだけではなく雄と接点を持つこと自体を恐れているようだった。いずれも、雄が二年前に起こした事件のせいだろう。  学校にいる人間が、雄と言葉を交わすことは滅多にない。はじめのうちは、何人かの、正義感の強い教師が、生徒指導として、雄の生活態度や髪色に対し苦言を呈することもあったが——やがて彼らも、雄が起こした事件のことを知ったのだろう、今では、雄を見かけても何も言わなくなってしまった。

 ——ほとんどの生徒たちは、雄を見かけると露骨に目を逸らした。逸らした先で震える瞳孔が、彼らが雄に対して抱いているのだろう恐怖心を雄弁に語っていた。  一人の馬鹿な男子生徒が——雄が起こした事件のことを口実に、食ってかかって来たときのことは、記憶に新しい。彼の鼻から垂れた血は、彼が下卑た言葉を囃し立てる際に、唇の隙間からかすかに覗かせた舌と、全く同じ色をしていた。

 雄が屋上に居直るようになったのは、それらの人間の怯え切った視線から、ヒソヒソ声から逃れるためでもあり、また同時に彼らを——彼らの想像する、袴田雄という化け物から守るためでもあった。

 つまり、屋上は雄の、唯一の居場所だったと言ってもいいだろう。そこにいる限りは、誰も雄のことを気に留めない。クラスメイトや教師たちも、かの問題児への対処に悩まされずに済む。いわゆる、利害の一致というやつだ。


「きゃあ」

 聞き慣れない悲鳴に、雄ははっと顔をあげる。ペントハウスの前で——誰かが倒れているのが見えた。セーラー服のスカートが、地面に叩きつけられた花弁にも似た様相を呈して、アスファルトの地面の上に広がっている。

 やがて聞こえてくる——痛みのために起き上がれずにいる彼女を嘲るような、忍び笑いに、雄は視線を笑い声が聞こえてきた場所——ペントハウスへと向ける。そこには——倒れ込んでいる少女と同年代だろう女たちが数人、横並びに立っていた。彼女たちのうちの一人が、口を開く。

「ごめーん、足が滑ったぁ」

 ゆっくりと、倒れ込んでいた少女が体を起こす。彼女は、肩口の辺りで切り揃えられた黒髪を風に靡かせながら振り返ると、三日月を象って、歪んだ唇を振り返った。見ると、少女の、白いセーラー服によって覆われた背中には、上履きの跡がくっきりと付いていて——雄は、彼女があのような悲鳴をあげた理由を理解する。彼が吐き捨てた、重たい息は——誰の気に留まることもなく、空気中に溶け込んでいった。

「わざとじゃないんだから許してくれるよね、ね?」

 少女は何も答えない。ただ、眦に涙を溜めて——女たちの吊り上がった口角を睨みつけている。

「こんなに謝ってるのに、許してくれないんだ? そんなんだから——皆からハブられるんだよ」

 その科白に、それまで黙っていたふたり組が同調して笑い出す。いっそ、その笑い声が——呵々という言葉のよく似合う、豪快なものだったのならば、雄もさしたる不快感を覚えなかったのかもしれないが——女たちの笑い声は依然として、卑しいという形容詞の相応しい——鼓膜の奥をくすぐるようなものであり、それがまた、雄の苛立ちを駆り立てた。

「じゃ、私たちもう行くね——あんたとこうやっていつまでも喋ってられるほど、あたし達も暇じゃないんだ」

 バイバーイという声とともに、女たちは雄の視界から姿を消した。少女は暫くの間——愕然とした様子で閉ざされた扉を見つめていたが——徐に、目の前にあるそれを、掌で弱々しく叩き始めた。少女の掌の肉と、金属戸がぶつかり合い、鈍い音をあたりに響かせる。その情景がなんとも間抜けで——思わず雄は笑い出していた。

「え、」

 少女は、大袈裟なほどの動きを伴って——今度は雄を振り返る。どうやら彼女は、今の今まで雄の存在に気付いていなかったらしい、大きく見開かれた目の中心で——青色の虹彩が揺れている。

 ——雄は吸い殻の火を、靴先で揉み消すと——少女のもとへ、歩を進めた。少女は地面に尻をついたまま、どこか不安げな表情で、雄を見上げている。海の色を写し取ったかのような、その瞳に——自分の姿が反射しているのが居心地悪く、雄はそのことをできる限り意識しないようにつとめながら、右手を差し出した。

「立てる?」

 そう問いかけて、はっととする。右手の指先が——恐らくは先程、眼球に入り込もうとした灰を拭ったためだろう——俄に煤けている。雄は咄嗟に手を引っ込めようとしたが、時すでに遅く——少女は雄の腕を掴んでいた。雄の腕を頼りに立ち上がると——彼女は小さな顎を震わせ「ごめんなさい」と呟いた。

「お見苦しいところを——」

 曖昧にかぶりを振って、雄は微笑んでみせる。慣れてるから、気にしないで——などといったことを、さながらうわごとのように口の中で唱えて、右手の人差し指と薬指とを擦り合わせる。表面に浮かんだ黒色がすり減っていないことに対し、安堵を覚えている自分がいた。

「えっと——先輩、ですよね?」

「そう、三年——お前は——二年?」

 極めて乱暴な口調だったのにも関わらず——少女は愛想良く頷くと「先月、転校してきたばっかりなんですけど」と付け足し、俯いた。つられるようにして——雄は少女の目線の先へと意識を向ける。膝頭から垂れる血の赤に「痛くないの?」——気付けば雄はそう問いかけていた。少女は一瞬、不思議そうに雄の目線の先と、雄の顔とを見比べていたが——やがて自らの負傷に気付いたのだろう、小さな声をあげた。あ。

 反射的に、雄は制服のポケットへと手を押し込む。指の気配を感じ取り擦り寄ってくる煙草の箱を押し退け、代わりに、底面でうずくまっている絆創膏を引っ張り出す。

「俺、絆創膏持ってるけど——貼ろうか?」

 雄の手に握られたそれは、ひどくよれており——絆創膏としての役割を果たせるかどうかも疑わしかったが——少なくとも、狼狽えていた少女の表情に、かすかな灯りをもたらすだけの力は持っていたらしい。雄は「じゃ、ちょっとごめんな」と声をかけたのち、屈み込み、少女の傷を覗き込んだ。

 幸い——傷口に砂利などが入っている様子はない。絆創膏からフィルムを剥がしてから、先に消毒をするべきではないだろうか、という懸念が雄の脳裏をよぎったが——頭上で、今にも泣き出しそうな顔をしている少女のことを思うと——作業を中断する訳にもいかず、すっかり粘着力の失われた絆創膏を、半ば無理やり、少女の膝に張り付けた。

「これで大丈夫、なはず——」

「ありがとうございます!」

 雄は立ち上がると、謝辞の言葉を口にする少女への反応もそこそこに——ポケットから一本の煙草を取り出し、火を点ける。

 ライターの音に触発されたようにして鳴る——授業開始を知らせる予鈴。階下から聞こえてくる椅子を引きずる音——全体主義の織りなす不協和音に、雄は密かに眉を潜めた。

 少女はというと——依然として動かず、フェンスにもたれかかり煙草を吸う雄の背中を、どこかぼんやりとした目つきで眺めている。その視線を受け流して、雄は——変わった子だな、と思う。

「いかなくていいの? 始まってるみたいだけど、授業——」

 少女は黙り込んでいる。雄はどことなく自嘲めいた口調で「まぁ、俺が言えたことじゃないか」と付け足し、再び煙草に口付けた。

「さっきの子達は——クラスメイト?」

 少女の表情に浮かんだ怯えが、より一層強くなる。それとも、と雄は続けようとしたが——少女が、先程までのおっとりとした態度からは考えられないほどの早口で「全然知らない子です」と答えたために、喉元まででかかっていたものを飲み込まざるを得なかった。

「じゃあ、なんで」

 間髪置かず雄がそう問いかけたことに——さしたる意味はなかった。強いて言うなれば、少女と自分の間でふんぞりかえる、重たい沈黙が不愉快だったからかもしれない。

 少女は——暫くの間、空気を揉みしだく自らの指先に目線を向けたり——雄の方を見上げては、何か言いたげに唇を噛んだりを繰り返していたが——やがて観念したように喉を鳴らすと、深く息を吐いた。

「あそこ、知ってますか」

 少女の声に促され——彼女が睨みつけているものへと、雄は目を向ける。セーラー服の白い袖から伸びる腕は、ガラス張りのビルディングを真っ直ぐに指差していた。

「あぁ——まあ、多少は——」

 ——我妻村の再開発のため、東京からやってきたという不動産業者が——再開発に反対する地元住民を黙らせるために、建てていった自社ビル——雄は件のビルのことを、そのように認識していた。

 苦虫を噛み潰したような表情のまま、少女は指を畳むと——また悲しげに俯いた。

「あれ、建てたの——私のお父さんなんです」

 雄の返事を待たずに、少女は語り出す。

 少女の父親が——我妻村再開発計画の主任であること。父は仕事熱心な人で、なんとしてでも再開発計画を成功させると息巻いていること。少女が我妻村に越してきたのも——村民たちを説得するためには、自らが移住するほかに方法はないと、父が考えたためであり、少女の本意ではないということ。少女と少女の母は——再開発計画に反対する村人と、その子供たちから日夜嫌がらせを受けているということ——。

 不意に、少女の眼から涙が零れる。少女は次から次に沸き上がってきては、頬を経由して、コンクリートの地面に落ちていく半透明の球体を、手の甲で懸命に拭い「ごめんなさい」と呟いた。

「て——先輩からしたら、どうでもいいですよね——私の、身の上なんて——」

 雄は、左手に握り締めた藍色の立方体に目線を落とす。メビウス10mgという、ひどく無機質な文字に寄り添うようにして綴られた「未成年の喫煙は、法律により禁止されています」という文面を、視界の端で確かに捉えたまま——小さな声で嗚咽を漏らす彼女に、箱ごと、それを差し出した。

「一本、吸ってみる? いくらか、気分が晴れるかも」

 涙を拭うのも忘れて、少女は雄を、それから、彼から手渡された箱を瞠目していたが——やがて、小さく頷くと——箱の中から一本を取り出し、物珍しそうに、太陽に掲げた。雄は、喫茶店の名前が刻印されたライターを手渡すと、不慣れな手つきで火を付ける少女を横目に——雄は彼の腰ほどの高さしかない落下防止フェンスから、静かに身を乗り出した。潮風が、音もなく雄の頬を撫でる。

 少女が——紫煙を吐き出す。雄が「どう、味は?」と問いかけると——少女は眉間に皺を寄せ、「苦いです」と答えた。少女が小さくむせるのを聞き流し、雄はもうすっかり燃え尽きてしまった煙草を、海に向かって落とした。校舎と海との間に横たわる、国道のために——それが海に届くことはない。ただ風に巻かれながら、ゆるやかに地面に落下していくのみである。

「そういえば——聞き忘れてたけど、お前、名前——なんていうの?」

「まどか、って言います——安東、円」

「まどかか。俺は——袴田雄」

「袴田先輩」

「雄でいいよ。先輩、なんてガラじゃねぇし」

「え……じゃ、じゃあ——雄くん」

 何がそんなに照れ臭いというのか——円の顔は、真っ赤に染まっている。涙に潤んだ瞳に、雄は「なんだそれ」と小さく笑いかけた。

 


 爪先同士を擦り合わせるようにして、雄は靴を脱ぎ揃えると——湿った空気の充満する玄関へ「ただいま」と呼びかけた。——返事はない。玄関から連なる廊下もまた、静まり返っている——聞こえてくるのは、茶の間に置かれた扇風機の羽が、空気を裂く音くらいのものだ。

「おっちゃん、いねーの?」

 玄関マットに片足をかけて、雄は声を張り上げる。「おっちゃん」と呼ばれた人物——東川紀明が、廊下の突き当たりにある物置から顔を覗かせたのは、それから間も無くのことだった。

「おう、雄——おかえり」

 紀明は、皺のいくつか見受けられる顔を綻ばせて笑う。短く切り込まれた髪には、埃が積っていたが——彼が、それを気にする様子は全くない。頭頂部に紛れ込んだ白いものが、窓から差し込む日光を煌びやかに反射していた。

 この家で、雄が紀明とともに暮らし始めて、間もなく半年が経つ。その半年の間、「ただいま」「おかえり」の応酬を、雄が忘れたことは一度としてなかった。もしかしたら紀明は、かのやりとりを面倒に思っていたのかもしれないが——家主の認知していないところで、その敷居を跨げるほど、雄は大胆にも、図々しくもなれなかった。

 

「何してんの? 掃除?」

 雄は——廊下に足を踏み入れると、物置部屋に引っ込んで行ってしまった紀明の背に問いかける。返ってきたのは「おう」という簡素な返事のみだ。杳とした態度で相槌を打つと、雄は二階へ続く階段へ向かう。三十段にも満たないそれを駆け上がっている最中、背後から「雄」と呼ぶ声が聞こえてきた。雄は自室へ繋がるドアのノブを握ったままで、静止し、振り返る。

「今日の夕飯はカレーだからな、楽しみにしとけよー」

 返事もろくにしないまま、自室へ駆け込む。身を投げ出すようにして、カーペットの上に横たわった。毛羽だった布地が頬を撫でる——その感触に、雄は静かに顔を顰めた。

 ひどく、くたびれていた。湿った臭いの染み付いたカーペットから身を起す体力もないほどに。階下で——金属同士のぶつかり合う甲高い音が鳴っている。天井と床板のために——その響きは酷くくぐもっていたが、それが紀明の生活音だろうことは、すぐにわかった。

 児童の養護を生業としているわけでもなければ、血縁の繋がりがあるわけでもない相手と暮らすのは、なんだかすごく変な感じがした。全くの他人と、一つ屋根の下で生活することには慣れきっていたはずなのにも関わらず。

 雄は寝返りを打つ。ふと、壁の柱が——ひいてはそこに刻まれたいくつかの傷が、目に留まった。傷と隣り合うようにして彫られた「ノリアキ 七歳」の文字に、雄は生唾を飲み込む。もし紀明が「夕飯できたぞー」と雄に起き上がることを促さなければ、雄は、柱とそこに彫られたものを見つめて、何十分もそのままでいただろう。

 階段を降り、廊下を進む。台所と廊下を区切るビーズ暖簾を掻い潜った先には、紀明がいて——上機嫌な様子で、カレーを皿に取り分けていた。雄の存在に気づくと、紀明はカウンターの上に置かれた、二枚の皿のうちの一方を、顎で指す。

「それ、お前の分」

 あんがと、と返事をして、雄は示された皿を手に取った。茶の間へ向かい、その中心に据えられた卓袱台の傍に腰を下ろす。カレーライスからは白い湯気が立ち込めていて——その向こうに広がる風景の解像度を、著しく低下させていた。

「さ、食うぞ食うぞー」

 銀製の匙を二本、しっかりと握りしめて、紀明は雄の向かい側に座る。そのうちの一本を受け取り、小さな声で雄は「いただきます」と唱えた。

 ルーを泳ぐ米粒をスプーンで掬い取り、口に運ぶ。雄はさることながら、紀明もまた黙り込んでいたので——室内は静まり返っていた。聞こえてくるのは——金属が陶器の表面を撫でる、ささくれ立った音くらいのものだ。雄ががカレーを飲み込むたび、その喉仏が、微かに動く。

「最近、どうだ——?」

 脈路のない問いかけだった。雄は「何が?」と聞き返し、すっかりルーとまぜこぜになってしまった白米を口の中に押し込む。質問に質問で返されるとは到底思っていなかったのだろう——紀明は一瞬、面食らったように目を見開いた。続く言葉を探す舌が、空中を彷徨っている。紀明が「学校の方は」と付け足した時、雄はすでに先程の米粒を飲み込んでおり、口の中にまとわりつく腫れたような感覚を洗い流そうと、水の入ったコップを傾けているところだった。

「別に、普通——」

 喉を鳴らして水を飲んだ。我ながら、なんてつまらない回答なんだろう、と自嘲して——雄は紀明の顔を盗み見る。どこか強張っていた表情は、みるみるうちに緩んでいった。彼は心の奥底から、雄が学校に馴染めているのか、案じてくれているのだろう。そんな人に事実を伝える方が、よっぽど酷ではないか。——学校で疎外されていること、その原因は過去に自分が起こした事件に他ならないこと、最近では溶け込むことも諦め、屋上で煙草を吸ってばかりいること。

 不意に——日中、出会った少女——確か、安東円といっただろうか——彼女のことが脳裏によぎって——雄は「あ」と声を漏らす。

「ん? どうした?」

 眉を上げた紀明に、雄は「なんでもない」と誤魔化す。自分が、誰か他人のことを思って、声をあげるなんて——らしくない、と感じたためだ。



 屋上へと続くドアを押し開けた雄は、目の前に広がる光景に面食らう。——少女が、フェンスから身を乗り出し、海を眺めていた。セーラー服の白い布地が、目に痛い。

 金属製の扉が、大袈裟な音を伴って、元いた場所へと立ち返っていく。少女——安東円は、びくり、と大きく肩を震わせ、振り返ると、ペントハウスの前で立ち尽くしている雄の存在に気付いたのだろう——幼い子供のような相貌で、にっこり微笑んだ。

「こんにちは、先輩」

「雄でいいって」

 呆気に取られつつも、雄は彼女の隣に並んだ。手の中で、メビウスと印字された箱を揺さぶってみるも、手応えらしい手応えは全く感じられない。当たり前だ——その中に、煙草は一本たりと入ってはいなかったのだから。紙製のそれを、容易く握り潰して——雄は彼女へ告げる。

「折角来てくれたとこ、悪いけど——今日は煙草はやれねえからな」

 すっかりひしゃげたそれをポケットに押し込み、顔を上げる。見ると、円はひどく慌てた様子でかぶりを振っていた。微かに色づいたその唇が「違うんです」と言葉を紡ぐ。

「今日はそういうつもりで来たんじゃなくて——」

 視線が泳いでいた。円は居心地悪そうに、雄の首元と——胸の前で重ねた、自らの指先とを交互に見比べていたが、やがて「先輩に、」と呟いた。

 そのような状況下においてはじめて、彼女は——雄に先ほど、名前で呼ぶよう指摘されたことを思い出したのだろう、あ、と呻き——目線を再び、自らと雄の間にある空間へと向ける。小さな咳払いを繰り返し、円は再び口を開いた。

「雄くんに、」

 胸の前で忙しなく組まれては解かれる指が、彼女が依然として混乱した状態にあることを示唆していた。雄くんに、と舌先で反芻して——円は雄の瞳へ意識を向ける。 「もう一度——会いたくて」

 ご迷惑でしたか? と自身を仰ぐ円の視線が、どうしようもなくくすぐったい。彼女の瞳に反射する自分の姿が、なんだかひどく矮小なもののように思えて——咄嗟に雄は目を逸らした。

「別に、まどかがいたいならいればいいよ」

 途端、表情を明るくした円が何か口にするより早く——雄は「でも」と付け足した。顎に手を添え、微かに産毛の残る皮膚を撫で擦りながら、彼女の顔を伺い見る。その唇は、不自然な形で、固まっていた。

「俺のせいで——あいつらに、余計にいじめられるかもな」

 自嘲めいた口調。それでもいいなら、と囁く自分の表情は、ひどく引き攣っていたことだろう。恥ずかしくなって——雄は俯く。相変わらずの、きょとんとした表情で、円は雄のことを見つめていた。

 二人の間を流れる空気が流動するように「あ」の形を保っていた唇が、徐々に動き出す。バニラの香りを帯びたそれは、どこか遠慮がちに、雄へ問いかける。

「どうして——そんなこと、仰るんですか?」

 彼女が、雄のことを慮っているのが——その穏やかな物腰からわかった。年下の女の子に、気を遣われるなんて——雄は唇の端を引き攣らせて笑う。睫毛と接吻を交わす前髪さえ払い除けないままに、雄は円へ向き直る。

「俺——半年前まで少年院に入ってたんだよ」

 しょうねんいん。円は舌足らずに繰り返す。言い終えるのと同時に、彼女がたじろぐのが——その気配からわかった。声は出さないままに頷いて——雄は話を続ける。

「その前は、あそこの施設で暮らしてた」

 かの児童養護施設を顎で指す。雄の視線の先を覗き込んだ円が「ひまわり園ですか?」と問いかける。よく覚えていないが——円がそう言うのなら、きっとそれが正しい名前なのだろう、曖昧に返事をする。

 ”ひまわり園”の園庭では、今日も今日とて子供たちが無邪気に駆け回っている。その風景を見て——雄が密かに眉を顰めたことに、円はきっと気付いてはいないだろう。 「あそこは、クソみたいな場所でさ」

 一言一言を噛み締める。かの檸檬色の壁には——キリンや、ゾウといった動物の絵が描かれている。そのいずれも——雄がそこで暮らしていた頃には、見受けられなかったものだ。大方、最近描き足されたものなのだろう。「今はどうなのか知らないけど」と前置きして、雄は、過度に抽象化されたライオンのイラストから目を逸らす。

「俺が住んでた頃は、職員がしょっちゅう、施設で暮らしてるガキのこと殴ってた」

 表情でこそ、平静を装ってはいたが——声はひどく震えていた。雄は左腕を擦る。職員の一人に——力いっぱい突き飛ばされ、受け身を取り損ねた際に——本来ならば決して曲がるはずのない方向へ曲がってしまった過去を持つ、腕を。

「何か原因があって殴られてんなら、まだいいんだけどな——あいつら、なんの理由もなく殴ってくるんだよ。こっちとしては普通に過ごしてるだけなのに——歩き方がおかしいだとか、座り方がムカつくとか、因縁つけてくるんだぜ、意味わかんねぇだろ?」

 円は何も答えない。彼女の当惑しきった表情に、雄は自分がいつになく饒舌になっていることを自覚する。無理もない——彼の脳内では、当時、施設で暮らしていた孤児達が、職員達によって足蹴にされている光景が、絶えずリフレインしているのだから。唾を飲み込んで、雄は続ける。

「俺は——まだ良かったんだ。昔から体がデカかったからさ、ちょっとやそっとのことじゃ怪我なんてしないし——なんならやり返すこともできた。現に一回、あいつらのうちの一人の顔、ぶん殴ってやったこともあるんだぜ。……その後すぐ、他の職員に取り押さえられたけど」

 頬の筋肉が痙攣している。掌を乱暴に押し当て、その表層に浮かんだ脂汗を拭い取ると——雄は息を吸い込む。唇の端を引き攣らせ、精一杯に戯けてみせるも、円の顔が明るくなることはない。惨めさに濡れた舌が乾かないままに、雄は口を開いた。

「他の奴らのことは、どうしてやることもできなかった。目の前で殴られてたら——止めに入ることも——なんだったら、代わりに殴られてやることもできた」

 ——ありがとう、お兄ちゃん。まだ施設にやってきたばかりの少年が、そう言って、雄の顔に滴っていた血を拭ってくれた時のことは、今でもよく覚えている。箸の持ち方が汚いからと、折檻を受ける彼を、雄が庇ってやったのだ。雄は、職員に「養ってもらっている分際で、生意気なこと言うな」と顔を叩かれた。彼は彼で「お前もお前やぞ。人に庇ってもらって、恥ずかしくないんか」などと叱責を受けていたようだが、雄の献身の甲斐あって、怪我はしなかったようだった。少年は、雄の顔に着いた血をすっかり拭い取ると、にっこり笑った。彼の笑顔、どこかの地方の訛りが混じった感謝の言葉——そのいずれも、雄の脳裏に焼き付いている。

「でも、」

 でも。舌の先で反複して——雄は自身の眉間に手を添える。記憶を——ひいてはそれに付随して湧き上がってくる感情を、振り払おうと小さく首を振るも、効果は見込めない。

「でも、どうしたって助けてやれないやつは、いてさ」

 耳鳴りがする。雄は溜息を吐き捨てると、円を仰いだ。——淡い色の虹彩が、滲んで、揺れている。

「俺が学校から帰ってきたら——その頃、俺が妹みたいに可愛がってたやつが泣いてた。どうしたんだ、また誰かに殴られたのかって訊いたら——首を横に振る。事情を聞いて——愕然としたよ——職員のうちのひとりが、そいつに悪戯したって言うんだから——」

 あぁ、そうだ。円の瞳から目を逸らさずに、雄は喉の奥で唱える。円の怯えきった目つきは——あの日、銀杏の木の下で泣いていたかの少女のそれとよく似ていた——。

「そいつの下着は血で真っ赤に染まってた——なぁ、信じられるかよ、まどか——。そいつはまだたったの六歳だったんだぜ。かたや——相手の職員は五十越えのジジイだ。ありえないよな」

 円はやはり、何も答えない。眦に涙を浮かべ、黙って雄の話に耳を傾けている

「——俺は、気がついたら、鉄パイプを持って、そのジジイの背後に立ってた。あとは、お察しの通り。俺はジジイの頭めがけてそれを振り下ろしてやったよ。ジジイは変な声をあげてその場に倒れ込んだ——蛙みたいな悲鳴だった」

 返り血を浴びて、その場に立ち尽くしていた雄を、はじめに見つけたのは——いつかに、雄の顔の血を拭き取ってくれた、かの少年だった。少年は、雄の右手に握られた鉄パイプと——雄の足元に倒れ込んでいる男を見るなり——悲鳴をあげて、その場から逃げて行った。他の職員や、子供たちが、どやどやと囃し立て、なだれ込んできたのは、それからだ。

「そんなこんなで警察が来て——俺はお縄。初犯で、その上未成年——更に言えば、例のジジイの命にも別状がなかったから——半年くらい、少年院に入る程度で済んだ」

 パトカーの中は、雄の他に三人の大人が乗り込んでいるということもあって——ひどく蒸し暑かったことを、雄はよく覚えている。

「もしかしたら、きちんと事情を説明したら——情状酌量の余地ありってことで、もっと早くに出てこられたのかもしれないけどな——」

 雄は首の後ろに手を回すと、襟足と皮膚との間に潜り込んだ熱気を振り払う。取り調べの際、それまで荘厳とした姿勢でいた警察官や弁護士が、何も言おうとしない自らの態度に、段々疲弊していったこともまた、雄は記憶していた。最終的に、雄の体に残っていた、職員による暴力の痕跡が有利に働いた。裁判記録上で、雄は——かの少女の復讐のため、男性に傷害を負わせた少年ではなく、報復のため、男性の頭を鉄パイプで殴りつけた少年として記載されている。

「——それを言ったらあいつが、あのジジイにいたずらされたことが、みんなに知られちまうだろ——。できるなかったよ、そんなこと」

「俺は半年、少年院で過ごして——そんで、知り合いのおっちゃんが保護司をやってるって言うから、身元引受人担ってもらって——この村に戻ってきた」

 雄が入所して、二ヶ月ほどが経った頃に届いた、東川紀明からの手紙は、今でも雄の自室の机の引き出しに仕舞い込んである。それには“出所したあと、行くところがないなら、うちで暮らさないか?”という一文が記されていた。

「村の連中は、俺が起こした事件のことを知ってる。でも、俺がどうしてあんな事件を起こしたのかは知らない——まぁ、俺が何も言わなかったのが悪いんだけどな——」

 狭い村だ、噂はあっという間に広がる。群衆というのは、往々にして、面白みのない事実よりも、センシティブな嘘を好むものだ。——自ら起こした事件が、どのように報道されたのかを、雄は知らない。ただ、村人たちが、雄に対して、どのような意識を持っているかは——彼らの、まるで汚いものでも見るかのような視線から、すぐにわかった。

「つまり——村の奴らは、俺のことを、突然カッとなって、お世話になってるひとの頭をぶん殴ったやばい奴だと思ってるってわけだ」

 だから、俺と一緒にいると——お前も。そう諭そうと顔を上げて、雄はぎょっとする。いつの間にか——円は泣いていた。大粒の涙が、彼女の白い頬を伝っては落ちる、その度に——楕円形の染みが一つ、アスファルトの地面に広がっていった。

「ごめん」

 咄嗟に謝罪した雄へ、円は首を左右に振ることで答えた。鼻声のまま、彼女は「違うんです」と答える。

「私——悲しくて」

「——何が?」

 円は——上目遣いに雄のことを見る。彼女が嗚咽に喘ぐたび、セーラー服の襟の青が、雄の視界の端で僅かに揺れた。幾度か、しゃくりあげた後——円はゆっくりと口を開く。

「雄くんが——こんなに優しくて、暖かい人が——みんなから、誤解されてることが」

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